本能である。
お風呂上りで濡れた髪のままリビングに出た。
そこには楓はおらず、梓だけがいた。
「あーおかえり。楓今勉強中だから」
「はい、わかりました。……あの……今まですみません」
なんのこと? そんな顔で見つめてこられた。
たしかになにが、という大切な言葉が抜けていることに気付く。
これでは私がクラスのやつらと同等になってしまう……。
「今までいろいろあって、無視してしまって」
「そのことね、いーよ別に。俺もうざかったなーって思うし」
「いえ、私が勝手に。人間恐怖症、治ってないんです……」
「人間恐怖症……だったの?」
戸惑ったように聞く。
この人になら、私の過去や人間恐怖症のことを話しても良いのではないか。
この人には、話しておいたほうが良いのではないか。
そんな思いが湧いてきて、幼い頃誘拐されて人間恐怖症になり、そのときにモデルやアイドルになりたいという夢を諦めたこともすべて話した。
こんな重い話なのに、彼は私に落ち着いてと言わんばかりの穏やかな表情で真摯に言葉一つ一つを受け止めてくれていた。
話し終わってそっと梓を見ると、ゆっくり息を吸って、
「そっか、そんな思い出したくないこと俺に話してくれてありがとう。
あのオーディション……大丈夫だったの? 無理させた?」
「いいえあのときは自分でも不思議なほど恐怖心がなくなっていました」
「じゃあ葵ちゃんにとって観客の前でパフォーマンスするっていうのは……」
なんであのときだけあんなに人間というものが怖くなかったのか、私自身今でもわからないままだ。
だがその答えをいとも簡単に梓は導き出した。
「本能的にしたいこと、なのかもね」
「え?」
「無意識のうちに人間恐怖症じゃなくなってるんだから、もうそれは葵ちゃんが心の奥底でずっとしたいと願っていたことなんだと思うよ。
簡潔に言うと……天職、みたいなものってこと」
「天……しょ、く……?」
頬杖をついてあのパフォーマンスをしていたときの喜び、嬉しさ、楽しさ、快感を思い出していた。
たしかに気付かないまま動いて観客を魅せようと思っていたときはあったし、深く考えずに体が勝手に動いてしまう、そんな状態だった。
これは人とコミニュケーションを取ることが苦手な私にしてはおかしいことだとは自分でも思っている。
梓の言っていることを信じるならば、その瞬間だけ別人格が生まれ、自分のやりたいことを全力で楽しんでいるということだ。
「そうかも、しれません。
小さい頃に芸能事務所をやめたことを思い出そうとすると、頭が痛くなってしまって、実はそのときの想いははっきりとしないんです。
勝手に昔の自分が傷つくのを防ごうとしているのかもしれませんね」
「うん、そういうことだよ。
まああんまり深く考えすぎないで。自分の中にある本心を大切にね」
やっぱりこういうアドバイスを聞いていると、彼の明晰さがうかがえる。
さらに私がいきなりのことにパニックにならないようにゆっくり、落ち着いて話しているのは彼の優しさそのものだろう。
「次の本選、優勝すれば芸能界入りだから、葵ちゃんのずっとやりたかった夢を叶えちゃおう?」
「はい、梓さんも頑張りましょうね!」
「おう、しちゃおうぜ優勝!」
そのときに おー! と叫んで交わしたハイタッチ。
梓の手も熱かったが、きっと私も同じくらいの熱を持っているだろう。
これは風邪のせいじゃない。
たぶん……二人の優勝への思いの熱さ、だと思うんです。
ハイタッチを交わした途端、楓がリビングに入ってきた。
タイミング的に見ていた可能性もある。
「2人の思いの熱さは私にも伝わったよ!
私もちょっとの力にしかなれないけど、スタイリストとしても、メイクとしても、マネージャーとしても頑張って二人を優勝に押し上げるからね!」
ウィンクされて、三人同時に笑う。
帰る支度をして、二人に見送られて猪瀬家を出た。
楓は体調に関してすごく心配してくれたが、もうすっかり元気になっていた。
これ家で食べてとチーズケーキと生姜焼きの冷凍したパックを渡された。
チーズケーキはおばさん、生姜焼きは楓の手作りだという。
「では、ありがとうございました!」
「気を付けてね、また打ち合わせで呼ぶと思うけどよろしく!」
「じゃあな、さみしくなったら俺を呼べよ!」
「いやまああんたは呼ばないと思うけどね……」
「なんだと!?」
楓がぼそっと言った言葉に鋭く反応する。
扉が閉まり切る寸前に振り返ってみたが、玄関にはまだ取っ組み合って言い争う姉弟の姿があった。
こんな日々がずっと続く……そう思っていた私がいた。
いつからこんなに人に甘える人間になってしまったのだろうか。
このときにそんなことを思ってしまわなければ、この後の心の穴はかなり小さくて済むかもしれなかった。
やっぱり、甘えは嫌い。
私は一人で生きていったほうが良い……。




