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称号は神を土下座させた男。  作者: 春志乃
第一部 本編
33/160

第二十六話 動き出した男

暑すぎるのとエアコンの関係で更新頻度が落ちます、すみません……><。

皆さまも熱中症にはくれぐれもご注意くださいね!!

 図書室は、今日も静かだった。

 シャンデリアをハタキで壊した真尋は、一路に図書室で事件の解明でもしているといいよ、と言われて図書室に居た。掃除に関する才能が壊滅的だと自覚のある真尋は、一路に言われた通り、事件のことを考えながら図書室の整理をすることにした。

 真尋はカルガモの雛の如く、真尋について回るリックを窘めるでも鬱陶しがるでもなく、彼の好きなようにさせていた。真尋の傍にいるだけで大分落ち着くらしい。それにもともと体力だけは馬鹿みたいにある騎士だからか、顔色こそ悪いが足取りはしっかりしているし、真尋が持たせた数十冊の本もせっせと運んでいる。


「……マヒロさん、これは……片付けているんですか?」


 床に積み上げられた夥しい量の本を見ながらリックが躊躇いがちに言った。

 真尋は梯子の上から彼を見下ろし、手に取った本を次から次へとリックに渡す。


「ああ。俺なりに片付けている」


 リックは、はぁ、と何とも気の抜けた返事をして足元に積み上げられた本に視線を落とした。どうやら信じてくれていないようだ。確かにしまうよりも積み上げた本の方が数は多いことは認めるが、これでも真尋なりに片付けているのだ。

 よし、と呟き真尋は梯子を下りる。天井の際まで聳え立つ本棚は、一つ一つに木製の梯子が備え付けられている。天井と床にレールが設置されていて、棚の前で左右に滑って動かせるようになっている便利な梯子だ。少し強度が心配なので、天気がいい日に外に持ち出して直そうと思っている。真尋や一路なら落ちても着地くらい出来るがジョンが落ちて怪我でもしたら大変だ。


「マヒロさん、これは?」


 リックが抱えた本を見ながら首を傾げた。


「ふむ、床だな」


「ならこっちは?」


「そっちの床だな」


「ではこれは?」


「あっちの床だ」


「……真尋くん、僕は大人しくしてなって言ったんだけど? 何でこんなことになってるの?」


 剣呑な声が聞こえて振り返れば、ジト目の一路が立って居た。


「事件のことを考えながら片付けている。俺なりに」


「真尋くんがここの整理を終える頃には、事件解決どころか僕は立派な神父になってティーンクトゥス教を王国のみならず大陸全土に布教し終わってるだろうねぇ」


 はぁぁ、とため息が零された。その言い方だとまるで真尋の図書室整理は永遠に終わらないとでも言われているかの様だった。リックにフォローを求めたが深緑の瞳はそっと逸らされてしまった。


「それより、ジルコンさんが来たよ。温室にテーブルセットを用意してあるから」


「もう来たのか? 約束の時間よりも早いな」


 真尋は腕時計に目を向ける。約束の時間より一時間も早い。


「刀、刀って騒いでる」


「ああ、成程。まあちゃんと書いてあるからな、大丈夫だろう。よし、行くぞ、リック」


「はい」


 リックが抱えていた本を床に置き、後について来る。

 一路がドアを閉めた音が広い屋敷の廊下に響く。廊下は屋敷の北側に面していて薄暗い。大きな窓の向こうには、背の高い樅の木のような大木が敷地を護るように植えられていて、町の様子は見えない。見下ろした先の裏庭には物置小屋がぽつんと隅に建てられている。丁度、ルーカスが弟子と一緒に物置小屋の探索に当たっている様だった。彼らの役に立つものが見つかったら自由に使っていいと言ってある。ルーカスは本当に腕の良い庭師の様で、弟子が随分と大勢いるようだった。毎日、違う顔ぶれで、いつも五、六人は連れて来る。


「リックさん、あまり無理しないでくださいね? まだ顔色が優れませんから」


「はい。ありがとうございます、でも、大丈夫です。マヒロさんの傍にいると大分落ち着くので」


 そんな会話が後ろから聞こえてくる。

 リックは、正体不明の黒い霧に襲われた時のことをまだ話してはくれないが、急かしてはならないと真尋も一路も思っている。治療院のベッドの上でリックが告げた「断末魔が聞こえた」という言葉の意味を考えれば、彼が心に受けた負荷は相当なものだと推測出来たからだ。何事も焦りは禁物である。

 階段を下りて温室に向かう。廊下の奥の方でジョンとリースがプリシラの手伝いをする姿があった。

 ガラスの廊下を渡り、中へと入る。生憎と雨こそ止んだが曇りの今日は、温室の中も薄暗い。だが、ルーカスと一路が手を入れた温室は、枝葉が整えられて、生い茂ってはいるが無法地帯ではなくなっていた。枯れた植物が白くなっていた花壇には、何かの種をまいたらしく名札が立てられていた。その花壇の横に白いテーブルセットが置かれている。

 ジルコンは、興味深そうに花壇へ水を供給する泉を覗き込んでいた。


「イチロ、これは良い魔石だなぁ。あと二十年は交換不要じゃわい」


「そうなんですか? 元からここにあったもので、その石のお蔭でこの温室の中の植物の殆どが生き延びたんですよ」


「わしは専門じゃないからよく分からんが、この温室の技術はかなりの……カタナ! マヒロ! カタナ!!」


 くるりと振り返ったジルコンが、ぴょんぴょんと花壇を飛び降り、突っ込んでくる。元気な爺さんだなと真尋は感心しながらも、どこからともなく取り出した冊子を抱き着かんばかりの勢いでやってきたジルコンの胸に突きつけた。ジルコンの火傷の痕がそこかしこにある手が嬉しそうにそれを受け取った。約束通り真尋は、空いた時間を見つけてはしっかり刀の製法を書き出しておいたのだ。


「書いてから思ったんだが、ジルコンは字が読めるか?」


「伊達に長生きしとらんわい! まあ、難しい言葉は分からんがな!」


 そう言ってジルコンは、早速、椅子によじ登ってテーブルの上にそれを広げて読み始めた。真尋は、マイペースな爺さんだと自分のことは棚に上げて、彼の向かいに腰を下ろし、リックにも座るように促した。


「神父様、どうぞ」


 クレアがティーセットをカートに乗せてやって来た。

 それに礼を言って、紅茶を受け取る。茶菓子はローストしたナッツにキャラメルを掛けて固めたものだった。一路が早速嬉しそうに食べる。カリカリと良い音が隣から聞こえてくる。リックにも食べるかと聞いたが、食欲は無い様で申し訳なさそうに首を横に振った。


「にしてもルーカスが庭師家業にあんなにやる気を出すとはの」


 ジルコンが顔も上げずに言った。


「知り合いなのか?」


「そりゃあ、畑は違えど同じ職人じゃし、家も近所だったからな」


「ええ、夫はジルコンさんとは仲良くさせてもらっています」


「わしは、あれが寝しょんべんばかりして泣いておった小僧の頃から知っておるわい。クレアを嫁にする時もあれは本当にうるさくてのぅ」


 ジルコンが、カカッと声を上げて笑った。クレアにとっては、気恥ずかしい話だったのか、クレアは頬を染めると「忘れて下さいな」と拗ねるように言って、そそくさと温室から逃げて行った。


「ジルコンは、この町に来て長いのか?」


「まだ百年じゃ。何事もなければ、あと二百年はここにいるつもりじゃぞ」


 百年単位の気の長い話だった。


「クレアは、王都の良い家のお嬢様ってやつでな、こっちにある別邸に庭師として出入りしていたルーカスが遊びに来ていたクレアに一目惚れして、ついでにクレアもルーカスに一目惚れして一緒になったんだ。クレアの父親は、懐の深い良い人で娘が好きな人と一緒になれるなら何でもいい、と言うようなお人よしだったから、結婚自体はスムーズじゃったが、ルーカスは照れ屋でクレアは奥手だったから、くっつくまで周りがヤキモキしたもんじゃ」


「道理でクレアさんって何だか上品な方だなって思ってたんです」


 一路が紅茶の中に砂糖を入れながら言った。相変わらず今日も親友は甘ったるそうな紅茶を飲む気のようだ。


「ルーカスは、二年前までは現役の庭師としてバリバリに働いておったんじゃが……息子夫婦が孫も一緒に馬車の事故であの世に逝っちまってからは、すっかりしょぼくれちまってなぁ」


 ジルコンが紅茶のカップにミルクを入れる。


「昔は、黄地区のけっこういい家に息子たちと住んで居たんだがよ。事故の後、青の3地区のアパートに引っ越しちまった。弟子共も大分成長していたから仕事は問題なかったし、現場には毎日顔は出してたみてぇだが……前よりは随分と覇気のない爺になっちまってのう。ブランレトゥの北に有る町に嫁に行った娘が見兼ねて一緒に住まないかと誘ったが、生まれ育った町でもあるここを離れる事はあいつにゃ出来無かったみたいでな」


「そうなんですか……」


 砂糖のポットを一路が勧めるが、ジルコンは首を横に振った。


「だからまあ、元気にやってるようで良かった、良かった。他の所なら兎も角、マヒロのところなら安心じゃしの」


 うんうんと頷いてジルコンは紅茶に口を付ける。美味いの、と嬉しそうに言って、ジルコンはまた真尋が書いたそれに顔を戻す。


「ふむ、地金、と……成程な、ふむふむ」


「ところでジルコン、今日、呼び出したのはそれがメインでは無い」


「むむっ、なるほどのぅ……美しさもまた価値の一つか、ふむふむ」」


「ジルコン」


 ジルコンが渋々と顔を上げた。


「ジルコンは、確か御年、三百三十歳位だったな?」


「そうじゃが?」


 ジルコンが何を言われるのやらと訝しむ様に首を傾げた。


「なら、二百年前の北の悲劇について、いや、インサニアについて聞きたいんだ」


 ジルコンの表情が曇り、口ひげに覆われた口元がきゅっと引き締められた。長閑な温室の空気が緊張に強張って行く。


「……何故?」


 囁くような声音でジルコンが問う。

 

「黒い霧が貧民街で、人の命を奪った」


「十二人も、死んでおるやつか?」


「ああ」


 真尋が頷くとジルコンは、またむっつりと黙り込んでしまった。

 温室に立ち込める緊張に満ちた空気を流れる水の音がほんの少しだけ和らげる。


「……人族がインサニアと呼ぶそれを、わしらドワーフ族は、古くからこう呼ぶんじゃ。――ラシャ・パハット……邪悪なる恐怖、と」


 ジルコンは、そう告げて重く息を吐きだした。


「あれは……わしがまだ血気盛んな百歳の若造だった頃じゃ。今から二百年と少し前のことじゃな」


「百歳で若造……」


 一路が神妙な顔で呟いた。


「ラシャ・パハット、つまりお前さん達の言葉で言えば、インサニアが北の辺境、ウィリディス領内に現れたんじゃ。森の比較的街道に近い所で出来たことが災いし、インサニアに中てられバーサーカー化した多くの魔獣たちが近くの町や村を襲った。ランクの低い低級の魔獣たちはインサニアの邪気に耐えきれずに早々に死んでいくのじゃが……運が悪いことにバーサーカー化したゲネラール・ゴブリン率いるゴブリン・トレープが森からは遠く離れていた領都・ヴェールムースを襲ったんじゃ。それも、軍勢を構成していたのはゲリエ・ゴブリンとコロネル・ゴブリンじゃった」


「ゲネラール・ゴブリン? 普通のゴブリンとは違うんですか?」


 一路が首を傾げれば、リックが答えてくれた。


「ゴブリンの最上位種です。全てのゴブリンの頂点に立つ、将軍(ゲネラール)の名を冠するゴブリンで、鋭い毒爪と牙を持ち、額に一本角を持っています。討伐ランクはAランク。深い森に棲み、魔獣や人を襲って生きている邪悪な魔獣です。強力な炎魔法を操る厄介さもありますが、何より、ゴブリンは軍勢という群れを作る習性があることが恐れるべき点です。ゴブリン・トレープは、ゲネラールかランクB+のゲリエ・ゴブリンが率いる軍勢のことで、ゴブリン・トレープは規模によっては、討伐ランクSSになります。国中のAランク冒険者とそこら中の騎士団から正騎士たちが討伐に駆り出されることになります。多分、我がクラージュ騎士団も当時の正騎士が派遣されている筈です」


 二百年前であれば、ティーンクトゥスは力を失い、誰かに光の力を与えることはおろか、インサニアを未然に防ぐことも出来なかっただろう。故に浄化の力を持ったものはいなかったはずだ。話からしてかなりの惨劇となったのではないのだろうか。国中からという言葉から推察するにそれは敵国との戦争にも匹敵する有事ということに違いない。


「バーサーカー化したゴブリンは、自我を失っておるからトレープはすぐに崩れた。バーサーカー化に耐えきれず死ぬゴブリンも多くおった。じゃが……ゴブリンたちにつけられた傷が治らず騎士や冒険者、戦士たちが次々に斃れ、罪のない領民たちも多くが息絶えた。わしは当時、王都の親方のところで修行をしておったんじゃがあるだけの武器を北へ運ぶように王命が下り、わしを始め、多くの職人が残っていた冒険者と共に武器を運んだ。だが……あれは本当に悲惨な光景じゃった……」


 ジルコンは、ぶるりと身震いし、思い出すのも嫌そうに顔を顰めた。


「魔獣がそこら中で息絶え、勇敢に戦った冒険者や騎士が……得体の知れないモノに侵され苦しみもがいていたんじゃ」


「……それが死の痣、か?」


 真尋の問いにジルコンは、ああ、と低い声で頷いた。


「知っておったのか?」


「サンドロが教えてくれた。とはいえ、サンドロも詳しくは知らない様だった。知っているのは、死の痣はバーサーカー化した魔獣につけられた傷に出来る黒い痣のことで、それは治す術が無く、全身に回りやがて死ぬ、と」


 リックが体を震わせたことに気付いて、真尋は膝の上で握りしめられていた彼の手を片手で包み込んで、リラックスの呪文を唱える。


「それで概ね合っておる。バーサーカー化した魔獣に付けられた傷は、黒い痣となり、患者を衰弱させ、そして全身に広がっていくんじゃ。黒く染まった体は何をどうしても戻らん、治癒魔法を幾らかけても治らん。手足の場合は最悪切断すればどうにかなったが、腹や頭はどうにもならん。子供や女、年寄りはその黒いのがもたらす高熱や痛みに耐えかね早々に果てた。だが、悲惨じゃったのは体力のある騎士や冒険者たちじゃ」


 重々しい響きを纏った声が淡々と言葉を紡いでいく。


「黒いそれは全身に広がり、もがき苦しんだ末の最期には……黒く儚い霧となって人間そのものが消え失せたんじゃ。人族がそれを死の痣と呼んでおるが、ドワーフ族はその黒をマヴェト・シャホル、死の黒と呼ぶんじゃ。口に出すことも憚られる真の災いじゃよ」


 ジルコンがカップを持ち上げた音がやけに大きく温室の中に響いた。


「……その、痣は死後も残るのか?」


「いいや、不思議なことに途中で果ててしまった奴らの体は、元に戻った。まるで痣など無かったかのようにの。マヴェト・シャホルは、インサニア同様謎の深いもんだ」


「では、軍勢はどうなったんだ?」


「もともと、バーサーカー化するとインサニアの邪気に侵された魔核は徐々に壊れる。故にいくらAランクのゲネラール・ゴブリンといえどもいずれは死ぬ。それを騎士や冒険者が斃したのか、魔核が先に壊れて死んだかはよく知らんが、醜い死骸じゃったよ。今も北の地は、二百年前の傷跡が色濃く残っておる。二百年前の北の悲劇はアーテル王国国民なら皆が知っている。ここ千年でインサニアが起こした最悪の悲劇じゃからの」


 ジルコンが、ずずっと音を立てて紅茶を啜った。


「もっともインサニア自体は、とてもとても儚いものじゃ。太古の昔から存在してはいるが、どうして集まり、何故邪気を放つようになるのかは分からん。しかし、そう待たずして儚く消える。インサニアの本来の恐ろしさは、バーサーカー化した魔獣とその魔獣に襲われた時に体に残るマヴェト・シャホルじゃとドワーフ族は思っておるし、多分、他の種族も同意見じゃろう。まあ、偏屈で頑固な竜人族は知らんがの」


「竜人族は、そうは思わないということですか?」


 一路が首を傾げた。ジルコンは、茶菓子に手を伸ばしながら、嫌そうに顔を顰めた。


「獣人族が獣と人の性質を持つなら、あいつらはドラゴンと人の性質を持つ一族じゃ。わしらドワーフ族を地を這う小人と呼んで見下して馬鹿にしおってからに! 何度、あいつらがわしらの大事な鉱山から勝手に宝石や金や銀を持ち出したか! あいつらは野蛮で陰険で傲慢ないけ好かない奴らじゃよ!」


 ぷんすか怒りながらジルコンが言った。どうやらドワーフ族と竜人族は仲が悪いようだ。これでは公平な意見とは言い難いと真尋は、リックを振り返る。紅茶を飲んでいたリックは、困ったような顔で口を開く。


「そもそも竜人族は、獣人族は野蛮、人族は貧弱、有隣族は成り損ない、妖精族は無力、エルフ族は年増といって交流を持とうとしないので他種族とは仲が悪いんです。竜人族もエルフ族、ドワーフ族と同じように長命なのですが、特にこの三つの部族は仲が悪いですね。エルフ族とドワーフ族の仲は良くも悪くもありませんが……というか、竜人族と他六つの種族の仲が悪いのです」


 真尋と一路は、成程、と揃って頷いた。


「この町にも居るのか?」


「いいえ、竜人族は南の辺境、ルベルの火山地帯にある集落から滅多に出て来ないんです。私も話にしか聞いたことはありませんが、褐色の肌をしていて、背中は固い鱗で覆われているそうです。性質がドラゴンに近いので、気性が激しくプライドが高く、ルベル辺境伯は手を焼いているとか」


「大変ですねぇ」


 一路の言葉にジルコンが、そうなのじゃ、と力強く頷いて、ジルコンがまだドワーフ族の里に居た頃、里の宝物庫が竜人族に襲われた話を始めた。恨みつらみは根深い様で、あまりの気迫に一路が戸惑っている。

 真尋は、そんな彼を見ながら思考を巡らせた。

 アーテル王国の歴史書には、インサニアのことについてはあまり詳しく書かれていない。何度か発生はしているようだが、二百年前の北の悲劇ほどの被害が出ていないせいだ。おそらく、ティーンクトゥスの力が正常に働き、教会の勢力が強かったことや、ティーンクトゥスに力を与えられた者たちが正しく対処して、大きな被害を未然に防いだからだろう。それに発生場所も、森の奥深くや谷底、洞窟の奥など人里から離れた場所だと記されていて人里で発生した前例はない。しかも、それらはあまりにも遠く昔の出来事で一種の神話だとか、伝承の扱いになっている。


「……なぁ、ジルコン」


「何じゃ? わしは今、わしが鍛冶職人として武器の精度を極める理由の一端をじゃな……」


「二百年前以前にもインサニアの発生は確認されているんだよな?」


「ああ、そうじゃ。二百年より前だと……確か今から六百年前だったかのう? 西の無人島の洞窟で発生したんじゃなかったか? 海を渡れる魔獣が島に居なかったから事なきを得たと昔、わしの爺さんの知り合いが言っておったが」


「ああ、その通りだ。だが、無人島で発生したインサニアをどうやって人は知ったんだ?」


「さあのう。西の海にはたくさんの大小様々な島が有って人が住んで居る島も無人の島もある。だから近くの島の奴らが漁にも出た時にバーサーカー化した魔獣を見つけたじゃないか? 言ったじゃろ、インサニアの最も恐れるべき点は、バーサーカー化した魔獣とマヴェト・シャホルだと」


 ジルコンが、何をいまさらと言わんばかりの様子で答える。

 真尋は、そうか、と呟く。

 これは真尋の立てる仮説でしかないが、人々がインサニアの発生を知るのは、インサニア自体を目にしたからでは無いだろう。どれもこれも人里から離れた場所で発生している。人々がインサニアの発生を知るのは、バーサーカー化した魔獣が現れてからなのかも知れない。

 ティーンクトゥスは神としてアーテル王国を護り続けて来た。だが、信仰を失うことは食い止めることが出来なかった。それは恐らく、人の世界に神である彼は干渉できなかったからでは無いだろうか。守護神であるティーンクトゥスは、インサニアという脅威から人々を護ることは出来てもそれ以外の干渉は出来ない。そして、インサニア自体も弱い内は神の吐息を風に変えて散らすことが出来たが、人の世界に影響を及ぼすほどの存在になったものをティーンクトゥスは、散らすことは愚か、消滅させることも出来なかった。故に、彼は人の子らに光の力を与えた。それが可能だったのは、人々がティーンクトゥスの力やその存在を信じていたからだ。ティーンクトゥスは、だからこそ、その中から適性のある者を選ぶことが出来た。選ぶと言うことは、そこに選択肢が存在していたからに他ならない。だが、千年前、信仰が途絶え力を失い、更に一方通行になってしまった神の想いは人の子らへは届かなくなり、浄化の力は失われ、二百年前の悲劇が起きた。

 千年前の人々は、バーサーカー化した魔獣によってインサニアの発生を知り、神に祈った。それはティーンクトゥスという神が人の世界に干渉できる切っ掛けになり、人々は力を神より与えられてインサニア、ないし、魔獣や死の痣を浄化した。だからこそ、被害は出なかったのではないだろうか。脅威ではあったが、恐怖では無かったのだ。


「……インサニアが、どういった姿形をしているか知っているか?」


 真尋の問いにジルコンは首を傾げる。リックも、知らない、と首を横に振った。


「……貧民街を徹底的に調べた方が良いかもな」


 ぽつりと真尋が呟いた言葉に三人が顔を上げて振り返る。


「これまでインサニアは、人里離れた場所で発生してきた。人々がそれを知ることが出来たのは、バーサーカー化した魔獣を発見したからだ。だがそれはつまり、人里まで、或はその近くまで来られるほどの魔核を持った魔獣がそこに生息していたからだろう。だが、こんな街中にはそんな強力な魔獣は居ないから、人々はインサニアという存在に気付かない」


 あ、とリックが声を漏らした。


「……この町に居る魔獣は、調教師たちの従魔を除けば、グリースマウスや各魔物屋が飼育する下級の魔獣のみです。貧民街にはグリースマウスくらいしかいない筈です。下級魔獣もまた管理が厳しいので野生魔獣としては町の中には存在しません」


「ああ。魔獣と人の違い、それは魔核の有無だ。魔獣を解体すれば、魔核はここに、心臓の辺りにあるだろう?」


 真尋は自分の心臓を右手でとんと叩いた。


「人を襲ったインサニアは、核を探す。だが、人には魔核が無い。インサニアは、核を求めて人の体に入り込み、彼らはそれを追い出そうと、苦しみから逃れようと胸を掻き毟った。しかし、魔力と体力を根こそぎ奪われ、死に絶えた」


「だから、全ての遺体は胸に傷があったってこと?」


 一路が言った。


「かもしれない。だが、これはあくまで仮説だ」


「よく分からんが、マヒロはインサニアは、人を殺すと言うのか? あれは邪悪だが、とても儚いものじゃぞ」


 ジルコンが首を傾げる。


「それこそが、誤解を招く原因だった。きっと、これまで人々が直接インサニア自体に襲われたことも触れたこともない故に、人々はインサニアではなく、それの副産物を畏れている」


「……ねえ、そうだ、そうだよ……」


 一路が急に顔を上げて、真尋の腕を掴んだ。

 琥珀に緑の混じる瞳が鬼気迫る光を宿して真尋を見上げた。


「あのお方は、言っていたよ……インサニアに触れると、人は死に魔獣は自我を喪い狂暴化するって」


 真尋は、はっと息を飲んだ。

 そうだ、ティーンクトゥスは確かにそう言っていたのだ。

 時空の狭間でティーンクトゥスは確かに「インサニアは本来は別段恐ろしい物ではありません。ただ、余りに大きく強くなると邪気を放つようになるのです。これに触れると人は死に魔獣は自我を喪い狂暴化します」と言っていたのだ。


「貧民街にインサニアが発生したってこと?」


「それが分からん……裏付ける決定的証拠が見つかっていないんだ。死の痣もバーサーカー化した魔獣も……そもそもあの黒い霧をインサニアと断定するには、不確定要素が多すぎる。あれがインサニアなら、何故、ダビドを殺したローブ男の体からそれが溢れたんだ? あれは間違いなく俺の力を忌避した。それにロークを襲ったあの青年の肩にも俺はその破片と思しきものを見たが、だとずれば何故、青年は死ななかった?」


「……魔導院院長のナルキーサス・コシュマール子爵夫人に聞けば、何かが分かるかも知れません」


 真尋は、リックの提案に彼に顔を向ける。


「前にジョシュアからもその名を聞いたことがある。そんなに凄い人なのか?」


「ナルキーサス・コシュマール子爵夫人は、少々……その、変わった趣味をお持ちですが魔導師としてはアーテル王国でも指折りの実力者です。インサニアや死の痣は、魔導師たちの研究対象でもありまして、コシュマール子爵夫人はかなりの知識をお持ちの筈です。ただ……」


「ただ?」


 リックが困ったように眉を下げた。


「ブランレトゥで一番、お忙しい方なのでお会いできるかどうかは運次第です。治療院長のアルトゥロ殿は子爵夫人の義理の弟にあたる方なので、彼を通せばもしかしたら」


「ふむ、では早速、興味を持って頂き、尚且つ会えるように手を打とう」


 真尋は、一つ頷いてポケットに手を入れてアイテムボックスから小鳥を取り出す。この間の試作品に少々、手を加えて改良したものだ。テーブルの上に小鳥を置いて中を開き、行先を指定し、面会を求めるメッセージを書き込む。


「なんじゃ? これは?」


 ジルコンが椅子の上に立ち上がって覗き込んでくる。


「これか? これは伝言を遠く離れた場所に居る相手に伝える小鳥型の魔導具だ。まだ試作品段階で一方通行だがな」


 再びアイテムボックスから小さな試験管を取り出す。中には数本の髪の毛が入っている。それを一本だけ取り出して、術式紋の上に置いて呪文を唱えると髪の毛に微量に含まれていた魔力が文字に溶け出して淡く光った。


「昨日、アルトゥロ殿から数本、頂いておいたんだ。この小鳥の話をしたら興味津々でな、快く提供してくれた。丁度いい機会だから試してみよう。髪の毛もいずれは不要にしたいが、今はこれが精一杯だ」


 真尋は再び紙を折って小鳥の形に戻し、手のひらの上で魔力を込めた。小鳥がぴょんと起き上がると、ジルコンが「おお」と嬉しそうな声を上げて椅子の上で跳ねた。子どもみたいな爺さんだ。


「《伝言》「真尋です。折り入ってアルトゥロ殿に頼みがあります。御一考頂ければ幸いです」以上」


 小鳥が小首を傾げた後、こくりと頷くと紙の翼を広げて舞い上がった。真尋が手を振って開けた温室の窓から、小鳥が飛び立った。


「あれが商用化されれば、多分、真尋くんはお金持ちになれるよ」


 一路が紅茶を飲みながら暢気に言った。


「ふむ、そうなればお前とお前の嫁と子を養うのは容易いな。これで一路も俺の面倒が見放題だ」


「……そうだね、君に独り暮らしは無理だってここ数日で痛感したよ。いい加減、僕も諦めた方がいいね。心の広いお嫁さんを見つけるよ」


 一路が遠い目をして言った。ジルコンがケタケタと笑って椅子に座り直し、心なしかリックは一路の言葉に頷いて居るように見えた。


「マヒロは魔導具にも精通しておるのか、凄いのう。このカタナとやらも実に興味深い! 帰ったら早速取り掛かるからな!」


 ジルコンが楽しそうに言った。


「出来そうか?」


「難しいことには違い無いじゃろうが、ここはわしの腕の見せどころじゃよ。それに難しければ難しい程、男は燃えるもんじゃろ?」


 にぃとジルコンが歯を見せて笑った。真尋は確かにと頷いて返した。


「でも、貧民街の調査は早く行った方がいいね。騎士団の人は手伝ってくれるかな?」


 一路が言って、リックの様子を窺う。リックは、困ったように眉を下げて首を横に振った。


「不確実な問題では、簡単に騎士たちを動かすことは出来ません……それに貧民街に騎士が出向いてもそれらは他ならぬ住民達によって隠されてしまう可能性があります」


「ならば、貧民街の住人たちが自分たちで調べればいい。あそこのことや住人たちの事を一番知っているのは彼ら自身だからな。午後、シグネたちに頼みに行って来る」


 真尋は、リックの言葉に頷いてそう返した。一路は、それがいいかもね、と頷いた。


「出来れば、杞憂であってほしいけど……」


 一路がぽつりと呟いて上を見上げた。真尋達もつられるように顔を上げた。

 温室のガラス天井の向こうには、どんよりとした曇り空が広がっていた。無意識の内に真尋は、首に掛けたロケットを服の上から握りしめて、あの雲の向こうに広がっているであろう青い空が見たいと、そう想った。









「ボヴァンの乳の品質を高めたいなら、モヨギという薬草を牧草に混ぜてやるといいですよ。トキ村なら、近くの森に生えていると思いますから」


 ジョシュアは、ボヴァンの柵の掃除の手と止めて客の質問に答える。

 ここ数日、こうして店の魔物の世話をしながら接客をしている。最初は出来るかどうかと不安だったが、接客も楽しいものだった。魔物たちの世話は村で毎日のようにやっていたので苦ではないし、村の牧場の規模からすれば楽な方だった。

 客は、薬草の特徴を聞くと、ありがとう、と笑って去っていく。その背に、どうも、と返してジョシュアはブラシを手にボヴァンの元へ行き、体にブラシ掛けをしてやる。まだ若い雌のボヴァンは体も小さく、扱いやすい。

 ちらりと見た先で傍にいる少年に頼まれたのか棚の上から何かを取るレイが居た。少年はこの店の従業員の一人だった。少年はそれを受け取ると嬉しそうに頭を下げて、自分の仕事に戻る。その少年が去った後、カマルがレイに声を掛け、レイは頷くと店の奥に消えて、少しして重そうな袋を左肩に一つ、右脇に一つ抱えて戻って来た。

 何だかんだ言いつつ、根は真面目なレイは良く働いていた。ジョシュアは、ふっと笑みを零して、再びボヴァンにブラシを掛ける。ボヴァンは嬉しそうにモーと鳴いてぶらぶらと尻尾を揺らした。

 正直な所、レイはあまりジョシュアとは口を利いてくれない。仕事の事では会話が成立するのにそれ以外の話になるとすぐにどこかに行ってしまい、聞く耳を持ってくれないのだ。それに目も合わせてくれない。

 だが、初日に比べれば今の態度は十分に軟化したと言えるだろう。家を訪ねた時は、偽善者呼ばわりされた。黄緑の瞳は酷く冷たい拒絶の色を宿していて、流石のジョシュアも心が折れそうになったが、マヒロの言葉に元気をもらい、しつこく食い下がることに決めたのだけれど。故にロークの護衛を指名依頼された時は、チャンスだと思った。

 なかなか顔は上げてくれないレイだが、サンドロの持たせてくれる昼飯は受け取ってくれるようになったので小さいながらも進歩と言えるだろう。昔からレイは、サンドロの作る飯が大好きなのだ。


「ジョシュ」


「……ソニア!」


 耳慣れた声に振り返れば、ソニアが居た。


「どうしてここに?」


「今夜は、遅番だからその前にレイに会いに来たの。家だとあの子、出て来てくれないだろうけど、ここなら逃げられないだろうと思ってね」


 そう言ってソニアは、笑った。ここ数日の思い悩んでいた姿は無く、その表情はさっぱりと明るい彼女らしいものに戻っていた。人懐こいボヴァンは、柵越しにソニアにその大きな顔を近づける。


「さ、触って平気かい?」


「ああ。こいつは人懐こいし、大人しいからな。鼻筋辺りを撫でてやると良い」


 ソニアが、びくびくしながらボヴァンを撫でる。町育ちの彼女は、こんな大きな魔物と触れ合う機会は無いだろう。ボヴァンはソニアに撫でられて嬉しそうにまた、モーと鳴いた。ソニアが体の力を抜いて、よしよし、とボヴァンを撫でる。


「……今朝って言っても二時頃だけど、マヒロと話しをしたんだ」


 ボヴァンを撫でながらソニアが言った。


「あの騎士さんが悪夢に魘されて眠れないって言うから、裏で気分転換をしていたみたいでね、蛍っていうマヒロの故郷に居る光る虫を見せてたよ。もちろん、本物じゃないよ、マヒロの魔法さ。あたしの小指の爪位の小さな光を上手に操っていてね、それが雨の中をふわふわと無数に舞ってるんだ。……とっても綺麗だった」


「そうか。マヒロの魔法は凄いからな」


 ジョシュアは、その光景を想像しながら言った。ソニアが、また見たいね、と言いながらボヴァンから手を離す。


「でも……あの子は、少し……優しすぎるね」


 そう言ってソニアは、何とも言えない微笑を零した。皮肉が混じっているようにも、困惑や不安が混じっているようにも見えた。

 だが、ジョシュアはソニアが零した微笑に込められた感情が分かるような気がした。優しすぎるのだ。マヒロもイチロも、あの青年たちはとても、優しい。


「優しすぎて心配になるけど……その優しさが、きっとあの子たちの最大の魅力なんだろうし、多分、あの優しさを味わっちゃうとあの騎士の子みたいに縋りたくもなるんだろうね。とても不思議な人だよ、マヒロは」


 もっと撫でてよ、とボヴァンがソニアに向かって頑張って首を突き出せば、ソニアは、苦笑交じりにポヴァンを撫でる。


「その優しさにあたしも勇気をもらったからさ。ここへ来たんだ。サンドロとローサが心配してたけど……でも、諦めたくないから」


 そう言ってソニアは笑った。

 マヒロと彼女が、どんな話をしたのか、聞いたのかなんて本人たちしか知り得ないことだが、それでもきっと、ジョシュアがマヒロの言葉に背中を押してもらったように、ソニアもまた彼の優しさと言葉に背を押してもらったのだろう。


「おい、ジョシュア。カマルが呼んでるぞ。この、餌の……」


 ソニアが振り返り、赤い髪がさらりと揺れた。

 黄緑の瞳が見開かれて、彼が手に持っていた紙がひらりと床に落ちた。


「やあ、レイ。三年と半年ぶりだね」


 ソニアは、にっこりと笑った。体の横で握りしめられた手が少しだけ震えているのにジョシュアは気付いた。レイの向こうでカマルがこちらの様子を窺っている。おそらく、ソニアに気付いたカマルが、レイがソニアに気付いて逃げるより先にこちらに寄越したのだろう。

 

「少し痩せたんじゃないかい?」


 ソニアが一歩を踏み出して、レイの前に立った。

 レイは予測不能の事態に対処できなかったのか、呆然とソニアを見つめていた。


「ちゃんとご飯は食べてるの? 夜はきちんと眠れている? あんたは、」


「何の用だよ」


 ナイフのように尖った言葉が、ソニアの言葉を切り捨てた。

 いつの間にか増えていたやじ馬たちが、はらはらと此方の様子を見守っている。カマルも自分がレイを差し向けた手前、何だか心配そうな顔をしていた。彼の肩の上でリーフィも首を捻りながら様子を窺っている。


「今更、母親面なんざするんじゃねぇよ」


 はっと乾いた笑いが落とされた。蔑むような拒絶を宿した黄緑の瞳がソニアを見下ろす。

 けれど、ソニアはレイから目を逸らさなかった。拒絶を色濃く宿す黄緑の瞳をじっと見据えたまま、小さく笑った。ジョシュアは、開きかけた口を閉じる。ボヴァンも空気を呼んだのか首を引っ込めて、成り行きを見ている。


「……あたしの心配を、母親面って言ってくれるんだね」


 レイの眉がぴくりと微かに跳ねた。


「あの時、あんたに何もしてやれなかったあたしの身勝手な心配を、レイは母親面って言ってくれるんだね」


 黄緑の瞳が逃げるように逸らされた。


「言い訳はしないよ。あたしは、ミモザを看取ってやることも、あんたと一緒に泣いてやることも……何も出来なかった。だから、あんたがあたしを拒絶してくれていることに、ほんの少しだけ安心してたんだ。レイがあたしを赦さないでいてくれるから、あたしもあたしを赦さないでいられた。でも……そんなの自己満足で、誰のためにもなりやしない」


 ソニアが、自嘲の混じる笑みを口端に浮かべて肩を竦めた。


「……ソフィとの約束をあたしは、また(たが)えるところだった」


 細い手が顔を背けたレイの頬を撫でた。レイは、弾かれたように顔を上げて一歩下がった。ソニアは、その距離を詰めなかった。ただ、泣きそうな顔で笑って、その手を降ろす。


「……あんたは、ちゃんと温かいのにね」


 レイの頬を撫でた右手を左手で抱き締めて、手のひらに感じたそのぬくもりを愛おしむ様にしてソニアは嬉しそうに言った。


「ねえ、レイ。あたしはもう逃げないよ。あんたがどれだけ逃げたって、あたしを拒絶したって、あたしはもう逃げない。あたしもあの子みたいに……大事な人たちに胸を張れる自分で居たいからね」


「勝手に言ってろよ。それだって結局、お前の自己満足だろう」


 歪んだ様に細められた黄緑の瞳は、ソニアを一瞥した。レイは体を屈めると足元に落ちた紙を拾い上げて、こちらに突き出した。


「確認しておけ。俺は昼休憩に入る」


「あ、おい! こら!」


 ジョシュアが呼び止めるがレイは、ジョシュアの手にそれを押し付けるとさっさと店の奥からレイに与えられている休憩室に引っ込んでしまった。バタン、とドアが閉まると同時に時間が動き出して客たちは、そそくさと散って手を止めていた従業員たちも動き出す。


「大丈夫、かっ!?」


「はぁぁああ、緊張したぁ!」


 いきなり大声を出したソニアにジョシュアはびくりと肩を跳ねあがらせた。ソニアは、ため息を零しながら体の力を抜いて顔を出したボヴァンに抱き着いた。


「ああもう、緊張した!」


 同じ言葉を繰り返して、ポヴァンに頬ずりする。構われて嬉しいボヴァンは、モーと鳴いて尻尾を揺らす。ソニアのふさふさの長い尻尾も落ち着きなく左右に揺れていて、ジョシュアは苦笑を零す。


「お疲れさん」


 ぽんぽんと細い肩を叩いた。ソニアは、本当だよ、と返して顔を上げた。


「逃げるだけ逃げたから、もう逃げないよ。あたしもあの子も生きてるからさ、まだやり直せるんだよ。それってすごい贅沢なことだって教えて貰ったんだ。だからもう諦めないよ。あの子が昔みたいに笑ってくれるようになるまで、いっそ、鬱陶しいぞババアって喧嘩売って来るまでまとわりついてやる」


 そう言って、ソニアは笑った。悪戯を思いついた子供みたいな笑顔だった。


「ふふっ、これはこれはレイさんは少々、分が悪いかもしれませんが……当店は、ソニアさんとジョシュアさんの味方を致しましょう」


 パチパチと拍手をしながらカマルがやって来た。


「レイさんが笑顔で営業などなさった日には当店の売り上げは天井知らずになるでしょうから、協力は惜しみませんよ。ねぇ、リーフィ」


「ほーほー」


 リーフィが翼をばたつかせて左右に揺れた。主が主なら、従魔も従魔だとジョシュアとソニアは顔を見合わせて笑った。










「サヴィ!」


「何?」


「たいへん! ネネがすぐ来てって!」


 バタバタと騒がしい足音が聞こえて、ベッドの上に腰掛けて小さな木製の箱を見つめていたサヴィラは顔を上げた。サヴィラが面倒を見ている孤児の子供たちが三人、部屋に飛び込んでくる。


「サヴィ、はやく!」


「ネネが急いでって!」


「分かったからちょっと待て」


 ぐいっと手を引かれる。サヴィラは、膝の上にあった箱を枕の下に隠して立ち上がる。ガラスの割れた窓の向こうは随分と暗さを増していてもう陽が沈むまで間もないだろう。

 ここは、サヴィラが数名の孤児と共に暮らしている廃墟だ。十三歳のサヴィラが一番上でその下が十二歳のネネという少女だ。ネネが子供たちの面倒を見て、サヴィラは外で食料と金を稼ぐ。一番小さいのは、先月、ゴミ捨て場で拾った赤ん坊だ。

 階段を下りて、玄関へと向かえば黒いウェーブの髪に髪と同じ色の猫の耳を持つ少女・ネネが振り返る。彼女の背にはおんぶ紐で括られた赤ん坊が居て、彼女の周りには三人ほど子供が居て、彼女のスカートにしがみついている。


「サヴィ! 早く!」


 怒るように呼ばれてサヴィラは訝しみながらネネの元に行く。

 玄関先に居たのは、ここからそう離れていない裏通りに弟と二人で暮らしているミアだった。砂色の髪の上で白い兎の耳がぺたりと伏せられて居る。その細っこい腕には、弟を抱えていた。


「ミア? どうしたんだ?」


「サ、サヴィ……ううっ、ノアが、ノアが……っ」


 サヴィラの顔を見た途端、ミアの珊瑚色の瞳が一気に潤んで大粒の涙が零れてこけた頬を伝って落ちて行く。


「ノアの足を見て」


 ネネに入れてサヴィラは、ノアをくるんでいた布を捲って息を飲んだ。


「なっ、んだ……これ」


 ノアの左足は、真っ黒になっていた。右足は、枯れ枝のように細いのに左足の太ももは二倍にも三倍にも腫れ上がって、足の指に至っては先が腐り落ちている。ふくらはぎの傷痕からはダラダラと血が零れていて、黒い霧のようなものがじわりじわりと滲んでいる。ノアは、青白い顔で、荒い呼吸を繰り返している。触れた額は、酷い熱を帯びている。


「ルイス。井戸に行って水を汲んで来て。レニーも」


 台所から顔を出して様子を窺っていた少年二人に向けて言った。ルイスとレニーは、うん、と頷いて一度引っ込むと桶を手に裏口から一番近い井戸へと出て行った。


「ネネは、お湯を沸かして、シェリルとヒースは、チビ達の面倒を見てて。クレミー、コニー、ユアン、アビー。シェリルたちといい子にしてて」


 ネネのスカートに張り付いていた子供たちの頭を撫でれば、聞き分けの良い子供たちは素直に部屋に引っ込んだ。ネネは、背中に背負った赤ん坊を背負い直しして、台所へと急ぐ。

 サヴィラは、ミアに家に上がるように言って、とりあえず自分の部屋へと案内する。

 ベッドの上へと要らない布を敷いて、ノアを寝かせた。

 ゴミ捨て場から拾ってきて直したランプに灯りを入れる。


「ミア、何が有ったんだ?」


 尋ねながらもノアの服を脱がしていく。

 痩せ細ったノアは、酷く小さく見えた。左脚は、つけね近くまでが黒く染まっていて、太ももはパンパンに腫れ上がっている。肉の腐った酷い臭が鼻を突く。


「こ、この間……っ、グリースマウスがっ、ひっく、ノアを噛んだの……っ」


「ここをか?」


 血の流れる傷口を指差して尋ねる。ミアが泣きながらこくりと頷いた。


「わたしも襲われて怪我したけど、もう治って、でも……でも、ノアの傷は真っ黒くなって、ぜんぜん、治らなっ」


 ひっくひっくとしゃくりあげながらミアが必死に言葉を紡ぐ。

 サヴィラは、ミアの小さな頭をポンと撫でて、ノアに向き直る。丁度、ネネがやって来た。手には水の張られた桶が有る。


「ノアは、どうしたの?」


「分からない。とりあえず、血を止めないと」


 ネネの問いに答えて、サヴィラは水に浸した布で傷口を拭う。べったりと布についた血と黄色い膿にネネが顔を青ざめさせた。だが、得体の知れない黒い霧のようなものは、傷口からざわりふわりと溢れるばかりで拭えども拭えども綺麗にならない。


「ネネ、もう一杯、水を……それと皮袋を用意してくれ」


「わかったわ」


「ネネ、サヴィ! お水汲んで来たよ!」


 丁度、下から声が聞こえた。

 ルイスたちが汲んで来てくれた水をネネが別の桶に入れて持ってきてくれた。彼女が皮袋を探しに行く間にサヴィラは、水の上に手を翳して呪文を唱える。そうすれば、水はだんだんと凍り始めていく。それを途中で止めて、サヴィラは息を吐く。ナイフを取り出して柄で氷を砕いて、ネネが用意した三つの皮袋に入れていく。それをノアの額に乗せる。もう一つは脇に挟み、三つめは太もも上に乗せた。

 ネネがノアの額に浮かぶ汗を拭う。


「ミア、少し休め。ノアと同じくらいに顔色が悪いぞ。ノアのことは、俺が見ているから大丈夫」


 ミアは、ふるふると首を横に振ってノアの手を握りしめた。

 サヴィラは、仕方がない、と肩を竦めてネネを振り返る。


「ダビド爺さんの所に行って来る……騎士共が盗んでなければ、床下に傷薬が隠してあるはずだから」


「分かった。すぐに帰って来てね」


 サヴィラは、ネネの頭をポンと撫でて頷き、階段を降りる。顔を出した子供たちは、一様に不安そうな顔をしていて一番近くにいたアビーの犬耳の生えた小さな頭を撫でた。


「ネネのお手伝いをしてやれ、分かったな」


 こくりと頷いたアビーに、良い子だ、と告げて子供らに見送られるようにしてサヴィラは外へと出る。ひっそりと静まり返った貧民街は、壁の所為で月明かりも届かず闇が濃い。幽霊みたいな一夜花の娼婦たちが今日も仕事場へ行くのか、通りを歩いている姿がぽつぽつとあった。

 サヴィラはその通りを駆け抜けて、ダビドの家に急いだ。通りを一本奥に入った先にある小さな家は、主を失ってひっそりと静まり返っている。夜になれば微かな灯りを零して居たはずのそこは、真っ暗だった。

 そのことに少しだけ胸の奥がじわりと焦げるのを感じながら、サヴィラは周囲に誰も居ないのを確認してから中へと入る。ベッドを少しだけずらして、緩んだ床板を外せば木箱が無造作に置かれていた。それを取り出して蓋を開けて中を見れば、包帯と傷薬が入っていた。騎士はここの存在に気付かなかったようだとほっとしながら、蓋を閉めてそれを手に外へと出る。

 だが、不意に静まり返った通りに耳障りな鳴き声が響いて眉を寄せる。辺りを見回せば、井戸の傍でグリースマウスが一匹、のたうち回っている。

 サヴィラは、訝しむ様にしながらゆっくりとそれに近付いて行く。


「何だ? あれ?」


 グリス―マウスの口からは黒い霧のようなものがにじみ出ていて、その両の目が怪しく赤く光っている。グリースマウスは、自分の体を噛んだり、引っ掻いたりしながらまるで苦しみにもがく様にしてのたうち回っていた。

 それは、ほんの一瞬のことだった。

 サヴィラに気付いたグリースマウスが顔を上げた。ぞっとするほどの何かを宿した紅い目がサヴィラを捉えて、あ、と思った時にはグリースマウスが飛び掛かってきた。サヴィラは咄嗟に右手でそれを払ったが、手首から少し離れたそこに痛みを感じた。噛まれた、とサヴィラが顔を顰めた瞬間、グリースマウスは急にぽとりと落ちて、ぴくぴくと痙攣しだした。


「……!?」


「ギィィィィィ!!!!」


 身の毛がよだつような断末魔を上げて、グリースマウスは全身を強張らせると、一瞬で、ぴくりとも動かなくなった。 

 サヴィラは、後ずさるようにして逃げ出した。恐怖が心を支配している。見てはいけないものを見てしまったような気がする。心を覆う不安に急かされるまま、サヴィラは通りを駆け抜けた。

 静まり返った通りに転がった傷だらけのグリースマウスの死体から、溢れ出した黒い靄が路地裏の暗がりに消えていくのを見たものは、いなかった。



――――――――――


ここまで読んで下さって、ありがとうございました!


真実に近づくにつれてだんだんと事件も全容を現し始めましたね(多分)

サヴィラ少年も本格的に登場し、次回は真尋さんとご対面予定です。


更新の表示?通知?の関係で「水無月家の執事」は「称号は神を土下座させた男。」シリーズに番外編・徒然なる日々として別でリンクしましたので、ここでお知らせさせて頂きます!


次のお話も楽しんで頂ければ幸いです。


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[良い点] 伝言魔道具を見て笑って済んでしまうジルコンさんはおおらかですね ついにソニアとレイにも変化が! 外堀どころか柵に追い込まれたレイ君の抵抗は続くのか?!
[良い点] 段々と事件の事が分かってきそうで楽しく読んでおります。 ソニアさんが言っていた通り、真尋くんは本当に優しくて心配になるくらいです。
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