勇気である。
お互いの息がかかりそうなほどの距離で梓は怪しげな笑みを浮かべている。
ここは人がほとんど通らない廊下。
助けを求めようとしても誰もいない。
「なんで昨日帰ったの? 別に嫌だったんなら誘わないからさ」
「決して梓さんの家が嫌だったとかそういうことではなく……私が嫌だ」
「なに、最後聞き取れなかった」
「なんでもないです、とりあえず今は言いたくありません、もう私なんかに関わらないでください」
冷たくそう言い放ち、逃げられない分顔だけでも逃げる。
彼がこちらをじっと見ているのは気付いているが、私は横を向く。
ふくれっ面で横を向く私の頬にいきなり梓の手が伸ばされた。
がしっと両手で掴まれた顔はぐいっと梓のほうに向かされる。
その間肩にあった手はなくなっていたが、そんなことに気が付かなかった。
「それ、禁止」
それまでの笑みはどこへ行ったのか、まっすぐな瞳で見つめられる。
口調は厳しくなり、なぜか怒られているような感じ。
「その『私なんか』っていうの禁止。俺が許さない」
「でも実際友達もいないし私なんて……」
「そんな『私なんか』を好きになったやつがここにいんだよ!」
本当に私なんて、いなくても誰も気付かないし構わない。
私なんかがみんなに笑顔を向けたところで良い気分になる人はいないし、私なんかに関わろうとしてくれる人もいない。
だからついくせになっちゃってたのかもしれない……私なんか、って。
でもはっきり正面から好きになったなんて言葉をかけられたらそんな考えも少し崩れてしまう。
ただのお世辞だって分かってはいるけれど、私が自分のことをいらないと思っていることを見透かされたかのように必要だと言ってくれる。
私もここにいて良いんだ、一人はいて良いって思っている人がいるから。
そんな勇気を与えてくれた。
「うん……ごめん……」
うつむいて謝った私。
だが梓はなぜかぱあぁっと嬉しそうな顔をして、今回は良い笑みを見せた。
怪訝な顔をすると、
「今俺にため口使ってくれたでしょ!?
それってさ……無意識のうちに葵ちゃんが俺のこと友達だ、って、心を開いても良いんだ、って思ったっていうことじゃないの?」
「違います、そういうのが嫌なんです」
「昨日のこと? 聞かせて、お願い。
葵ちゃんが本当に嫌なことはしたくないし」
つい昨日のことをうっすらと話してしまった自分に苛立った。
ここまで来たら言うしかない。
言わないとずっとこのままで授業にも出させてもらえなそうだ。
「昨日、梓さんは私にあなたの友達観を押し付けてきました。
そんなの人それぞれで正解はなくて……なのに強要されて。
あなたに関わってもあなたに色々なことを強要されるんだ、そう思ったらあの場にいるのが嫌になって」
正直に帰ろうと決めた理由を話す。
だが本当は私は隠し事をしている。
本当の理由は人の温もりに慣れてしまうからでもある。
これを言ったらまた彼の優しさに甘えてしまう。
なので今はとりあえず言わないでおこう、そう決めたのだ。
「え、それだけなの、本当に? 隠し事していない?」
梓は予想以上に鋭く、隠し事しているのではないかと疑ってきた。
私は平気な顔をして首を横に振ると、まあ良いやと引き下がってくれた。
「その件についてはごめん、俺が勝手に葵ちゃんに考え押し付けちゃって。
もう絶対しない。葵ちゃんのペースに口出ししない。約束する」
「はい、お願いします」
その真摯な姿勢に、つい簡単に許してしまう。
確かに彼の言う通り、私って単純なのかもしれない。
「だからこれからは俺のこと無視しないでよ。
んで、またうちに来てゆっくり話そう?」
「いえ、それは嫌です。すみません。
これから梓さんから距離を置きたいんです」
「……え?」
その梓のショックそうで空っぽになったような表情は私の心にちくんとハリを刺してきたがなぜかはわからない。
どうしてか聞いてくる梓を無視し、私は教室に向かって進み出した。




