番外編 ~咲くも無常の風に吹かれた視点~
彼の者は今や神と崇めるに等しい存在であったが、初めはただの王であった。今の自分達と同じように大樹の下で暮らし、過ごす。
しかしその王は創世より存在する、人ならず者。遠い、遠い昔にはその人と呼べぬ人智を超える力を持つ者が何人も居た。故に彼の者はあくまでただの王でしか無かったのだ。
王は、今で言うならば暴君に相応しい所業を繰り返す。自分以外の、自分と同じ力を持つ者を根絶やしにし、彼らを材料として新たな世界を構築した。逆らえる者は居なくなり、その世界で己よりも下等な生物だけを育む。
「どうでもいいよ、もう」
いつもそんな話を聞かされ、私は私によく似た母の顔を疎ましげに睨んだ。水縹の髪と瞳、色白の肌。短めの私の髪と違い、母の髪はとても長く襟元で結ってある。きっと私も大きくなったら母の様になるのだろう、と父から聞かされ、私もそのつもりで居たあの頃。
私は昔から、物事に興味の薄い子どもだった。単に興味が出るような楽しい物に囲まれていなかっただけとも言うが、末路の無い、未だに続くという御伽噺を聞かされては、仕舞いには飽きて打ち切る。
両親はその御伽噺を繰り返す割には結論を言わない。子どもに聞かせるにはあまりに分かり難い、むかーしむかしの出来事。もっとためになる物語は沢山あるはずなのに、聞かされるのはいつもその話。
「そう、ね」
真意の汲めない両親の肯定の返事は『そうね』と言う割には否定のような印象を受けるので、後で自分の部屋に戻ってから剣の中で聞いているであろう真紅の精霊に同意を求めて声を掛ける。
「そう思うよね、レヴァ?」
『私も貴女に同意します』
「ねー」
こちらは心からの肯定。その返答に満足げに私は頷き、赤い剣を見つめた。その刀身は鈍く紅く、決して輝きを映すことは無い血の色。物心ついた頃から傍にはこの精霊が居て、彼だけが話相手。
いつも何かに怯える両親はその理由を私には言わず、ただ護身にいつもこの剣を持たされていた。振るわずとも願えば護ってくれるから、とその言葉に違わぬような力強い精霊の存在が、私の心の拠り所。
「あのお話、皆悪い人なんだもん」
……どうでもいい続きの話。
彼の者に一人抗う女が居た。王に限りなく近い力を持つ我等の母。受胎ではなく、王の様に血肉から創造するその力で母となり、自らを犠牲に王の国を壊してゆく。
先を見通し、初源の大樹を護る為に。
一聞するとその母なる女神がいいことをしているように聞こえるが、既に創られた命を滅ぼそうとするのは、子ども心にとても怖いことだと思った。
他人の命で都合の良い国を創り上げてゆく神も、それを壊す女神も。
英雄のいない物語は、とてもではないが楽しく聞ける話では無い。
『そう思えると言うことは貴女はご両親の言わんとすることを既に理解していると同意です。誇りに思って良いでしょう、我が主』
「よくわかんないけど、褒めて貰ってる?」
『えぇ』
隠れ住むようにひっそりと王都よりもずっと南の、深く湿った森奥に建てられた小さな家が、私の唯一の世界。鬱蒼と茂った大きな葉に覆われ、隙間から差し込む光は小さくも強い。
日に焼けても赤くなるばかりの私の肌はこの地に合わないことを示しており、あまり外に出るのは好きではなかった。
全てを両親任せにして、ただ柔く生きるだけの日々。でもその幸せに何の疑問も持ちはしない。よく分からないことを言うことがあるものの、両親も精霊も、大好きだったから。
やがて、母のお腹が大きくなり、気付くと家族が増えていた。妹というものらしい、新しい家族。
父はその子が女であることに随分落胆していたが、初めて見る小さな命は私にとって大いに価値観を変える存在となる。
「可愛いね!」
見ているだけで楽しい、飽きない、面白い。でもちょっとうるさい。
「お姉ちゃんになったんだから、頑張るのよ」
「うん!」
食べたくなるような笑顔が眩しく可愛らしい、私の妹。私はお姉ちゃん。この子の……お姉ちゃん。
嫌いな外にも出るようになり、両親の手伝いに精が出る。生きることにも張りが出て、そんな私と妹を見ながら、いつもどこか物憂げな両親にも若干だったが笑顔が増えた。
妹は、ただ生まれただけで私達に更なる幸せを運んできたのだ。いや、命が生まれるということがそういうものなのだろう。
まだ何も知らない私は純粋にその幸せを噛み締める。とても、とても短く儚い幸せの刻を。
妹が二歳くらいの頃だろうか、それを破ったのは知らない人だった。
「分かっているわね、教えた通りに逃げるのよ」
父が深夜、ほとんど無い来客の対応をしている最中に母が私に言う。何かに怯えていた両親は、その何か……もしもの時のため、私に逃げる先もきちんと教え込んでいた。
つまりは今が非常事態だと告げている母の背後に小さく見えるのは、垂れ耳フードを被った私よりも少し年上くらいの金髪の少年。
「アレを渡せばいずれ来る日までの保障はしよう、と言っているのに、どうして君達はそれを拒む。架せられた使命をも捨てたのならば不必要な物だろうに」
「人が武器を手放せない訳を考えてみるといい、ミスラ。彼に固執する貴様自身、それを体現しているではないか」
難しいことを言っている客人に強めのトーンで言い返す父は、最終的に交渉決裂したのだろう。何をされたわけでも無かったのに床に膝をついてしまった。今思えばあの時父の自由を奪ったのは暗器。
その瞬間私の足は動き出し、寝惚けた妹を連れて驚いて逃げる最中の最後に見たものは、黒一色の装束に身を包んだ何人もの『誰か』が襲ってくる様である。
「……使うから、壊すんじゃないよ」
冷たく言い放たれた言葉の意味は今でも分からない。両親が死んだのかどうかも分からない。
ただその少年と黒装束の連中は間違いなく敵で、私は何があろうとも妹を護らなくてはいけないと、それだけは強く決めていた。
しかし逃げ切るにも子どもの足では追いつかれるのも時間の問題で、大人が通るにはやや困難な小さい抜け道を抜けた後、妙に静かになった背後が逆に恐怖を誘う。
「レヴァ、あの人達、何だったのかな」
確か会話の中では、父に何かを渡せと要求していたはずだ。一体何を求めていたのか。もしそれが家の中で見つかったなら追ってはこないかも知れない。
そうは思ったけれど深緋の精霊がわざわざ具現化して、私にその希望を捨てさせる。
「追って来ると思います。彼らは私を手中に収めたいのでしょうから」
「レヴァ、を?」
「ローズ、ご両親の御伽噺を覚えていますね。あの物語は全て事実なのです」
具現化時の風圧も落ち着き、紅く長い髪がゆったりと彼の背に沈んだ。深く暗い森の中で、血の色の精霊は突拍子も無いことを言い出して私に向き直る。
「王の国を壊す為に創造されたのが私達。その中でも私は異質であり、彼らの一番の脅威と為り得る……と言えば分かりますか?」
「あの人達はレヴァが怖いんだ」
「その通りです」
氷のように透き通った瞳を緩ませ、レヴァが私の頭を撫でた。そして眠くてぐずり始めた妹を見て言う。
「しかし、あの人数相手に貴女の腕では全てを護りきれないでしょう。相打ちならばいくらでも出来ますが……」
「それだとクリスは?」
「巻き込まない保証は出来ません」
レヴァの力は知っていた。何もかもを焼失させてしまう不思議な力。狙ったものだけを焼失させようとしても何故かうまくいかない、思った通りに使いこなせない、私にはまだ早い、大きすぎる力。
レヴァの力を借りて立ち向かっても活路は開けないが、追ってくるのであればこのまま妹を連れて逃げ切るのは難しいだろう。
「ふぇ……」
悩んで焦って、それでも目的地まで足を動かしている中、遂に妹は声を上げ出し始めた。歩けはするがまだおぼつかない、お喋りは少し出来るようになってきたがまだ自己主張をする程度でしかない幼さの妹は、状況など関係無しに座りたい眠りたいと我儘を訴える。
私だって泣きたかった。でもどうしたらいいか分からなくて、ただ頑張って歩こうと言い聞かせることしか出来ない。
いきなり背負わされた重荷に視界が歪むけれど、それでも手放したくない大事な存在の手を、必死に引く。
「貴女は……何を求めるのです」
ふと、透き通った高めの声が強く響いた。レヴァだ。
「何を、って……」
「勿論逃げたいのは分かります。では何が一番大事ですか? 今の状況では何かを失わなくては逃げ切れないでしょう。貴女の返答次第で私はそれだけでも護りましょう。他の何かを、捨てて傷つけて」
残酷な問いだったと思う。けれどその時の私にはその言葉の深い意味を考える頭も余裕も無かった。
「お姉ちゃんは妹が一番大事なんだよ。決まってる」
素直にそう答えると、レヴァは薄暗い月明かりの下で微笑んだ。
その微笑みが何を意味するのか分からないが、レヴァは森の辺り一面を一瞬にして火の海に変えてしまう。
「な、何?」
だがその炎はすぐに消え、残ったのは焼け焦げた部分が織り成す円陣形の模様。
「これからあの連中に私を奪われない為に、クリスの中に隠す魔術を行って貰います。貴女の腕ではこれが精一杯であり、最善でしょう」
「それだと、クリスが狙われたりはしない、の?」
「私の在り処が悟られないように隠すので問題ありません。貴女達の最終的な切り札は私になりますから、申し訳ありませんが私を奪われないことが貴女達を護ることになりましょう。そして、私がクリスの中に居るのならば、クリスが死ぬことは余程でも無い限り有り得なくなります」
淡々と話す精霊の言葉は半分しか理解出来ていないけれど、現時点ではその言葉に賭けるしか道は残されていない。
何となくだが、レヴァがクリスを護ってくれるのだ、と解釈した私は黙って頷いてその円形の魔術陣の中にクリスを引っ張って中央に立った。
「どうすればいい?」
「私は再び剣に戻り、術を施しやすいように自身の意志や思考を遮断させて貰います。その後の手順はこれから教えましょう。そして……時が来たらまた、この術を解除してください。でないと私が貴女の元に戻れない」
「解除はどうやって?」
「今から施すのはダーナに伝わる術式でチェンジリングの応用になります。解除にいくつかの道具が必要になるはずですので今は術式名だけ覚えておいてくれればいいでしょう。覚えきれないでしょうから」
ダーナ、チェンジリング、最低限の必要な単語だけを残してレヴァは術の手順を簡潔に説明していく。
寝惚けてまだぐずっているクリスと私を置いて、彼の姿は剣に重なり消え、それが最後に見た紅き精霊の姿。
うとうとしているクリスに歩くのをやめさせるのは容易なことだった。大人しく陣の中央でこてんと寝てしまった妹にチェンジリングとやらを施すのは割とあっさりと行うことが出来、そして物心ついた頃からずっと傍に居た私の精霊は……本当に気配すらも感じられなくなってしまう。
残ったのは、小さな妹だけ。
あの黒尽くめの連中と金髪の少年がレヴァを狙っていたのならば、剣も持たぬ私達からは一目で何を奪うことも出来ないことが分かるだろう。
どうせ追いつかれるのは時間の問題だ、一旦この陣から離れたところで休んでも問題無いだろうか。正直な話、もう歩けない。
なるべく陣が分からなくなるように上から土や砂利をかけてから、妹を抱えて大きな木の洞に避難する。
いつもと何も違わない夜空なのに、こんなに違う気がするのはきっと、必ず隣に居たレヴァが居ないから?
でも、居ないわけじゃない。大好きなものが二つで一つになってしまっただけ。そしてそれはいつか元に戻せるのだ。
ずっと気を張っていたこともあり、何も悩まずにすやすやと寝ている妹の顔を見ていたら私も寝てしまう。
そんな虚ろな意識の中で、誰かの声だけが聞こえていた。
「……どう致しますか」
「なるべくなら捕えておきたいところだが、理由も無く幼子を何十年も牢に捕らえておけるような無理がきく城では無いからね。一旦置こう」
男の子の声は、確かに城と言う単語を紡ぐ。
目を覚ました時は目の前に誰も居なかったけれど、夢現の中で聞いたものはきっと現実だろうと思った。
見逃して貰えたと同時にあの連中の手がかりも残る。どこの城かは分からないが、偉い人絡みだったということだ。
レヴァが言う『王の国』が具体的に示すものは、私の中ではこの時から、自分達を襲った連中の国となる。
民族単位の小国なのか、それとも大陸を束ねる大国なのか、この時点では分からないにしろ……いつかレヴァを元に戻した時に私が自分の運命に従い壊すものは、それ。
物語の中、どうでも良いはずだった神と女神の争いの調べは、別の形で私の中に強く根付いて奏でられる。
大樹も何も無い、ただ、壊すべきものとして。
レヴァが言うようにあの物語が全て事実だったのだとしたら、現実には英雄など居ないのだ。楽しく聞けるような物語はあくまで作り物でしか無い。互いに憎み鬩ぎ合う、完全なる善人など現実には存在しない。
クリスが起きるまでの間、先に目覚めてしまった私に宿ったのは、冷たい憎悪と復讐心。
でも、私がずっと留まって来られたのは他でもない妹の存在があったから。まずは大切なものを護らなくては話にならない。
その為に私は、最初の目的地へと向けて朝日に顔を上げた。
それから私達は両親の言いつけ通りの場所……元々住んでいたところよりも少し北西の、ムスペル寄りの森へ辿り着く。
そこに建つ小さな一軒家に住む夫婦は、両親に予め『もしもの場合』の為の資金などを預かり受けていたらしい。多少私達の事情に理解のある二人には子どもがおらず、最初は自分達を両親だと思え、と快く歓迎してくれた。
しかし、そう上手く事は運ばなかったのだ。
私と違って状況の理解出来ていない妹は、新しい家での生活に慣れずに泣いてばかり。そして、泣くたびにそれは起こる。
クリスの感情が乱れると、その姿は本来の私達の種族では無い姿に変化した。見覚えのある黒い翼に角など、レヴァが持っていたものに酷似している妹の姿。確かにクリスの中に彼が存在するという証。
けれどその姿は、人に忌み嫌われる空想上の存在、神に反する概念の総称……悪魔にも似ていた。
見た目だけならば受け入れて貰えたかも知れないが、クリスは一度その姿に変化してしまうと劈くような泣き声で部屋の物を音だけで壊してしまい、暴れる力ですら大人でも手に負えない。
私はただ必死に妹をあやし宥める。
「聞いていないわ、あんなこと!」
「それはそうだが……仕方ないだろう」
これは、クリスの身を護る為の副作用のようなものだ。レヴァの言う通り、今のクリスは余程のことでも無い限り、誰かに傷つけられて死ぬことなど無いだろう。
後は私が頑張る番。
私達のことで争う夫婦の声を別室で聞きながら、せめて捨てられないようにと思う。クリスがどんなに力が強くあろうとも、生活が保てなければ生きようが無いのだから。
まだ自分達だけで生きる術を持たない私達は、受け入れてくれた夫婦の精神をすり減らしてでもこの場所に居続ける。
相手に悪いと思えば、本当は自らこの家を出るべきだったのだろうが、私はそれよりも図々しくここに居座り続ける道を選んだだけ。
夫婦の限界が来て、遂には追い出されてしまうあの日まで。
「お父さんはちょっと用事があるから、ここで大人しく待っているんだよ」
普段住んでいる家は森の中でも比較的東に位置していたが、その晩はそれよりも西、森の奥深くに連れて来られて、そう告げられる。
癇癪を起こしてしまう義母とは違い、義父は最期の別れのあの時、少しだけ悲しそうな表情を見せてくれた。
分かっています、貴方は奥さんの心を護りたいのだと。
だから捨てられても大丈夫、今までありがとうございました。
義父の芝居を壊してしまうので言えなかったけれど、去るその背中を見送りながら視線だけにでも想いを込める。私は貴方達を恨んだことなど一度も無い。むしろ悪いのは私。
あの時、あの方法しか無かったからこうなってしまった……きっとクリスが普通の体だったなら大丈夫だったはずだ。私がもっと強かったらレヴァと二人で、クリスを巻き込むことなくあの連中を撃退出来たかも知れない。
幸い捨てられた晩は月明かりがさしていて、夜の森でもかろうじて足元が見える。不安げな妹を連れて、また住まいを探すことになったけれど大丈夫、これは初めてじゃない。
昔は使い道もよく分からなかったこの白い翼も、こういう時は役に立つ。妹を抱いて飛ぶ腕力は無いものの、空から見渡して街の方角を確認した。
「あっちか……」
上空から見た夜の森は、深く静かに暗い千歳緑。緑褐色の森の先には月に照らされ冴えた紫味の掛かった紺青色の空がどこまでも広がっている。
熱気で乾いた地平に抜けたなら、森よりは安全に眠ることが出来るだろうか。
一先ずの目的地は森を抜けること。うまく飛べないクリスも今度はきちんと歩いてくれるくらいに成長はしていた。
そして幸いにも、街に辿り着く前に軒を借りようとした獣人の老夫婦に拾って貰うことが出来、一旦は平穏な月日が流れる。クリスは穏やかな老夫婦によく懐いていたので、泣いてしまうこともあまり無い。
でもやはり幸せは長く続かなかった。
やがて老夫婦の体の都合でムスペルの教会へと預けられたが、そこでクリスは他の孤児達と折り合いが合わなかったのだ。
私が甘やかし過ぎていたのかも知れない。クリスは、泣いては変化してしまい、その姿を晒し、深まる周囲との溝。
それでも私がどうにか取り持っていたのに、私には、私だけに……引き取り手が見つかってしまう。
妹と引き離された時に心から思った。
この世に救う神などいない、だから自分が動かねば、と。
この悴せる空気を震わせる祈りなど私の口から洩れることは無い。私が私の手で掴むだけのものを誰に任せられるのか。
養子に引き取られた先は一見温和な初老の富豪の下で、王都に近い街であるフィルでも多少名の売れていた豪商の新しい義父は、唯一の家族となった私をとても可愛がってくれる。
何でも欲しい物は与えられ、それらが続くようにと私は義父を頑張って慕った。逆らうことなどしなかったし、むしろこちらからも偽りの愛情を注いでやる。すると最初は全然貰えなかった自由もきくようになってゆく。
いつかはここを出るだけなのだからそれまでにやるべきことをやっておこうと言う底意を抱きつつ、私が求めたのは学ぶということ。
教師をつけて貰ったり、図書館に出入りしたり、興味が沸いたと言ってチェンジリングに関する内容が書いてあるようなダーナの術書を取り寄せて貰ったり。
妹と引き離されたことは不幸だったかも知れないが、その不幸もこうやってプラスに転換出来るくらいの環境ではあった。妹とずっと一緒に居るだけでは、このようにチェンジリングについて調べるのは少し骨が折れることだろう。
そして、その合間に私は自分達を襲った連中のことも調べていた。
「…………」
「どうしたんだね、浮かない顔をして」
識り得た事実に表情が曇っていたようで、様子を見に来た義父からそんな風に尋ねられてしまう。
秘密裏に手に入れた後ろ暗い資料はすぐに閉じ、私は不自然にならない程度に困ったような笑顔を作ってから、傍に来た義父へと笑いかけた。
「いいえお父様、歴史はやはり私には少し難しいようで」
もうどこかへ嫁がされてもおかしくないくらいの年になった私は、頬を滑る乾いた指の意味を分かった上で何食わぬ顔をしたまま答える。
与えられた代価を払っていると思えば何てことは無い。
それよりも私の胸を刺すのはこちらの事実だ。
……幼い頃に見たあの金髪の少年が引き連れていた連中は、多分この大陸を統べる国の雇うもの。となると、私の敵はとてつもなく強大なようだ。
あの時は見逃されたとはいえ、少年は私達姉妹を捕らえておきたいかのような言い草だった。何十年も捕らえ続けた先で私達に何を求めているのか定かでは無いが、良いものだとは思えない。
ならば、私がやることは唯一つ。
レヴァを以って、その企みを城ごと燃やし尽くしてやればいいだけ。
首筋に這う熱を帯びた唇へ適当に反応してやりながら、瞼を閉じた私の瞳に映るのはどこまでも広がる金赤の光景だった。
そんな囲われる日々もそろそろ得る物が無くなって来た頃、どうやって逃げてやろうかと模索していた私に思わぬ転機が訪れる。
老い先短い義父は更に病を患っていたらしく、死を間際にして選んだのは、私をも連れて逝くという身勝手な道。
内心は勝手に死ねと言うところだが、無理やり殺そうとするのではなくナイフ片手に『一緒に死んでくれ』と震え懇願する様を見てむしろ憐れになった。
その願いを受け止めて貰えるかも知れない、と思わせるほど私はうまく演じられていて、だからこそ義父にここまでさせるほど愛させ過ぎてしまったのだろう。
「お父様が手を汚さずとも大丈夫です」
それでは無理心中のようになる、と私が提案したのは投身自殺。勿論義父は私が飛べることなど知る由も無い。
紛い物でしか無い愛の言葉を紡ぎ、最後までうまく騙してあげられたら良かったのだが……飛び降りた後のほんの一瞬だけは大きな嘘がばれてしまった。
落ちてゆく彼の大きく見開かれた目に、私の姿はどう見えていたのか。
風を纏う純白の翼を広げて、義父の最期の姿を見下ろしながら私は心から出た言葉を呟く。
「やりすぎには、気をつけないと」
長い間寄り添った相手の死に、何の感情も芽生えてこない。ただこの結末だけを頭の隅に置いて、いわゆる……反省というものを私はした。
そもそも彼は私の幸せではなく自分の独占欲を優先してこんな行動に奔ったのだから、そんな男に対して何の感傷を抱けばいいのか聞きたいくらいだ。
カンドラ山脈は木々茂る山であるからして、遺体の発見も遅くなると思われる。生まれ育った地とはまた違った色の豊かな森が、私の初めて殺した人の墓。
思ったほど心に圧し掛かってこないのは何故だろう。
それこそが警鐘だったのに、私は鳴り響く鐘の音に気付けないでいた。
主の居なくなった屋敷は混乱が生じ、あくまで現時点では行方不明。まず疑われるべきは居なくなってしまった場合の相続人となる私。近いうちに死ぬであろう人物にわざわざ手を下すというのも違和感の残る動機であるからして、完全には晴れない疑いもそこまで強くは無い。
けれどそれならそれで手に余る金銭の行方に周囲が躍起になる。こんなことをしている場合では無いのにこの街は……関わる人が多すぎた。
あまり長い時間はかけられない。調べたところチェンジリングは本来は『取り替えるもの』で、決してただ埋め込むだけの術では無いのだ。私はあの時レヴァを隠す代わりにクリスから何かを取り除いているはずで、それがどう影響を及ぼすのか予想がつかないのである。
元に戻してやらないことには、妹は本来の自分には戻れない。そう、少なくともあの黒い翼は妹の物では無いのだから。
と考えると、クリスは本来の種族としての外観を失っているだけ……だと、良いのだが。
チェンジリングを解除するのに必要な品を揃える為に、私は相続の大半を放棄し、私の相続放棄によって利益を得た団体から最低限の旅立ちの資金だけを譲り受けて、フィルを出る。
ただここからは私の想像以上に困難な道程だった。
何しろ、その必要な品自体がどうも現在では骨董品に近い扱いを受けていたのだ。歴史的価値も高く、金持ちが収集しているか、博物館に展示されているレベルの物。
一つ一つに長い期間をかけて所在を探り当てても私が手に入れるには盗むしか無く、何度か盗みを働くうちに些細ではあるが賞金をかけられてしまう。
私にとって逃走経路は空なので盗むことさえ出来たなら後は楽だったが、あまりに厳重な警備では盗むまでが難しい。折角盗んでみても偽物だったこともあったり、空振りの度に頭を悩ませる。
そして、そのうちの一つはこれこそ一番の難関であろう、と言うくらいの場所に存在していた。
「城内のどこにあるかだけでも目星をつけておかないと……」
なるべく目立たないようにキャスケットや眼鏡の装飾品が欠かせなくなっていた私は、宿の室内にも関わらず深く被っていた帽子を少しだけ上げて資料に目を通す。
見た目は黄金と琥珀のネックレス。ブリーシンガと呼ばれるその品は、私が生まれるよりも前、エルヴァンに納められた物らしい。
普通に考えたならそのまま宝物庫に忍び込めば良いだけなのだが、一度王妃が公の場で身に着けていたという情報もあり、所在が絞れなかった。
城の見取り図を見ながら、やはり宝物庫は流石に忍び込める気がしなかったのでもう片方に賭けてみることにする。
こんなに早く国そのものを相手取ることになろうとは思ってもいなかったが、私がこの時感じていたのは『嬉しい』という感情だと思う。
もし目的の品を奪えなくとも、兵の一人でも打ちのめすことが出来たならと、想像するだけで胸が躍るのが分かった。
今までは盗みを働くにしても奪うことを優先し、最低限の相手しか傷つけてこなかったものの、今回だけは散々荒らしてやろうと……本来の目的とは違うことを、抑え切れない感情が私にそれをさせようとしているのだ。
月明かりさえも射し込まない窓の無い部屋で、手元の光源宝石だけに顔を照らさせる。多分、笑顔を。
久しぶりに感じた喜びは歪んでいたけれど、それでも私にとっては糧に違いなかった。
「会いたいなぁ……」
今や迷惑が掛かってしまうので一目見ることすら憚られる、私の幸せと喜びの源。損得では勘定出来ない絆がそこにはある。
また今日も泣いていないだろうか、いや、きっと泣いているだろう。他人は駄目だ、すぐに妹を泣かせる。
いつか全ての邪魔者を排除して二人で暮らせる日を夢見る私は、そうでなければ幸せなど得られない、と考えるほど他人を害ある存在として見做していた。
引き取られた先でそうなってしまったのか、それとももっと以前、両親と暮らしたあの家を追われた日から既にそうだったのか。
どちらにしても私の心にはもう妹しか存在していなかった。
情報を得る為、時には親しい者を作ることはあるが、フィルでの義父のように仮初の関係でしか無い。
云わば、道具。
他人など今座っている椅子と同じである。
使い勝手が悪ければ……捨てるだけ。
それから半月も経たぬうちに私は行動に移していた。
高い城壁や堀があるとはいえこの国の城は何箇所も天を仰ぐ回廊があり、私が入って出る分には容易だ。後は城内での動き次第。
城内支給されている物と同じ使用人の服で歩けば目立つことも無く、黒く長いスカートの下にいくつもの道具を忍ばせて堂々と夜の城内を闊歩してやった。
時は夕餉時。この時間ならば居ないはずの王妃の部屋へ、本来ベッドメイクするはずだった侍女を眠らせて代わりに入る。
一面を高価な細かい細工で飾った、赤を基調とした床の部屋の、無駄に大きなドレッサー周辺を片っ端から漁ってみたが……流石にあれくらいの物となると別に保管されている、と考えた方が自然だったか。
舌打ちをして、私は予め予定していた逃走経路に向かった。
現時点では何も公になっていない。見つかったなら暴れてやるところだったが、このままならば次に忍び込むことを考慮して静かに退却したほうがいいだろう。
けれど、最後の最後で邪魔が入ったのだ。少しだけ物足りなさを感じていた、そんな私の想いを汲み取るかのように……
「そこで何を?」
入ってきた時同様に回廊の先の中庭から出ようと、噴水の裏で高い城壁を見つめながら翼を広げた時である。
後ろ、というよりは横から男の声。声がした方向に振り向くとしっかりとその深い緑の両目で私を捉える青年がいた。洗練されたラインの優雅な衣装は、青年が警備兵などではないことを示している。
国王と同じ髪と瞳の色、少し曲のある短い髪、何番目かは分からないが王子には違いない。いや、雰囲気が比較的『普通』であるからして一番下だと推測は出来た。上二人は、居るものの少しおかしなところがあるらしいから。
変化前ならまだしも今の私の背中にはメイド服を突き破らせた白い翼があり、服装が天女のようなら何か演技で誤魔化せたかも知れないが、この城のメイド服を着る天使がどこに居るものか。
見つかった時にはその相手を始末することを考えていたけれど、まさか王子に見つかるだなんて、と僅かに臆する気持ちが作らせた数秒の無言時間。
私が返事をしなかった間、彼は彼で目にしているものを考察しようとしていたらしい。そして、言うに事欠いて、
「……メイドだってたまには羽を伸ばしたい時もある、か」
「何言ってるの馬鹿じゃないの」
一人頷きながらうまくもないことを言った青年に、私は本気で突っ込んでしまった。後から彼の性格を思えば、まだメイドだと認識していることを伝え、私に下手な言い訳をする機会を与えていたのだと思う。
だが作って貰ったチャンスを自ら不意にする私に、これ以上胡麻化しようが無いと言わんばかりの困り顔で彼は深く溜め息を吐いた。
「馬鹿ですまないね、盗賊さん」
暴言に怒ることもなく素直に謝る、王子らしき男。そしてその発言一つでどこまで把握しているかを暗に私へ示す。
私は長いスカートをたくし上げて太腿から少し長めの歪んだ短剣を取り出した。
刃物の登場に一瞬だけ眉を顰め、それでも一切足を後ろに引くことの無い彼の余裕は、王子の割には肝が据わっていると思わせる。ただ甘やかされていたわけでは無いのだろう。
青年は向けられた刃の輝きから目を逸らしていて、明らかにわざと作られた隙に、逆にこちらの出足も鈍っていた。
短い時だったと思うが張り詰めた空気。いや、それはあくまでこちらだけだったのかも知れない。今考えてみると彼には通常の刃物など一切通用しないので、私がどんな武器を構えていようがお構い無しなのだから。
そんな無駄な機を窺っていると、先に動いたのは彼のほう。
「記憶では窃盗を重ねるだけの小物だった気がするが……随分危ない橋を渡るんだな」
動かしたのは口だけ。私をすぐ様捕まえようとするわけでもなく、何やら話しかけてくる。
この王子は私がどの程度の犯罪者なのかまでも覚えていたようで、軽犯罪者相手にそこまでの危機感を感じていないのか、とその時の私は思った。
そして、そこから想像できたのは……刺激の足りない城での生活に飽きていたお坊ちゃんが、珍しいものを見つけて構っている。そんな構図。
不安要素だった彼の一貫した余裕も、そう思うと本当にただの馬鹿に見えてきた。
「王妃が行事衣装と共に身に着けている大きな琥珀のネックレス」
「え?」
「あれが欲しかったの」
完全にこの王子を軽視した私は素直に目的を伝えてみる。すると、彼にとって私のこの反応は想定外だったのだろう、呆気に取られて若干ペースが乱れたのが分かった。
「欲しかった、と言うことは何も盗めていない?」
「小物には難しかったみたい」
恐る恐る聞いてくる彼に自虐的な笑みを浮かべて答えてやると、彼には理解しがたいことだったらしく不思議そうに首を傾げる。
「そんな、入る前から分かりきったことを……」
彼の言う通り、確かに今回の件は今までと違って成功するとは思えない賭けのようなもので、保守的でなくとも『やめておくべき』だった。
けれど、
「僅かな賭けに出てでも手に入れたかったのよ」
いつかは何としてでも手に入れなくてはいけない物なのだから、結局避けては通れない道だったのだ。
そんなことよりも、噴水の裏で見にくい位置とはいえ、王子の立っている場所は廊下から丸見えである。早めに退却させて貰いたいところを、変なことを言われてのせられた感が否めない。
誰かを呼ぶ気も捕まえる気も見えないが、このまま長居をするのはまずいだろう。
私の返答に対して彼はと言うと、
「そこまでして手に入れたい物が貴金属とは……」
裏にある事情を知り得なければ当然の反応を示した。
「欲しい物が何でも手に入る貴方には、そこにある想いなど理解出来ないでしょうよ」
乾いた笑いを堪えるかのような顔の動きを見せる彼へ言い放ちながら広げた私の翼に、一瞬だけ余裕をかなぐり捨てた憎悪が突き刺さるのを感じる。それはすぐに元の平静を保つべく散したが、何やら気に病んでいる部分でも掘り下げてしまったのか、視線を逸らした彼の口から不満が溢れ落ちた。
「何も知らないくせに……」
悪態を吐いている、と言うより何かを静かに思い返しているみたいに見える。この反応からするに、何かしらの不自由な思いはしているのだろうな、と察することは出来た。
でもだから何だ、と言う話だ。
「それはお互い様」
そう、先に決めつけてきたのは彼の方。もし勘違いされたくない、知って欲しいのなら伝えたらいいだけのこと。いつだって選択肢にあるそれを選ばないのは他でも無い自分自身。
何があったにしろ、そんな程度の浅い不満を口にしているようでは……大した人間では無い。
噴水の向こうに人気が無いことを確認してから高い城壁へあっという間に飛び乗った私は、彼には届かないであろう高さから見下ろして言った。
「ここは多分見逃してくれるのよね、まぁ今更誰が来ても捕まらないけど」
「その羽があるから、か?」
「えぇ」
夜空の下で天と地を、他人と私を隔つのは紛れも無いこの翼だろう。
持っていた短剣を迷うこと無く彼の顔面目掛けて投げてみたが、一切身構えていなかったにも関わらず短剣は片手一本で払い落とされてしまった。
一応丸腰でありながらも刃物を怖がらないだけの実力はあるらしい。となると、口封じするよりもやはりこの場は逃げたほうが得策だ。私は決して人殺しの腕に長けているわけでは無いのである。
「いいでしょ、この翼」
「……とても、ね」
それがその時の最後の会話。
長いスカートの裾をつまんで軽くお辞儀し、笑顔を置き土産に私はその場を颯爽と飛び去った。
最後に振り返ったなら彼の想いをもう少し拾えたのかも知れないけれど、興味が無かった私は一度も振り向くことなく空を行き、その後、予め取ってあった近隣の町の宿部屋に窓から入って一息吐く。
再度ネックレスの在り処を調べ直すにしても、宝物庫の中を把握しているような人物を探すだけでも途方も無い作業になる。いっそ、王妃が着けている時を狙って直接奪ったほうが早いかも知れないくらいだ。
だが、この後私はそれどころでは無くなってしまう。
城に忍び込んで見つかった以上、何も盗んでいなくともあの王子が口を割れば小さくも騒ぎになるだろうとは思っていたが……予想を上回る、というか完全に想定外過ぎる展開が私を待っていた。
数日後、私の懸賞額は有り得ない額にまで上がっていたのだ。
城とはいえ、忍び込んだだけでは説明がつかない。どういうことなのかと調べてみると、どうも私は『何かを盗んだ』ことになっているらしい。そこに王子の我儘も相俟って更に増額されていたのだと知るのは後の話。
とにかく現時点では大きな謎が一つ。
……私は何も盗んでいない。
あの王子が嘘を吐いた? 何の為に?
でなければ私が忍び込んだことを聞いた他の従者がこっそり私のせいにして何かを盗んだか。普通に有り得るならば、後者。
この額からすると公にされていない『盗まれた物』は相当の代物であることが伺われ、とんだ濡れ衣を着せられた私は、目立つと自覚しているこの容姿を更に隠し誤魔化しながら生活する羽目になっていた。
それでも休めるわけにはいかない手を汚し、闇に浸かりながら遂げたい目的の為に直走る。
すると、相変わらずハズレを引かされることの多い遺物探しの合間で、調べ物をすればするほど不思議な事実が浮かび上がってきた。
「また行き着かない……」
表面上の情報は拾えるのに、ある程度掘り下げていくと途端に調べがつかなくなるのだ。何の件かと言うと、女神の遺産についてである。
レヴァが言っていたように両親から聞いていたお伽噺が事実なら、女神の遺産はつまり元々女神自身。用途の基本は殲滅に破壊、かなり物騒な代物であることが予想出来た。
ならばそれらを……妖精の呪いに近い、妹にかけた術式を壊す以外にも使えたなら便利かも知れない、と思って合間に調べている。
なのに使えそうな物の情報や所在は、発見されている以上どこかにあるはずなのに分からないのだ。
詳細がはっきりしない程度の情報が載っている古書の写しは見つかるけれど、最新の情報がとにかく見つからない。
寝る時以外はほぼ装着したままのウィッグを外し、照明を消した私は一先ず酷使した脳を休ませるために狭い机から離れて暗がりの部屋を伝う。
倒れ込んだベッドは宿泊費相応の安い物。安眠を誘うには物足りない寝床ではあるが、今の私には十分過ぎるくらいだ。
うつらと瞼を閉じ、何もかもから解放されたような疑似感を得るけれど、そんなわけが無い、と時折照らしてくる月明かりが私を起こして……結局その晩も熟睡は出来なかった。
そしてとある日、次の目星をつけている富豪が居る街へ向かう途中の話。
私は薄花の外套で体型を隠し灰青の帽子を被って、一見すると多分男にも見えなくない服装をしながら、寂びた暗い酒場で黙って考量していた。
暗躍している存在は権力があるにも関わらずそれらを完全に行使出来ていない、そんな印象を受ける。情報の隠蔽一つにしても中途半端過ぎやしないか?
していないだけなのか、それとも何か制限があって出来ないのか。
表向きこの国は平穏を保っているし、あの時の少年が言ったように理由なき無理が聞くような環境ではないのかも知れない。
本当はこれももっときちんと隠蔽したかった『事実』なのかも知れないな、とあまり表に出回ってはいない絵本を手に、私はハオマ酒を口につけてその紅に唇を濡らした。
見た目はただの絵本。だが内容が私の知るお伽噺に酷似している上に、遺物の情報がいくつか載っている為、手に入れた書類はすぐに処分するのにこれだけは手放せない。
物語だけに関しては私の知るお伽噺のほうがずっと詳細が語られていて、この絵本は意味もよく伝わらないくらい省略されているのだけれど……
遺物の情報だけならまだしも、この痴話喧嘩までもを一緒に隠したい理由だなんてどこの誰にあるのだろう。
大人になって、既に物語の詳細を知っている私には、この争い続ける二人の神が本当はとても仲が良かったんじゃないかって思えてしまった。
だって、他の神々とは違い、この女神はその横暴な一人の王に最後の最後まで何もされなかったのだから。
意見が食い違い、揉め続けながらも、最終的に女神が自分を犠牲にすることで二人の縁は切れてしまう。それって何だか、神同士と言うよりはただの男と女みたいな気がして。
……馬鹿馬鹿しい。何の足しにもならなさそうな推論は捨て、酒の席での小さな情報達に耳を傾けようとした時だった。
「変装していると思っていたが、まさかそんな格好とはな」
急に背後から男の声がして、それと同時に何かが私の視界を一瞬上から下へ通り過ぎる。
一切感じていなかった気配が突然現れたこと、そして明らかに素性がバレた上で話しかけられていること。両方に鼓動を早く打たされる私の胸。
その胸に何か重い物が掛かるが、泳ぎそうになる視線を正面一点に見据えるだけで精一杯で、背後の誰かをも確認出来ないままそれでも辛うじて返答した。
「何か用?」
「いくつかね」
首の後ろを何やらいじられて非常に鬱陶しいけれど、意に介さぬ振りをして少しだけ聞き覚えのある声に記憶を洗い出す。すぐに一人の人物に行きついたが……その人物がこんな場所に居るわけが無い。
でも、そんな風に思考を巡らせながら自分の胸元に手をあててそこに掛けられた『ある物』を把握すると、先程の否定は打ち消された。
「何これ、プレゼント?」
随分ずっしりとしたネックレスは、その重さだけで比重の重い金属が使われているのが分かる。中央には大きな宝石も填め込まれていた。物自体に視線は向けていないが、きっとこの宝石は琥珀だろう。思い当たった声の主と繋げて考えるとそれしか思い浮かばない。
背後の男は微笑しながら放たれた問いに、否定で答えてきた。
「いや、それは君の物だ。君が……盗んだことになっているから」
「……そうなの」
正直、ここまでの動揺は久々に感じたと思う。
私が何も盗めずに去った城で、王子が私の代わりにブリーシンガをくすねて、それを私の仕業にしていただなんて誰が想像出来る。
大胆な行動に驚かされながらも感情は表に出さない私に、後ろからは少しがっかりしたような声が聞こえた。
「もう少し驚くと思ったんだが」
「驚いてるけど? 王子様は予想以上に城での生活に退屈してたみたいで」
随分機転が利く行動を取ることが出来るようだが、それでもこの王子はやはり物凄い馬鹿なのでは無いか? 何だかこう、人間的に。
驚きを呆れに変えることで気持ちを落ち着かせた私は、なるべく周囲に響かないように声を潜めて投げ掛ける。
「で、要求は何?」
――――表面上はいつもただの下心見え見えの、よくそこらに居るうざい奴。美人だの好みだのと煽てては言動通りに擦り寄って来る、初めて見た時の王子の仮面を捨てて来た、大変残念な男だった。
でもそれだけでは腑に落ちない点を、私は見逃したりしない。
ブリーシンガを盗み、城を出て、私に会いに来るだなんて大それたことをするには、理由として少し弱いと思う。そこまで惚れられるほど、私はあの時彼と強い接触などしていないはずだ。
だからと言って本人が語ろうとしない事情に踏み込むつもりもなく、いつも通り、今までの男と同じように上辺だけの付き合いを私は続けた。
まさか最期に願いを託す相手になるだなんて……思いもせずに。
とても便利だったと思うけれど、どこか食えない。
そんな彼からのアプローチは、今まで受けた中で一番最低で最悪だったと言っていいだろう――――
振り返ってみると予想通り、見覚えのある緑のくせっ毛が視界に入る。確かに王子になどお目にかかる機会は王都でも行かないと無いからそこまで隠す必要が無いのかも知れないが、一応勝手に抜け出してきたのだろうから、せめてその高そうな服は着替えて来いと言いたくなった。
私とようやく顔を合わせた彼は、真剣な面持ちでこう言う。
「俺、子どもあまり好きじゃないんだけど大丈夫?」
「……順を追って説明して頂戴」
【番外編 ~咲くも無常の風に吹かれた視点~ 完】
【番外編前半あとがき】
という酷いオチで番外編の前半…別名:第四部が完結致しました。
番外編、全体的に本編とは比べ物にならないほどシリアスなのに、全部オチがアレだよね!えへ!マジメなままシメられないみたいです。
番外編の前半は特定脇役による一人称でした。
本編がクリスとエリ雄の一人称メイン、たまに悪役描写の為の三人称だったので、語られなかった裏方心理などをこの番外編前半で書かせて頂きました。
>レイア編
主人公がクリスでは描写出来ない部分をがっつりと書いた感じです。
この章が一番『本編の穴埋め』になっている章だと思われます。レイアはキャラ的にも目的にしても、作者が違ったなら主人公になれる逸材だった気がします。
彼女の改革が遂げられるかどうかは当作品で語られませんが、良い結果になるといいですね(他人事!?)
>フォウ編
何故か読者様からの人気が高かった彼ですが、それと同時に当作品内で一番『何考えているか誤解される』子だと思ったので別途収録です。
セオさんとは違う意味で分かり難いと作者としては思っています。勿論読者様に伝わらないのはキャラ設定上仕方のないことなので(見えてるものが違うもんね!)こうやって語らせてみました。
>ローズ編
この章は本当に序盤からほとんど出来ていた物語です。
故に後半ちょっと気に食わなくて微修正を施しました。その際閲覧されてしまった数名の方々には本当に申し訳ありません。
読者様的にはローズとエリ雄の珍道中(何)も描写されると思われていそうでしたが『最後に最初に戻る』つまりは私が大好きな回帰的な描写をしたくてこんなシメになってます。
プラス、いつもの『終わらない終わり方』…もうこれ、癖だなぁ。直さないと。
色んな意味でがっかりしていってね!な章でした。
この後に続く番外編の後半はかなり短い章ばかりになります。
現時点でいつ入院してもおかしくない容態の為、体調に左右されながらの遅い執筆になっておりますが、あともうちょい!もうちょいお付き合いください><
第四部(違う)完成日 2012-02-06
こんなところまで閲覧してくださっている方々に感謝致します!