黄昏 ~この世を治める者の運命~
クリスがセオリーを、無自覚ながらも姉の仇を討つ少し前の事。
自然光の届かない部屋でその準備は整った。
傍に立っているビフレストには分からない魔術紋様を組み合わせたその陣は、神ではなく女神による形に近い。ただの人間でありながら女神の遺産の知識を独学で自身に詰め込み続けた部下と共に、精霊武器に精霊が宿る為に使われている形に改良を加えた紋様は完全なる創作魔術。
この方法で降ろしたならば自由にあの存在はここから抜け出せない。確実に定着させ、そして一方的なリンクを施しているこの身体でやり合う。
器の中身は抜いたから他のビフレスト達のような不調もまず出ないだろう。無理やり押し込めるのではなく、本当に空っぽの器に入れてやるだけ。
最後の仕上げにボルバの熊の皮の灰を対象に振り撒き、セアンスに近い儀式形態で魔術紋様を器の額に刻んでから、フィクサーは自分の両手の平にそれぞれまた別の紋様をなぞって拝むようにその紋様を合わせた。
冷たい床に描かれている陣が強く光りだし、卓上の光源宝石など不要になるくらい部屋を赤く照らし始める。集まり始める空気に懐古を感じるその場の二人は、その存在を見知っているからこその体の反応である事を充分理解していた。
彼がそれを行っている今、エルヴァンの城内のとある部屋でも僅かではあるが異変が起こる。無論、今喚んでいる存在の現在の器となっている少年の身体からそれが抜け出たからだ。
来て欲しくない。
自分で喚び降ろそうとしているにも関わらずそんな事をほんの少しだけ思いながらフィクサーはその漆黒の瞳を細めて、やがて閉じる。
目を閉じても感覚で分かる、成功した事が。
合わせていた手の平を離しゆっくりと瞼を開くと、先程まではぴくりとも動いていなかった器が床に手をついて体を起こしているところだった。
「ソレが欲しかったんだろう?」
自分のペースに持っていく為にフィクサーは先に自ら口を開いて声を掛ける。
だがソイツはすぐに答えない。まずは器の調子を確かめているようで首を回し、肩を回し、そして、
「!!」
魔力を放出したのか、器を中心に光と風が室内に巻き起こって、次の瞬間にその身体が金色に輝いたかと思うと、その長い花緑青の髪が一気に金色に染まり上がった。
ちょっとだけ『あ、ビフレストのその色ってセルフだったんだ』なんて事を考えつつ、それでも対象から目を離さないフィクサー。
「ご苦労様」
ようやく器が喋ったその声は間違いなく元々のエリオットのもの。声質は変わっていないようだがフィクサーに向き直った彼の瞳は髪と同じ金色に変わっている。表情もエリオットのそれではなく、どちらかと言えば……
「お前、あのガキか」
そう、フィクサーにはとても覚えのある無気力そうな表情。
一番最初にこの世界の創造主と会った時は女のビフレストに降りたのを一瞬見ただけ。そんなもの流石にどんな表情をしていたかなど覚えていないが、今のエリオットの作る表情はアレと同じだと勘づいた。
ここ百年程度ちょっかいを出してくるあの少年のビフレスト。てっきりアレは単に命令を受けて動いているだけなのだと思っていたが、ずっとあの中に存在していたのかと今初めてその事実に彼は気付く。
「その言い方だと少し違うが……君がどう思おうと構わない。好きに捉えるがいい」
それだけ言って、エリオットだったものは立ち上がり周囲を見渡した。が、すぐに状況に気付いて眉を顰めながら次の言葉を紡ぐ。
「要求は?」
あっさりと従おうとする神に一瞬拍子抜けしそうになるが、ここで気を抜くのはまだ早い。乾く口を潤すように閉じて固唾を飲んでから、強めの口調でフィクサーは答えた。
「要求自体は簡単だ、俺を元に戻せ。だが……その前に確認しておかなきゃならない事がある」
「ふむ」
「お前の目的は何だ。それ次第で俺は全てを諦める覚悟でここに居る」
神の器となった男はその問いに微動だにしないが、代わりにフィクサーの背後で見守るビフレストがぴくりと体を震わせる。
フィクサー達に囚われていた間、レクチェと呼ばれるビフレストにとっては随分状況が変わっていた。フィクサー達と出会った時からそれは動き出していたのかも知れないが、レクチェにとってもその行動は不可解であり目的が掴めていない。
それをまず指摘し掘り下げるフィクサーの言葉に、彼女は様々な意味で驚かされる。
「何を心配されているのか知らないが、まぁ聞きたいならば話してあげよう」
金髪の男はトン、と片足で床を鳴らし、直後に床が盛り上がって椅子のように形どった。そこに堂々と腰を下ろすその姿は、それだけでフィクサーを圧倒させてゆく。
だが負けるものか。ましてや見た目はあの馬鹿男だ。
強く握った拳から血を滲ませながら彼は次の言葉を待った。
「見せたはずだから世界の材料は知っているね」
「あぁ」
金髪の男の言葉にフィクサーは自然とそれを想起する。
生命。
創る世界の大きさにより材料となる命は違えど、極端な話をするなら自分の体一つで小さな世界を創る事も可能なのだ。無論、それをする為にはエリオットやビフレストのような特殊な魔力が必要となるが。
これは言い換えると、命そのものが元々一つの世界であるとフィクサーは解釈している。この世界の基盤となっている大樹も考えてみたなら一つの命。自分達は大樹と言う世界の一部であり、それは多分……この地を創った神も同じ。大小の差はあるかも知れないが皆、一枚の葉に過ぎない。彼はそう推量していた。
フィクサーの短い相槌を受けて、また薄い唇が開かれ続きを話す。
「元々この地はざっくり言ってしまえば私が材料ありきで創ったに過ぎない。あぁ理由など聞かないでおくれ、無いからね。力があればやりたくなる、ただそれだけの事だよ」
この存在としっかり会話するのはこれが初めてのフィクサー。
その価値観はどちらかと言えば神ではなく一線を越えてしまった科学者のようだった。以前エリオットが推察していた神の本質像と大体同じ印象を、今の彼は受けている。
やはり善良とは呼べない……穏当を欠く金髪の男の中身は、フィクサーとビフレストの反応が良くないのを察するがそれは無視した。
「次に私が創りたいのは、きちんと大樹と循環する地なんだ」
言いたい事は分からないでも無い。この目の前の存在と、サラの末裔の元である女神との対立は大樹絡みだ。もう女神と言う一個体は存在しないにしろ、それとは関係無しに大樹のエネルギーを磨り減らして成り立つ小さな生命達には、エネルギーの循環が成されていない以上いつかは終わりがくるだろう。
それがどれくらい先の事かは知らないが。
「彼女にやられてから色々考えてみたが、やはりそれがいい。やり方次第ではこの地をも補えるかも知れない」
「じゃあ害意は、無いんだ、な?」
ゆっくりと尋ねるフィクサーに首を捻って神は問う。
「元よりそんなもの無い。この地は私の物なのに何故私がそれを害そうなどと思う?」
視野の違いだった。
レクチェも度々感じていた違和感を、今フィクサーは具体的なものとして感じ取っている。
コレは、この世界に住む個人に一切の興味が無い。だからフィクサーがどうなろうとも知った事では無いし、簡単に小さな命を弄べる。当人はそもそも弄んでいるつもりすら無いかも知れなかった。
こうやって器に入っている事で一見すれば対等な存在に見えるのに、それでも見据えている次元が一つ上だから会話が噛み合いそうで噛み合わないのだ。
多分この存在は次に創る世界の為にこの地が多少荒れる事になろうが気にも留めないと思われる。そこに住む生き物の血が流れる事になっても最終的にこの地が存在していたならば問題では無い、と。
だがその目的自体はそこまで悪いものでも無いようで、むしろ何千、何万、何億年と言う先を見越したならば必要な事にも思えた。
止める必要は……無さそうか?
判断に迷うフィクサーは、最後にもう一つだけ問いかける。
「ちなみに、次に創る世界の……材料は何だ」
「それを集める為にこの体の『立場』が一番便利だと思ったのさ」
ずっと、何にも興味を示さないような無気力な表情を浮かべていた金髪の男の顔が、そこでふっと微笑んだ。
「彼女は随分ばらけてしまっているからね。集めるにしても一苦労、管理するにしても一苦労。若干減ってしまっていたりもするが、それはまぁ誤差の範囲内さ。それでも私が創ったような他の生命に比べれば材料としての潜在性は別格なんだ」
神と女神との対立に置いてもやはり次元が違うものである。
元・人間如きが聞いて『それもそうですねアッハッハ』などと受け入れられるような内容では無い事に、フィクサーは目眩を覚えていた。それは彼の後ろで黙って聞いているレクチェも同じ。
ようは、彼女……多分女神。同族であるような存在を材料にすると言っているのだ。現在は既に女神と言う一個体では無いにしても、人間の倫理や常識、一般的な価値観からすればまるで異常者である。
「確か君は彼女の中でも比較的重要部分のパーツを沢山揃えていたね。後日城にでも献上しておいてくれないか」
「……断ったらどうする」
「私が君の望みさえ叶えたなら、断る理由など無いだろう」
あっさりとフィクサーの真意を洞観し、組んでいた足を組み替えながらエリオットだったものは断言した。
どうする。
ただ座っているだけで威圧的なものを肌で感じ取らせる目の前の金髪野郎は、同じ器にも関わらず中身が違うと言うだけで随分印象を変えている。
少年の中に入っていた時よりもそれを強く感じるのはきっと、器もきちんと中身に対して劣らない力を備えているからだろう。
確かに自身としては断る理由が無くなったフィクサーだが、彼としては自分の体を元に戻してもルフィーナに死ねと言われるほど嫌われては全く意味が無かった。
後ろに居るビフレストの女にちらりと目配せして彼女の表情を読み取る事で考えを固めようとしたが、彼女としてもどちらを選ぶべきなのか悩んでいるようで難しい顔をしている。
実際は僅かな間悩んでいただけだったにも関わらず、やはり永く感じる時間。それは神としても同じらしく、フィクサーの返事を待たずにもう一つ話を切り出してきた。
「ところで君はどこまで元に戻りたいんだい?」
「どこ、って」
「生じた不具合だけを治したいのか、私が以前触れる前まで戻りたいのか、それとも元々含まれていた不純物も取り除きたいのか。だが後者の二つを選ぶ場合は君に与えた知識も奪わなくてはいけないが……どうする?」
どこと聞かれて焦ったが、知識を奪うと言われるとどうまたいじられるのか想像がつかず不安が残る。ましてやそれをされては後々の対処に支障が出そうだ。
すぐに、
「不具合だけでいい」
とフィクサーは短く答え、
「なら良かった」
やや安心した素振りを見せて頬杖をつく金髪の男。
何が良かったのだろうか、疑問を顔に出したフィクサーに対し神は言う。
「例が無い操作だからね、ましてや抜き取るなんて作業は失敗してもおかしくない。失敗してしまったら……私はここから出る術が無くなるだけに正直そちらはやりたくなかったんだよ」
軽く笑って言ってくれるが、フィクサーにとっては笑えない。
しかし話の内容から察するに、知識操作的なものはやはり実際に自分達が魔術で使っているもの同様に、通常よりも難易度が高いようだった。洗脳的な操作をされる心配もあったが、それを簡単に出来るならばビフレストの女のように自我がある事も無いか。
神がどこまでを統べているのか少しずつ把握しつつ、もう一つの切り札がまだ気付かれていない事にフィクサーはほっとする。
肉体の一方的なリンクは、多分まだこの言い方だと知られていない。なら、外部から閉じ込められていると言う一枚のカードだけで交渉が進んでいると言うわけだ。
「何はともあれここまで動いたご褒美だ。きちんと治してあげよう。それでいいね? ……お前も」
すっくと椅子から立ち上がり、今までずっとスルーしていた自身の駒の一つに声を掛ける創造主の目がやや細まる。
もしフィクサーを治すと言いつつ何か危害を加えようとしたならば、現時点でレクチェはそれを阻止出来る位置にいた。勿論、後々の事を考えたならフィクサーに危害が及んでは困る為、レクチェは命令されずともそれをする気でいる。
そんな彼女の意をどこまで読んでいたかは分からないが、確認するように紡がれた言葉に、レクチェもそっと返事をした。
「はい、どうかあの日の過ちを……その手で正してくださる事を望みます」
「過ち、ねぇ」
神にすらも物申すビフレストの女の信念にあるのはあくまでも世界とその民への深い愛情。それは創造主であろうとも同じ事で、自らの過ちに対しきちんと誠意もって対処する事こそが一番であると彼女は考える。
彼女の言葉に引っかかるような呟きを残し、それでも神にとってはやはりどうでもいい事。この体を手に入れた今はビフレストですらももはや扱いはその辺りの石ころと変わりない。そんなものにどう思われようとも神には関係無いのだ。
だが一つだけ訂正する。
「この過ち……私にとっては些細なミスなんだがね。それが無ければそこの彼はこの体に近い運命を辿っていたんだよ。むしろ不幸中の幸いだったと思って貰ってもいい」
あの日、もし体に不具合が生じなければ、その後神が不具合を治して更なる改造を試みようとした時に友人の邪魔が入らなければ、フィクサーの体は今のエリオットと同じように神の器として使われようとしていた、と。
それはフィクサーの体がそれなりに適合者であることを示す言葉でもあった。
「君は、ある意味とても運が良かったんだ」
フィクサーに近寄ってきたその存在は、これから不具合を治してやる為に彼の頬にそっと手を触れる。
触覚が無くとも視覚だけで充分気持ち悪いシチュエーションに引きつりそうな頬の筋肉を必死に止めて、フィクサーは恐怖を押し殺しながらそれに身を委ねた。
◇◇◇ ◇◇◇
『あれで良かったのかご主人』
走る私の頭に直接ニールが語りかけてくる。ひょい、と一つの瓦礫を越えたところで完全に水に濡れた衣服の不快感に気を奪われつつも私はそれに答えた。
「ああしなかったら……エリオットさんにどんな顔して会えばいいんです?」
『だが間に合わなくては元も子も無い』
「間に合っても会えなかったら意味が無いですよ!」
『……むむむ』
無茶苦茶な理論展開をしているなぁと半分くらいは流石に自分でも分かっているのだが、まだ生きていたルフィーナさんを放置など……無理だ。そんな事をしたら私をきっとエリオットさんはまた悲しい目で見るだろう。そう思って私はルフィーナさんを助けたのだった。
彼なら何だかんだで彼女を優先しろ、と言う。私は、私の中の彼の命令を受けて動いた、そんな気持ちで居た。
まぁ事が既に動き出していたのだと言うのなら、セオリーとの戦闘中に何かしら別の動きがあったはずなのだから、そんなに心配しなくてもいいはずだ。ほら、あの男なら戦闘中に『間に合わなかったようですよ、残念でしたねぇ』とか言い出しそう!
と、それはさておき、こうして私が濡れているのは、ルフィーナさんを救う方法に理由があった。
要は、あの傷を癒す剣を使って彼女を救ったから、剣を拾うために濡れたのだ。
以前何故かあの琥珀のネックレスを取り上げようとしたセオリーに、奪われそうになって急に抵抗し始めるクラッサ。そしてヒトであるにも関わらず平然と精霊武器を彼女は扱えていた。
次に、ネックレスの話題になった時の『お前の命令にきちんと従う』『ボクらに対して支配性を帯びている』と言うダインの言葉と、以前あのネックレスを持っていたら調子がよくなかったらしいニール。
今までずっとあの琥珀のネックレスの特殊効果の情報を、色々な場所で私は耳に入れていた。
それでも私はその力に気付けず、瀕死のルフィーナさんの『危機』を見てようやくフォウさんの言葉と繋がったのだ。
賭けではあったが放っておいては死ぬであろうあの怪我ならば、試してもいいだろう。
本当にあのネックレスが彼女を護るものになるならば、とそんな想いで私は彼女にネックレスをかけて……わざわざ川に飛び込んであの剣を取ってきた。
幸い剣くらいの比重の物ともなるとほぼ流される事無くあの場に残っていて、驚くレイアさんや慌てるクラッサを再度スルーし、正直な話が虫の息だったルフィーナさんの手に持たせる。
彼女の傷はすぐに癒えていったが意識が戻らないので、取り敢えず剣を持たせたまま私は今あの地下に向かっているところだった。
数分のタイムロスにはなったが、良かった点もある。私自身の傷もあの剣を手にした時点で回復したのだ。
とはいえ完全に貫通していたあの頬の傷だけは癒えても痕が残り、このあたりは精霊武器と言えども巷で言う医療魔術と変わりない印象を受ける。多分魔術同様、瞬間的に肉体の再生速度を高めるだけのものなのだろう。レベルとしてはそこらで見る魔術などとは比べ物にならない、フィクサーやライトさんが扱うランクに近かったが。
でも、私がルフィーナさんを傷つけた流れなのに、私が救うのだと言うフォウさんのあの言葉もどうなんだろう。
少し引っかかるが、放っておけばセオリーに殺されそうになっていたから、そちらの意味かも知れない。何故かは知らないがあの男はルフィーナさんを狙っていた。因縁のありそうな二人だ、きっと私が居なかったら居なかったで対立して……セオリーが彼女を手にかけていたのだと思う。
「まぁ何にしても後はあの黒い奴だけで終わりですね」
血の魔術、だったか。ちょっと面倒臭い相手だなとは思うけれど封印とかややこしい物はもう無いのだから、とにかくやってる事を止めてぶっ飛ばしてやればいいのだ。何と分かりやすい。La sua mano ha il mondoはあと二ページで完結だ!
『だが、ビフレストも居るのでは無いか? あの女はご主人の敵味方問わず護ろうとするのでは』
私の楽観的な思考に対して一石投じるのはニール。ようやく変な趣味の部屋に着いて地下への階段を下りようとした私の足が、僅かにその発言に反応するようにブレるがそれも一瞬だけ。
「レクチェさんは……エリオットさんだって護ろうとするはずです」
ルフィーナさんと違う点はそこ。
多少の食い違いは起こるかも知れないけれど、彼女と刃を交える状況になる可能性はきっと低い。せいぜい仲裁に入ってくる程度では、と私は考える。
けれどそもそも状況がずっと進んでいる事をこの時の私は知らなかった。
そしてそれは……私とセオリーを必死に止めようとしていたルフィーナさんの想定していたものとまさに合致していたのだった。
地下に続く階段の半ばまで下りたところで突然地響きのように大きな物音が鳴り、それは地下から聞こえてくる。
階段の天井にも悲鳴をあげるように亀裂が入り、よく分からないが尋常じゃない事が起こっていると思わされるそんな異常事態。
「間一髪、間に合わなかったんでしょうか……」
『だから進言したではないかご主人!』
凍りついた思考はすぐに溶けて動き出し、じゃあどうしようこれからどうしよう、と同じ疑問だけがぐるぐる頭で巡っていた。
で、でもまだきっと何か方法があるに違いない、それにこの音は実は封印が解けた事でレクチェさんがその魔術を中断させた音かも知れないしまだ諦めるのは早いのである。ももももしエリオットさんに神様が降りちゃっていても、その時はまた何かの方法で彼を元に戻せばいいだけなのだ!
神様を降ろすってどういう方法でどうなっているのか想像もつかないけれど、レクチェさんに降りていた時期もあったなら決してそれ自体が絶望的なものではないと思う。ダインが姉さんを喰って操っていた時よりは……余程。
地下の天井が落ちてくるかも知れない心配など頭の隅に追いやって私は先へ進んだ。だが地下通路へ下り立ったところでもう一度大きく鳴り響く轟音と共に、牢の辺りから大きな金色の光の柱が立つ。
「っ!!」
レクチェさんのものだろうか、その光の柱は触れた部分の建物を崩し、しかしその破片は普通に落ちるのではなく粉末状にまで崩されて宙に舞っていた。一粒一粒が光を反射し、きらきらとまるで金粉に見える。
光の柱は建物を空が覗くほどまで貫通しており、この場所は地下だと言うのに青空と日の光が差し込んできた。
『ご主人、あの力はレクチェと呼んでいたビフレストのものでは無いぞ』
「え」
『大きさがまるで違う』
じゃあ……エリオットさん?
空間の封印が解けたから自力で抜け出した、とか……だったらいいな。あの人ならそれくらい出来そうだと思う。
でもさっきからこんな風に良い方良い方へと考えようとしているのに、心の一番奥にある不安を全く打ち消す事が出来ていない。『無理やり』な私のポジティヴ思考は、所詮上辺だけ。
そう思わないと足が動かなくなりそうだから、本能的にその一番の不安を考えないようにしているのだ。
そこへ、ぽっかり穴が開いたような地下の地下から出てくる影。最初にまず出てきたのはレクチェさんで、ふわりと着地してから私と目を合わせて驚いた様子を見せる。
「れ、レクチェさん、これどうしたんです?」
「ごめんねクリス、もう少し……待って」
何故謝って、何故待てと。全く状況が掴めない、お願いだけの彼女の言葉に私の眉間の皺が寄った。
彼女は私にそれだけ言うと這い出てきた穴の下を見下ろして、次に出てきた二人に視線を向けている。
「彼女のパーツはどこに保管してあるんだい?」
「急かすなよ」
レクチェさん同様に光に包まれながら飛んできたのはフィクサーと、長い金髪の男だった。レクチェさんの隣に降り立って話をしているが何の事かよく分からない。
仏頂面で隣の男と会話しているフィクサーはやがて少し離れた位置に居る私に気付き、その黒い瞳を大きく丸く見開く。
「な、」
「?」
フィクサーの反応に対し、隣の男も釣られるように私の顔を見た。そして、
「わざわざこの体を迎えに来た、と言うところかな」
聞き覚えのある声でやっぱり何の事か分からない台詞を発する。
と言うか……誰?
眠いのかやる気が無いだけなのか、瞼をしっかり開こうとせずに視界が狭そうな事になっている金の瞳に、縛りもせずに腰まである長い金髪を鬱陶しく垂らしている男は、白いシャツに同じく白いスカーフを巻いて、上等そうなダブレットを着ていた。
どっかで見たな、と記憶を辿るがよく思い出せない。まぁいい、無視しよう。
「フィクサー! エリオットさんを返してください!」
ずびしぃ! と黒い奴に人差し指を突きつけて叫んだが、私のその言葉は完全に横に置かれ、フィクサーは自分の言いたい事を言い始める。
「セオリーは、どうした」
以前にも一度見た事があった。基本的に緩い感じのするこの男の、有無を言わせないような圧力を感じさせる表情。私の額に汗が噴き、言葉を出せずに息を飲む。
分かりやすいくらい激怒している目の前の敵に事実を告げるのを躊躇っていると、
「アイツが解除したんじゃ無かったのか……」
私が言わずとも察したのか、微かに震える呟きの後にその漆黒の瞳が私を射抜くように鋭く向けられた。
台詞と反応から察するに、セオリーが死ぬ直前に何かしらの封印解除の合図を彼は送っていたのだろうか。
んん、ちょっと待て。つまりその時点でフィクサーの目的は完了していたから封印解除の合図を送ったと言う事になる。じゃあエリオットさんはもしかしてもう神様を降ろされてしまっている、で間違いない?
『間違いないと思う』
私の脳内台詞へきっぱりと放たれたニールの返事に、フィクサーの怖い視線など気にもならなくなった。みるみるうちに私の顔の血の気が引いてゆき、なのにそれと同時に槍の柄を握る手だけは熱くなっていて。
自分の変化に戸惑いつつもその一瞬で冷えた頭は逆に落ち着いて考えを巡らせる。
こうなってくると単純に助けると言うよりは、助けた上で彼の体を元に戻す事になるのだ……私の苦手な流れ。レクチェさんもそれを分かった上でさっき『待って』と私に告げたのだろう。
フィクサーはそんな私に今にも牙を剥いて向かってきそうな気迫を見せていたが、それを止めるのは隣の男。
何の言葉を発するわけでもなくフィクサーの肩に手を置いて視線だけで会話する二人は、何となく私には仲間のように見えていた。まぁ状況からしてどう見ても仲間なのだけれど。
「って、無視しないで頂けますか」
私、この人にさっき声かけた。かけたはずだ。相手にしてくれないとエリオットさんの居場所も現在の状況もサッパリなので再度強めに声をかけると、かわりに動いたのは彼らではなく……
「ごめんねっ」
「わ!?」
私を包むあの嫌な金色の光は、レクチェさんのもの。昔のように攻撃的なものではなく拘束に近い感じで私の手足を縛り、彼女の動きを見て無関心そうな表情だった金髪男の顔が少しだけ満足げに緩む。
「来い」
私が止められているうちに、フィクサーが仲間を連れて去ってしまう。
「れ、レクチェさん! 逃げちゃいますけど、エリオットさんの居場所知ってたりするんです!?」
いつもの私ならここでレクチェさんも敵かと判断しそうだが、きっとそうでは無い何かの意図があるだろうと、彼女の本心を病院で確認した今なら思えていた。
だからその意図を確認しようと連中が離れたところで私は慌てつつも聞く。
レクチェさんはと言うとその大きな金の瞳をぱっちり開いて私を見つめ、
「え、えっ?」
挙動不審になり始めた。
「いやだって、アイツらエリオットさんを連れていなかったでしょう! だから連中に手を出すよりも別の場所の彼を救った方が早いみたいな意味で私を止めたのだと……」
「ええええ!?」
そこで私の拘束が解け、急に解放された事でべたんと床に落とされる私の体。ちなみにレクチェさんは、揺蕩う布を自分でぎゅっと掴んでぷるぷるしている。
「ち、違うんです? じゃあ何で連中を追うのを止めたんですか?」
「いや、その、あのねクリス。エリオットさん……居たよね?」
「嘘! 私あの二人に気をとられて見逃してました!」
「えっと、だから……あの金髪だった人がエリオットさんだ、よ?」
驚く私に彼女はそぉっとその事実を告げた。だが、いくら何でもそれは無いだろう。
「レクチェさん、エリオットさんの事忘れちゃったんですか!? 彼はあんな熟してないレモンみたいな頭じゃありませんよ!?」
ほぼ金髪だけどちょこっと毛先だけほんのり黄緑なあの感じは、まさにレモン。
「わぁぁ……」
笑っているような泣いているような不思議な顔ををしてレクチェさんが力無い声を洩らす。かと思えばうんうんと悩み始め、少し間を置いてから彼女は何かひらめいた様子でポン、と自分の手を叩いて言った。
「降りた神様があんな緑はイヤだからって金髪に染め変えちゃったの!」
「なるほど!!」
ちょっと違うけどこの方が納得するよね……などとアッチ向いてぶつぶつ呟くレクチェさん。
「……あれ、って事はさっきの金髪の人がエリオットさんなら、追わないと」
「追ってクリスはどうするの? どうやってエリオットさんを元に戻す?」
「う……」
全く考えの無い私はそこで口篭もるしかなくなり、レクチェさんは光明を見せるようにその綺麗な顔で柔らかい笑みを零す。
「エリオットさんを元に戻してもいいってフィクサーさんは私に言ってくれたの」
「ほ、本当ですか!?」
「うんっ! ちょっと状況が変わっちゃって今すぐには出来ないから、一先ずセオリーさんに説明して……」
「え」
一体どう状況が変わっているのか。彼女の口から出てきた状況を説明したい相手の名前は、もう居ない人物のものだった。
あの男が居なければエリオットさんを元に戻せない?
何かそんな難しい下地の魔術を行うとでも言うのか、何にしてもあの男はもうこの世には居なくて……他でも無いこの私が葬った相手。
レクチェさんは私の態度がおかしくなっていることには気付いていないらしく、ぽっかり穴の開いた天井を見つめながら言う。
「でもあの人どこに居るんだろうね、私が最初に来た時にはここに居たんだけど……クリスは知ってる?」
知っているも何も。
「もう、居ません……彼に何の用事があるんです?」
「……?」
私の言葉をすぐには把握出来なかったようでまずは首を傾げ、きょとんとした顔で彼女はこちらを見た。そして私の表情から把握したのだろう、『居ない』の意味を。
服のデザイン上、露出した肩をレクチェさんが掴んできて、ただでさえ近くに居ることに抵抗があると言うのに、触れられたお陰で嫌な感覚が増長してゆく。
「どうしてそんなことを……!」
「だって、ああしなくちゃ魔術を解除出来なかったんですよ!」
「自分の目的の為に他人を貶める、殺めるって、どういうことなのかクリスは分かってない!!」
レクチェさんらしからぬ気迫だった。少なくとも私は今まで見たことが無い。でも彼女の訴えはセオリーが居なくて困る、と言った内容ではなく、私がそれをしたことに対して怒っているようだった。
「互いに武器を持って立つ者なら当然じゃないですか? 別に無抵抗の相手に刃を向けているわけじゃないんですよ」
「そういうことじゃないの……」
私の肩に手を置いたまま、震えるレクチェさんは泣くように項垂れる。けれどそれも短い間。
「彼の気が変わっていなければいいけれど」
さっきの彼女の言葉の意味はよく分からなかったが、今の言葉は理解出来る。本来元に戻してやる必要の無いものを多分……情けでやってもいいと考えが傾いていたところを、私がフィクサーの感情を逆撫でしてしまうような行為をしたのだと。
随分怖い顔をして私を見ていたし、二人まとめて見たのは以前の一度だけだったけれどフィクサーはセオリーをかなり気に掛けていた。
彼を頼るのは無理そうな気がする。つい数分前に向けられた憎しみ満ちた表情はそういうものだ。私も彼の立場なら間違いなく気が変わる。
「セオリーが居たとしたら、どうするつもりだったんですか?」
「今のあの御方は、エリオットさんの体にただ降りているわけじゃなくて、完全に繋がれているの。フィクサーさんの意図としては、逃がさない為、そして万が一の時はその体ごと消滅させられるように、だと思う」
レクチェさんが語った内容は、私が『希望』として捉えていた部分をあっさり打ち消すものだった。ただ降りているわけではない、とわざわざ言うのはきっと、過去にレクチェさんに降りていた状況とは違うのだろう。簡単に剥がせない、多分そういうことだ。
更に後半の内容は私の彼への怒りを更に掻き立てるようなもの。やはり勝手過ぎる。自分の体じゃないから、自分の大切な人の体じゃないからそんなことを想定して実行出来たのではないか。
「あぁ」
そこまで考えて、ほんの少しだけレクチェさんが悲しむ理由が分かった気がする。さっきの言葉はやはり分からないままだけれど、少なくとも……彼らも私も、何の変わりも無い。私は自分の大切な人じゃないからセオリーを手にかけられたのだ。他の誰かの大切な人かも知れないのに。
以前エリオットさんに同じようなことを感じた時があった。それが良くないと分かっていたにも関わらず、状況が変わった今、私も同じようにそれが出来てしまえている。
自分に都合の良い言い分だけを主張して、彼らを責め立てていたのだ。
こんな情けない事実に気付いたら、大声で笑いたくなってしまう。レクチェさんを除いたこの件に深く関わっている人達全て、皆こんなにも勝手だったんだ、って。
私の声を相槌として受け取った彼女は、なお続ける。
「でもそれこそがあの御方の狙いで、今までのように私に不安定なまま降りるのではなくしっかり繋がれた器を手に入れて、自由に動きたいんだと思う」
「だからエリオットさんの体をあんな便利なものにしていたんですね」
フィクサー達がその技術に行き着くまで待ち、彼の体が降ろすに相応しいものだと気付いたのはどこまでが偶然で、どこまでが仕組まれたものだったのか。全てを見ていない私には分からないが、今になってそれらが全て繋がり、噛み合って、この状況を作り出している。
「そう……だね」
暗い影を落とすように小さく小さく紡がれたレクチェさんの肯定の言葉は、私の心をも同じ色で染めていった。
私には彼女がどうしてそこでそんなに落ち込んだのか分からないでいる。エリオットさんの事を心配して、とかそういうものとはちょっと違うな、程度は分かるけれど……彼女は彼女で何かを悩み背負っているのだろう。私よりもずっと長い間、見てきたのだから。
「でね、あの御方がエリオットさんの体を使ってやろうとしている事は、決してそれ自体は悪いものでは無かったんだ」
「はぁ……」
アレが何をやろうとしているとか、その辺りは私としてはどうでもいいので、気の無い返事が口から洩れる。それくらい、私は他の事など見えていなかった。だからこそこんな事態になっているのだが。
でも一応聞かないと話が進まないのでそのまま黙って聞く。すると、
「でも、あの御方にそのまま実行されては別の問題が起きる……彼はそう考えているみたい」
「彼って」
「フィクサーさん」
「相談でもしたんですか? 信用出来るんです?」
レクチェさんも以前のエリオットさん同様に随分あの黒い奴を信用している印象を私に抱かせた。でも、それって凄く危なくないだろうか。大体においてレクチェさんを捕まえたり、エリオットさんを騙していた連中の言葉を、何故こんな風に彼女はすんなりと信じてしまうのだろう。エリオットさんもそうだ、敵だと分かっていながら耳を傾けていてああなったのだから目もあてられない。
訝しむ私に彼女は言う。
「……きっと、辛い事がいっぱいあったんだね」
「え?」
「私は信じるよ。それに、彼はもう私に嘘を吐く必要なんて無いと思うから」
にっこりと、私を安心させようとする笑顔。地下に差し込む陽光はまるで彼女を照らす為に注がれているように暖かくその周辺を淡黄に染めていた。
記憶をなくしていた頃と全く変わらない、皆に愛される為に生まれてきたような彼女は、きっと皆を愛しているから自然とそういうものになるのだ。今彼女がビフレストと言う存在だからそうなっているのではない。
人が人に与える印象とは、決して姿形からだけではないのだろう。その中にあるものもこうやって滲み出る。
その証拠に……昔とは違う白い翼を広げていても、私は昔と変わらない、むしろそれ以上に荒んだ雰囲気を醸し出していた。敵は敵とあっさり見做して切り離し、その裏に何があるのか知ろうともしなかった私には、絶対にこんな顔は出来ないから。
「信じるって、怖い時もあるね。クリスは別に間違ってないよ。でも……疑っていたら前に進めない事もある」
私とは決して相容れる事の無いその存在が、それでも相容れようと私の左手を取った。レクチェさんは私が触れられると嫌な気分になる事は知っていると思う。それでも敢えて触れてくるのは、嫌がらせとかそういうのじゃなくて。
表面上にあるその嫌悪の感情ではなく、その奥にあるはずのもう一つの気持ちを私に受け止めさせたいのだ。
何でそんな事が分かるかって、それは、今それを感じさせられているから。
「でも……もし裏切られたら、どうするんです?」
あと一押しの気持ちが欲しくて後ろ向きな事を言う私に、レクチェさんはにこっと、
「それはそれっ」
どこかで聞き覚えのある台詞を投げかける。どこで聞いたかは覚えていないけれど、随分とまぁ楽観的な言葉だ。こんな状況でそんな事が言えてしまうレクチェさんにはある意味敬意を表したいくらい。
と同時に、膨れ上がってくる罪悪感。自分がどんなに感情のまま何も考えずに行動していたのか、自覚して胸が詰まる。ルフィーナさんはちゃんと、正しい道を照らしてくれていたのに。
「ごめんなさい、私……取り返しのつかない事を」
「セオリーさんには私やクリスと一緒に、一段落したところであの御方の相手をして欲しかったんだけど……居ないとなると多分すごーく大変、かなぁ。フィクサーさんの心変わりもちょっと心配だし」
「一段落、ですか?」
「うん」
不意を突くとか、隙を見計らって……と言うわけではなさそうだ。理由があっての順序だてのように聞こえたそれを詳しく聞こうとしたところで、後ろでコトン、と小さな瓦礫が転がったような音が聞こえて私は振り返る。
そこにはさっきフィクサーと上階に上がって行ったはずの偽エリオットさん一人。
「大人しくここで待っていたようで何よりだよ」
確かによく見てみるとエリオットさんっぽい顔だった。ただ、凄く人生にやる気の無い表情だけれども。
「何か用ですか?」
もしこの中身が神様だと言うのなら、お城で会った少年のビフレストと狙いがきっと同じはずだ。私に用は……必ずある。
あの時の恨みも込めて睨んでやるとソイツは何も言わずに右手を光らせ始めた。
何か攻撃でも飛んでくるのかと警戒したがその素振りは見せず、右手が光ったまま近付いて来るその意図が分からない。
レクチェさんと一緒に、相手からは目を離さないで距離を取る。すると逃げ腰なこちらに対して彼はそこでやっと先程の私の問いに返事をした。
「手荒な真似をしようと言うんじゃない。その二本をこちらに渡して欲しいんだ」
「何の為に……」
「少なくとも悪い事に使うわけでは無いのは、君が気を許しているソレも知っている。むしろ、君が持っている方が余程危ない……私はそう思うがね」
物凄い皮肉を言われている気がするのは、今の私がそれを事実だと分かっているからかも知れない。どんな考えを持っていようが私と言う存在は、何度も精霊達から言われているようにこの武器を以ってこの世界に害を為すのが本来の役目なのだから。
たまに見せる武器達の力の片鱗だけでもそれは容易に想像、実感出来……何て言うか、それはきっと、歩く災害状態だろうと私は以前の姉さんを思い浮かべていた。
でも今はダインのように自分勝手な精霊を扱っているわけでもないし、危ないからと言って取り上げられる謂われも無い。
「お断りします」
私の一言でムゥ、とやる気の無かった顔の唇だけが尖る。エリオットさんの顔でそんな子どもっぽい表情をされると凄い違和感がしてちょっと違う意味で更に後ずさりさせられてしまうのだが……
隣を見るとレクチェさんもそんな感じで彼を見ていて、何だか凄く複雑な心境そうだ。
「素直に渡せば当面の間は保障もしてやれると言うのに、君はそれでいいのかい?」
「どういう意味です」
「抵抗するのなら、手足を切り落として動けなくするまで。実力行使する、とそういう事だよ」
すらすらと出てきた脅し文句はセオリーにも負けない酷いものだったが、その話し口調があまりに平然とし過ぎている故に冷や汗が頬を伝う。
食事をするとか睡眠を取るとか、そういうレベルでさらりと話す目の前の敵は、またその歩みを進めてきて右手を差し出してきた。
「さぁ選ぶまでも無いだろう。大人しく渡せばいい」
……渡す気は無いが、渡してしまったらエリオットさんの体がまずい事になるような。何で普通に受け取ろうとしてくるのだこの偽者は。
それにさっきまで一緒に居たフィクサーはどこへ行ったのだろう。上で何があってコイツだけ一人で降りてきたのか疑問はどんどん湧いてくる。
この通路は決して際限なく続いているものではないので、後ろに下がり続けるのも限度があった。上に開いた穴から逃げるのなら、あまりこれ以上後ろに下がって穴から遠くなるのも避けたい。
どうしようか、と思ったその時だった。
「がっ!」
急に偽エリオットさんが声をあげて頭を下げたではないか。一体何が起こったのか分からずに私もレクチェさんも足を止め、取り敢えず身構える。
彼はすぐに後頭部を左手で押さえながら背後に振り返り、そちらに何も無い事を確かめてからまた私達に向き直った。
「い、今何か……だっ!」
今度は横にぐわっと倒れるように偽エリオットさんがよろめく。一人で何をふらふらしているんだろう、と呆気に取られているともう両手で頭を抱えながら彼は言う。
「……ちょっと尋ねたいが、この体は実は鈍器で殴られるようなレベルの頭痛持ちだったりしたのかい?」
「き、聞いた事無いですよそんなの」
そんな事を聞いてくる、と言う事は今そんな感じの頭痛にでも襲われている?
エリオットさんの体に乗り移った不具合か何かかも知れない。
「れ、レクチェさん」
今コイツを取り押さえてもいいだろうか。何だかよく分からないけれど凄くチャンスな気がする。二度だけで済んではいないようで、続く痛みに呻いている偽エリオットさんにそっと近づきながら私は問うように彼女の名前を呼んだ。
「フィクサーさんが今何で居ないのか、私には分からなくて……」
つまり、機を伺おうにもレクチェさん的には状況が掴めていないと。だが折角のチャンスを逃すのもアレだ、ともう完全に頭を押さえて蹲ってしまったレモン頭を掴める距離まで寄る。
「形勢、逆転しそうですよ?」
槍を構えて私は隙だらけの彼を見下ろした。
だが頭を押さえていた彼の右手が急に伸びてきて、槍の穂先の根元を掴む。そしてそのまま彼は痛みに顔を歪めながらもきっちりと私の手からまず一つ目の精霊武器を奪った。
「何て事をっ」
思わず出た言葉がそれ。何故ならエリオットさんは女神の末裔では無いし、過去にニールを持って半死になった事だってあるのだから、その器で持っては無事で居られるはずが無い。
すぐに取り上げようとしたが彼は何故か無事なようで、私の手を振り払い、頭痛に悩まされてはいるようだが見た目は怪我一つ無く槍を完全に手にしている。
……私の知る限りでは有り得ない光景。
「ほら、素直に渡したまえ」
「何でそれを持てるんです……」
「持てもしないのに寄越せなどと言うわけが無いだろう。通常の肉体では持てないその理屈さえ分かっていたなら、持つにはどうすればいいのか、それらを踏まえて創り、力を使いこなせばいい。違うかな?」
小難しい説明をされてもいまいち理解が出来なかった。とにかく言える事は、エリオットさんはやりようによっては精霊武器を持てる体だったと……?
彼はくい、と首を慣らすように曲げてその表情が元のやる気の無いものに戻る。頭痛は一旦治まったのか、後頭部をさすっていた左手も下ろされてきちんと槍を構え始めた。
「私は実を言うと、白兵戦は苦手なんだ」
「じゃあ、それ返してくださいよ」
苦手、と言う割には槍を持つ構えが理に適っている。投げ槍であるニールの長さは二メートルも無いが、それをうまく身を軽く屈めて斜め上に突き出すように私の胸にきちんと狙いつけていた。
「いや、でも槍だけは……得意な方でね」
私も同じなだけによく分かる。この状況が長剣で太刀打ちするには非常に難しいと言うことが。何しろ得意な方の武器を先に奪われてしまったのだから。
しかし持てたところでニールが彼の命令を聞くはずが無いのだからただの良い槍でしか無い。レクチェさんも居ることだしレヴァだけでも対抗出来るか。そう思って剣の柄に手をかけようとしたのだがその手を切り落とす勢いで穂先が振られてまずはそれを避けるように後退するしか無かった。
一切の迷いも躊躇いも無いその速度に、コンマ一秒避けるのが遅れていたなら右手首が落ちていたと思うと喉が渇く。私に武器を取らせる気も無い、とそういう動きだ。
そんな偽エリオットさんの本気の一撃を見て、傍に居たレクチェさんが覚悟を決めたように一歩踏み出し、
「彼女は、クリスは決して貴方の世界に危害を加えたりなどしません。今むやみに傷つけて武器を奪おうとする必要は無いのでは」
この価値観が異なる存在にあくまでも説得を試みる。
「危害を加えないと言うのなら何故武器をこちらに渡さない? 答えは出ているんだよ」
「それは貴方が彼女を不安にさせているからに過ぎません」
「いずれは材料となる存在に気休めを与えてやれ、と。なかなか酷な事を言うものだね、お前も」
最後の台詞の意味が分からなくて眉が寄ってしまった。会話の相手であるレクチェさんには伝わっているのだろうか。彼女の顔に視線を移すとその表情は吃驚したものに変わっている。
「それは……!」
「まさか理解していなかったのかい? 何故彼女だけが例外だと思う」
偽エリオットさんは呆れたと言わんばかりに顔を緩く動かして、自身が創り出した今までの手足だったレクチェさんを見下げた。
今ならいける、と再度私は剣の柄に手をかけたが、こちらに気を配っていないように見えてそうではなかったらしく、彼はすぐに槍を振るってこちらの動きを牽制し、今度はそれだけでは終わらずに金色の光を放出したかと思うとそれらが全て矢か槍のように私目掛けて降り注ぐ。
矢か槍か、と半端な比喩をしたのには理由があった。矢のようなのだが、そのサイズがどれも槍と呼べるサイズだからだ。
飛んで避けようとした私だが、一旦避けたにも関わらず光の槍は追尾するように私を追って浮いてくる。
「くっ!」
未だ剣を抜かせて貰えない私にはもうこれ以上為す術も無くダメージは免れないと思った。けれど目の前で光が光を撃ち落とし、それによって生まれた間を使って私はようやくレヴァを抜く。
「全部はフォロー出来ない、かも……っ」
状況の進み具合は分からないが、相手がこちらに向かってきている以上、動かざるを得ない。レクチェさんも覚悟を決めたようで臨戦態勢を整えていた。
「十分です!!」
飛んだ私は彼の頭上から思いっきり剣を振り下ろして、それ以上の追撃をさせないように攻め入る。勢いのついた赤い刀身を、偽エリオットさんはと言うと穂先ではなく柄の部分を使い両手できっちりと受け止め、
「君の呪だけは、やはり大したものだな、っ」
「っ?」
女神の呪の効果の何かを実感したのか、そう独りごちて興味深そうに槍と剣を見つめていた。
その後もこちらの切っ先をうまく柄で払われ受け止められ、しばらく攻防の続く中、レクチェさんの放つ光の布ようなものも器用に槍の穂で斬り払い、本当に槍だけは得意なのだろうと思わされる捌き方。
が、一つだけ引っかかる動きがある。
『いかに私と言えどもあの柄は折れませんよ。勝ちたいのならば柄では無く穂先を使わせてください』
ずっと反応の無かったレヴァがようやく言ったのは、私が引っかかっていたその部分だった。普通ならば穂先で受け止めるような状況下においても、こちらの攻撃を何故か全て柄で彼は受け止める。同じ槍の使い手として違和感のする動きに逆に翻弄されそうになっていたのだが、レヴァの台詞を受けて考えると……この偽エリオットさんは敢えて柄しか使っていないのか。
『もう正直に言ってしまいますと貴女が主人と言うだけで萎えます。使い慣れているはずのニールの事ですら何も把握していないのですから、呆れて物も言えません。いいですか、貴女が他の何に負けても構いませんがこの私が同種に負けるのだけは……』
「うああああ!! ムカつく!!!!」
「な、何!?」
勿論、レヴァの声など私以外の誰にも聞こえていない……はずである。で、多分レヴァは私の心を読めない、と思う。
声に出さないとこちらの言いたいことは伝わらないわけで、と言うかもうそんなもの別として口から勝手に出た今の心境は、私と攻防を続けていた偽エリオットさんを流石に驚かせた。自分に言われたのだと、そりゃあ思うだろう。彼の目は点になっているかのように丸々していた。
「早く、ニールを、返してください!!」
剣を振るう太刀筋が荒っぽくなり、それと同時に一撃に篭もる力も重くなる。けれどやはり同じ精霊武器だからか、一向に傷一つつく気配の無い槍の柄。取り戻したい私としては傷つかれても困るけれど、これじゃあちっとも戦況が進まない。
私の並々ならぬ気迫に、やる気の無いレモン頭が若干気圧されているようだった。苦し紛れに彼は、
「そんなにこの槍が大事なのかな?」
軽く笑って歯を見せてくるが、
「この剣の百万倍大事ですッ!!」
完全に怒りにまみれた私の剣が若干炎を纏い始めた途端に顔色が変わって急に距離を置く。
「……!」
表情が真剣になり、こうして見ると真面目な時のエリオットさんだ。髪の色はレモンだけれど。自分以外の全てを豆粒くらいにしか思っていなさそうだった彼が、ここに来てその意識を変えた、そんな風に思える。
何が彼をそうさせたのか、と思った時私の手には明るく輝き始めた炎の剣。
「……動物みたいに、火が苦手なんですかね……」
『どうしてそうなるのですか、貴女の思考は』
馬鹿にしてくるツッコミはスルーして、明らかにこちらを先程以上に警戒し始めた偽エリオットさんに私から近づいた。レクチェさんはと言うと自分から牽制しても防がれて終わる為、あちらからの精霊武器以外の攻撃を打ち落とす事に専念するような構えを見せている。
多分これは好機なのだと思うが、さぁここからエリオットさんの体を死なない程度に取り返すにしてもどう攻撃したものか。
そこへ、
『貴女は何をしたいのです』
綺麗な女性の声が私の頭の中にさっきよりもずっと強めに響いた。
何をしたい? そんなもの決まっている。何とかしてエリオットさんを元に戻したい、それだけだ。
でもわざわざ口に出してまでこの剣の精霊に伝える気も無く黙っているとレヴァは続ける。
『武器で出来る事は決して誰かを救う事ではありません。間接的にそうなろうとも、直接的には……必ず誰かを傷つける事しか出来ないのですよ』
エリオットさんを救う方法も今となってはフィクサー任せでよく分からなかった。今の私がやっている事と言えば、何故か襲ってくる偽エリオットさんから自分を護っているだけ。一先ず状況が暗転したりしないように、と維持しているだけ。
それをしながら、いつ彼の身を傷つけてしまうか、ニールを傷つけてしまうか分からないのに。
そんな事実を突きつけるレヴァは、決して一つも間違っていない。
火が苦手なのか、この剣が苦手なのか、何にしても急に逃げ腰になりつつある相手を追うのは……
『私と貴女に出来るのは、目の前の存在を消し去ることだけなのです』
そういう、ことだった。
そういえば、少年のビフレストが神様の命令に従ってレヴァを狙っていたのだとすれば、今目の前に居るエリオットさんの中身だって同じようにこの剣を他の精霊武器以上に危険視しているはずである。
『焼失』という呪をどう言った意味でそこまで危険視するのか判断は出来ないが、レヴァが私に言い聞かせるように告げた言葉はその呪など関係無しに自分が『失わせる』だけの存在であると示していた。
その事実が圧し掛かってきたと同時に押し寄せるのはまず無気力。何もしない、それが答えな気がしてくる。
あぁそうか。だから貴方は何もしたがらないんですね。
自分を知っているから、この子は塞ぎ込むしかなかったのだ。何にも興味を示さず、なるべく語らず、あまり積極的に協力してくれないのだって……協力したらどうなるか分かっているから。
この子は精霊でありながら私よりもずっと自身の存在を疑問視し、憂いていたのだろう。
きっと私の両親はレヴァの気持ちを汲んでいて、同調出来ていて、だからこそこの剣を振るえなかった。使う事を選べなかったのだ。
それは生まれた時から担っている役割としては『使いこなせている』のかも知れないが、その役割を自分の意としない場合はもはや重荷にしかならなくて。
私と姉がその場に居なくても……剣を振るう事は無かったのではないだろうか。
ふわ、と火の粉が周囲を舞い始め、柄を握っているだけで伝わってくるこの剣の力。火の粉、と言う表現が合っているのかも定かでは無い、光が千切れたようなそれは床に落ちるとその部分を焼失させてゆく。まるで元から何も無かったみたいに穴が綺麗に空いて、やっぱり炎のようで炎じゃないな、と私はそれを視界に入れていた。
私が変わり始めた事に気付いて不愉快そうに舌打ちをしたのは偽エリオットさん。
「それを……振るうんじゃないよ」
流石に神様ともなるとこの後どうなるか予想がついているのか、私を窘めるように彼は言う。
「じゃあ、エリオットさんを返してください」
「……どんなに姿形が変わろうとも、本質は変わらないね。いや、君がたまたま彼女に似ているのかも知れないが」
「御託を並べていないで分かりやすくお願いします」
この人のお喋りは分かり難い。セオリーと良い勝負で分かり難い。クラッサと話した時も思った事だが、頭が良いのと説明が上手かは全くの別物で、むしろ頭が良すぎる天才肌な人のほうが凡人に理解出来るように言葉を噛み砕くのが下手だと思う。
私の喧嘩を売るような台詞に彼は特に気を害する様子無くあっさりと答えた。
「大事な物を護ろうとする時に、他の何の犠牲をもいとわない。そういう所がそっくりだ、と言うのさ。それを悪いとは言わないよ。だが……それで私を責める権利が果たして君にはあるのかい?」
「エリオットさんを助けたら、何か起こるような物言いですね」
もう結界のような物は解いてしまった。神様も彼の中に居る。これ以上何があると言うのだろう。
レクチェさんが言っていた、すぐにエリオットさんを元に戻すわけにはいかない事と関係がある?
その答えを知りたくてレクチェさんに視線を飛ばそうとしたその時、さっきから不在だった例の奴が偽エリオットさんの後ろ側にある階段から姿を現して口を挟んできた。
「この世界が滅びる」
真面目な顔をして、面白くも何ともない冗談を言い放った黒髪の男は、その後補足するべくうんざりした顔をしながら付け加える。
「別に今すぐとか近い将来じゃない。多分俺達には関係の無いくらい遠い未来の話だ。ただ、今のところソイツに降りている存在だけがそれを防げる可能性があって、今お前の『エリオットさん』を救ったならその未来は間違いなく打ち消せない」
「な、何ですかそれ……」
言っている内容は分かるが、何故そんな事態になっているのかがさっぱりだ。だからレクチェさんはまだ待つように言っていたのか……でも待って、一体何をしたらそれがどうにかなると言うのだろう。
それにこの言い方だとフィクサーはエリオットさんを元に戻す気など無さそうである。
「痴話喧嘩は終わったのかな」
彼が合間に入った事で少し気持ちが別の方向に向いた私の手の中にある剣はまた普通に戻っていて、安心したのか偽エリオットさんに余裕が戻った。
しかし……痴話喧嘩って何の話?
首を傾げた私の耳にその後聞こえてきたのはゴッと鈍い打撲音と、
『あだっ!!』
二人の男の悲鳴だった。
頭を抱えてまたしても蹲るのは偽エリオットさんと……フィクサー。どういうことだ、と二人を交互に見ていると更に奥の階段から現れる一人の女性。
彼女はいつもの長いロッドを手に持ち、私が再度あげた琥珀のネックレスを輝かせながら短めのスカートの裾を揺らして言う。
「痴話喧嘩だなんて表現はやめてくれるかしら」
服は血塗れたままだったが元気そうな様子の赤瞳のエルフに私はほっとしたと同時に更なる不安を掻き立てられていた。彼女の思想からすると私の敵が増えたようなものだからだ。
やはり彼女を救ったのは間違いだったのか。過ぎる後悔と、それでも過去に培った情が縋るように彼女を見る私の瞳を沈痛なものにする。
一瞬だけルフィーナさんと目が合って、でもすぐにそれは私から逸れて情けなく蹲っている金髪の彼に向いた。
「こ、この頭痛は……」
「気付いたかしら? その器が欠陥品だってこと」
そして足元に居るフィクサーの腰のあたりに蹴り一発。
『ぐっ!』
やられているのはフィクサーのはずなのに偽エリオットさんまでもが呻いて痛がる。な、何となく分かってきたこの状況……この二人、何をどうしてかは知らないけれどダメージ的なものが繋がっているのだ。
レクチェさんは知っていたのだろう。彼女は落ち着いて、決して気を抜かずに冷静にルフィーナさんの動向を見ていた。
「一応言っておくわよ。アンタとは理が違う方面の魔術を用いて掛けられているらしいから、気付いたところで簡単に解除なんて出来ないわ」
その事実を伝える表情は悦に入っており、まるで積年の恨みを晴らすかのように恐ろしいほど歪んだ笑み。たまにこの人すんごい顔をするんだよなぁと記憶を辿った時、思い出したのは彼女の異母兄。半分とはいえ血が繋がっているのだと実感する。
しかし彼女の行動でほんのり浮かぶその事実。中身が神様であろうとも結局のところ器の頑丈度はエリオットさん、つまり普通のヒトだ。叩かれれば痛いし蹴られても痛い、治せるとは言ってもとにかく痛いに違いない。
偽エリオットさんは苦痛が滲んだ顔を今まで一切眼中に入れていなかったであろう一人のエルフに向け、
「女神の遺産を用いて呪でも施した、か……」
「そうらしいわよ~。こんな事を思いつけちゃうヒトが居たみたいね。虫けらに足元を救われる気分はどうかしら」
「……この後に及んで何がしたい」
「これから創ろうとする世界の工程を説明なさい」
世界を、創る?
さっきもフィクサーが随分と大きすぎる話を持ち出していたが、今度はルフィーナさんまでそんなことを言っている。
それに対して鼻で笑い、偽エリオットさんは光る手で槍を杖がわりに起き上がり彼女に向き直って言った。
「少なくとも君に説明して理解出来るものでは無いよ」
「あたしじゃなくて彼にでいいわ」
つん、と今度は軽めにロッドで突かれて、何だか嬉しいのか悲しいのか複雑な顔で眉を顰めるフィクサー。
「説明して……その後どうする気だい」
「どうでもいいでしょう。言わなければ殺すだけよ」
「言っても殺す、そんな気がするがね」
「あら、折角教えて貰っても聞いて理解した彼まで殺しちゃったら元も子も無いわよ。それにその器が無いと多分聞いたところで無理じゃないかしら。それとも……頑張れば他のビフレストでも代用可能とか?」
彼女の意図する事は何なのかと私は自分の理解出来る部分だけ必死に聞き取って、且つニールを奪い返すタイミングを見計らう。
と、そこでレクチェさんが私に少し近寄ってきて小声が届くくらいの距離となった。金の瞳が横に居る私に流され、ほんの小さく紡がれる言葉。
「あの説明が終わった後に、エリオットさんの拘束を手伝って貰っても、いいかな」
深く理由を聞く必要は無さそうだ。レクチェさんはあくまで『拘束』と表現していて、エリオットさんを見捨てるような感じでは無い。ルフィーナさんはちょっと脅迫めいた事を言って脅しているけれど、レクチェさんが困っていないところを見ると大方は予定通りの流れなのだろう。
エリオットさんに直接手を触れる事が出来ずとも、いざとなればフィクサーを気絶するくらいぶん殴れば簡単に片がつきそうだ。ルフィーナさんに殴られていようが抵抗の素振りを見せない彼は、まだ一応レクチェさんと同じように信じても……いいのか?
不安に揺れるが、エリオットさんを治す術を知らない私は信用出来なかろうがその話にのるしかない。
ゆっくりコクン、と頷いたところで偽エリオットさんの視線が一瞬だけこちらに靡いた気がした。
でもそれは気のせいだったのか、彼は困ったようにルフィーナさんとフィクサーを見つめて顎に左手をあてて考え込む仕草を見せる。
「大方やりたいことの予想はつくが、そこの男を護りながら自由を封じ、更に他三名の相手ともなると骨が折れるね」
むむ、偽エリオットさんは今の会話で察しがついているらしい。話が終わった後にこちらが拘束しようとする作戦は洩れているのか。
「……バレている以上、無理してアイツを元に戻してやる必要は無いんじゃないのか?」
その彼のぼやきを受けて、疲れたようにルフィーナさんに語りかけるのは地べたに腰をおろしたままのフィクサー。彼は次に私の目を真っ直ぐ見ながら言う。
「聞いたところで俺はそれらを扱える力は持っていないし、元に戻ったアイツと協力したところで成功する保障は無い。そうしたら失敗だ。大人しくあの王子一人犠牲になれば……まるく収まるじゃないか。コイツが道を踏み外すと思ったら俺が道連れにしてやればいい」
言葉だけならばルフィーナさんに語りかけているものなのに、フィクサーは私に『諦めろ』と言うような視線と態度だった。エリオットさん一人犠牲になればいい、と。
「貴方が……言いますか!」
ルフィーナさんが言うから正当性を帯びていたそれも、ここまでの流れのほとんどを自身の為に進めてきたこの男が言うことでは無い。
よくもその口が、と込み上げる私の怒りが沸騰するその前に、レクチェさんが彼の発言を聞いて前のめりになるような姿勢で食って掛かった。
「それではお話が……!」
「やはりお前も一枚噛んでいたのかい」
その反応を見て偽エリオットさんの槍を持つ手に力が入り、鋭い眼光が彼女を射抜く。裏で手を組んでいた事がバレてしまったレクチェさんは慌てて身構え直すが、彼は手に持った槍を素早く振り被って隙を逃さない。投擲されたそれは真っ直ぐにレクチェさんへ向かって飛んでゆく。
彼女は精霊武器をガード出来ない上、早すぎる攻め手に避ける暇が無かった。
だが、どう見ても直撃コースだった槍は不自然に曲がってその軌道を逸らし、レクチェさんのわき腹を抉って終わる。ビフレストを討つのが役目のはずの精霊武器が……自らそれを拒んだよう。
苦痛に歪むレクチェさんが槍撃で後ろ斜めに倒れかけ、私は偽エリオットさんの手から離れたニールを取り戻そうと手を伸ばし、ルフィーナさんはロッドをバットのように振り被って、フィクサーはこれから自分にくるであろう一撃を諦めて受け入れるように目を閉じた。
何か一部シュールな光景が混ざっている気がしたが、一応私達は至って真剣である。多分。
「ニール!!」
私の呼び声にふわりと浮いた槍は私のところへ戻ってこようとするが、代わりに私の体が何かによって吹き飛ばされ、寸でのところで届くこと叶わず光り輝く腕が目の前に伸びてきて槍を奪われた。
私を吹き飛ばしたのは偽エリオットさんが出したと思われる光の塊。槌のような形を組んで私の腹に一撃喰らわせ、次にその槌はいくつもの矢のように変化して降って来る。
ニールを取り返す事は出来なかったが次に襲ってきた矢は全て斬り払い、一先ず自分の安全を確保したところで他を見渡した私は愕然とするしかなかった。
ほんの数秒、レクチェさんへの攻撃が発端となって全員が動いたはずだったのに、この場にまともに立っているのは私と偽エリオットさんだけなのだから。
「骨が折れるかと思ったが、そうでもなかったみたいだよ」
私へ攻めると同時にルフィーナさんとフィクサーにも仕掛けていたのだろう、一瞬で彼らをそのビフレスト特有の力で迎撃し、彼は言う。
「やはりこの器の脅威と為り得るのは君、か。未熟で幼くとも予め決まっている構図通りの結果だね」
「分 か ら な い!!」
「……主に勝てるような仕組みに創るような馬鹿な真似はしないと言うことだ。君も今まで見てきただろう? この器の力の片鱗を。私の理における魔術も物体も全て打ち消す。つまり理が違う君以外の全てが私に逆らえるわけが無いんだよ」
ふう、とそこで息を吐いて次にその目つきの悪くなった視線を移す先はフィクサー。
「まぁそこの男が舌でも噛んでしまえば私は死ぬに違いないが……まだそれはしないだろう。彼は私という存在の必要性をきちんと理解している」
レクチェさんがよく使っているような光のヴェールは、ルフィーナさんとフィクサーのほうでは幾つものリング状になって二人をきっちり縛っていた。確かにあの状態でフィクサーが出来る事と言えば舌を噛んで道連れだけか。でも、それはしないだろうと言っていて、数分前の彼のルフィーナさんに近い思想の発言を鑑みれば頷ける。
そして唯一、神と呼ぶには憚られるこの世界の創造者に逆らえる私はと言うと、
「……君は、この器に必要以上の手出しが出来ない。これに関しては全くの想定外だが、悪くない状況だ」
にこりと口元だけ笑う偽エリオットさんの言う通り、あの体を斬って殴って嬲って刺して晒して垂らすことまでは出来ても、最後のとどめはさす覚悟はまだ無いのだ。
じゃあ……私は一体、この状況でエリオットさんの為に何をすればいいのだろう。再度襲ってくる無気力がやはり、何もしなければいいのだと私に言っている。
誰かの為に何かをしたい、それ自体がもう自己満足で……結局は全て『自分の為』だと私に言うのは、
「レヴァ……」
何故この剣は絶望する瞬間に同調してくるのか。何かをしようとしているわけじゃないのにまた赤い剣が熱く輝いて、勝手に力を帯びてきた。
「落ち着いたと思ったが、またか」
険しくなる彼の表情が、この剣への恐れをまた示している。こんなにやる気の無い精霊が宿っているコレのどこが怖いのかさっぱりだ。それなりにダメージを与えられるには違いないだろうが、私が手出し出来ないと分かっているくせに怯える必要がどこにある?
いや、どこかにそれがあるのだとしたら。
試しに剣を何も狙わず一振りしてみると、偽エリオットさんは慌てて飛び退くが特に何も起こらない。きょとん、として私は手元の剣を見つめ、そうしているうちにレヴァの光は弱まっていく。
火種……か。多分まだそれが足りないのだ。
火種次第で如何様にも使える力は、炎に縛られているわけではない女神の呪。他の精霊武器をあまり知らないから何とも言えないが、考えようによっては他の武器の呪に比べて自由度が高いように思える。
しかし、どんなに自由度が高かろうとも結局は何かを焼失させることにしか使えない。決して何かを与えたり生み出すような力ではなく、失わせるだけの……
「私は、貴方がた全員が一体どんな思惑で動いているのか、さっぱり分かりません」
「そうかい」
とん、と置くような相槌は、中身も見た目も随分変わってしまっているけれどエリオットさんのそれに似ていて、ぴくりと唇が震えてしまう。
「自分の生まれも知らない私にとって、貴方がたが言うようなごちゃごちゃした因縁もよく分かりません」
だから私は自分の考えていることをそのまま伝えていった。スッと剣を下ろし、構えを解いて、まずは気持ちを鎮めるように。
対照的に、亀裂だらけの地下で天井から漏れる細い光を浴び立つこの世界の創り手は、私の剣をこの手から落とせるように、槍をきっちりと構えて視線を外してこない。
「でも、一つだけ分かったことがあります」
偽エリオットさんの後ろでは、私が喋っている間にフィクサーが気付けば光の拘束を半分解いて腕だけはほぼ動ける状態になっており、遠めではあるが何やら短剣のような物を手にしていた。
また何かをやりかねないフィクサーの挙動に、ルフィーナさんも横目でその意図を探ろうとするように様子を伺っている。
私は倒れているレクチェさんを見て、その事実を心の中で再確認してゆく。自分が創り出したものに情の欠片も見せないこの存在のことを。
その知識などは私達とは桁が違っていて、だからこそ何か出来ることがあって、その為に皆がそれを聞き出すまで手を出せないのだろう、くらいまでは分かった。でも先程の会話を聞く限り、それも多分無駄だ。まるで見通しているかのようにこちらの思惑を読む相手に小細工など通用しない。
つまり、
「皆さんには悪いですけど、もうここまできたら……やるかやられるかですよね」
ここでぶふーっとルフィーナさんが盛大に吹き出した。
「ま、待ちなさいクリス!!」
「待ちませんよ、だって皆さんもうエリオットさんを元に戻す気無いでしょう?」
彼女は随分慌てていて、これは予想通り。だが、偽エリオットさんもフィクサーもほぼ私の決断を覚悟していたように落ち着いている。それは多分この二人からすれば私の言うように『元に戻す気など無い』からだろう。
「なるほど、救えないのなら諦める、と」
「ちょっと違います。私は、私の願いの一つを捨てるだけです」
「……?」
情の無さそうなこの世界の創造主にしてみたらきっと分からないだろう。でも、精霊だって知っているのだ、この決断の意味を。私は昔これを教えて貰っている。そして最近にも別の人に違う言葉で問いかけられたことがあった。
誰の為に、何をしたいのか。
皆、いつだって人の為ではなく自分の為に何かをしている。一見周囲の為に動いているようなルフィーナさんやレクチェさんだって結局は、幸せな誰かを見たい自分の為なのだ。
その偽に近い善が悪いだなんて微塵も思わないけれど、そこを勘違いしてしまったらその時それは本当に偽善になると思う。
あの時、何よりも姉さんを救うことを選んだエリオットさんも、あれは自分の為だった。エリオットさんはそれを『自分勝手』だときちんと自覚した上で行動していたが、当時の幼い私はその言葉の奥にある意味を真に捉えていなかった。
世界が滅びたって構わないほど優先させるもの。彼の場合はそれが、姉さんと共に居ることだったのだ。姉さんを救うこと、では無く。
じゃあ私にとっての、世界が滅びたって構わないほど優先させるものは何なのか。私はどうも今の時点でエリオットさんと居ることを選ばせて貰えないらしい。
なら、
「せめて、彼のやりたい事をしたいなってことですよ」
私に出来ることなんてたかが知れている。この世界を壊し、滅ぼす、そんな星の元に生まれてきてしまっていて。でもそれがちょっとだけ、役に立ちそうなのだ。
あの史上最悪最強に自分勝手な彼の願いを叶えるには、お誂え向きだと言うこと。お国のことなんて放り出してそれをしようとしちゃう駄目男の願いを……
彼の願いに自分の願いを乗せて叶えるなら、それもいい。
「一緒に地獄に堕ちてあげますね」
「またかい……」
顔が引きつり強張る彼の発言の意味はまたしても私には分からないが、前にも地獄に道連れにされたことがあるのだろうか。
下ろしていた剣を正面に構え、切っ先を熟していないレモンに向けてやる。そうあれはレモン! 切って搾ってやれ! エリオットさんだと思うと躊躇いそうなので必死にそんな間抜けな暗示を自分にかけて奮い立たせた私。
再度光り始めたレヴァの刀身はまるで太陽よりも明るくきらめき、もはや直視出来るものではなくなっていた。
絶望の果てに見つけた答えは決して良いものではない。善か悪かで答えるならば間違いなく悪だろう。何もしないことを選択したほうが余程『皆の為』に違いなかった。
一瞬だけ陽炎のように剣に重なって揺らめいたのはレヴァの姿か。黒く、赤い、そして氷の瞳。初めて会った時のように振り向き様にその冷たい目と目が合って、消える。
私が、何をしたいのか。
覚悟を決めたその心はそれがそのまま火種となり、刀身自体を確認出来ないほどにその炎は大きく膨れ上がってゆく。
きっとこんなことの手伝いなどしたくないだろうに、それでもレヴァは力を貸してくれているみたいだった。申し訳ないな、と思った時、あの優しげな声が心に響いてくる。
『大丈夫です。貴女の火種は失うことを選んでいるにも関わらず、馬鹿みたいに前向きですので』
何ですかそれ。
相変わらず人を小馬鹿にした物言いの精霊に呆れながらも私は一歩進んで、ニールを横に構えてこちらの太刀を受け止める構えを見せる彼に近づいた。
『失うことで得るものが貴女にあるのなら良いのです。あぁそれと、あの槍の柄には剣を当てないでくださいね。無駄ですから』
さっきもそんなことを言っていたな。
その理由は私はまだ理解出来ていないのだが、槍の扱いが上手いにも関わらず彼がさっきから柄を中心に使うこととやはり関係があるのだろうか。
するとその疑問にさらりとレヴァが答える。
『ニールの柄は呪の関係で折れることが無い為、ある意味完全なる盾としての機能を果たします』
……は、早く言えええええええええ!!
『敵ながら天晴れな使いこなしっぷりですね。貴女より余程上手につ』
もう黙れ、と言う意味を込めてレヴァを一振りすると、周囲は一気に赤く染まって火の海のようになる。ここは既に地下だと言うのにどんどんと足元が没していき、眩い光と煙で視界が悪くなってきた。
こ、これは確かに無駄に何度も振っていては敵どころか辺り一面を焼失させてしまいそうだ。その威力に私は思わず息を飲み、警戒する相手の気持ちも分かったところで後は斬り合うだけの状態で対峙する。
「下手に振るえば私はおろか、この場に居る全員、それで済めばいいが最悪は全てを焼き払いかねないと……君は知っているのかな」
どうしてもこの剣を使わせたくない偽エリオットさんが再度忠告してきた。
「知らないです」
「でも、関係無い、と」
「そうです。あの人ならきっとそう言いますから」
で、多分『どうにかなるだろ』とか言うのだ。どうにかなる保障なんて……どこにも無いのに。
もう焔や煙で全く見えないがルフィーナさんやフィクサーはまだ拘束されたままなのだろうか。出来ることなら少しでも逃げて欲しい気がして私はそれをさせるように偽エリオットさんに提案する。
「他の人達を解放しなくていいんです? 多分解放すれば彼女達は私を止めようと一旦貴方側につくんじゃないかと思うんですけど」
「私もそう思うよ」
辛うじて煙の先に見える彼の表情が渋い。その理由は聞かずとも分かったが、半分は私にとって意外なことだった。
彼は私が言う前に既に二人を解放していたのだと思うが、それにも関わらず私に向かって来ていない。と言うことは、逃げたのか。
正直なところあくまで『逃げられる環境だけつくっておく』と言う意味で私は言った。本人達が逃げないならば仕方ないと思っており、そしてほぼ逃げないだろうと思っていただけに驚きを隠せない。
創造主としても想定していなかったのだろう、顔がそんな感じで不満そうだ。彼としてはさっきレクチェさんを自身で傷つけてしまったことを後悔しているに違いない。彼女はいくらなんでも……逃げないだろうし、私をも止めようとするはずだから。
「じゃあ、晴れて一対一ですね」
「うまくいきそうで、いかないな」
と言いつつ笑う彼は、諦めてこの状況を楽しむことにしたのか。その瞬間ほんの、ほんの少しだけ相手の心の中が見えたような気がした。
「そんなものですよ」
全部思い通りになったら苦労しないし、面白くもない。
勢いよく踏み出した足元はすぐに崩れ、私は自然と翼を広げて飛んでいる。彼の頭上から振り被った剣は天井一面を焼失させ、それにも関わらずその一撃を柄で受け止めたニールはやはり無事で偽エリオットさんには傷がつかなかった。
槍でそのまま払われそうになったこちらの切っ先を、払わせないように先に一旦下げ、代わりに両足で絡め取るようにクロスさせて柄を挟み捻じり上げる。しかし大人しく取り上げさせてはくれないようで、足元から串刺しにしてくるように突き上げてくる光を避ける為にそれは中断させられて空に逃げざるを得ない。
「くっ、そ!」
我ながら汚い言葉が土壇場で出てしまうものだ。逃げる私を彼も追って浮いてきて、纏う光を蛇のようにいくつも操り向かわせてくる。少し防ぎきれなかったそれは私に触れるなりその部分に焼きつくような痛みを与えてきて、左肩と右足を少しやられてしまった。
が、あくまで少し。ハイになっているせいか痛みをそこまで感じずに、ダメージなど関係なくまたこちらも剣を振るう。
精霊武器相手にはビフレストの光は結局打ち消されてしまう為、そちらは補助代わりにして槍を主に切り替えた彼。そこまで高く飛んではいないが私が焼いたせいで視界の悪かった黒煙の中からは一旦脱出出来た。
色と表情は違えど、エリオットさん。よく見え過ぎて悲しくなるくらい。でも躊躇っても仕方ない、これは、彼ではないのだから。と言って思い切れたらどんなに良いか……目を瞑って剣を振って当たってくれるならすぐに瞑るのに。
煙が無くなって見えやすくなったはずの視界が歪み、最後の最後で情が邪魔をする。
「貴方なんて、大ッッ嫌いです!!」
声に出して、怒りでそれらを全て振り切るのだ。
剣でもう一度切りつけるが当然のように防がれて、苛立ったその後の動きは自分でも何をしていたのかよく分からない。
チェンジリングを解除する前と違って大したダメージになるわけでもないのに、私はそこから暴れるように彼のわき腹に回し蹴りを放ち、驚いて隙の生まれた彼に次は左手を振り被って顔面パンチをかましていた。
今の私の蹴りもパンチも、所詮は女の力のそれ。剣を扱いながら片手間で放ったところで牽制になるかも怪しいくらいである。
実際ほとんど力がうまく込められていなくて、ただ彼は予想外の攻撃に驚いただけですぐにこちらのそんな無茶な動きからすぐに突くべきポイントを見つけ、今度こそ……柄ではなく穂先を使って私に振り被ってきた。
感情任せに何をやっているのだか、これではエリオットさんの願いを叶えられないではないか。
そう諦めそうになった瞬間、彼の右腕の袖が急に赤い血に染まって呻く。
「つっ!?」
結構深い傷、しかも傷つけたらまずそうなあたりが傷つかないとこんな急に血は出ないだろう。
絶妙なタイミングで生まれた隙に、やれ、と言われているような気がした。
よく考えたなら誰の差し金か分かるのに、その時は何となくエリオットさんに言われた気持ちになって。
だから躊躇わなかった。
彼の槍を持つ手が下がったその時、私は炎を纏いすぎて刀身もよく見えないこの剣で、斬ると言うよりは焼き尽くしてやるつもりで振り下ろす。
振り切った時、目の前は全てが赤だった。レモンなエリオットさんの姿も、その背景にあるはずの崩れかけた建物や山も、何も見えない。ただ見える範囲が全て赤い炎の猛威で埋め尽くされ、金赤の光が空をも嘗める。
やっちゃったかも知れない。
熱さで参りそうだ。
光は私すらも取り巻いて意識を奪ってゆき、その後どうなったのか私にはもう分からなかった。
ただ、飛ぶ力も出ずに落ちながら最後に見たものは、赤い光の中に柔らかく放たれた金色の光。ずっと嫌いだったあの輝きを、こんな時にぼんやり私は羨ましいと思う。
だってあの光って、何かを創ることだって出来るんでしょう?
失わせることしか出来ない私にそれがあったなら、違う方法があったかも知れないのに。やっておきながらまた後悔。四年経った今も変わらず私は成長していなかった。
無様な私は、その欲しかった光に未練がましく手を伸ばして目を閉じる。
誰かにその手を握られる感触がして、それは本能が生み出す不快な気持ちさえ除けばとても柔らかくて……心地の良いものだった。
【第三部第十四章 黄昏 ~この世を治める者の運命~ 完】