第二十四話 挑む男
ブランレトゥに来て九日目は雨が降っていた。
真尋が浅い眠りから目覚めた時には、既に窓の向こうでザアザアと雨が降っていた。一昨日くらいから緩やかに崩れた天気に、ジョシュアが雨が止んだら暑くなるぞと笑っていた。けれど雨に霞んだ町は色を失い、いつもよりもずっと静かだった。少し肌寒くて、市場通りで買った黒いカーディガンを羽織って出かけることにした。
たまにはお休みしないとだめよ、とプリシラに窘められた真尋は、屋敷の図書室に籠って本を読んでいた。
真尋が寝そべるカウチの背もたれと真尋の間には、ジョンが真尋の胸を枕にしてぴたりとはりつくようにして眠っている。本を読む傍ら、時折思い出したようにその頭を撫でる。ジョンは一路が「ジョンくんがいればご飯を忘れないでしょ」と連れて来た。午前中は、真尋が本を読む横で、熱心に童話や絵本などを読んでいた。先ほど、サンドロが持たせてくれた飯を食べたら睡魔に襲われて、こうして眠ってしまった訳だ。程よい重さと子供特有の高めの体温が心地よい。
この三日間ほど毎晩、ジョンが真尋の部屋に泊まりに来ている。昨夜はリースまで来て、三人で眠った。多分、一路がプリシラに何かを言ったのだろう。ジョンを部屋に送って来たプリシラは「ゆっくりと眠るのも大事よ」と笑っていた。その笑顔があまりに優しいものだから真尋は、何も言えずに頷くことしか許されなかった。ジョンもリースも可愛いので、真尋としては断る理由も無いのだが。
屋敷の掃除を始めて今日で四日目だ。二日目は不在だったが、昨日はきちんと手伝った。何とか二階と三階の掃除は終わって、明日から一階の掃除に取り掛かることになっている。一階は、部屋数は多くないのだが一部屋一部屋が広いので大変そうだと一路がぼやいていた。庭の方もルーカスが弟子たちと共に雑草や枯れた草木の始末、剪定や整地など忙しく働いてくれていた。クレアがプリシラと一緒に屋敷の掃除を手伝ってくれるのは、本当に有難いことだった。昨日は、ローサも仕事が休みだからと手伝いに来てくれた。
広い屋敷の中は、どこまでも静かだ。一路は、温室に居てティナとルーカスに植物の手入れ方法を教えて貰っている筈だ。
一昨日、真尋は初めて神父としての仕事をした。ダビドの葬儀を執り行ったのだ。葬儀については、クロードと話しをする機会があって大雑把な流れは教えてもらっていたのだが、やはり本番となると流石の真尋でも緊張した。人の最期を送ることは、簡単なことでは無い。
治療院が用意してくれた真っ白な死装束を身に纏ったダビドは、簡素な棺の中に眠っていて、多くの人々が彼の死を悼み、悲しんでいた。けれど、ダビドは安らかな寝顔を浮かべ、彼の大事なものらしい古い手紙をその胸に抱きしめていた。真尋は、それ以外に市場通りの花屋で買った花の種をダビドに持たせた。ティーンクトゥスの元へ行くならば、あの真っ白な寂しい空間に花でも咲けば良いと思ったからだ。一路に相談した時も、それはいいね、と笑って頷いてくれた。
ダビドの葬儀は、恙なく済ませることが出来た。火葬が終わり、埋葬を終えた後は泣いていた人々も一先ず哀しみに一区切りがついたように見えた。
「……あれは、まだ死を受け止めてはいないんだろうな」
ぽつりと呟いた言葉は、誰も居ない図書館にひっそりと落ちる。
葬送行列を睨んでいた少年を思い出して、真尋は目を伏せる。淡い金の髪に幼いが整った目鼻立ち、頬には薄茶と茶の鱗が少しだけ浮いていて、少し離れた場所からじっとこちらを睨んでいた。葬儀の後、サヴィラを探したが結局見つかっていない。昨日も掃除の合間を縫って探しに行ったがサヴィラはどこにも居なかった。
「どうしたものかな」
おそらく避けられているのだろうと推測して、真尋はため息を一つ零した。
カウチに寝そべって、真尋は何冊目になるかも分からぬ本を開く。
「これと言って、手がかりは無いものだな」
真尋の呟きは静かな図書室の中で僅かに空気を揺らす。
貧民街で真尋が切り付けた人の形をした何かについて、真尋はこの三日、空いた時間は本と向き合っている。クロードやサンドロ、カマルなどにも尋ねてはみたが、彼らもそのようなものは見たことも聞いたこともないと口を揃えて言った。
しかし、ダビドが殺された翌日、十二人目の変死体が発見され、リックが負傷したという話を聞いた。貧民街の住人たちが集めてくれた情報によれば、現場には小さな男の子がいたらしい。そして、得体の知れない黒い霧のような化け物が騎士たちを襲ったのだと言っていた。一路の図鑑で調べたが黒い霧の魔物や魔獣は存在していなかった。ますます謎は深まるばかりだ。
「……そういえば」
ふと真尋は、その話を聞いて一つだけ、思い出したことがあった。一週間ほど前のロークでの事件で、真尋は暴れていた男の肩に黒い靄のようなものを見たのだ。真尋が触れたら消えてしまって、気のせいかとも思っていたのだが、どうやら見間違いでは無かったと考えを改めるべきのようだ。
あれは、恐らくあのローブ男のものと同じものだ。そして、真尋に触れることが出来なかったのは、真尋の持つ光の力があれらにとっては忌避すべきものだったからではないだろうか、と仮説を立てる。一路の言っていたゲームの話は、強ち間違いでは無いのかもしれない。
真尋と一路の持つ光の力は精霊では無く、神により与えられた特別な力だ。副属性は治癒と浄化。恐らく、あの黒い霧に作用したのは、この浄化の力だったのだ。
窓の外に視線を向ける。
灰色の雲に覆われた町は、静かで薄暗い。絶えず降り注ぐ雨が窓を濡らす。
おや、と真尋は不意に感じたそれに目を細めた。何か、あまり好ましくないものが屋敷の中に入ったような気配がする。
掃除が出来ない真尋は、代わりに実験がてら屋敷に様々な守護魔法を掛けている。ちなみにちゃんと一路の許可は得ている。闇系統、光系統、両方の特性を駆使して複雑な魔法を施してあるのだ。その中の、光の守護魔法に何かが引っ掛かったのを感じた。光の守護魔法は、浄化の魔法を基にして真尋が新たに作ったものだ。それが反応を示していることに真尋は、ジョンの背に腕を回して、呪文を唱えた。ジョンの体が一瞬だけ淡い光に包まれる。
不意に、コンコン、とノックの音が雨音の中に混じる。
開けっ放しのドアへと顔を向ければ、ジョシュアが立っていた。その後ろには、何故か頬に湿布を張ったエドワードと見知らぬ男が一人いた。服装からして騎士のようだ。エドワードの制服とは少しだけ意匠が違う。金糸で縁取りがされた深紅のサッシュを右肩から斜めに掛けていて、胸に様々な勲章のメダルが輝いていることからかなり上の立場の人間だろう。ジョシュアと同じくらいの年代で彼より背が高く、蜂蜜色の髪はきっちりとセットされている。男らしい整った目鼻立ちをしているが、その切れ長の群青の双眸が油断なくこちらを窺っている。
「店はどうした?」
「少し抜けて来た。案内を頼まれてな」
ジョシュアは、カマルの護衛も兼ねて、事件の話をした翌日からロークで働いている。なんと騎士団からの指名依頼でレイも一緒だ。今朝も仕事に行く彼をジョン達と共に見送った。
「何かあったのか?」
ジョンを起こさないように小声で尋ねる。
「マヒロに話がしたいっていうから連れて来たんだ。今日は雨だからか店も暇でな、それにレイが居れば問題ない」
ジョシュアがこちらにやって来て、息子の頭を撫でる。ジョンは、すーすーと規則正しい寝息を立てている。
「本当にマヒロにべったりだなぁ」
「妬けるか?」
「ああ」
揶揄い半分に投げた言葉に真っ直ぐに返された。ジョシュアは、ジョンを抱き上げて、大切そうに抱える。ジョンは、一度寝るとなかなか起きない性質で、案の定、ジョシュアに抱き上げられても起きる気配は無い。
真尋は、読みかけの本を閉じて体を起こす。
「こんにちは、マヒロさん」
エドワードがこちらにやって来てぺこりと頭を下げる。
「ああ。……それで、そちらさんは?」
しょうがない、と思いつつ真尋は立ち上がる。プリシラに休みだと言われた今日は、思うがまま好きなだけ本を読もうと思っていたのに。
「マヒロさん、こちらはクラージュ騎士団団長のウィルフレッド・エルリック・フォン・アルゲンテウス様です」
エドワードが紹介してくれる。
この男が、と真尋は少し驚く。団長というからには、もっとずっと年上の男性を想像していたのだ。
「初めまして、いつも世話になっている。家名で呼ばれるのは好きでは無いので、ウィルフレッドと呼んでくれ」
「こちらこそ、リック達には色々と世話になっています。神父の真尋といいます、以後お見知りおきを」
真尋は、右手を胸に当て、左手を後ろに回して深々と礼をする。最高の敬意を示す礼義作法の一つだ。女性の場合は、右手は胸に、左手はスカートを摘まみ膝を折る。
顔を上げれば、妙に腑に落ちないと言う顔をしたウィルフレッドと目が合った。
「……貴方は、本当にただの平民なのか? 実に仕草が洗練されている」
「家は裕福でしたが、ただの平民ですよ。生憎とまだこの屋敷は、人を迎えるような準備は整っておりませんので、一先ずそちらへおかけください」
真尋が指を振ると図書室内に有った椅子が二脚、二人の後ろに現れて膝を掬われた二人が、すとんと椅子に腰を下ろした。何だか狐に包まれたような顔をして、二人は顔を見合わせる。席を外そうか、と言ったジョシュアを留まらせて、カウチに座るように促した。真尋もその隣に腰掛ける。
「それで、どのような御用があって、団長閣下は私の所に?」
真尋は群青の瞳を捉えて、小首を傾げた。
ウィルフレッドは、真尋の視線を受け止めると、暫しの沈黙を置いて、口を開いた。
「……貴方は、何者だ?」
色々なものをすっ飛ばした問いだな、とカウチの背もたれに寄り掛かりながら小さく笑った。足を組んで膝の上で手を組む。
「ただの神父ですよ、閣下」
雨の音が図書室内を包み込んでいる。
群青の瞳は探るような鋭さを増して、細められた。
「貴方は、隠蔽のスキルを持っているな」
「何故?」
「冒険者ギルドで貴方のカードを確認させてもらった。風と光だけしか属性魔法は表記が無かったが、貴方があのローブ男と戦った時、火と水を操るのを見たと言う者がいる。隠蔽スキルが一定のレベルに達していれば、ステータスカードの表示を変えることが可能だ」
「ふむ」
真尋は僅かに眉を動かした。隣でジョシュアが、本当か?と此方を振り返る。
だが、ウィルフレッドは真尋に答える暇を与えてはくれない。
「それに……これに込められた魔法も魔力も些か常軌を逸している」
ウィルフレッドがポケットから取り出したのは、ダビドが殺されたあの日、真尋が彼らに渡した魔石だった。
一方は空っぽになっている。
「ステータスを開け」
ぐっと低くなった声に空気がびりりと震える。群青の瞳がナイフのように鋭く尖り、殺気にも似たそれが向けられた。
真尋は、すっと目を細めて答える。
「ジョシュ」
「ん?」
「席を外せ。ジョンには相応しくない」
ジョシュアは、何か言いかけたが真尋が譲らないと分かるとジョンを抱えなおして立ち上がり、部屋を出て行く。
ぱたり、とドアの閉まる音がやけに大きく響いて、再び図書室内は静まり返る。
エドワードが蒼い顔をして、隣で未だに真尋を睨むウィルフレッドと真尋を交互に見つめる。
「……閣下は、どのような答えを私に求めておいでですか?」
「……ステータスを開けと言った」
どうあっても譲る気は無いようだ。
真尋は、仕方がないとため息を零してステータスを開き、ウィルフレッドとエドワードに見えるように前に押し出した。無論、隠蔽は掛けたままだ。
ウィルフレッドは、真尋のステータスに徐に手を翳した。
「《隠蔽解除》」
呪文を唱えるも、バチンッと音がしてその魔法は拒否される。
実に単純な話だ。真尋の魔力にウィルフレッドの魔力が敵わなかったというだけだ。
「秘密と言うものは、」
真尋は、背後の窓を振り返る。まだ雨は止みそうにない。
「秘密であるが故に、力を持つのです。秘密は大抵、平穏を望むが故に隠そうとするもの。それが人の為か、自分の為かはそれぞれでしょうけれど」
「……何が言いたい?」
唸るような声で問いが投げられる。
真尋は、ゆっくりと顔を彼らに戻す。群青の瞳は、ますます疑念の色を濃くしている。エドワードが、団長、と声を掛けるがウィルフレッドは応えない。きっと、こんな話をするために此処に来たわけでは無かったのだろう。
「私の秘密を暴きたい、とそう仰られるのなら……」
小首を傾げて、微笑んだ。
「それ相応の覚悟をして頂きたい」
ウィルフレッドが息を飲み、エドワードは逃げるように顔を俯けた。
雨がまた一段と勢いを増した。誰も何もしゃべらない。真尋は、雨音が支配する沈黙を自ら破る気はなかった。ただ、ウィルフレッドでもエドワードでも、破るのはどちらでも良い。とはいえ、二人の関係上、エドワードが先に口を開くことは無いだろう。ということは、ウィルフレッドの言葉を待つのみとなる。
群青の瞳は、意地で真尋の目から逃げまいと此方を見つめている。けれど、膝の上で握りしめられた手や僅かに震える唇が戸惑いや焦燥に彼の心が惑わされているのをありありと伝えて来る。
この世界でもそうか、と真尋は、ただそんなことを思った。どうもこの完璧すぎる造りの顔は時折、人に畏怖を与えてしまう。そういう場合、彼らに残された大抵の選択肢は二つだ。
逃げるか、或は、酔うか。
前者は兎も角、後者は厄介だ。何人、それでストーカーとなって警察に突き出したことか、と心の内で嘆息する。
『美しすぎるものは、時に毒ですね』そう言ったのは、誰だったろうか。
「……貴方は、」
暫くして、ウィルフレッドが漸くその口を開いた。
「ブランレトゥを、このアルゲンテウス領を害するか?」
真っ直ぐな問いかけだった。その群青の瞳の真摯さに相応しい問いだった。
彼は、この町を愛している。アルゲンテウス領を、そこに生きる人々を愛している。クラージュ騎士団団長という立場に相応しい人間であると真尋は確信する。
時折、彼のような者がいる。畏れて尚、逃げるでも酔うでもなく、真正面から向かい合おうとするものが居る。真尋は、それを実に好ましく思う。この世界では、ジョシュアやリックがそうだった。
合格だ、と口の中だけで呟いて真尋は小さく微笑んだ。
「私は、親愛なる我が神の手を取った時、人々が最も恐れることを経験しました」
エドワードがこちらを窺うように顔を上げた。
「それは、愛する人々との永の別れです」
二人が目を瞠る。
「故郷も家族も友人も全てを手放して、ここに居ます。親愛なる神にこの身を捧げると決めたその覚悟をもって、私は親愛なる神の愛する我が子らの笑顔や安寧を害することは無いと誓いましょう」
真尋は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「閣下を試す様な真似を致しました。ご無礼の段、平にご容赦下さい」
数拍の間を置いて、顔を上げてくれ、と蚊の鳴くような声がして真尋は素直に顔を上げた。
ウィルフレッドが片手で顔を覆うようにして天を仰ぎ、エドワードは脱力しきっている。真尋は、少しやりすぎたかな、と僅かばかりに反省しながらカウチに座る。同時にドアが開いて、ジョシュアが入って来る。
「ジョンは?」
「イチロに預けて来た」
そう答えながらジョシュアは、騎士二人の様子に首を傾げる。
「どうしたんだ? これ」
「少し苛めすぎてしまったようだ。一路には言うなよ、あれは煩い」
「……マヒロは少し自重ってものを覚えた方がいいな。イチロの為に」
ジョシュアが隣に腰を下ろしながら言った。真尋は、それはあいつにこそ必要な言葉だろうと思ったが、素直に頷いておく
「……ジョシュ」
天を仰いだままのウィルフレッドがジョシュアを呼ぶ。
「その神父はなんなんだ……こんな思いをしたのは、久々だ」
ウィルフレッドが呻くように言った言葉にジョシュアがこちらを振り返る。
「マヒロ、何をしたんだ?」
真尋は軽く肩を竦めて、恍けてみせた。ジョシュアがやれやれと肩を竦める。
「ウィル、今度、マヒロと手合わせをしてみるといい。もっと謎が深まるぞ」
「はあ?」
ウィルフレッドが漸く顔をこちらに戻す。エドワードも顔を上げて首を傾げた。
ジョシュアがニヤニヤしながらこちらを横目に見る。
「一昨日、宿で少しばかり手合わせをした。棒切れ二本での手合わせで、攻撃魔法と顔への攻撃を禁止したのみ。かなり苦戦した」
「え? ジョシュアさんが勝ったんじゃないんですか?」
エドワードがスカイブルーの瞳をぱちりと瞬かせた。
「次の一手で雌雄が決するというところで、サンドロが朝飯だと叫んだもんだからな」
「集中力が一気に途切れ、やる気も殺げた。だがジョシュアとの手合わせは、本当に愉しかった。……ん? そうなるとあの木偶の坊は、現役というからにはもっと強いのか?」
「そりゃあな。レイは強いけど、あいつは未熟な部分がまだ多い。他じゃ兎も角、マヒロ相手だとちょっと分が悪いかもなぁ」
「ふむ、ならば叩きのめすという荒療治でも試すか?」
「やめてやってくれ。流石に可哀相だ」
ジョシュアが真顔で言うので、それでは仕方がないとあっさりと真尋は諦める。
顔を向ければ、エドワードは爛々と顔を輝かせて、ウィルフレッドは両手で顔を覆って項垂れていた。
「もうやだ。なにこの神父。強いのは知っていたが、ジョシュと互角とか聞いて無い」
「安心しろ、ウィル。マヒロは、ちょっと強すぎるし、魔力もかなりのもんだし、頭も良いし、顔も良いし、この屋敷と教会を一括で買うくらいに金を持っているし、その上、何を考えているかさっぱり分からない無表情でちょっと怖い時もあるし、正直、胡散臭いと思ったこともあるが俺は彼以上に素晴らしい神父はいないと思っている」
とても柔らかな笑みがその言葉に添えられた。
「マヒロは、十分に信頼に足る人物だよ」
群青の瞳を見据えるセピア色の瞳は穏やかな光を宿す。
「ウィルが、このアルゲンテウス領を守る誇り高きクラージュ騎士団の団長として、マヒロを疑うのも訝しむのも仕方がないことだと分かっている。マヒロだってそれは分かっている。でも、マヒロは君が剣を捧げた大切な領民を傷付ける様な真似はしない」
「……何故、そう断言できる? 出会ってまた日も浅いと言うのに」
「色々な理由があるが、一番はジョンが、あんなに懐いているからだよ、ウィル」
ウィルフレッドが、腑に落ちないと言った様子で眉を下げた。
けれどジョシュアは、酷く大真面目に言っている様だった。
「ウィル、子どもの力を侮ってはいけないぞ。子どもは、良くも悪くも純粋で真っ新だ。大人の本質を、大人以上に見極めている。子どもは、どんなに人の良さそうな顔でにこにこしていても悪い奴には絶対に近づかない。でも、その本質が善であれば、マヒロのようににこりともしない一見近寄りがたい人間にも懐く。懐いて全幅の信頼を寄せる」
「……買いかぶり過ぎじゃないか?」
真尋は少しばかり照れくさくなってジョシュアに言った。ジョシュアは、あっけらかんと本当のことさ、と肩を竦める。
ウィルフレッドは、少しばかり悩んだ後、はぁぁぁ、と大きく息を吐きだした。そして、背凭れに頭を預け天井を仰ぎ見る。
「神父殿」
彼の突き出た喉仏が喋るたびにぐりぐりと動く。
「何ですか、閣下」
「……俺は、兄上からこのアルゲンテウス領の領民を守ることを託された。隣にいるエドワードを始め、俺の下で働く騎士たちも俺にとって大事な領民だ。俺には、彼らを守る義務があり、責任がある。故に危険分子は真っ先に排除したい。だが……不思議なことに自分でもよく分からないが貴方を信じたいとも想うんだ。だから、」
ウィルフレッドが姿勢を正し、真尋を見据える。
もうそこには迷いはない。ずっと輝きを増した群青の瞳が真尋を捉える。
「改めて、クラージュ騎士団団長として願う。貴方の力を貸してくれ。俺の為では無い。ブランレトゥに暮らす民の為、このアルゲンテウス領に暮らす全ての領民の為に、今回の事件に手を貸して欲しい。無論、一般人である貴方を巻き込む以上、それ相応の対価は払うつもりだ」
ウィルフレッドが深々と頭を下げた。隣のエドワードも同じように頭を下げて「お願いします」と告げる。
真尋は、親友が何と言うだろうかと考えるも、人の好い一路はこの頼みを断ることは無いだろう。無茶はするな、とは言われそうだけれど。
「閣下、どうぞ顔を上げて下さい」
真尋が促せばウィルフレッドがゆっくりと顔を上げ、少し遅れてエドワードも体を起こす。
「騎士が一人犠牲になり、罪なき老人もまた犠牲になっている。その上、相手は得体の知れない力を使う素性の知れぬ者。少々、危険な事件だと思っています。故に貴方が支払うと言う対価は、かなりのものになります」
「ああ。承知している。俺個人の資産から出すことになるから、その……正直な所、あまり期待はしないでほしいのだが」
「いえ、金品の類は一切要りません。ただ、貴方の「領主様の弟」という立場と「クラージュ騎士団団長」という肩書の力が私は欲しいのです」
ウィルフレッドの顔に疑念の色が浮かぶ。
「今現在、領主様は社交期で不在です。教会としての活動は、領主様の許可無しには認可できないと商業ギルドのマスターには言われています。それに商業ギルド内でも教会の活動については、審議がなされている最中です。ですので、領主様がお戻りになられた際、一言添えて頂ければと思うのですが、いかがでしょう?」
「それはつまり、俺に町に教会を開くことを兄上に許可するように口添えしろと?」
ウィルフレッドが首を傾げる。
真尋はその言葉を首肯する。
「はい。ただ皆さんがそうであったように、昨今は王都の糞共……失礼、王都の愚かなる馬鹿共の振る舞いの所為で、教会や神父、更には神そのもの存在が誤解されています。私も一路も詐欺師の類だと疑われることの方が多いのが現状です。このイメージを払拭していくことは非常に困難でしょうが、やっていかねばならないことです。そこで提案があるのです」
「何だ?」
「閣下にも立場があり、部下が居て、義務があります。私もそのことは重々承知しておりますし、閣下がそれを蔑ろにするようならそもそも願い下げですが。……今回の事件に私と私の友人は、惜しみなく手を貸すことをお約束しましょう。私と友人の力は、間違いなく閣下の、或は、民の為になりましょう。だから、そこで私の人となり、友人の人となり、私たちの我が神を想う心を御理解し、御納得頂けたらば、兄上である領主様にお口添え頂きたいのです」
「……命が危うくなると言うのに、それだけでいいのか?」
「それだけではありません。口先だけの信頼では私たちはここに教会を開くことは出来ないでしょう。私も一路もこの町に骨を埋める覚悟です。教会を開くことが出来なければ、そもそも意味が有りません」
ウィルフレッドは、真尋の言葉に暫し考えた後、分かった、と頷いた。
「神父殿の言う様に取り計らおう」
「有難く存じます、閣下」
真尋は、差し出された手を握り返して軽く頭を下げて礼を述べた。
「すみません、お茶の一つも出さなくて」
そう言いながら、どこからか一路が運んで来たテーブルの上にハーブティーが用意される。一路が彼のストックから出したのか、数枚のクッキーも添えられている。
「真尋くん、お茶くらい用意しなきゃ駄目でしょ?」
「寧ろお前はどうやって用意したんだ。この家にこれだけのものがあったのか?」
真尋はてきぱきと仕度をする一路に首を傾げる。一路は、いつも昼間に飲んでいるでしょうが、と呆れ気味に言ってため息を零した。そう言えばそうだったかも知れないが、そもそもティーセットがどこに有るかを真尋は知らない。
「団長さん、この人、結構無茶なことも言うし、そもそも発想が可笑しい時があるんです。その時は、遠慮なく殴っていいですからね。はい、どうぞ」
一路がウィルフレッドにカップを差し出しながら言った。
「一路、お前は俺を何だと思っているんだ」
「僕が昨日一日だけで、どれだけの面倒を被ったと思ってるの? 絨毯は台無しにするし、ドア枠は破壊するし、しまいにはシャンデリアを壊すし」
「……マヒロ、手伝ってたんじゃないのか? 掃除」
ジョシュアの呆れたような視線から逃げるように茶を啜った。
「……だから、俺は掃除なんて出来ないと言った」
「出来るように努力しなさいっていつも言ってるでしょうが」
冷たい視線を受け流して真尋は、茶を再び啜る。
「さて、一路も来たし。本題に入ろう」
真尋は、話題を変えることを選んだ。このままだと一路の説教を聞きながら茶を飲むことになると悟ったからだ。一路は何か言いたそうだったが、はぁ、とため息を零すとカウチの横に置いた椅子に腰かけた。
ウィルフレッドは、真尋と一路のやり取りに呆気に取られていたが、真尋の言葉にはっと我に返るとまずはハーブティーで喉を潤した
「貧民街で、十二人目の被害者が出たことは知っているか?」
「そうでした、閣下。その前にその胸ポケットにしまってあるものを出していただけますか?」
真尋は、ウィルフレッドの言葉を遮って言った。ウィルフレッドがあからさまに驚きを露わにして、エドワードとジョシュアは、訳が分からず首を傾げている。一路は、やっぱり、といった様子で暢気にクッキーを齧っていた。
ウィルフレッドは、胸ポケットに手を伸ばし、中からハンカチを取り出した。何の変哲もない絹のハンカチだが酷く汚れている。騎士団の紋章と名前が丁寧に刺繍されているのが辛うじて分かった。
「マイク……亡くなった騎士の名前ですね」
真尋は、それをテーブルの上に置く様に促した。ウィルフレッドが、ああ、と頷いて言われたとおりにハンカチをテーブルの上に置いた。何か黒ずんだようなものが付いているが、血だろうか。
「昨日、青の3地区でクルィークの倉庫周辺を探っていた騎士が、倉庫の傍に落ちているのを偶然、見つけたんだ。倉庫の裏口に摘まれた木箱の間に落ちていたらしい」
真尋は、一路に一旦、テーブルの上のものを退かすように言った。一路は真っ先にクッキーをしまって、次にカップや何やらを纏めて彼がさっと作った氷のテーブルの上に乗せた。
楕円のテーブルの上には、薄汚れたハンカチだけになる。
「マヒロ?」
ジョシュアが訝しむ様に首を傾げた。
「一路、ジョンとティナとルーカスの安全は確保してあるだろうな」
「勿論。守護魔法を念入りに掛けた温室に待機してもらっているよ。ロビンも傍にいるしね」
「では、いいな」
真尋は立ち上がり右手をハンカチの上に翳す。
「《解読》・《隠匿解除》」
瞬間、薄汚れたハンカチが一瞬で黒く染まり、どす黒い闇色の霧がぶわりと溢れ出した。一路が、ひっと声を上げて真尋の背に隠れる。ウィルフレッドは剣に手をかけ、エドワードはその手に魔力を込めた。ジョシュアは険しい顔で、真尋がどうするかを待っている様だった。
「マヒロ、何だ、これは?」
「さあなぁ。それが分かれば、この事件はさっさと解決するんじゃないのか」
真尋はジョシュアの問いにそう答えて、指をくるくると回す。すると真尋の起こした風に捕らわれた霧がだんだんと球体になり、真尋の手の上に乗るサイズまで凝縮される。この時、光の力を一切、断ち切ることに注意した。そうしなければ、多分、これも消えてしまう。
「……随分と、禍々しいものだな」
自分の右手の上に蠢く黒い霧の球体に、真尋はぽつりと零す。
「とはいえ、これは残り滓のようなもんだな。あまり力を感じない」
ローブ男を切った時、真尋に襲い掛かって来たものは、もっと禍々しく悍ましいものだったが、これはその片鱗を僅かに感じる程度のものだった。
真尋は、バレているなら良いか、と水の力で球体を作りその中にこの黒い霧を閉じ込めた。宙に浮いたそれは、水の中で弱々しく蠢いて居る。
「これを拾った騎士は、無事でしたか?」
真尋の問いにウィルフレッドが、辛うじて頷いて返す。群青の瞳は浮かぶ水球に向けられたままだ。
「何故かぶっ倒れはしたが、とりあえず生きている。今朝には回復して通常業務に戻った」
「そうですか……これはあまり触れない方がいい」
真尋は、一路の頭をポンと撫でてカウチに座る。一路は、何あれ気持ち悪いと言いながら無理矢理、真尋とジョシュアの間に座った。ジョシュアが苦笑交じりに席を詰めてくれた。
「実は、リックが……十二人目の犠牲者を発見した時、その黒い霧の本体のようなもっと大きくて、悍ましいものに襲われた」
「エディと子供を庇ったと聞きました。子どもは無事に母親の元に帰ったそうですね」
「何で知ってるんです?」
真尋は、意味深に笑って肩を竦めた。
単に貧民街の住人たちが神父様の為ならと調べて来てくれたのだが。騎士へはあまり情報を提供したがらない住民たちだが、住民同士の結束は固く、ダビドの為に葬儀をしてくれた神父様の為ならとあれこれ話してくれたのだ。物乞いをするために一日中、人通りの多い場所に居たり、金になるゴミを拾い集めて町中を歩く彼らは、驚くほど様々な情報を持っていた。
ウィルフレッドは、何か言いたげだったが言っても仕方がないと思ったのか、ため息を零して首を横に振ると改めて顔を上げる。
「リックは無事だった。ステータス上、HPとMPは異常が無かったが、精神的にかなりやられていたようで、昨日は一日、パニックを起こして大変だった。まるで何かの幻影に怯えているようで、ベッドの上で暴れて暴れて、しまいには魔力暴走まで起こして抑えるのが大変だった。」
「エディのそれはリックにやられたのか?」
「まあ、押さえた時にちょっと」
エドワードが歯切れ悪く言った。
「結局、魔力切れを起こしてぶっ倒れて、今は、薬で眠らせているが……リックは、まだ三級だが将来有望な騎士だ。実力は既に二級騎士に相当する。だから、あんなにも何かに怯えるのははっきり言って異常だ」
「ふむ……」
真尋は顎を撫でながら思考を巡らす。
何か、大事なことを自分は忘れているような気がする。
「よし」
真尋は立ち上がる。
「ジョシュア、ここに残ってくれ。リックの所に行って来る」
「は?」
ウィルフレッドが間抜けな声を漏らし、ジョシュアは慣れた様子で、はいはい、と頷いた。
「閣下、行きましょう。ここに居ても埒が明かない」
「ジョシュアさん、ロビンも置いて行きますからティナちゃん達のこと頼みますね。僕は用事が済んだらすぐに帰って来るので」
「ああ。分かった気を付けてな」
「そういう訳です。閣下、行きましょう」
「あ、ああ」
困惑顔のウィルフレッドが立ち上がった。エドワードは彼よりは真尋のマイペースに耐性があるようで、行きましょう団長、と上司を促す。まあその内、ウィルフレッドも慣れるだろうと思いながら、真尋はジョシュアを振り返る。
「ジョシュ、俺がやった魔石はちゃんと持っているな?」
「ああ。肌身離さず持ってるよ。俺もジョンもリースもシラもな」
「なら良い。絶対に手放すなよ、この黒い靄の正体はやはりまだ分からんが、これは光の力を嫌うらしいからな」
真尋は浮いたままだった水球を呼び寄せて、手を翳し氷へと変化させる。そしてそれをそのままアイテムボックスにしまった。どうなるかは分からないが、真尋が持っている分には大丈夫だろう。そう結論付けて、ふと、自分の服装を見る。どこにリックが居るのかは分からないが、ちゃんとした格好をした方が心証が良いだろうと思いつく。
「一路、神父服に着替えよう」
「そうだね、第一印象って大事だもんねぇ」
二人は指輪を嵌めた手を自身の服に当てる。そうすれば、一瞬で二人の服が神父服へと変わった。コートまで出て来たので、それはまたボックスに戻しておく。
一路の神父服は見習い用だからか、デザインは同じだが深い深い蒼だった。
「やっぱり真尋くん、よく似合ってるよ」
「一路も良く似合っているぞ」
腰のロザリオがきちんとあることを確認し、さあ行こうと振り返れば、遠くを見つめるウィルフレッドとそれを慰めるエドワードが居た。
「団長、ジョシュアさんに教えて貰った、とっておきの魔法の言葉を伝授します。『だってマヒロとイチロだからな』です」
「ダッテマヒロトイチロダカラナ」
「ウィル、この二人に関わるなら、多少のことは受け流してその呪文を唱えておく方が、心と胃に優しいぞ」
ジョシュアが、慰めるようにウィルフレッドの肩を叩くのに、真尋と一路は顔を見合わせて首を傾げるのだった。
案内されたのは、緑の地区の魔導院の中に有る治療院だった。
魔導院の敷地には、幾つも白い塔が建っていて、入り口に一番近い所に建っている七階建ての塔が治療院だ。庶民にも解放されているその塔は連日、多くの患者がやって来るそうで、一階の待合は雨であっても人が溢れていた。
エントランスで対応してくれたのは、優しそうな面立ちの男性だった。落ち着いた雰囲気の男性は、白衣を身に纏い、肩より長い亜麻色の髪を首の後ろで結んでいる。穏やかな松葉色の瞳が印象的で縁の無い眼鏡を掛けている。インテリという言葉が良く似合う雰囲気の男性だった。
「初めまして、僕は治療院院長のアルトゥロと申します。魔導師であり治癒術師でもありまして、神父様のご活躍は耳にしております」
差し出された手を握り返して握手を交わす。
「どうも、神父の真尋といいます。こちらは、見習いの一路です」
「初めまして」
アルトゥロは、一路とも握手を交わす。
「キースは?」
「幸い、義姉上は、抜けられない会議に出ているのでご安心ください」
ウィルフレッドは何故か、そうかと安心したように頷き、エドワードがほっと胸を撫で下ろしている。
「それでリックは?」
「先ほどまではまだ薬が効いていたので眠っているのを確認しましたが……もうそろそろ切れる頃で」
「院長! リックさんがまた暴れ出しました!!」
同じく白衣を着た治癒術師が慌てた様子で現れた。これは困ったと言うが早いかアルトゥロが駆け出し、真尋たちもその背に続く。商業ギルドにあったものより大きな昇降機に乗り込んだ。アルトゥロが五階のボタンを押す。
「ウィルくんが来てくれて助かりました。私達は魔法は得意ですが軟弱なので鍛えられた騎士の方を抑えるのは一苦労でして」
「だから鍛えろといつも言っているじゃないか。というか男が簡単に軟弱だと認めるな、情けない」
安堵交じりに言ったアルトゥロにウィルフレッドが呆れたように告げる。
「お二人は仲良しなんですか? そういえばジョシュアさんとも親し気でしたが……」
一路が首を傾げる。
「ああ。ジョシュは、腕が立つからしょっちゅう勝負を挑んでいる内に仲良くなってな。アルトは俺の幼馴染なんだ。アルトの兄が俺の事務官をやっているしな」
「ジョシュアと閣下ではどちらが強いのですか?」
真尋の問いにウィルフレッドが顔を顰めた。
「あいつが現役時代は一度も勝てなかった。引退してからは勝負をしたことが無いからな。正直分からない」
「ジョシュアさんって本当に凄いんですねぇ」
一路が感心したように言った。
「だが、イチロ。そのジョシュアさんと互角で戦える人が一人増えたんだから、こっちは気が気じゃない」
エドワードの言葉と共に一斉に視線が真尋に向けられる。
「引退したジョシュアと互角だ」
「それだけでも十分異常だ。第一、神父殿はまだ十八歳だろう?」
ウィルフレッドがため息交じりに零すと同時に昇降機が止まり、ドアが開く。途端に爆発音が聞こえて顔を見合わせる。しかし、それは一瞬で皆、アルトゥロについて駆け出す。だがこのアルトゥロ、思ったよりも足が遅い。
「まったく! 置いて行くからな!」
そう告げてウィルフレッドが先頭になった。アルトゥロは、お願いします~と情けない声で答えてあっという間に見えなくなった。
「リックの属性は地で、あいつは属性はそれっきりだが副属性も完璧に使いこなすから厄介なんだよなぁ」
ウィルフレッドが呻く様に言った。
「リックじゃなくても暴れる患者は居るでしょうに、毎回どうしているんですか?」
「布の拘束具があるが、騎士とか冒険者は引きちぎってしまうから地の属性の使い手が副属性の木の魔法で拘束する。ただリックみたいに患者自身が使いこなせると厄介なんだよ……あんな風にな」
角を曲がった先で流石の真尋も驚いて足が止まる。
病室の入り口から太い木の根っこがドアを突き破るようにして這い出し、天井や床、壁を伝って広がっている。
「リック! お前後で覚えてろよ!? あ! 団長!」
部屋から白衣の男性を担いで飛び出してきた騎士がウィルフレッドに気付いて顔を輝かせるとこちらへ駆け寄って来る。
「怪我人か?」
「いえ、びっくりして気絶しただけです。俺はちょっと掠めてしまいましたが」
頬の傷を指で拭いながら騎士が言った。
「後からアルトゥロが来るから診て貰え。エディは他の所に被害が出ない様に待機。神父殿は一緒に来てくれ。イチロくんは、エディと共にここを頼む」
一路が神妙な顔で頷き、真尋を見上げる。
「一路、心配するな俺は、大じょ」
「真尋くん、これ以上、部屋を壊したりしないでね、分かった? 君が昨日壊したシャンデリアの修理費、結構かかるんだからね?」
「あ、そこは部屋の心配なんだな、マヒロさんじゃなく」
エドワードが言った。
真尋は、一路の目があまりに真剣だったので、反論も出来ずに頷いてウィルフレッドについて部屋へと踏み込んだ。
瞬間、鞭のようにしなる太い枝がこちらに向かって突撃してきた。
「《ファイアシールド》!」
ウィルフレッドが両手を前に突き出せば、炎の盾がその枝をはじき返した。
部屋の中は完全に枝や根っこで覆われていて、カッターのような葉っぱは飛んで来る、枝は降り下ろされる、根っこは締め付けてこようとするしで酷い有様だ。まるで大木の中に入り込んでしまったかのように錯覚する。
多分、ベッドの上にリックは居るのだろうがそこには葉が集まり繭の様になっていて姿が確認できない。何だかティナに見せて貰ったブレットの巣に似ている。
「リックは、随分と優秀なんだな。見かけによらないものだ」
ヒュンと空気を切る勢いで真尋を狙って来た枝を紙一重で避けて、足元に絡みついて来た根っこを焼き払いながら真尋は感心する。
ウィルフレッドも団長と言うだけあって、攻撃をものともせずに突き進んでいく。
「リック! 俺だ! 団長様だ!! いい加減にしろこの馬鹿!」
飛んで来た葉っぱを風で散らしながらウィルフレッドが叫ぶが、リックは反応しない。それどころか更に攻撃が酷くなる。
まるで本当に何かに怯えているようだ。リックは今、自分を守ることに必死になっているように思えた。いや違う、リックは本当に何かから、自分自身を守っているのだ。
「し、神父殿!?」
ウィルフレッドの驚きにそっくり返ったような声を聞きながら、真尋は一歩を踏み出した。
真尋は、一切、魔法も使わず攻撃もせず、リックに近付いて行く。迫りくる枝や根っこを避け、放たれる葉を体を捻って交わす。頬を霞めたそれに少々の痛みを感じたが、真尋は足を止めない。神父服を着てきて良かった。でなければ、全身傷だらけだ。
腕を伸ばせば届く距離までやって来た。
「リック、俺だ。真尋だ、聞こえるか、リック」
葉の塊に真尋は声を掛ける。
しかし、攻撃は止まない。真尋の足に根っこが絡みついて来て、だんだんと這い上がって来る。しかし、真尋はそれを焼き払うでも、切り捨てるでもなく、リックに腕を伸ばして葉の繭の中に手を差し込んだ。
温かく震えるものが指先に触れた時には、胸まで這い上がった根っこが真尋を絞め殺そうとして大分苦しかった。
「リック、もう大丈夫だ。俺がお前を守ってやるから、もう何も怖いものなど無い」
真尋は、葉の繭の中で見つけたリックを抱き締めた。
一瞬、本当に絞め殺されるかと思うほど根っこの力が強くなったが、リックの手が真尋の服を掴んだ瞬間、呆気無く消え失せた。部屋の中を覆っていた根や枝が溶けるように消えていき、ひらひらと無数の葉が舞い落ちて、消えてゆく。静かになった部屋は、雨の音がそっと染み込んでくる。
「まるで妖精族の様だな」
ひらひらと落ちる葉を見ながら言った。だんだんと葉の繭が解けていき、リックの姿が露わになる。リックは真尋の胸に顔を埋めて、縋るようにその手が真尋の背に回される。
ガタガタと震えて、まるで悪夢に怯える子どものようだった。真尋は、優しくあやすように、怖い夢を見たと泣く弟たちにしてやったようにリックの茶色の髪を撫で、もう片方の腕で強く強くリックを抱き締めてやる。押し殺した嗚咽が聞こえて来た。真尋の神父服を握りしめる手に益々力が籠る。リックは騎士である。全力で抱き着かれると少し苦しいのだが、ここで引き剥がしては鬼だろうと真尋は我慢してリックの背を撫で、あやすように髪を撫でる。
「リック、ステータスを開くからな」
そう声を掛けて、真尋はヒアステータスを唱えて、リックのHPとMPを確認する。魔力をあれだけ暴走させたからかどちらも大分、消耗している。見た限り怪我はないので、自分の頬の傷を治すついでにさっと治癒魔法を掛け、MPを半分ほど回復させてやる。
「し、神父殿、リックは?」
ウィルフレッドに声を掛けられて、振り返る。彼の向こうで一路とエドワード、それにアルトゥロが部屋の中を覗き込んでいる。入っていいぞ、と声を掛ければ四人は我先にと駆け寄ってくる。リックはまだ真尋に張り付いたまま微動だにしない。
「アルトゥロ殿、一応、ステータスの確認を。まだ本人には触らない方がいい」
真尋は、リックのステータスをアルトゥロに見せる。アルトゥロがそれを覗き込む横でエドワードが心配そうに友を見つめている。
「マヒロさん、リックは?」
「その黒い霧に何をされたのかは知らないが、精神が壊れそうになるほどの恐怖を味わったのだろう。暫らくはそっとしておいてやるしかない」
真尋はリックの髪を撫でながら言った。
「リックがあの靄に捕らわれた時、マヒロさんのくれたこの魔石が反応したんです」
エドワードが自分の魔石を取り出して、手のひらに乗せる。
彼も少しは使ったのか光が弱くなっているような気がする。
「リックの体はこの石の中と同じ金色の光に覆われていて、黒い霧はリックに触れることが出来ない様でした。そして、だんだんと力を失った黒い霧がリックから離れて、どこかへと逃げて行ったんです」
「……そうか、お前を守れたようで良かった」
真尋はリックの背をあやす様に撫でながら言った。
「…………が……す」
押し殺した嗚咽の合間から声が聞こえたような気がして、視線を下に向ける。
「声が、聞こえたんです……っ」
リックの掠れた声が必死に言葉を紡ぐ。
「どんな声が聞こえたんですか?」
一路が躊躇いがちに尋ねる。
「……マイクがっ」
誰かの息を飲む音が聞こえた。マイクとは亡くなった騎士の名だ。
震えが大きくなって、真尋に体を押し付けるように縋りついて来る。
「マイクの、声が……っ、あの、冷たい闇の中で、聞こえた、ん、ですっ…………助けて、と縋る声が、聞こえたんです……っ」
「リック、もう喋らなくていい」
「それだけ、じゃ、なくて……、無数の、声が、断末魔がそこら中から聞こえて……っ、今も、耳の奥で……っ、ぁぁああああ!!」
リックの両手が自分の耳を傷付けようとするのを、一路とエドワードが咄嗟に抑え込んだ。代わりに真尋がその頭を抱き締めて、自分の胸の音をリックに聞かせる。
「リック、聞こえるか? 俺の心臓の音だけを聞くんだ。他にはもう何も聞かなくていい」
だんだんとリックが落ち着きを取り戻す。一路とエドワードがその手を離せば、また真尋の背に回された。がっちりとしがみつくリックは離れそうにも無い。
おそらく、リックはまだ心の内の恐怖や不安を全て吐きだしてはいない。紡ぎだせていない言葉や想いがまだ彼を苦しめているのだろう。
だが、この状態の彼をこれ以上追い詰めれば、パニックや過呼吸を起こしかねないし、先ほどのように魔力が暴走する可能性もある。
「……しょうがない。連れ帰るか」
「…………はい?」
ウィルフレッドが首を傾げた。
だが、一路は真尋の意を汲み取ったようで頷いた。
「そうだねぇ、ここで今、真尋くんから引っぺがしたら危ないし、起きた時に真尋くんが居ないのも危ないかもね。連れて帰ったほうが、リックさんの為にもなるよ」
「という訳です。アルトゥロ殿、連れて帰るが良いだろうか?」
「は、はぁ」
アルトゥロは、ぽかんと口を開けたまま間抜けな声を出した。だが彼の首は縦に動いたので、勝手に了承と受け取り、真尋は礼を口にする。
「いやいやいや、リックがマヒロさんから離れないのは見れば分かりますが、連れて帰るってどこにですか!?」
エドワードが慌てて尋ねて来る。
「どこって俺達が宿泊している宿だが? 安心しろ、リックの宿代くらいは払ってやる、友人だからな」
「そうじゃなくて! ここじゃダメなんですか? マヒロさんが泊まればよろしいのでは?」
真尋はその言葉に暫し思考するが、どうやっても結論は一つしかない。
「嫌だ」
「い、嫌だって……」
「神父殿、一応、リックはうちの大事な騎士でだな、何かあっては困るんだが……」
困惑顔のウィルフレッドが言った。
「そんなことは百も承知ですよ、閣下。それにリックは、ここにいるより、宿屋か私たちの屋敷に居る方が安定するはずです。両方とも私が守護魔法を掛けているので、あの黒い霧が出たとしても入り込むことはおろか、近づくことは出来ないでしょうから。私の魔力があの闇を退けることをリックは本能的に感じ取って、こうしてくっついているんですから、私の力が強い場所の方がいい筈です」
「守護魔法……」
「アルトゥロ殿、馬車を貸していただけると有難いのですが」
「は、はい、手配してきます」
アルトゥロが呆然としたまま頷いて部屋を出て行く。
「閣下、そういう訳でよろしいですか?」
「……分かった、今は、リックの回復が優先だからな……うん、だってマヒロとイチロだからな、うん」
間に自分に言い聞かせるように呟いて、ウィルフレッドが頷いたのだった。
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ここまで読んで下って、ありがとうございました!
感想、お気に入り登録、本当に嬉しく励みになっております♪
団長さんは、これからも真尋の手のひらの上で転がされて行くんだろうなと思いながら書いていました。本当に非常に優秀な人なんですよ、団長さんは。
次回も楽しんで頂ければ幸いです。




