第一話 神を土下座させた男
本日二話目。次回は三日後くらいを予定しています!
「……くん、真尋くん!」
「……雪、まだ、眠い……」
「僕は雪ちゃんじゃないから! 一路だよ! 起きて、起きてよ! 真尋くーん!」
がくがくと揺さぶられて、脳みそが揺れる。
一路とは誰だったかと考えて、それが親友の名であることを思い出し、そういえば自分はトラックに轢かれたのではなかったか、ということも芋づる式に思い出した。
自分を呼ぶ涙の混じった声を頼りに目を開ければ、半べそを掻いた親友の琥珀色の瞳が心配そうにこちらを覗き込んでいた。彼の向こうには真っ白な天井がある。
「……一?」
訝しむ様に名を呼べば、くるりと上を向く睫毛に縁どられた丸い目に見る見るうちに涙が溢れた。それはあっという間に決壊して子どものように声を上げて泣き出した親友は、真尋の腹に突っ伏した。
「うわぁぁん、真尋くーん!」
泣き喚いている親友を引っぺがす訳にも行かず、弟たちにするようにその頭を撫でて体を起こして、辺りを見回した。
親友の向こうに見えた真っ白な天井に病院かと思っていたのだが、起き上がってみれば上も下も前も後ろも三六〇度どこを見回しても世界は真っ白だった。
真尋は、自分の体を見下ろす。どこも痛い所は無く、不自然に折れ曲がってもいない。それどころか擦り傷一つ負っていない。腹に突っ伏す親友を見ても真尋と同じブレザー姿で汚れてもいないし怪我なども無い様だ。
トラックに轢かれたのは夢だったのだろうか、と頬を抓るが頬は確かに痛みを訴えて来る。
「一、ここは?」
柔らかな茶色の髪を撫でながら問えば、腹に突っ伏していた親友――鈴木一路が顔を上げる。
イギリス人である母方の祖父譲りの柔らかな少し癖のある茶色の髪にくりっとした琥珀色の丸い目が特徴で本人は童顔であることを気にしている。真尋と同じ高校三年生なのだが背も同年代の男子に比べると少々低めなのも手伝って、いつも中学生か下手をすると小学生に間違われている。真尋が逆に大学生や時には社会人に見られるので、隣に居ると余計に幼く見えるのかもしれない。負の相乗効果だ。
「ま、真尋くんが死んじゃったと思ってぇ!」
「トラックに轢かれたような記憶はあるんだが……」
「ううっ、そうだよ! 隣に居た僕を助けようとして、ひっく、でも、ごめん、僕、突き飛ばされた先で一度は助かったんだけどトラックが突っ込んだ街路樹が根元から折れてその下敷きになって、死んじゃったみたい、ごめーん!」
「……そう、か」
混乱する頭でまた真尋の太ももの上に突っ伏した一路の髪を再び撫でるが、たんこぶなどは見当たらない。
もう一度、辺りを見回すがやはり世界は真っ白で何もない。
「じゃあ、俺も一も死んだってことか?」
「た、多分……っ、真尋くん、血まみれだったし……っ、僕も痛かったし……っ」
一路が漸く体を起こす。真尋は、やれやれと肩をすくめてブレザーのポケットからハンカチを取り出して、一路に差し出した。一路は、ぐずぐずと鼻を啜りながら小さくお礼を言って涙を拭う。その様が彼を余計に幼く見せるのに彼は気付いて居ないのだろう。親友のそんな姿を眺めながら、真尋は上を見上げる。
「……雪を泣かせてしまったな、きっと」
一路の頭を撫でていた手を外し、自分のネクタイを緩めてワイシャツのボタンを外す。首にぶら下げていた銀色の楕円のロケットを開けば、色白で左目の目元に泣き黒子のある黒髪の女性が淡く優しく微笑んでいる。
「……真尋くん、ごめんねっ」
一路がくしゃりと顔を歪める。折角ハンカチを貸してあげたのに意味が無いと真尋は、苦笑を零す。
「お互いさまだ。親友を助けたつもりが、結果的に言えば助けてやれなかった」
「でも、でもっ」
「でももだってもない。ほら、もう泣くな。男たるものそんなにビービー泣くものじゃない」
彼の手から貸したハンカチを抜き取って、その頬をごしごしと拭う。一路は、ううっと唇をかみしめて涙を止める。
「泣いたってどうにもならないだろ。こうなったら大人しく三途の川でも渡ろう」
「……うん、そうだね、真尋くんと一緒なら、怖いものなしだよ」
そう言って顔を上げた一路が笑う。とは言っても随分と不恰好で笑顔と言うにはあまりにお粗末なものだった。それでも、真尋は彼が前を向いてくれたことに安堵する。
「なら、行こう。ここに居ても仕方がない」
真尋は先に立ち上がり、一路に手を差し伸べる。一路は、袖でごしごしと涙を拭って、真尋の手を握り返し立ち上がった。
「でも、真尋くん、ここ何処? あの世かな?」
「流石の俺もあの世のことまでは知らん……でも、三途の川が見当たらないな」
やはり何度見ても視界は一面真っ白だ。凹凸がある訳でも濃淡があるわけでも無い。そもそも浮いているのか沈んでいるのかすら分からない。
「……そういえば、三途の川を渡るのは四十九日を過ぎてからだったか?」
「ええ!? じゃあ、それまでずっとここに居るの!?」
一路が目を丸くする。
真尋は、顎を撫でながら首を傾げる。
「一の家は仏教か?」
「た、多分。父方のひいおじいちゃんの葬式の時、お坊さん来てたし……」
「ならやはり、仏教なら四十九日の後に三途の川へのアタックだ。これから四十九日かけて三途の川に向かわねばならんな」
「真尋くん、何でそんなに冷静なの? 後、アタックって山登りじゃないんだよ?」
下を向けば、一路が真顔で此方を見上げている。真尋は、分かっている、と返して胸元にロケットをしまい、ボタンを掛けてネクタイも直す。
「……では、どうするか。どっちに行けば……」
「此方だ」
突然聞こえたしゃがれた男の声に一路が慌てて真尋の背に隠れた。真尋は、一路を背に庇いながらゆっくりと振り返る。
振り返った先に居たのは酷い身形をした男だった。伸び放題の灰色のぼさぼさの髪に、骨が浮くほど窶れてこけた頬。長い前髪の隙間からは剣呑な色を宿した灰色の瞳がこちらを覗いて居る。男が身に着けているのは、薄汚れたシーツの様な布きれで出来た服だった。僅かに見える肌は青白く、血が通っているのかさえ定かでは無い。まるで幽霊になる寸前のような風体の男だった。
「……貴方は?」
真尋は警戒を露わに問う。
「我は、コロル・ティーンクトゥス……アーテル王国を守護する神である」
低く響く声はどこか雑音が混じっていて聞き取り辛い。
「一路、見ちゃだめだ」
「う、うん」
真尋は思わず後ろの一路に隠れる様に促した。間違いなく目の前に居るこの男は、変態か奇人に違いない。自分を神だと言って居る輩には碌な者はいない。
「すみません、私達は先を急ぐので失礼いたします」
「待て」
真尋は丁寧に頭を下げて逃げようと試みるが、男は真尋たちから絶対に目を逸らそうとはしなかった。男から何か、尋常では無いものを感じた。人の叡智を超えたなにかを男から感じる。一路が小さく息を詰めた音がした。
「我が、貴様をここへ呼んだのだ」
その言葉に真尋と一路は、思わず顔を見合わせる。男はそんな二人の様子には一切構わずに尚も続ける。
「余計なものも付いて来たが……」
一瞬、視線が真尋の後ろにいる一路に向けられたような気がした。
「我が貴様を呼んだのだ。マヒロ・ミナヅキ」
真尋はさっぱりと目の前の男が言っている言葉の意味が分からなかった。それにどうして、男は真尋の名を知っているのだろうか。変態だからだろうか。或は、時折、真尋の人生に現れていたストーカーの新種でトラック事故の時にもストーカーをしていたために巻き込まれて死んだのかもしれない。この上なく厄介なことに。
「も、もしかして、異世界転生?」
「は?」
一路の言葉に真尋は首を傾げる。一路がおずおずと顔を出して男の様子を窺いながら先を続ける。
「異世界に転生したり、或は召喚されたりして、異世界を救うっていう設定の小説や漫画が今、流行ってるのね。それで僕、そういうの好きで色々読んだんだけど、このシチュまさにそんな感じって言うかなんていうか」
一路は、おどおどしているがどこかその言葉に確信を持っている様だった。
一路は、ライトノベルと呼ばれる小説や漫画、RPG系のゲームが好きだ。彼の考え出した答えは、おそらくそれらで得た知識なのだろう。
「……異世界?」
真尋にはなじみの無い言葉だ。
「僕らが居た日本とは異なる世界ってこと、そもそも次元が違うって言うか、なんていうか、うーん、どれくらい違うかって言うと真尋くんがゲームの世界の中に入っちゃうくらい違う世界、異なる世界ってことかな」
「……つまり、日本でもあの世でもないって言うことか?」
「そういうことだ」
一路が頷くよりも先に男が肯定する。男に視線を戻せば、男はまだじっと真尋を見つめている。まるで値踏みをしているかのような視線に苛立ちを覚えながら、口を開く。
「コロルさんと言いましたか?」
「ティーンクトゥスと呼べ」
「長いですね、ティーンでいいですね?」
男は、真尋の言葉に何かを言いかけたが、まあ良い、と鷹揚に頷いた。
「それでティーンさん、俺と一を呼び出して、何がしたいんですか?」
回りくどくしても、今は何の意味も無さないだろうと単刀直入に尋ねる。一路も真尋の言葉に頷いて、男の答えを待っている。
男は、口元に歪な笑みを乗せる。一路が、ひゃっ、と情けない声を上げて真尋の後ろに引っ込んだ。
男の唇を歪ませた感情は、きっと壊れてしまっている。
「……君に、教会を滅ぼして欲しいのだ」
「教会?」
「ああ、我を信仰する対象としているパトリア教の残党を殲滅し、アーテル王国を救ってほしい」
「何故か聞いても?」
男は、初めて真尋から視線を外す。
この真っ白い世界で一体何が見えているのか、男はぼさぼさに伸びた髪の下で僅かに目を細めた。
「今から三千年ほど前、大陸の一部であったそこには、人族、獣人族、エルフ族、ドワーフ族、竜人族、妖精族、有鱗族、様々な種族が生きていた。そこで我は、この様々に異なる種族たちで出来た国を作ろうと思い立ち、我の一部から生み出した人型に特別な魂と才能を与えて地上へと遣わせた。後のアーテル王家の礎となった人物である。種族の違いゆえに諍いも絶えなかったのは事実だが、それでも千年という長い年月を経てようやく国という形が出来た。栄枯盛衰を繰り返しながらも我が作った国は我が遣わせたものの血を受け継ぐ一族の長、つまり国王の下、着々と成長し何代にも渡ってアーテル王国を護り続けて来た。その過程で我は、神として祀られ人々を見守って来た。人々の信仰は我の力を大きく強くした。だが、神が出来ることは限られておる。見守ることしか出来ぬ、飢饉や流行り病、他国との戦争を止められる訳では無い。それでも我は、アーテル王国を護り続け、見守り続けて来た。我の力で悪の魔物が産まれぬように尽力した。だが、」
男はそこで言葉を切った。
徐に足元に向かって手を振った。すると真っ白だった空間が色を持ち、真尋と一路は気付けば石造りの教会のような場所に立って居た。
ステンドグラスのくすんだ光が誰も居ない教会にひっそりと降り注ぐ。信者たちが座るのであろう木製の長椅子も埃だらけで、その上、壊れてひっくり返ってしまっているものもあった。よく見れば、祭壇には美しい男の石像が安置されているが、翼は折れているし、ヒビが入り全体的に薄汚れていた。足元には酒瓶や何かの食べかすが転がり、ドブネズミが一匹、男の足をすり抜けて行った。
真尋は、すぐ傍にあった椅子に手を伸ばすが、真尋の手はそれに触れることは出来なかった。一路が足元の酒瓶を拾おうとしたが結果は同じだ。どうやら本当にこの教会に自分たちが存在している訳では無いようだった。
「……殆どがこのように朽ち果てておる」
男は静かに告げた。
「アーテルの民の殆どがもう我を信じていない。我の存在を忘れておる。我の本当の名を知る者もいない」
その言葉は怒りに打ち震えているようにも、哀しみに打ちひしがれているようでもあった。
男の見上げた先には、朽ち果てた石像が虚ろな目でこちらを見下ろしている。つられるように真尋と一路もそれを見上げる。
きっと、これは目の前の男を象った石像なのだ。嘗ての彼はこのように美しく、力強い姿をしていたのかも知れない。
「……だが、パトリア教の残党が我を信仰するが故に我は、消えることも出来ない」
「ならば、その信仰を広め、信者を増やせばよいのでは?」
真尋の言葉に男は、力なく首を横に振った。
「その者達がしておるのは、力のある魔術師を使い、神の加護と称して人々から金を巻き上げるという行為だ。そこにおる神父や司教は、我のことなど微塵も信じてはおらぬ。ただ、我の名を使い、我が遠い過去に遺した遺物で人々を惑わし、堕落させているのだ。それでも遺物は我のものだ……その信仰も形はどうあれ我に捧げられたものだ……故に我は消えることもままならず、愚かにもこうして存在しているのだ」
自分自身を嘲る色がありありと浮かんでいた。その声にも言葉にも、その顔にも。
彼は消えてしまいたいのだ。この国から、世界から、全ての人々の記憶の中から。
真尋が生まれ育ったのは、日本だ。小さな島国には、八百万の神々がいて、そもそも日本と言う国はイザナギとイザナミという神が海を矛でこねくり回して出来たとされている。そう考えれば、目の前の怪しいおっさんが国を作ったと言うのもそれに準ずるものかもしれない。
ただ一つ、違うことがあるとすれば、先にも述べた通り、日本には八百万の神が存在するし、伝承の中で神々は死んでしまったり、消えてしまったり、という話もある。だがアーテル王国と呼ばれるこの国には、目の前の怪しい男-―ティーンクトゥス神しか存在しないということだ。神が消えたことも死んだことも長い歴史の中で一度も無いのだ。
「一つお聞きしますが」
真尋の言葉に男――ティーンクトゥスが顔を上げる。いつの間にか、また周りの景色は、真っ白な世界に戻っていた。
「アーテル王国は、唯一神であり建国神でもある貴方の存在を喪った時、どうなるのですか?」
ティーンクトゥスは、真尋の言葉を逡巡しているようだった。一路が不安そうに真尋とティーンクトゥスを交互に見つめている。
数十秒か数分か、何とも言えない沈黙を置いて、ティーンクトゥスがその口を開く。
「……さあ、知らぬ」
全てを放り投げた無責任な言葉だった。
よし、と真尋は笑った。
「ひぃっ!」
一路が大げさな悲鳴を上げて、真尋から離れた。
真尋は、そんな一路に構いもせずにティーンクトゥスの目の前に立ち、そして、勢いよく拳を振りかぶった。
「はっ、ぐはっ!」
真尋の拳は、素晴らしく的確にその頬を抉るように捉え、ティーンクトゥスが勢いよく吹っ飛んだ。
真尋は、赤くなった拳を軽く振り、にこにこと笑ったまま無様に転がる神様の元へと殊更ゆっくりと歩いて行く。ティーンクトゥスが殴られた頬を押さえながら体を起こし、ひいっと一路みたいな悲鳴を上げる。
「俺の嫌いな人間の特徴を三つ教えてやろう。一つ目は努力を怠り言い訳ばかりする人間だ。二つ目は他者の都合や気持ちを考えず自己中心的な思考しか出来ない人間だ。そして、三つ目、自らの負うべき責務を放棄し、剰え、それを他人に押し付ける輩だ」
がしり、とそのぼさぼさの頭を鷲掴みにして、顔を上げさせる。
「褒めてやろう。お前はその全てに該当している」
真尋は、にっこりとここ一番の笑顔をティーンクトゥスに向けた。ティーンクトゥスの青白い肌から余計に血の気が失われて行く。
「真尋くん! その人、そんなんだけど一応神様だよ! 偉い人なんだよ!」
一路がこちらに駆け寄って来る。
「知るか。俺は常識を持ち合わせないクズにかける慈悲を持ち合わせてない。それにどうやら俺は死んだらしいのだから、刑務所も警察も法も無い。今ここでこいつを殺そうが生かそうが俺の自由だ。あいつが居ないなら地獄に落ちても同じだ。なあ、そうだろう? ティーンクトゥス」
ティーンクトゥスがガタガタと震えだした。手に力を込めれば頭蓋骨がミシミシと音を立てる。
「す、す、す、す、す、すみませんでしたあぁあああああああ!」
悲鳴にも似た絶叫が真っ白な世界に響き渡った。
この日、真尋は神に土下座させた日本初、いや、異世界初の男になったのである。