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称号は神を土下座させた男。  作者: 春志乃
第二部 本編
144/158

第七十話 懇願する男

「カレン、気分はどう?」


 部屋に入るとカレンは体を起こしていて、膝の上で人形のミミを撫でていた。

 雪乃は後ろ手にドアを閉め、もう片方の手に持っていたトレーを慎重に運んでいく。トレーの上には、カレンの夕ご飯であるリンゴジュースとパン粥がのっている。


「はい、大分、すっきりしてきました」


「そうね、顔色もいいわね。今日はパン粥にチーズを入れてみたの、食べられるかしら? 無理そうだったらいつものを持ってくるわ」


 雪乃は椅子に腰かけながら問いかける。

 カレンは人形のミミちゃんを自分の隣に置くとベッドの向こうに置かれていたテーブルを膝の上に置いた。充がどこからか見繕ってきてくれたものでベッドの上で食事をするにはちょうどいいのだ。

 そのテーブルにトレーを置く。


「いただきます!」


 リラやマリーから教わったようで、いつのまにかカレンも食前の挨拶をするようになった。

 スプーンを手に取り、ふーふーと息を吹きかけて、ぱくりと頬張る。彼女の背後で尻尾が揺れていて微笑ましい。

 美味しそうにパン粥を食べる姿は可愛らしくて、雪乃は彼女が食べ終わるのをのんびりと待つ。


「カレン、実はね、そろそろブランレトゥに帰るのだけれど」


 カレンが食事を終えて、テーブルをまたベッドの向こうへ戻したタイミングで話を切り出す。


「本当は、カレンとマリーとリラとヴァイパーをこちらに残して行く予定だったの。貴方の体調が心配だから、下手に環境を変えないほうがいいのと、夫がしばらく事件のことでこことあちらを行き来するから、夫の世話をしてくれる人を置いておこうと思って」


「神父様のお世話を?」


「ええ、あの人、仕事はできるけれど、生活はできないから。でも、そういうわけにもいかなくなってしまってね。だから、皆でブランレトゥに帰るのだけれど、大丈夫そうかしら? キース先生はカレン次第だと……」


「はい。大丈夫です」


 カレンが即座に頷いて、雪乃は少し面食らう。

 ふとその手が膝の上で布団をぎゅうっと握りしめていた。どうしたの、とその顔をのぞき込むと逃げるようにカレンは俯いてしまった。


「……カレン? 何かあったの?」


 雪乃はのぞき込むのを止めて、膝の上の彼女の手にそっと自分の手を重ねた。


「この町で、オーブで、パパとママを待つって約束、したんです。……でも、今は、ここにいるのが、怖い、です……っ」


 震える声で紡がれた言葉に雪乃はできうる限り優しくカレンの手を撫でた。


「分かったわ。そうね、新天地でこそ心機一転して、希望を持つことも大事よ。あっちのお家は賑やかで、きっと楽しいわよ。大きなワンちゃんだっているんだから」


 雪乃の言葉にカレンは、なんとか涙をこらえて笑った。


「なら明後日くらいには出発するから、そのつもりでね。カレンの持ち物はあれだけで大丈夫?」


 マリーとリラは、今日は早めに上がって、宿ではなく、家族とともに自宅へ帰り仕度をしている。しばらくは被害者全員の自宅に警護がつくそうだが、安全が確認されれば、その警護も外れるそうだ。

 他の被害者たちは、まだ家には帰っていないが、今日から家族が会えるように取り計らったというので、彼女たちもますます安心を得ることができるだろう。彼女たちも順次、体調などを鑑みて大丈夫であれば帰宅すると言っていた。


「はい。部屋から持ってきていただいたもので全部です」


 カレンの荷物は部屋の片隅に置かれた小さなチェストの上に置いてあるのだが、中にはワンピースが二枚と下着が数セットしか入っていない。今、カレンが着ている寝間着は、雪乃のものを貸している。

 だが、カレンは雪乃よりも小柄なので、サイズが今一つ合っていないのだ。


「そうねぇ、ブランレトゥに帰ったら、仕立て屋さんを呼びましょう。メイド服とは別に貴女とマリーとリラの休日用の私服を仕立てましょうね」


「え」


「貴女たちは、我が家のメイドになるんだもの。職場にふさわしい格好をしないと。大丈夫よ、これは私の我が儘だから、私がお金を出すわ。きちんとマナーや立ち振る舞いも教えてあげるから、立派なレディになりましょうね」


「は、はい」


 背筋を正すカレンに雪乃はゆるく首を振る。


「ふふっ、緊張しないで。自室ではどれだけくつろいでいたって、だらしなくたっていいの。……まあ、虫とかが出るほどのだらしなさは困るけど、そうじゃない限りはべつにいいの。でも公私はしっかり分けてくれると嬉しいわ。ただ、私は貴女たちも充さんやヴァイパーも、大事な家族になると思っているの。そして、ご家族から大事な娘や息子を預かることになるとも思っているわ。だから困ったことや辛いこと、悲しいことがあったら隠さず教えてね。もちろん、楽しいことや嬉しいことも教えてくれると嬉しいわ」


「はい!」


 ぱっと顔を輝かせて頷いたカレンが可愛くて、雪乃は「いい子ね」と彼女の頭を撫でた。

 犬系は大好きな人には撫でられるのが好きとウォルフたちから聞いていたのだが、カレンもそのようでとろけそうな顔をしていて、とても可愛い。

 しばらくカレンの可愛さを堪能して、横に置いてあったトレーを手に持ち雪乃は立ち上がる。


「じゃあ、私は行くわね。何かあったらベルを鳴らしてちょうだい」


「はい。ありがとうございました、美味しかったです。ユキノ様」


「良かったわ、じゃあまた後で寝る前に来るわね」


 そう声をかけて雪乃はカレンの部屋を後にした。

 階段を上がって廊下に出ると外の温泉を楽しんできたらしい息子たちに行き合う。

 サヴィラとジョンとレオンハルトで露天風呂を楽しんできたようだ。三人とも石鹸の優しい香りと温泉の香りを身にまとっている。


「カレン、全部食べられたんだ。俺、持つよ」


 そう言いながらサヴィラが雪乃の手からトレーを受け取ってくれる。それにお礼を言って雪乃は「ええ」と頷く。


「美味しいって喜んでいたわ。明日はまた違うチーズを入れてみようかと思っているの。もう少ししたら、キース先生にも相談してプーレのお肉を柔らかく煮てみようかなと思っているのだけど……」


「ユキノ、オレはカラアゲが食べたい!」


 レオンハルトがここぞとばかりに主張する。


「ふふっ、レオンはカラアゲが好きね」


「だって、すごく美味しい!」


「うん。カラアゲは最高」


「僕も好き!」


 サヴィラとジョンまで頷いている。

 こちらにやってきて、男性陣に一番好評だったのがカラアゲだった。女性陣とウィルフレッドには味噌汁が好評だった。ミアはお肉より野菜派なので、胡麻和えをよくねだって来る。


「なあ、ユキノが良ければ、うちの料理長にもカラアゲを教えてくれ! あっちに帰った時も食べられるように!」


「そうですね、簡単なお料理ですし、調味料も分ければいいですから、レシピを書いておきますね」


「ありがとう、ユキノ!」


「レオン、お城に帰っちゃうの?」


 ジョンが寂しそうに言う。


「多分……でも、しょうがない」


 レオンハルトは六歳児には少し不釣り合いな大人びた諦めの表情を浮かべた。


「あら? 当面、レオンハルト様は我が家にいる予定だったけれど……違うのかしら?」


「え?」


 レオンハルトとジョンが首を傾げる。

 丁度、キッチンについて中へ入るとミツルを中心にアマーリアとリリーもせっせと仕度をしてくれていた。この分だと、双子のことはミアとシルヴィアが見てくれているのだろう。


「お母様、ブランレトゥに帰っても、神父の家にいるっていうのは本当?」


「あら、言ってなかったかしら……そうね、わたくし、忘れていたみたい。お父様もちゃんと知っているのよ」


 アマーリアが一人で悩んで一人で答えを出した。


「ほ、本当だった……! シルヴィアー!」


 レオンハルトが頬を紅潮させると妹の名前を呼びながら、リビングのほうへ行ってしまった。

 アマーリアがそんな息子の様子に目をぱちぱちさせている。


「レオン、ブランレトゥに帰ったら城に帰る覚悟をしていたみたいです」


 サヴィラが流しにトレーの上のお皿やグラスを置きながら説明すると、アマーリアは眉を下げた。


「かわいそうなことをしてしまったわ。もっとちゃんと話すべきだったわね。わたくしったらうっかり……」


「そういうこともあるわ。でも、嬉しいお報せだもの、あとでちゃんとまた説明すればいいじゃない。ねえ、ジョン」


「うん。僕もそう思う。お姉ちゃん、もうフォークとかスプーンとか持って行ってもいい?」


「ええ。お願い」


 ジョンは慣れた様子でカトラリーを出して、必要な数を数え始める。


「母様、今日、父様は帰って来るの?」


「それが分からないのよねぇ。サヴィ、小鳥を出してもらえるかしら? 夕飯がいるかどうか、あの人に聞いてほしいの」


「分かった、ついでにリビングの様子も見てくるよ」


 洗い物を済ませたサヴィラがタオルで手を拭きながらキッチンを出て行った。

 すると入れ違いでレオンハルトとシルヴィアがやって来る。


「お母さま、まだ神父さまのおうちにいられるの、ほんとですの!?」


「本当だってば! ね、お母様!」


「ええ、本当よ。言うのを忘れていたお母様がいけないのだけれど、夕ご飯の仕度中ですから、騒がないようにね」


「ミアちゃん、ほんとでしたわ!!」


「だから本当だって言ったじゃんか!」


 アマーリアの注意もどこ吹く風でシルヴィアとレオンハルトは再びリビングに戻っていき、リリーが「坊ちゃま! お嬢様!」と怒ると「ごめんなさーい」と形だけの謝罪が帰ってきた。


「うふふ、元気ね」


 雪乃たちは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。

 アマーリアとリリーも呆れたように溜息をついた後、苦笑を零すのだった。









「それで、どうするの?」


 倉庫に作られた会議室で海斗が言った。

 ジークフリートは眉間にしわを寄せ押し黙り、ウィルフレッドは胃を押さえながらウンウンと唸っていて、レベリオはイマジナリー雑草を抜きながら思案していて、他の騎士たちは上司たちのその姿に困惑気味だった。

 真尋は脚を組み、椅子に深く腰掛けてただ成り行きを見守っていた。


「神父殿は……どうしたいと考えているか聞いても?」


 ウィルフレッドの問いかけに、娘の新作ワンピースのデザインを思考するのを一旦止めて、彼に顔を向ける。


「俺としては面倒がなければなんでも。……『神父を害した』として、あいつを即刻鉱山にぶち込んでもいいが……まだ子供が小さいだろう?」


 チェスターは既婚だ。再婚で(一人目は不倫されて逃げられたらしい)、まだ子どもは五才と幼い。


「あいつは馬鹿だが、子どもに罪はない。奥方も可哀想だしな」


 チェスターを捕縛後、真尋たちは一度、騎士団の本所へ行ったのだが、そこに騒動を聞きつけた奥方が来ていた。地べたに這いつくばるようにして頭を下げて夫人は夫の助命を(何か知らんが、領内の権力者勢揃いの中)真尋に懇願したのだ。その隣で幼い息子が涙を耐えていて、真尋はとりあえずその息子に飴玉をくれてやることしかできなかった。


「大隊長としての器はなかったが、騎士としてはまあそれなりにやってきたんだろう?」


「一級騎士になれるだけの実力はありました」


 レベリオが答える。


「正直、見せしめに吊るし上げる役はジェイミーがいるし、チェスターは地方への左遷と降格。本人が騎士を辞めるというのなら、就職先の一つも紹介してやるか。ここらで俺の株を上げておいて損はないからな」


 ジークフリートが頬を引きつらせ、ウィルフレッドはますます胃を押さえて背中を丸めた。


「ただ、被害者は俺だけではないからな。被害に遭った騎士は、皆、チェスターより階級の低い三級と二級騎士だ。彼らの意見もききたいところではあるな。彼らが厳罰を望むなら致し方ない」


「怪我人さんは、切られてはいなかったんだよ。血は出てたけど、それは一人目が顔に一発もらって口の中が切れたんだ。実力があるだけはあって、全員、急所に一発で落とされてた。ちょっとろっ骨が折れてる人とかいたけど」


 治療補助にあたった一路が告げる。


「ふむ……では、被害にあった騎士の意見を聞いて、もし厳罰を求めないとすれば、チェスターは俺がもらおう。大隊長は出来そうにないが、その腕は使えそうだからな」


「……まあ、マヒロがそう言うならそれでかまわん。俺はな」


「むしろ引き取ってくれるならそれでいい気がしてきた……」


 ジークフリートはすでに何かを諦めた様子で、ウィルフレッドは遠くを見つめていた。


「マヒロさん」


 席を外していたリックが顔を出す。


「オーブの主人が先ほど、到着されたそうです。可能であればすぐにお話がしたいと」


 腕時計に視線を落とせば、時刻は二十一時を回っている。だが、また日を改めても時間の無駄だろう。面倒くさいことは早めに済ませてしまうに限る。


「分かった。どこへ行けばいい」


「オーブの住居の方でお待ちだそうです」


「では、ルシアンとピアースに馬鹿をそちらに運ぶように言ってくれ。一時間後に行く」


「分かりました」


 リックが一礼し、周りにも頭を下げると小鳥を飛ばすために出て行く。


「というわけで、一時間後に出かける」


 ジークフリートが「ほどほどにな」と疲れた顔で言った。


「そういえば真尋君、みっちゃんからの手紙に返事出したの?」


 一路の言葉に、夕方、園田からの手紙を小鳥が運んできたのを思い出した。丁度、チェスターの奥方の騒動で受け取るだけ受け取って、ボックスに入れたままだった。


「失礼」


 それだけ言って手紙を取り出し、封を切り中身を確かめる。

 つづられた内容にわずかに眉を寄せるとそれに気づいた鈴木兄弟が横からのぞき込んでくる。


「リラちゃんとマリーちゃんのこと雪ちゃん、大分気に入ってるみたいだね」


「家族からも許可が出てるなら、あとはお前の許可だけってわけだ」


 両側で好き勝手言う兄弟を無視して、小鳥を取り出す。


「……致し方ないか」


 そう呟いて便せんを取り出して、万年筆を走らせる。


「あれ? それ、真奈美さんにもらったやつじゃないの?」


 一路が目ざとく気づいて言った。

 なぜかジークフリートたちがざわつく。それを疑問に思いつつ真尋は口を開く。


「園田が持ってきてくれたんだ。あいつは俺の遺品を引き取ったらしい……んだが、そういえばあいつの荷物の検品をしていないな」


「やめとけよ。開けちゃいけない箱ってのはどこにでもあるもんだよ」


 海斗が真顔で言った。

 それもそうだと思ったので、この件に関してはスルーすることにした。あいつが変なものを持ってきていないことを祈るしかない。

 だが、雪乃が不在の時に散髪を頼んだ際に勝手にコレクションしていた真尋の髪を持って来ていないだろうかと思い当たる。魔力を持つ前の状態の髪があるなら、それを没収、もとい、もらって実験をしてみたい。


「ところでジークたちは、何をざわざわしてんの?」


 海斗が不思議そうに首を傾げた。


「マナミとは女性か? 名前の響きからして」


「そうだが?」


 肯定するとますますざわざわする。


「神父殿も奥方以外の女性から物を受け取るんだな」


 ウィルフレッドが驚きに満ち溢れた顔で言った。


「…………真奈美は俺の母だが?」


 一瞬で、会議室が静まり返った。


「俺だって妻以外の女性とはいえ、母親からの贈り物は受け取る」


 数拍の間を置いて両側で兄弟が噴き出し、真尋の肩に持たれて二人が笑い出した。


「あはははは、そんな誤解受ける!?」


「雪乃に話してやろ!」


 声を上げて笑う二人に同時にデコピンをかましてから、真尋は採用の旨を記した便せんを封筒に入れて、小鳥に持たせた。小鳥に擬態をかければ、桃色の翼を広げて飛び立っていった。両側で兄弟は額を押さえて唸っているが、真尋の知ったことではない。


「そ、そうだよな……神父殿にも母親はいるよな」


 ウィルフレッドがたった今、その事実に気が付いたかのように言った。

 彼には怪我が治ったいきさつも話してあるはずなのだが、疲れているのかもしれない。


「……しばし休憩。各自、適宜休んでくれ。俺も少し休ませてもらう」


 これはもう休息が必要だと判断し、そう告げて真尋は席を立ったのだった。







 連絡した通り、真尋はリックと園田を連れてオーブへとやってきていた。

 正確にはオーブの主人一家が暮らす屋敷のほうだ。カマルの店と同じく通りに面したほうに店があり、その奥に小さな中庭を挟んで住居があった。

 縄で縛られた馬鹿息子ことオーブリー、そのお付きのザシュ。同じく縛られているブルーノ支配人。ソファに座ってはいるが、真っ青な顔のカリスタ夫人。そして彼らの目の前には仁王立ちするオーブの主人・ベネディクトがいた。

 馬鹿息子を捕縛、監視していて、ここへ連れてきてくれたピアースとルシアンもは真尋たちに背後に控えた。

 収穫祭終わりに到着するなら、アルゲンテウス領内に入っている可能性もあり、近くにいるのだろうとジークフリートが戻ってすぐにポチを貸し出して、クルトに迎えに行かせたのだ。休憩も最低限に単身で戻ってきていたらしいベネディクトは、ドラゴンに驚きはしたものの、怒りの感情のほうが大きかったようでクルトともにグラウに戻ってきた。

 どうしてこの短期間で三組もの夫婦の間に立たされているのだろうか、と思いながらも真尋はやってきた。


「私が留守の間に、お前たちはとんでもないことをしでかしてくれたな」


 唸るようにベネディクトが言った。

 ベネディクトは、上品ないでたちの紳士だった。中年男性らしい色気のある二枚目で、すらりと背も高く、自ら遠方に買い付けにもいくため不測の事態に備え護身術も身に着けているためかがっしりとしている。


「カレンは、私の友人の大事な娘だと散々言っていたはずだ。あいつと私は遠縁でもあるが親友だ。その親友夫婦の大事な娘に、お前たちはなんてことを……!!」


 どうやらベネディクトは火の属性の持ち主らしく、彼の怒りに膨れ上がった魔力のせいでぱちぱちと火花が散る。

 真尋は用意されていた一人がけのソファに腰かけ、それを眺めていた。

 オーブリーはカレンを手籠めにしようとするも、カレンの抵抗と悲鳴に気づいた使用人によって取り押さえられて未遂に終わった。それに腹を立て、母親のカリスタにカレンが誘ってきたのに、と嘘をついた。

 夫や長男長女、前妻のいたころから家につかえる使用人たちが、カレンを可愛がるのが気に食わなかった彼女は、日ごろからカレンに冷たく当たっていた。これ幸いにとブルーノに相談し、カレンを追い出したのだ。その上、ブルーノはカレンを誘拐犯たちに売った。それもこれも自分が横領した店の金でのめりこんだギャンブルでできた借金の返済のためだ。しかも彼が誘拐犯に売った女性はカレンだけではない。

 捜索願が出ておらず捜査線上には上がっていなかったオロルとクララは、このブルーノが奴らに売ったのだ。彼女たちは遠方からグラウに出稼ぎに出てきていて、親族が近くにいなかった。またどちらも職場は治安の悪い場末の酒場で何の前触れもなく姿を消す従業員も少なくないため、二人が急にいなくなっても「またか」と誰も気に留めることがなかった。その環境を逆手にとって、二人を誘拐犯に売ったのだ。

 

「カリスタ、君とは離縁だ」


「そ、そんなっ!」


 カリスタが悲鳴交じりの声を上げる。

 

「お前の実家にも連絡を入れた。直に迎えに来てくれるだろうから、荷物をまとめておけ。正式に財産分与はしないが、君が持っている宝石やドレスは好きなだけ持って行くがいい」


「そんなのあんまりだわ! 私がどれだけあなたに尽くしてきたか!!」


「三男を産んでくれた事には感謝している。だから慰謝料も請求しない。……だが、君が最初に産んだのは、これの息子だ。私のものではない」


 ベネディクトはブルーノを一瞥し冷ややかに告げる。


「ち、ちがうわ、オーブリーはあなたの息子よ!」


「これだけブルーノに似ている息子もいないだろう。まるで鏡のようじゃないか。オーブリーを見ていると若かりし頃の君を見ているようだよ、ブルーノ」


 ブルーノ支配人の肩が大げさなほどに跳ねた。

 彼は恰幅の良い男だと聞いていたが、なんだかげっそりとしていた。だがしかし、ベネディクトの言う通り、オーブリーとブルーノは本当にそっくりだ。真尋と真智と真咲も身内にはクローンだとさんざん言われたが、それはこの親子にも当てはまるだろう。違うのは体型ぐらいだ。息子の方はまだ若いからか太ってはいないのだ。


「ブルーノ、長い間、世話になったな。この女と息子は貴様にくれてやるから、好きにすればいい。今日限りでお前は首だ。むろん、退職金など出るわけもないから安心すると良い。それより貴様には、横領した金を返してもらわんとな。しばらく鉱山で地道に働いてくれ」


 ブルーノはがたがたと震えながら俯いてベネディクトを見ようともしなかった。


「さて、オーブリー」


「と、とうさん、俺は!」


「お前に父と呼ばれる筋合いはない。商業ギルドにて、お前はきちんと本当の父と母の子として登録してもらったからな。私には息子が二人と娘が一人しかいないんだ」

 

 オーブリーが口をぱくぱくさせて、父だったはずのベネディクトを見上げる。

 この辺りは休暇延長中(神父様に振り回されてると言ったら、簡単に許可が下りたと嘆いていた)のクロードがこちらの商業ギルドのギルドマスターに話を通してくれたのだ。


「お前……カレンを誘拐した奴らの仲間に入りたかったそうじゃないか」


「そ、それは……お、おれはカレンが誘拐されているなんて、しら、しらなくてっ」


 ベネディクトの言葉にオーブリーは顔を青くする。

 あの日、公園で子どもを連れ去ろうとしていたのはオーブリーとザシュだった。オーブリーはブルーノが女を売ることで金を手にしたことを知り、自分もその真似をしようとしたのだ。大人を誘拐するのは難しいと思ったのか、子どもを標的にした。

 だが、子どもは大人と違って行方不明になると大騒ぎになるため、誘拐犯たちは彼を相手にしなかった。まだしっかりと基礎が整っていない組織であったため、慎重に慎重を重ねていたのだ。

 それにオーブリーとザシュは、子どもをさらうことも出来ていなかった。とにかく詰めが甘いのだ。捕らぬ狸の皮算用ではないが、子どもを捕まえてくるから、と組織に掛け合っていたのだから、そもそも相手にされるわけもない。

 そして、彼はブルーノが酒場の女を売った事は知っていたが、カレンまでも売っていた事は知らず、カレンに執着し、アパートを見つけ出して彼女をどうにかしようとしていたらしい。


「知っていたか、知らなかったかはどうだっていい。お前は犯罪者の仲間に入りたかったのだろう? だったらお前も鉱山で父親と仲良く働け。重罪を犯した犯罪者たちが、永遠に出られることもない鉱山で働いている。ザシュ、お前もだ。甘い蜜は散々吸って飽き飽きしているだろう? 皆で仲良く、働いてこい。カリスタ、君も行くか? 夫と息子と弟と共にな」


 カリスタはぶんぶんと首を横に振った。


「い、いやだ、やだ! 俺は行きたくない!」


 まるで聞き分けのない子どものようなことを言うオーブリーに真尋は、面倒くさいなと溜息を零す。


「ベネディクト殿、もういいじゃないか。そんな馬鹿どもに説明をしたところで意味のないことだ」


 真尋は投げやりに告げる。

 振り返ったベネディクトは、眉を下げて溜息を零した。


「それもそうですね。多少の改心でもあればと思いましたが……」


「それこそ意味のないことだ。自分がしたことが悪いとは微塵も思っていないんだ。俺の時間は貴重なんだ。さっさと済ませてくれ」


「申し訳ありません。その通りですね」


 ベネディクトが頷いたので、真尋は軽く手を挙げた。

 すると後ろからリックの「ヴァイン・バインド」と呪文を唱える声が聞こえて、後ろ手に縛られていたオーブリーとブルーノがザシュがさらに身動きが取れないように簀巻きにされる。


「あ、あなた、騎士団も通さず、裁判もせずに、鉱山に放り込むなんてあんまりだわ……!」


 カリスタが振り絞るように言った。

 不倫女とは言え、息子は可愛いようだ。


「知っているか? 犯罪者たちが労働している鉱山。本来、真っ当な雇用はしていないが、更生を目的としている場合や横領した金の賠償など正当な理由があれば、商業ギルドと騎士団を通せば労働許可が下りる」


 ベネディクトが懐から許可証を取り出して見せると四人は絶句する。

 これもやっぱりクロードが融通を利かせてくれた。騎士団に至っては、トップがこちらにいるのだから何の問題もなくサインをもらえた。


「ブランレトゥの犯罪者たちが、丁度、鉱山に行く時期でしてお迎えが来ますので、今夜はこちらで騎士の監視をつけさせて頂きますね」


 リックがにこやかに告げる。

 ザシュは「だから嫌だといったんだ!」と文句を言い、オーブリーとブルーノ親子が何かを言ってもごもごしているが、園田がドアを開けると騎士たちが中へ入ってきて、ルシアンとピアースも手伝い、三人を担ぎ上げて部屋を出て行く。カリスタが息子の名前を呼んで縋るが、騎士たちはものともせずに運んでいった。

 パタン、とドアが閉まる。


「カリスタ、君も逃げようと思わないことだ。神父様がカラスという鳥を貸してくれてな」


 ベネディクトの肩の上に一羽のカラスがどこからともなく現れて降り立った。


「この子が君を監視している。君が逃げ出してもすぐにわかる。部屋でおとなしくしているように。……連れていけ」


「いや、放して! あなた! ごめんなさい! ねえ! お願い!」


 ベネディクトの言葉にクルトの後ろに控えていた二人のフットマンが騒ぐカリスタを両脇から捕まえて、引きずるように部屋を出て行った。

 ドアが閉まってもなお、ぎゃあぎゃあと騒ぐ声が聞こえていた。


「元気な夫人だ」


 真尋は呆れたようにつぶやく。


「神父様、こちらへ」


 クルトに促され、暖炉の前の応接セットへと移動する。

 真尋が腰かけ、背後にリックと園田が控え、ベネディクトが向かいに座った。クルトがお茶、ではなく酒の仕度をしてくれて、礼を言って受け取る。


「申し訳ありません、神父様。こんな夜更けに……」


「かまわん。俺たちもそろそろブランレトゥに帰るんだ。だから、その前に解決できてよかった」


 真尋の言葉にベネディクトは「ありがとうございます」と恐縮した様子で頭を下げた。


「カリスタとは再婚だったのだろう?」


「はい。前妻はある日倒れてそのまま……当時は子どもたちも幼く、知人からの紹介でカリスタとは結婚したのです。カリスタも再婚で……彼女は子どもが産めないからと前の家を追い出されたのです。私は子どもは好きにしていいと思っていたのですが、それでもなかなか授からないことに悩んでいたのですが、結婚して二年後にようやく実を結びました。まあ、それはブルーノの子どもでしたが、彼女は本当に嬉しそうでしたよ。聞いた話によれば、私の間にもなかなか子どもができずに悩んでいた彼女をブルーノがそそのかしたようです。あの時の彼女は子どもが産めない苦しみに憔悴しきっていました。彼女の前の家での哀れな境遇もあり色々と見ないふりをしていましたが……それがいけなかった。カレンになんと詫びればいいか……っ」


 ベネディクトは悲痛な面持ちで告げた。


「……カレンは、襲われた時の記憶に苦しめられていたようで、随分とやつれて、保護した時はほんの少し風が吹けば命の灯が消えてしまいそうな様子だった。だが、妻や一緒に誘拐されたマリーとリラという女性がそばに居続け、ナルキーサスという素晴らしい治癒術師のおかげで、回復に向かっている」


「本当に、ありがとうございます……っ。カレンの父親と私は大分年が離れているのですが、お互いに親友と思っている仲で……彼が事業に失敗した際、私が無理矢理援助を申し出たのです。遠縁だからと理由をつけて、借金の肩代わりを申し出ました。遠縁と言っても、本当に気の遠くなるような遠縁ですがね」


 苦い笑みを浮かべてベネディクトが酒のグラスを手に取る。ゆっくりと揺らせば、カラン、と氷が鳴る。


「カレンを置いていくと決めたのは、彼女の両親です。まだ幼いカレンに無茶はさせられないと……最初、私は私の娘として預かると言ったのですが、カレンは私たちの娘だからと……それはそうだと思い、カレンも納得できるようにとメイドとして我が家に。……幼かったカレンにとっては辛いことだったでしょう。それでもあの子は腐らず成長した。あと二年もすれば、彼女の両親は帰ってこられる。だというのに……本当に、なんということを」


 ぐいっと酒をあおるベネディクトを眺めながら、真尋も酒を飲む。


「君の後悔は分かるが、後悔したところで時間を巻き戻すことはできない。カレンのことは、我が家で預かる。領主様も太鼓判を押すほど、我が家は安全だ。彼女を万が一にも襲う馬鹿もいない」


 ベネディクトが顔を上げる。


「もし、君が謝罪をしたいというのならば場を設けるが、今はまだ休養が優先されるべき状態だ。あの子は、いきなり家を追い出されて、仕事もなく金もなく、自分の給金を貯めた金で食いつないでいたんだ。だが、あの子は給金のほとんどを借金返済に充てていたんだろう?」


「はい。何度もそれはそれ、これはこれだと言ったのですが……真面目なところは両親そっくりです。それに少しでも借金を早く返せば、両親に会えるとあの子は幼いころから信じていたんです」


 彼の言う通り、幼かったカレンが一生懸命考えての行動だったのだろうし、理論的には間違っていない。借金さえ無くなれば両親はカレンを迎えに来られるのだから。

 そのためにまだ若い娘だというのに、色んなものを我慢してコツコツとお金を貯め、借金を返済し、地道に真面目に生きていたのだろう。だからこそ使用人たちもカレンを可愛がっていた。


「俺は、あの子の新しい雇用主として、今日は君に話をしに来た。……園田」


 園田が前に出てきて、革のカバンから書類を取り出し、ベネディクトの前に並べた。


「今、俺たちの家にはブランレトゥの商業ギルドマスターで俺の友人でもあるクロードが滞在していて、彼に作ってもらった雇用契約書だ。それと……君のところを不当に解雇されたとして訴えを起こす、という旨の訴状だ。こっちは俺の知人に頼んだのだがな」


 ベネディクトは難しい顔でその書類に目を通す。

 真尋は指を振って訴状を自分のほうに引き寄せると、ぱっと火をつけて燃やしてしまう。ベネディクトが目を白黒させながら顔を上げた。


「し、神父様?」


「だが、まあ、こちらに関しては不要だと判断した。カレン自身、君や長男、長女、そして、使用人仲間には嫌悪はないようだ。円満退職を望んでいる。正当に退職金が支払われ、紹介状がもらえればそれでいいと言っている」


「で、ですが、それでは私が納得できない……!」


「俺だって慰謝料でも治療費でもなんでもふんだくれと言ったのだが、あの子がそれでいいというのだから、仕方がない」


 真尋は肩を竦める。真尋だけでなく、雪乃やナルキーサスもそう言ったのだが、カレンはお世話になったのは私の方だから、とそれ以上のことを望まなかったのだ。

 それでもベネディクトは納得していないようだった。


「その辺のことは、君たちで話し合ってくれ。ただし、カレンが心身ともに元気になって、主治術師の許可が下りたらな。俺が今夜、欲しいのはこの雇用契約書への署名と紹介状だ。カレンは君からの紹介で雇うということにしたいんだ。彼女の名誉のためにも」


 紹介状というのは、この紹介状を持つ人間は、とても信頼が置けるので安心して雇ってください、という実際に目で見ることのできる信頼なのだ。長い間、仕事をしていたのにそれがもらえないとなれば、逆に、この人は問題を起こしたり、仕事ができなかったりするので紹介するにふさわしくないという意味合いになってしまう。

 ベネディクトは、何度も雇用契約書を読み直し、カレンに不利な条件がないか真っ当な職場環境か、手当は、雇用形態はと頭に叩き込んでいるようだった。クルトにもそれを見せて確認し、クルトが用意したペンで署名を書き入れた。


「クルト、紹介状の仕度を」


「かしこまりました」


 クルトが一礼し部屋を出て行く。

 真尋は酒を舌の上で転がし、その味や香りを存分に楽しみながら、準備が整うのを待つ。ついでに煙草も嗜みたいところだが後ろに密告者が二人もいるので断念する。

 どうやらリックは園田に「真尋様の健康を想えばこそ、これは告げ口などではなく正当な業務です」と教わったらしい。ゆえに雪乃にチクることに躊躇いが皆無のようだった。

 園田も昔から真尋第一主義なのだが、第一主義すぎて真尋の健康に関しては絶対に妥協しない。そこだけはどれだけ真尋が黙っていろと言っても雪乃にぺらぺら報告するのだ。

 園田の密告による過去のあれこれ(全部、自業自得)を思い出して、真尋の眉間にしわが刻まれようとした頃、クルトが戻ってきた。

 クルトが用意した便せんにペンを走らせ、便せんは封筒にしまわれる。さらにきちんと蝋封までされてから差し出される。

 表に宛名とベネディクトの署名があり、紹介状が入っているという旨が隅に記載されていた。


「……神父様、私が言えることではありませんが、どうかあの子を頼みます」


「ああ、もちろん」


 もらった紹介状を懐にしまう。


「クロードに確認してもらい、また改めて話し合いを。契約書に疑問が浮上した場合は、その時に確認をしてくれ」


「はい。その時までに退職金の準備をしておきます」


「ああ。では今夜はここで失礼する」


 最後の一口を飲み干して、真尋は立ち上がる。

 そろそろとエントランスへと向かいながら真尋は口を開く。


「仕事の件はまた後日話し合おう。注文したいものもあるんだ」


「クルトから聞いております。ぜひ。お時間や都合は神父様に合わせますので」


「では、予定を確認次第、報せる。俺に何か用があるときは、園田に連絡を入れてくれ。大抵、屋敷にいる」


 真尋の言葉にベネディクトが後ろの園田を振り返れば、園田が小さく会釈を返す。


「分かりました。そうさせて頂きます」


 エントランスを出て横付けされていた馬車に乗り込む。リックが御者席に座り、園田は真尋の向かいに座った。


「神父様、本当にありがとうございました。カレンの事、お願い申し上げます」


「ああ。何かあったら連絡をする。では失礼」


 真尋が目礼すると園田がドアを閉めた。そして園田が背後をノックして合図を出せば馬車が動き出す。


「無事、お話がまとまりまして、一安心でございますね」


 園田が言った。


「そうだな。……お前が許可を出すということは、マリーとリラは本当に使えるということだろう?」


「はい。真面目に働いてくれております。それになにより雪乃様がカレンを含め、御三方を気に入っているようですので。真尋様から許可が頂けましたこと、マリーとリラも大層、喜んでいましたよ」


「雪乃がいいならそれでかまわん。ただし、これまで通り俺の書斎と寝室の掃除は雪乃かお前で頼む。それ以外はかまわんが……サヴィラの部屋も」


「坊ちゃまはいつもご自分でお掃除されておりますので」


「そうか、偉いな」


 そう返すと園田は「さすが坊ちゃまですよね」とうんうんと頷いた。

 そしておもむろに書類を二枚取り出して差し出してくる。それを受け取り目を通せば、マリーとリラの雇用契約書だった。


「あとは真尋様のサインだけにございますので」


 その言葉に二つの契約書を宙に浮かせ、万年筆を取り出して、サインをする。

 インクが乾くのを待って園田に返せば、園田はサインを確認し、アイテムボックスへとしまった。


「そういえば、お前のアイテムボックスはどれなんだ?」


 海斗は真尋たちと同じ指輪だった。雪乃は魔石そのものだったので真尋がこれからピンキーリングに仕立てるつもりだ。ティーンクトゥスなりに雪乃にアクセサリーの類を贈るのは遠慮したらしい。雪乃は現在、その魔石を小袋に入れて持ち歩いている。


「私はピアスにして頂きました。こちらに」


 園田が垂れた犬耳をめくれば、確かに耳の付け根にシンプルなピアスがあった。


「他の装身具ですと邪魔になってしまいますので」


「なるほど。……ところでお前、あいつに体を作りなおしてもらった時、傷は消したのか?」


 耳をめくっていた手を下ろし、園田は上着を脱ぐと袖をめくった。

 薄暗い馬車の中でもその腕に煙草の痕がないことは分かった。


「見ての通り腕の痕は消して頂きました。ですが」


 白手袋をはめた手が胸を押さえた。


「この下の傷は残っております」


 彼の体は傷跡だらけだ。

 それは全て虐待と暴力を受けたが故の傷跡だった。


「なぜ、消さなかった?」


「地球にも日本にも私が……園田充、あるいは藤岡充が生きていた証はありません。……ですから私にとってこの傷跡は生き延びた証で、私が確かに生きていた証でもあると思い、残しました。覚えていない傷跡だって、当時の私が生きるために耐えた証です。ただ腕は、早々ないとはいえ、こうしで袖をめくることもありますので綺麗にしておこうと思いまして」


 園田が苦笑交じりに言った。

 彼の腕は煙草を押し付けられたやけどの跡だらけだった。園田より真智と真咲がそのやけど痕を見ると悲しそうな顔になるため、彼は真夏でも長袖で過ごしていた。


「真智様と真咲様は、私の綺麗になった腕に『もう痛くない?』『よかったね』と心配し、喜んでくださいました。体の傷を残したことは申し上げませんでしたが、あの時は久しぶりに笑ってくださって、ティーンクトゥス様には感謝しております」


「そうか。お前がそれで納得しているならいいんだ。お前にも俺が不在の間、苦労をかけたな」


「いえ」


 園田は言葉少なに首を横に振って、めくった袖を元に戻してジャケットに袖を通した。


「真尋様は、この後、どうなさいますか?」


 真尋は腕時計に視線を落とす。あと少しで日付を跨ごうとしている。

 やることは山のようにあるが、主犯は捕まり女性たちは全て保護されている。であれば、多少の休息をとっても問題はないだろう。


「このまま屋敷へ」


「かしこまりました」


 園田が背後をコンコココンと叩いた。すると返事のように一度、ノックが返って来る。

 真尋は座席に深々と座り、煙草を取り出して火をつけた。


「……本日二本目。今日の最後の一本だ」


「はい」


 長々と吐き出した紫煙の向こうで園田が神妙な顔で「……その吸い殻、いただけませんか?」とかほざいているのは聞こえなかったことにした。

 ただこれからも吸い殻は燃やしきるか、リックかヴァイパーが用意する灰皿にだけ捨てようとだけ誓った。



ここまで読んで下さって、ありがとうございます。

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来週以降の更新は未定となりますが、できれば土曜か日曜どちらだけでもと考えております。

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次のお話も楽しんで頂けますと、幸いです。

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[一言] 最後の最後が、今のはもしかして怖い話なのか?と、とらえてしまったのだろうか? 髪の毛か?髪の毛が原因か? 更新ありがとうございます。
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