インテルメッゾ ~それぞれが背負う過去~
馬車は途中で大きな軍用列車に乗り移された。部隊の馬車が小型だったのは列車に移れるようにするためだったのだろう。
エリオットさんは馬車から後方の車体に乗せられていくのが見える。心配なので出来る事なら傍に居させて欲しいのだが……
「一緒に来て貰ってもいいかい?」
先程助けてくれた鳥人の女性が、列車に移る際に声を掛けてきたのだ。断れるわけもなく一緒に列車に乗り込み、合い席する事となる。
「まず自己紹介をしよう。私はこの度の件での遠征第一部隊の隊長、及び全部隊の総指揮官に任命されているレイア・ヴィドフニルと言う。気付いているとは思うが君達が出会った、文書を持っていた鳥人の姉だ」
細い刀剣を隣の空席に置き、淡々と説明する彼女。二十代前半くらいに見えるが、この年で遠征部隊のとはいえ総指揮官の地位を預かっているとは、かなりの強さなのだろう。
言い終えてから私を正面からじっと見据え、少し置いてから次の言葉を続ける。
「元々第三部隊の滞在している村へ向かっていたところだったんだがね、弟から王子の報告を受けて急いで駆けつけたところ、あの様な事態になっていた。えっと、君の名前は……?」
「し、失礼しました、クリス・セリオルと申します!」
恩人に先に名乗らせておいて、更に聞かれるまで名乗らないとか恥ずかしすぎるっ!
私は思わず顔を真っ赤にして返答した。
「そうかい。クリスは王子をあんな目に合わせた、そしてここ最近の連続騒動の犯人を見ているのだろう? まずそれを教えて欲しい」
分かりきってはいたが、答えにくい事を聞かれてしまう。どう答えれば丸く収まるのか少し考えたが、どう答えても無理そうなので仕方なくあるがままを言う事にしよう。
「エリオ……王子はまずこの槍を手に取って、あのような事になったんです」
そう言って私は列車の窓際の壁に立てかけてある槍を指した。
「この槍は私の武器で、私以外が持つと死んでしまうと聞いていました。その上で王子は私にこの槍を投げ渡すために手に取り……」
ここで言葉が詰まる。情け無い事に思い出して泣きそうになったからだ。でも説明を続けなくては。
私は膝の上で両手の拳を強く握り、続けた。
「王子が槍を投げてくれたおかげで私は、騒動の原因である私の姉を一旦撃退する事が出来ました」
掻い摘んで話し過ぎただろうか? やや困惑したような表情のレイアさん。右手を顎に添えて少し首を傾げるが、ふう、と息を吐いて目を閉じた後に、思い切ったかのように問いかけてくる。
「俄かには信じがたいが、信じよう。という事は全ての元凶は君の姉で間違いないかな?」
「それも間違いではありませんが、実際は姉の持つ呪いの剣みたいなものが本当の元凶です。姉はその剣に操られているだけなのです」
それを聞いてまたまた困惑してしまっている彼女。まぁ無理も無い、私だって信じられない。
「私はあまり詳しくないのだが……その槍と剣は、多分女神の遺産のようだな」
「!! ……知っているのですか!?」
この精霊武器の存在を知っているのなら説明の仕方は随分変わって来る。私は思わず前にのめり出して聞いた。
「いや、申し訳ないが本当に詳しくないのだよ。物騒な武器が城に保管されていて、それが大昔に忽然と消えた、というくらいしかね」
「えっ」
それだとライトさんから聞いた話と少し違ってくる。てっきり城があの武器を保管し研究していたと思っていたのが、城から武器が消えたとなるとあのセオリーという男はそれを盗んだりしたか何かの悪い連中、になるではないか。そして、その人物と少なくとも知り合いであるルフィーナさん。国の研究ならルフィーナさんが知り合いなのも納得出来るが、国が関わってないとなるとその面識の理由が無くなる。こんがらかってきた。
「城内で噂程度でしか聞いた事が無いんだ。けれどクリスの話を信じるのなら、特徴が噂の内容に酷似しているからね。それが今になって世に出てきてしまったのではと思う」
まぁ今になって世に出てきてしまった理由は、紛れも無く姉のせいです……
「しかし、クリス以外が持つと死ぬ、という事は王子は助からないという事になってしまうよ」
「いや、聞いた話なので実際に死んでしまったという現場は見たことは無いのです!」
死体はいっぱい見たけど、どんな風に死んだのかまでは分からなかったから間違いではない。
「そう、まだ望みはあると思っていいんだね……」
急にその瞳を曇らせるレイアさん。少し俯いて私と視線を合わせる事はなく、唇を噛んでずっと斜め下を見つめていた。
弟さんもそうだったが、この姉弟にはエリオットさんと主従関係以外のものを感じる。
「では次に君の姉の名前と特徴だけでも聞いていいかな。少なくとも手配書なりを回して民に逃げるように伝えねばならない」
気が重くなるが、これも答えないわけにはいかない。
「……姉の名前は、ローズと言います……手配書にはもう、載っています……」
ガタッ、と私の言葉を聞くなりレイアさんが取り乱して席を立ちかける。彼女はハッと気付いてまた席に座り直した。
そんな彼女の表情は強張り、親の仇でも見たかのような目で一瞬私を見たが、すぐにその目を窓の外に向けて落ち着きを取り戻す。
窓の外の景色はそろそろ雪も溶けかかってきている。もうしばらくもすれば王都に着くだろう。
「すまない、怪盗ローズは……城にも忍び込んで盗みを働いた事があってね。その時城に居た軍人にとっては耐え難い名前なのだよ。何しろみすみす侵入だけでなく盗みまで許してしまったからね」
「そうですか、本当に申し訳ありません……」
心から姉の愚行を詫びる。だけどそれだけではない、そう直感した。どんなにプライドに耐え難い名前だとしても、それで私をあんな目で見るとは思えない。
失礼とは思いつつも聞かずにはいられなかった。
「姉は……他にも何かしたのですか?」
それを受けてピクリと彼女の名残羽が動く。
「何もしていないよ、どうしてそう思う?」
レイアさんが私をじっと見つめる。貴女の態度からそう思うのです、とは流石に言い辛いので、黙ってその琥珀の瞳を逸らさずに見つめ返す。
すると彼女は張り詰めていた糸をふっと緩ませ、席に深く腰をかけた。
「すまないね、私の態度を見ればそう思うのも仕方ない。感情を出してしまった私が悪い」
そう自嘲して、彼女は私の問いに改めて答えてくれた。
「怪盗ローズが城に忍び込んでから、王子は変わってしまわれたのだよ。勿論他の愚鈍な王子ではなく、君の知るエリオット様がだ」
そうか、王子であるエリオットさんが何故姉と共に居るのかと思ったら、最初の接点はそこからだったのか。
レイアさんは懐かしいものを思い出すような遠い目で語り始めた。
「エリオット様と私は幼い頃から見知っていたのだ。エリオット様が私の二つ上で、それはもう幼い頃から神童と崇められる優秀なお人だった。王子には二人の兄と一人の姉がいたが、兄二人は正直な話が出来損ないで我侭ばかり。王女は素晴らしい人だが所詮は女。第三王子とはいえ、城内の誰もがエリオット様に期待を寄せていた。
「そんな非の打ち所の無い王子を私はとても尊敬し、憧れていた。雲の上の存在だったが、少しでも近づこうと幼い頃から努力を続けたさ。貴族でも何でもない、騎士団長の娘であった私が王子の傍に居られる術は、父と同じように剣の道を往くしかなかったのだからね。
「幸い私は腕っ節だけは強く、当時でも城内の護衛程度は任せて貰えていたんだ。けれど、あの女と王子が出会ってしまってから王子は変わってしまわれた。それはもう、一国の危機に等しいくらいにね。
「だってそうだろう? 上の王子二人さえ納得させられれば誰もが彼の王位継承を受け入れていたのに、その期待の的であったエリオット様が突然一人の女、しかも盗賊に心を奪われてしまったのだから」
ここまで話して、彼女は一息吐く。
私としては申し訳なさで頭がいっぱいである。出来る事ならもうこの話は聞きたくないくらいだ。
レイアさんの言い分は尤もだった。今からは全く以って想像出来ないが、素晴らしい王子だったエリオットさんが最終的に私の姉と一緒に盗賊なんてやっているのだから。私が王様だったら、泡を吹いて倒れてしまいそうだ。
私の気まずさを感じ取ったレイアさんが、苦笑しながら私に気を遣ってくれる。
「クリスが悪いわけじゃない、きっと王子の周囲にいた者全てが悪かったんだ。私も含めて、エリオット様の重荷にしかなっていなかったのだと思う」
そして彼女は続ける。いやーもう続けて欲しくないです、謝っても謝り足りません。そんな事言えないけど。
「王子はそれから初めてといってもいい、我侭を言ったんだ。『あの女性が欲しい』とね。だけど相手は怪盗、そう簡単には捕まらない。王子は初めての自分の要求すら通らない事に、これまた初めて不満を露にしたんだ。
「それからは手に負えなかったよ。国事は出ない、稽古も一切しなくなる、仕方なく他の女を与えてみたが王子の目に適う者は居なかった。一晩で捨てられる女達の哀れな事と言ったら無かったな。
「今までの聖人ぶりはどこへやら、堰を切ったように暴言を吐くようになり、態度も横柄、上の二人の王子と大差無くなってしまったんだ。もう最悪の事態と言ってもいい」
私は黙って聞いていた。自分から聞いてしまったのだから。
「…………」
誰か、助けて。
「でもね、最悪の事態を引き起こしたのは間違いなく王であり、家臣なんだ。王子が我侭を言った時、初めての事に驚いてきちんとした対応をしてあげなかったのが悪いんだ。だって普通に考えたら『代わりの女を与える』だなんてとんでもない事だろう?
「それから王子の価値観は変わってしまったんだ。そんな道理に外れた事をして与える周囲に軽蔑したように、冷めた目で周りの人間を見るようになった。何を言って説得しようとしても人の言葉を信じなくなってしまった。
「……ある時ね、私は王子に声を掛けられたんだ。何て言われたと思う?」
ここでまさかのクエスチョン!!
ううーん、歪んでしまったエリオットさんの事だ、というか歪んで今があるわけでしょう? なら今のエリオットさんなら何て言うか……
「えっと、『今晩俺の部屋に来い』とかですかね……」
「近い! という事はやっぱりクリスの知っている王子はまだそんな状態なんだな……」
私がほぼ当てた事に驚いたかと思えば、すぐに落ち込むレイアさん。まぁ、分からないでもないです。そんなに素晴らしかった王子様が未だにそんなノリで女の子相手してるわけですからね。
レイアさんはふるふると少し首を振って、また続ける。
「正確には『お前はいつ俺の元に寄越されるんだ?』だった。私を通して全ての女を見下し、嘲笑うように言ったんだよ。王子に手をあげたのなんて、それが初めてさ」
「だんだん想像が容易になってきました。とても彼らしいですね!」
「ええっ!?」
レイアさんが大変驚いてしまった。いやだってエリオットさんが素晴らしい人間だった、というのがもう想像出来ないのだから仕方ない。驚かれてもこれは真実。
「でもきっと大丈夫ですよ。お城を出てから色々な女性に叩かれて、学んでいるっぽいです。軽薄には違いないですが、もう見下したりはしていないように見えます、多分……」
語尾が濁ってしまったが、少なくとも私はそう思う。今の彼はそこまで人を嫌っていないように見える。城という外から遮断された領域での生活では治せなかったエリオットさんの歪みを、外の世界は少しだが治していて今の彼が居る気がするのだ。
「そうか、あの頃よりは良くなっている、と思っていいんだね……王子は私が叩いたその数日後、城から姿を消してしまったんだ。それが二年くらい前の話になる。かなりの大事なので世間一般には療養中、としてあったけれど、正直自分が出てしまったキッカケなのではないかとこの二年間気が気で無かった」
「そうだったんですか、本当にご迷惑を……」
話が終わりそうなので私は謝って〆ようと試みる。
「いや、いいんだよ。だからね、またあの女が発端かと思うと勝手だとは思うが怒りがこみ上げてきたんだ」
ハハハ、と笑うレイアさん。いやコッチは笑えませんってば!
でも仕方なく私もハハハと笑って会話を終わらせた。
軍用列車の外にちらほらと民家が見え始める。もうまもなく王都エルヴァンの北の駅に着きそうだ。
「そろそろ私は用意をしなくてはいけない、クリスも一旦城に来て貰う事になるが、構わないか?」
隣の席に置いていた剣に手をかけて、レイアさんはそう言った。
「えぇ、構いません。むしろお邪魔させて頂きます」
私は笑顔で返事をする。お城の医療設備ならきっと何とかして貰える、そう願うしかない。
私は懲りもせずに最後にもう一つだけ、質問をしてみた。
「ところで、レイアさんはエリ……じゃなくて王子の事が好きなんですか?」
疑問はついつい口に出してしまう私の悪い癖。コレでついさっき後悔したばかりなのに、また口を開いてしまった。いやだって気になるじゃないですか。
「え!? いやいやそういうものでは無い、あくまで敬愛でしか無いよ!!」
目をぱちくりさせながら両手をぶんぶんと振って否定する彼女。その答えに内心ほっとする。
「そうなんですか、それなら良かったです。姉が恋敵となるとそれこそ申し訳無いですからね」
素直な気持ちを述べたのだが、その瞬間のレイアさんの表情は完全に凍り付いていた。動きも固まった。
うん非常にマズイ、エリオットさん曰く『一言多い』だ。やってしまった。
「ご、ごめんなさい……」
まだ恋心というものが全く理解出来ていない私は、深く反省するしか無かったのだった。
駅からはまたすぐに馬車で移動となる。城の裏門からそのまま城内に入ると景色は一気に見違えた。整備された植木に花壇、城壁の内部はまるで芸術のように魔術紋様が施されている。基本レンガ造りの城壁だが、そのレンガは街で見るような物とは比べ物にならないくらいの肌理細やかな質であった。
私は城内の一室に案内される。部屋にはベッドや机、鏡など生活用品が一通り揃っており、多分宿泊用の客室であるのだろうと伺えた。とはいえその家具はどれも段違い。見た事の無いような金銀の装飾、陶器の家具。天蓋付きベッドだなんて実物は初めて見る。
通された部屋の中に思わず驚いてばかりだったが、それどころではない。エリオットさんの容態が気になる。
私は出てすぐに迷ってしまうような回廊を歩き、人伝いに目的地を探した。
と、廊下で見覚えのある人物を見つける。
「ライトさん!!」
虎の獣人は私の声に反応して少しこちらを向いたが、すぐに反対側に歩いて行ってしまう。
私は慌てて追いかけて、話しかけた。
「ど、どうしてここに?」
「どうしても何も、エリオットを治すために呼ばれたからだ」
悪いが時間が無い、と無愛想に言い残しそのまま早足で歩いて行ってしまう。
こんな心細い場所で知り合いに会えて嬉しかったのだけれど、冷たいそのあしらいに、お前が悪いと言われているようで少し胸が痛い。
そうだ、ライトさんからすれば私だって迷惑に違いない。レイアさんだってああ言ってはくれたけど、私さえもっとしっかりしていればエリオットさんはこんな事にならなかったのだ。私は姉の事を別にしても、憎むべき対象なのだ。
ずっと心の底で思っていた事が溢れ出してきて、私はまた涙を流してしまう。しかし城の廊下でなど泣いている場合ではないので、私はすぐに目をごしごし擦って誤魔化した。
そんな醜態を晒している最中にやってきたのは、レイアさん。
「何を泣いているんだ、あの医者なら息があるうちは治してくれるよ。心配しないでいい」
私が泣いていた理由を誤解しているようで、私の頭を撫でながらそう言った。
「まぁ、私はあの男が苦手なんだがね」
そして、苦笑。
「獣人の男はどいつもこいつも無愛想でいけない、そうは思わないか?」
私に気を遣ってくれているのだろう、笑い飛ばせるような話題に切り替えて話しかけてくれた。こんなにして貰っているのに落ち込んでいるだなんて私は本当に馬鹿だ。
「えぇ、全くですねっ」
私は半ベソをかきながらも笑って答える。泣いて気を遣わせてなんか、いられない。ほっぺたを両手でピチピチと叩いて、気を張り直す。
「ありがとうございました!」
「気にしなくていいよ」
にこっと笑って、レイアさんは去ろうとする、が。
「あぁ、いつまでもその服じゃアレだから、後で部屋に別の服を持って行かせるよ」
最後まで何て親切な人なのだろう。
私は深々と頭を下げて、お礼をした。
さて、何もする事が無かったのでとりあえず部屋に戻って待っていたら服と下着、サンダルが届けられた。
下着は普通のキャミソールとパンツなのだが、服は随分可愛らしいデザインの青チェックのチュニックと緩めの黒いズボンである。チュニックの袖は肘くらいまでの長さがあり、丈はお尻がすっぽり隠れる程度。腰に紐がついていたのでとりあえず少し絞っておいた。
チュニックにしてもズボンにしても、細部の装飾がレースやら刺繍やらでとても作りこまれている。うーん、高そう。
最後にこれまた妙に宝石がいっぱいくっついているサンダルを履き、着替えも済んだので何となく私は城内探索を開始する事にした。興味も勿論あるが、じっとしていると気が滅入ってしまいそうなのだ。落ち込んでしまうほど問題が沢山あるけれど、それを一人で悩みたくはない。せめてエリオットさんと二人で悩んで問題と向き合いたい。
少し前まで一人で平気だったのに、今はもう一人だなんて考えられないなぁ。人というものはこんなにも弱いのだ。
誰かが触ってもいけないので、私は槍を布に捲いた状態で背中に背負って回廊に出た。客室から出るとまず目の前に臨むのは中庭にある大きな噴水。色とりどりの花が綺麗に植えられていて、ここを見ているだけでも飽きなさそうだ。
私は噴水に腰掛けて、しばらく傍の蝶や鳥を観察してのんびりする。
何も考えたくないから、何も考えないように。
中庭には心地よく日差しが入り込み、ぽかぽかする。柔らかく吹いて来る風が髪を撫でてとても気持ち良い。
そしてこの幸せな時間が、何故だか堪らなく……苛立たしかった。
ぼーっとしていると、自分に向けられている一つの視線に気付いた。
その主は、回廊の方の柱の影からひっそりとこちらを見ている一人の女性。とても煌びやかな装飾の、淡いピンクの踝までの長さのロングドレスを着ていて、下にはパニエを履いているようなスカートの広がり方だ。深い緑色の髪は肩より少し長いくらい、ゆるゆるとしたウェーブがかかっているその髪には、銀のティアラが着けられている。
服装からも、身体的特徴からも、彼女が一体誰なのかは把握出来た。
「エリオットさんのお姉さんですかー?」
隠れてこちらを見ているその女性に、大きな声で声を掛ける。口走った後に、あぁ『王女様ですか』と聞いたほうが良かったかなとは思ったけど、まぁ普段使い慣れない単語などすぐには出てこないし、もう言ってしまったものは仕方ない。
声を掛けると彼女は白いロングのドレスグローブを着けた手でスカートを摘みながらこちらにゆっくり歩いてきた。
「貴女が……弟の傍に居たのだと伺いまして。陰から覗くような見苦しい真似をしていた事を、お詫び申し上げます」
王女でありながら何の位も無いこの私にいきなり頭を下げるとは。あまりに驚いて私は開いた口が塞がらなかった。
「いや、あの、えっと」
座っていた噴水から飛び退いて私は両手をあたふたさせて対応に戸惑う。とりあえず王女より頭が上がっているわけにはいかない、と自分も下げてみる。
「と、畏まった挨拶はこれで終わりでいいかしら」
「うぇっ!?」
釣られて下げていた頭を上げると、そこには先程の恭しい態度はどこへやら、自信に満ちた佇まいに変わっている王女がいた。
「私はエリザ。何はともあれ、弟が戻ってきてくれて助かっているわ。ありがとう」
「あ、は、はぁ……」
その変わりっぷりに着いていけずに、気の無い返事をしてしまう。
「もう少しで私、婿取って女王にされちゃうところだったのよ」
どうやらこの国は何が何でも上の二人の王子に継がせる事は避けたいらしい。まぁ形式に拘らず優秀な者に継がせる、という構えは良いと思うが。
彼女はそのボーイッシュな作りの顔を空へ向け、天を仰いでこう言った。
「あとは弟と貴女が二人三脚で国を支えてくれれば問題無しね! 私はその人の過去だなんて気にしないから応援するわ!!」
「……な、何ですと?」
耳を疑うようなその言葉の内容に脳が追いつかない。絶対何か勘違いをしているぞこの王女様は。私の過去? 私は一体何をしましたっけ??
「え、だから、弟は貴女を連れて戻ってきたわけでしょ? これはもう婚約発表しないとむしろ王家の恥じゃない?」
更に飛び出すトンデモ発言に、頭がくらくらしてきた。誰だ、この人に説明をしたのは……ろくに事情を知らない侍女か何かが、エリオットさんが帰ってきた事だけを伝えたのだろうか?
「えーっと……私の名前はクリスです。ローズではありませんよ」
「ええっ!?」
嘘、だって髪の色とか! と何やらぶつぶつ言っている王女。うちの姉に夢中だったエリオットさんが飛び出して、戻ってきたら手配書の大きな特徴の一つである水色の髪の人物と一緒に帰ってきた、とあれば確かにそう勘違いするのも分からないでもない。
だけど、私まだ十二歳です。流石にこの年の差は直視して頂きたい。エリオットさんが一体いくつか私は知らないが、少なくとも成人はしているように見えるのですから。
「私はつい最近王子と共に行動し始めたばかりの者です、王女の想像しているような関係ではありません……」
ぬか喜びして落ち込んでいる王女に、申し訳なく説明をした。が、
「折角王位継承問題がまとまると思ったのに、いやだってそうじゃないと私が、いやいやもう別にアイツの相手が誰だっていいの、落ち着いてくれれば、そう、そうよ……」
私の説明を聞いている様子はなく、私に背を向けてぶつぶつと不穏な発言をしている。真面目そうな素振りも出来るのに、やはりエリオットさんと同様に本来の性格は少し変なようだ。
と、何か思い立ったように王女はこちらに向き直り、
「私、貴女でもいいと思うわ!!」
「何の話ですか、一体」
まさかの無責任発言に思わず素で返してしまった。王女を相手にしているはずなのに、何故かエリオットさんにツッコミを入れている気分になる。血筋って恐ろしい……もしかして上二人のお兄さんもこんなのじゃないだろうな、と不安を覚えた。
しばらく王女の意味の分からない話に耐えていると、近くでコツ、と硬い足音が止まる。
過ぎ去る足音とは違う為思わずそちらを見ると、そこには相変わらずのムスッとした表情でライトさんが立っていた。白衣のポケットに両手を入れたまま、こちらにカツカツと歩いてくる。
「こんな所に居たのか、探したぞ」
彼が日照った中庭に足を踏み入れると、その真っ白な髪が光に当たって金髪のように眩しく輝く。浅黒い肌とのミスマッチさが際立ってか、仄かに妖艶さを感じられた。
「ライト様!! 今日はどうしてこちらに!?」
そこへ先刻の私と同じような質問をする王女。無論、またか……と言った表情のライトさんは、私を一瞥した後王女に向き直りそれに答える。
「お前の弟の怪我を治しに来ていただけだ」
「それはどうもありがとうございますっ」
王女はそう言ってわざわざライトさんの近くに駆け寄り彼の手を握ろうとした……が、両手がポケットの中なので少し戸惑ってから、彼の白衣の腕あたりの布を掴んで横に立ち、見上げて続ける。
「……良かったら私の部屋で紅茶でも如何ですか?」
その表情は、とても期待に満ち溢れたものだった。なかなかどうして積極的なので恋愛には疎い私にも分かる、エリザ王女はライトさんを少なからずとも気に入っている、と。
だがライトさんはそのスキンシップに全くの反応を示さず、さらりとその誘いをかわした。
「遠慮しておこう」
身も蓋も無い断り方だったが、王女はその言葉にまたうっとりとした様子。……この反応は正直よく分からないです。
ふいっとライトさんは私に視線を戻し、話を切り出した。
「クリス、色々話したい事があるんだが時間は空いているか?」
む、私を探していたのですね。
「えぇ、途方もないほど空いていますよ」
私はそう答えてからハッと気がつく。
これはまずい、と。
ライトさんの視界の隅にその不都合が、つまり私の正面にはライトさんだけではなく王女もいるのだ。王女は私と彼のそのたった少しのやり取りを見て顔色を変えていた。白衣を掴むその細い指は震えている。
「お二人はまさか、そういう関係なのですか……?」
やっぱりキたよ、クると思いました! 一ページ前のあの王女の突っ走り具合を考えたら勘違いに勘違いを重ねる事間違い無いですものね!!
「勿論違います」
私はきっぱりと否定して、ライトさんに促す。
「ライトさんからも何か言ってあげてくださいよ」
そうすると彼は斜め下の王女を見下ろして、
「……お前は俺がこういうのが趣味だとでも?」
と、尤もなんだけど何だか引っかかる言い方で遠まわしに否定した。王女はそれを聞いて安心したのか、オホホと笑い流して彼の腕に抱きつく。
「そ、そうですよね! 失礼な事を申してしまいました!」
いちいちスキンシップの激しい人だなぁ、と思いつつもそれは口には出さないでおく。
そしてそのスキンシップに慣れているのか元々気にしない人なのか分からないが、やはりライトさんは王女を華麗にスルーしてまた私に話しかけた。
「まぁどこか落ち着く場所で話がしたい。どこがいい」
「えっ、じゃあ私が貸して頂いている部屋がすぐそこにありますので……」
言いかけたが、キッと王女が睨むので私は思わず口篭もってしまう。
「邪魔をするな、エリザ」
流石に私の反応で気付いたライトさんがそれを制し……いや制しているどころではない気もするが、とにかく彼女を窘めた。
「そ、そんな……いくら何の関係も無いとはいえ、部屋で二人きりだなんて……」
ライトさんのその少しキツい物言いに、よろよろとその場にへたりと座り込む王女。ライトさんは少し困った様子の顔を上げて溜め息をついた後に、王女に視点を下げてこう言った。
「この俺が部屋で二人きりになるなり幼い子供に『さぁ服を脱いで四つん這いになれ、聞かねばこの恥ずかしい写真を世間にばら撒いてやる』などと言うと思うか?」
「少し、思います……」
「……とにかく、気に病む必要は無いから大人しくしていてくれ。紅茶はまた今度だ」
どこから突っ込んでいいものか分からないので敢えて私は突っ込まないでおこう。王女の返答をやはり華麗にスルーして、ライトさんは上手くその場を収めたのだった。多分。
彼は腕に絡みついたままの王女を半ば無理やり乱暴に引き剥がすと、既に彼女など見えていないかのように私との会話を続ける。
「では部屋に案内してくれ」
一国の王女をその扱いでいいのか? と思うが、王女は何故かそんな冷たい彼の態度にすら喜んでいるようで、剥がされた手とライトさんを交互に見ながらうっとりしていた。やはりよく分からない……
私は何だか夢見心地の王女に取り合えず挨拶をした後、部屋へライトさんを案内する。回廊沿いの、白地に金で縁取られた豪華なドアを押して開け、後から続くライトさんが入ったのを確認して閉めた。いくつも同じようなドアがあるが、ここは私に割り当てられた部屋のドアだ。
さて……ライトさんがここに居るという事はひとまずエリオットさんの治療は終わった事になる。その話だろうか?
「お話とは何ですか?」
私は先にちゃっかり椅子に座っているライトさんの向かいの椅子を引きながら話を切り出した。
「まず一つ目、エリオットの容態は安定している。目を覚ますだけなら明日にも覚ますだろうよ」
「は、早いですね……」
思わず拍子抜けしてしまう。正直なところ、数日くらいは峠を彷徨うのだろうかと思っていたのだが。
「確かに酷い怪我ではあったが、所詮ただの怪我だ。この前の呪いを解くのに比べれば全然楽だからな」
さらっと。あれだけ私が心配していたのに、何でもない事のように彼は言う。
「生きていれば、どんな怪我だって治してやれるさ。一人ならディビーナの量も足りる。まぁ俺の元に来る前に死んでしまってはどうしようも無いからな、今回の件は遠征部隊の連中にお礼を言う事だ。数人がかりでエリオットの容態維持を勤めていたらしい」
机に頬杖を突いて、彼は特に興味も無さそうに説明だけ淡々としてくれる。
「そうですか、後でお礼を言って来ます……何というか、旅に一人欲しい人材ですね、ライトさんって」
率直な感想を述べる。治癒士は確かに旅においてのパーティーに必須だと今回本当に実感したのだから。しかし、
「それは無理だな」
と、あっけなく否定された。
「何故です?」
「俺は獣人だが、戦闘には向いていない。着いて行くのだってゴメンだ、疲れる。走るくらいなら死んだほうがマシだ」
「そ、そうですか……」
私は脱力感を覚えながら、その言葉に辛うじて返答をした。
それは確かに旅には連れて行けないですね……
私のこの反応でこの話題は終わったと判断したらしいライトさんは、頬杖を突いていた手を手の甲から手の平に返して突き直し、次の話に進める。
「で、次は二つ目。事の粗筋を教えて欲しい。結局無理にローズに向かって行ってあのザマなのか?」
なるほど、その疑問が浮かぶのも無理は無い。
「いえ、違います。それは……」
私は、以前ライトさんの病院を出てから今までの話を事細かに説明をした。
「……なるほど、大体は把握した」
一呼吸置いて何やら考えた素振りをした後、彼は再度続ける。
「その研究施設に置き去りにされていた女は、少なくとも俺は何の種族か判別出来ないし、伝承などの知識を探っても思い当たる節は無いな」
「そうですか……」
「しかしそれはクリス、お前も似たようなものだ」
眼鏡の下の鋭い目がこちらをじっと見据えたかと思うと、すぐに気を緩ませ視線を外す彼。
確かに彼の言う通りだ、もしレクチェさんを得体の知れない者扱いするなら、私だって同じくらいの扱いをされるべきなのだから。彼女と違って記憶が無いわけではないが、いや、なのに、私だって自分の事を何一つ分かってなどいなかったのだ。
「それよりも気になるのは、エリオットの師匠だったというエルフだな。気付いたら居なかったのだろう?」
「そうなんですよ! あの大変な時にレクチェさんと一緒に消えちゃうし! 本当ワケが分かりません!!」
「聞いた感じだと、その女は女で思惑があって動いているように思えるな」
ふーむ、と少し考えた仕草をするがそれは長く続かず、彼は両手を白い陶磁の机に突いて立ち上がり言った。
「考えてもまだパーツが足りなさそうだ。今後は一人で旅する事になると思うが、悩んだらまた俺のところにでも来るといい。話くらいは聞いてやる」
「ありがとうございま……って、え?」
何か、聞き間違えでなければ一人って言われた気がする。エリオットさんの容態は良いのでは無かったのか。
「……エリオットさん、旅を続けられるほどの回復は望めないんですか?」
私は恐る恐る確認をした。
「そうじゃない、考えてもみろ。ここは城で、あいつは一応王子だ。帰ってきた以上、簡単に旅に出られるわけが無いだろう?」
「……そ、そうだった……」
そう、そうだ。城内の皆が自然に帰還を受け入れているから頭から抜け落ちていたが、彼はいわゆる家出青年だったのだ。
ライトさんの言葉に私は呆然としながらも状況を再確認する。
「そういう事、だ」
じゃあな、とライトさんが去った後、しばらく私は固まっていた。
もう、日は暮れかかっている。一人、部屋に取り残された後……動く気にもならず、何を考えているのか考えていないのかもよく分からないまま、私はただぼーっとして椅子に腰掛けていた。部屋の窓からは西日が鮮やかに差込み、室内を赤丹色へと染め上げる。
一人で、と聞いたその時から妙に心が落ち着かないのだけは自分でも痛いほど分かっていた。
私が姉を探し始めたのは三ヶ月前くらいからとなる。二ヶ月ほど一人で捜し歩き、それからエリオットさんと出会って旅をしてきた。
「たった……一ヶ月なのに……」
その一ヶ月前の頃にはもう戻りたくない、と私は思っているのだ。一人は嫌だ、と。
単に寂しいだけなのか、それともそれなりにエリオットさんを気に入ってしまっているのか、そこは自分では判断出来ない。
白く美しい陶の机に突っ伏して、目を閉じて考える。
エリオットさんは私とは違う、普通のヒトだ。何やら深い事情がありそうなルフィーナさんとも、私と同じように素性の分からないレクチェさんとも違う。ただ、私の姉を助けたいという気持ちでこの大きな問題に立ち入ってしまっているだけのただのヒトなのだ。ここまで大きく発展してしまった問題に、これ以上首を突っ込むだなんて周囲が許すはずなど無いし、首を突っ込んでもまた大怪我をしてしまうかも知れない、いや、今度は死んでしまうかも知れない。
はぁ……と一人重く溜め息をついたところで、
『クリス様、少しいいだろうか』
背中に背負いっ放しの槍から、頭に直接声が響く。
「どうしましたか?」
私は周囲から見たらただの独り言にしか見えないであろうが、突っ伏したまま精霊の声に答えた。
『あのエリオットという男は、決して普通ではない』
「急に何を?」
まるで私の心の中の言葉を聞いていたかのような言葉に、思わず聞き返してしまう。だって、それまで会話を全くしていないのに、何が普通ではないのか判断しようも無い。
『……実は、クリス様と私は良くも悪くも相性がとても良い。だから貴方が何を考えているのか、馴染んだ今は大体こちらに伝わってきている』
「えっ、じゃ、じゃあ……」
その声に思わず顔を上げた。
『あの男は、ただのヒトではない。その証拠に、私に触れてもまだ生きている』
という事は、普通ならやはり持ったら死んでしまうのだろうか。エリオットさんが辛うじて生きていた事もあって、私はてっきりその話は誇張なのだと思っていた。
『普通は持ったら私の力が持ち主に流れ込み、それに拒絶反応を起こして死ぬのだ。だが、あの男に流れた時……何かが違った』
「何かが……」
『申し訳ないが何が違うかはよく分からなかったが、あの男の体に私の力は……言うなれば、流れ込みにくかったのだ』
そうか、だからこの槍を持って投げる間、ノーダメージとはいかずとも、彼は耐える事が出来たのか。
「じゃあ、実は私の種族のクォーターだとか、私と同じ種族の血が薄く入っているから耐えられたとか?」
『いや、全く違う。クリス様の場合、私の力は貴方の体にスムーズに流れている。その上で拒絶反応を起こさないだけなのだ』
仲間かも知れない、と少し期待したのが完全否定されてしまった。まぁそこは別にいいんですけどね……
否定されて少し気恥ずかしい私は、ぽり、と頬を掻いて誤魔化す。そんな私の反応を気に留める事もなく、精霊は話を続けた。
『私はあの男のような人間とは、この創られてから何千万年という間で一度たりとも出会った事は無い』
今の私とは違う意味で、彼は本当に唯一無二の『一人』なのだ、と。
私はその事実に、言葉が詰まってしまう。
エリオットさんは、間違いなく何者なのか生まれが断言出来る環境で育っていると思う。それなのに、これはどういう事だろうか。突然変異という言葉で片付けられる問題とも思えないが……
『更に考え事を増やしてしまったようで申し訳ないが、もう一つ伝えておかねばならない事がある』
どことなく語尾が重苦しいような雰囲気で言葉を綴る精霊。
私は黙って続きを待った。
『貴方の姉君は、既にダインに喰われきっている。あれでは手放させても、ダインを折っても、救えない』
……ダイン?
私はあまり理解出来ずに、首を傾げた。
『ダインとは、大剣の精霊の名だ。アイツも私の事をニールと呼んでいただろう。一応だが私達は名前らしきものなら持っている』
「そうだったのですか、では次からは名前で呼ばせて貰いますね」
もっと早く教えてくれてもいいのに。
ん、という事はどういう事だ。姉さんは精霊に喰われきっていて、助からない?
「そ、それじゃあ……」
『姉君を救うにはダインに思い直させて、喰った魂を返させるしか無いだろう』
そんな事出来るのか? 姉の美しい顔をあそこまで醜く歪ませて笑う事の出来るあの精霊に。
『あいつの場合は私達の逆だ、相性が悪いから同調させる事が出来ず、喰う事で無理やり操っている。喰われきる前に手放させる事が出来れば良かったのだが、見た限りもう遅いと思う』
ニールの言葉は私を絶望させるのに充分足るものだった。
「そんな、そんな……」
姉さんが、姉さんが、もう、助からないかも知れないだなんて、
「あ……」
私は椅子に座っている事すらも維持出来ないくらい、体の力が抜けていく。ガタン、と椅子の上でバランスを崩して床に倒れてしまう。
姉さん、姉さん……!
わたしの、ねえさんが……
「あああぁぁぁ……っ」
声にもならない嗚咽が漏れ、涙が溢れ出す。拳を力いっぱい握り締めて、床を何度も叩いて当たり散らした。自分の爪が刺さって手の平からは血が滲み出てくる。
私の想いが伝わっているのであろう精霊は、しばらく無言だった。私がどれだけ姉を愛していたか、その半生を振り返れば姉を想わぬ日など無かったのだから。私には、姉さんしか、いないのだから……
それは聞いた事のある童話によく似た情景だった。
違うのは、この森の先にお菓子の家も泣ければ魔女も居ない、私は道しるべにパンを落としたりしてもいない。月の光が木々の葉の間から差し込み、かろうじて足元が見えるものの、それも不確か。薄っすらと見える少し年の離れた姉の水色の髪が月の光に反射して、綺麗だなと思ったのは覚えている。
私はその姉と共に森の中で、父の後を必死に着いていった。
父と言ってもきっと実の父ではない。家に居るはずの母もきっとそうだろう。直接聞いてはいないが、見た目・態度共にそう感じる部分は多々あった。
そして今晩は、この森に捨てられるのだろう。
姉も私も、分かっていて着いていく。飢え死ぬ事になるかも知れない。けれど、家に居るよりはずっとマシだ。毎日傷だらけになるまで母から折檻を受ける日々よりも、生を終えてしまったほうがどんなに良い事か。
「お父さんはちょっと用事があるから、ここで大人しく待っているんだよ」
想像していた通りの言葉に、私と姉はお互いの青い目を見合わせる。とりあえず頷いたら、そこで父が見えなくなるまで座った。姉は、終始私を不安にさせまいと笑顔だった。
その後幸運にも私と姉は獣人の老夫婦に拾って貰う事が出来た。思えばその頃が一番幸せだったのではないだろうか。しかし老夫婦が私達を看ていられる力が無くなり、私が八才くらいの時教会へと姉と二人で預けられる。
姉は容姿も良く、程なくして引き取り手が見つかり、私はそれから引き取ってくれた司祭様と他の孤児達のみと過ごす事になった。姉とはそれ以来会っていない。
姉と最後に交わした言葉は「元気でね」とあっさりしたもので、別れ際だっていうのに姉は少し目を伏せるだけで、笑顔は絶やさなかった。私はそんな姉を尊敬し、そして少し悲しく想う。結局姉の本心は、離れるその日まで一度たりとも知る事は出来なかったのだから。
それでも、姉はいつだって私を大切にしていてくれた……それだけは心から感じ取れる、間違えようのない絆。
いつか一人立ちして姉を迎えに行くのだと、それだけが私の生きる目標となっていた。
必死で司祭としての教養と知識をただひたすら学んだ。天使のような姉とは違い、時折悪魔のような姿に変化してしまう自分を、強く制する意志を持った。おかげで周囲とは違う見た目でいじめられる事は無くなった。
そして槍術を鍛え、最低限の魔法と司祭に必要な魔術式を覚える。そうしているうちに自分の年齢が壁となり、少しでも大人に近づこうと幼いなりにも背伸びをする。周囲の孤児達からは浮いていたが、今はそれで構わないとひた走った。
全ては姉の為、と。
……だが姉は私が迎えに行く前に道を踏み外していた。
賞金首として届いたその知らせにただ愕然とする。引き取られた家庭の先で何があったのか、想像は容易なようでそうではない。あの張り付いた笑顔の下に、姉はどんな想いを抱えていたのだろうか。そしてどんな想いで誤ってしまったのだろうか。
その知らせは私を一人旅立たせるのに充分なものだった。
何と滑稽な話だろう。もはや姉を救うのは絶望的だとすれば、私が今までしてきた事は一体何になると言う?
「姉さん……」
泣き疲れて、今度は笑いが込み上げてきた。その感情に抗う事なく、ははは、と力無く笑ってみた。
こういう時の人間は、壊れそうな自分の心を守る為に笑うのだろう。
「はは、はははは……」
起き上がる気力も無い、力を入れていた拳も気付けばだらしなく緩み、血だけが床に滴る。傷一つ無い美しい床に頬を張り付けたまま、私は笑った。
このまま、死んでしまいたい。
『クリス様にはまだやる事があるのでは無いか?』
私の心の声に反論するように、ニールは問いかけてきた。
「何を、しろと言うのです……」
声を出すのも面倒臭いが、一応聞き返す。
『私はダインのやっている事を否定する気は無い、あいつの行いはある意味私達の存在理由に一番素直に従っているようなものだからだ……』
「そうですか……」
存在理由? もうそんな事どうでもいい。いや、そうだ、別に姉と一緒になって全てを壊しても構わない。それならあのダインとかいう大剣の精霊も私を傍に置いてくれるだろうか、精霊の意のままに破壊するという約束で姉を元に戻してくれるだろうか。
『間違うな、クリス様。それは本当に貴方の意志か? 姉君の意志か?』
空虚となった私の心に、ニールはまた問いかける。
『私は今まで色々な主を見てきた。世界と敵対する、それが役割でありながら苦悩してくる主達が大勢居た。自ら滅ぼされる事を願う者も居れば、本能的な破壊衝動に身を任せる者も居た。結果として、種の存続が危ぶまれるのは最初から分かりきっていた事だった。クリス様は選ばなければならない、選べない姉君の為にも』
「……姉さんの為?」
私はその言葉に微かに反応する。力抜けていた体が、ぴくりと動いた。
『姉君は、そのどちらを選ばせて貰える事も無く、ただ人形のように動かされている。クリス様はそれを許せるのか?』
「そんなの……許せない……」
『私も、同じ精霊武器としてあのやり方は良いとは思っていない』
姉さんを、解放しなくてはいけない、あの性悪精霊から。虚ろだったこの目に再度光が灯る感覚、焦点が合ってくる。
『我が主よ、返答は要らない。これより私は、他でも無い貴方だけの物となる』
背負った槍が凄まじい風を竜巻のように部屋で巻き起こし、その力を収束させる。
風が落ち着いたと同時にほのかに背の槍から伝わる温もり。今までにはない何かをこの槍から感じられた。例え手放しても、この槍は必ず私の元に戻ってくる……そう運命付けられたのが何故だか分かる。
私は寝転がっていた体を起こして、お尻をつけて床に座り直した。背の槍の紐を解いて自分の手前に持ってきて、まじまじと見つめる。
「決めました。例え死なす事になったとしても、姉さんを解放する……あれですね、人に取られるくらいなら殺してしまえ、みたいな」
『それは違うと思うぞ、クリス様……』
◇◇◇ ◇◇◇
クリスが新たな決意を胸に決めた頃、ルフィーナはレクチェを連れて北方の都市ツィバルドの街中を歩いていた。
レクチェは、あの場は危ないと彼女に言われ連れられて逃げたものの、どうしようも無い不安に未だに苛まされていた。クリスやエリオットの安否も心配だが、それ以上に時々飛ぶ意識が彼女を怯えさせる。空白の記憶とは、他人が思っている以上に当人にとって恐ろしいものなのだ。
紅瞳のエルフが気を遣って何度も和まそうとしてくれているが、レクチェは彼女の親切さが逆に怖かった。何だかよくわからないが彼女の優しさには何か背景が見え隠れするからである。
「……クリスさん達、無事なのかな……」
「無事よ」
「本当に……?」
断定するエルフに疑問を浮かべる。
「えぇ、本当よ。だって貴女がここに居るからね」
「……?」
その言葉の真意を図りかねるレクチェは、更に不安を掻き立てられていた。けれどそれ以上の説明はして貰えない。
「貴女は私が護ってあげる、絶対に」
レクチェの右手を握り、強い意志を持って彼女なりにレクチェに訴えかける。
息すら白くならない寒さのこの街で、ルフィーナはもどかしさに耐えながらも改めて彼女なりの決意を胸に宿していた。
◇◇◇ ◇◇◇
【第六章 インテルメッゾ ~それぞれが背負う過去~ 完】