第一話 スマイルと餓鬼
スマイルは疲れている。とても疲れている。それは言い過ぎか。普通に疲れている。
なにしろ昨日から喫茶店の仕入れで、珈琲豆の仕入れに来ている。豆くらいだったらあのくそったれな町でも買える。けど、あの町はやたらとなんでもかんでも値が張る。あそこで金を払っていたら、今月も赤字になってしまって、クソ店長と一緒に命を賭けて金を稼がなければならない。
クソクソクソクソクソ店長め。てめーのせいだ。なにが喫茶店だ。アホか。まったく儲かってねーから。死ね。
なにが「おう、頼んだ。オレは寝る」だよ。死ね。死に腐れ。てめーが仕入れに行け。豆持って帰るだけですげー疲れるんだよ。
けど、言えない。立場的にはスマイルはあの店長に雇ってもらっている身だ。給料は雀の涙だが。それでもあの町で生きて行けているだけマシというものだ。少し前までは物乞い同様の生活をしていたのだ。恩義というのは自分自身を縛ってしまうのだと、スマイルは短い人生で学習した。
そうやって、不満を抱えながらも豆ジイ――珈琲豆を作っている偏屈ジジイ――の農場に出向いた。何を買うにも金が要る。もちろんスマイルも金を持ってきて、豆を買うのだが、豆ジイはしこたま煙草を持っていかないといけない。土産が無いとこいつは一粒として豆を売らない。しかも煙草限定だ。
娯楽もひとそれぞれだが、やはり麻薬は値が張る。
煙草をただ同然で渡して、豆を買う。
これって収支として釣り合っているのか疑わしいが、豆ジイのコーヒー豆はおいしいから仕方がない。
背負い袋一杯に煙草を入れて豆ジイを訪れ、「……豆くれ」というと、豆ジイは「煙草ォオオオ!!」とスマイルに飛びついて袋を奪い取った。野盗のそれだ。
そんなこんなで、二日かけて豆ジイの元を訪れ、買えるだけ豆を買うおつかいをすませて、さっさと帰っていたのだ。
豆ジイの農場に行くときにひとつ町を経由する。そこで一泊してから、少し歩くと農場がある。
スマイルは農場と町の間の道をひたすら歩いている。えっちらおっちら歩いている。
そう。だから歩くのに必死なので、周りなんてあまり見ていない。なにしろ重いので集中していないと、なにかとあれでしょ? 面倒だよね。なんつーか、あれ。面倒事には関わらないようにするためには、他の事に集中している風にして、「あ、ごめーん気づかなかったよ」という感じを出せば、相手も納得する。するか?
頭の中がごちゃごちゃしている。集中してない。さっきまで何も考えず歩いていた。歩く事に集中していたから、他の事を考える余裕がなかった。でも、今は違う。
スマイルは今朝の事を思い出していた。
この道を着たときは、ホントなんもねーなとか思っていたのを覚えている。つまり、豆ジイの農場に行くまでは、何も転がってなかった。
なにか、転がっている……。
「なに、あれ」
スマイルは目をすぼめて、それを眺めた。とはいっても、まだ三十メートルくらいは離れているから、意味のない行動かもしれない。
道はそこまで広くないし、見渡す限りの田園地帯だ。ちょっと言い過ぎたけど、田んぼとか畑が広がっていて、とても視界が広くて気分が良い場所だ。
正直言えば、スマイルはなんとなくあれんじゃないかな、という予想がある。それが当たっていると、とても困る。
こうして考えている間にもスマイルは歩いている。あと二十メートル……十メートル。
「ああ……」
スマイルは面倒事を悟った。
人だ。人が転がっている。転がっている……? いや、倒れている。
小さい。子供だ。髪の毛は短い。でも男にしては長い。女……? 服装が粗末だ。スマイルの住む町――レスレツィオーネに住んでいる貧困街の餓鬼に似ている。有体に言ってみすぼらしい。うつ伏せだから顔が見えない。そんなことどうでも良くね……? 顔とか、どうでもさ。
問題は、こいつをどうするかってことじゃない?
スマイルは周りを見渡す。
そよ風に農作物が揺れているだけで、誰もいない。
どこの誰だ。この辺に住んでいるのか? それならそれでいい。放っておく。でも、おかし過ぎるだろ。服だけは粗末だ。見慣れていると言っても良い。もはや穴が開き過ぎて服と言っていいのか疑わしいほどだ。ボロ雑巾を着ている。
おかしいのは手足だ。
スマイルは物珍しさでその子供に近づいて、しゃがんでよく観察した。
「……やっぱ、手錠、だよね」
こいつは、拘束されている。
手錠で。手だけじゃない。足も。がっちり。それもひとつじゃない。手も、足も複数の手錠でガチガチに拘束されている。
どう考えてもやばい。レスレツィオーネには変態が大勢いるので、自分を自分で縛っている奴も珍しくない。だけど、子供がそういう事をしているのは見かけない。
あからさまに、やばい案件だ。
「逃げるが勝ちってね――」
君子危うきに近寄らず。その言葉が浮かんで、スマイルがその場から去ろうとした瞬間――
「んぁ……」
起き抜けに拘束餓鬼がスマイルの足を掴んだ。
スマイルはその手を振りほどいて、ずんずん進んだ。
「ぼくは悪くないって……。仕方なくね? 何が出来るって言うんだよ。豆ジイとか、いるし。何とかする……よね?」
スマイルは十メートルくらい進んで、止まった。振り返った。
こっちを見ている。何か言っているようだが、まったく聞こえない。
髪はぼさぼさで、肌は黒ずんでいて、まったく風呂に入った様子もないような餓鬼だ。男か、女かも分からない。
ここで見捨てたって、全然いいはずだ。関わったらヤバい。あの町で過ごしてきた勘がそう言っている。関わるだけ損する奴だ。あれは。逃げた方が良い。良心がとがめる事も無い。
……ホントに?
死なれたら、どう思う。誰か、あいつを助けるのか。助けなかったら、次に仕入れに来たときにあいつの死体を見る事になるかもしれない。
その時蠅がたかっているか、どろどろに腐って、腐臭をまき散らし、白骨化でもしているのか。
そのざまになるまで、あいつは誰にも助けてもらえない。
確信できる。
スマイルだって助けたくない。助けるとかじゃなくても、かかわりたくない。
十中八九、あいつは死ぬ。
スマイルは十秒程度、目を瞑った。
「……邪魔になったら捨ててやるからな」
それがあの町の流儀だ。
善意で動いているわけじゃない。見返りがあるはずだ。そのはずだ。そうじゃなけりゃ、やってられない。
スマイルは拘束餓鬼に近づいた。
さっきは気づかなかったけど、かなり臭い。獣……?
「おい、立てるか」
拘束餓鬼はかすかに首を横に振った。
スマイルは背負っていた豆袋を腹側に回して、背中を開けた。
「……あ、あり――」
拘束餓鬼はそれだけ言って、目を瞑った。
「……クソ店長が。てめーのせいだ。こんなことするのはよぉ」
スマイルは手錠で餓鬼の拘束されてできた両腕の輪っかを首に通して、そのまま荷物のように背負いあげた。
昔のスマイルならこんなことは絶対しなかった。
断言できる。
「甘ぇ」