晴れた霧 ~浮かび上がる秘色の道~
「どうしようかしらねぇ」
東雲色の髪の、貴婦人のような身なりの女性がその服装に似つかわしくない、暑い南の地で佇んでいる。
それは他でも無い、数刻前にあの隠し部屋から抜け出したハイエルフ、ルフィーナその人であった。
彼女は以前レクチェに使った、座標を指定しない空間転移の魔術を使って無理やりあの地から逃げてこの場に居る。
飛ばされた地から近かったクリスの故郷であるムスペルに足を踏み入れ、すぐ様エリオットのところに向かいたいところをまずは一旦時間を置く。その為にどこか宿を取りたいところなので、持てる限り持って来た衣類や装飾品を全部質に入れて現金に換え、一ヶ月は持ちそうな金額が入った袋を手に空気の乾いた街並みを見ながら歩いていた。
服も着替えなければ暑くてやっていられない。そうは思うが今着ているドレスは一番のお気に入りなので着替えるのも何となく勿体無いとも思う。
道往く人が、南では珍しいエルフ……ましてやその服装に度々振り返っては彼女の後姿を見つめていた。
そんな視線を受け流しながら、ようやく宿を取ったルフィーナはこの後の策を練る。
エリオットとクリス、どちらに会いに行けばいいか。
勿論本当ならばエリオットに直接話しておきたいのだが、どう考えても既に網を張られている事は間違いない。
ならばクリスか。しかしこちらも網が張られていると考えた方がいい。そして、正直クリスは今どこに居るのかルフィーナには予想がついていなかった。
身寄りの無いあの少女だ、城内で一緒に暮らしている可能性もあるし、エリオットから近しい者に預けられている可能性も高い。となるとシヴァンフォードかヴィドフニル家。
「んんんんんん……」
羽扇子でぱたぱたと自分の顔を仰ぎながら、宿の室内で眉を顰め悩み続ける赤瞳のエルフ。
こんな事ならばあの四つ目の青年に色々話を聞いておくんだった、と後悔しながらそれでも足りない情報で考えてみる。
エリオット側に網を張る場合、既に『終わっている』であろう彼とまともに戦えるくらいの戦力を置かねばならない。となるとフィクサーやセオリーだけでは足りないから、他にどれくらい居るのかは知らないが複数で待ち伏せしている可能性があった。
クリスは……精霊武器があろうともあの二人に勝てるとは思えないので、こちらに割かれる戦力は少ないと考えられる。
自分が助太刀して勝機が出そうなのはどちらか。
クリス側にフィクサーが回ってきていれば間違いなく勝てる。そうは思うのだが、そうなる確証は無い。セオリーでも二対一ならば勝てそうな気はするが、あの男、何をするか分からない。
エリオット側ならばどうだろう。フィクサーだろうがセオリーだろうが多分今の彼ならばきっと勝てると予想出来るが、他の戦力が未知数。自分のネックレスを奪ってわざわざ身につけていると言う女の存在がさっぱり分からないのだ。
ならば……やはり先に会うのはクリスか。
「でもあの子どこに居るのかしら」
ぼそっと独りごちるルフィーナは、仰いでいた手を止めて天井を見つめる。
お城で暮らしているという想像が、正直あの少女とは結びつかない。エリオットもそこまで近くにクリスを置いておくとは思えないし、やはり誰かに預けている方がしっくりくる。
エリオットの幼馴染としてルフィーナが知り得ているシヴァンフォードかヴィドフニル家。この辺りはきっと彼が安心して、家出するほど追いかけた女の妹であるクリスを渡せると思った。エリオットとクリスの仲は悪いが、ローズの妹である以上悪い扱いはしないはず。
そしてクリスは女の子であるからして……
「とりあえずヴィドフニル家の方に行ってみようかしら」
まさかのまさか、ルフィーナの脳内で全く検討違いの目的地が決まる。これはフィクサー達も予測しようが無い。
フィクサーからどんなに話を聞いていようともルフィーナとエリオット……いや、男女の思考は違うのだ、と思わされるこの結果。
四年前のエリオットは『クリスは女だから女に預けよう』だなんて細やかな気遣いを彼女にする事は無かったのだ。
しかも全然関係の無い事だがここまでのルフィーナの思考の通り、彼女はあの二人がお互いに想い合う仲になっているなどとは微塵も思っていない。
離れていた四年余りの歳月はハイエルフであるルフィーナにとって短くとも、彼らにとってはそんな大きな変化が訪れるほど長いものなのだろう。
そんな様々なズレ故に、見事にフィクサー達を出し抜く事となるルフィーナだった。
◇◇◇ ◇◇◇
俺は兄上の部屋を調べたその後日、次に母上側の侍女も調べていた。だがこちらはシロ。
流石は母上と言ったところか、一切ビフレストの存在を周囲に洩らす事無く行動し続けていたその手際には震撼させられる。フォウが見る限り、侍女はそれらしきものを全く目撃していないような反応だと言うのだからな。
「執事によると、エマヌエル様がご帰還なされたそうです」
そしてレイアが俺に次なる報告をしてきた。
全くようやく帰ってきたのか、と自室の椅子にゆったり座っていた体を彼女に向け、
「そうか、じゃあお会い出来るかどうか確認を……」
「それが……あちらからエリオット様を呼んでおります」
「!!」
レイアの目をしっかりと見る。
彼女の琥珀の瞳にも疑惑の色が滲んでいて、きっと俺と同じ不安を抱いているのだと感じられた。
しかし、そこで踏みとどまるような俺じゃない。
「誘いにのってやるか」
何年ぶりかも分からない実兄との対面。この時期に呼び出すと言う事は俺が既に色々知っている事も全部把握した上での行動だろう。そして、この呼び出しで完全にクロだと言っているようなもの、隠す気も無いってか。
立ち上がって軽く身支度を整える手が微かに震える。レイアに背を向けている俺の表情は今どんな事になっているのやら。気を強く持とうと唇を意識してグッと噤んでから、俺はレイアに向き直って彼女を安心させるべく笑顔を作って言った。
「行こうか」
城内の北の塔の最上階、まるで位置的に幽閉されているかのような兄上の部屋の前までレイアとフォウを連れて行くと、老執事が深々と頭を下げてから俺に告げる。
「エリオット様、その、恐縮でございますが……エマヌエル様の部屋にペットを持ち込むのは……」
「え」
だんだん頭に乗っていようが肩に居ようが違和感が無くなって来ているねず公の存在を指摘され、変な声が出てしまった。
肩を見ると、あぁ白いねずみが乗っている。
「おい、ペットは入室禁止らしいぞ」
そう声掛けると白いねずみはくるりと回ってその身を人型へと変化させ、
「これでいいかいお爺さん?」
聞き取り難い小さな声で執事に問いかけた。
「……!! 獣人だったのですね、失礼致しました!」
何が楽しいのか、兄上に会うのまで着いて来るとは……自分が参加出来ないのならば見届けたい、と言う気持ちも分からないでも無いが、本当にあの槍の精霊とは性格が違うものだ。
執事がゆっくりとドアを開けると、先日入った時よりも椅子が増えている事にまず気がつく。俺達を迎える準備は万全と言う事だろう。
室内で白磁のテーブルに肘を突き待ち構えていた男は、幼い頃に急に失われた視力により視点が合わなくなった瞳を隠す為の黒い目隠しが目立つ。
数年前の記憶とほぼ変わらない外見の兄が、堂々とそこに居た。
「久しぶりだな」
多分俺よりは少し低い声。でもかなり似ているのでは無いだろうか。
俺の後ろに居るレイアとフォウの空気が張り詰めているのが良く分かる。肩のねず公はきょろきょろと辺りを見回して何か探しているようだがそっちはスルー。
「お久しぶりです」
右腕を胸に置き、丁寧に頭を下げてからその流れで俺はいつも通り直球を投げかけてやった。
「で、モルガナの第一施設を壊した張本人が私に何の御用でしょうか」
「もう少し怯えを隠して言わないと意味が無いぞ、そういう台詞は」
目の見えない兄に心の内を見事に読まれている。一切ハッタリが通用しそうに無い目の前の人物に、頬に流れる一筋の汗。
昔とは違う、この男に負けるわけが無い。なのに怖くて……そして悲しい。抑えきれない自分の感情がその次の言葉を俺に出させてくれなかった。
出だしから精神面で敗北している俺はその場で硬直してしまい、そんなところへ後ろから足音が聞こえてきて俺の横を通り過ぎる。
それはレイアだった。
彼女は俺より前に進み出て兄上に自然に問いかける。
「エマヌエル様、エリオット様を着席させても構いませんか?」
「ん? あぁ、そのつもりで椅子を用意させたんだ。三人とも座っていい」
この硬直を解こうとするように俺の背中に触れて押し、椅子までエスコートしてくれる、女のくせして紳士のようなレイア。気持ちは有り難いが自分の情けなさが圧し掛かってきて正直キツイ。
しかし座っても未だに口が動いてくれない俺。
聞きたい事は山ほどあったと言うのに、これでは拉致があかない。正面に対峙している自分とよく似た特徴の男をちらりと見ると、彼は余裕綽々の表情をこちらに向けていた。
「そう怯えなくともお前に危害など加えるつもりは無いぞ」
くく、と笑いながら兄上は俺に言う。
別に危害が加わりそうだから怯えているわけでは無い俺は、そんな風に言われたところで恐怖を打ち消す事など出来そうに無かった。
だが少しだけ和らげて貰った雰囲気に、どうにか口を開く事が出来るようになる。
「ではまず、用件をお聞かせください」
辛うじて出た言葉がこれか、と自分自身に笑いそうだ。
「なに、簡単な事だ。一旦モルガナへの攻め手は中断させろと言いたかっただけなんだよ」
「それは私個人でしょうか、それとも軍でしょうか?」
「後者だ」
自分は第一施設を襲って跡形も無く消しておきながら、軍には動くなと。矛盾し過ぎていて目的が見えない。
おかげで素直に了承の言葉が出てこない俺に、正面から更に言葉が投げかけられる。
「不思議なようだな。第二や第三施設も本当ならばさっさと潰しておきたいんだが……やはり第一までが限界だったのさ。軍を動かしても無駄に被害が拡大するのが目に見えていてそれは避けたい。で、お前にそれを止めておいて欲しい」
「はぁ……」
ここまで言って貰ってもまだその裏にある意図が掴めない。掴めないだろうと思っているからここまで言っているのかも知れないが。
「俺にはお前のような発言力は無いからな」
兄上がそこまで言ったところで右後ろで座っているフォウが少しだけカタリと椅子を揺らした。
何だ、何かの合図でもしているのか?
ふっと振り返ったらそこには青褐の髪の下に、陰り険しい顔を見せているフォウ。
そこで兄上が急に席を立って腰から短剣を抜いたかと思うとフォウに向かって投げつけてきた。だがその剣は兄上とほぼ同時に動いたと思われるレイアの剣によって弾かれる。
「次に同じ事をするのならば斬ると申しましたが!?」
「そこに居るのは城内の従者では無いだろう?」
声を荒げるレイアに飄逸な声色で返答する兄上。
「……瞬きの速度からして多分男だと思うが、ソイツは今すぐこの部屋を出て行け」
「理由をお教え頂けますか兄上」
「俺と同じものを感じるからだ」
目の見えない兄上が、見えすぎているフォウに同じものを感じると言う。どういう事だ、と俺は気付けば椅子を立って兄上から距離を取っていた。
そこへフォウが、
「やり方は違えど、心が読めるって部分だと思うよ。で、この人俺にそれを読まれたくないんでしょ」
部屋の入り口付近まで後ろに下がって兄上の代弁をする。お前、それは逃げ腰過ぎだろう。
先程まで不敵な笑みを浮かべていた緑髪の盲人の顔は、既に口元を歪ませている。フォウの言う事が正しいならば、やはり兄上は何かを企んでいるのだろう。そして、フォウがそんな嘘を吐く必要は無い。
覚悟を決めねばならない時がきた、そう思う。
「何を考えているのか仰ってください。でなければ……」
「俺を殺す、か? そうだな、お前に殺されるのならそれも悪くない」
「……?」
「だがそれだと……俺はいいがミスラが困りそうだ」
その口から出た、もう一人のビフレストの名前。
兄上が死ぬとあのビフレストが困ると言うのか? 居場所が無くなる、と言う意味では無いような気がする。一体何が目的なんだ、兄上と……ビフレスト達は。
そこへ左側から冷たい空気を感じて俺はそちらに目をやった。
「レイア?」
彼女の剣の切っ先は真っ直ぐに兄上を向いている。嫌な予感がして俺はレイアを言葉で制した。
「ま、待て」
だが彼女の体が動く。鳥人の身のこなしとスピードを相手に間に合うか、だが俺はそれでも無理やり兄上とレイアの間に割って入り、その剣が振り下ろされるのを寸でのところで止めた。
「そこをおどきください、エリオット様」
「お、お前な! それがどういう事か分かっているのか!!」
レイアに兄上を殺させなんてしたら、間違いなく彼女は死刑。勿論分かっていての行動だと思うがそれでも言わずには居られなかった。
彼女は剣を振り上げたまま俺に叫ぶ。
「それは貴方も同じ事です! もし私を止めたいと思うのならば、実の兄を手に掛けようなどとは思わないでください!!」
その身を以って、俺の手を肉親の血で汚させまいとする幼馴染。その瞳は真っ直ぐ真剣に俺を見据えていた。
彼女のように死刑とまではいかなくとも、俺がここで兄上を殺した場合、少なくとも俺が王位を継承する事はまず無くなっていただろう。まぁいいところで幽閉くらいか。
俺はそんなものに興味も無いし別に構わないと思っていたのだが、レイアからすればそれは自分が死んでも避けたい事だったらしい。
「分かった。だから剣を仕舞え」
俺の言葉を受けて、剣を下ろし鞘に仕舞う赤い鎧の剣士。彼女のその動きを確認した後、俺は体を張って護った兄に振り向いて聞く。
「もう一度聞きます。何が目的なのでしょうか?」
目隠しのおかげで目を合わせる事の叶わない兄。彼は再度椅子に座り直してから溜め息混じりに言い放った。
「そこの男が居ては嘘も吐けないからなぁ。いいだろう、教えてやる」
そこでしばしの沈黙が流れる。
実際は数秒だったのだが、それ以上に感じられる時。
そして、
「俺はお前が不幸になって欲しいだけなんだよ」
フォウに聞かずとも分かるくらいの悪意がそこにはあった。
誰も返事をしない。嫌われているのは分かるが、それでビフレスト側についていると言うのならば……俺に対する気持ちは、自身を盲目にした神よりも恨み深いものだと言う事になる。
俺は一体この人に何をしてここまで恨まれなくてはいけないのか。
「分かりました……」
これ以上顔を見ていては辛くなるだけだ。
踵を返して俺は一言だけ残して一人先にその部屋を出た。すぐにレイアとフォウも追いかけてきて、塔を下りながらそっと心の内を彼らにさらけ出す。
「キッツイわー」
どうせフォウも俺がどれくらい落ち込んでいるのか見えている事だし、レイアはそもそも俺に関しては表情や仕草から全部まるっとお見通しな奴だ。
強がる必要の無い相手が傍に居て、良かった。いつも考えている事を言われてイラッとしていたが、それが有り難く感じられる時が来るとはな。
「どうしたの、珍しく素直じゃん王子様」
敢えて明るく振舞っているのであろうフォウが俺に軽い口を叩いてくる。
「お前達に強がっても無駄だから諦めたんだよ」
「それは良い傾向ですね」
レイアが優しく笑った。
その笑顔に実感させられる、自分自身がどんなに幸せか、と。
肉体改造紛いの事をされていて、好きだった女は殺されて、好きでもない女と婚約して、実兄にあんな目で見られていようとも……人間関係一つで、人とは幸せで居られるのだ。
クリスも同じ。アイツはきっと俺同様に背負っているものが暗く濃い運命にある。先日でのモルガナで見たクリスのあの変化は正直まずい。城に戻ってきてからと言うものの、だんだん闇が広がっているようなアイツの吐き出す言葉の数々。
俺もきっと、寄り掛かる事が出来る相手が居なければ同じように沈んでいたかも知れない。
友達作りが俺以上に下手なヤツだし、そもそも友達が作れる環境に置いてやらなかった俺の責任もあるだろう。
寄り掛かる場所になってやれない、と諦めている場合じゃない。何か知らないがそういう面においては無駄に遠慮しているクリスに、遠慮しなくてもいいと思わせてやらないといけない。
そう……この二人が、俺にそう思わせてくれたように。
「ありがとな……レイア、フォウちゃん」
「ちゃん付けは止めてくれる!?」
照れ隠しでちゃん付けで呼ぶと、芸人顔負けのタイミングで華麗にツッコむルドラの青年。
「お前は俺の事嫌いだろうが、俺はちょっと好きになったぜ」
にやっと笑って振り向くと、ぽりぽりと頭を掻きつつ目を逸らしてフォウが言った。
「あのね……純粋な好意を向けられてそれでもその相手を嫌いで居られるなんて事は、そんなに無いと思うよ?」
「好かれるにはまず好きになれ、って言いますしね」
「そういう事。俺そこまでされてもまだ嫌いって思えるほど性格歪んでないもん」
何やら話し始める後ろの二人の会話を聞きながら、綻ぶ顔を正面に向けてまた塔を下り始める。
俺は直接兄上に何もしていないが、俺が生まれた事で兄上達二人の居心地が悪くなっていたのは間違いない。だからあの人の悪意はそのあたりからくる妬み恨みだろうが、それなら妬まれても仕方ない。
俺はそうやって開き直る事にした。
今までは死んでいるも同然の無価値な人生だと思っていたが、そんなのただの被害妄想だと今更気付く。
どんなに苦難の連続があり、沢山の何かを失ってきていようとも、俺の周囲には価値があるものも沢山残っていた。今まで気付かなかっただけでな。
不幸だと思うかどうかは結局自分次第。
そして俺は今、こんな状況にも関わらず心から自分が幸せだと思えたのだった。
自分の部屋に戻った俺は二人と共に今後について話し合おうと椅子に座る。まず口を開いたのはフォウ。
「俺、お仕事終わりかな?」
そういえばそうだった。コイツには日数が経つだけでどんどん金を毟られている状況で、しかも当初の依頼内容は先程兄上と会う事で完了したのだからフォウの言う通りコレで終わりとなる。
だが最後に聞いておかなければならない事が……
「あぁそうだな。けど去る前に教えて欲しいんだが、兄上の部屋でお前が険しい顔をしていたのは何故だ?」
「あれ? ……怖かったんだよ」
「はい?」
既に兄上は居ないと言うのに見えたものを思い出したのか表情が強張るフォウ。
「あの人、相当王子様が妬ましいんだろうね。尋常じゃなかったよその色の濃さが」
「……そうか」
同じ目に遭っていながら光を得た俺と、闇に包まれた兄上。恨まれる事自体は辛いが、だからと言って俺があの人を責める事など出来ない。兄上だって好きで人を妬み恨みたいわけでは無かったはずだ。
全てはこれらを仕組んだ奴のせい。
また少し落ち込んでしまった気分を上げるように顔も上げて、俺は二人を見ながら言う。
「仕方ない。悪いのはあの人じゃないさ」
「そうなのですか?」
「あぁ。兄上達の異常は後天的なものだが、それらは俺が四年以上かけて見ていた夢を、一気に見せられたせいらしいんだ」
『!!』
もう夢も終わったし話してもいいだろう。驚いている二人に俺は話を続けた。
「最初はただの歴史映像のようなものだったんだが、最後には世界創造の根幹まで俺は見た。で、この夢を見ている間俺は夜寝てからはいつも朝まで一切起きる事が出来なかったんだよ」
「だからあんな倒れるような眠り方をしていたのですね」
「そうなんだ、うとうとするあの気持ちいい時間がほとんど無かったんだお陰で!」
眠りに着くか着かないかが気持ちいいと言うのに、うとうとの一つ目の『う』で寝てしまう事のもどかしさと言ったら!!
でもこれからは味わえる、そう思うとちょっと嬉しい。うむ、幸せは小さくともそこら中に転がっている。
俺の熱い想いに軽く後ずさりながら、レイアはそれでもどうにか姿勢を整えてまたこちらに臨んだ。
「と言う事は、この前起きたのはそれが終わった、と」
「そそ。ちなみにこの夢はモルガナで戦闘になった二人も見ているらしいが、だからこそ魔術に長けているのだと思う」
「その夢と魔術と何の関係があるの?」
フォウが不思議そうに尋ねてきて、俺は一旦視線を青褐の瞳と合わせて説明してやる。
「魔術は形と理解。その理解の部分に触れるようなものだったんだ、歴史がな」
「へぇ……」
そこまで聞いて興味深そうに溜め息を吐くフォウ。頭は悪くなさそうな奴だ、知識欲を刺激されたのかも知れない。
しかしまぁ逆側のレイアを見ると、もう着いていけなさそうな表情を浮かべているので話はここでやめてやろう。
俺は咳払いをして話を元に戻す。
「ま、ちょっと逸れたがそういう事だ。兄上が俺を嫌うのは兄上のせいじゃないし、俺のせいでも無い。だから俺は……その裏に何があるのか知って抵抗してやりたいんだ」
「ただの仕返しかと思ってたら、意外とややこしい事になってるんだね」
相変わらずさらっと返してくるルドラの青年とは対照的に、黒い名残羽の鳥人は沈鬱な表情で斜め下に視線を投げていた。俺の事なのにきっと自分の事のように辛い思いをしているのだと思う。
俺の視線の先に気がついたフォウがレイアを見てちょっと困ったように眉尻を下げたが、それについて口を開く事は無かった。
代わりに、
「サービス」
「?」
何がサービスなのだ。いきなりフォウが言った台詞に怪訝な反応をする俺とレイア。
フォウは目を細めて一瞬、昔に見せたような違和感と揺らぎを俺に感じさせたかと思うと言葉を続ける。
「王子様の願いは多分叶う」
「むっ」
以前にも似たような事を言われたのを俺は思いだす。あの時は叶わないと言われて……ローズが死んだ。
じゃあ今度は前向きに進んでいいのか。だがそんな俺の思いを打ち消すようにフォウが言う。
「でも何か別の、見覚えの無い色が混じっててよくわかんない」
「役に立たねえ!!」
「仕方ないじゃん! 色が見えててもそれが何を意味するのか絞り出すのって大変なんだよ!? これも本当は料金発生するところを取らないであげるんだからいいでしょ!」
「サービスってそこかよ!!」
「さ、とにかく俺の仕事はコレでおしまい」
そう言ってさっと椅子から立ち上がって俺に右手の平を見せるフォウ。どう見ても金の催促だ。
「口座番号のメモをくれ。そこまで日数掛からなかったし、倍額振り込んでやる」
「おー、気前いいね王子様」
にこっと笑うフォウを見て現金な奴だと思いつつ、初めて正面から見る笑顔にクリスが『女の人みたいです』と言う意味が少し分かったような気がする。
笑う時の目元に何か丸みを帯びた優しさを感じるんだコイツ。
昔はスレていたし今もちょっとはその名残があるようだが、その能力故に嫌な事もいっぱいあるはずなのに……それでも堕ちる事無く成長出来ているのだ。
一人旅なんてしていると誰にも頼れない気がするが、この青年の強さは何なのだろう。
何故か早めに仕事を終わらせて城を出たいような印象があるフォウに、最後に一つだけ聞いてみる。
「なぁ……お前の『寄り掛かる場所』は、どこだ?」
回りくどい事は言わなかった。普通なら何でだと問い返されるような内容の質問だったが、フォウはそこで問い返す事なく自然に答える。
「? そんなもの無いよ」
俺の質問の意図も分からぬレイアでさえ、何となく違和感を感じ取り表情を固まらせた。
フォウの表情は別に無表情になったわけでもない、本当に不思議そうなもの。それはまるで、そんなものが無いだけではなく、そもそも必要としていないように見える。
俺とレイアの感情が見えているであろうフォウは、言葉が出なくなった俺達にハッとした顔を見せてから慌てて補足した。
「あぁ、違うよ! 元々無いから気にならないだけなんだ!」
「元々無い?」
「長い間同じ人達と接する事が無かったからね、当たり前になってるだけって言うか」
おいおい、お前は一体何歳から独り立ちしているんだよ。
大体それをそのまま捉えるならば、全部独りで飲み込んでいる事になるじゃないか。逆に何だか心配になってくるフォウの発言に、俺は目の前の青年をじっと見つめるしか出来なかった。
けれどコイツは言う。
「……ありがとう」
どれに対してのお礼なのか分からない。だが、何がだよ、と聞く事も出来ない空気。とにかく本当に心の底から出た言葉だと言う事だけは感じ取れた。
何故なら、とても優しく微笑んでいたから。
フォウは部屋の棚の上にあるメモ用紙と筆記具を手に取りさらさらと口座番号だけ書いて俺に渡すと、
「またね!」
至極あっさりと別れを告げて部屋を出て行った。ただその言葉が次にまた王都を訪れる気のあるものだった事に、俺は少しだけホッとする。
そこで、軽く挨拶をしていたものの黙りがちだったレイアが俺とは視線を合わせずに言った。
「彼はクリスと良く似ていますね」
「へ? そうか?」
全然違うと思うんだが……でも話の流れ的にさっきの違和感の事だろう。
「はい、クリスもたまに本当ならば辛い事を平然と話す時があるのです。無理をしているわけではなくそれが辛いと言う自覚が無いのでしょうが……だからこそ自覚した時が怖い」
「あぁ……」
なるほどな、とレイアの言葉に俺は考えさせられる。凍りつき、麻痺していた感情が溶けた時にどうなるか。クリスと違ってバカじゃないから下手な事にはならないと思うがやはり気に掛かる。
でも、
「ま、人にああやって礼を言えるうちは大丈夫だろ」
「そうですね」
ようやく打ち解けられた青年との別れを惜しみつつ、二人きりになった室内で俺は椅子を少しだけずらしてレイアと向かい合った。
しかしそういえばこの部屋にはもう一人居たようである。俺の肩から飛び降りてテーブルの上に偉そうに立って自分の存在を誇示している小さな獣人。
「何だねず公」
「いやさ、キミって確かビフレストを殺してくれるんでしょ?」
「殺すとは言ってないが……必要に応じてそうなる事もあるだろうな」
「あの塔の上に、居たよ」
『!!』
ガタリと席を立って口をぱくぱくさせる俺に、小さな赤い瞳が薄らとその輝きをむける。
「あぁもしキミがサラの末裔でボクの体がこんなじゃなかったら、とっても素敵だったのに!」
その光景を想像してだろうか、幼い体に似合わない恍惚な表情で宙を見つめる幼女。
俺も一応ビフレストに近い存在のはずなのだが、俺にそれを感じないからか全く敵意を見せてこないこの精霊は、振る舞いが歪んでいつつも他の何より純粋な女神の遺産なのであろうと俺は思った。
「今から行って居るだろうか……?」
「普通に考えたら居ないでしょう。それに会って何をする気ですか」
「聞きたい事は沢山あるが……」
「本当の事を話すとは思えませんよ」
レイアの冷静な意見に、熱くなった俺の体も落ち着いてくる。
そうだ、フィクサーが言っていたように話したところでどこまでが本当なのかも分からない。何かを企んでいるのならば、俺に偽の情報を掴ませてくる可能性だってあるのだ。
……そしてそれはフィクサーも同じ。
二人とも俺に歩み寄ってくるにも関わらず、どこか仮面を被っているような印象を受ける。
もう少し信用に足る情報源が欲しい……ルフィーナか、レクチェ。
「おいねず公、その塔の上に居たのはどっちのビフレストか分かるか?」
「そうだねぇ、キミがレクチェって呼んでたものでは無いと思うよ。酷く弱かったから」
レクチェじゃないならやはり無理して今から探す必要は無い、か。俺は舌打ちしながら椅子に腰を落とす。
手詰まりだ、そう思った。
兄上から得た情報は役に立たないものでは無かったと思うが、アレだけでは推理出来ない。
「そういえばレイア、後で軍部に掛け合っておいてくれよ」
「エマヌエル様の件でしょうか?」
「そうだ。第一施設を一人で消滅させた男が第二は無理だったって言ってるんだから、あちらの思惑が何にしろ攻め入った時の被害を考えたら留め置くべきだろう」
「かしこまりました」
静かにレイアが了承する。その髪が頭を下げる事で揺れ、神妙な面持ちが下に向けられた。陰りを見せるその仕草に彼女は彼女で何かを抱えている事を感じて、俺は声を掛けようとして一瞬口を開きかけたがそれも噤む。
フォウから以前言われた内容が引っかかったからだ。今ここでレイアを気遣えば彼女の心を確かにかき乱す事になりかねない。
だがそれでいいのか?
彼女は俺の支えになってくれているのに、俺はなれないのか。
悩んでも答えは出ない……多分正しい答えなど無いのだろう。
この感情のままに動けばただの自己満足になってしまうかも知れない。けれど動かないで後悔するより、動いて後悔した方がいい。
「何か悩みでもあるのか?」
噤んでいた口を開くと、顔を上げて琥珀の瞳に俺を映すレイア。
「いえ……大した事では無いのです。先は剣を向けましたがエマヌエル様を嫌っているわけでは無いので、王子の話を聞いていたら……失礼な話かも知れませんが同情してしまったのです」
「なら自分の事で悩んでいたわけじゃないんだな」
「はい、気遣わせてしまい申し訳ございません」
ホッとした。
そしてその直後に俺の胸を襲ってくる事実。これだけ他人の事ばかりを考えているヤツが唯一見せた自分の気持ちを……俺はあんな酷いやり方で踏み躙ってしまったのだと。
改めて確認すると共に最近ずっと彼女に感じさせられていた胸の痛みも俺は自覚する。
「他人の事でそんな顔するなよ」
「仰る通りですね……」
レイアは俺の言葉に苦笑しながら、顔に少し垂れていた前髪を手で避けた。それは男勝りなど微塵も感じさせない女性的な仕草で、俺はひたすらこの衝動を自制する。
いつも芯を強くもって堂々としているレイアが最近見せるようになった弱さに、俺は今更になって女を感じていたのだ。
俺が彼女をかき乱すように、彼女も俺をかき乱してくれていたらしい。
流石にまだ誰も気付いていないよな、俺のこの変化。もしかするとフォウは気付いていたのかも知れないが……レイア当人は多分気付いていないはずだ。その様子が見当たらない。
まっずいぞコレ、と出てくる脂汗。クリスへの気持ちに気付いた時みたいに笑い出したくなってきて口元が引きつり、それを必死に留めようとする。
少なくともこの感情は愛では無い。我慢しろ俺。とにかく何か会話をしなくては……
「王子?」
テーブルの上のねず公を人差し指で撫でながら、レイアが俺に疑問符を投げかけてきた。
「おう! 何だ!」
明らかに動揺しまくっている俺の元気良すぎる返事。
「いえ、面白い顔になっておりますよ」
「失礼過ぎる!!」
そんなやり取りをしたところで俺に救いの手が差し伸べられる。コンコン、と室内に響くノックの音。
誰かは分からないがこのタイミングで第三者が入ってくる事にとにかく安堵した。だがその第三者は、俺の天敵と言える人物であった。
「ったく!!」
返事をする前からバンッ!! と勢い良く扉が開いたかと思うと、悪態を吐きながら入ってきたのはレイアの妹、アクアである。
今日は先日と違って普段通り……いわゆるお嬢様縛りという髪型の彼女は俺と目が合うなり、
「おい糞王子!! お前、に……」
そこまで喋ったところで、アクアの居る入り口側に背中を向けていたレイアが振り返った事により姉の存在に気付く妹。
「おっおお、おおお姉様ッッ!!!!」
「アクア……」
ショートドレスのスカートをふりふり揺らして焦り出すアクアに、その姉の冷たい眼差しが降り注いでいた。
「今のは何だい? まだ直せていないのか」
彼女は抑揚の無い声で、同じ髪と瞳の色を持つ妹に説教を始める。
よしよし、姉の前でばかり猫被っていないでたまには怒られればいいのだ、と俺はにやけながらそのやり取りを見ていた。
が、そこでレイアは妹に訂正を促す。
「このお方は馬鹿男だが決して糞王子では無い。そして目上の人には敬語。分かったら言い直す」
「は、はいお姉様……馬鹿男でした!!」
「ちょっと待とうぜ」
俺は右手を斜め前に上げて、挙手に近いポーズを取って彼女達を止めた。一旦こちらを向いた姉妹に、俺は目を瞑りながら首と肩を回し気持ちを落ち着かせたところで口を開く。
「色々とおかしくなかったか?」
「いえ、何もおかしい部分はありませんでしたよ王子」
うおおぉレイアが真顔で返して来た。
「今の貴方は王子としては糞と言う程悪くないと思いますから。ですが一人の男性として見ますと……」
「ごめんなさい」
畜生、俺が馬鹿男ならお前は馬鹿姉だ。そんな妹の窘め方だから全く態度が直る兆しが見えないんだよ。
しかしさっきまであまりよろしくない事を彼女に考えていただけに上がりそうにない頭。
謝った時に下げたこの頭を少しだけ上げると、レイアよりも後ろで、髪型と服装に似合わないムカつくにやけ顔を俺に向けているアクアが居た。
頭の血管がキレそうだったのでグッと顔を上げて睨みつけてやると、どこぞの裏社会のボス並ではないかと思ってしまうような眼力で返されて結局俺が先に目を逸らしてしまう。
まさかの敗北に、日々恐ろしい意味で成長していくこの妹のポテンシャルは一体どれくらいあるのだ、と俺はどうでもいい事を考えていた。
「で、どうしたんだい」
自分を挟んでそんな対決が行われていた事を知らないレイアが問いかけると、急にぶりっ子になって両手を胸の前で握りながらアクアが言う。
「はいお姉様、家に客人がいらっしゃってます。で、そこの馬鹿王子を呼んで欲しい、と」
「アクア、少し間違えているよ」
「申し訳ありませんお姉様っ」
「も、もうやめて……」
俺のライフはゼロだ。
四つに割れたハートの欠片を頑張って集めてライフをどうにか一つ戻し、とりあえずアクアの話を受け止められるくらいになったところで俺は彼女達の酷い会話に口を挟む。
「俺を呼ぶ客人って誰だ?」
そこでアクアの表情が真剣なものに変わった。キョロと辺りを見回してから彼女は俺の傍に寄ってきて、レイアと俺が辛うじて聞こえるくらいの小さな声で喋る。
「ルフィーナ様です」
『!!』
「兄がこの周囲に監視が無いか確認したところ、アゾート剣が目視出来ました。敢えて放置してありますので大きな声は出さぬようお願い致します」
ここで彼女が戻ってくるとは思っていなかった。すぐにでも会いたい気持ちが湧き立つが監視がある状態では動くに動けない。
黙って真剣な面持ちで頷くと、アクアは俺と合った視線を外して姉の方に向け、また話し出す。
「幸い我が家の周囲には監視がありませんでした。今私が訪ねてきた直後に動くのはまずいでしょうから、数日期間を空けて我が家にて面会した方がよろしいかと」
「そうだね、素晴らしい配慮だ」
そう褒めながら笑顔で妹の頭を撫でるレイアと、姉に撫でられて大変嬉しそうなアクア。この姉妹を直視していては気が抜けるので、俺は目を瞑って顔を背けた。
ルフィーナが戻ってきた事により、今考えるよりは後日あの女の話を聞いてから考えた方がいい。一旦レイアはいつも通りの警護に回してルフィーナと会うのを三日後に取り付けた俺は、独り部屋でぼーっと考え事をしていた。
勿論、後で嫌でもレイアの家で考える事になるフィクサー達の事では無く、クリスの事だ。
どう言えばアイツを元のベクトルに戻してやれるのだろう?
俺のせいか、ビフレストのせいか、どちらにしてもまずは原因を探り出さない事には始まらない。
夕食を食べた後に俺の足は例の隠し通路からライトの病院へ向いていた。
よーく周囲を探ってみると確かに俺の行く先にアゾート剣が着いて来ている気配がする。鬱陶しいな、叩き落としてやりたい気分だ。
だがルフィーナの件もある。彼女が逃げた事は既にアイツらも把握しているだろうし、俺が下手にアゾートを壊す事でルフィーナとの接触を危惧したフィクサー達が湧いて出てくる可能性も否めない。
まぁいい、勝手に見ていろ。
俺は敢えて監視を無視して病院の裏口に入っていく。クリスの部屋は比較的裏口に近い位置で、特に何も気にする事無くその廊下を歩き始めたその時、
「エリオットさん!?」
クリスが急に廊下沿いの部屋から驚いた様子で出てきたではないか。しかも俺の姿を確認する前に出たその声掛け。足音一つで俺だと分かったのだろうか、だとしたらちょっと嬉しい。
「よう」
短く挨拶を済ませてクリスとの距離を縮めると、多分パジャマ代わりであろう私服姿のクリスは何故か部屋のドアを急に閉めてそこに寄り掛かる。
「ん? お前の部屋ってそこだっけ?」
記憶が確かならこの隣だった気がするのだが。
「……いえ、この部屋は荷物を置かせて貰っているだけですよ」
「そうなのか」
コイツは本当に嘘を吐くのが下手だ。一旦気持ちを落ち着かせてどうにか搾り出した嘘なのだろうが、お前の少ない荷物をわざわざ別の部屋に置くだなんて有り得ない。だったらまずあの私物がほとんど無い部屋に置けと言う話である。
でもここで無理やりその嘘を追及したところでクリスの壁は壊せない。そう思った俺はその嘘に騙された振りをしてやった。
ふい、と顔を背けて本来のクリスの部屋に顔を向けた後、視線だけクリスにやると……おーおー、ホッとしている。すぐにそんな顔出したらダメだろうが。忠告してやりたいがそれは後。
「部屋入っていいか?」
「どどどどっちのです!?」
「荷物部屋に入る用事なんかねぇよ!」
俺を笑わせたいのか?
ただ部屋で話したくて聞いただけだと言うのに、何かこの部屋にあります! と全身で伝えてくる水色の髪の少女。
割と風呂に入った直後なのだろう、濡れた髪に血色の良い顔。健康状態も良好そうでヨロシイ。ただ……首の包帯は取れていない。
「怪我まだ治ってないのか?」
心配になって聞いてみるとクリスは、俺からは視線を外しながら自分の首の右側に手をあてて言う。
「いえ、ほとんど治っているんですけど、ライトさんが見える位置だから痕に残らないようにって丁寧な手当てをしてくれてます。私、多分包帯巻いてないと掻いちゃうんで……」
「なるほど」
素晴らしい気遣いだぞ、ライト!!
俺は目を閉じ、うんうん頷いて心の中で友を褒め称えた。
……ってこんな事している場合じゃない。いつレイアが俺の不在に気付いて追いかけて来るか分からないのだから早くやる事を済ませねば。
クリスの返事は無かったがまぁ問題無いだろう。入らせまいと必死な荷物部屋はさておいて、その隣の部屋のドアノブを握った俺に彼女は問いかけてくる。
「今日は何の用事ですか?」
「とりあえず入ってから話そう」
「ダイニングルームではダメなんです?」
「え?」
それはこの部屋までも俺に入らせたくないかのような言葉。こっちにも何かあるのか、と一瞬考えたが隣の部屋と違って挙動不審な様子は無い。
ダイニングルームだと邪魔が入るから俺としてはクリスの部屋がいいのだが、
「ダイニングルームはちょっと。二人で話したかったんだが、部屋じゃダメか?」
そう聞くと俺にようやく真っ直ぐ向けられたクリスの顔。その表情は……酷く冷めたものだった。
「ダメってわけじゃないですけど……強いて言うなら嫌、ですかね」
「なぬ!!」
思いも寄らぬ拒絶に素っ頓狂な声が出てしまう。
「そ、それはどういう意味で? 何か見られたくない恥ずかしい物でも置きっ放しとか、か?」
「違いますよ」
恐る恐る尋ねる俺にあっさり一言で返し、その体を横に向けてまた視線を逸らす目の前の少女。いや……態度や表情だけ見ているともはや少年。いつも以上に。
クリスはほんのちょっとだけ溜めた後にその理由を言い放った。
「貴方と二人で話すのが嫌なんです」
「む……」
言葉だけならば完全なる拒絶。だが嘘が下手なクリスの顔は、それまで冷えたものだったにも関わらず、その台詞を口にした時には泣きそうに歪んでいて。
拒絶には違いないが、嫌だから拒絶しているのではないと感じ取れる。
「そうか、じゃあ仕方ないな」
押してダメなら引いてみろ。俺はあっさりとクリスの嘘を受け入れ、これから帰りそうなオーラを出して後ろ頭を掻きながら様子を伺った。横目でちらりとその顔を見てみれば、これまた分かりやすい。
きっと俺が食い下がるとでも思ったのだろう、毒舌を呆気なく受け入れられた事に戸惑って伏目がちな瞳が潤んでいる。
何だ、やっぱり俺を笑わせたいのか。
「嘘だっつの」
「えっ」
俺の言葉にバッと上がった顔が一瞬が明るくなったのを、見逃してなどやらない。当人も自分の表情に気付いたのだろう、またすぐに顔を斜め下に向けてクリスは視線を外す。
多分さっきから目を合わせようとしないのは、一応心を読まれまいとしているんだろうなぁ、と悲しいまでに無駄な抵抗をしているクリスに俺が泣けてきそうだ。
「俺が他人に嫌だとか言われたからって自分のやりたい事を曲げると思うか?」
「……それは確かに思いませんけど」
「話くらい我慢しろ。入るぞー」
今度こそドアノブを回して、自分の意見を押し通すべくクリスの部屋に入る。
やはり飾りっ気も無ければ無駄な荷物などほとんど無い殺風景な、元病室。こんな部屋に居るから気も落ち込んでしまうのでは無いか?
テーブルを挟むのではなく少し近づけるように二つの椅子を置き直し先に座ってから、とぼとぼと俺の後に着いてきたクリスをきちんと見た。以前みたいに他の場所に目移りしないよう、しっかりと。
俯いたままの少女は唇をへの字に曲げて、何かに堪えるようにぎゅっと握った拳を太腿あたりへ置いている。
クリスがこうなった原因として思い当たるものはいくつかあった。だから後は絞るだけ。
「なぁ覚えているか?」
ようやく椅子に座った心配の種に、意を決して俺は言葉を紡ぐ。
「昔お前が俺とルフィーナに言った言葉」
「え?」
さっきまで何か我慢しているような表情だったものが、俺の言葉によって一旦気持ちもリセットされたようだ。きょとんとした顔を俺に見せ、首を傾げるクリス。
「俺とルフィーナが揉めてた時だ」
「私……何か言いました?」
「あぁ言った。喧嘩するかも知れないからその前に殺そうとするだなんて良くない、そんな事をな」
「……覚えていません」
参った事に、本当に覚えてなさそうな顔をされてしまった。それを言った時の感情を思い出して欲しかったのだが、コイツの記憶力に頼ったのが間違いだったらしい。
右人差し指をトントンとテーブルに叩きつけて、俺は自分の考えを整えるようにそのリズムに耳を傾ける。
よし。
「覚えてなくても言ったんだお前は。そしてその言葉に納得したからこそ俺もルフィーナも手を止めた。ここまでは分かるか?」
「はい、何となくですが……」
「で、この前のモルガナでは今度何て言っていたか……どれの事だか分からないだろうから俺が言ってやる。お前はこう言っていた」
一呼吸置いてから俺は、思い出したくないあの時のクリスの表情を脳裏に浮かべて台詞を口に出した。
「『やられる前にやっただけ』とな」
「っ」
「俺が何を言いたいか分かるな?」
また俯いてしまったクリスは、膝の上の拳を開いてはまた握り、強くズボンを掴んでいる。まるで自分の気を落ち着かせるように。
「分かります……でも、アイツは、セオリーは絶対に敵です。間違いありません」
「そうだな」
「先に手を出さなければ、また、あの時みたいに……っ」
掴んでいる部分のズボンの皺が深くなり、その手の力が強まっているのが目に見てとれた。
やはり原因はアレか。そう思うと申し訳なくて、なのにそれと同時に愛おしさが膨らんでくる。喜んでいいような状況じゃないのにな、それでもやっぱり嬉しいんだよその気持ち自体は。
「ありがとな」
膝の上で震えているクリスの手を取り握って、物理的に無理やり震えを止めてやった。まずは体から。
「でもお前がそれをやる必要は無いんだ」
そして、次は心も、と願って。
弱々しいながらも俺の手から逃げようとするクリスの手。でもそれは本気で振り解こうとはしてこない。
顔も、体も、本当に心に正直なのに……慣れない嘘を吐こうと必死な少女の頬は、俺が手を握った途端に真っ赤になっていて。
その気持ちを受け止めてやれば一番早いのだろう。
でもお前がそれを口に出さないように、俺も出せそうにない。婚約者が居るからではない。それを表向きの理由にして逃げているけれどそうじゃない。
まだ俺達は、これだけの歳月を重ねていてもあのたった一つの存在だけで繋がっている不安定で不確かな関係なんだ。
それはとてもとても大きくて、俺達をそれ以上にも以下にもさせてくれない。
悲しいくらいに、大きい存在。
お前の事をこんなに好きでも、まだ俺達はスタートラインにすら立てていないんだ。
彼女の存在が無くとも傍に居るのかと言ったら、多分……居ないだろうから。それほど俺達の道は、彼女無しでは繋がりそうにない、違いすぎるもの。
そんな俺達を今まで繋ぎ止めていたのも、結局は彼女が残した願いだけ。それが叶った事で急に離れてしまいそうになったのが良い例だ。
もう表情を見る必要など無い。
もう少しだけ傍に寄るように椅子をずらし、俺は俯いて目を閉じた。クリスが顔まで無理して作らないで済むように。
「先手必勝は俺の専売特許だぞ。盗るんじゃない」
「な、何ですかそれ……」
ちょっとだけクリスの声色が緩んだのが分かる。
「あとアレだ、ピンクの服を着ろ」
「ますます意味が分かりませんよ」
「俺の切実な願いなんだって、ホントに」
握っている手の指を絡めたい衝動に死に物狂いで耐えながら、冗談のような本気の言葉を発した。クリスに伝わるわけでもないこの意図を、敢えて隠してはふっと零れる笑み。
「もう……」
俯いていても俺が笑っているのは察したらしい。その呆れ顔が目に浮かぶ。
もう全く抵抗の素振りを見せないクリスの手は、ぎこちなくも握り返してくれているようだった。
「お前に手伝って欲しい事はちゃんと言うから、命令だけ素直に聞いてりゃいいんだよ」
「それってひどくないです?」
ん、ちゃんと食って掛かってきてるな。
名残惜しいが握っていた手の力を緩め、するとクリスもそれに釣られるように緩めてゆっくり離れる手。俯いていた顔を上げるとほんのり淡い紅花の色に染まった膨れっ面が見えて安心する。
「何を今更」
あぁ俺は酷い。
お前の気持ちも自分の気持ちも分かった上でこんな風に誤魔化すのだから。
全てを振り切ってお前に手を伸ばせるほど若くもないし、だからと言って突き放す事ももう出来そうに無い。放っておいたらどこに歩いていくか分からないこんな方向音痴、隣に居ないと心配で仕方がないんだよ。
開き直る俺にクリスの表情が少しだけ違う変化を見せた。
「貴方と話していると全部馬鹿らしくなっちゃいます」
溜め息まじりにそう告げる口元は普通に微笑んでいるのだけなのだが、その目元はクリスらしからぬ暖かさを感じられる。
この言い方だけだとクリスに失礼かも知れないが、コイツが人を包むような表情をするのは珍しいのだ。
その表情に、俺達の関係は今のところ『元』の立ち位置で問題なさそうだと感じられる。自分がしっかりしなければ、とクリスに思わせるようなこの立ち位置で。
きっと気持ちに気付く事で俺の態度が変わってしまったのも悪かったに違いない。
だから……昔みたいに散々俺を馬鹿にすればいい。人の気も知らないで、と心の中でなじるのも許してやろう。
お前には多分この方がよさそうだからな。下手に支えになろうとして近づけば慣れない感情に戸惑って困り果てるのが目に浮かぶ。
悩む気が起きなくなるほど馬鹿やってやれば気も紛れるさ。本当はもうそんなにお前に突っかかる気は無いんだが、もうしばらく突っ掛かるから保たせてくれ。
俺が居心地の良さを感じてしまったお前を。
「失礼だな、もっと俺の言葉を素直に有り難く受け止めろ」
「ええぇ……」
ライトが知ったら呆れるんだろうな、と思いつつ、それでも……
何を理由にせずともきちんと向き合えるその日まで。
「だから分かったな? 俺が暴走するのをお前が止めるくらいで丁度いいんだ」
「……エリオットさん」
ちょっとだけ真面目な内容なのが伝わったらしい。クリスはもう表情を隠そうとする事は無く、真剣に俺を見つめていた。
「今まで通り俺の後に着いて来いよ。今度は……置いて行かないから」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ」
その瞬間、心底から安心したような安堵の表情を浮かべ、それがそのままくしゃりと砕けた笑みに変わってゆく。
「良かったです……」
嬉しそうに、そっと一言。
これは反則だ。ここまで喜ばなくてもいいだろう、そこはむしろ気持ちを隠して欲しかったぞ。こんな顔を見てしまったら頭をぐりぐり撫でてむぎゅーっと抱き締めてやりたくなるではないか。
「……っ」
あまりの恥ずかしさに逆に俺が目を背けてしまうと、クリスも自分の言った言葉と感情が出まくっている表情に気付いたらしい。
「あ、いや! 皆の事を思うとそう決断してくれて良かったなっていう意味ですよ!?」
「あ、あぁそう……」
そんな言い訳通用すると思っているのか、あんな顔を出しておいて。そうツッコミたいのを我慢し、俺も自分の照れを誤魔化す為にそこは流す。
そこでクリスは慌てて振っていた手を、ピタッと止めて何かを思い出したように固まった。
「?」
その動作が先程までの流れと違いすぎて首を傾げてしまった俺に、申し訳無さそうな表情でクリスが言う。
「あの、私エリオットさんに言わなくちゃいけない事があります……」
「な、何だ改まって」
えっ、ここでお前の口から好きだなんて言われたら俺色々困るぞ。まだお前を受け入れられる状況は全く整っていないのだから。
でもその内容ならこんな顔はしないよな、と気持ちを切り替えて次の言葉を待った。
言い難そうに視線をキョロキョロさせて、落ち着きが無くなるクリスの指。それでもすぅ、と息を吸って彼女は話し始める。
「実は……隣の部屋にレクチェさんが居るんです」
「ほう、それで?」
「えっ、いや、だから……それだけです」
「そうか」
なるほど、だからさっきあんなに隣の部屋に行かせまいとしていたんだな。しかし、何故俺に隠そうとする必要があった?
とりあえず湧き出た疑問をそのままクリスに投げかけてみる。
「何で隠していたんだ?」
「言うと怒るかも知れませんが、リャーマでの件もあったしまたレクチェさんを責め立てるかも知れないと思って……ごめんなさい」
そう言って項垂れるクリス。
「いや、俺こそ悪かった。あの時は確かにレクチェに強く当たりすぎたしな……」
俺がそう言うと、クリスはほっと胸を撫で下ろして目を閉じた。
そうか、レクチェが隣の部屋に居るのならば色々話も聞ける。ルフィーナに続いて今度はビフレスト側の何かを聞きだせるかも知れない。あくまで、彼女が口を開けばの話だが……
状況をここまでするすると受け止めていた俺は、ふっと気付き眉を顰める。
「ん?」
「?」
俺が腑に落ちない表情をし始めて、それに気付いたクリスが不思議そうに見つめてきた。
いや、まぁ、うん。落ち着け俺。いや落ち着いていたんだがこれは落ち着いていると言うよりはどちらかと言えば驚きのあまりに脳味噌が働かなくて、驚く事が出来なかったみたいなアレだ。
『…………』
しばし二人で沈黙を続け、
「なっ、何でレクチェが隣の部屋に居るんだよ!?!?」
「驚くの遅くないですッ!?」
◇◇◇ ◇◇◇
【第三部第八章 晴れた霧 ~浮かび上がる秘色の道~ 完】






