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坂の向こうに

ある暑い夏の午後 ひょんなことから出会い始まった 青年と老婦人の交流とそれをとりまく人々の物語。

自分はごくごく普通のことをしただけなのだが そのおばあさんにすると 本当に心からありがたかったらしい。

このくそ暑い日中 熱中症にでもなりかけたのでは?と誰もが思ってしまうくらい おばあさんはヨロヨロとしながら 買った物でパンパンに膨れ上がった見るからに重たそうな荷物を そのしわしわで筋張った細い腕で持ち もう片方の同じく細い腕には古ぼけた薄紫の日傘をさして ゆっくりゆっくり横断歩道を渡っている最中だった。

丸まった背中のせいで 小さな体が余計に小さく見えた。

自分は本当は そのおばあさんとは行く方向が違ったけれど 点滅し始めた信号と まだ横断歩道の真ん中辺りを 牛歩戦術が如く歩くおばあさんが気になって気になって お節介かとも思ったが それより先に体が動いてしまったのだ。

一番驚いたのはむしろ自分だった。

走っておばあさんに駆け寄り 声をかけ 荷物を持ち 屈んでおばあさんをおんぶ。

そして 素早く走っておばあさんが渡ろうとした 反対側まで急いだ。

渡り切って間もなく 後ろで車の音が聞こえた。

振り返りこそしなかったが 信号が変わったのがそれらの気配でわかった。

安全地帯に着いたので 背中のおばあさんをゆっくり降ろし 荷物と日傘を手渡すと 「…じゃっ…気をつけて帰って下さい。」なんて 柄にもなく親切な台詞が自分から自然と発せられたのに 驚いた。

おばあさんと別れ 歩き始めながら さっきの行動を自分なりに反すう。

「…あれっ?…あの時…おばあさんになんて声かけたんだっけ?」

はて?と首を傾げていると 背中の遠くから「…ちょっと…あのーーーー…ちょっと…そこの方---…」と 誰かを呼んでいる声がした。

その声をさほど気にもとめずに歩いていると 後ろから自転車のでっぷりしたおばさんがやってきて 「…ちょ

っと!そこのあんた!」「…????えっ?????」と自分を自分で指差すジェスチャーで返すと 「そう!!あんた!!…後ろのおばあちゃん…あんたのこと呼んでるよ!…早く行ってやんな!…」 そう言い放ち おばさんはスイーッと自転車で行ってしまった。

…はて?呼んでる?何だろう?なんかまずかった?

自分はおばあさんを助けただけだ。

が もしかするとその行為は おばあさんからすると余計なお世話だったのかもしれない。

それともおぶって渡ったはいいけれど そのせいでどっか痛くしたのだろうか?

さっきの汗だってひいていないのに おばあさんの方へと戻る中 今度は違う種類の汗がどっぷり全身から流れ


るのを感じた。

「…あのーーーー…さっきは…すみませんでした。…勝手なことしちゃって…」

とりあえず 精一杯謝った。

それがいいと思ったから 妙な芝居がかった形ではなく きちんと自然体で謝れた。

「…いえ…どうぞ…謝らないで下さいな…」

おばあさんの声はとても優しく 耳心地がよかった。

「…先ほどは本当にありがとうございました。…暑いし 荷物もいっぱいになっちゃって…本当に助かりました。ありがとうね。あのままだったら 車に引かれちゃってたわねえ。…おほほほほ」

本当にそうなっていたら 笑い事では済まされなかった。と思った。

それと同時に この小さな老婦人が自分のことを怒って呼び止めた訳じゃなかったので 安心し お礼を言われて照れ臭かった。

自分は善人じゃないけれど かといって悪人の部類に入る訳でもなく ごくごく普通程度の道徳を心得ただけの 一般人。お礼を言われたくて助けた訳でもなく あの状況なら誰だって自然と体が動くはず。

おんぶまで出来ないにしろ 小さな子供だって「助けなくちゃ」と思って当然だと思った。

おばあさんはニコニコ優しい笑顔で 自分を真っすぐに見つめてきた。

だから 余計に照れ臭く お礼も言われたことだし もうその場を離れたかった。

が 横断歩道を渡っただけの中途半端な手助けだったので 急ぐ用事もないことだし おばあさんがあの荷物を持って ここからどれぐらいのところにあるかわからない彼女の家まで行くのも大変だろうから きちんと送り届けようと思い立った。

おばあさんは他に何か言おうとしていたようだが 「…よかったら家まで送りましょう!…さっ…背中に…」 そう告げ 半ば強引におんぶした。

「悪いわねえ…ありがとうね。」

背中のおばあさんはとても軽かった。

誘導してもらい おばあさんの家へ向かう道中は 自分だって長年住んでいる街のはずなのに まるで初めて来た違う街の様だった。

「…この街にこんなところ…あったんだあ…」

夏も終わりに近づいたからか 夕暮れが早い気がした。

空が黄色見がかってくる頃 綺麗に刈り込んだ生け垣から続く カーブした道の先に ようやく家が見えてきた。

背中におぶっている このおばあさんの家がこれほどまでに大きくて立派で 自分は大変な人を助けてしまったのでは?と ドキドキしてきた。

到着するだいぶ前からだんだんと実物大に見えた家は 信じられないほど立派な洋館だった。

そういえば おぶって歩いてきた生け垣からの道が 途中枝分かれしており その先には体育館の様な 大きな 多分車庫があったし どこまで続いているかわからない庭は綺麗に手入れされ 木が動物の形になっていたり それはそれは見事な庭だった。


大きな洋館の玄関前はロータリー上に丸く アスファルトで整備されていた。

こんなお屋敷なんて 映画やドラマで見たことがあるぐらいで 実際の民家にこのような形は初めてだった。

「…どうもありがとうございました。…どうぞ家にあがってって下さいな。…何たってあたしの命の恩人なのですから…ねっ…少しならいいでしょう?どうぞ お願いしますよ…この年寄りのわがままを聞いて下さいまし…」

小さな老婦人のすがるような目と 細くて筋張った両腕に掴まれると とてもじゃないけど勝てなかった。

広い三段ほどの階段を上ると 大きな観音開きの扉があり その戸の丁度目線辺りには 見事なライオンのノックする装飾があった。

大きくて立派で重たそうな扉は 思いのほか軽く 小さな老婦人は馴れた様子で鍵を開け 自分を中に招き入れてくれた。

空の黄色にオレンジ色が混じり 風がサワサワと少しばかり涼しくなっていた。

「…どうぞ…今…何か冷たい物でもお持ちしますねえ…それにしても…今日も暑かったわねえ…」

老婦人の声がだんだんと小さく聞こえていった。

まだ 玄関の広いエントランスで ただただぼーっと立ち尽くし 子供みたいにキョロキョロ 部屋を見回し 「…はいーーーー…」と返事をしたものの 心ここにあらず状態だった。


「…どうぞーーーー…こっちですよーーーー…」

ハッと我に帰ったようになり 慌てて老婦人が向かった方へ キョロキョロしながらゆっくり行くと そこにニコニコ優しい笑顔の老婦人が待っていてくれた。

「…ごめんなさいね…丁度今お手伝いさんがお休みなもんで…」

聞くと 住み込みのお手伝いさんは 実家のお母さんが足を骨折 入院してしまったそうで 家に残されたお父さんのご飯支度やら 家のこと一切などで しばらく戻れないらしかった。

キッチンの丸いテーブルで 老婦人が用意してくれた冷たい紅茶と 干し葡萄が入ったパウンドケーキをいただいた。

老婦人の名は 「八重樫八重」さん。

「…しつこくて 漫画みたいでしょ…お嫁に来てから気がついたのよ。…あたしも主人もマヌケでしょう…うふふふふ…まさか自分が八重樫さんに嫁ぐなんてねえ…」

きっと自己紹介する際 いつもそういう風に言っているのだろうなあ。と思った。

「…ところで…まだお名前を伺っていなかったわねえ…ごめんなさい…差し支えなければ 教えてくださるかしら…」

そうだった。

八重さんをあの交差点からおぶって 約30分も話しながら来たというのに まだお互い名乗っていなかったのが 今更ながら不思議だった。

「…ああ…そうでした…失礼しました…あの~…自分は…いえ…僕は坂巻です…坂巻で…下の名前は…恥ずかしいんですが…ユリシウス…と言います…変ですよねェ…日本人なのに…ユリシウスなんて…アハハ…どうぞ八重さんも笑ってやって下さいよ!…」

幼い頃から名乗るのほど恥ずかしい行為はなかった。

変な名前のせいでよくからかわれたり いじめられこそしなかったが 不思議がられたりしたものだ。

両親がどうしてそんな名前をつけたのか 激しく問いただしたこともあったが うまいことかわされ 結局未だによくわからないままだが そのことで両親と要らぬ波風を立てるのが辛かったり めんどくさかったり。

だから 今 その話題には誰も触れようとしない。

それでもいい。と 大人になってからは思える様になった。

変な名前をつけられたからといって 両親の自分に対する愛情などが薄れた訳でもなく また自分もそのことで両親を怨んだりするのも もうやめた。

「…そうだ…これ…」

おぶって来た八重さんの荷物と古ぼけた薄紫の日傘を どこに置いたら?という風に尋ねた。

「…ああ…荷物は…キッチンにでも置いてくださるかしら…日傘は…ありがとうね。」

その様子で八重さんの日傘が 八重さんにとってとても思い出深く 大事な物だとわかった。

聞くと八重さんは90歳だという。

その割には元気ではつらつとし どこか上品さを兼ね備えた 小綺麗なおばあさんだと思った。

生まれ育った 実家は貧乏で兄弟も多く なかなかしんどい生活だったが 家族みんなが助け合い 八重さんが憧れた「歌手」になる夢も きちんと応援してくれたそうだ。

当時はそんな夢を馬鹿にする。というか 地に足をつけた生活ではないと 非難する人も多かったらしい。

河原で小さな弟や妹の世話をしながら 一生懸命歌の練習に励んだりしたそうだ。

ある日 お使いで街に行った際 たまたま見かけた電柱の貼紙広告の「歌い手募集」をきっかけに ちゃんとしたステージ歌手になれ 綺麗なドレスを着せてもらい 一生懸命歌い 家に仕送り出来るほどになったんだそうだ。

そこにたまたま来ていたご主人が一目惚れ。

毎日毎日お店に通い その都度お花をプレゼントしてくれたそうで 彼の情熱と紳士で誠実な人柄に とうとう八重さんも負けた。というか 好きになってしまったんだそうだった。

「…という訳なのよ…って…あらっ…ごめんなさいね、長々とあたしの話ばかりしちゃったわね…本当にごめんなさいね。……ところで、ユリシウスさんのお家は?…お仕事は何なさってるのかしら?…ごめんなさいね、根掘り葉掘り聞きたいもんだから…せっかくこうして何かの縁で知り合えた訳だし…よければ教えてくださらないかしら?…」

「…ええ…そりゃそうですよね…見ず知らずの若い男が急に家に上がってるんですもんね…なんか…急に思ったんですが…八重さんと僕の出会い方とか…何となく…言いにくいんですが…浦島太郎みたいじゃないです?…あはははは…まさか…って感じですよねえ…」

急に八重さんの顔色が暗くなった。

「…ねえ…ユリシウスさん…そのまさか…だったら…どうします?…」

「…やだなあ…そんな訳…って…まさか!!」

沈黙が続いた。

その間 ユリシウスはこの家までの道中を思い出していた。

長年住んでいる街なのに 一度も来たことがなかった一角に出て この馬鹿でかいお屋敷。

まさか!!!

自分がこの老婦人と共に異世界、この老婦人の罠にでも嵌まったと言うのだろうか?

いやいやそんな現実離れの出来事が俺に降りかかる訳ない。

大丈夫。大丈夫。

そう自分に言い聞かせるも 目の前にいる小さな老婦人の存在が 急に恐ろしく感じられた。

一体どれぐらいの時間 お互い沈黙していたのだろう。

ふいに玄関ホールの時計が鳴った。

時刻は丁度6時。

そろそろ辺りも日中ほどの明るさではなかった。

切り出したのはユリシウス。

「…やっ…やだなあ八重さん…そんなに怖がらせちゃ…いやっ…ずいぶんと長居しちゃってすいませんでした。…あっ…あの…お茶ごちそうさまでした。え~と…じゃっ…あの僕…そろそろおいとましますね。…じゃあ…八重さん…もうあんまり買い物無理しないで下さいねェ。」

逃げるように慌てて玄関から 外に飛び出し 急いでこの家の敷地の生け垣まで走った。

八重さんは追いかけて来るはずもなく また道路に飛び出たところで 時間が大幅に過ぎている訳でもなかった。

一度歩いただけの道中 どうしても道に迷ってしまい 道行く人に尋ねると 自分の家からわりと近い場所だったことがわかった。

「…ただいま…」

へとへとで家に入ると 母が夕食のカレーを作りながら 「あら…おかえりーーーー…お酢買ってきてくれた?…」といつものデカイ声で聞いてきた。

急に現実に戻った様に ハッとした。

八重さんとのことで 自分が何故あそこを歩いていたのかを思い出した。

「…ごめーん…忘れてた…」

「ええーーーーっ…」

激しいリアクションの母に 今日のひょんな出来事を話した。

「…そう…あそこのお屋敷のおばあさん助けたの…ところで…そのおばあさん…一人なのかしらね…だってェ、お手伝いさん…今いないんでしょう?…旦那さんとか娘さんか息子さんでも一緒なのかしら?」

母は八重さんとお屋敷のことを知っていた。

そして 母の何気ない疑問が 僕を激しく動揺させた。


夕食のカレーは珍しくシーフードカレー。

漁師をしている母の兄から送られてきた魚介類を使った。とのことで いつもは鶏や豚肉なので 新鮮な感じだった。

今日は早めに2階の自室へ。

カーテンもしない窓から 外を眺め 日中のこと。というか 八重さんのことを思い出していた。

ドラマや映画ならこんな時 うっかり何か忘れ物をしてきたり もしくは八重さんの家の物を間違って持ってきちゃったり 何かとその後もう一度会うチャンスがあるもんだ。

が 自分はどうだろう。

母に頼まれた「お酢」を買いに行く途中だったが 特に荷物を持っていた訳でもなく ケータイも財布もちゃんとあった。

慌てて老婦人の家を飛び出してきたが やっぱり間違って何か持ってきちゃった訳でもなかった。

取りに行く用事も 返しに行く用事も何もない。

つまりはあれっきりの一期一会。

交差点で出会う前となんら変わらない生活に戻るだけ。

「…もういいじゃん!八重さんのことなんて…ただのおばあさんだったし…八重さんは八重さんでちゃんとやってるさ…なにも他人の俺が気にすることじゃないし」

口ではそう言っても あの広すぎるお屋敷で一人かもしれない 小さな老婦人のことが頭からなかなか離れなかった。

窓から日中とは違うひんやりした風が通り抜けた。

夜とはいえ 窓から見える夜空に星はあまり見えない。

外灯やよその家から漏れる明かりなどが邪魔しているせいだろう。

そういえば テレビで「宇宙から見える日本は夜中でも明るい」とやっていたっけ。

ふとそんな回想をし ぼんやりとこの2階から見える 見慣れた住宅街を目に映し 自分でもよくわからない 感情と言うにはちょっと物足りないもやもやで 寝ようとか本でも読もうか ゲームでもしようかという気にもならず こうしてただぼんやりとしているのが精一杯であり そうしていたいとも思った。

窓から車の音と一緒に 名前がわからない多分虫の鳴き声が聞こえている。

微かにテレビやラジオの音 人の声など それぞれの生活の音が急に愛おしく感じられて そうなるといっそう八重さんがあの広すぎるお屋敷で一人かもしれないのが 何とも言えない様な気になった。

こんな風にいつまでも八重さんのことばかり考えているのが まるで「恋」のようではないか?なんて 自分を客観視しては 「いやいや…そういうんじゃないってば…」 声を出して激しく頭を振って 否定した。

確かに「恋」ではない。

むしろ八重さんを下に見た形の同情というか 憐れんでいるとか可哀相という感情だった。

老人で体力もなく ヨロヨロで何も出来そうになく見えるから。

自分よりも劣っているように見えるから そんな風に 勝手に「可哀相に」と思うのだろう。

だが本当にそうだろうか?

ユリシウスはぼーっとしつつも 脳内ではあれこれ色々なことを考えていた。

今の自分には 自分よりも劣っている存在が必要ってこと何だろうか?

やだな…そんなの…だけど今の俺の状態は 無意識にそういう存在を求めているのかもしれない。

ユリシウスは今 ニート。

なりたくてなった訳じゃないけど 世間的にはそういう立場。

一人暮らしでバリバリ仕事をしていたが いつしか飯が喉を通らなくなり 滋養強壮剤に頼りっきりの生活、そのうち自分でも知らないうちに記憶が途切れ 気がつくと見知らぬ部屋で沢山のチューブが体のあちこちから出ている状態だった。

ここはどこ?

俺は一体?なんて 少々のパニックを起こしていると ノックの後から看護士さんが入ってきて ようやくここが病院で 自分は入院しているのが理解できた。

どうやら過労で 会社でぶっ倒れ そのまま救急車で搬送されたとのこと。

俺にとって 人生初の救急車だったのに 全く記憶にございません。なのが 不謹慎かもしれないが 残念で堪らなかった。

入院は案外長引き 結局その間に両親や親戚が手伝って 一人暮らしの俺のアパートをすっかり引き払ってくれたり 会社も辞めることになった。

お見舞いに来てくれた上司や同僚は 俺の退職を残念がっていたが それと同時に申し訳ないことをした。と謝罪もしてきた。

だが俺は皆がそんなに言うほど 頑張って走り続けた自覚はなかった。

むしろ「もう一丁!」と千本ノックを受ける高校球児みたいな心境だった。

まだまだ自分はこんなもんじゃない。と 自分自身を過信していた。

突っ走っていた気持ちが入院という形でストップされると 膨れ上がった自信がパンと音を立てて弾け飛んだ。

両親に付き添われ退院し実家に戻ると 自分が「負けた人」の様な気になって 体は元に戻っても 心は壊れたまんまだった。

そんな自分を両親は変わりなく接してくれた。

それが初めはとても嫌だった。

もっと負けた自分を強く責めたり 詰ったり 叱ってもらいたかった。

そうされることで 倒れた自分を許せると思った。

ケジメがつくと思った。

優しくされるのが逆に拷問の様な辛さをもたらすのを その時知った。

自分は生きていていいんだろうか?と悩んだりもした。

一見すると普段とまるで変わらず 元気そうに見えただろうが 心は治るどころか ドンドン深い谷底に落ちていった。

それでも腹は減るし トイレにも行きたくなった。

そのうち季節が移り変わり 雪解けとともに徐々に元のユリシウスに戻って行く方向になった。

何がきっかけという訳でもないが 強いていうなら時間のおかげなのかもしれない。

あの抜け殻の様な状態から まだまだ完全ではないが穏やかになった。

一人でふらりと出掛ける機会も多くなった。

そんな中の八重さんとのひょんな出会い。

ほんの1時間ほどの触れ合いが ここまで妙な尾を引いていた。

ぼんやりともやもやを抱えたまんま ただいたずらに時が過ぎていった。

もう両親を初めとする 世間一般の皆さまが寝静まった丑三つ時 ふいにケータイが鳴った。

「…ねえ…起きてる?…今から会えないかなあ…」

電話の相手は 小 中 高校と一緒だった 中東(なかひがし)まるみだった。

まるみはその名の通り 小学校時代から少し丸っこい。

けれども 決して「ブス」の仲間に入るタイプではなく 可愛らしい顔の元気で明るい女。

苗字の「中東(なかひがし)」が 「中かさ 東だったらよかったのに…ちょっと多いよねえ…長いし…」と 本人はかなり気になる様子。

その漢字から あだ名は「ちゅうとう」

全然関係ないにもかかわらず ガソリンや灯油の値段が上がると その度に心ない男子から「…お前…ちゅうとう何だからよーーー!!何とかしろや!」など言われ 傷ついたまるみを威勢がいい女子グループが囲んで守り 「…あんた達!まるみをイジメんじゃないよ!!まるみ関係ないでしょ!!ひっこめ!ぶさいくども!」と 男子と対等に喧嘩する構図が出来上がっていた。

男子に言われのないことで責められるまるみを 女子特有の正義感でやっつける。

そういう時の女性が子供ながらに 「お母さんになるからなのかなあ…」なんて 薄らぼんやりと坂巻ユリシウス少年は考えていた。

まるみとユリシウス それに新井雪と妹尾克雄は 何かにつけ一緒だった。

特にグループ交際とかそういう男女っぽい関係では全くなく 本当に純粋な幼なじみ、幼な友達。

お互いの性格や家庭の事情 デリケートなことまで 親や兄弟 姉妹よりもよく知った仲間だった。

それが良くもあり 時には鬱陶しかった。

実家に戻って静養中のユリシウスのことも 彼等はとても心配してくれ つかず離れずのベストな状態で付き合いは続いていた。

何よりまるみは昔っから 妙に勘がいい。

それゆえに首を突っ込まなくてもいい時も 心配して一緒にしなくていい辛い思いをしてくれたりと 正直頭が上がらない。

こんな夜中に電話をかけてくれたのも まるみだから偶然って訳でもないと思った。

「…いいけど…どうする?…俺んちは…もう母さん達寝ちゃってるけど…」

「…そだ…へそ公園は?あそこならユリんちとあたしんちの間だし…いいんじゃない?」

「…わかった…したらな…へそで…」

へそ公園はユリシウス達のたまり場というか 恰好の遊び場だった。

そこそこ遊具もあり ベンチの数も多く 水飲み場と一応水洗のトイレも3ヶ所ほど 小高い丘と鯉が泳ぐ大きな池もあり 違う学区の小学校の遠足の目的地や幼稚園のバス遠足の場としても人気があった。

春には桜が咲いてお花見の定番の場所で 秋には紅葉が綺麗で読書や編み物 デートでベンチが空いていないこともしばしば、地元の人達から愛されている場所なのだ。

季節ごとに駐車場に移動販売がいるので こ腹が空くとタコ焼きや焼き芋 クレープやメロンパンなど わざわざ一旦公園を出なくても食べ物は調達出来た。

ただ値段がちょっぴりお高く設定してあるので お金のない子供達はやっぱり一旦公園から出て 一番近いスーパーに行って安くておいしいお菓子や調理パンなどを買うか 遠くても自転車で自宅まで戻って何か食べてくるか もしくは家を出る際 かばんにこ腹が空いた用のその日のおやつや小さいおにぎりをしのばせてくるかだった。

一度も一緒のクラスになったことがない横川さんは リュックに前日の残りのフライドチキンを裸で入れて(へそ公園に)来た。という話を 彼女と家が近く毎日一緒に登校している雪から聞いた時は 本当に驚いた。

それから廊下ですれ違ったり 学校で横川さんを見かけると ユリシウスは心の中で「スゲー!学校にも持って来てんのかな?」とか思うようになっていた。

本当は「へそ公園」なんて名前ではなく ちゃんと「水鳥公園」という綺麗な名前がある。

だが 公園の真ん中にある小高い丘のてっぺんが おへそみたいに窪んでいることから 誰が言い出したのか 地元の子供達の間では「へそ公園」やもっと短く「へそ」が定着してしまった。

確かに「水鳥公園」というわりには 池には鴨が数羽すいすいと水面を移動し 近所の人からパンくずをもらっては 集まってくるだけで 後はカラスと雀 名も知らぬ小さな野鳥を見かける程度。

名前をわざわざつけるほど 水鳥がいる公園ではない。

夜中の呼び出しは中学生の頃から。

いわゆる「不良」や「ヤンキー」と呼ばれる あからさまにグレたりこそしていないものの 思春期の思春期たるもやもやは穏やかなユリシウスにも巣くっており 親に名前の由来を激しく問いただす形で尋ねたのも そんな反抗期の時だったとうっすら記憶している。

今も夜は地元の反抗期が激しい中学生などのたまり場になっているので そんな危なっかしい場所に仮にも若い女のまるみと待ち合わせて 大丈夫だろうか?と家をそうっと出てから気がついた。

女のまるみもそうだが 男の自分だってちょっぴり怖い。

歩きながらまるみのケータイに電話をかけ 待ち合わせ場所の変更を。と思ったのだが その肝心のまるみになかなか繋がらない。

急に心細くなり 何かあったんじゃないかと焦ると 心よりも体が反応したらしく 走りにくい母さんのつっかけのまま 走っている自分がいた。

走り始めてほどなく 右側のつっかけが脱げた。

歩道の僅かな凸凹に引っ掛けたらしかった。

丁度運悪く外灯と外灯の間の 明るくない辺りで脱げてしまったので ケンケンで探すもすぐには見つからず もういいや。と左側のつっかけを脱いで 裸足のまま 待ち合わせた場所まで走った。

ケータイが繋がらないまるみが心配で堪らなかったので 裸足の足が傷だらけになって痛かろうが 必死なユリシウスにはどうでもよかった。

「…はあはあはあはあ…まっ…まるっ…まるっ…はあはあはあはあ…」

日頃の運動不足が祟ったのか 息が切れ 心臓が耳にくっついている様な ドクドクと激しい鼓動がうるさいほどだった。

両手を膝の上に下ろし 肩で息をしていると 目の前にすーっと人影が現れた。

「あれっ?ユリどしたの?…走って来たの?なんで?だいじょぶ?なんか怖い目にでもあった?…もしかして…犬にでも追いかけられちゃった?」

全身からの滝のような汗と まだまだおさまる気配もない息切れと心臓の鼓動だったが キョトンとした顔で自分の心配をしてくれている 無事で元気なまるみの姿を確認すると ユリシウスは途端にその場に倒れ込んだ。

歩道で仰向けの大の字で寝転がり 息がおさまるのを黙って待った。

そんなユリシウスを覗きこみながら 再びまるみが声をかけてきた。

「…ユリ…どして走って来たの?…ホントに大丈夫?もしかさ、犬とか追いかけて来たんだったらさぁ…あたしが追い払ってあげるよーーー…あれっ…ユリ…裸足?どして裸足?」

ユリシウスは黙っていた。

まるみの問い掛けに答えたくなかった。

まるみは全然悪くない。

自分が勝手に悪い想像をしただけ。

それでこのありさま。

言えるはずもなかった。


やっと話が出来る様に落ち着き起き上がると まるみは一番近くのベンチに腰掛けて

こちらを心配そうに見ていた。

「…まるみっ…ゴメン…俺ェ…ちょっとさ…走ってアレだったからさ…それよかまるみ…えっと…元気そうじゃん!…いかった、いかった…うん…ホントにいかった…うん…」

自分でも何を言ってるんだろうと思ったけれど それが精一杯だった。

息と鼓動が収まり 汗が引くと 途端に思い出したかのごとく 足に痛みが走った。

薄明かりの下で見ても 足の下の方の細かい傷から それぞれ血が出ているのがわかった。

「…いってえ…」

「大丈夫なの?ねえ、なんで裸足さ?…」

まるみの口調に少し苛立ちが混ざっていた。

ユリシウスはどうやって上手く説明しようか?と考えながらも 口は勝手に話し始めていた。

「…ああ…えっとぉ…家出た時は 俺だってちゃんとつっかけ履いてたさ…だけど…途中でお前に何回もかけたのに…繋がらないからよお…へそは中坊のたまり場だしよお…その…ほらっ…なんだ…そのよう」

「あたしのことが心配になったって訳か…あはははは」

ニヤニヤとしたどや顔で 喋ろうとしていた続きを先回りされて ユリシウスはごもごも口ごもった。

まるみに恋愛感情を持ったことは一切ない。

断言してもいいぐらい。

だが 長い付き合いの中でまるみを「妹」の様な感情で見ている自分に わりと最近になって気がついた。

自分は一人っ子だから 兄弟がどういうものか ホントのところはよくわかっていない。

それでも どうしたものか まるみは守ってやらなくちゃいけない。と 自然に思うのは 両親からの「男の子は女の子を守るもんだ。」の刷り込みのせいかもしれない。

よくよく冷静に考えると まるみは女子にも守られている。とも思った。

つまりは「守られ体質」とか 「守られる宿命」の星の下に生まれた女ってことなのかもしれないが 当の本人にそういう自覚は一切なく 周りにいる人間が頼みもしないのに勝手に守ってくれちゃって。という感覚らしいから ちょっぴりムカつくのだ。

話題の中心が自分の「何故裸足で走って来たのか?」だったのが恥ずかしくなり ユリシウスはわざとらしく話を変える努力をした。

が まるみはいつまでも「自分を心配して走って来てくれた」話のままでいるのが心地好かったのか なかなか新しい話に突入出来ずにいた。

ようやく話題が変わり 夜中に呼び出した理由を聞く番となった。

「…ええーーーー…いいけどさ…実はさ、ヒロトったら酷いんだよ〜!…ちょっと聞いてくれる?…」

今度の彼氏は「ヒロト」という名前らしい。

思い返すと まるみによる夜中の呼び出しは決まって 現在進行形の彼氏の愚痴。

それ以外はなかったことを 今さら思い出すと ユリシウスの脱力感と疲労感はさらに増した。

今回は忘れていたけれど こうして呼び出しに安々と応じた自分も やっぱり誰かに話してスッキリしたい出来事があった。

まるみの話に適当に相づちをうち 終わってもらうと 今度はこちらが前日の八重さんとの出来事を話さずにはいられなかった。

「…んじゃ何?…ユリ…あそこのおばあちゃん助けたんだあ…へェ」

まるみもまた 母と同様に八重さんのことを知っていた。

「…えっ…あそこのおばあちゃん有名だよお…あたしなんかしょっちゅう会うよ!だって バイトのコンビニに60代くらいのおばさんと一緒にアイスとか買いに来るもん!…って…ユリ…知らなかったのお?…あんなデッカイお屋敷…ここら辺じゃ珍しいから みんな知ってると思ってたけど…へェ~ここにいる約1名は全く知らなかったという訳か…逆にピンポンだねぇ…あーーー今すぐ雪と克雄に教えたいーーーーー!!!…あははははは…」

ユリシウスは自分がものすごく馬鹿みたいだと感じた。

知らないばっかりに 八重さんが魔女とかそういうので 自分は浦島太郎みたいな目にあっちゃうんじゃないかと 真剣に思って不安になったことなどが 急に色あせた様な感覚だった。

それにしても じゃあどうしてあの時八重さん あんな風に言ったんだろうか?

自分をからかったんだろうか?

その真相も知りたくなった。

「…俺…さ…明日…ちょっと八重さんちに行ってみようかな?」

ぽつりと独り言を言ったつもりだった。

が間髪を入れずにまるみが「いんじゃない」と言ったのが ちょっぴりチクッと棘が刺さった様で こんな些細なことでムカついてしまった自分の器の小ささを 後になってから反省した。


まるみとは約2時間ほど話して別れた。

帰り道も当然裸足だったので 頭上がだんだんと明るくなっていくのを見ることなく ただ足元の安全を確保しながら そろーりそろりとゆっくり慎重に歩くしかなかった。

ようやく家に到着すると 母はもう起きて朝食の支度をしていた。

「…ただいま…母さん…悪いんだけどさ 足洗いたいから…バケツと足拭きタオル 持ってきて~~…」

奥からドタドタと小走りで母がやってきた。

「…あれっ…おかえりって…あんた…どこに行ってたの?…あれっ?足~…怪我して泥だらけでしょう…あっ!ちょっと待ってなさい…お父さん!…お父さ~~~~ん!!!」

母が向こうへ行ったのと入れ代わりに 丁度トイレに起きてきた父がやってきた。

我が家の玄関のすぐ横にトイレがある間取りなので 尿意をもよおした何も事情を知らない父がやってきても不思議じゃなかった。

「…ありゃ!どした?ユリシ…何だどっか行ってきたのかあ?…わりいなお父さん 先にトイレ使うぞお…」

父はまだ完全に目覚めた訳じゃない様子。

すると再びドタドタ 奥から母がやってきた。

足を洗うバケツもタオルも持たず 何故か手ぶら。

そして 玄関に座り込むユリシウスを尻目に 父が入っているトイレのドアをドンドンやりだした。

「…お父さん!ごめん!ちょっと早めに出てくれる?…あたっ…あたしも大ピンチなのよ~~~!!!」

ユリシウスの顔面辺りに モジモジしている母の尻があった。

半袖の腕から覗く 弛んだ肉が心なしかぶつぶつ鳥肌が立っていた。

相当切羽詰まった様子だったし 早いとこ自分の足洗いの道具を持ってきてもらいたかったので 母と一緒にトイレ内の父に早く出るようお願いした。

「…何だ~~どした~~~~」

ふんわり出て来た父と入れ代わりに 母がトイレに入るやいなや「やだっ!お父さん…終わったら便座下げといてっていつも言ってるでしょう!!…全くも~~~~!!!!」

父は便座を下げるのを わざとなのか 絶対忘れる。

母はそのせいで慌てて入って便座のない便器に腰掛けた災難を 何度もやってはその度にキーキーと父を叱った。

出て来た父は もうすっかり目が覚めたようで 玄関に腰掛けて足を洗うバケツを待っているユリシウスに改めて気づくと その足の傷に驚き 慌てて水の張ったバケツと足拭きタオルを持ってきてくれた。


とりあえずの足洗いだったので 玄関でのそれが終わるとかかと歩きで真っすぐお風呂場へ向かい きちんと足を洗うどころか 歩道のアスファルトで大の字に寝そべったことを思い出し 結局 朝のシャワータイムとなった。

体を洗うのは気持ち良かったが 足に出来た細かい傷がことのほかしみて痛かった。

お風呂から出ると リビングで父と母が救急箱を持って 心配そうに待っていてくれた。

ソファーに座らされ 左は父が 右は母がそれぞれ傷薬と絆創膏で手当てしてくれた。

いい大人なユリシウスだが 一人暮らしだったらこんなに手厚い手当てをしてもらえなかったと思い 両親の有り難さについ涙が出そうになった。

朝の忙しい時間帯だった。

自分の手当てをしてくれている父の出勤が気になった。

「…お父さん、ありがとうね。もう大丈夫だからさ…自分の支度してよ…ねっ…」

「…そうかあ…だけどもユリシ…足大丈夫か?…なんならお父さん病院連れてくぞ?」

父はとても優しいが 何かにつけて会社を休みたがるところがある。

今回の自分の怪我ももちろん心配なのに嘘はないけれど それと同時にいかにして会社を正当な理由で休もうか 常日頃画策しているのもまた事実だった。

長年連れ添っている母もまた 父の悪い計画を素早く察知しているらしく 「…お父さん…ユリシはもういい大人なんだし 傷こそいっぱいだけど病院に行くほどじゃないみたいだから…安心していってらっしゃい!」 笑顔で父の操縦が出来ていた。

父を見送り 母が作ってくれた朝食でお腹が膨れると 急にドカッと眠気が襲ってきた。

ユリシウスは八重さんのところに行かなくちゃ!と思いつつも 眠気にはどうにも勝てないらしかった。

「…ユリシ…ユリシったら…こんなとこで寝ないで…自分の部屋に行きなさい!体痛くするわよっ!全く…はぁ…仕方ないわねェ…」

ユリシウスはぐっすり眠り おかしな夢を見ていた。


その遊園地は前にも夢で来たことがあった。

子供の頃に来た時と何も変わらないそこは なだらかな斜面に様々な遊具がある。

ジェットコースターは何故か途中から水族館の水槽の中を通り さほどスピードもなく小さな子供でも安心して乗れる。

コーヒーカップは湯のみ型だし 柔らかい動物の背中に乗る形のメリーゴーランドや 何十人も一度に乗ることが出来るブランコに 低いところから上りで始まる長い滑り台など 現実にはありえない乗り物や何かがいっぱいのそこに 今回はやっぱり何故か八重さんが一緒だった。

「…あれっ…八重さん?…どうしてここに?…それはそうと乗り物大丈夫ですか?」

「…うふふふふ…ユリさん…あたしは大丈夫よお〜!!!」

「えっ!!!嘘でしょ!…だって八重さん…浮かんでるじゃないですかあ~~~!!!!」

「あらっ!!浮くのは楽しいわよお~!!ほらっ!ユリさんもやってごらんなさい!…あのね、こうやって上昇気流に乗るともっと遠くへ行けるんですって!…おほほほほ…ではまた…どこかでお会いしましょうね~~~!!!」

「まっ…ちょっと八重さん!待って下さ~~~い!!そっちは…そっちには人食い熊が…巨大な人食い熊がぁ~~~!!…」

ハッと目を覚ますと ユリシウスはリビングのテレビの前にいた。

「…あら、やっと起きたね…あんた すごくうなされてたわよぉ…なんか八重さんって…大丈夫?」

母さんはソファーで朝刊を読みながら 熊の形のクッキーを頬張っていた。

「…今何時?」

ユリシウスはドキドキして母に時間を聞いた。

「…えっ?ああ、11時半だけど…」

八重さんのところに行かなくちゃと思い ユリシウスは焦った。

窓から差し込む夏の日差しは 容赦なく眩しく まだまだ元気な蝉シャワーがうるさくて 寝起きのユリシウスはそれだけで少しイライラした。


八重さんと知り合って まだちゃんと一日が経った訳じゃなかった。

それなのにこうして再び 今度は自分の方から会いに行こうとしているのが 自分でも不思議でたまらなかった。

そして今日も家を出る際 母に「お酢」を買ってくるよう頼まれた。

「…だって昨日ユリシ忘れちゃうんだも~~ん…だから 今日こそちゃんと買ってきて!米酢だからね!一番安いのね!お父さんみたいに余計なブルーベリーのお酢とか絶対買って来ないでよ!!わかったぁ?」

「…じゃあ自分で買ってくればいいのに…」

ユリシウスは心でぼやいた。

母は夏場 あまり外に出ない。というより出られない。

すぐに熱中症の様な症状を起こし いつぞやは夜中に救急車で運ばれたほどだ。

だがその時 ユリシウスも憧れの救急車に乗れるチャンスだったが 父に 「…ユリシ!!お父さんはお母さんに付き添って病院行ってくるから…お前は留守番しててくれ!明日学校だから…寝てるんだぞ!戸締まりも頼む!したらな…後で連絡するから!」と言われてしまい 「わかった。…お父さんも気をつけてね。」と言うしかなかった。

「…何かね…色白でぽちゃぽちゃした人って 熱中症になりやすいって…いつだかテレビでお医者さんが言ってたのよぉ…あれさ…当たってるねぇ…だってお母さん色白で美人でぽちゃぽちゃ…って…これぇ!!!だーれがデブじゃ!!」と毎年 暑くなってくると そう自分で言っては 一人ノリツッコミしている。

父と二人で 「…あっ…そうなんだぁ…大変だよねぇ…色白いと…」と棒読みで返し 後で男同士になると「ちょっとさぁ、途中美人とか自分で言っちゃってさぁ…図々しいよなあ…女ってさ、みんなそうなんだろうなぁ…やだなぁ…」と語るのが 毎年のちょっとした恒例になっていた。

まだまだ外は眩しくて焼き付けるような日差しだった。

蝉は相変わらずミーンミーンとシャワシャワシャワシャワ。

暑さでと蝉の音で自然と苛立ちが募り 「あーーーーうるせーーーーー!!」といつの間にか独り言を言っていた。

ユリシウスは昨日の記憶を辿りながら ゆっくり八重さんのお屋敷を目指した。

後ろからクラクションがうるさく ムカついて振り向くと軽自動車の窓から知った顔が覗いた。

中学 高校と同じバレーボール部だった樺山だった。

背丈が190cmもある クラブで一番ガタイのよかったエース。

顔は大したハンサムでもないくせに 何故か女子の人気が高く ユリシウスをはじめとする他の部員達からいつも 「何でお前がモテる訳ぇ???」と不思議がられていた。

顔だけだったら お寺の息子の秀英の方がよほどカッコイイのに。と ユリシウスは思っていた。

「…よお!ユリ!!久しぶりだなあ!…にしてもあっちぃ~~~~!…お前さぁ、よくこんなあっちい中歩けんなぁ!俺ならとっくに焼け死んでる!…それはそうと…どこ行くんだぁ?送ってくから乗れよ!」

「そうかぁ…じゃあ遠慮なく…ヨロシクお願いしゃーーーす!」

早速 車に乗せてもらった。

樺山に会うのは成人式以来 お互いまだ学生だったので 中学 高校のノリのまま他の奴らも一緒にはしゃいで調子こいて 朝まで飲み歩き 家に戻ってえらく親に叱られた思い出。

あれから樺山は実家の土建屋に就職したと言っていた。

「…したら何?…今ユリ実家にいんの?…なら連絡よこせよぉ!一緒に飲みに行くべ!…」

樺山は今 後を継いで社長をやっているそうで デキ婚した二つ下の奥さんの尻に敷かれていると 幸せそうにぼやいていた。

「…なあ、カバよ…そういえば猫、元気か?」

ユリシウスと樺山が高校一年の秋 三年生のちょっとヤンキーっぽい山下先輩から無理矢理子猫を押し付けられた。

どういういきさつだったかというと 当時 学校の九割の男子が「可愛い!」と絶賛し 学校祭で三年間「ミス茶葉校」(ユリシウス達の高校は地元の私立茶葉学園高等学校)

として伝説を作った桜田えみり先輩を 当然ながら山下先輩も好きだった。

がしかし自分は剃りこみが入った眉毛の薄い不良っぽい男。

こんな自分を学園のアイドル えみりちゃんが好きになってくれる訳もなかった。

ある雨の午前授業の日の帰り道 つけてたつもりじゃないけれど たまたまえみりちゃんと向かう方向が一緒だった山下先輩。

前方をブスの女友達と楽しそうに歩くえみりちゃんを ジーッと見つめ トボトボゆっくり歩いていると 微かに赤ん坊の様な泣き声が聞こえてきた。

前を歩くえみりちゃんは 雨の音と友達と話すのに夢中らしく 後ろをつけてないけど歩く山下先輩に全く気づく気配もなかった。

泣き声が気になった山下先輩は その音の方へ行ってみた。

大きな木の陰でまだ生まれたばっかりの様な子猫が ミーミー鳴いていた。

山下先輩は急にミーミー鳴く子猫が可愛そうになったが 親猫が戻って来るかもしれないし どうせ急いで帰る用事もないことだしと 雨で濡れて寒がる子猫を制服の懐に抱き温め 夕方までその場で待っていたそうだ。

結局 親猫は戻らず その場に震えている子猫を置き去りにも出来ずに 連れて帰ったという。

家に連れて帰ったはいいけど アパートでは飼えないってんで 樺山のところに預けることになった。

後日 山下先輩の様子を偶然見かけた体育の加藤先生が 全校朝会の場で心温まるその話をしたもんだから その日から山下先輩の株が上がった上がった。

学園のアイドル えみりちゃんからも「山下くん優しい!」なんて言われて 三年生はとっくに引退してるのに「練習付き合うぜ!」なんて 調子こいた山下先輩がいつまでも部活に来るもんだから バレー部の全員がやりづらくて堪らなかった。

あの時押し付けられた猫は だいぶ大きくなり 子供を6匹も産んだそうだった。

「…なあ…そういえばさ、ユリどこに行く途中だったん?…送ってってやるよ!」 樺山は満面の笑顔だった。

「わりいな…したら頼むかなぁ…」

樺山だってどこかへ向かう途中だったのでは?と思い 何だか申し訳ない気持ちになった。

行き先を告げると 樺山はいやらしいニタニタ顔に変わった。

「…なんだお前、女のところに行くつもりだったんかぁ?…かーーーーーーっ!ユリ!お前も隅に置けないねぇ!ってかぁ…あはははは…なぁ、ところでよぉ、女で思い出したんだけどよぉ…お前 あの彼女とまだ付き合ってんのか?おい!!」

いやらしい笑顔のまま 樺山はハンドルを掴んでいない左肘で 助手席のユリシウスを小突いた。

「…ああ…房子ね…とっくに別れた…」

ユリシウスはかつての恋人を回想し 力なく答えた。

八神房子はユリシウスが初めて 心の底から好きになった女だった。

桃みたいな頬っぺたに 大きくてパッチリした目 色が白くて小さくて ショーケースに飾られている綺麗な砂糖菓子の様な女。

可愛らしくて ちょっとおっちょこちょいで・・・・・・大好きだった。

「…ねえねえ…ユリシウスは何個入る?」

鼻の穴に庭で収穫したブルーベリーを詰める競争をしたり 「見て見て!!ユリシウス見て!!すごいでしょ!!」 無邪気に道路沿いのカーブミラーに昇ってみたり。

彼女との毎日が楽しくて 嬉しくて。

ユリシウスが仕事場で倒れて入院する前 あまりの忙しさに房子と会う時間も少なくなっていた。

そうして よくあるすれ違いになり 何となくだんだん連絡を取り合わなくなり 自然消滅。

お互い嫌いになったり 他に好きな人が出来て別れた訳じゃなかった。

だから ユリシウスはまだ好きだった。


「…じゃっ!ここで!カバ サンキュー!」

樺山に八重さんちの生け垣の前まで乗せてもらった。

本当ならば サンサンと日差しが降り注ぐ くそ暑い中を歩かなくてはならなかったので 樺山との偶然の再会が有り難くてしょうがなかった。

車を降りてすぐ 助手席側の窓まで身を乗り出した樺山が ふと言った。

「…ああ、また会おうぜ!いつでも連絡くれ!…だけどユリ、お前ここんち知っているはずだぜえ…こっち側は初めてかもしんないけど 裏側のバス通りは高校ん時 毎日通ってたからよ…」

「えっ!」

樺山の発言にユリシウスは驚いた。

…高校時代 毎日通ってた?

「えっ!」

ユリシウスは二度目の「えっ!」の後 すぐさま回想を開始した。

高校時代…通った道にそういえば…ずーっと生け垣が続いてて…てっきり…俺は…旅館か何かだと思ってたけど…

ユリシウスはそこそこ偏差値の高い高校に通って、 勉強が出来る方だがこういうのには 少々疎かった。

そして 素直で信じやすいところがあった。

だから 誰かが「あそこの神社の二宮金次郎…夜中になると勝手に動いて回るらしいぞ!」と聞けば 「そうなんだ…どうしよう…怖いよぉ…家に来たらどうしょう…」と怖がり 結構大きくなってからも父と母の間に挟まって寝たりしていた。


八重さんちの生け垣の向かいにあるアパートのベランダから パンパンと干した布団を叩く音が聞こえてきた。

「夏は洗濯物がよく乾くから嬉しいけど…干したものがいつまでも熱持ってて熱いのよねぇ…せっかくお布団ふっかふかになっても 夜暑くて汗かいちゃって…それでまた次の日干して…エンドレスよねぇ…」

脳内で母のぼやきが勝手に回想され 「秋には涼しくなるからエンドレスじゃないじゃん!」と脳内でツッコミながら ゆっくり生け垣から昨日訪れ 逃げる様に帰って来た八重さんちに向かった。

大声で「ごめんくださーーーーーい!」と叫びながら 自分は決して怪しい者じゃございませんアピールを 八重さんだけではなく ご近所の方達にも聞こえる様にして ゆっくり進んだ。

見覚えのある小道を行くと デーンと立派な洋館が姿を現した。

ふと見ると 玄関前の石段にうつぶせの人が見えた。

ユリシウスは一瞬で「誰か倒れてる!」と思い 「大丈夫ですかーーーー!!!」 声をかけながら走り寄って行くと 倒れた誰かが倒れたままこちらを向いた。

「…へ????」

駆け寄ったユリシウスと一見倒れている様に見えた人が 同じタイミングで同じ台詞を吐いた。

「…やっ…八重さ~ん…大丈夫ですかーーーー?…どっかぶつけたりしてないですかーーーーー?」

「あらっ…あなた…確か?昨日の…」

「ええそうです。そうです。…ユリシウスです。…えっと…あの…昨日は…突然、逃げるみたいに帰ってしまって…すいませんでしたぁーーーーー!」

ユリシウスはスポーツマンの様な威勢とノリで 八重さんに謝罪した。

膝まで頭を下げた。

「…まあまあ…それでわざわざ この暑い中…ありがとうね…本当に…あそうそう…あたしもついからかって あんな小芝居しちゃってごめんなさいね…どうぞ、気を悪くなさらないで下さいねぇ…年寄りのいたずらってことで…おさめて下さいねぇ…」

「…えっ…いたずら?…」

八重さんに聞きたかったことが こうもあっさり解決し ユリシウスは脱力感と疲労感でいっぱいになった。

「…そうだ!それより八重さん!大丈夫なんですか?…さっき倒れてたから、俺てっきり階段踏み外したんじゃないかって…思って…」

ユリシウスは本当に心配していたが こうやって普通に話しているところを見ると 多分転んだりしたんじゃないのが ある程度わかってきていた。

「あっ…ああ…あのねぇ…静かぁに…そこ…そこの奥を見てみてちょうだい…」

八重さんは玄関前の石段の奥を指差した。

そうっとそうっと静かに静かに 八重さんの指差したところを覗いてみると 大きな花のプランターの陰に微かに動く小さな毛の物体が ミーミーとか細い鳴き声で鳴いているようだった。

どうやら生まれて間もない子猫。

いつの間にかユリシウスの横で八重さんが静かに教えてくれた。

「今朝ね、新聞を取りに出たら…どこかから小さな鳴き声が聞こえたのよ…だから…何かしら?と思って 声の出所を探していたのよ…それでね…わりとすぐにこの子猫ちゃんを見つけたんだけど…どうしたもんか…怖がってなかなか掴まえられなくて…お母さん猫ちゃんはいないようだし、子猫ちゃんはお腹を空かせてるみたいだし…朝から何度も様子を見に来ては、あなたがびっくりしたみたく腹ばいになってたのよ…お水はとりあえずそこに置いておいたのよ…あたたたたた…だけど、体が痛くなっちゃって…」

ユリシウスは丁度いいところに来た助っ人だった。


「この子…よっぽどお腹が空いてたのねぇ…」

八重さんと二人 キッチンの床に用意した 細かく刻んだお刺身の残りを食べる子猫を見守った。

「ちゃんとした子猫ちゃんのごはん、買って来なくちゃね…でも…どうしましょ」

八重さんがちらりと見やった。

あの目は小さな子供がよくやる目。

あんな風に見られてしまっては 「じゃあ…俺…買って来ましょうか?」と言わざるを得なかった。

「まあ、いいのかしら?…ごめんなさいねぇ…昨日も助けてもらって 今日もこうして子猫ちゃんを助けてくれて…おまけに引き取って下さるなんて…ありがとうね、ユリシウスさん」

ユリシウスはいいえと答えながら 急にハッとした。

「えっ???引き取る?」

「ええ…あなたが…」

八重さんはニコニコ優しい笑顔だった。

「だってね…あたしはこの通りのおばあちゃんでしょう?それに今はみっちゃんも実家だし…この子の世話はとてもじゃないけど…無理なのよ…だから…ねっ?ユリさん…ダメかしら?ユリさんところ アパートか何かなの?この子…飼えない?」

知り合って間もない八重さんが 案外強引な人だってことを知った。

ユリシウスはいつの間にか「ユリさん」と呼ばれていたが 大概みんなそういう風に自分を呼ぶので さほど気にならなかった。

むしろ八重さんとの距離が縮まり 昔からの知り合いだったような錯覚さえ覚えた。

前回と同様に八重さんいただいた手作りの焼き菓子と 冷たい紅茶がお店並に美味しかった。

今日はレモンケーキだった。

「あの…八重さん…つかぬ事をお聞きしますが…このお菓子って お手伝いさんが作ってるんですかあ?…すっごく美味しいですよねぇ…」

美味しかったので 素直にそう聞いてみた。

すると 八重さんは急に顔を赤らめて 激しく照れている様子。

はて?と首を傾げていると 「…あたし…あたしが全部作ってるんですよ…うふふふふ…ユリさん、褒めるのが上手ねえ…」

目の前の 前日炎天下の中ヨロヨロ倒れそうだった この老婦人が 全部作ってるのが信じられなかった。

「…またまたあ、八重さん…僕だって そうそう引っ掛かりませんよぉ…」

ユリシウスは再び 小芝居で自分を騙そうとしている いたずらばあさんだと思った。

がふと見ると 八重さんは今にも泣き出しそうな表情で こちらをじっと見ている。

小さな老婦人を泣かせてしまうと ユリシウスは慌てた。

「えっ?ごめんなさい八重さん…ホントなんですね…八重さんが作ってらっしゃるんですね…すいませんでしたーーーーー!!僕…疑ったりして…その…何て言うか…その…すごく美味いです!俺…この前のもこれも大好きです!」

動揺を隠すように ユリシウスは自分のレモンケーキと 八重さんのレモンケーキも急いで頬っぺたが膨らむほど口に入れて モグモグした。

右手で涙を拭う仕草の後 八重さんは急に大声で笑い出した。

「あははははは…はうあ…ユリさんったら…そんなにいっぺんに口に入れたら 喉つまりしちゃいますよ…あははははは」

「…んぐっ…そっ…そうです…んぐぐぐ…」

八重さんの予言通りに喉にケーキをつまらせ どんどんと胸の真ん中を拳で叩き せっかくのアイスティーを一気に飲んだ。

「…はぁぁ…げふっ…すいません! すいません…一気に飲んだからゲップが…げふっ…ホントに…ぐふっ…失礼しました…げふっ…」

ユリシウスは焼きそばはよく喉に詰まらせるが レモンケーキを喉に詰まらせるのは初めてだった。

こんなことで死にそうになるなんて。とも思った。

ユリシウスが喉を詰まらせ 八重さんが大笑いしている中 さっき保護した子猫ちゃんは素知らぬ様子で 大きなフルーツカゴに作ったベッドですやすや気持ち良さそうに眠っていた。

ようやく落ち着いたので 改めて八重さんに尋ねると お菓子もご飯も全て作っているとのことだった。

「…そうなのよ…みっちゃん…そうそう言い忘れてたけど 我が家のお手伝いさんのみっちゃん…学校卒業してすぐに家に来たから…え~っと…もうかれこれ40年以上も一緒に住んでることになるわねぇ…みっちゃんがまだ若い頃 何度か縁談があったんだけど…ここだけの話…全部断られちゃって…器量は良くないけれど とってもいい子なのよぉ…お掃除もお洗濯もアイロンがけだの お裁縫だの お料理以外は全部 百点満点なのよぉ…ただお顔がブスってだけなんだけどねぇ…お料理も何度もあたしが教えたんだけど…どういう訳か…センスがないって言うのかしら?…味音痴って言うのかしら?…そういう訳なのよぉ…お顔と味音痴以外はすんごくいいんだけどねぇ…」

八重さんの作るお菓子も 「これよ!これ」とえっへん顔で見せられたのが なんと電子レンジの付属のレシピ集だった。

それを基本とし 八重さんが長年培った主婦のセンスで ちょっぴりアレンジしただけ。とのこと。

意外な真相にユリシウスは 「へえ」しか返事が思いつかなかった。

それと一緒に八重さんはちょっぴり膨れた様子でボソボソとさっきの話をまた始めた。

「…昨日…ユリさんったら、浦島太郎みたいだ!なんて言って あたしが聞いたことに全然答えようとしないんだもの…だから…あたしだって…したくもない小芝居しなくちゃならなくなったのよぉ…」

ユリシウスはおばあさんになっても 小さな子供みたいな八重さんを「可愛いな。」と思ってしまった。


「…あのっ…それは…なんと言うか…答えようとしなかった。というより…なんて答えたらいいのかわからなくって…」

ユリシウスのトーンが下がった。

知り合って間もない この老婦人に話したって。という気持ちと 負けて帰って来たというのをこの人に話すのもどうか?という気持ち 逆に知り合ったばかりで自分のことをよく知らない人に溜まっているものを吐き出しちゃえ!という気持ちなどがぐるぐるとカオスの様に混ざり 本当にどうしたらいいんだろうと思っていた。

ユリシウスの暗い様子を察した八重さんは 「…そう…ごめんなさいね…そうよね…人に何でも聞いたり 話したりするのは いつも良いわけじゃないものね…」

「…いえっ…あの…そんな…僕の方こそ…なんか…ホントにすいませんです…」

八重さんは新しいお茶を入れに 席を立った。

子猫は安心しきった様子で まだすやすや眠っていた。

ガタンと椅子から立ち上がり 自分の為にお茶を入れ直してくれている小さな老婦人の側に立った。

「…八重さん、手伝います…何か作業をしている方が話しやすいですよね…あの…あのですねぇ…実は僕…今 無職なんです。」

ユリシウスの心臓は早鐘のようだった。

何故か自分でもわからないが 緊張し手からの汗がすごかった。

八重さんは残りのレモンケーキを皿に取りながら ユリシウスの話をじっと聞いていた。

「…街でバリバリ仕事してたんですけど…やり過ぎちゃって、会社でぶっ倒れて…そんでもって入院して…戻って来たんです…だから…今は…」

「そうだ!」

話を遮り 八重さんが急に大声で話し始めた。

「…ねえユリさん!…あなた…家で働かない?ユリさんが来れる時 いられるだけでいいの!…毎日じゃなくてもいいわ!…どうかしら?…今 みっちゃんいないから あたしも困ってることは困ってるのよ!…どう?…ダメかしら?…仕事は…そうねぇ…みっちゃんがやってたこと!…時給1,000円!!…ご飯とおやつ付き!」

「やっ…」

「や?だ?…」

八重さんは覗き込む様に ユリシウスを見た。

「…りまっ…ゴホゴホゴホゴホ…」

ユリシウスは肝心なところで 激しく咳込んだ。


こんな良い条件の仕事なんて 世の中に絶対絶対存在しないだろう。

時給1,000円は結構あるだろうが 仕事時間が自分の都合に合わせていい。なんて。

しかもお店ぐらい美味しいご飯やお菓子付き。

仕事の内容だって 1,000円の時給をもらうほどのものじゃない。

こんなのは夢さ!

きっと夢!

そうじゃなかったら 八重さんが俺を元気にさせようと 勢いで言っただけだ。

ホントに雇う気なんて さらさらないに決まって・・・・・・

「…ねえ、ユリさん…改めてお聞きしますが…家で働きますか?どうします?」

夢心地でふわふわしていたユリシウスは 八重さんのきっぱりとした口調でパッと我に返った。

「…えっ?…あっ!…やります!やりたいです!やらせてください!どうかお願い致しますです!はい!」

「じゃあ…契約成立ね…ユリさん 一応履歴書書いて持ってきて下さいな…急ぎじゃなくていいから!」

「はい!わかりました。奥様!」

ユリシウスはぴりっと姿勢を正した。

「ユリさん…奥様はやめてちょうだいな…さっきと同じ八重さんでいきましょうよ!…あたしだって、勝手にユリさんって呼んでるけど…いいのかしら?」

ユリシウスはさっきからさんざん「ユリさん」と呼んでおいて 今さら何言ってるんだろうと思った。

「…ところで…ユリシウスさんって相当珍しいわよねぇ…どういういきさつでその名前をつけようってなったのかしらねぇ…」

八重さんに限らず 今まで遭遇した人全員が全員 同じ質問をぶつけてきた。

そして ユリシウス自身も結局のところ 名前の由来は未だにわからないままだった。

「…そうなんですよ!…僕自身も知りたくて 一度…中学生ぐらいの時だったかなぁ、聞いてみたんですが…うまくかわされちゃって…それっきりなんです。」

「…そう…でも これを機会にもう一度 きちんとご両親に尋ねてみたらいかがかしらねぇ…」

八重さんはあどけなかった。

「そうですね…今ならちゃんと話してもらえるかもしれませんねぇ…」

そのタイミングで ユリシウスの腹がグーと鳴った。

「あらっ!ユリさんお腹空いてるの?…」

ユリシウスは恥ずかしくてたまらず 心の中で「ちきしょー!何でこんな時鳴るんだよぉ!」 自分の腹を呪った。

寝起きで何も食べずに訪れたとはいえ レモンケーキをご馳走になった。

それがユリシウスの胃袋のスイッチを入れてしまったらしかった。


八重さんのご飯は母のとは大違いだった。

美味し過ぎるもんだから つい食べ過ぎてしまい 食後に胃薬までいただく羽目になった。

明日からこれが食べられるかと思うと ユリシウスは急にウキウキが止まらなかった。

子猫を連れて帰る際 八重さんは常備していた高そうな「お酢」をくれた。

「えっ?いいんですか?…八重さんの分 なくなっちゃうんじゃ…」

そこまで言いかけると 「…いいの!いいの!…ユリさんの就職祝いよ!」と笑顔だった。

八重さんはユリシウスの左手の甲に小さく「お酢」と書いてあったのを見つけたのだった。


「ただいまーーーー!!」

ユリシウスはさっき決まったバイトのことで ウキウキしていた。

なので 奥から母が出てきた時 真っ先にそのことを話すつもりだった。

「…おかえりぃ~!お酢買って来てくれた…って…ユリシ!その猫どしたの?」

母に言われて ユリシウスはそうだった。と ようやく抱いている子猫の存在を思い出した。

「可愛いだろぉ…飼うよ!いいよねぇ…」

ユリシウスは何故か強気だった。

母は正直なところ 動物はかなり苦手だった。

触るどころか 傍を通ることすら出来ないほど。

だから ユリシウスは今まで一度も動物を飼ったことがなかった。

小学生の頃 何度か野良猫を家まで連れて来ちゃったことがあったが いつも「返してきなさい。」と叱られるばかりだった。

だが今回は自分の部屋で自分で育てようと思っていた。

母さんや父さんに一切迷惑はかけないと誓っていた。

子猫を育てることで 何かが開けて来るような気もした。

自分の入院や戻って来ることで 両親にはずいぶん助けられたし 迷惑もかけてしまった。

いい大人なのに 親に頼りっぱなしの自分が情けなかった。

早速自室に猫を連れて行き 猫を飼うのに必要な道具やご飯 トイレの砂などを買いに急いで家を出た。

母はユリシウスが手渡した高そうなお酢と 持たせたお金を持って ぼーっと玄関に突っ立ったままだった。


ユリシウスが自転車のカゴいっぱいに猫グッズを積んで帰って来ると 2階の自室にいるはずの子猫の姿がどこにも見当たらなかった。

「…はっ!もしかして…」

心の中で小さな子供のように「お母さん!猫ちゃん捨てちゃヤダー!」と叫んでいた。

ドタドタと階段を降りてくる時 残り2段あたりで足を踏み外し ドドドドと階段から転げ落ちた。

「いたたたたた…」

ユリシウスがペタンと座り込んでいると 「なぁに?大きな音だったけど…ユリシ!大丈夫かい?」 見ると探していた子猫を抱いた母だった。

「…お母さん…その猫…いっ…いたたたたた…」

ぶつけた腰をさすりながら 子猫と母を見た。

「…ユリシ!ホントに大丈夫かい?…どれ湿布貼ってあげるから…立てる?歩けるかい?…この子可愛いわねえ…ねぇ、にゃあちゃん!ユリシお兄ちゃんは大丈夫でちゅかねぇ…」

母は赤ちゃん言葉になっていた。

「あれっ?…お母さん…猫…大丈夫なの?…ったたたたっ…」

階段を踏み外したところと 前夜の足の細かい傷が痛くて堪らなかった。

そして ユリシウスも母に尋ねたいことがいっぱいだったが その母もユリシウスに聞きたいことだらけだった。

「ユリシこそ、ホントに大丈夫かい?…病院行くかい?…我慢しないで ちゃんと言ってよ!…それはそうとにゃあちゃん 可愛いわねぇ…あんたが慌てて行った後ね…2階から階段を降りようとしててさ…まだこんなおちびちゃんだもの…よっぽど怖かったみたいでさぁ…可哀相に震えてミーミー鳴いてるんだもの…そりゃお母さんだって動物あんまり得意じゃないから ちょっぴり怖かったんだけどさ…可愛いんだものぉ…ねぇ、にゃあたん…」

抱いている子猫に語りかける母は 目尻が下がりっぱなしだった。

そして 子猫は「にゃあ」という名前をつけられてしまっていた。

「…それもそうだけど…ユリシ…お酢、どしたの?…どっかからもらってきたのかい?…これ 高いやつだわ…ほらっ、お好み焼きとか焼きそばのソースんとこのおかめひょっとこのおかめさんの絵えついてるわ…ホントに大丈夫かい?可哀相にねぇ…」

母を先頭に ユリシウスは痛みが強かった腰から尻をさすりながら リビングのソファーにドスンと腰掛けた。

電車から外の景色を眺める子供のような 後ろ向きの体勢に直り 母に湿布を貼ってもらった。

「ひゃーっ!!!」

冷蔵庫から出したばかりの濡れた面が冷た過ぎてびっくりし 全身が一瞬ピリッと伸びた。

子猫のにゃあは 初めての部屋を早速よちよちと探険していた。

その小さな後ろ姿が まるでぬいぐるみのようだった。

「さっきお父さんににゃあちゃんのことメールしておいたわよ!」

急に出来た小さな家族がよほど嬉しいようだった。

まだまだ暑さは残るものの 日が沈むのは案外早くなってきた。

母は夕飯の支度をしながら テレビの情報番組を流し見。

街の駅前からやる 主婦参加のゲームの時は一旦手を止めて見るほど 好きでほぼ毎日見ている。

抽選で選ばれた奥様が親や兄弟 友人や親類などに電話をかけ 五回コールの間に出てもらい その日の合言葉を言うとまずは全国共通のお寿司の券五千円分やデパート商品券をもらえ 今度は駅前にいる奥様がお題の絵を30秒内で描き 電話口の相手がそれは何かを当てるというゲーム。

基本は一万円だが 外すと次の日に繰り越す。

何日も当てられないと 積み上がった金額もかなりのものになり 日に日にゲームに参加したい奥様の数も増えていく。

「…あーーーー…この人、絵ぇヘタっ!!!…あははははは こんなの当てられる訳ないわよねぇ…あははははは…」

母は信じられない「画伯」の登場が よっぽど嬉しいらしい。

人の絵をあれこれ言えるほど 母だって上手くないのに。

今日のお題は「鶴」だったが 駅前の奥様が急いで描いた絵は 「蚊」にしか見えず やっぱり当ててもらえていなかった。

ゆえに 明日の賞金は二万円になった。

ユリシウスはソファーで少しうつらうつらしていた。

だが鼻はバッチリ起きていて 夕飯のいい匂いがどんどんと容赦なく入り込んできては だんだん腹が減ってきたのがわかった。

揚げ物と甘酸っぱい匂い、それに具はわからないが味噌汁と ご飯が炊ける匂い。

ユリシウスは匂いにつられ ぼんやりしながらゆっくり目を開けた。

膝の上が暑いと思ったら 小さな毛の塊が我が物顔で眠っていた。

母が乗っけたらしかった。

外からは家の裏にある公園で まだまだ元気に叫び声をあげて遊んでいる 子供の声がうるさかった。

今年大ヒットしたアニメ映画の歌を合唱。

ユリシウスは見に行っていないので内容こそ知らぬも 歌は何故か自然と知っている。

テレビでもよく行くスーパーやコンビニでも やたらに耳にしていたので 母も覚えたらしく 時々家事をしながらでっかく歌っているのを ユリシウスはよく聞かされて少々うんざりもしていた。

部屋で電気をつける頃 父がよれよれで帰宅した。

玄関にあがるやいなや 「ただいまーーーー…なんか猫って…どういう…」まで言いかけると ソファーのユリシウスの膝ですやすや眠る小さいちゃんを見つけ そうっと小声で「お母さん お母さん…この子猫かい?…そうかぁ…可愛いなぁ…」としみじみ。

荷物を置いて手を洗うと 早速眠っている子猫を抱き上げた。

急に抱き上げられた猫は びっくりした様子。

だが 父も母もお構いなしだった。

「…あれっ?…お父さん おかえり…ごめぇ~ん…勝手に猫もらってきちゃってさ…でもっ…でも俺 ちゃんと自分の部屋で責任持って飼うから!お父さん達には絶対に迷惑かけないから!…今は…ちょっと…その…」

「えっ!…ユリシだけで飼うの?…それだら…お父さん…ちょっと寂しいでちゅよねぇ…ニャックーーーー…」

子猫を高く抱え上げ 父は赤ちゃん言葉になっていた。

「お母さんだって お母さんだって…すんごく寂しいでちゅよねえ…にゃあちゃん…ねぇ…もう家の子なのにねぇ…ユリシお兄ちゃんったら 水くさいわよねぇ…にゃあちゃん…お父さん…今度 あたしに抱っこさせて!」

今度は母の腕に抱かれ 小さくミーミー鳴いた。


三人揃った夕飯のメインは 八重さんからいただいたお酢を使った「から揚げ 甘酢あん」

食べ始めてほどなく 切り出したのはユリシウス。

「あっ…俺さ、仕事決まったから…まっ…バイトなんだけどさ…」

父も母もその報告にたいそう驚いた。

家に戻ってからのユリシウスは就職活動らしいことは 何一つやっている素振りもなかったからだ。

ハローワークに行ったり 求人情報誌を買ったり もらってきたり パソコンやケータイで探している姿を 父も ほぼ一日中一緒の母さえも見かけたことはなかった。

驚きとともに 嬉しさが込み上げ 父も母もうっすら涙目になっていた。

「…で?どこに?…近いのか?仕事場は…」

父が聞いた。

「…あっ…八重さんとこだよ…ほらっ!昨日 交差点で助けたって話しただろっ…あそこのお手伝いさんが今 急に実家に戻ってんだって…お母さん?だったかが階段踏み外して骨折したからって…ってさっき俺も同じ目にあっちゃったけどさ…骨折はしてないけどさ…」

そこまで言いかけると その情報を知らなかった父が心配し また朝と同じく「ユリシ、大丈夫か?…お父さん…病院連れてくからよ…なんなら…明日 会社休んだってかまわないんだから…」

ユリシウスと母は 「また始まった」と顔を見合わせた。


「…大丈夫だから…俺は大丈夫だよぉ!!大丈夫ったら大丈夫だから…ホントマジで大丈夫だし…」

ユリシウスのクドくて 茶化したような憎たらしい言い方に 父と母は少々イラついた。

「…怪我はさ…いいんだよ…ホント…それもそうだけど…2人とも猫の名前勝手につけちゃったね…お父さんはニャックだし、お母さんはにゃあちゃんってさぁ…ちょっとさぁ…どうよ?」

父も母も自分が気分良くつけた、この可愛らしい子猫の名前にケチをつけられたのが、ちょっぴりシャクだった。

口を開いたのは父だった。

「…したら何かい?…ユリシはちゃんとした名前を考えたっていうのかぁ…まあ…お父さんだって、いい加減につけたワケじゃないけど…そこまでいうんならよ…なぁ…お母さん」

急に自分に話を振ってきたが 母にしたら「待ってました」のようだった。

「そうよぉ、ユリシ…お母さんだって にゃあちゃんがにゃあちゃんにゃあちゃんして可愛らしいから、にゃあちゃんってつけたのよォ…ねぇ、にゃあちゃん!」

短い間に「にゃあちゃん」を五回も混ぜて満足そうな母。

「俺だって、こいつを連れてくる間も、こいつの寝床とか買いに行ってる間も 随分考えたんだぜぇ…なぁ、ミャウシス!」

ユリシウスはさりげない形でさらっと自分が考えてつけた名前を 上手い具合に披露した。

「ミャウシスゥ~~~?????」

両親のはてなだらけのハーモニーは 意外と見事だった。

切り出したのは 母だった。

「…ちょっと!ちょっと!ユリシウスさんよ!…ミャウシスはあんまりじゃない?…ねえ、お父さん」

今度は母から父へのパスだった。

「ええ~っ!ミャウシスなんておかしいだろぉ~…お前センス悪いねぇ…」

ユリシウスは父の発言にカチンときた。

「なんだよォ!!自分達の方がよっぽどネーミングセンスないじゃんかよォ!…だいたい息子の俺にだって…ユリシウスなんて変な名前つけたじゃないかぁ!それはどうなんですかっ!えっ!…きちんと説明してくださいっ!…ちゃんと由来も…」

ユリシウスの逆ギレに近い反論に 両親は神妙な気持ちになった。

ほんの数秒の沈黙の後 母が真剣な表情で先に話始めた。

「そうよねェ…いつかはちゃんとした由来を話さなくっちゃいけないわよねェ…いつだったかみたいに 曖昧に濁しちゃいけないわよねェ…じゃあ…話すけど…いい?」

ユリシウスは神妙な顔つきで頷き 手のひらには汗がびっしょりだった。

「じゃあ、話します。ちゃんと聞いてね。…ユリシウスがお母さんのお腹にいた頃…だから…だいたい25年前くらい前に ある映画が大ヒットしたのよ…」

「映画?」

ユリシウスはそこまで聞くと ちょっとイヤな予感がした。

「ハリウッドの超大作でねぇ、制作費が何百億とかでぇ…ギリシャ神話?だったか、古代ローマ?だったかのお話でね。」

「いや…お母さん…古代ローマだよ!」

「えっ!そうだった?…あたしはてっきりギリシャ神話の方だったと思ったけど…自信がないから 一応両方言ったのよ…」

「やっぱり古代ローマだよ!絶対そうだってお母さん」

「そうかしらぁ?…なんかギリシャっぽい気がするけど…」

「いんや!絶対に古代ローマだって…片乳出した布一枚の衣装だったろうがぁ?…」

「…えっ?そうだけど…ギリシャだってそんなの着てるわよぉ…だからギリシャだと思うけどねぇ…あたしは…」

……

「いいよ!どっちでも!…そんなのはどうでもいいからさ!…お母さん続けて!続けて!…お父さんは終わってから発言して下さい!」

最後は裁判官調に締めてみたユリシウスだった。

「ギリシャだけどねぇ…ああ、はい。…でね その映画の主人公の名前がユリシウスだったのよ…」

ユリシウスは クイズ番組で答えが不正解だった時のように 食卓の椅子からダッシュートしたような気分だった。

「聞いて!聞いて!それでお父さんと素敵な名前だからってつけたのよ!」

「ホントに素敵か?」

ユリシウスは声には出さず心で突っ込み 訝しげに母を見た。

「そうよォ…ユリシウスのユは勇敢で リは立派で シは紳士的な ウは美しい心を持った スは素敵な子。って意味をつけたのよ!」

母は嬉しそうに優しい笑顔で言いきった。

「えっ!そうだったかぁ?…俺はてっきり ユリシウスのユは裕福な リは立派な家の シはしずしずと大人しい感じの ウは美しい娘さんと スは素晴らしい逆玉婚ができますように…だとばかり思ってたけどよ…違うのかい?…お母さんのがピンポンかい?」

悪気など一切ない 澄み切った表情で淡々と話す父だった。

両親の話を膝で拳を握りしめながら 黙ってじっと聞いていたユリシウスだったが つい声を荒げた形で叫んだ。

「俺の名前はあいうえお作文だったってことかい?」

怒る息子をキョトンと見つめる父母だった。

「…えっ?…あいうえお作文って…どういうの?」

母の発言に ユリシウスの怒りの炎は一気に消沈し 激しい脱力感と疲労感で急にトーンダウンしてしまった。

「…ええ~っとね…あいうえお作文ってのは…う~ん…なんて説明したら…」

その時 丁度テレビの7時のニュースで いい例を伝えてきた。

「ほらっ!OPECとかさ、TPPとかあるじゃんか…ホントはものすごく長い名前だけど 単語の頭文字をとって並べたやつ…ピンとこないかなぁ…そうだ!USAってアメリカだけどさ…正式にはUNITED STATES OF AMERICAで

Uはユナイテッドで Sはステイツ でAはアメリカで…ほらっ!USAになるじゃん!…あれよ!あれ…」

ユリシウスはものすごくわかりやすくて 上手い説明ができたとドヤ顔だった。

それを真剣に聞いていた父が口を開いた。

「…それはわかった!…あいうえお作文がどういうものか 本当によくわかったんだけどよ…アメリカの(オブ)のオーは?どこ行っちゃったの?」

「そっ…それは…」

ユリシウスの全身が硬直し おかしなタイプの汗が尋常じゃなかった。

「…ホントにどうしたんだろうねェ…」

それが精一杯だった。

父も母もキョトンとしたまま 硬直する息子を凝視した。

新しい家族の一員のにゃあちゃんで ニャックで ミャウシスは 可愛くミ~ミ~鳴きながら お母さんの足にスリスリしてきた。


「…それはそうと…ユリシの就職祝いやらなくっちゃねェ…」

ウキウキ笑顔で 張り切る母だった。

「…そうだなぁ…よしっ!明日俺が仕事から帰ってきたらよ…真っ直ぐ回転寿司にでも行くか!…なっ!どうだ?…ユリシもお母さんもいいよな?なっ?」

「さんせ~い!決まり!…ユリシところでいつから仕事?…明日は大丈夫かい?」

母の表情が嬉しさ絶頂から 最後は心配そうに沈んでいた。

「…ああ…大丈夫!大丈夫!…仕事はいつからでもいいんだって!だから明日から早速お世話になろうと思ってさ…お手伝いのみっちゃんさんがいなくって、結構困ってるみたいだからさ…あっ!だけど…始まる時間ってのは 八重さんが朝ドラをゆっくり見てからにしてって言ってて、じゃあ8時半からっていうことになったんだよ…まあ…終わるのは何時でもいいらしいけどね…だから、明日みんなで出掛ける時間に間に合うように帰って来るさ!…そうそう!俺さ、自転車で行くから…お父さんのやつ借りるよ!いいかい?」

「ああ、いいよ!なんぼでも乗ってけェ…なんかあったらお父さん いつでも会社早退して来れるからよ…」

「またぁ…」

ユリシウスと母の声がハモった。

夕食後 珍しく一番風呂に入り そうそうに2階の自室へ向かおうとすると 両親がおもむろに声をかけてきた。

「えっ?何っ?」

階段の一段目に片足をかけたところで振り返ると 父と母がぴったりくっつき 並んでこちらを向いていた。

「えっ?どしたの?まだ何かあるっけ?…あっ!ミャウシスね!はいはい!そうだった!そうだった!…自分で育てます宣言したってのに、のっけから放棄しちゃいけませんわな…」

ユリシウスはおどけたように すっかり忘れていたミャウシスをようやく思い出していた。

父が言った。

「ニャックは下にいさせるからよ…買った道具 下に下ろして来てくれっ…そうじゃなくて…せ~の!」

「ユリシウスくん!就職おめでとう!」

2人でハモって パチパチと拍手。

父と母のお祝いの言葉に 思わず涙が出そうになった。

「ごめんね…さっきからお父さんもお母さんも 一度もおめでとうって言うの忘れちゃってて…だって、昨日からいっぱい色んなことがあるもんだから…にゃあちゃんのこともあるし…怪我のことも心配だし…でも 明日から行くんだものね!しっかり仕事の準備して 今日は早く寝なくちゃね!」

「そうだぞ!しっかりきっちり頑張ってこいっ!」

ニコニコ笑顔でいっぱいの父と母に 両方の腕をバシバシ叩かれたが ユリシウスは全然痛くなかった。


自室に戻り 久しぶりに仕事の準備に勤しんだ。

学生時代に使っていたエナメルのスポーツバッグの小さい方を押入から引っ張り出し 鞄に入れる物をイチイチ声を出しながら確認し入れていった。

それがなんだかとても楽しく感じられた。

ふとバッグを出してきた押入に目をやると 見慣れたスーツが何着か見えた。

「そっかぁ…もうあんなのしばらく着ないんだよなぁ…って 辞めてから一回も着てないけど…」

以前は毎日着ていた愛着のあるスーツが 今はすっかり色あせて見えた。

支度が終わると ベッドにゴロンと横になった。

そのまま眠るつもりだったが「そうだ!報告しなくっちゃ!」と思い立ち 心配してくれていた仲間達に早速メールを開始した。

一斉送信してほどなく 妹尾克雄から返事が来た。

「おめでとう!ユリ!いかったなぁ!ところでその八重さんって美人か?教えてくれな!そのうち会おうぜ!就職祝いに俺がた~んとおごっちゃるけん!うししししし」

克雄は相変わらず 女に目がなかった。

というより 彼女が欲しい症候群だった。

キスやHにはさほど興味はないらしいが 彼女とのデートやなんかの妄想はすごかった。

「彼女ができたらやってみたいこと」というノートを作っていたほどだ。

ちょっとだけふざけて中を見たことがあるのだが その内容がなんとも言い難かった。

「自分がちょっと落ち込んだ時や寂しい時 後ろからそっと抱きしめてもらいたい。(できればその彼女が巨乳ならなお良し)」だの 「一つのコップにストロー2本で 彼女と一緒に同じジュースを飲みたい。(できればオレンジジュースをオープンカフェの道路側の席で)」だの。

同じ男として ちょっと退いてしまった。

メガネでぽっちゃりさんの克雄の名前は 10こ上のお姉さんが国民的長寿アニメが好きで 主人公がやはり10こ下の弟が悪さをした際 「カツオ~~!」と追いかける場面が特にお気に入りだったらしく 「弟が生まれたら是非やってみたい!」と両親に懇願し その願いがまんまと叶った形で「克雄」と命名されたんだそうだ。

自分の「ユリシウス」という名前もなんだかだけど 「克雄」の名前も由来がなんだかだよな。と 2人でよくぼやいたもんだった。

次は雪が電話してきた。

「ユリ!おめでとさん!いがっだねェ!近々みんなでよ!あづまって…お祝いするべ!いいよなぁ〜?駄目だべけ?都合つげるがらよ!…」

雪はなかなかの美人だが 何故か訛りが結構ある。

高2の遠足で 英語で「おっぱい」という意味の「TITS」とデッカく書かれたTシャツを着て来てしまい 英語の先生や英語がわかる生徒達に激しく笑われショックで泣いてしまったので まるみと克雄とユリシウスで慰めながらも慌てて 一番近くにある洋品店で新しいTシャツを買ってあげたのだが 今度は新しい青いTシャツの後ろに 真っ白い縦書きの習字文字で「健康の為なら 死んでもいい」と書かれてあって 知らずに買って来たとはいえ 随分可哀想なことをしちゃった苦い思い出が甦った。

そして 雪もやっぱり名前でちょっぴり苦労したことがあるそうだ。

高校時代に通っていた近所の教会に アメリカからわざわざゴスペルを歌う合唱団がコンサートをやりに来た時 雪は初めての外国人に緊張しながらも 習った学校英語で一生懸命自己紹介をしたという。

その際 握手しながら相手の黒人男性がなんとも言えない表情で 何度も雪に名前を尋ねたそうで 雪も必死に大きくハッキリと「マイネームイズ アライ」と言うと 彼は優しい笑顔で両手でギュッと手を握り 笑うのを我慢している様子で向こうへ行ってしまったという。

雪は何か失礼をしたのでは?と不安になり 一緒に通っていたあの「肉」の横川さんに尋ねたところ 「ほらっ…a Lieって英語で嘘つきって意味だからじゃない?雪ちゃん 新井さんだからさ…全然悪くないのにね…名字だもん!仕方ないのにね…」と慰めてもらったんだそうだ。

あの普段は「肉」のことしか考えていないと言われていた横川さんに…。

そんな雪も克雄もまだ実家にいる。

だから 何かと会える機会も多いのだが 子供時代ほどはひょいひょい会えなかった。

雪との電話が終わると今度はまるみから「就職おめでとう!今から会える?」のメールだった。

だが昨日会ったばかりだし 明日から早速仕事なので丁重に断りの返信をすると 「わかった!今度お祝いしようね!」と返ってきた。

ようやく報告も終わり ユリシウスは満足して目を閉じた。

開けている窓から涼しい風がふんわり入り 秋の気配が少しだけ感じられた。


ユリシウスは 仕掛けて置いた目覚まし時計よりも だいぶ早く目が覚めた。

「…ふわぁ…おはよう…」

「あら おはよう!・・・どう?昨日はちゃんと眠れたぁ?…今日からお仕事なんだものね!万全でいかなくっちゃね!それはそうと足とか大丈夫なのかい?…湿布取っ替えてあげるから ちょっとそっちで待っててちょうだい!」

「あっ…いいよ!いいよ!お母さん。そっち忙しいからさ…自分でできるから…」

「そう…」母はちょっぴり不満そうに台所へ戻って、朝食の続きを作り始めていた。

いつもは出勤ぎりぎりまで起きてこないのに 今日は珍しく早起きしている父は 子猫を抱いて赤ちゃんをあやすように「よしよし」と揺れていた。

昨晩 ユリシウスが早々に眠ってしまい いつまでも子猫のものを持って降りてくる気配がなかったので 父と母は勝手で悪いと思いつつも 部屋に入りすっかり道具を下の部屋に引き上げていた。

ついでにつけっぱなしだった電器を消すと 2人静かに「おやすみィ!ユリシ…明日からしっかり…」の後 父は「な」で母は「ね」で締めた。

その様子がテレビの「寝起きドッキリ」風だった。

「…おはよう!お父さん…そいつ、夜大丈夫だった?…それとごめん…買ったやつ下に持ってくるの大変だったでしょ?…ホンっトごめん…なんか疲れちゃってさ…自分でもいつ寝たかわかんなかった…」

父は相変わらず子猫を腕に抱いて揺れながら ソファーで朝刊を読もうとしていたユリシウスの傍に にじりにじり歩み寄ってきた。

「…ああ、おはよう…なんも気にするなって…そんなこといちいち…それよりお前体の方は大丈夫かぁ?…今日から仕事なんだから…ちゃんとできるかお父さん心配でよ…なんなら…休んで一緒に…」まで父が言いかけると すかさず「大丈夫だって!俺、もう子供じゃないんだからさ!心配はありがたいけどさ…ホントに大丈夫だから…それはそうと、今日何時頃戻ればいいかなぁ?…回転寿司に連れてってくれるんだよねェ…」

「そうさなぁ…お父さんは6時過ぎには帰れると思うから…お前もそのぐらいでいいぞ!…回る寿司でわりいなぁ…ちゃんとした寿司屋でお祝いがいいんだけどもよォ・・・」

父はちょっぴり肩を落とした。

「なんもいいって!いいって!…俺回転寿司大好きだもん!今はどこもすごいだろっ?かえってそっちの方がいいよ!…お母さんの好きそうなスイーツもいっぱいあるしさ…」

「えっ?なあに?お母さんのこと呼んだぁ?…なあに?…ちょっとそれはそうとご飯できたから…食べましょ!…ユリシいっぱい食べてさ…初出勤だもの!途中でバテないようにしなくちゃね!…まだまだあっついから…お父さんもね…って…お父さんはもう夏ばて気味だったわねェ…お父さんはさ、無理しないで…さあ!いただきましょ!…にゃあちゃんはちょっと一人で待っててねェ…」

三人席についた途端 「ごめんっ!ちょっと先に食べてて…」そう言って母はトイレに小走りで行くと その後をちょこまかと子猫がくっついて行った。

「もう…ニャックはお母さん、お母さんだなぁ…昨日もなぁ…俺とお母さんの間に寝かせたんだけどもよ…結局はお母さんの足下に丸まっててなぁ…なんでだべなぁ…」

父は残念そうに 目玉焼きをご飯の上に乗っけていた。

「まあ…そのうちだって…ところで…夜、お母さん…喘息とか大丈夫だったの?」

ユリシウスの家で「毛の動物」が飼えなかった理由の一つに 母の長年の喘息もあった。

だが ユリシウスの知る限り母はもう10年くらい発作を起こしておらず 母自身も「病院に通わなくって楽ゥ!」なんて のんきに喜んでいた。

「ああ、全然…あの通りだったわ…しかし、あれだなぁ…猫…可愛いなぁ…お父さんなぁ、今まで毛の動物って飼ったことなかったからよ…あんなに小さくても…ちょっとな…正直おっかなくってよ…したけど、こうして実際一緒に一晩共にしたら、そんなのぜ~んぜんでよ…ホント…ありがとな…ユリシ…ニャック…すっかりうちの子だよ…」

「あらっ?なあに?何の話ィ?」

トイレから戻った母の後について 子猫のミャウシスは今度は母の足にスリスリと甘えていた。


「さて…そしたらいってきま~す!帰りまたメールするからぁ!」

母にそう告げると ユリシウスは父に借りた自転車にまたがり 早々と出掛けていった。

「ちょっと早いんじゃないの?…朝ドラ見てからじゃないと駄目なんでしょ?」と母に心配されたが ユリシウスは確かめたいことがあったので早めに出掛けた次第。

樺山から教えてもらって衝撃を受けたので 高校時代の通学路が本当に八重さんの家の裏手なのか どうしても確認しておきたかったのだ。

家を出てすぐ 向かいのおじさんに捕まってしまったが 自転車に乗ったまま爽やかに「おはようございま~す!」と元気良く挨拶をして やり過ごした。

向かいのおじさんは決して悪い人ではないにしろ 我が家に 特にユリシウスに興味があるらしく 実家に戻ってきてからは「今 何やってんの?」だの 「これからどこに行くん?」だの 外に出る度必ずと言っていいほど ぷか〜っとたばこを吸いながら自分の家の前に停めてある車の前で立っているのだ。

それが監視されているようで 実のところ父も母もあまり良くは思っていないらしかった。

まだ朝なのに お日様は眩しく暑さもかなりになっていた。


まだ夏休み中というので 何年かぶりに通る通学路は クラブ活動に向かうジャージや野球のユニフォームの軍団と 制服組が数人。

皆 目指す方角は一緒なので 自転車でゾロゾロと進む光景が 心なしか自転車でごった返す外国の通勤風景に通ずるものがあった。

久しぶりの朝の自転車は どう形容したらいいのかわからないほど 清々しく気持ちが良かった。

ユリシウスは数年ぶりに辿る通学路がとても懐かしく感じ 進む風景を眺めながら「あ…そうそう!」なんて 心で呟いたりした。

そして 途中から生け垣そして 長い塀が続いていることに気がついた。

「…ああ…ここ…そっかぁ…これが八重さんとこなんだぁ…して…あの入り口にグルッと…はぁ…そっかぁ…」

わかってしまうと「なぁんだ」という気持ちになった。

塀伝いに進んでいくと 途中から途切れた。というよりも 角であり そこからまたグルッと塀が続いていた。

学生軍団とはここでお別れだった。

ユリシウスはその角を曲がったことがなかった。

なので どうりで八重さんの家の正面側を知らない。と悟った。

グルッと八重さんちの周りを回り 見知った家へ続く入り口に辿り着いたのは 約束の開始時間の5分ほど前だった。

道路と生け垣の境あたりに 一人の女性が庭箒を持って仁王立ちしていた。

ユリシウスは 真っ黒に日焼けした筋肉質の小柄な年輩女性が ちょっぴり怖かった。

「…あの…おっ…おはようございますゥ…今日からこちらでお世話になる者なんですけども…あのっ…八重さんは…あっ…あの、こちらの方ですか?」

恐る恐る仁王立ちのおっかない顔のおばさんに声をかけた。

その女性はおどおどしているユリシウスを カッと目を見開いて上から下まで舐めるように見てきた。

その短い時間が とても怖かった。

「ふ~ん、あんたかい?…奥様が気に入ったって言ってた若い野郎は…」

風貌だけではなく 言葉や態度も怖い感じの女性は ユリシウスに「ついて来い!」の仕草をすると スタスタと家の方へ歩いて行った。

女性に圧倒され 少しばかりぼんやりしていたユリシウスは自転車を押しながら 彼女の後について行った。

玄関前には八重さんが庭で積んだ矢車草をいくつか手に持ち 笑顔で迎えてくれた。

「おはようございます!今日からお世話になります。未熟者ですが、一生懸命頑張りますので どうぞよろしくお願いします!」

ユリシウスは 自分を雇ってくれた八重さんと まだわからない年輩女性に深々と頭を下げて 彼なりに精一杯挨拶をした。

「おはようございます。ユリさん…こちらこそ、今日からどうぞよろしくねェ…そうだ!みっちゃん…この方が話してたユリさんよ…どう?素敵な青年でしょう…ねェ、どことなく家のパパさんに似てない?若いときのパパさん…似てると思ったのよォ」

八重さんは少し頬を赤らめて 少女の様に照れた。

「全然似てませんよ!奥様…旦那様はもっとこうガッシリして…こんな若いひょろっこ…ホントに大丈夫ですかぁ?…まぁ、丁度男手が欲しいと思ってたから これからガンガンやってもらいますけどもね…」

キビキビした色黒のおばさんは 噂の「ブスのみっちゃん」だった。

「こっちは心配ないから」と八重さんから連絡をもらったものの 新しく仕事仲間となる「若い男」がどうしてもどうしても気になったみっちゃんは 夜行バスでわざわざ一旦戻って来たそうだった。

「ねぇ、みっちゃん、お母さんの具合は大丈夫なのォ?お父さんは?元気?…こっちはユリさんがいるから…ホントに大丈夫よォ…」

八重さんは朗らかだった。

「はい…奥様…今日の夕方には戻りますけど…その前にこの子にしっかりとやることの説明をしておきたいので…帰るまでにしっかり教えておかないと…あたしも気が気じゃなくて眠れなくなっちゃいますから!」

「あら、みっちゃん…いつでもどこででもすぐにぐっすり眠っちゃうじゃないの…」

八重さんはキョトンとそう呟いていた。


「そうだ!あのっ…八重さん…今日はちょっと早めにあがらせてもらって構わないでしょうか?」

「えっ?ああ、構わないわよォ…そうよねェ…なんたって今日は初日なんだものねェ…疲れちゃうわよねェ…」

八重さんは少し驚いたような 少し残念そうな表情だった。

「あっ!いえ、今日…その…あの…両親が僕の就職祝いだってことで みんなで回転寿司に行こうって約束になってて…」

「そう…そうなのォ…あっ!ねェ、それだったらね…家でやったらどうかしら?ねェ…あたしもご両親にきちんとご挨拶したいわぁ…どう?駄目かしらぁ?…あたし、ご馳走をた~んと作るわよっ!…そうしましょ!あ~楽しみだわぁ…ねェ…みっちゃんもいいと思うでしょ?」

無邪気にはしゃぐ八重さんの笑顔は とても90歳のおばあさんには見えなかった。

「ええ!そうですねェ奥様、いいですねェ…久しぶりですねェ…奥様のご馳走なんて、あたしも楽しみだわぁ…戻って来て良かったわぁ…そうと決まれば、ユリさんよ!後でみんなで買い出しに行きますよォ!奥様…ご馳走の準備は早めにしますかぁ?」

「そうねェ…沢山作らなくちゃいけないから 仕込むのに時間がかかるものねェ…お昼ぐらいには行けるようにしましょうか?」

「わっかりました!じゃあ早速ユリさん借りてきますよ!…っと その前にご両親に連絡!連絡!」

ユリシウスは言われるがまま父と母にメールをした。

八重さんとみっちゃんの行動力に 少々圧倒され気味だった。


母からすぐに電話があった。

「何っ?ホントにいいのォ?悪いんじゃない?あっでもあたしは留守番するから、あんたとお父さんだけおよばれしてちょうだいな…だって…にゃあちゃん一人にさせておけないでしょ?まだ赤ちゃんなんだし…連れてってもいいんだったら話は別だけど…」

電話の向こうの母は残念そうだった。

「あらっ…どうでした?お母様達オッケーかしら?」

嬉しそうな八重さんに 電話でのやりとりを話すと 「や~ね、いいに決まってるじゃないのォ…だって子猫は元々家にいたんだからぁ…あっ!そうだわ!後で買い物に行くついでに我が家用の猫ちゃんの物も用意して置こうかしら…それだったらいつでもユリさんご一家が来る時便利でしょ?…みっちゃんもそう思うでしょ?」

急に話を振られたみっちゃんも 子猫が楽しみらしかった。

まだ会っていくらも経っていないが みっちゃんがそう怖い人じゃないことが何となくわかった。

「さっ!じゃあ早速案内するから…あたしについて来てェ!!」

みっちゃんは相当張り切っていた。

ユリシウスは気を引き締めて みっちゃんの後に続いた。

仕事は沢山あった。

家のあらゆる場所の掃除から 洗濯 アイロンがけに草刈りなどなど 一人暮らしの経験があり 少しは家事をこなせるユリシウスだったが 何せ家の規模が一人暮らしの部屋や実家とは大きく異なる為 洗濯物やアイロンがけはそうでもないが 掃除する場所の多さや広さが桁違いなので これを何十年も一人で淡々とこなしていたみっちゃんの凄さを思い知った。

「広いでしょ~、でもね お掃除は滅多な時以外はさらっとで構わないのよ…だって普段はあたしと奥様だけだからさ…自分達が頻繁に使うトイレやお風呂やベッドルームと玄関 後はキッチンとリビングぐらいでいいのよ…お客さん用の部屋や昔の使用人のところは今は開けてないし…」

ユリシウスは部屋を案内してもらいながら その場その場の掃除のやり方をイチイチ説明してもらい ポケットに忍ばせていた小さなメモ帳に逐一書き記していった。

そしてやっぱりこの「みっちゃん」という人が 最初の印象とはまるで違い とても優しく穏やかな性格の人なのがよくわかり 八重さんが言っていた通りだとも思った。

2階の八重さんの部屋からは 裏の大きな庭が丸見えた。

亡くなったご主人が八重さんの為にこしらえたそうだった。


「ねェ、ちょっとォ~!あなた達ィ!そろそろお昼にしましょうよォ!」

1階から八重さんはデッカく叫んだ。

その声と共に風に乗って レストランの様ないい匂いがしていた。

ほどよい疲労感と空腹感に そのおいしそうな匂いは酷だった。

「…よねェ…ところで、ユリさん…お仕事…大丈夫かしら?キツかったり しんどかったり…まぁ…まだ初日ですものね…ゆっくりやってもらえたら…あたしはいいんだけど…」

八重さんは言い終わりにチラッとみっちゃんの顔を見た。

「奥様…この人、案外上手にこなしてますよ…大丈夫ですって…案外丁寧で仕事を覚えるのも早そうだし…あたしが戻っても、まずは大丈夫だと思いますよ…まぁ、あたしももうすぐ戻って来れそうなんですけどね…」

今朝はあんなに怖そうだったベテランお手伝いのみっちゃんに褒められ ちょっぴり照れたユリシウスだった。

「あっ…ありがとうございます…僕、ホントに頑張りますから…よろしくお願いしますです…うぐぐぐ…」

ユリシウスは口いっぱいにご飯を入れたまま喋ったので また喉つまりをしてしまい 慌ててドンドンと胸をゲンコツで叩くと、「あらあら」と八重さんには水を、みっちゃんには背中を強く叩かれとりあえずは涙目で事なきを得た。

午後からは約束通りに買い物へ出ることになった。

みっちゃんを先頭に 八重さんの手を引き 生け垣から玄関の間に見える大きな倉庫のような車庫に行くと そこには名だたる外国車が数台 綺麗に並んで停めてあった。

車好きではないユリシウスだったが その整然と並ぶピッカピカの車につい興奮してしまった。

買い物にはよく使うという大きなジープタイプで行った。

みっちゃんの運転は とてもソフトで安心できた。

「大概の買い物はここなのよ…」

着いたところは ユリシウスもたまに訪れる馴染みのスーパーだった。

ご飯を作る八重さんを先頭に 「これ」と言う物をみっちゃんがかごに入れ ユリシウスは2人の後ろをカートを押しながらくっついて歩いた。

お総菜コーナーで 唐揚げがいっぱい入ったパックを3つかごに入れている 横川さんらしき若い女性を見かけた。

ユリシウスは「まだあんなに肉が好きなんだぁ…」と思った。


沢山の食材を買い込み戻ると 玄関前に見慣れた中古の軽自動車が停まっていた。

そして 中には本当に見慣れすぎている面々。

父と母だった。

まだ午後の3時過ぎにもかかわらず 父と母は何故かこのお屋敷に到着していた。

「あれっ?どしたの?…なんで?まだ時間じゃないのに…」

ユリシウスは戸惑いながらも 車から降りてきた父達に尋ねた。

「あっ…どうもォ…この度はうちの息子がお世話になりまして…」

母はユリシウスの問いに答えるよりも先に 雇い主の老婦人に挨拶し始めた。

母と一緒に父も「こりゃどうも!」なんて とぼけた親父風に挨拶を始めた。

「あらぁ、どうも…初めましてかしらぁ?先日はお宅の息子さんに助けていただいてェ…」

八重さんは笑顔で両親と話し始め 「ここじゃなんですから…」とみんなで家に入っていった。

残されたユリシウスは大量の荷物を運ぶので 勝手にドンドンと進む八重さん達と両親について行くのがやっとだった。


聞くと父は嬉しくて早退してきたらしかった。

「何やってんだよォ…そこまでしなくても…ちゃんと時間で来てくれないとさ…こっちだって色々準備があるのに…ただでさえ厚かましいのにさ…迷惑かかるだろっ!ホントすみません。八重さん、みっちゃんさん…」

息子のまっとうな発言に少々うかれ過ぎだったと 父も母も小さく下を向いてしょげてしまった。

揃いも揃って子供みたいに 下唇をビ~っと出して。

「まぁまぁ、いいじゃあないのォ…ねェ…こうして皆さん集まったことだし…ねェ、みっちゃん…」

ほぼ部外者みたいなみっちゃんは そのやりとりを全然聞くどころか 連れてきた子猫の可愛さにぼんやり見とれてぼんやりしていたので 急に八重さんに話を振られると「…はいィ…」と語尾をあげたおかしな口調で生返事をするのが精一杯だった。

結局 約束の時間よりもかなり早く全員が集合してしまったので 母は八重さんの手伝いに台所に立ち みっちゃんとユリシウスはテーブルと食器の用意や洗濯物の取り込みなど ちゃんと仕事に戻り 残ったズル早退の父だけが一人お客様みたいに出されたおいしいアイスティーとクッキーでまったりとパーティーの準備を待っているだけだった。

まだまだ暑い午後だったが 蝉の鳴き声がちょっと前とは違った。

子猫のミャウシスは この家で一番涼しい場所と思われる食卓テーブルの下の床で 丸くなってスヤスヤ眠っていた。


夕食には少々早かったが 八重さんと母が共同で作ったご馳走がテーブルに並ぶと 早速そこにいる全員で乾杯した。

知り合ったばかりの八重さんもみっちゃんも 昔からの知り合いのような錯覚を憶えるほど 両親もすぐに打ち解け 楽しい食事会となった。

八重さんとみっちゃんに 調子こいた父と母はユリシウスの幼少期から現在に至るまでの話を本人の了承を得ないまま 随分色々と話してくれちゃった。

それがユリシウスにはとても恥ずかしく 時に「やめてよ!も~う!恥ずかしいからさぁ…」とソフトに憤慨する場面もあった。

だが ユリシウスが現在 何故家に戻っているかの話になると、この間少しだけ本人から話を聞いていた八重さんとみっちゃんがホロホロと涙をこぼし始めた。

「…そう…そうだったの、ユリさん…随分、頑張っちゃったのねェ…若い時はがむしゃらに突き進まなきゃならない時もあるけれども…ねェ…こんなこと言ったら叱られちゃうかもしれないけれど…ユリさんとこうして知り合えて…あたし、本当に嬉しいのよ…まだ、お互いのことはよくはわからないけれど…でもね、あの時あそこでユリさんに助けてもらって…本当に命拾いしたって思ったのよ…ハンサムでしょう?ユリさん…」

八重さんの何気ない言葉に一同「えっ?そこっ?」と思った。

だが八重さんは動じることなく 淡々と続けた。

「もし…もしもね…あそこでユリさんに助けてもらえなかったとしてもよ…あそこの横断歩道で倒れちゃいそうだったからね…多分救急車呼ばれてたと思うわけなのよ…それで駆けつけた救急隊員の方…多分ハンサムだったと思うのよ…ねっ…だからね、あたし思ったのよ…あの日は例えどんな形にしろ、ハンサムに助けられたんじゃないかって…朝のテレビの占いも あの日は1位だったから…絶対そうだと思うのよ…」

八重さん以外の全員は ただ「はぁ…そうですねェ…」としか言えなかった。

まだ明るかった外はいつの間にか暗くなっていたことに 誰も気づいていなかった。

楽しい会は夜まで続いたが ふと時計を見たみっちゃんが慌てた様子で「奥様!皆さん!ご~めんなさい!あたし、そろそろ出ないと夜行バスの時間だから…」と言った。

そこで急に現実に戻った。

「みっちゃん、実家に戻るんだったわねェ…ごめんなさい…すっかり忘れちゃってたわ…」

八重さんは残念そうだった。

「じゃあ、送っていきますよ!うちので良かったら乗ってってくださいよ!…僕が運転しますから!…荷物先に乗せてきますねェ!」

玄関横に置いてあった荷物を乗せにユリシウスが外に出ると 遠くに街の明かりがチラチラと輝いているのが見えた。

父はおいしい料理と出してもらった今まで飲んだことがないようなおいしいワインで、ベロンベロンに酔っていた。

母は片づけを手伝うので残るといい 父はソファーでぐっすり眠ってしまっていたので、みっちゃんを助手席に乗せて ユリシウスは自分ちの軽自動車でバスセンターまで送った。

住み慣れた街も昼と夜では 違った風景に見えた。

発進してほどなく 助手席のみっちゃんが口を開いた。

「今日はどうもねェ、ユリさん…これから奥様のことお願いしますよ…男手が欲しかったから あたしも助かるわぁ…」

「そっ、そうですかぁ…こちらこそ、ホントによろしくお願いしま~す…今日はみっちゃんさんにいっぱい教えていただけて…ホントにありがとうございました…ところで…みっちゃんさん…いつ頃戻ってこられそうなんですかぁ?」

ユリシウスはちょっぴり緊張していた。

反対車線からのライトが眩しかった。

「…そうねェ…ホントは早めに戻ってきたいんだけど…母はね、2〜3日で退院らしいのよォ…だけど問題は父でさ…家のことほとんど何にもできない人だからさ…今まで母任せすぎたのよねェ…だから…なかなかすぐってワケにはいかないかもしれないわねェ…ところで、いいご両親ねェ…ユリさん…ホントにいいご両親だわぁ。」

助手席でただ前をジッと見据えたまま みっちゃんはつくづくそう言った。

ユリシウスは両親を褒めてもらえて 照れくさいように笑った。

「そして、ユリさん…良かったわねェ…奥様ホントにいい方だから…それにちょっと変わってるでしょ?」

「ええ…なんか可愛いですよねェ…八重さん…面白いし…」

「前にもね、自分は悪い魔法使いに老婆にされる魔法をかけられたんだって、近所の子供をからかってね…またその子…あっ!女の子だったんだけど…その話を信じちゃってねぇ…丸っこいテカテカした顔して…そうそう その子よく行くコンビニでレジやってて、あたしも奥様もびっくりしちゃったわぁ…名札見たら見覚えのある名前だったからさぁ…中東ちゅうとうって名字だったかしら?」

ユリシウスは すぐに「まるみだ!」と思って吹き出してしまった。

みっちゃんは無事に夜行バスに間に合った。


昨日すっかり八重さんにご馳走になったユリシウスは みっちゃんが戻ってしまったが張り切って仕事をした。

まだ足の細かい傷がお風呂掃除の際に少し染みた。

八重さんは週に一度病院へ行くことになっていた。

やはり年齢も年齢なので 病院通いは仕方ないのよ。なんて笑って言っていた。

綺麗に刈り込んである生け垣などは 月に一度シルバー人材センターにお願いしているとのことだった。

八重さんのところでの仕事も慣れてくると お昼休みやお茶の時間にそれぞれの話を沢山するようになっていた。

「そうなのよ…あたしがこの家に嫁いで来たのが戦時中でしょ…物が何にもない時代でしょ…実家は兄弟が多かったし、貧乏だったし…でもね…ここはずっと農家で地主さんだったから、食べるものがいっぱいで…あたし、天国じゃないかって思ったのよォ…パパさんは優しくっておっちょこちょいで…だけどすごいハンサムだったのよォ…髪はね、だんだん薄くなってきちゃったけど…モテたそうよォ…結婚する前だけど…あっ!そうそうユリさん…パパさんの写真見る?」

八重さんは大事そうにリビングの隣の仏壇から 大きめのアルバムを持ってきた。

「これよ!この人!」

八重さんが指さすセピア色の写真の主は 立派な口ひげを蓄えた骨格がしっかりした大柄な紳士だった。

立っているその紳士の前の椅子に座っている 可愛らしいご婦人は八重さんだった。

ユリシウスは笑顔の八重さんと緊張気味に写っているご主人がお似合いの2人だなぁと思った。

「いいでしょ?」

「はい!ホントに素敵ですねェ…僕と同い年ぐらいなのに…こんなに立派で…すごいなぁ…」

ユリシウスは心からそう思うと同時に 今の自分はどうだろう?と少し哀しくなった。

ピンポ~ン!

ふいに玄関のチャイムが鳴った。

出るとそこには馴染みの面々が。

幼なじみの中東まるみ 新井雪 妹尾克雄の3人だった。

「こんにちはぁ!!」

3人は元気いっぱい挨拶をした。

「あっ?あれっ?どしたの?みんな揃って…」

驚くユリシウスの後ろから 「どなたぁ?」と八重さんが玄関まで出てきた。

「あっ!こんにちはぁ!あのっ!僕たちはユリシウスくんの幼い時からの友達でして…そのですねェ、今日こうしてお伺いしたのはですねェ…ユリっ!お前ちゃんと八重さんに説明してないのかぁ?おいっ!」

克雄は慌てた様子だったが ユリシウスは何故かぽかんと突っ立ったままだった。

「え~と…何だっけ?何を説明すればいいのかなぁ?」

「ええ~~っ!!ちょっと!ユリ!あんた忘れてんのォ!!メールしたじゃん!明日みんなお休みだから 久しぶりにみんなで海に行こうってさ!約束してたじゃん!あんたもじゃあお休みとるわって言ってたじゃんよ!先週だよ!先週!先週からの約束だよっ!!」

まるみの怒りはもっともだった。

ユリシウスは普段はさほどいい加減な男ではないのだが 八重さんのところでの仕事にも慣れ 家に戻ると新しい家族の子猫のミャウシスとの時間が楽しく その日その日を精一杯やり遂げると疲れてぐっすり眠ってしまい 夜中にメールや何かがきても寝ぼけたままでやり過ごしていた。

それほどユリシウスの毎日は充実していたせいで まるみ達との約束をすっかり忘れてしまっていた。

「…えっ…そうだったっけか…じゃあ…みんなごめん!ホントにごめんなさい!申し訳ありませんでしたっ!」

とりあえず深々と頭を下げた。

そのやりとりを目撃していた八重さんがおもむろに 「あたしも海に行きたいわぁ…もう何年も行ってないんだもの…」と呟いた。

「したらよ…みんなで今がらいぐべ!海さいぐべ!」

雪の号令で急きょ 海に出掛けることになった。

ユリシウスは「約束しったけェ?」と首を傾げたまま 八重さんと自分の荷物を用意し戸締まりをしっかりやり 八重さんは「海楽しみねェ!」とにこやかに雪とまるみの女子チームと声を上げて 乙女のようだった。

克雄の車はおんぼろの赤いワゴンタイプ。

運転の克雄と助手席はユリシウスが乗り込み、後部座席は真ん中に八重さんを挟んでまるみと雪の女子で固めた。

八重さんのお屋敷から一番近い海水浴場までは おおよそ1時間ほどかかった。

出発したのがお昼過ぎだったので 海水浴場の駐車場は混んで混んで。

結局なかなか車を停められないというので 「じゃあ!」と八重さんの提案で海岸沿いのもうちょっと遠い海水浴場を目指すことになった。

「八重さん、大丈夫ですかぁ?ホントにいいんですかぁ?遠いけど…」

ユリシウスの母親のような心配をよそに 八重さんは「大丈夫よ!やぁねェ子供じゃあるまいし…」と無邪気だった。

上空に広がる青い空は どことなく薄い色になってきたようだった。

行きの車中で 八重さんと仲間達はすっかり打ち解けてしまった。

それが嬉しくもあり ちょっぴり八重さんをとられてしまったような おかしな気持ちだった。

海に着いたのは海水浴客がそろそろ引き上げて帰るあたりだった。

八重さんは少し熱が冷めた砂浜に腰を下ろすと 「ふ〜!」と腕を伸ばして仰向けに寝ころんでしまった。

「はあ…気持ちいいわねェ…ホント…なんて気持ちいいんでしょ…皆さんに連れてきていただいてホントに良かったわぁ…あたし、もう悔いはないわぁ…」

「ちょ、ちょっと!八重さん!やめてくださいよ!縁起でもない!…まだまだ元気でいてもらわないと!」

ユリシウスは真剣だった。

「そうですよっ!八重ちゃん!折角こうして知り合って みんなで海に来てるんですから!」

まるみは八重さんを「八重ちゃん」と呼んでいた。

黄色い空に穏やかな波がキラキラ反射していた。

ユリシウスにとっても何年かぶりの海だった。

老婦人と若者達は 海に足を浸したり 砂の山を作ったり 子供みたいにはしゃぎ海を楽しんだ。

遠くの海岸線には向こうの街の明かりが小さくキラキラしてきた。

海と空を赤く染めながら沈んでいく太陽を みんな静かに見守った。

「そうだ!花火やろう!…俺たち花火買ってきたんだ…八重さんも花火やりましょう!」

「まぁ!花火!素敵!やりましょ!やりましょ!うふふふふふ…」

聞くと花火は何十年ぶりだと 八重さんははしゃぎながら教えてくれた。

砂浜でわいわい花火をやっている自分達を客観的に見たとき 「うわぁ~ヤンキーくせェ~!!」と思ってしまうユリシウスだった。

帰りはすっかり暗くなった頃で 後ろの女子チームはみんな眠ってしまった。

車中のBGMの「ギブリベスト」が眠りを誘ったらしかった。

克雄は運転しながら お気に入りのアニメの曲をずっと歌いっぱなしだった。

ユリシウスは助手席の窓から真っ暗な外をぼんやり眺めながら 別れた房子を思いだしていた。


前日の疲れが残る八重さんが心配だった。

「海…楽しかったわねェ…皆さんホントにいい子達…今度皆さん呼んでうちでパーティーしましょうよ!今度はお庭でやるのもいいわねェ…なんだかワクワクするわぁ…これもユリさんのおかげね…こんな楽しい思いさせてもらって…本当にありがとう…」

八重さんの目にうっすら涙が見えた。

「少し…横になろうかしら?ユリさん後はよろしくねェ…」

そう言いながらリビングの大きなソファーに横になった八重さんの顔色があまりよくないことに気がついた。

ユリシウスの心配通り 八重さんは少し熱があった。

慌てて通いの内科に行くと 受けつけにはいつもの感じ悪い痩せすぎの女ではなく 代わりにユリシウスのよく知っている可愛らしい若い女がいた。

自然消滅した房子だった。

「あっ…房っ…あっ…お願いします…」

声をかけようと思ったが なんて言ったらいいのか咄嗟に浮かばず ただよそよそしくお願いするので精一杯だった。

「八重さん、大丈夫ですか?ここ誰も座ってないから…横になりますか?」

お昼近い病院は空いていた。


八重さんは軽い夏風邪だった。

やはり前日の海が悪かったようだ。

受付でお金を払うと 房子が話しかけてきた。

「あっ…ねェ…ユリ…シウス…くん…」

「えっ?あっ…何?…房子さん…」

2人ともぎこちなく どこかばつが悪いような気分だった。

「そのおばあさん…ユリシウスくんのおばあさん?具合…大丈夫?」

「…あっ…えっ?ああ、ううん…違うんだ…この人は八重さん…で…え~とね…その…俺の雇い主ってのか…雇ってもらって…俺八重さんちで働かせてもらってて…具合が悪そうだったから…病院にと思って…でも…よかったよ…たいしたことないみたいだから…ホントによかったんだ…じゃっ…」

ユリシウスは房子にそう告げると 椅子で待っている八重さんの傍に駆け寄った。

たったったったった…

後ろから房子が走ってくるのがわかった。

「あっ…あのねっ…ユリシウス…くん…」

「呼び捨てでいいよ、前みたいにさ…ん?何?なんか言いたそうだけど…」

八重さんがゆっくりと立ち上がりながら 2人に話しかけてきた。

「ユリさん、この方は?…あたしはもう大丈夫だから…なんならこの娘さんも一緒にうちに来てもらったら?」

優しい笑顔の八重さんの申し出に ユリシウスと房子はドキドキした。

「あっ…あたし…まだ午後から仕事なんで…」

「…そっ…そうか…残念…じゃあ…ね…」

「ユリさん、なぁにその態度?いつものあなたらしくないこと…あなた?」

「房子です」

「房子さん?…もしかよかったらなんだけど…お仕事が終わったらうちにいらっしゃいよ…うちはねェ、八重樫です…3丁目の八重樫…わかるかしら?」

「あっ、八重樫さん…そっか、さっき診察券でお名前確認したばっかり…わかります!わかります!あの大きなお家ですよねェ…」

房子は興奮していた。

「ええそう…駄目かしら?今日は何かお約束とかあるかしら?」

「いいえ…あの…大丈夫です!ホントにいいんですか?あたしなんか行っても…」

「ええ、かまわないに決まってるじゃないですか…だってあなたユリさんのお知り合いなんでしょう?」

ドンドンと進む2人の会話にユリシウスはどんな顔でいたらいいのか わからなかった。

その夜 房子がお屋敷を訪れるまでの間 ユリシウスは房子との関係を包み隠さず八重さんに話した。

「まぁ、そう…元の彼女さんだったのねェ…房子ちゃん…なんだか切ないわねェ…ユリさん…今でも房子ちゃんのこと好きなんでしょう?違うの?だって房子ちゃんもあの感じだとまだまだユリさんのこと好きって感じだったわよォ…違うゥ?そうだわ、こんな時は…」

八重さんはバッグからケータイを出し 何やらピコピコやり始めた。

「ちょ…ちょっと八重さん…誰にメールしてんですかぁ!ちょっとやめて下さいよォ!」

ペロッと舌を出した八重さんは すでに誰かにメールを送信したらしかった。

90歳の八重さんは年輩者向けの最新型のスマートフォンを 使いこなしていた。

まだガラパゴスケータイのユリシウスも 顔負けだった。

すぐに誰かからの返信が来た。

相手はまるみらしかった。

「あら、まるみちゃん早いわねェ…」

八重さんと海に行った際 すっかり意気投合したまるみも雪も克雄も とっくにメルアドを交換していた。

「まぁ…そう…わかったわ…ありがとう…まるみちゃん…」

メールを読みながら八重さんは 独りごちていた。

午後からは雲行きが怪しく 洗濯物を早めに取りこんだ。

八重さんはリビングのソファーでお昼寝をしていた。

ユリシウスが具合が悪いのだから きちんとベッドで。と言うのも聞かず 「あたしは、ここが気持ちいいわ…ユリさん悪いけどタオルケット持ってきてくれるかしら?」と ソファーで眠ってしまったのだ。

その間 ユリシウスはアイロンがけや 今度の資源回収日に出す古新聞や雑誌をまとめたり 庭の壊れた雪かきの道具を解体しながら 夕方訪れる房子のことを思った。

体を壊して入院し仕事を辞めて実家に戻って フワフワした生活を送っていた自分。

今でこそこうして八重さんのお屋敷で「お手伝いさん」としての仕事を頑張っているとはいえ 何となくそれが後ろめたいような 隠しておきたかったような気持ちだった。

以前のスーツを身に纒い バリバリと第一線で活動していたかつての俺と エプロン姿で大きなお屋敷でおばあさんの面倒というか そういう仕事をしている今の俺。

堂々と胸を張ったっていいはずなのに 房子に会った時 何故か八重さんを置いて走って逃げたかった。

自分でもそんな気持ちがどうしてなのか わからなかった。

ドンドンと空が濃いグレーの雲に覆われ そのうちポツポツと雨粒が落ちてきた。

慌てて2階に駆け上がり 雨が入らないように窓を閉めて回った。

1階に戻り ソファーでまだスヤスヤ眠る八重さんに 湿った冷たい風が当たらぬように やっぱり急いで窓を閉めた。

…コトン…

玄関で何か音がした。

行くと八重さんの古ぼけた紫色の日傘が倒れた音だった。

「…あ~あ~…」

やれやれとその日傘を手に取ってよく見ると 持ち手に「TtoY」と彫られていた。

「ユリさ~ん…ユリさ~ん…雨よォ…」

八重さんが起きて探しに来ていた。

「あら、ここだったの…ユリさん…雨…それ…」

「ああ…すいません…さっき倒れてたもんだから…このボタン取れかかってるじゃないですかぁ…僕、縫いますよォ…そうそう、この「TtoY」って旦那さんからの贈り物なんですねェ…」

ユリシウスは日傘をマジマジと見つめながら ほんのり笑顔になっていた。

「うふふふふ…そうなのよ…パパさんに買ってもらったのよ…うふふふふ…銀座で…」

聞くと戦争が終わって数年経った頃、初めて二人っきりで旅行したのが東京の銀座で、その際旦那さんが何か思い出になるような物を何でも買ってくれると言ってくれたのだそうだが、八重さんは宝石も毛皮もドレスも何もねだらなかったというのか、ねだれなかったそうで やっと長く苦しい戦争が終わって こうして賑やかに戻った銀座に連れてきてもらっただけで、胸がいっぱいだったらしいのだが、やっぱりどうしても何か記念になるような物を買ってあげたかった旦那さんが八重さんが気づかないうちに、いつの間にか買ってくれていたそうで、帰りの電車の中で「これ」と渡されたのが、この日傘だということだった。

「パパさんね、ホントに優しい人だったのよ…あたし色が白かったから…日に焼けて真っ黒になられちゃ困るゥなんて思ったらしくって…当時日傘なんて刺してるの珍しかったんじゃなかったかしらねェ…もう何十年も前のなんだけど…ボタン…取れかかってるわよねェ…でもね、あたしも…悪いけどユリさんも洋裁は得意じゃないじゃない?だから買い物に行くついでの時にでも修理に出そうかしらね…」

「そうですよ…ちゃんと綺麗に直さなくっちゃ…僕…縫おうなんて軽く考えちゃっててすいませんせした…そうですよね、大事な日傘なのに縫い目が汚くなっちゃ駄目ですよねェ…」

ユリシウスは 安易に「縫いますよ」なんて言ったことが恥ずかしかった。

「それより…八重さん大丈夫ですか?今日は俺がご飯作りますから…八重さんはもうちょっと休んでてくださいよ」

「そォ?でも…ユリさん…大丈夫なのかしら?」

「あっ!僕は一人暮らししてたんですよ!ちゃんと自炊してたんですから…お粥ぐらい作れますよ!任しといてくださいよ!」

ユリシウスはドンとゲンコツで胸を叩いてアピールした。

すると「…お粥…あたし…お粥って好きじゃないのよねェ…折角作ってくれるって言ってもらって悪いんだけども…それだったらうどんがいいわぁ…ネギとかき玉のあったかいうどん…」

「わっかりましたよ!うどんですね!うどん!僕は実はうどんも大得意なんですよ!任せといてください!」

八重さんはユリシウスの発言が ちょっぴり嘘くさいと感じた。


房子は7時近くにやってきた。

その頃には雨の降り方も本格的だった。

折角張り切って作った「あったかかき玉うどん」は 待ちきれなかったので八重さんと先に食べてしまった。

ユリシウスの料理の腕を疑っていた八重さんも 優しい出汁のおいしいうどんをおいしそうに食べてくれ 「ユリさん、あなたやるわねェ…今度合間をみてお料理も教えてあげるわよ…」と 新しい課題を突きつけてきた。

ユリシウスは 自分の舌に自信が持てたし 八重さんの味を受け継ぎたいと強く思った。

ピンポ~ん。

玄関のチャイムが鳴った。

「…すいません…急に押し掛けちゃって…」

房子は傘を刺すのがあまり上手ではない為 頭以外はほぼ全身 ずぶ濡れだった。

タオルで拭きながらリビングへ。

まだ完全じゃない八重さんの代わりに 今日はユリシウスがお茶係だった。

「まぁまぁ、随分濡れたわねェ…寒くない?大丈夫?房子ちゃん…」

家の全ての窓を閉め切っていたので 部屋の中は少々蒸し暑くなっていた。

天井のファンをゆっくりめで回すと 湿っぽい空気がいくらかマシになった。

八重さんとユリシウスは並んで大きなソファーに腰掛け 向い側の一人がけのゆったりしたソファーには房子が座った。

3人が揃っても 誰も口を開こうとしなかった。

しばらくの沈黙に耐えきれなくなった八重さんが 不意をついてきた。

「あっ、ねェ…こうして黙ってるのもなんだから…何かお話しましょっか…ねっ?そうしましょ!そうしましょ!…で誰から?」

八重さんがキョロキョロとユリシウスと房子を期待を込めて見た。

「…あっ…じゃっ…あたしから話します…ユリシウス…くんはいつからこちらに?」

房子は聞きたかったことを順番に聞いていこうと思って聞いた。

すると「ああ、そうねェ…2週間?3週間くらい経つかしらねェ…」 八重さんが切り出し そこからここに至る経緯をゆっくり八重さんなりに 房子に説明してくれた。

ユリシウスは その間 一言も発していなかった。

というよりも どこから話に入ったらよいかわからなかった。といった方が正確な気がした。

「…はぁ、そうなんですかぁ…あたし、ちっとも知らなかったから…あたしはおじさんの…あっ…あそこの先生ってうちのお母さんのお兄さんがやってるんですよ…それで、今までの受付の方が急に退職なさるってことで…ただ家にいるあたしに白羽の矢が立ったってワケなんです…」

そこまで話すとようやくユリシウスが声を出した。

「えっ!房子…いつ仕事辞めたの?」

急なユリシウスに驚きながらも 「あの…あなたが倒れたって聞いてから…」と続けた。

聞くと房子はユリシウスが倒れてまもなく仕事を辞め実家に戻り 看護士になろうと予備校に通い始めたと言っていた。

「なんで?看護士さ…」

「…だって…看護士さんになったら…倒れたユリシウスのお世話ができると思ったの…でもね…でも…難しくて…あたしよりも若い子ばっかりで…何となくついていけなくなっちゃって…結局やめちゃってね…それで今度はヘルパー2級の講座を受けに行ってるの…夜間のだけど…」

房子の発言にドキドキした。

八重さんはズルいような笑顔で いつの間にかそっと席を立って台所に行ってしまっていた。

「…房子…俺さ…ホントにごめん!ホントごめんな…仕事が忙しくなってきて…すんごいイライラしちゃってさ…房子に連絡全然しなっくって…というか…ごめん…連絡も面倒だったんだ…正直…だけど…だけど…倒れて…気がついたら病院のベッドでさ…俺…情けなくって…親にもいっぱい迷惑かけたし、心配かけちゃってさ…ずっと…家でふてくされたみたいになってて…俺…俺さ…自分のことしか考えてなかった…っていうのか、自分のことしか考えられなかったんだ…他の人のことなんてこれっぽっちも考えられなかった…」

ユリシウスは自然と涙でいっぱいだった。

溜まっていたものを 全部吐き出したい勢いだった。

そして…やっぱり房子が好きだと思った。

涙はユリシウスだけではなかった。

聞いている房子もまた号泣していた。

奥の台所で一部始終を目撃し、やりとりをすっかり聞いていた八重さんもまた、ふきんで涙を拭いていた。

外は嵐になってきていた。


「あなた達、別に嫌い同士だったワケじゃないのよね?…今もお互いのこと…大好きなのよねェ?…」

八重さんの問いかけに ユリシウスも房子も頷くのが精一杯だった。

特に房子は涙と鼻水を拭くのに ティッシュを沢山顔に当てていた。

「…だったらまた…元のようになったらいいんじゃないかしら?…駄目?…あたしはすごくいいと思うんだけど…」

八重さんはちらりとユリシウスと房子を交互に見つめた。

八重さんの素晴らしく素敵な提案に ユリシウスは少し戸惑っていたが 立ち上がった房子が「はい!そうですね!」と元気よく返事を返し ソファーの自分にダイブしてきたのを受け止めると つられたような形で「はい!俺もそれがいいと思います!」と叫んでしまっていた。

丁度タイミングよく 外で雷がゴワゴワ鳴った。


ユリシウスはこんな風にあっけなく房子とよりを戻せるなんて 思ってはいなかった。

漫画のような展開の早さに イマイチ脳がついていけなかった。

そして 房子とよりを戻したというのに 後から「ホントにこれで良かったんだろうか?」とうじうじ考えたりもした。

嵐の夜 3人でテレビのニュースを見ていた。

房子はいいタイミングで腹が鳴り ユリシウスが作った「あったかかき玉うどん」をおいしそうに食べた。

八重さんが2日前に作ってくれてあった ココア味のパウンドケーキはみんなで食べた。

結局 嵐がひどく 八重さんの体調も万全じゃないということで ユリシウスと房子はお屋敷に泊まることになった。

外は相変わらず ゴワゴワと風で木々が煽られる音と 強い雨が打ち付ける音がすごかった。


「房子はこの客間を使わせてもらいなよ…俺は下のソファーで寝るからさ…なんかあったらすぐ起こすんだぞ…遠慮しないでさ…なっ…」

2階の八重さんの隣の部屋の客間は 淡い色調の子供っぽい部屋だった。

ユリシウスが1階に戻ると 八重さんがやってきた。

「房ちゃん、すごい雨ねェ…ところで…おうちには連絡済んだ?大丈夫?急な話でびっくりなさったでしょうけど…この雨だもの…外に出るのはかえって危ないものねェ…」

「…はい…すいません…八重さん…あたし…あたし…ううううううう…」

房子は急に泣きだした。

八重さんは房子に寄り添うように ベッドの横に腰掛け 房子の頭を優しく撫でた。

「…あた…あたしっ…ユリシウスに…ずっと嫌われてたんだと思ってた…んです…だって…だって…何度もメールもしたし…電話だってかけたし…心配になって…お家を訪ねたりもしたんです…でも…結局…会えないし…連絡も…しちゃいけないのかなって思って…もしかしたら…他に好きな人とか…できたんじゃないかって…ずっと…ずっと不安で…でも、雪ちゃんとまるみちゃんと克雄くんから…あれこれ色々教えてもらってて…だからっ…だから…あた…あたし…」

「いいのよ…いいの…房子ちゃんは何にも悪くないわ…ユリシウスくんも…ちょっとはいけないわね…でも、そう…そうだったの…辛かったわねェ…女の子ですものねェ…辛いわよねェ…哀しいわよねェ…」

八重さんの優しい言葉に 房子は一層泣いてしまった。

「…あたっ…あたしっ…それでっ…ユリシウスが早く良くなりますようにって…滝に打たれに…行ったんです…」

八重さんはちょっぴり驚いた。

「何故?滝に?」と思った。

だが 静かに続きを聞いた。

「…滝に打たれて邪念を祓えば…ユリシウス…治ると思ったんです…それで…それで…ちゃんと調べて出掛けたつもりだったのに…」

「だったのに?」

八重さんはついオウム返しをしてしまった。

「…あたっ…あたしっ…いつの間にか東尋坊に…行っちゃって…」

「えっ?」

八重さんは まさかあの自殺の名所と言われる東尋坊になんで?と思った。

「ええ…そうなんです…あたしって…すっとこどっこいだから…」

八重さんは 「それはおっちょこちょいの間違いでは?」と深く思うも 泣きながらも真剣に一生懸命話す房子の話の腰を折ってはいけないと思い あえて突っ込むことを諦めた。

「…それで…間違って行っちゃったら…そこの管理をなさってる方が…あたしを自殺志願者と思ったらしくて…」

八重さんは「でしょうね」と 心で相づちを打った。

「いきなり大声で…やめろ~!やめるんだぁ~!…待て!考え直せ!って…」

やっぱり八重さんは「そりゃそうでしょうよ」と思ったけれど 頷くだけで何とかやり過ごした。

「…それで…なんやかんやで…3時間以上…説得されちゃって…おまけに観光客がだんだん増えて来ちゃって…みんなして…あたしを説得しだしちゃって…誰かが救急車とパトカー呼んじゃうし…そんなんで…あたし…結局…滝に打たれることはできなかったんです…地元の新聞の小さな記事に載っちゃったし…あああああああああああ〜〜〜〜〜」

房子の泣き声は 1階の部屋まで聞こえた。


あの嵐の夜以降 房子は仕事帰りや休日になると 八重さんのお屋敷を度々訪れるようになっていた。

ユリシウスはそんなのがなんだか嬉しかった。

そして またユリシウスの母も日中 子猫のミャウシスを連れて 八重さんからお料理やお菓子を習うこともしばしばあった。

「あら、房子ちゃん…お母さん元気ィ?」なんて 房子とも顔を合わせる頻度が次第に増えていった。

八重さんの家で 八重さん ユリシウス 房子 そしてユリシウスの父母 子猫のミャウシスでの食事会は 週一ぐらいのペースで皆集まった。

「…なのよねェ…あははははは…ところで、房ちゃん…調理師免許持ってるんですってねェ…すごいわぁ…たいしたもんねェ…」

八重さんは房子に聞いたらしかった。

「あっ…ええ…そうなんですよォ…そんなすごくなんかないんですよぉ…それで前はカフェでほぼ毎日厨房に立ってて…」

急に房子が照れだした。

すかさず父が「房子ちゃんはいいお嫁さんになるだろうなぁ…なぁ、お母さん…ユリシ…」と言った。

「あ~!セクハラぁ~!」

ユリシウスと母の声がハモッた。

八重さんは房子の調理師免許のことが気になっているようだった。


「おはようございます!」

いつものように出勤すると 八重さんにリビングに来るようにと言われた。

ユリシウスは神妙な顔つきの八重さんに 何か叱られるようなことでもやらかしたんだろうか?と少し不安になった。

「…え~と…あのォ…八重さん?…おはようございます…どうされましたか?…僕…なんかやっちまいましたかね?」

少しすっとぼけた感じで 恐る恐る尋ねてみた。

八重さんが眉間に深いしわを寄せたまま う~ん。と唸ったままだった。

「…あのォ…八重さん…やっえっさんっ?」

ユリシウスが八重の肩をトントンと軽く叩くと いきなりがっと振り向いて「ねェ!あたし決めたわ!どうかしら?いいと思うんだけど?」ともの凄い形相と大声で告げてきた。

「???えっ???…あのぉ…なんの話でしょうか?…ちょっと…僕…わからないんですが…」

ユリシウスは当たり障りのないソフトな言い方で 八重さんに尋ねた。

「えっ!あっ?あらっ?あたし…ユリさんに言ってなかった?」

「はい…言ってなかったです…だから…なんのことやらさっぱりで…」

「そう…ごめんなさいね…いや…あのね…この家、かなり大きいでしょう?…でも 住んでるのはあたしと…今はまだ実家に行っちゃってるけどみっちゃんの老婆2人でしょ…それにうちには子供もいないし…だから、こんなに広い家…維持管理するのがだんだん難しくなってきたなって思うのよ…」

「はぁ…」

「あたしも老い先短いから…」

「やめてくださいよ!八重さん…なんてこと言うんですか!八重さんは後100年以上大丈夫ですよ!」

「あらやだ、人を妖怪みたいに…ってそんなことはいいのよ!今は!…でもね、真剣な話…あたしも90よ…いつパパさんのところに行っちゃったっておかしくないのよ…そうなの!…それでこの間から思いついてたんだけど…この庭が見えるリビングをちょっと改装して…今流行の何?ほらっ…房ちゃんが前に勤めてたって言う…ほらっ…」

八重さんは思い出せずに少しイライラしていた。

「カフェ?ですか?」

「そう!そのカフェをね…ここでやってみたらと思ったのよ…どうかしら?ユリさん…こんなおばあちゃんだけど…夢ぐらい見たってバチは当たらないわよねェ…駄目ェ?あたしももちろんお料理を作るわ!お菓子もね!…でも房子ちゃんに是非手伝ってもらいたくて…後、あなたのお母様にも…駄目かしら?」

ユリシウスは詰め寄られて少し戸惑った。

「…房子本人に聞いてみたらいいじゃないですかぁ?」

少しばかり逆ギレの様に返してしまった。

しばらくの沈黙の後 八重さんは何事もなかったかのように 「そうね」とあっさり答えていた。

そうして 八重さんの突然の思いつきで このお屋敷の改装工事が始まった。

頼んだのは 樺山のところだった。

「やぁ、これはこれは…どうもォ…私 ユリシウスとは中高と同じバレー部に所属しておりました樺山です。どうぞよろしくお願い致します。」

八重さんはユリシウスの友人である、この馬鹿でかい大男が少し苦手らしかった。

まだまだ夏の暑さは容赦なかったが 日中少しづつ合体トンボがスイ~っと飛んでいるのを見かけるようになった。


工事車両が生け垣からの小道にずらりと並び 人の出入りも多くなった。

ユリシウスは午後の休憩時間に作業の方達にお茶とお菓子を出すと 一人玄関の石段に腰掛け高くなった空をぼんやり眺め 一息ついていた。

「ユリさん…お隣、いいかしら?」

表面に汗をかいたグラスを2つ持って 八重さんがやってきた。

「…あっ、どうぞどうぞ…」

八重さんが腰掛ける前に 石段をそっと手ではらった。

「…すごいわねェ…工事…」

「ホントですねェ、なんかあれよあれよで…僕…八重さんすごいなって 改めて思いましたよ…だって、あの炎天下の中、あんな形で知り合ったけど…まさかこんな漫画みたいにドンドン色々進んじゃって…なんか未だに信じられなくって…ホントにこれでいいのかなって思ったりして…」

言い終わるとユリシウスは足下のアリを見た。

「…そうねェ、ユリさんが戸惑うのもわかるわぁ…あたしだって、自分で言い出しといて今更こんなこと言うのもあれだけど…こんなお婆さんになって…新しい人達と知り合えて…若いね…そして新しいことを始めようとしてるなんてビックリよ…パパさんもあっちで驚いてると思うの…でもね…でも…」

八重さんはユリシウスの背中をポンポンと叩くと 少し躊躇ったように黙ってしまった。

「あっ!八重さん、大丈夫ですか?どっか具合悪いとか?…ここんとこ忙しいから 少し体を休めないと…」

そこまで言いかけると 八重さんは力無い笑顔でまたポンポンとユリシウスの背中を叩いた。

「…どうしようかしら…でも…言わないでいるのも苦しいのよねェ…だから…今ならいいわよね…言っちゃっても?」

ユリシウスは八重さんが何を言おうとしているのか 全くわからずにポカンとなった。

「…今だから言うけどね…ユリさんに働いてもらおうと決めてから少しした頃、あなたのご両親から色々伺ってね…家に戻ったあなたが毎日、引きこもりこそしないものの、ただボ~っとしていることが多かったって…だんだん外におつかいとか出掛けるようになったけれど…戻って来たばかりの頃はご両親もあなたとどう接したらいいのか…かなり夫婦で悩んだらしいわ…そうしているうちにだんだん時間だけ勝手に経つでしょ…そんな時にうちで働く話だったんですって…それでね…」

ユリシウスは八重さんの話を聞き漏らさないように 真剣に聞いていたが どうしても顔を上げられなかった。

「…例えバイトだとしても、あなたが働く気になってくれたのが本当に嬉しかったっておっしゃっててね…あたしも詳しい事情は知らなかったとはいえ、人の…未来ある若い人のお役に少しでも立ってたってのが嬉しくてね…そしてあなた、毎日一生懸命みっちゃんがやってた仕事やってくれて…ああ…この子はちゃんとした青年だわと思ってね…」

ユリシウスは褒められて恥ずかしくなったが、まだまだ顔は上げられなかった。

「…それからみっちゃんとも相談してね…大人の男の人なんだから、いつまでもお手伝いさんのアルバイトってのも考えものよねェ…同じ年頃の男の人はバリバリ働いてるっていうのに…あっ…別にユリさんがどうのこうのって意味じゃないの…」

八重さんは自分の発言で 少し動揺した。

「…あっ、ごめんなさい…そうじゃないのよ…お手伝いさんだって立派なお仕事なんだけど…そうじゃなくってね…それで…それでね…みっちゃんとよく相談してね…うちには後を継いでくれる子供もいないし、あたしが死んだらこの家も土地も…ねェ…それだったら誰か信用できる人に託したいなって思って…ついでにユリさんのお仕事もちゃんとしたものになったらって…別にさっきも言ったけど、今のがちゃんとしてないってワケじゃないのよ…そこは間違えないでちょうだいね…うち、大きすぎるでしょ?…だから相続するってなったら、今度は維持管理とか固定資産税とか、色々大変になるじゃない?…だったら房ちゃん前にカフェで働いてたって言うし…ユリさんのおかあさまもお料理上手だし…あたしも自慢じゃないけどお料理は自信あるから…」

ユリシウスはそこで深く頷いた。

下を向いたまま 八重さんに悟られないように泣いた。

自分のことをここまで考えてくれる人がいる幸せ。

ユリシウスは改めて 自分の置かれた状況がいかに恵まれているかを思い知った。

「…す…いません…八重さん…僕なんかの為に…」

ユリシウスは精一杯の声で話すも それはあまりに小さすぎた。

「…えっ?…なぁに?」

「…あの…だから…その…僕の為に…」

「あっ?ごめんなさい…ユリさん声小さい…あらっ…もう工事始まっちゃったわ…余計に聞こえないわ…ごめんなさい…もう一回言ってくれる?なんて言ったの?」

さすがに何度も同じセリフを言うのが恥ずかしいやら 八重さんに聞き取ってもらえないもどかしさやらで ちょっぴりイラつきながらやけくそ気味に今度は大きな声で言ってみた。

「僕の為に!すみません!」

「あっ?…あはははは…ユリさん、それは違うわよ」

折角思い切って言ったけれど 八重さんにあっさり否定されてしまった。

「あははははは…結果ユリさんはユリさんで自分の為ってなったでしょうけど…あたしはあたしの為にやったのよ…ただそれが助けてもらった恩返しも兼ねたらいいなぁとか…あっでも浦島太郎の助けた亀は最後 恩を仇で返す形になっちゃったけど…あたしはそんな意地悪ばあさんじゃないわよ…後ね…大好きな子供向けのだけど…お話でね…大きなチョコレートの工場の後継ぎ探しで、心の綺麗な子供に託すってのがあって…あたしもそんな風にお話の人みたいなことがしてみたいなって思ってたのもあるのよ…ホントよ…今思いついて話してる訳じゃないわよォ…」

「…そうですかぁ…そうですかぁ…じゃあ 僕は心が綺麗な子供ってことなんですね…」

空が少しばかり黄色みを帯びてくると 合体トンボと遠くでアワワワワワとカラスの鳴き声が聞こえ 風が心なしかひんやりしているのを肌で感じた。


夕方になり工事が終わる頃 房子やまるみ達も集まった。

工事責任者の樺山が「なぁ、久しぶりにやんねェ?」 そう言ってバレーボールのボールを出してきた。

「あっ、どしたそれ?わざわざ家から持ってきたのかぁ?」

克雄が尋ねると 「おうよ!いいべ?なぁ、やろうぜ!ちょっくらよ!」

「やるやるゥ!広いところでやろう!…もうちょっとあっち…」

まるみの目が輝いていた。

ユリシウス 樺山 克雄それに房子とまるみと雪の6人で丸く広がって 早速円陣バレーを始めた。

ラリーはあまり続かなかったが それでも楽しくて みんなきゃっきゃと子供のようにはしゃいだ。

元バレー部だったユリシウスと樺山は 久しぶりにやる円陣バレーが嬉しかった。

高校のバレーボール部は弱小だった。

部員は皆 試合よりも練習を兼ねた円陣バレーに夢中で よく調子こいて「ギネスに挑戦」とラリーに精を出していた。

時にはラリーにしりとりや 古今東西を混ぜてはゲラゲラ 皆で大笑いして…

そんなのがバカみたいに面白かった。

八重さんは若者達が目をキラキラさせて遊んでいる姿を 愛おしそうに眺めていた。

夕暮れが早く 空が赤と紫が混じったような綺麗な色だった。


夏休みも終わり 八重さんちまでの通勤に子供達の姿が混ざるようになった。

ユリシウスは初めての給料日に 朝からニタニタが止まらなかった。

いつまでも出しそびれていた履歴書も 昨晩のうちにきっちり書いてバッグにしまった。

普段と変わらないような朝日も 今日は特別美しいような気がした。

「おがようございま〜す!」

「はい!おはようございます。ユリさん…はい!これ…」

到着して早々 八重さんから封筒をいただいた。

表面には「8月分給料」と書かれてあった。

「ありがとうございます!八重さん!ホントにありがとうございます!」

「いいえ、こちらこそ…本当にありがとう…あっ…中に明細書入ってるから、確認してもらえる?」

「はい!わかりました!」

ワクワクしながら封を開けると 中には思っていた以上にお金が入っていた。

「…えっ?…こっ…こんなにいいんですか?こんなに…」

「ええ、もちろんいいに決まってるじゃないですか…ちゃんと会計士の方にやってもらったから大丈夫よ!…これからもどうぞよろしくね…」

「はい!」

今まで働いた給料は銀行振り込みだったが こうして封筒で手渡していただくと お金のありがたみや自分のがんばりが目に見えてわかって 感激もひとしおだった。

そして ユリシウスは仕事をいっそう頑張ろうと決意した。


工事はもう終盤戦に入っていた。

着々とできあがってきていた。

開店準備に追われる中 お昼休みに八重さんに呼び出された。

「あの…なんでしょうか?」

給料をもらって少々うかれ過ぎてたのでは?と心配なユリシウスだったが 応接間に行くと見知らぬクドい顔の男性が待っていた。

「あっ、どうも…」

名刺を差し出したスーツ姿のその人は 行政書士の方だった。

ユリシウスは「なんで?」と思ったが 八重さんとその男性の話に腰が抜けそうになった。

「…というわけでね…この坂巻ユリシウスさんにあたしの全財産を譲りたいのよ…」

「???えっ???何言ってんですか?八重さん…どういうことですか?」

ユリシウスはわけがわからなかった。

「えっ?ああ、この間も話したでしょ…家には相続する人がいないって…だからね…今のうちにユリさんに相続してもらおうと思ったのよ…だってねェ…病院の待合いで聞いてきたんだけど 死んじゃってからだと そういうのの手続きが大変なんですって…やれ「はら戸籍」取ってこいだのって…ねっ…そう言うわけだから…いいでしょ?駄目かしら?」

八重さんは縋るようにそう言ってきた。

「…えっ!…だっ…駄目じゃないですけど…ホントに僕なんかでいいんですかぁ?」

ユリシウスは汗びっしょりだった。

「ええ…いいに決まってるじゃないの…だから行政書士さんにこうして来てもらって…」

八重さんは冷静だった。

「うええっ!!ほっ、ホントに僕なんか…僕なんか…僕なんか…」

壊れたレコードプレイヤーのように 同じ言葉を繰り返すのが精一杯だった。

「いいって言ってるじゃないの!ユリさん…あんまりしつこいとひっぱたくわよ!」

八重さんはクドいユリシウスにかなりご立腹だった。

「…だってですよ…だって…」

パシッ!!!

八重さんの平手がユリシウスの左のほっぺたを直撃した。

「あたしがいいって言ってるんだから ごちゃごちゃうるさいわよっ!!」

「…八重さん…何も叩かなくたってェ…」

2人の間に入ったクドい顔の行政書士が「まあまあ」となだめて なんとかその場はおさまった。


夕方 工事の方達がすっかり引き上げた後 ユリシウスは八重さんとちゃんと話さなくてはと思っていた。

一緒にカフェをやる房子と手伝いのお母さんをリビングで待たせ 八重さんとできあがりかけの改装部分の部屋に行った。

置いてあった木材にそれぞれ腰掛けると ユリシウスが口を開いた。

「…あの…八重さん…昼の話…本当にいいんですか?…僕なんかに譲っちゃって…ホントにいいんですか?」

力無く静かに尋ねると いつもの穏やかな八重さんのまま 優しい笑顔で「いいに決まってるから、そうしたのよ…あなた…そんなに自分に自信がないのかしら?ちゃんとやってるじゃないの…いつも一生懸命、やりすぎってぐらい…丁寧だし…あたしを気遣ってくれるじゃないの…」

八重さんはユリシウスのことを掛け値なしで 心からそう思っていた。

「…僕…やっぱり前の仕事の辞め方が引っかかってるんです…それで…まだ…ちゃんと吹っ切れてないっていうのか…なんて説明したらいいのか…わからないけど…ちょっと戸惑ってる感じなんです。」

膝に肘を乗せ 両指を組んだまま ユリシウスは話した。

「…ユリさん、誰だって自分に自信なんてないんじゃないかしらね…あたしだってこの年でまだ自分に自信なんてないわよ…そういう弱気になってる時って、どうしても悪い方悪い方に物事を考えちゃうのよねェ…不思議よね…でもね、ユリさん…人生は一度っきりでしょ?それでやりたいことが特にないんなら、こうやって自然に成り行きに身を任せちゃうのも、一つの手じゃないかしらね…棚からぼた餅で結構じゃない?」

「…僕…実家に戻って抜け殻みたいな生活だったから…特にやりたいこととか考えられなくって…」

「なんの?」

折角真剣な話をしているのに 八重さんは急に尋ねてきた。

「えっ?何がですか?」

「だから…なんの抜け殻だったの?」

「ええっ!!なんのって…え~と…じゃあ…セミ…ですかねェ…」

ユリシウスは咄嗟に外から聞こえてくる鳴き声で 蝉をチョイスした。

「へェ、そう…セミねェ…あたしだったら…タラバガニかしらね…」

「えっ?タラバガニって脱皮するんですかっ?」

「あそうよぉ…確かそう…テレビで見たことあるのよ…すごいわよねェ…あの固い甲良から出てくるのよ…ホントにすごいわぁ…」

「…って 何の話ですかっ!!」

「…ええ、だから抜け殻の話よ…ユリさんは抜け殻の空っぽの方だったんでしょ?…でも今は違うんだから…抜け殻じゃなくって抜けた方の…少し大きくなったほうじゃないかしらね…ユリさんの中身が大きくなっちゃったから…今までの殻じゃキツかったってことじゃない?…だってユリさん、中身ぎっしり入ってるじゃない…ほらっ…」

そう言って八重さんはユリシウスの腕を触った。

「…抜け殻はもう二度と着ることできないじゃない?だったら着なきゃいいのよ…無理して着ようと思っちゃ駄目ってことじゃない?わかる?」

ユリシウスは正直 八重さんが何を言いたいのかイマイチ把握できていなかった。


「…僕の通ってた中学…って八重さんわかりますよねェ…あそこです…あそこ北中です…あそこ山のてっぺんじゃないですかぁ…通学にみんな自転車だったんですけど、行きの坂がキツいのなんのって…すごかったんですよォ…それで僕バレー部だったんですけど…部活のランニングでいっつもその坂のてっぺんまで走れなくって、結局最後の方は歩いちゃって…卒業まで一度も走って上れなかったんです…それで…あそこを上れなかったってことが、未だに自分の中で燻ってて…その…なんて言ったらいいのか…前の仕事のことも…あそこをちゃんとみんなみたいに走って上れなかったからのような気がしてて…逃げてたってのか…避けてたってのか…そんなんで…僕は自分に自信が持てないままなんですよねェ…」

ユリシウスは今まで誰にもそんな話をしたことがなかった。

だが 何故か八重さんにはどうしても話したい気分だった。

「…じゃあ…今度やってみたらどうかしら?…やってみて…ちゃんと上れたら…相続のこととか納得できる?」

八重さんの提案に何故か心がさわさわした。


ユリシウスは家に戻ってから自室のベッドで考えていた。

…あの坂のてっぺんって どんなんだったかなぁ?

何度回想しても どうしても思い出せなかった。

父も母も帰って来るなり 給料袋を「はい!これ!」と手渡されたはいいものを それをどうしたらいいのか 困っているばかりだった。

子猫のミャウシスは 知らん顔でお気に入りの食卓テーブルの椅子の上で 丸くなってすやすや眠っているだけだった。



最後まで読んでくださって 本当にありがとうございました。

生まれて初めてこんなに長いお話を書いたので 至らぬ文章も多々ありますが そこはどうぞ温かい目で見てくだされば幸いです。

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