第二話 どうしよう
スマイルは滝のような汗をかきながら、ようやく一泊した町に着く事が出来た。途中何度も背負った餓鬼を捨てようかと思ったか分からない。臭ぇーしな。犬だ。犬。
風呂屋にでも放り込んでやろうかと思ったが、こんな汚物を浴場に突っ込んだら、出禁を食らう。それくらいこいつは汚い。
貧乏だから風呂付の宿なんかには泊まる事は出来ない。カツカツなのだ。
今すぐ野たれ死ぬわけじゃないが、ケチだからあまり金を使いたくない。
スマイルはその辺の雑貨屋で石鹸とぼろ布を買った。これだけでもスマイルにとっては大出費だ。それとシャツと下着とズボン。大損だ。こりゃ、今月も命を賭ける事になりそうだ。
町のはずれに川があった覚えがあるので、通行人の奇異の視線を浴びながら突き進んだ。歩くたびに餓鬼を拘束している手錠がガチャガチャ鳴るもんだから、どうしても注目を集めてしまう。ガキンチョを拘束して運んでいるのだ。どうみてもおかしい。
レスレツィオーネの街だったら、即効絡まれていただろう。平和な町でよかった。
少し歩いていると、川が見えた。
川には結構な人数の人がいた。
まだ昼辺りだから、洗濯をしている人がいる。
スマイルもその中に混じった。
餓鬼を下ろす。スマイルは餓鬼の頬を何回もビンタした。
「おい、起きろ。死んでるなら捨てるぞ」
数秒反応が無かったから、あれ、マジで死んだ? とか思ったけど、安心した。いや、安心はしてねーよ? ゆっくりだけど、目を覚ました。面倒事は続行のようだ。
「あ、ありがとう……」
起き抜けにそう言われて、スマイルは若干ひるんだ。気を取り直した。気おくれしている場合じゃない。
「お前臭ぇーんだよ。体洗うからさっさと脱げ」
「……む、り」
餓鬼は首を横に振った。「はあ? なんで」
「ぬげ、ない……」
「あ? そりゃ、手伝って――」
そこまで言って、気付いた。
餓鬼は両手足を何個もの手錠で拘束されている。見る限り手錠は年季が入っているし、来ている服も相当なものだ。
よく考えたら、拘束されながら服を脱ぐなんてことは出来ない。
それで、何がおかしい? いや、おかしい。
「……お前、その服いつから着てる」
「ず、っと」
言葉に詰まった。スラム街の餓鬼どもですら、服をずっと着ているなんてことはしていない。ボロボロでも何着か持っている者じゃないのか。仮に一着でも洗っているはずだ。こいつのは洗っていない。
汚れている。赤黒く。赤黒い……? これ、血じゃないのか。古いのもある。比較的新しいのもあるようだ。そういう柄かと思ったが、よく見れば違う。こんな悪趣味なもの着る訳が無い。これは、返り血だ。
……落ち着け。相手は餓鬼だ。びびんな。
「ま、まあいい」
駄目だ。ビビってる。声の震えを抑えるので精一杯だ。スマイルは一呼吸置いた。
「手錠は外せんのか?」
「む、むり……」
餓鬼は首を横に振った。
「だよな……」
外せるなら手錠の意味が無い。
スマイルは携行していたナイフで餓鬼の服を切り裂いた。
「あ、えあ、うぉ……?」
餓鬼は目を白黒させて狼狽えた。
スマイルは構わず粗末なズボンもそのまま切り裂く。
間もなく餓鬼は素っ裸になった。
「女か」
「ひぁ……!」
餓鬼は一丁前に体を隠した。
「貧相な体なんかに興味ねーよ。自分で洗うか?」
スマイルは石鹸と布きれを差し出した。
「む、むり……」
餓鬼は俯いてそう言った。
「そればっかだな」
「ご、ごめんなさい」
「前は自分で洗え。できるな」
餓鬼は頷いた。
「背中を洗うから、お前は頭でも洗ってろ」
「……ん」
微かに返事だけ残して、ガキは背中を向けた。意外に従順だ。正直内心、ビビりまくっていた。何かの逆鱗に触れて、殺されるのではないかとハラハラしていたのだ。
餓鬼の背中をごりごり削り取る勢いで洗いながら、切り裂いた服を見た。
真っ黒に変色した血の色だ。酸化の度合いが異なって、グラデーション模様になっている。滅茶苦茶悪趣味な服だ。
こいつがやったのか……? いやいや、よく考えても見ろ。あり得なくね? こんな餓鬼が。
「でもなあ……」
レスレツィオーネの住民の規格外さを見ている者としては、外見に惑わされるのは愚者のすることだ。
ある人種は齢100に近いくせに、十代に見えるという訳の分からない事になっていることもある。
まったく目の前の餓鬼が見た目通りの年齢という保証は、まったくないのだ。
「あ、あの、お尻……」
「あ? うっせーな。黙って洗われてろ」
「ご、ごめんなさい」
これが歳食ったババア? ねーな。ねーよ。レスレツィオーネのその手の奴らは、海千山千の連中だ。スマイルにこんな態度を取られた瞬間、細切れにされていたって不思議じゃない。普通じゃない連中は、度を越して忍耐というものに欠けている。こいつはただの子供だ。びびることはない。
じゃあ、あの服の返り血は何なんだ。
「しっかし、汚ねーな。水真っ黒じゃねーか」
「うぁ……」
こすってもこすっても汚れが出てくる。垢がどうとかいうものじゃない。家畜だってもう少し小奇麗というものだ。
餓鬼は恥ずかしがっているのか、髪を洗う手を荒らげて聞こえないふりをしている。
汚れすぎていてまったく泡立たない。
どす黒い汚泥ともいえる水が餓鬼の肌を滴る。
ぐろろろろろごぎょどろお……。
スマイルは少しばかりびっくりしたが、ガキの驚きようはスマイルの比では無いようだった。
腹が鳴ったようだ。
拘束された両手でごすっごすっと腹を強打している。だが弱々しい。まったくエネルギーが無い。
「飯くらいやる。腹減ってんのは恥ずかしい事じゃねえ。さっさと洗え。殺すぞ」
餓鬼は鳴り響く腹の虫を無視した。すぐに頭を洗い始めた。
「おら石鹸」
「ん」
そこから三十分ほどかけ、買った石鹸はすっかりなくなってしまった。
体はそこそこマシに見えるが、髪の毛が酷い。ごわごわでキシキシしている。指どおりが悪い。さっきまでのホコリと垢で整髪料のように固まっていた髪の毛よりは、百万倍はマシだ。
しかし、困った事がある。
「……服」
「ああ!?」
「ひぁ……。ご、ごめんなさい」
凄んでみた。
怒っている訳では無い。困っているのだ。
なにしろスマイルには学がない。全くと言っていいほどない。なので、手足を拘束された餓鬼に、普通のシャツとズボンを買ってしまうほどには愚かだ。シャツはおろか、ズボンすら穿く事が出来ない。もちろん、パンツもだ。
餓鬼は一応女にカテゴライズされているようなので、これまた一応恥じらいというものもあるらしい。体は洗い終わったのに、川の中に沈んで、その肢体を見られない様にしている。
スマイルは考える事を放棄して、手荷物の中から食料を取り出した。
パンと干し肉を持ってきていたので、半分餓鬼に与えた。
「おら、食え」
「ん」
餓鬼は川の中でそのまま食うようだ。
スマイルはぽけっとしながら、餓鬼を見た。
年頃は、よくて十歳。餓鬼の中の餓鬼。使いようが無い。売る? まさか。そんなことしたら、クソ店長が黙っていない。殺される。その前に怪しい餓鬼をどこが買ってくれるというのか。
体も洗ってやったし、一時しのぎの飯も与えた。義理というか、ここまでやれば良心の呵責に襲われる事も無い。スマイルがこの餓鬼に恩義を感じて助けた訳ではない。ただ拾いものが汚れていたので、ちょっと洗っただけだ。そうしたら、別にいらないと思ったので、放置するだけだ。スマイルは何も見ていない。忘れた。帰ろう。
スマイルは立ち上がって、そのまま歩き出した。
「うぇ? おっ、ま、待って」
餓鬼は素っ裸のままスマイルを追いかけはじめた。
「こっちくんな。あとは勝手にしろ」
「ま、ど、あ、あ、か、勝手……?」
言葉に不自由な奴だ。
「そう。勝手。自由。フリーダム。生きるも死ぬもお前の勝手。お前の人生をぼくが介入できない。というか、関わりたくない。バイ」
だというなら、最初から関わらなければよかったのだ。スマイルは矛盾している。
スマイルは歩き出した。
餓鬼も歩き始めた。
周りがざわついている。
素っ裸の童女がスマイルの後をつけている。流石にマズイか……?
「おい、どっか行け。付いてくんな」
「え、ど、ど……」
「分かったな!」
「え、いや……」
スマイルは歩き出した。
餓鬼は付いて来る。
「こっちくんなって」
「え、いや……」
「いや? なに? いやって嫌ってこと?」
餓鬼は首をかしげ、「たぶん……」とのたまった。
「どっかいけ」
「いや」
餓鬼は首を振る。
「ふざけ――」
んな、とまで言葉を続けようとしたが、なにぶん裸の女を叱りつけているこの図は、あまりよくない。洗濯をしていた歳食ったババア共が騒ぎ始めている。自警団でも呼ばれたらたまらない。別に悪い事はしていない。けど、さっさと帰りたいし。
スマイルは買った衣服を餓鬼に投げつけた。
「早くそれ着ろ」
餓鬼は地面に落ちたそれらを拾い上げると「着れない」と言いながら、スマイルに近づてきた。
そうだった。着れないから渡さなかったのだった。阿呆だな。
「じゃあ巻きつけろ」
餓鬼はどうにか巻こうとしたのだが、どうにもできない。
「巻けない……」
「世話のかかる餓鬼だな……!」
餓鬼の服をぶんどって、適当に巻きつけた。腹も肩も丸見え、太ももから下もコンニチワにしている破廉恥女の完成だった。
レスレツィオーネの街だったら、ロリータコンプレックスの変態に即拉致監禁されて、力の限り犯されること間違いない。手足拘束されてるけど。
拾ってしまったこのガキンチョ。
「どうすんの、これ……」