涙 ~滅紫の歴史~
あの日、あの時、それは偶然だった。
金色の細く長い髪を乾いた風に靡かせ、白い布を羽のように幾重も折り重ねて作られたローブを纏う女はいつものように命令をこなす。
サラの末裔と精霊武器により壊滅させられていた一つの種族とその村。止められれば良かったのだが一足遅く、草一つも育たないようなものへと変貌していたその地を静かに癒していた。
黄金の腕輪を付けたその腕を一振りすると女の周りからみるみるうちに苔、草、花が咲き乱れ、やがて樹までもが時を早送りするように伸びていく。
そこまではいつも通り。最後に残ったこの世界を保ち護る、その為に彼女はその身を神に捧げていた。神が宿る黄金の腕輪から無限に溢れ出す力にその身が耐え得る限り手足となる。
しかしその人間では成し得ない光景を目の当たりにする一人の男が居た。
「……!」
荒地の中で息を飲み、見つかるまいと物陰に隠れていた彼だったが、微かに物音を立ててしまい女に気付かれる。
女は相手の姿を見て初めて取り乱した。本来干渉させるべきではないと女が考えている、この世界の民に見つかってしまったのだから。身体的特徴からして彼がエルフなのはすぐに分かった。つまり、サラの末裔では無いと言う事。
何故こんなところにエルフが……それは今まさに彼女が行っていた『世界の修復』を調査するために来ていたのだが、彼女がそれを知る由も無い。
無情な神は彼女に言う。殺せばそれで済むのだ、と。だが金色の髪の女は首を横に振りそれを断る。
エルフの男から見れば不思議なものだった。女は一人で顔を強張らせ、首を振って後ずさっていくのだから。怖いものでは無いかも知れない、そう思って男は完全に女の前に姿を現す。
ブリガンダインを着込んだその男の、エルフにしてはとても珍しい黒い髪は長く、瞳までもが漆黒。彼を女越しに見留めた神はふと思いついた。少し試してみよう、と。
言う事を聞かない女の体に神が無理やり降りた事で、彼女の雰囲気ががらりと変わる。
「?」
さっきまで後ずさりしていたにも関わらず急にこちらに歩いてくる金髪の女に不安を感じた彼は、自分でも気付かないうちに少しずつ後ろへ下がっていた。まるでさっきまでの女のように。
「な、何だ?」
先程までの光景もある。急に変わった雰囲気も相俟って彼の中に芽生える恐怖。
女一人にここまで気圧されてどうする、とそこで踏ん張ったのが彼の最大の過ちだったのだろう。
近づいてきて薄く笑う女は、武器一つもたずに男にそっと触れる。そこから彼女に降りた神が行ったのは『創り変え』。一度彼を全てばらし、再度紡ぐ。それをされた瞬間の男の意識は途絶えた、と言うよりはそもそもその瞬間、男は男でなくなっていた。
別に遊んでこんな事をしていたわけでは無い。女神によって元居た世界と体を失った神は、この世界で動く為の新しい器が欲しかっただけなのである。
女の体は能力を与えすぎるがあまりに通常の魔術を使用出来なくなってしまったからだ。では、次は魔術に特化した器を創ってみよう。
改変を終えて力無く倒れた男に、神はそのまま女の体を使って次は脳をいじる。魔術の根底となる知識を直接刻む事でどうなるか。これを受け入れられなくては自分がその器に降りても長期間耐えさせる事が出来ずに壊れてしまう。
結果は……良いものではなかった。
「ダメ、か」
耐えられない事は無いようだが、若干生じてしまった不具合。もうしばらくいじってみるか? 突っ伏している男の傍でしゃがみ込んだ女は、ふむ、と考えながら彼を酷く冷めた目で見下ろしていた。
そこへもう一人の招かれざる客が現れる。
「何をしているのですか!!」
女に気付くなり躊躇う事無く駆け寄ってきて女にその剣を振るってきた、薄く淡い緑の髪に赤い瞳をもつ男。そしてこちらも同じくエルフであろう長い耳。
瞬時に仲間である事が判断できる。しかし避けるまでも無い。振るわれた剣を片手一つで水と花に変化させ、驚いて動きが鈍った男の首を女は掴む。
……ならばコイツはどうだろう。先程黒髪のエルフにした事を、後から来た男にも神は行ってみた。しかしまたしても結果は良くない。
「もう少し、研究の余地があるね」
不具合に固体差が出たのだから、やりようによっては成功するはずだ。
そう考えた神は、一先ず女に体を返してやる。
自我を取り戻した彼女の第一声は謝罪。
「ごめんなさい……」
目の前で倒れていた、愛するこの世界の民を……
行われた操作が複雑すぎて自分の知識では彼らを癒せない事を彼女は嘆いた。
元々は女神の遺産がこの世界に降り注ぐ以前に生まれて存在し続けているその女。一切呼ばれる事の無い自分の名前など既に忘れ去ってしまった彼女は、現在ビフレストと呼ばれている者である。
長く続いた神と女神の抗争の末に、女神によって無理やり地に降ろされた神は、女神のようにばらばらになるのだけは防いで、自我を保つ事に成功した。
その神が宿るは、先程の時点ではまだビフレストが身につけている黄金の腕輪。降り注いだ先は、とある女の下。それは偶然であり必然。その時代では希少と言える慈愛に満ちた心を持つ女は、その腕輪の言葉に耳を傾けてその身を喜んで差し出す。
「どうぞ私をお役立てください」
だがそううまくはいかなかった。神が宿るには器が小さすぎたのだ。数十年程度なら保てそうではあったが、あまり長い間受け入れられそうには無い。
しかしこれも必然なのだろうか、幸運にも彼女は神の使いならばなれるだけの才はあり、腕輪を通じて行われた体の改変は拒絶反応を示す事なくすんなり進み、力も他を寄せ付けぬほど大きなものとなる。
神は言う。
『私の創ったこの世界を、あの連中から護っておくれ』
彼女は素直にそれに従った。何故この世界が滅ぼされようとしているのかも、そして神の本質も知らぬまま……
それから度々、神と彼女の価値観は食い違う。全てに無償の愛を注ぐ彼女は、全てを自分の物として見ている神との違和感に気付くのにそれほど時間は掛からなかった。それに対し時折抵抗を見せる彼女だったが、結局神の意を通さねば体に降りられて使われてしまうだけ。
彼女は知る。この神はただ創造主なだけで、信仰するような存在では無いのだ、と。
だがそれでも女神の遺産による世界への破壊干渉は止めねばならぬ。多少の不満は飲み込んででも遂行しようと彼女は誓った。
けれども、
まさか自分以外の人間を、当人の承諾無しに作り変えるなどとは想定外であった。
言う事を聞かない自分のせいであんな被害者が生まれてしまったのだ、と彼女は自分の行いを悔やむ。自分が素直に言う事を聞いていたら、他の体など必要無かったのだから。
真相はそうでは無いのだが少なくともこの女のビフレストはそう受け止めており、以後自分を散々な目に遭わせる事となる彼ら……フィクサーとセオリーを決して責めようとしなかったのはこの時からの罪悪感が無いと言っては嘘になるだろう。
腕輪の中と言う小さな世界で、じっくりと先を見据える創造主。
敢えて体を治されず殺されもせず、後々利用価値が出てくると踏んで放置された彼らは、たまに予想だにしない行動を取っては困らせてきて、だが退屈過ぎた長い刻の中ではそれすらも神にとっては悪くないものだった。
だが一つだけ笑えない事故が起きる。
よりによって腕輪を破壊され、そのまま女のビフレストを奪われてしまったのだ。
拠り所を失い、だんだん漏れてゆく力。そんな神が一旦仮の器として入ったのは東の地に居た小さな少年。大地自体が力を帯びており神にとって居心地の良いその地で、その少年は事もあろうことか心から神に祈りを捧げていたのである。
不安定になった神は選んだのではなく吸い込まれるようにその少年へ入った。そう、以前にクリスの中へニールとダインが入ってしまった時のように。
女神の遺産と呼ばれる精霊武器の精霊も元を辿れば女神本人。実体の無くなってしまった存在という意味では、神と精霊達はとても近い存在なのだろう。
少年は自然に吸い込まれるだけあって器としては良かったが、女のビフレストと違い、神の力を上手に操る才は持ち合わせていなかった。
そんな少年に入って神がまずやろうとした事は、今度こそ本腰を入れて器を創る事。たまに仮の器である少年に自我を奪われ奪い返しながら、唯一残った知識を使い大陸統治国であるエルヴァンに取り入って真実と嘘を交えては言葉巧みに事を進めていく。
腕輪の欠片と照らし合わせ、最初から力も持ち、適性もある成功例が生まれたのはつい最近の事。腕輪までとはいかずとも、指輪を創る事で女のビフレストも復活させられた。
あとは壊さないようにゆっくりと、器に世界と魔術の理を直接刻み込んでゆく。
最後の仕上げは彼らが上手にやるだろう。
知識は与えたのだからきちんと理に適った方法で、勝手に降ろしてくれる。
そうすれば……目的の達成をする為にとても便利な器が安全に手に入るのだ。
金髪の女のビフレストはゆっくりと目を覚ました。
一瞬自分が今どこに居るのか何をしていたのか混乱したが、すぐに記憶は鮮明なものとなる。
そう、あの深い憎しみが潜む悲しい目をした黒いスーツの女性に槌をぶつけられて意識が飛んだのだった。何が理由かは分からないが、あの目はとても悲しい。他人を恨み復讐を生きる糧にするのは、楽かも知れないが達成したその先にあるものは空虚とそれによる絶望だとビフレストは考える。
復讐しても何も生まれない。達成するまでは良いかも知れないがその後に堕ちてしまう深さを考えると止めずにはいられなかった。
彼女は今どうしているのだろう?
目覚めて最初に考えたのはそんな事。
誰が見ても、このビフレストは大馬鹿者だった。
そして次に考えたのはこの場所。全く見覚えの無い真っ白な部屋で、少なくとも力が満ちていないので記憶が飛ぶ前に居たはずの東の地では無い事だけは分かる。
こんな場所ではガス欠状態になりかけている力を補充する事も出来ない。けれど体はそんなに重くないし、力も足りない感じはしなかった。
何故だろうか、とその身を起こして窓の外を見る。
金色の大きな瞳が映した景色は、真夜中にも関わらず少し先には繁華街がありそうな人工的な明かりが漏れていた。そして寒いわけでも暑いわけでも無い。
「王都、かな……?」
景色を見る限りお城の中と言うわけでもなさそうである。左手の薬指に填まっている指輪からは何の反応も返って来ないので、近くに神が居るとも思えない。
では自分はどこの誰に救われたのだろうか?
本当はあのまま壊れてしまいたかった。
自分の信念を曲げて命令に従う事が辛い。自分で直接傷つけずとも、その命令に従う事で傷つく者達が居る。見ない振りをしていたそれをあの黒髪の女性に指摘された時、何よりも堪え難かった。
でもそんなマイナス思考はすぐに振り払う。
それが辛いのだったら、辛いと思う暇も無いほど出来る限り救い続ければいい。
この指輪をまた渡されて記憶をどうにか取り戻した後、神は自分に降りてこようとしなかった。あの少年はほぼ力が無くて不便にも関わらず、だ。と言う事は今後もこの体を奪われる可能性は低いのでは、とビフレストは考察する。
なら……今のうちに自分のやりたい事をしよう。自分の価値観と自分の信念に基づいて行動して、私なりに世界と民を護ろう。
誰だって落ち込む事はある。
だが彼女は自分ですぐに切り替えられるスイッチを持っていた。
悲しまないわけではなく、悲しんでもそれを自力で乗り越えられる強さがこのビフレストにはあるのだ。それが無い者にとっては……とても恨めしいくらいに。
彼女はその白魚のような細く透き通った指でそっと金色の指輪を摘んで外す。神からの拘束を解くと同時に力も薄れる。これが無いと力の供給は自然からのみになってしまうが仕方ない。
まずは自分の二の舞、いやそれ以上になるであろうあの人に、事実を伝えなくては。それからルフィーナを悲しませる原因となっている彼らを止めよう。誰かを犠牲にして救われても、きっと正気に戻った時に辛いから。
自分には彼らを治してあげる事は出来なかったが、神を降ろさずともあの王子ならいつかやれるかも知れない。方法はきっと、他にもあるはずだ。
ベッドから足を下ろし、薬の臭いの漂う部屋からそっと出る。緩くてちょっと長めのズボンを引きずりながら廊下を歩いていると、その景観からしてここが病院である事が分かった。
まさか自分の体が一般の医者に診せられてしまったのか、と不安に思いながらも進んでいくと病院と言うよりは生活の場のような部屋に出て、そこに居る浅黒い肌の獣人と目が合う。
「あら~?」
「あ……こんばんは」
キッチンに立って後片付けをしていた手を止めて、白髪の獣人の女性は彼女に向き直ってほんわりと言った。
「お体の調子はどうでしょう~?」
この人が自分を救ってくれたのか、と取り敢えずビフレストは頭を下げる。
「はいっ、おかげさまで! ありがとうございます!」
「お礼はお兄様に仰ってくださいまし~。わたくしは何もしておりませんので~」
「お、お兄様、ですか?」
そんな彼女が自分の置かれた状況を把握するのは、この数分後の事だった。
◇◇◇ ◇◇◇
「レクチェさんが起きたんですか!?」
既に就寝中だった私の元へ、ライトさんがその事実を伝えにやってくる。半分寝惚けていた思考も体も、言葉一つでパッチリと覚めてくれた。
「あぁ、今ダイニングルームでレフトと雑談しているぞ」
「すすすすすぐ行きます!!」
パジャマのまますぐにベッドを飛び降りて、猛ダッシュでダイニングルームへ掛けていくとそこには確かにレクチェさんが座っているではないか。しかも違和感なく、普通に。
「あっ、クリス!」
私の存在に気付いた彼女は、先日の怪我など無かったかのように何の心配も感じさせない笑顔をこちらに向ける。その動きに一緒に揺れた金色の髪は、夜の陰りを帯びながらも光源宝石の柔い灯りを受けて眩しく輝いていた。
そして……いつもの不快感も、元通り。
「お久しぶり、です」
彼女が目覚めてくれて凄く嬉しいのに、素直に喜ばせてくれない体。本当は抱きつきたいけれど、本能がそれを拒む。
ただ、目覚めて早々に私の名前を呼んでくれたと言う事は、今の彼女には記憶がある、と言う事。それだけで良かった。
私は少し感情を抑えながら静かに彼女に答える。しかしそれすらがもう皆に違和感を与えるものだったのだろう、しん、としてしまう室内で、レクチェさんの表情が切なげに影を落とした。
でもそれは一瞬。すぐに彼女は花が咲くような笑顔をつくってこちらに向けて言う。
「事情は説明して貰ったの! セオリーさんが私をここまで運んでくれて、そこのお兄様が力を分けてくれたんだよねっ。皆には本当に感謝しなきゃ!」
「感謝するべきでは無い人が混ざってますよ!?」
「さっきからこの調子で毒を抜かれて敵わん」
私の後ろに追いついてきたライトさんの声が力無さげに部屋に響いた。まぁ確かにこれだけ明るいとこちらもそのままその色に染められてしまう。
そこでトン、と背中を軽く押してきたのはライトさん。多分立っていないで座れと促されたのだと思う。どうしようか少し迷ったが、私はレクチェさんの対面あたりに回りこんでなるべく距離を取った。
そうすると自動的にライトさんがレクチェさんの近くの椅子となり、彼は私をちらりと見た後、何も無かったかのようにそこへ座る。
「ごめんねクリス、いっぱい心配かけちゃったね」
改めて会話を再開させた彼女は、申し訳無さそうに眉尻を下げているがそれでもふっと口元は微笑んでいた。
「いえ、レクチェさんは何も悪くないですから。悪いのはフィクサー達です」
レクチェさんが申し訳なく思う必要などどこにも無い。そう思って彼女の発言を否定したのだが、その後に彼女の鈴のように透き通った声が更に否定を被せてくる。
「彼らも、悪くないの」
「え?」
あれが悪くなかったら誰が悪いのだ。
優しすぎるのが良い事とは限らない。彼女のその言葉に私は思わず眉を顰めてしまう。
けれど彼女は私の反応には触れずにこう言う。
「だから折角こうしてクリスとまた話す事が出来たけど私……もう行かないといけないの」
「ど、どこへです?」
「彼らの元へ」
ぶかぶか気味の白いワイシャツ、白いズボン。どう見ても外を歩くにはアレな服装のまま彼女は立ち上がった。
「ま、待ってください……」
この人は、自分にあれだけ酷い事をしてきた連中の元へまた戻ろうと言うのか。ルフィーナさんが知ったら発狂気味に叫んで止めそうな事をしようとしている。
「あ、貴女を心配している人の事も、少しは考えてください……ッ!」
気付くと私も椅子を後ろに押し出し、立ち上がって叫んでいた。
ライトさんはレクチェさんには目もくれず、私を黙ってじっと見つめる。彼からすれば私が言うな、と思うのだろう。
「そうだよね、皆を皆救うのって、難しいね」
その髪を肩で撓らせて、俯きがちに彼女は答えた。
しかし、分かってくれたのかとほっと息を吐く私に、次に掛けられた言葉はある意味爆弾発言。
「じゃあ、無事に戻ってくるって約束するっ」
「それなら……ってえええ!?」
そんな約束一つで心配が解消されるわけが無い。あちらは何故か知らないがただのヒトにも関わらず精霊武器が使えるクラッサが居るのに、無事に戻ってくるだなんて断言出来るものか。
でも、
「私を信じて?」
一片の穢れもない綺麗な笑みで、
「っ、それは卑怯です……」
ここで信じてあげられなかったら、私はダメな奴になってしまう。
「行くのも我侭、止めるのも我侭。どっちが折れても大して変わらん」
ぼそりとライトさんが私達のやり取りに口を挟んできた。
「心配なら二人で向かえばいいではありませんか~」
「なぬっ」
レフトさんの提案はごもっとも。なのだが……私はあの連中を救おうなどとは微塵も思っておらず、一緒に行ったら傷つけてしまいかねない。
どうしよう。
そう思っていたところにカラン、と正面玄関のベルが深夜だと言うのに響いた。
嫌な予感がする。それは皆も同じだったらしい、表情を曇らせながらレフトさんが玄関へ向かい、それを見送るライトさんの顔もやや険しい。
「急患かな?」
レクチェさんの言う通り、確かにここは病院なのでそれも無くは無いだろう。だが私はこの四年以上の間で急患が来たのを見たのは二回しか無い。滅多にある事では無いのは確かだった。
あまり聞きなれない足音、声もそんなに大きくないようでこちらまで響いて来ない。でもライトさんは聞こえているようでさっき以上に眉間に皺が寄っていて、あまり良くない来客なのが伺われる。
やがてレフトさんと共に歩いてダイニングルームに入ってきたのは、
「こんばんは……ッス」
「ガイアさん!?」
まさかのまさかな客人に、思わず大声をあげてしまう私。ガイアさんはガイアさんでレクチェさんを見て少し驚いたようだったがそれよりも、と彼は静かに連絡事項を告げる。
「えーと……申し上げにくいんスが……王子がまた攫われたッス」
「ぶっ!」
毎度毎度、もう王子様じゃなくてお姫様になった方がいいのではないか彼は。なんて考えている場合じゃない。
「多分、やばいッスよ、ね?」
私達が帰った後でルフィーナさんから説明を聞いたのだろう。落ち着いて話しているようには見えるが顔色は優れず、攫われたその先にあるものを考えたなら無理も無かった。
「行く理由が増えたな」
ライトさんが笑いながら言う。楽しくて笑っているのではなく、もう笑うしか無いのだ。私も笑ってしまいたい。
やっぱり彼らを救うだなんて甘すぎる。自分の内側が憎しみで染まっていくのが分かった。
折角傍に居られると思ったエリオットさんから引き離されて、私はもうあの連中に殺意しか芽生えてこない。
「クリス……!」
怒りが顔にも出ているのだと思う。レクチェさんが私の名を呼ぶ。だが、
「ごめんなさいレクチェさん。一緒には行けそうにないです」
「それって……」
「目的が違いすぎるのに、並んで歩けないでしょう」
レクチェさんも大好きです。
でも、私はあの人がもっと好きなんです。
「レイアさんは?」
私は一旦レクチェさんを視界から外し、ガイアさんに問いかける。本来ここにそれを伝えに来そうなのは彼女なのだが、また責任問題で城内がごった返しているのだろうか。すると彼はその三白眼を潤ませて、
「実は……もう一人で行っちゃったみたいで居ないんス」
「!!」
「この獣人から詳しく聞いて欲しいッス。一部始終を見ていたらしいんで」
そう言った彼の服からもぞもぞ出てきたのは、白髪のねずみの獣人に入っているあの精霊。
赤い瞳をこの状況下で楽しげに細めて彼女は口を開いた。
「やぁ、サラの末裔」
「どうも……」
「教えてやるからボクを連れて行ってよ」
「は!?」
「あの鳥人のお姉さんのコレクションからボクになれそうな剣は選んで来てる。行き先には竜も居るんだろう? ボクを元に戻してくれるなら……力を貸してやってもいいよ」
そこでガイアさんが背中に背負っていた大きな剣と槍をどっこいしょ、と出して壁に立て掛ける。
ん、槍も?
「あのお姉さん見所あるよぉ。剣マニアってやつ?」
確かにレヴァが宿った剣も元はレイアさんから貰った武器だった。当時の私の力でも折れないもの、と選んで持ってきてくれたのが確かアレだったと思う。
立て掛けられた大剣は黄金の柄に青い宝玉が埋め込まれ、刃は鈍い鉄黒。以前のダインのようにギザギザした刃では無い直刃だった。
槍の方は、穂先部分に波紋状の模様が浮かんだ、えらく柄の短い……多分投槍のようなもの。
「姉は剣しか収集しないんスが、この槍は折れた剣を打ち直した物なんスよ。だから収集していたんだと思うッス」
「へぇぇ……」
「ニールも戻してやればいいと思ってソッチもそこの人間に持たせたんだ。優しいでしょ、ボク!」
あははと甲高い声で笑うダイン。
私も何となく一緒にあははと笑ってやって、こう答える。
「じゃあ大剣は重いんで、この短い槍だけ持ってニールを連れて行きますね」
「ちょおおおお!?」
ガイアさんの服の中でダインが暴れているが、もう視界には入れないでおく。
「まぁ教えて貰う必要はありません。とにかくエリオットさんを追ってレイアさんも行っちゃったんですよねきっと?」
「あー大体そんなトコッス。部屋はまた凄く血まみれだったッスよ」
それだけ分かったら十分だ、ダインと取引する必要など全く無い。私はぎゃあぎゃあ喚いているダインの声だけ器用にシャットアウトし、ライトさん達に振り返った。
心配そうな表情のレフトさんに対し、ライトさんは……あれ、そうでも無い。だからと言って怒っているような感じでも無くて少し拍子抜けしてしまう。
そこで、
「頑張って来い」
「!」
聞き慣れない台詞が彼の口から発せられたので、私もレフトさんも思わず目を丸くしてライトさんを見た。
基本的に傍観する立ち位置である彼がこんな風に似合わない前向きな応援の仕方をするだなんて驚くに決まっている。
言った本人も少しだけ違和感がしたのだろう、こちらの視線から逃げるように顔を背けてその真意を述べた。
「心配する側の気持ちが分かっている奴を止める必要など無いからな」
「あらまぁ~」
照れている素振りを見せる兄を見てウフフと笑う、その妹。理解のある第二の保護者二人に微笑んでから、私は次に彼女へと視線を向ける。
金髪金瞳の、ビフレストへ。
「……その槍を持つって事は、そういう事なんだよね」
「すみません、でも私にはこれしか無いんです」
レクチェさんは両手を胸にあて、願うようにそっと瞼を閉じて言った。
「いいの、私が先に止めたらいい話だから」
願いではなかったらしい。
これは覚悟を決めたのだろう。
次に彼女が瞼を開いた時、その瞳はトパーズのように奥まで綺麗に澄んでいて、決意と強さに満ちていた。
「先に行くね」
彼女は踵を返して私に背中を見せたかと思うとすぐ様ガイアさんがやってきた方角に歩いていく。その間、彼女のワイシャツはどんどんと形を変え、まるで女神が着るような羽衣に変化していった。
口をぽかんと開けたまま見送るのは勿論ガイアさん。
「便利ッスねー」
「多分、今ならエリオットさんも同じ事出来ると思いますよ」
「マジッスか!」
さて私も準備をしないといけない。
この槍は腰に下げればいいだろうか……そしてニールも連れて行かないと。
って言うか今ニールはどこに居るのだろう。そういえば今晩は一緒に眠りに来なかったような、と一応辺りを見回して居ない事を確認してから尋ねてみる。
「ニールはどこに居ます?」
「ここですわ~」
レフトさんがそう言って胸元をちょっと開いて見せると、そこからもぞもぞ出てくる白いねずみ。
「またそんなところに!?」
その白いねずみは私の叫びにぷるっと震えながらも、ゆっくりとその体を人型へと変化させた。
ねずみの形ならまだしも人型になった上でその、胸の谷間に挟まっていると言うのはどうなのだろう。でもニールは男性じゃないし……いやでも今の体は男性だし……
何だか複雑な心境になってしまってもじもじしていると、ニールから話を切り出してくれる。
「すまないご主人、ここの方が寝心地が良いのだ」
「そんな事聞いてないです!!」
っていうかやっぱり柔らかい方がいいのか、大きい方がいいのか。精神的に男性では無いはずのニールがそう言うくらいなのだから、やはり純粋に触れるならばレフトさんくらいぽにゃっとしている方が良いものなのかも知れない。
ううっ、全然関係無いところでへこまされている。軽いショックを受けたが……それどころじゃないっ!!
「えっと、レヴァと同じような事ってニールも出来ますか?」
「出来なくはなさそうだが、この体から出る必要があるだろうな」
「と、言いますと……」
どうやってねずみから出すのだろうか、この精霊を。
嫌な予感にごくりと唾を飲むその音が深夜に自分の耳に響く。
「私の元の体を創るには、槍の材料が揃った瞬間にこの体を壊して貰えれば後はこちらで出来ない事も無い」
「う、うわぁ」
物の視点であるニールからすれば壊すなのだろうが、それは……壊すではなく殺す、が正しいと思う。
ライトさんがどう思っているのか気になって彼の方をちらりと見ると、
「…………」
早くも目を閉じて黙祷していた。
「ごっ、ごめんなさい……」
ニールとダインの器を作ったライトさんには、どんなに詫びても足りない気がする。これからそれを手にかけてしまうのだから。
しかしやはりそこでも干渉しない姿勢を見せるのはライトさん。
閉じていた目を開き、でも私とは視線を合わせないまま、
「好きにすればいい。お前の中に戻ってしまわないといいな」
「!!」
そ、そうだ。チェンジリングを解除した際は先に器となる剣が出来ていたから私に戻る事は無かったレヴァだが、今回はニールが肉体から解放される瞬間にまだ器となる槍は存在しない。と言う事は前みたいに私に入ってしまう可能性もある。
不安が過ぎる私に、レフトさんの胸の上でうまく座っているニールが無表情のまま言った。
「確かにその点の保障は出来ない」
「ええっ」
そこは保障して欲しいのだが……こ、困った。使い難いレヴァよりもニールが復活してくれた方が絶対有利になるのに、その復活に保障は出来ないと言われてしまっては……
いや、今は藁にでも縋りたい。多少の危険は承知してでもいくべきか。
「……分かりました」
もしもの場合の覚悟を決めたところで、ニールはこちらに寄ってきて私の肩に乗る。
こんな事で時間をとられている場合では無い、と私はニールと共に一旦部屋に戻って準備をしようと足を動かし始めた。
だがまだ私は出発させて貰えないらしい。
「馬鹿な奴! そのまま失敗してしまえばいいよ!」
「む……」
耳に障る言葉に引っかかって足が止まる私。ようやく自分の声が私に届いたと知り、ダインはまたそこで饒舌になってくる。
「ニールは良い子ちゃんだからアレを知らないんだ。そのままやっても失敗するよ! さぁ教えてあげるからボクも戻せ!!」
どこまでも自分の元の体に執着する精霊。しかし聞き捨てならないその台詞のおかげで、皆の視線がガイアさんの服、もといそこに居る小さな獣人に集まっていた。
この精霊はまだ何かを知っていて、それを知らなければ失敗してしまうと言う事。
「……分かりました、手短にお願いします」
「!」
私が承諾し、ダインの目の色が輝き、変わる。
同時に皆も驚きの表情を私に向け、その態度が『ダインを剣に戻す事』の危うさを肌でも感じさせていた。
記憶力の良くない私でもダインとの戦闘はよく覚えている……周囲の人間は勿論、持ち手ですらも酷い扱いをするこの精霊の性格を忘れた事など無い。
ダインは嬉しそうにその知識を簡潔にぺらぺらと話していった。
「レヴァを戻した時のようにブリーシンガの首飾りを使えばいいだけさ。持ってるんだろう? アレさえ持って行けばボクはお前の命令にきちんと従うし、何にも心配は要らないさ。だから、ねっ!」
「えーと、そのネックレスをどう使えばいいんです?」
「少なくとも身につけていたらもうボクらが君の中に勝手に入る事は無いだろうよ、その物がボクらに対して支配性を帯びているから」
知識を自慢げに披露するいつも通り高慢な精霊を見据えながら、私は情報を整理する。
あのネックレスをつけていると精霊は従う、だからダインがどんなに我侭だろうとも心配は無用。こういう事だろうか。そして、身につけていれば精霊が勝手に入ってくる事も無い、と。
以前チェンジリングの際はきっとクラッサがつけていたのだと思うが、彼女の命令によりレヴァは私の体に戻らなかったのかも知れない。
……でも以前のニールやダインは別に意図して私の中に入ってきたわけでは無さそうだし、となるとただ命令して従わせると言うよりは、精霊の無意識の動きですらも強制させられるくらい強いものなのだろう。
ただ、
「元に戻る事が出来そうで喜んでいるところ申し訳ないんですけど、私あのネックレス持ってないんですよ」
「ええええ!?」
小さい体なりの大声をあげて驚くダイン。
これからあちらに行くのだから途中で彼女から奪い返せばいいだけなのだが、それを伝えてわざわざ望みを与える必要は無い。
「いやー、剣に戻してあげられそうに無いですね」
「う、うそぉ……」
ポーカーフェイスが出来ない私は、もう笑ってしまいそうなのでふいっとダインから顔をそらし、肩に居るニールにだけそっと伝える。
「もしネックレスが手に入ったら、お願いします」
「了解した」
エリオットさんを助けるにはきっとまたあの連中が行く手を阻んでくる事は間違い無い。
果たして攫われた先が本当にあの施設かどうかも分からないが、行くだけ行ってみてから考えよう。そこに居なかったら、次また別の場所を探せばいい。まずは心当たりを潰していくのみだ。
きっとレイアさんもどこに居るのか確証が無いからこそ、先に一人で確認しに行ったのだろう。
「着替えてきます」
流石にパジャマでは行けないです。
何度か着る事で、手際よく着られるようになったレイアさんから貰った法衣。洗っても少しだけ残っている血の染みが、私の今までの過去をそれ一つで物語っているようだった。
姉さんの事を話さないのなら徹底的にぼこぼこにしてやろうと思っていた、あのいけ好かない軟派男との出会い。
貧乏だったからこそ思わず一緒に旅する事を選んでしまった、あの時から全てが始まったのだ。
私の事を馬鹿にするくせに、体を張って助けてくれたのは一度じゃない。それはあくまで姉さんあっての事で、姉さんを優先するがあまりに私に敵意を向けられた事もある。でも……それを差し引いてもこの恩は有り余るだろう。
私はまだ彼に何も返していない、いつも与えられ護られてばかりだった。
今度は彼から拒絶されていないのだから、迷わず行けばいい。
着替えを終えて、ニールを再度肩に乗せ、短槍を右腰に下げた。
最後に手にしたのは壁に立て掛けてある赤い剣。これも腰に提げようと思って何となしに触れたその時、
剣に普段以上の力が帯びて、輝いた。
「なっ!?」
そしてまたしても勝手に出てくる悪魔のような出で立ちの精霊。レヴァは私の目の前に姿を現すなり、言う。
「貴女はとても不安定ですね」
相変わらず優しい女性の声で、しかし顔は無表情。
「先日貴女が私に見せた火種はとても冷たかった。かと思えば今はとても暖かい」
「火種、ですか?」
「司るは『焼失』……心が願うままに焼き尽くす、それが私の力」
ニールから少し聞いている『焼失』について、レヴァの口から再度聞かされた。何故ここでそれを、と思ったその後に、目の前の深緋の精霊は氷晶のような瞳で私を見つめて話す。
何となく、その外観に本質が表れているようなレヴァの色。
「火種次第で私の力は如何様にも使う事が出来るでしょう。私は決して俗に言う炎に縛られているわけではありません。ですが、貴女はコントロールしてそれを変えているわけでは、無い」
「…………」
「気をつけてください、仮にも貴女は私の主人です」
「はい」
また言いたい事だけ言って消えてゆく赤い剣の精霊に私が溜め息を吐くと、肩のニールも一緒になって小さく息を吐いた。
「レヴァが自分からこれだけ喋るのは珍しい。そう呆れないでやってくれ」
「そ、そうなんですか……」
鞘に納まっているその剣を左腰に提げ、小さな相棒に言葉だけを放つ。
以前の火種が冷たいと言われた。以前と言ってもレヴァの能力のようなものを引き出せたのは過去にあの一度しか無い。
ここでセオリーを斬った時だ。
あの時は確かに不思議な『焼失』だったと思う。あの時とは違う火種が今あると言うならば、今レヴァを使えばまた違う『焼失』になるのだろうか?
「むずかしい……」
とりあえずニールが元に戻るまではこの剣以外には無いのだから我慢をしよう。私の服にはニールが入って居られそうな場所は無いのでポーチも提げてその中に入れてやる。
今の時間からあそこに向かうとなると飛行竜を使っても半日かかると思われた。急いで行っても日は昇っている、か。
彼らがエリオットさんを連れ去ってすぐに神降ろしを実行に移しているのかどうかは分からなかった。間に合う確証は無いが、とにかく少しでも希望がある限りひた走って行こう。
本当は泣きそうな程辛く、気が狂いそうなほどあの連中が憎い。
いつもなら感情任せに動いていたと思う。それが辛うじて耐えられるのは、今の私の心には一つの支えがあるからだろう。
貰ったばかりの……優しい気持ちが。
いつも泣いてばかりの私の瞳から、涙が零れる事は無かった。
【第三部第十章 涙 ~滅紫の歴史~ 完】