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称号は神を土下座させた男。  作者: 春志乃
第二部 本編
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第五十七話 駆け回る男



「えーと……真尋様から頂いたメモによれば、このあたりのはずなのですが」


 充は、辺りを見回しながら足を止める。

 ここは、先ほど雪乃たちとともに訪れた誘拐犯のアジトがある地区に近い住宅街だ。充たちが滞在している地区は、いわゆる高級が頭につく住宅街で閑静で品のある町並みだが、ここは、毎日ぎりぎりの生活をしているのがうかがえる場所だった。

 集合住宅、いわゆるアパートメントが密集していて、一軒家はほぼない。夕焼けの中、どんよりとした静けさがあたりを包んでいて、お世辞にも治安のいい場所ではなさそうで、幼い子どもの姿はない。行きかうのは、大人ばかりだ。

 ほんの数年前、まだ藤谷と名乗っていたころは、ここで生きる人々と同じような暮らしをしていた。

 一日に二時間も眠れればいいほうで、それ以外の時間はバイトをいくつも掛け持ちし、ここが終わったら次はここ、と一日中働いていた。今、振り返ってみればとんでもない生活だったな、と苦笑する。


「困りました……どれも同じに見えます……」


 日本のように、なんとかアパートとかなんとかハイツとか、なんとか荘と書いてあるわけではなく、同じ造りの同じような建物がずらりと並んでいる。電柱なんてものはないし、従って、住所がどこかに記載されているわけではない。


「ここの方々は、どうやって知人を訪ねるのでしょう……」


 ほとほと途方に暮れながら、充は溜息をこぼした。

 執事服の上にコートを着てきたが、上等な素材のものしかなかったため、この場所では浮いてしまっている。通りすがりの人々から不審な目を向けられて、声をかけようにも逃げられてしまうのだ。誰だって厄介ごとには巻き込まれたくはないだろう。

 ここには、我が家で保護することになっているカレンが住んでいる部屋がどこかにあるはずなのだ。

 改めてあたりを見回す。三階建てのアパートメントが密集していて、頭上では洗濯物がそよいでいる。

 アパートメント部屋のドアやその周辺に、部屋番号はあるが表札は出ていない。真尋のメモには、住所しか記載されておらず、部屋番号から三階だろうということしか分からなかった。


「仕方がないですが、なんとか住人の方にお話を聞いていただきましょう」


 コートの襟を正して、歩き出そうとした時だった。


「カレン!! カレン!!」


 しゃがれた女の声が充の求めている名前を呼んでいた。

 あたりに姿は見えず、耳を澄ませる。


「カレン! あたしだよ、大家のマーサだ!」


 その声は、通りの奥のほうから聞こえる。

 充は、その声がするほうへと歩き出す。

 表の通りから二本ほど裏へ入った、よりおんぼろなアパートメントの三階のドアの前にずんぐりとした体形の白髪交じりの茶髪の髪を雑にまとめた女性がいた。その部屋のドアを、どんどんと無遠慮に叩いている。


「三か月分の家賃、今日こそは払ってもらうよ! それができないなら出て行きな!」


 これは、と充は階段を駆け上がり女性の下へ行く。


「もし、すみません」


「あー?」


 酒の臭いが通りを曲がった時からしていたが、この女性が発生源のようで大分酒臭い。

 どんよりと濁り据わった目が充を見上げている。


「私はとある方にお仕えしている執事の充、と申します。実は獣人族のカレンさんのお部屋を探しておりまして……金の髪に私と同じく犬系のカレンさんです」


「ひっく、多分、そのカレンの部屋なら、ここだけど」


 据わった目が充を値踏みする。充は穏やかな笑みを崩さず、次の言葉を待った。


「あたしゃ、マーサ。このアパートメントの大家さね」


「大家さんでしたか」


「んだが、カレンなら留守みたいだよ。返事の一つもしやしない。それもこの一週間、ずっとだ。夜逃げでもしやがったのかね」


 忌々しそうに吐き捨てて、マーサはスカートのポケットから、小さな酒のボトルを取り出してあおった。強い酒精の臭いに鉄壁の仮面の下で顔をしかめた。

 獣人族という種族に生まれ変わり、その中でも嗅覚のギフトスキルを持つ犬系であるため、日本にいたころよりもずっと臭いに敏感になった。


「執事ってーと、あんた、あれかい? カレンの前の職場の奴かい?」


 口端からこぼれた酒を手の甲でぬぐいながらマーサがにんまりと笑った。


「あの子も大人しそうに見えて、旦那様の愛人になろうとしたらしいじゃないかい……ひっく、だけど、失敗して、奥さんにばれて、追い出されたんだろ? それで家賃が払えなくなってりゃわけないね」


 カレンという女性のことは、ほとんど知らない。知っているのは、目で見ただけの情報と真尋がくれたここの住所だけだ。だから、目の前の酒臭い女の言うことを信じてやる義理もなければ、カレンを庇う義理もない。

 だが、真尋が預かるといった相手であるから、それなりの素行調査はしたいところだ。


「カレンさんはとても優秀なメイドだと知人から聞いて、当家に勧誘をしに来た次第でして。ですが……少々、お話が食い違っているようです。主人に恥をかかせるわけには参りません。もう少しお話をお聞かくださいませんか?」


 アイテムボックスから取り出した銀貨をマーサに握らせた。

 マーサは、手の中のそれに、再びにんまりと嫌な笑みを浮かべた。


「はっはっはっ、あんた、面白いねえ。……あの娘は親に売られたんだよ。五つか六つのころ、グラウのオーブっていう大きな宝石商にね。もともとは裕福な商家の娘だったらしいけど、事業に失敗して借金の片に。それでずっと住み込みで働いてたんだけど、何を思ったのか旦那様の愛人になろうとして首になったらしい。ここには半年前から住んでるよ。だけど、三か月前から家賃が払われてない」


「なるほど。私の主人に仕えるにはふさわしくないようです。ですが、マーサさんも、夜逃げされては悔しいでしょう」


「そりゃそうさ。……あんまりにもな身の上だからと思って、置いてやったってのに」


 酒臭いし、目は据わっているが、家賃を三か月も待ってくれる辺り、根っからの悪い人ではないのかもしれない。


「鍵がねぇ。鍵屋を呼ばないと開けられないんだよ……予備鍵を無くしちまってね」


 マーサが言った。


「私にすこーしお時間をください。夜逃げならともかく、中で死んでいては元も子もありませんでしょうし」


 そう告げて、充はカレンの部屋のドアの前にしゃがみこむ。

 これはとても簡易な鍵だった。屋敷で使われているような魔力を登録するようなものではなく、日本ではウォード錠と呼ばれている。アンティークの製品によく使われていて、ファンタジー小説の中では定番の鍵だ。

 執事服の内側から針金を一本取り出して、こそこそっとして鍵穴に差し込む。

 ガチャリ、と音がして、ドアノブを回せば、すんなりとドアが開いた。


「あんた、器用だねぇ」


「優秀な執事を目指しておりますので。……嫌な臭いはいたしません、中へ入られますか」


「こうなったら金目の物でも、担保にもらっていこうかね」


 そういってマーサが充の開けたドアをくぐって中に入っていく。

 充は周囲に視線を走らせて、とくに不審な気配がないのを確認してからその背に続いた。


「金目のものはなさそうだねえ……」


 酒をあおりながら、マーサが落胆する。

 だが、入って一歩で充もそれを実感する。

 年頃の娘が暮らすには、あまりに殺風景な部屋だった。

 入ってすぐの右手には小さなキッチンがあり、その奥に部屋がある。

 ベッドが一つ、もともと備え付けのクローゼットが一つ。椅子が一つ。小さな丸テーブルが一つ。それだけの部屋だ。三階で天板がない分、天井裏の空間がぽっかりと開いていて部屋が広く見えるので、余計に何もないように見える。

 カーペットの一枚もなく、ベッドの上の毛布も、毛布と呼ぶにもおこがましいような薄い布だった。すぐそばのキッチンの引き出しを開けてみるが、一人分のカトラリーがあるだけで、あとは小さな壺に塩が少しだけ残っていた。

 マーサが、ずかずかと中に入って開けたクローゼットも、簡素なワンピースが二枚、吊るさっているだけだった。その下の引き出しには、下着と靴下、ハンカチが一枚きり。まるで二泊三日の旅行に来ているかのような荷物しかない。

 だが、その殺風景な部屋の中で、一つだけ彼女が大事にしていたのだと思えるものがあった。


「くたびれたぬいぐるみだねぇ。これじゃ、売っても金になりそうもない」


 ベッドの枕元に置かれていたのは、可愛らしい布製のお人形だった。ピンク色のワンピースを着ていて、黄色の毛糸で作られた長い髪の毛は、左右でみつあみにされ、赤いリボンが結んであった。少しくたびれてはいるが、長い間、丁寧に手入れされ大事にされていたのがうかがえる。


「あーあ……まさか本当に夜逃げしちまってたなんてねぇ。まあ、死んでなかっただけ掃除がましか。ありゃ、片づけが大変だし、下手にアンデットになられた日にゃ……いやだいやだ、想像もしたくない」


 マーサが身震いして、短い首をすくめた。


「マーサさん、私にこの部屋の荷物、家賃三か月分ほどで買い取らせて頂けませんか?」


 ゆっくりと振り返ったマーサが、化け物でも見たかのような顔をしている。

 充はキッチンから数歩でたどり着いてしまうベッドの脇に立ち、人形を手に取った。黒い木製のビーズの無垢な目が充を見つめる。


「その代わり、この部屋のカレンさんのことは今後一切、他言無用。いなかったものとして忘れてください。そして、一週間だけ、この部屋を私にお貸しください」


「あ、あんた……何を……」


 据わった目を見つめ返して、微笑んだ。


「……いや、分かった。ただで片づけるより、家賃をもらえたほうが得さね」


 そういってマーサは指の曲がった手を突き出した。


「ありがとうございます、マーサさん」


 充はにっこりと笑って、その手の上にマーサが教えてくれた家賃三か月分に色を付けた代金を置いた。マーサは、少し驚いたように眉をぴくりとさせたが、にんまりと笑ってそれをしまうとくるりとこちらに背を向けた。


「ここは空き部屋だ。こういう場所の、こういう部屋は、案外、入居者が途絶えないもんさ。だから、さっさと片づけて出て行っておくれ。一週間もありゃ、それこれ綺麗に片付くだろうさ。あたしはこのアパートメントの一階に住んでる。丁度この部屋の真下さね。掃除が終わったら教えとくれな」


 そういって、酒をあおりながら、マーサは出て行った。

 バタン、とドアがしまり、一人きりになる。


「一度、何者かが入っていますね」


 カレンの匂いに交じって、嫌な魔力の残り香がただよっている。マーサは酒臭かったが、魔力の匂い自体は、少し焼き過ぎてしまったパンのような匂いだった。ここに残っているのは、腐った卵のような、鼻が曲がりそうになるような嫌な臭いだ。

 マリーたちの証言からして、二週間前に部屋の主であるカレンが誘拐されているのだから、ここは誰一人入れなかったはずだ。鍵も閉まっていて、窓はない。とはいえ、充がしたように鍵など、針金一本あれば、開けられる。それにマーサは予備鍵を失くしたと言っていたが、いつとは言っていない。ずっと前に失くしたのかもしれないし、最近、誰かが盗んだ可能性だってある。

 だが、痕跡は魔力の残り香のみで、他には何もない。


「騎士の方に細かい調査は依頼しましょう」


 あちらはこういったことに関してはプロだ。素人では分からないことも分かるかもしれない。


「……君が、カレンさんの言う『あの子』ですか」


 手に持ったままの人形に問いかける。

 人形は、赤い刺繡糸の口でにっこりと笑ったまま充を見つめていた。鼻先を近づけて注意深く匂いを嗅ぐが、幸い、これからは嫌な魔力の匂いもせず、何かの魔道具が仕込まれている様子もなかった。


「貴女の主がお待ちですよ。私とともに参りましょう」


 それ以外のものは、とりあえず手つかずのまま、残しておくことにする。第二小隊の騎士の調査が終わり次第、持ってきてもらったほうがいいだろう。

 部屋を出て、針金で鍵をかけて、鍵穴に手をかざす。

 ぴきぴきっと音がして、鍵穴は凍り付く。こうすれば、針金などを使っても鍵は開かなくなる。

 マーサは酒浸りの様子だったが、賢い生き方をしているようだ。もうさっさと自分の家に帰ったようで気配も匂いも残っていなかった。


「さて、早々に戻らないといけませんね」


 そうこぼして、充はさっさとその場を後にしたのだった。








「雪乃様、ただいま戻りました」


 ドアの向こうから聞こえてきた声に顔を上げる。

 どうぞ、と返せば、するりと静かに充が中へと入ってきた。

 彼の視線は、未だ深く眠っているカレンへと向けられる。


「カレンさんは……」


「まだ熱が高くて……今、キース先生がお薬を調合してくださっているの」


「そうですか」


 ベッドの中の痩せこけた少女は、熱に頬を赤くして、浅い呼吸を繰り返している。額にはポチ特製の氷嚢が乗せられていて、雪乃が時折、にじむ汗をぬぐっている。


「カレンのお部屋は見つかった?」


「はい。日用品はそのままにしてありますが、これだけ部屋からお持ちしました」


 充はアイテムボックスから例の人形を取り出して雪乃に差し出す。

 雪乃が、そっと人形を受け取った。


「可愛らしいお人形……大事にされていたのね、貴女」


 細い指が優しく毛糸の髪を撫でた。

 一目見れば分かるのだ。この人形が持ち主にどれほど大事にされていたかは。くたびれていても黒ずむこともなく、破れて綿が見えているなんてこともなく、ワンピースは丁寧に作られた品だと分かる。

 雪乃がそっとそれをカレンの枕元におこうとすると、ひくひくと彼女の鼻が動いた。

 ゆっくりと瞼が持ち上がり、柔らかな若葉色の瞳が姿を現す。


「カレン」


 雪乃が声をかけると、カレンがゆっくりと彼女へ視線を向け、はっと息を吞む。


「わたし、の、ミミ……っ」


 布団から一生懸命伸ばされた手に雪乃が人形を持たせて、抱かせてやる。するとカレンはぽろぽろと涙をこぼしながら、人形をぎゅっと抱きしめた。


「よかった……もう、あえない、かと」


「充さんが連れてきてくれたのよ。充さんは我が家の執事なの」


 若葉色の瞳が充をとらえる。


「充と申します。その、勝手にお部屋に入ってしまい、申し訳ありません」


「ううん、いいんで、す。……ほかのものは、なにも、たいせつじゃないから、ミミだけが、たいせつなもの、だから。ありがとう、ございます」


 途切れ途切れに告げて、カレンは心底嬉しそうに微笑んだ。

 柔らかな秋の日差しのような笑みは、とても可愛らしい。雪乃が、そんなカレンに柔らかに目を細めて、頬を撫でる。カレンは甘えるようにその手に頬を寄せた。


「残りの荷物は、勝手に持ってきてもいいかしら?」


「はい、だいじょ、ぶです」


「なら、そうさせてもらうわね。……カレン、何か食べられそう? 飲み物でもいいわ」


「あの、お、おかまいなく、わ、わたし、おかねが、なくて……ち、ちりょうひ、も」


 カレンが首を横に振る。


「大丈夫。治療費も飲食代もぜーんぶ、あの不甲斐ないグラウの騎士団に請求することになっているから、気にしないで」


 うふふっと雪乃が笑うと、カレンは目をぱちぱちとさせた。


「だから遠慮しないで、ゆっくり休んで、しっかり栄養をとって、元気になりましょうね」


 優しい優しいその声にカレンは、なんだか泣き出しそうな顔をして、しかし、小さく笑って頷いた。雪乃が「いい子ね」とその頭を撫でれば、気持ちよさそうに目を細める。


「もう一度、聞くわね。何か食べたり、飲んだりしたいものはある?」


「…………くだものの、ジュース、なら、のめそう、です」


「あら、いいわね。果物には栄養がたっぷりあるもの」


「今、ご用意できますのは、リンゴ、ブドウ、オレンジの三種類でございます」


「えと、リンゴ、がいいです」


「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」


 充は一礼し、部屋を後にして階段を上がり、キッチンへと向かう。


「カレンさん、どうでしたか?」


 夕食の下準備をしていたヴァイパーが顔を上げた。

 キッチンにはリリーもいて、支度を手伝ってくれているようだ。


「今、お目覚めになられて、ジュースなら飲めそうだと」


 充の返事に、二人はほっと表情を緩める。

 棚のかごからリンゴを取り出し、皮を剥いて、すりおろしていく。果肉入りより、今は何も喉に引っかからないほうがいいだろう。

 グラスに入れるよりも取っ手のついたカップのほうがいいと棚を見上げれば、すっと目当てのものとガーゼが差し出される。


「ありがとうございます、ヴァイパー」


「いえ」


 ヴァイパーは小さく微笑んで、作業に戻る。

 彼は、充にとって執事になって以降初めてできた仕事仲間であり部下というものに分類されるのだろうが、さすがは海斗たちが見つけてきてくれただけはあって、とても優秀だ。覚えもよく、学ぶことに積極的なので、教える側としてはとてもありがたい。それにもともとの彼の気質として、とても気が回る。小さなことにも気が付いてくれるのでとても助かる。

 ヴァイパーが用意してくれたカップに、呪文を唱えて氷を数個入れ、そこにガーゼに包んで絞ったリンゴの果汁を注ぐ。


「ヴァイパー、このジュースをお届けしたら、騎士の方々とまた出かけます。色々と任せてしまってすみません」


「いえ、リリーさんも、サヴィラ坊ちゃんも手伝ってくれますから」


「そういえば、坊ちゃまは……」


「当家の奥様と坊ちゃまとお嬢様とミアちゃん、ジョンくんと一緒に双子ちゃんの沐浴をしてくださっています」


 リリーが答えてくれる。


「本当に頼りになる坊ちゃまで、ああいうところは真尋様によく似たのでしょう」


 感動に震える胸を押さえながら、ジュースを乗せたトレーを持ち上げる。


「では、行って参ります。後のことは頼みました。何かあれば小鳥を飛ばしてくださいね」


 そう声をかけて、充はキッチンを後にして、地下のカレンの部屋へと戻る。

 幸い、カレンはまだ起きていてくれた。雪乃にジュースを渡して、足元へと下がる。

 カレンが体を起こすのを足下から魔法でサポートし、雪乃がその口にジュースを含ませる。喉がゆっくりと動いて、カレンがほっと息をつく。


「あまくて、つめたくて、おいしいです」


「良かったわ。飲めるだけでいいから、無理せず飲んでね」


 カレンはこくんと頷いて、ジュースを美味しそうに少しずつ、少しずつ飲んで、綺麗にカップを空にした。彼女を支えていた魔法をそっとほどけば、カレンは再びゆっくりとベッドに沈む。


「吐き気とかは大丈夫?」


「はい」


「具合が悪くなったら隠さないで、教えてね。でも、今みたいに大丈夫そうなら、食べたいものがあったら教えてちょうだい」


「はい。……ありがと、ございます」


 またカレンはうとうとし始めて、あっという間に眠ってしまった。

 しかし、先ほどよりもずっと呼吸が落ち着いている。


「ミミちゃんに会えて、安心したのね」


 雪乃が微笑みながらカレンとその腕の中のミミに布団をかけなおす。


「…………何か、分かったかしら?」


 雪乃の問いに「はい」と応える。


「ですが、まだ確証はありません。これから第二小隊のルシアン様とピアース様とともに裏付けに行って参ります。道中で真尋様に許可を仰ぎましたところ、行ってこい、とお返事をいただきました」


「私も同じことを言おうと思っていたのよ。家のことは、大丈夫。そうはいっても充さんがいないと不便はあるでしょうけれどね」


「光栄なお言葉でございます」


「ふふっ、こちらへいらっしゃい」


 手招きされて近くに行けば、かがんで、と言われて従うと雪乃に頭を撫でられる。


「頑張れるように、おまじないよ」


「今なら真尋様にも勝てそうです」


 充の返しに雪乃は、あらあらと笑った。


「では行って参ります」


「行ってらっしゃい、気を付けてね」


 雪乃に見送られて、充は部屋を出る。

 耳を澄ますと温泉のほうから聞こえる子どもたちの賑やかな声を背に階段を上がり、そのまま玄関から外へ出れば、ちょうど、馬に乗ったルシアンとピアースが門をくぐったところだった。

 外はもう暗く、あと少しすれば月が昇って来るだろう。

 充も玄関で待たせていたサヴィラの愛馬にまたがる。

 ルシアンは豹系の獣人族、ピアースも同じく豹系だが、彼の耳は黒い。たぶん、黒豹の系統なのだろう。

 鼻の利く騎士を頼んだところ、この二人が派遣されてきたのだ。


「お待たせしました。本日はよろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


「お店のほうは大丈夫でしょうか」


 二人は今日、真尋が助けた少女の下で護衛としての仕事をしていたのだ。


「はい。神父殿がカラスを数羽、代わりに残してくださっているので」


「でしたら私たちの仕事を安心してこなせます」


 充の言葉に二人が頷く。


「おーい、みっちゃん」


 庭先の馬車から海斗が降りてくる。


「どうされました? 何か……」


「ううん。窓の外を見たら出かけるところっぽかったからさ」


 海斗はそう言って微笑んだ。


「騎士がいるってことは、真尋の手伝いかな?」


「はい」


「OK、じゃあ、お祈りをしてあげよう」


 そういって海斗が腰にぶら下がっていたロザリオを掲げだ。

 三人は馬車から降りて、充は紳士の礼を、ルシアンとピアースは騎士の礼を取る。


「守護神ティーンクトゥスよ、困難に立ち向かう彼らに激励と守護の風を」


 明朗な祈りの声に応えるように、強い神の気配をまとった風が三人の髪を揺らしていく。肌をなぜるその風の優しさは、あの泣き虫な神様そのものの慈愛を感じた。


「健闘を祈っているよ」


「ありがとうございます。海斗様も道中の安全をお祈り申し上げます」


「thank you」


 海斗はウィンクを一つして、ひらひらと手を振りながら馬車ではなく家の中へと入っていったのだった。

 充たちは改めて馬へと乗り、手綱を握る。


「では、行きましょう」


 そう声をかけて、充は再びカレンの家へと向かうために、駆け出したのだった。







「これは……嫌な臭いだ」


「うげぇ」


 中へ入った瞬間、二人が顔をしかめた。充も苦笑をこぼす。

 カレンの部屋は夕方に来た時と変わりない様子だった。鍵も凍り付いたままで誰かが開けようとした痕跡もなかった。


「腐った卵みたいな魔力の臭いだ」


 ルシアンが鼻をつまんで顔をしかめた。


「ミツルさんは平気なのか? 俺たちより嗅覚は鋭いのに……」


 道中、自分はただの執事で、彼らよりも年下なのでとお願いした結果、気安く話してくれるようになったのだ。


「顔に出さないよう、訓練しておりますので」


「このにおいを?」


 鼻をつまんだままのふがふがした声でルシアンが言った。


「例えば、真尋様や雪乃様がお客様をお呼びになった際、執事である私が香水臭くて顔をしかめてしまったら、お二人の信用にかかわりますので、普段から他所では顔に出さないようにしております」


 もちろん執事として意識している部分もあるが、笑顔以外の表情を出さないのは幼少のころからの癖でもあった。

 しかし、真尋たちの前では充の表情筋はとても仕事をするので、それでいいと思っている。


「へぇ……執事ってすげぇな」


「まあ、あの神父殿が気に入って居るわけだし……強いしな、ミツルさん」


「雪乃様の護衛を仰せつかっておりますので。さて、仕事と参りましょう」


 パンパンと白手袋をはめた手を軽く叩く。

 二人がはっと我に返って、鼻をつまんでいた手を離した。


「この臭い、まだ新しいよな」


「ああ。昨日か今日の朝か、それくらいに訪れたような鮮明さだ」


 二人が注意深く部屋の中を見回す。

 充も二人に倣って部屋の探索をする。三人とも背が高く体もがっしりしているので、いくら天井が高くてもこの狭い部屋の中だと窮屈に感じる。


「なんか少し、酒の臭いもする」


「それは先ほど、ここを訪れた際に案内してくださった大家さんが酒浸りだったからです」


「……なるほど」


 ピアースのつぶやきに応えれば、納得の返事が聞こえた。

 三人は黙々と手と鼻を動かして何かないかと探る。充はキッチンの戸棚という戸棚を開けて、蛇口のコックをひねって水を出してみるが、水は止められているのか出なかった。戸棚の中には、最初に来た時と同じく塩の壺以外には、チーズがひとかけらと、カピカピなったパンがひとかけら転がっていただけだ。

 生鮮食品はもともとなかったようで、それに関する嫌な臭いはしない。


「……ミツルさん、ルシアン」


 ピアースの緊張した声に流しの上の棚の一番上を探っていた手を引っ込める。


「どうした」


「馬の足音がする。こっちに向かってる」


 犬よりも猫のほうが聴覚は優れている。

 だが、耳を澄ませば少しして、充にもそれは聞き取れた。もう家のすぐそこまで来ている。馬は通り過ぎることなく、家の前で止まった。馬車を降りる音がして、階段を上がって来るのが分かった。


「カレンって言ってるね。男の声だ」


 かすかに聞こえる話し声からは、カレン、という名前が聞き取れる。


「今から私がお二人に隠蔽魔法をかけます。ルシアンさんとピアースさんは、梁の上に。私はクローゼットの中に隠れます」


 二人が頷いてくれたので、隠蔽魔法を発動させる。

 これで人から認知されにくくなる。二人は気配を消すのが得意そうな種族なので、なんとかなるだろうと一か八かでそれぞれ隠れる。充もクローゼットになんとか入り込んで隠れる。ここにほとんど何も入って居なくてよかった。


「あれ? 空いてる……もしかして帰ってきてるのか?」


 若い男の声がドアの向こうから聞こえてくる。

 ゆっくりとドアが開いた。


「カレン?」


 聞こえてきたのは、男の声だ。年齢は充とそう変わらなそうな男の声だが、姿が見えないのでなんとも言えない。足音は二人分だ。


「やっぱりいねえ……」


「大家が鍵屋でも呼んだんじゃねえですかい?」


「ザシャ、あいつ、どこ行ったんだと思う?」


「……坊ちゃん、なんであのメイドにこだわるんです? 確かに顔は可愛いですけど」


 若い男の声に返したのは、少し年上だと思われる男の低い声だった。

 ぎしり、とベッドの軋む音がした。


「だってさ、あいつ、俺の顔をひっかきやがったんだぜ、下等な犬の獣人のくせに。この俺が夜の相手に選んでやったのによ」


 嘲笑う声は、ひどく耳障りだ。

 ギシリとベッドの軋む音がした。ベッドに腰かけたのだろうか。


「坊ちゃん……ここにあった人形、なくなっています」


 ザシュと呼ばれた男が言った。


「ちっ、あいつ、いつ戻りやがったんだよっ」


「いい加減、諦めて帰りますよ」


 あきれたような声に坊ちゃんは、椅子に当たり散らしたようで、ガタンっと椅子の倒れる音がした。


「あの女、うちで働かせてやった恩も忘れやがって……ぜってぇ見つけてやる」


 ぞっとするような執着のこもった声音に返されたのは、あきれたような溜息だった。

 二人分の足音はだらだらと外へ出て、ドアが閉められる。そして今度は馬の足音が遠ざかっていった。

 充はそっとクローゼットから出る。ルシアンとピアースも梁の上から音もなく降りてくる。


「……カレンちゃんだけ別件で厄介ごとが起きてる気がしてきた。あと、あいつ、まじ臭い」


 ピアースが顔をしかめる。


「あいつが、布団をめくるのに魔法を使った瞬間、吐きそうになった。あの腐った卵の臭いはあの野郎の魔力の臭いだ」


 ルシアンの言葉に充も頷く。クローゼットの中にまでその臭いが届いたほどだ。


「……これはその酒浸りの大家さんに聞いたお話なのですが」


 充の前置きに二人がこちらを振り返る。


「カレンさんは、このグラウにあるオーブという宝石商の家で住み込みでメイドをしていたんだそうです。それも五歳か六歳くらいの頃から。ですが、半年ほど前に旦那さんの愛人になろうとしたのが、奥さんにばれて仕事を首になり、ここへ来たとか」


「なーんか、おかしいな、そりゃ」


 ルシアンの背後で長いしっぽがゆらゆらと揺れる。


「オーブっていやぁ、でけぇ宝石商だよ。ブランレトゥにも支店がある。その旦那ってのは、会頭のことかな。確かもう五十歳か六十歳くらいで、ここに来たのは、坊ちゃんって呼ばれているところを見るに息子か? 長男は既婚でブランレトゥの支店を任されているし、あっちに住んでるから、次男か?」


 ピアースが顎を撫でながら告げる。


「確か四人兄弟で息子が三人、娘が一人いたはずだ。男、女、男、男の順で、長男長女はすでに結婚してて、娘のほうは王都のほうにいるはず」


 ルシアンが付け足す。


「もし、お二人がよろしければですが……。真尋様からは徹底的に洗えと言われております。もう少しだけこのまま私に力を貸していただければ、と」


「もちろん、最後まで責任を持つよ」


「ああいう下種野郎は、絶対に余罪がある。頑張りましょう」


 ピアースとルシアンが、力強く頷いてくれた。

 それに笑みを返して、充は頭を下げる。


「それでは、事件解決までどうぞ、よろしくお願いいたします」


「こちらこそよろしくお願いします」


「よろしくお願いします。ミツルさん」


 顔を上げると差し出されていた手をそれぞれ握り返して、充は二人と握手を交わし合ったのだった。






「それじゃあ、俺もそろそろ行ってくるよ」


「うっうっ、ティナに迎えに行けなくてごめんって言っておいて」


 雪乃の隣で一路がしょぼしょぼしている。

 先ほど、一路は戻ってきた。海斗と一緒にブランレトゥに行くためかと思ったのだが、真尋にグラウでの待機を命じられたらしい。事が事だけに一路も了承し、兄の見送りにだけ駆け付けたようだ。

 すでに深夜と呼ばれる時間帯で、子どもたちは夢の中だ。庭先に見送りに出てきているのは、雪乃と一路とヴァイパーだけだ。ナルキーサスは、カレンの傍についていてくれている。充はまだ帰ってきておらず、アマーリアは、声はかけたが複雑なのだろう、曖昧な返事が返ってきただけだった。


「可愛い義妹は、ちゃーんと兄ちゃんがここに送り届けてやるから」


「ティナに絶対に余計なこと言わないでよね」


「はいはい」


 軽い調子で頷く兄に、一路が疑惑の目を向けている。

 海斗は一度、ブランレトゥに行き、ティナと騎士団に要請した応援部隊を連れて戻ってくる予定だ。とはいっても、ここに降ろしたらすぐに発ってしまうので、見送りはここで済ませなければならない。


「大丈夫だと思うけれど、道中気を付けてね。これ、スコーンと海斗くんの好きなスープとクランペットの生地よ。スープは小鍋に入っていて、生地はボウルよ。海斗くんは自分で焼けるでしょうから、クランペットは好きな時に焼き立てを食べてね。使わない時は冷蔵庫に入れておいて」


 ヴァイパーが籠を差し出すと海斗が嬉しそうにそれを受け取った。


「thank you!」


 海斗がそれをアイテムボックスにしまうと、腕を広げたのでハグを交わして、頬に行ってらっしゃいのキスを贈り合う。


「ふふっ、どういたしまして。海斗くんも行ってらっしゃい」


「うん、行ってくるよ」


 雪乃から離れると今度は一路を同じようにハグとキスを交わす。


「馬車を運ぶのがポチだから、なにも襲ってはこないと思うけど、気を付けてね」


「気を引き締めて行くよ。一路も知らない人についていったりしないようにな。甘いものをくれるからって言ってもだめだぞ?」


「兄ちゃん、僕のことミアと同い年か何かだと思ってるの?」


 至極真剣に注意してくる海斗に一路があきれ果てた視線を向けながら離れる。海斗はきょとんとしていて、一路が何にあきれているかは分からないようだ。

 とはいえ、一路は幼いころなどは可愛いあまりに変質者に声をかけられたり、さらわれそうになったり、さらわれたりした過去があるのでしょうがないのかもしれないと雪乃は苦笑をこぼす。


「何はともあれ、行ってくるよ」


「ええ。ちゃーんと連れ帰ってきてね。私からもお話があるの」


「……うん」


 うふふと微笑むと幼馴染たちが頬を引きつらせた。

 海斗が「ジーク、骨だけは拾ってやるからな」となぜか天を仰ぎ、一路が「早く行きなよ」とそんな兄をせかした。


「ヴァイパー、あとはよろし……アマーリア様」


 海斗が最初に気づいて目を丸くする。

 振り返れば、玄関からアマーリアが出てきた。すでにネグリジェ姿で、本来なら外に出てくるなんてありえない格好をしている。ヴァイパーと一路が咄嗟に顔をそらし、海斗もそっぽを向く。

 紳士的な彼らの対応に雪乃もすぐにアイテムボックスから自分のガウンを取り出してアマーリアに羽織らせる。


「アマーリア、冷えるわ」


 そういって雪乃がアマーリアの肩に何かをかけて、海斗たちはようやく顔を元に戻す。

 ガウンの襟をよせながらアマーリアは緊張した面持ちで海斗を見上げている。


「あ、あの、カイト神父様」


「ん? なんだい?」


 海斗が優しい声で返事をし、その先を促す。


「夫に…………お待ちしております。無事にお戻りください、と、そう伝えて頂けますか?」


 蚊の鳴くようなか細い声でアマーリアが告げる。あまりに心もとないその姿に雪乃は彼女の細い肩を抱き、腕に手を添える。腕に添えた手にアマーリアの手が重ねられた。

 海斗は、青に緑の混じる瞳を優しく細めると「もちろん」と頷いた。


「必ずジークに伝えるよ」


「あ、ありがとうございます……っ」


 アマーリアがほっとしたように眉を下げて笑った。

 雪乃は、よかったわね、と声をかけ、そして、海斗を見上げる。


「海斗くん、私からの伝言もお願いできるかしら? あとでアーテル語に訳してね」


「え、うん」


「『帰ってこないで逃げ続けるならご自由に。空いた席には夫を座らせますし、領地の繁栄とアマーリアと子どもたちの安全だけはお約束します。領主を続けたいなら、三日以内に帰ってらしてね』って」


 日本語を理解している海斗と一路が盛大に頬を引きつらせた。


Certainly(承知しました)


 海斗が遠い目をして頷いた。


「が、頑張れ、兄ちゃん」


「thank you」


 よろよろと海斗が馬車の中に乗り込んで、ドアを閉める。

 屋根の上で寝ていたポチがあくびをしながら起きて、むくむくと大きくなり、馬車を抱えると、星のまたたく空へと翼を広げて飛び立つ。真っ黒なドラゴンは、あっという間に見えなくなってしまった。


「さあ、アマーリア。戻りましょう」


「ええ。……ユキノは夫になんて伝言を?」


 アマーリアが首を傾げる。


「早く帰ってきて私の親友を笑顔にしてねって伝えたのよ。うふふ、本人に言うと恥ずかしいわね」


 頬にぱたぱたと仰ぐとアマーリアは、子どもみたいに嬉しそうに笑って雪乃の腕を取る。アマーリアと腕を組んだまま家の中に入る。その背にアイリス、ヴァイパー、一路と続き、ヴァイパーが玄関を施錠する。


「何があっても私はアマーリアの味方よ。もちろん夫も、私の子どもたちもね」


「ありがとう、ユキノ。とっても心強いですわ」


 少女のようなアマーリアの笑顔に雪乃も柔らかな笑みを返すのだった。



ここまで読んで下さって、ありがとうございます。

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明日も更新予定です!


次のお話も楽しんで頂けますと、幸いです。

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