虹の橋 ~夢の終わり~
「分かりました……」
従わないわけにはいかない。そしてその表情と声色に圧倒されて従わずにはいられない。
先程まで振るっていた赤い長剣を静かに鞘へ収め、私はレイアさんと少し目を合わせる。彼女と黒髪の男との距離は大体剣を構えて腕を伸ばすと剣先が届くくらい。しかし両手を上げていて咄嗟にあの黒髪の男に斬りかかるのは多分不可能だろう。飛び掛かるだけなら出来るかも知れないが、魔法や魔術を使う相手に何も無しにそれをするのは無謀。
レイアさんの瞳は、私に動くな、と言うように至極冷静なものだった。
私が剣を仕舞うのを確認すると、凍て付いていた黒髪の男の表情が途端に和らぎ、少し人懐っこい顔になる。そのままの雰囲気で彼はレイアさんとフォウさんに問いかけてきた。
「ところで、後ろのソイツは具合でも悪いのか?」
「……寝ちゃっただけ」
「どれだけ熟睡してるんだ……」
フォウさんの回答に口端を下げる黒髪の男。どうやら彼らもこの件については知らないらしい。弱点に成り得る部分だから、一旦仲間になっていたとはいえ隠していたのだろう。もしかして起きるかも知れない状況、と思わせておけば勝機はあるだろうか?
あまり策を練るには向いていない頭を必死に使って、必要以上に眉間に皺が寄っているのが自分でも分かる。
ふと、そんな自分にセオリーの視線が注がれているのに気付き、彼と目を合わせると釘をさすように言われた。
「何かしようなどと思わない事ですね」
「…………」
返事はしてやらず、セオリーから顔を背ける私。でないと、この男の顔を見ているだけで殺意が芽生えてくる。
しかし何故だろうか、セオリーはどうも上機嫌なようでその視線は突き刺さると言うよりは舐めるように見られているものだった。
「お前達はここで何をしていたんだ?」
黒髪の男が、腕はレイアさん達に向けて構えたままでまた問いかけてくる。
「王子が、ここにあった施設がどうやって無くなったのか調べたい、と」
「なるほど、俺達と同じってわけか……何か分かったか?」
「ほとんどは王子が調べていただけで、私達には分からない」
琥珀の瞳は闇に馴染んで涅色に深まっていた。感情を抑えているのだろう、彼女は無表情なままで男の問いかけに答え続ける。
「起こして答えさせたいところだが……起きたら起きたで面倒なんだよなコイツ」
「他を始末してから起こせば問題無いのでは?」
「そんな事したらキレて何するか分からないだろう」
さらっと極端過ぎる提案をするセオリーに、呆れ顔で窘める黒髪の男。多分この男が、ずっと姿を現さずに居たもう一人の敵。
セオリーにはエリオットさんに固執するような目的が無い以上、彼の目的にエリオットさんが必要と言う事になる。と言う事は、この男をどうにかすれば……一つの問題のカタはつくのではないだろうか。
次々と芽生えてくる負の感情と、その感情のままに動けない状況に、胸の奥で黒いものが大きくなっていくのを感じた。
「ねぇ」
そんな私を現実に引き戻すヘルデンテノールの声。
「何だ?」
フォウさんが何やら切り出そうとしているのに対し、相槌を打つ黒髪の男。
「さっさと結論が欲しい。どうすれば逃がしてくれるのかな。それとも……逃がしてくれないのかな?」
堂々と言い放つフォウさんの腕が、さり気なくぷるぷる震えている。多分……限界なのだろう。
そこには気付いていないらしい黒髪の男は、彼のその態度が勘に触ったらしく不愉快極まりないと言った風に顔を歪めて言った。
「偉そうなガキだな……いいだろう、そんなに逃がして欲しければその背中の男をこっちに寄越せば他は助けてやる」
「あ、そう」
するとフォウさんはその言葉を受けて、背負っていたエリオットさんをその場にどすんと下ろしたではないか。
『フォウさん!?』
思わず声が重なる、私とレイアさん。
本当に寄越すと思っていなかったのか、黒髪の男もセオリーも一瞬だが顔が引きつる。と言うか、私もレイアさんも引きつる。
左手で右肩を揉みつつ、私達の反応に答えるように四つ目の青年は更に言葉を続けた。
「俺の事は気にしないでいいし、王子様も心配する必要は無い。だから……二人とも好きに動いて」
エリオットさんの体はやはり相手にとって重要である、つまりは放っておいても殺される事は無い、とそういう事。
――――それを受けて先陣を切ったのはレイアさんだった。
フォウさんによって生まれた隙と彼の言葉の意味を即座に捉えて、彼女は目にも留まらぬ速さで腰の剣を抜き振るう。
初撃は辛うじて避ける黒髪の男。無論即座に魔法か魔術を使おうとして腕を動かした彼だったが、その腕をレイアさんは間髪入れずに銀色に光る刃で躊躇う事無く突いた。
「!」
武器を隠し持っているようには見えない黒スーツの男の腕に、剣による切り込みが出来、そしてそこから溢れ滴る血。
……そこまでは視界に入れたが、私自身も相手をすべき敵が居てレイアさんを見ている場合ではない。
彼女を追うようにセオリーと対峙したもののこちらは既に隙は無くなっており、短剣による二刀流の構えでじり、と間合いを……離された。
距離が離れたと言う事は魔法か魔術が来る。私も魔法は使えるが、セオリーと撃ち合えるほどの力は無い。
ならば、出るかは分からないがコレに賭けるしか無かった。
「レヴァ!!」
剣を持ったセオリーの右腕が振るわれると同時に放たれる、様々な魔法の矢。喚び声に反応して私の目の前に現れた炎のような深緋の髪を靡かせた精霊は、それらの矢を片腕だけで触れては全て焼失させていく。その様はとても美しく、戦闘中でなければ見惚れてしまうくらい幻想的なものだった。
悪魔のように黒い角と黒い翼を持つレヴァだが長く赤い髪がそれらをむしろ引き立てており、舞うように振るわれた腕の先で白く輝くように魔法の矢が燃えていくのだから、大抵は目を奪われるのではないだろうか。
そんなレヴァを見た途端にセオリーの目が少し細まり、何となくまたどこかへ飛ばされるような気がした私は彼の反応をそれ以上見ずに右足を踏み込んだ。
続いて、詰まった距離に飛び退くセオリーへ追い討ちの如く横一線に剣を振る。
しかし彼はナイフだけで私の剣刃を綺麗に流して薄く笑い、
「精霊が居ても、その腕では私に勝つのは無理そうですね」
この最中でわざわざ言ってこなくてもいいものを、私の怒りを誘うように彼は言葉を置いていく。
そこへ先程喚び出したレヴァが爪を立てながら駆け寄ってきてセオリーの胸部の半甲冑に大きく振り被って四本の焼き傷をつけたが、爪は甲冑にかすっただけのようでセオリー自身に怪我を受けた様子は見られず、
「カチンときたのでちょっと手伝ってみましたが……避けられました」
感情の篭もってない声でレヴァが言って足を止める。
「いや、もう少し手伝ってくださると嬉しいんですけど」
ニールとは違い、あまり持ち主を助けるだとかそういう気があるように見えないレヴァは正直扱い難い。
組むに組めていないコンビネーションでは結局私が一人で動いているのと変わらないようだった。
「精霊を使いこなせないのであれば、ヒトであるクラッサと変わらないではありませんか」
嘲笑うセオリーの言葉は私にとってかなり屈辱的な内容で、レヴァが私を認めていないと言う現実を改めて認識させられてしまう。以前レヴァから遠回しに言われた姉や両親との差を、私はちっとも縮められていないのだろう。
そんな私の反応に一瞬だけ気を向けていたセオリーが、また無駄の無い動きでナイフを私に振るってきた。短い得物にも関わらずうまく腕を伸ばし突いてきたかと思うと、今度はその腕が肘を急に曲げてきて私を戸惑わせる。
「くっ……!」
まるで蛇のように動くその腕は、長身から来るリーチもあってナイフと言う短さを物ともせずに滑らかに乱れ舞っていた。
しかも彼はナイフが主要武器ではあるものの、
「やはりサラの末裔は武器に溺れますねぇ」
そう言って、使っていなかった左手のナイフを口にくわえ、その空いた手で魔法の矢を放ってくる。今度は一度に三本。
その氷の矢による追撃を剣で受け止めているところにまた右手のナイフで攻め立ててきた。
キリが無い攻防に焦れったくなったのか、使いこなせていない持ち主である私に、少し離れた位置で実体化して立っていたレヴァが呆れ顔で言う。
「……戻ります」
深緋の精霊の発言にセオリーが僅かに眉をひそめた。精霊がまた武器に戻っては、ナイフの刃が耐えられる回数が間違いなく減るからだと思う。
彼はくわえていたナイフをまた左手に持ち、再度二刀流の構えになったかと思うと私の間合いに勢い良く飛び込んできた。
これで終わらせる気だ。その気迫に私はそう感じる。
右のナイフをこちらの剣の手元にあて、その部分を軸にして左のナイフで捻るように私の手から剣を無理矢理引き剥がしたセオリー。
レヴァが剣に戻った瞬間に私の手から精霊武器が離れ、
「終わりです」
カランと地面に転がり落ちる赤い剣。
以前エリオットさんが言っていたように、二対一なら勝てても二対二では多少の人員が入れ替わったところで無理だった。
「……っ」
ぎり、と歯を食い縛り今の現状を見つめる私。
セオリーはレヴァを拾わせてくれそうな隙など見せるわけがなく、諦めて横を見ると……そこには異様な光景が広がっていた。
全身、何の防御もせずにいたかのように傷だらけの黒髪の男。だがしかし彼は痛みに顔を顰める事無く立っていて、横たわっているレイアさんを見下ろしている。
特に男の両腕の袖はまるでレイアさんの剣の大半をそこで全て受け止めたかのようにぼろぼろ。脇に下ろされているその腕からは止まる事無く滴り落ちている血の雫。
レイアさんの傷はあちこちから血を流しているが、男の怪我に比べればどれも怪我のサイズが小さい。にも関わらず、レイアさんはまるで何かに拘束されているような体勢で四肢を地べたにつけたまま男を下から睨み上げていた。
「剣の腕はいいが、俺の戦闘スタイルとは相性が悪すぎたな。セオリー相手なら仕留める事は出来ずとも、やられる事も無かっただろうと思うぞ」
「それで褒めているつもりか……っ!」
楯突くように呻きながらレイアさんが腕を動かそうとするが、やはり見えない何かで拘束されているのか服を引っ張る程度でそれ以上上がらない彼女の腕。
暗がりの中、少し離れた街から明かりで見える男の頬には先ほどまでは無かったはずの魔術紋様が多分血か何かで塗り描かれており、腕から滴り落ちる血がまるで鉛のように地面に沈んでいるのを確認して、私はようやく把握する。
魔術だ。
剣と魔法がメインのセオリーとは違い、この男は道具無しの魔術一本で戦っていたのだ。
しかし腕の傷は相当深いように見受けられるのに、黒髪の男はそれを全く意に介さない様子で平然とした顔を見せている。
一瞬セオリーのように人形なのかとも思ったが、あれだけ血が出ているのだから人形では無い気がした。
「勝てる相手だからと言って遊び過ぎだろう」
「すみません」
黒髪の男はセオリーにそう言ってから今度は、地面に横たわったままのエリオットさんとその側で寄り添うように膝を突いているフォウさんに目を向けて言う。
「てっきり途中で横やりが入ると思っていたんだが……往生際がいいな、ルドラのガキ」
「無謀な事はしない主義なんだよ」
「いい心がけだ」
フォウさんの言葉にフッと険がとれる漆黒の瞳。そんな彼らのやり取りに目を奪われていたところでぴたりと首筋に冷たいものが当たり、私はふと意識を自分自身に戻した。
私がまた動き出したりしないように、とセオリーが首にナイフを突きつけてきたのである。
「さてフィクサー。どうしますか?」
そう問いかけるセオリーの顔は愉快そうに口の端を歪めていた。こちらが不愉快になるくらいの表情に、性根から腐りねじ曲がっているのではないか、と私は内心で毒づきつつ彼のその顔を一瞥した後、フィクサーと呼ばれた黒髪の男をまた見る。
彼は血まみれの手でその黒髪をかきあげ濡らしながら言った。
「何でか知らないがそこのバカは起きそうな気配が全然無いし、今のうちに一人くらい人質に頂いておけばやりやすいんじゃないか?」
「どれにしましょうかね」
「事前に伝えていた事だ、その小娘でいいだろう。精霊武器も回収出来るし一石二鳥だな」
フィクサーの発言にセオリーが笑うような吐息を洩らす。
「では、他は見せしめに殺しても構いませんね?」
「……無駄に手をかける必要は無いと思うが」
「いいえ、従わなければ本当に手を下すのだ、と分からせてやる必要があると思います。貴方が何かと甘いからこそ、そこの王子が付け上がるのですよ」
何やら意見の相違が見え始める二人の会話の最中に、私とフォウさんの目が合った。
彼はこっそりと唇を動かしているのだが……それを読む事ができない私は、分かりません! と念じて伝えようとしてみる。
見える彼にはどうにか私の思いが伝わったようで諦めたように私から視線を外し、揉め始めている彼らの会話を遮って口を開いた。
「見せしめに殺すなら、一人で良くない?」
それは一つの提案。
「何ですか、まさか自分は見逃してくれとでも言うつもりですか」
セオリーが問いかけると、青褐色の瞳が真っ直ぐに彼を見た。
「うん。俺を殺したところで王子様は悲しまないし、意味無いよ。だったら俺は助けて欲しいな、と」
先程彼の何かを伝えようとする仕草を確認していなければ驚いてしまう台詞に、地面に張り付けられているレイアさんの首が、動けるぎりぎりまで動かされフォウさんを見ている。
だがその瞳は自分が見捨てられた悲しみに染まっているわけではなく、彼の意図を読み取ろうとする真剣な眼差しをしていた。
「理にかなっているし、その自分だけ助かろうと言う姿勢は悪くないのですが……」
「何か意図がありそうなんだよな、コイツの余裕を見ていると」
渋い顔をしているセオリーに続いてフィクサーがその反応の理由を述べる。
フォウさんの考えを察する事が出来たなら……と悔しさに私は唇を噛み締めた。
青褐の髪がこの暗さではほとんど黒色に見えるフォウさんは、彼らの視線を受けながら困ったように眉をしかめて両手のひらを腰の位置で返したかと思うと、
「色々見えてると予想外ってのがあまり無いからこうなっちゃうだけだよ。俺の予想外って言ったらクリスのトンデモ発言くらいだもの」
「ちょ、フォウさん……」
突っ込まずにはいられない発言をしてくれる。
フォウさんの発言を受けてフィクサーは自分の足元に居る鳥人をその漆黒の瞳でじっと見下ろしていた。が、それもすぐに終わる。
「まぁいい。こっちが終わってからお前の挙動次第でどうするか考えてやる」
彼は渋々ながらスーツの袖を捲り、未だに血があふれでている腕をレイアさんの上に持っていった。
「ぐっ……!」
滴る血が体の上に垂れるたびに彼女はその顔を苦痛に歪めていて、その血が何かの作用をしている事が見ていて何となくわかる。
ここでセオリーならばそれを嬉しそうに眺めるのであろうが、黒髪の男はそういう趣味は持ち合わせていないようでちっとも楽しくなさそうだった。
「交代して頂ければ私が手を下しますよ?」
「いいからお前はソイツを連れて行け。後はやっておく」
そこで私の首に当てられていたナイフが薄皮一枚を切ってくる。まるでフィクサーの言葉に反論をしたいかのように、セオリーはその鬱憤を私の体で晴らしていた。
このままでは本当にレイアさんが殺されてしまうかも知れないと言うのに、フォウさんは何を考えているのだろうか。
こんな危機的状況にも関わらずやはり彼はその表情を崩していない。側に居るエリオットさんをちらりと横目で見ては、またレイアさんに三つの瞳を向けている。
そして、
「見た事無い魔術だね。自分の血を武器にしてるの?」
フォウさんの言葉にフィクサーの手がぴたりと止まった。返答するかしないか考えているようだったが、彼は半眼になりながらも口を開く。
「見ての通りだ。今の俺の血は相手に触れればその時点で金属よりも硬い杭となる。お前にも振りかけてやろうか?」
若干皮肉を込めた言い方ではあったがご丁寧にも説明してくれる、一応、敵。
説明が終わってまた腕の動きが再開させられると、その腕はだんだんレイアさんの体の中心部へと伸びていく。血が杭へと変化するのならば、あの血が垂れるたびにその部分に杭が刺さっている事になる。かなりの苦痛を与えられているにも関わらず、表情は歪めても情け無い悲鳴などはあげたりしない彼女。
ただ、
「んぅ……」
歯を食い縛っていようともどうしても僅かに洩れてしまう声と、血の杭が刺さる度にびくりと動く体が、その痛みを物語っていた。
「こちらが攻撃した時にかかる返り血がもう攻撃材料となる、か。随分悪趣味な魔術だね。でも自分が傷つかないと使えないって制限は不便じゃない?」
「……俺にとってそこは問題にならない」
また声をかけるフォウさんに、渋りつつもやはり答えるフィクサー。
確かにその大怪我を気にしている様子が一切無い事からも、まだ何か隠している能力があると考えた方がよさそうだ。
先程からフォウさんが話しかけるたびに攻撃の手がきちんと止められていて、何か変だなぁと見ていると、ふと気づけば私と同じようにフィクサーを見ているセオリー。
「あれでは手を下す気が無いように見えませんか?」
あちらには聞こえないくらいの小さな声で、私に呟いてきた。
勿論私がこの男に返事などするわけが無い。黙って聞いていると私の首に押し付けていたナイフが少し浮いてまた押し付けられてするりと滑る。
どうやら人の首に小さな切り傷をつけて遊んでいるらしく、その趣味の悪さに吐き気しか出てこなかった。
「貴方を連れて私が去れば、二人とも解放してしまうのが目に見えています。彼は内心あのルドラの青年に話しかけられてホッとしていると思いますよ」
それを聞いた私に一体どんな返事を求めているのだろう。流石に怪訝な目で彼を見上げてしまい、ようやく得られた私の反応にセオリーはその赤い瞳を細める。
「貴女はフィクサーよりも素質がある」
「…………」
ルフィーナさんよりもずっと低いにも関わらずどこか似ているハスキーな声が私のすぐ傍で響いた。
何の、だなんて聞いてやらない。本当はすごく聞きたいけれど、また嬉しい顔をされたら堪ったものじゃないからだ。
しかしそこで、つぷ、とナイフの横刃ではなく先端がほんのちょっとだけ首に刺され、私に反応しろと無言で要求するセオリー。
「痛いし、痒いです」
「おや、失礼。顔色を変えないので痛みを感じていないとばかり」
仕方なく反応してやるとやっぱりこの男は喜んでいるようだった。
イライラして自然と出てしまった舌打ちに、自分でちょっと驚く。今の私はどれだけ悪い顔をしているのだろう。顔の筋肉が張った感覚がさっきから治まらない。
私の舌打ちを聞いたセオリーはそれまでもが楽しいのか、にやりと笑っては私に問いかけてきた。
「私が嫌いですか?」
問いかけられるだけで喉の下のあたりが詰まるような感覚が襲ってくる。荒野を吹き抜ける夜風が首の血を表面だけ乾かさせ、嫌な気分を増長させていた。
「当たり前です」
「奇遇ですね、私も貴女が嫌いです」
何て滑稽で当たり前の会話をさせられているのだろう。ムカムカしてきて、ナイフを突きつけられていなければすぐにでも殴りかかりたいくらいに気分が淀んでいるのがわかる。
私を散々不快にさせながら、横に大きい唇を薄く開けてセオリーは言った。
「以前からずっと、貴女の偽善面が気に入りませんでした。正しい事を押し通し、押し付ける。実に浅い」
「だから何なんです」
「何でも綺麗事だけでは収まらないのですよ」
そんな事知っている。でも私は、だからと言ってそれらを諦めてしまえるほど達観などできないのだ。
「……そうかも知れませんね」
言いたい事はあるが、セオリーとそんな問答をするつもりの無い私は取り敢えず肯定しておく。
すると、話はよく分からない流れに飛んだ。
「フィクサーはそれを分かっていますし、自分の為に他人を踏みにじる事を否定したりはしない。ですがやはり必要に駆られないと非情になりきれないのです。あの通り、ね」
そう言って、フォウさんと何やら喋っては完全に攻撃の手を緩めている自分の仲間を睨み付ける。その赤く細い瞳は何と例えようもない様々な感情が入り交じったものだった。
会話からは友達のような印象を受けたこの二人だが、セオリーの視線は友達や仲間を見るそれとはちょっと違う。
エリオットさんの首を斬りつけた時に言っていたように、フィクサーの目的が達成出来なくとも構わない、など何処か歪んでいる関係なのは分かるが、だとしたら何故セオリーはこの場でこうしているのだろう?
あたりに血の臭いが充満してきて滅入ってしまいそうな月の無い夜。
さっき以上に理解に苦しむ言葉が私の耳の奥にぬるりと入り込んできた。
「ですが……貴女はなれますよ、きっと」
またあの舐めるような視線を向けられて、心の奥底から気持ち悪いと思う。
だが、いやらしいにはいやらしいのだがエリオットさんが女性を見る時みたいなものとは全く違う何か別のものがあるのだ。だからこそ、尚更不快にさせられる。
気持ちが顔に出てしまっているであろう私に掛けられるもう一声。
「あんな目で私を斬り刻めるのなら、ね」
「そ、それは……」
大きく心を揺さぶられた気がした。確かにこの男に対してなら私はどんな酷い事でも出来てしまうだろう。薄々気づいていた自分の心境の変化を、変化させた当人が嬉しそうに指摘する。
それをセオリーは素質と呼び、まるで誉めているよう。
何が言いたい?
何がしたい?
この男が理解出来なくて気持ち悪い。さっきから首をなぞるナイフの感触がわからなくなるくらい頭がくらくらしてきて、皆の声が遠くなってくる。
そこで、ずっと聞き流していたフィクサーとフォウさんの会話のトーンが変わり、辛うじて意識が元に戻された。
「こんな時だってのによく喋る口だな。時間稼ぎでもし……」
呆れながらそこまで言ったところでフィクサーの顔色が青褪める。瞬時に彼はセオリーに振り向いて、
「おい! 何遊んでるんだよ!! 早くその娘を連れて戻れ!! 俺は、」
だが、全てを言い切る前に事態は動く。
「いい加減にしろっての!!!!」
何かに焦るフィクサーの叫びを遮った、更に大きな声。
誰が誰に言ったのか一瞬わからなくなるくらい突拍子も無く耳に届いた罵声は、フォウさんの隣から聞こえてきていた。
この時間に起きるはずの無いその人が……上半身を起こしている。
「エリオットさん……?」
いつも何をどうしても起きない彼は、多分寝言と思われる叫び声と共に目覚めたのだ。
と、
「くはっ」
突如体に衝撃が加わり、私は思わず呻いてしまう。
セオリーが私の体を押し倒して地べたに顔をつけさせ、腹の上に馬乗りになってきたのだった。突きつけられたナイフはそのままに、彼は先程よりも本気度の増した体勢で私を押さえ込んでくる。
「遊んでいる場合でもなければ、躊躇っている場合でも無かったと言う事ですね」
薄い白緑の髪が私の上で風に吹き上げられ、彼の眼鏡の下の赤い瞳は私に真っ直ぐ見下ろされていた。
急に起きたエリオットさんよりも私の方がセオリーにとっては興味があるように見える態度。
フィクサーは一旦レイアさんやフォウさんを置いてエリオットさんに自身の血を用いて攻撃を仕掛けたが、飛んだ血はエリオットさんの手から溢れた光によって釘ではなく赤い血から透明な水滴へと変化させられ、苦い顔をする。
「いつまでも起こそうとしないから起こせない理由があると思ってたんだが……違ったのか」
フィクサーの低くくぐもった呟きに、フォウさんがにこやかに返答した。
「いや、俺もよく知らないし、単にそのうち起きる方に賭けてただけさ。おはよう、王子様」
「…………」
起きたエリオットさんはと言うとまだちょっと事態が飲み込めていないらしく、声をかけられたにも関わらず動こうとしなかった。
「王子様、これ夢じゃないからね」
「マジか」
彼の心中を察して付け加えたフォウさんに返事をしたエリオットさんは、すぐに立ち上がったかと思うとまずフィクサーに向き直って詰め寄って行く。
「これはどういう事だ」
「申し訳御座いません、王子……」
傷だらけで手足に杭を打ち込まれているのに第一声は詫びの言葉。
そんなレイアさんをちらりと見てから、その形相は更に険しいものとなっていた。
「先に言っておくがこちらは仕掛けるつもりは無かった。喧嘩を売ってきたのはそっちの小娘からだ」
「……クリスから?」
寝起きで若干ぼやっとしている翡翠の瞳が私に向けられた。
何でそんな目で見られないといけないのだろう。エリオットさんは『本当にそんな事をしたのか』とでも言いたげに驚いているようだった。
「やられる前にやっただけですよ」
彼は私が答えるのを待っているようだったので、素直に行動理由を伝える。
するとエリオットさんは更に目を丸くして、その後すぐにその瞳は悲しげに細められた。
「……クリス?」
「?」
何で問いかけるように名前を呼ばれたのか分からず、エリオットさんに疑問の表情を向ける。
「やはり、フィクサーよりも貴女の方が早そうですね」
私にだけ聞こえるくらいの小さな声でセオリーが喋った。
「何が……」
さっきから意味不明な事ばかり言われていていい加減にして欲しくなり突っかかろうとしたのだが、次にセオリーは私と会話するのではなくエリオットさんに向けて大きめの声で言う。
「以前貴方の首を切った時同様に、私は躊躇いませんよ」
その台詞に顔が強張るエリオットさん。セオリーが動いた事でフィクサーがほっとした様子を見せており、彼は二人のその会話に気を払いつつも少しずつ地面に血で陣を描いているようだった。
「……俺がそっちに戻ればいいのか?」
要求されるであろう事を先に述べるエリオットさんに、セオリーがフィクサーをちらりと見て合図する。
あちらに聞け、と言う事なのだろう。それに促されてサングラスを外したエリオットさんが、夜に馴染んで分かりにくい黒ずくめの男を見つめた。
「まぁ待て」
そう呟いて陣を描き終えたフィクサーがその中心に立つと、円形の魔術紋様が暗闇の中で薄らと光を放ち彼の傷を癒していく。その陣は一人分には少し大きく、範囲に入っていたレイアさんをも包み込んでいた。
あまり詳しくない私が見ていても分かるくらい、その治療魔術は完璧なもの。同じ陣を他人に使わせてもこうはいかないだろう。どこまでの理解をすればここまでの完成度になるのか、とセオリーに乗りかかられたまま私はぼんやりと考えていた。
治療を終えて、刻まれたスーツ以外は元に戻るフィクサー。何となくそんな気はしていたが、レイアさんの傷も最低限の拘束部分以外治されている。
「……状況は変わっている。お前が素直にこちらと再度手を組む気があるのなら、今度は城に残ったままで居てくれる方が都合がいい」
傷は治ったものの血塗れな事には変わらないフィクサーが回復した腕の血を、レイアさんでは無い側に振るって落としながら言った。
フィクサーのとった行動に多分エリオットさんの棘が少し落ちている、と感じる次の台詞。
「あの子供のビフレストか」
言葉自体はいつも通りでも、言葉のトーンが先程よりも柔らかい。
「半分正解ってところだな。ビフレストが二人とも城についているから探って欲しい」
「な……どういう事だよそれ」
二人?
エリオットさんと同じようにフィクサーの言った事が一瞬よく分からなかったが、すぐに把握出来て心がざわついてきた。
そこへ首にずっと当てられていたナイフがぺたぺたと軽く張り付くように叩きつけられる。
「残念でしたねぇ、折角ルフィーナ嬢の願いを受けてそっとしておいたものを……」
私の予想を言葉で改めて示すセオリーの唇が軽やかに紡がれた。
「セオリーの言う通り、お前達には俺達以上に残念な話だろうな。ビフレストどもが城の人間を使って何かを狙っている。お前……仮にも王子なら何とかしろよ」
悪態を吐くフィクサーにエリオットさんの表情がムッとしながらも少しだけ緩んでいるような気がした。
セオリーだけならばこんな流れにはならなかったはずだと思う。以前からずっと不思議だった、何故彼がこんな連中と仮にとはいえ手を組む気になったのか……
それは多分このフィクサーと呼ばれている男の存在のせいだ。敵には違いないがその割にはどうも憎み辛い。その上、隠しきれていない、その内にある情。
私だって『そんなに悪い奴じゃない』とあれだけ散々迷惑を被ってきたにも関わらず錯覚を覚えてしまいそうになるのだ。同じ目的があるエリオットさんならば尚更そうもなる事だろう。
何となく、このままではまた彼はこいつら側に染まってしまう……そんな予感がして私は不安を覚える。
どうしたらいいのか、どうすればいいのか。
私に力があれば、彼に仲間になるだなんて選択をさせずに済んだのか?
彼の代わりに、彼を玩ぶ連中全てに仕返しをしてやれるのか?
「私が……」
自分の指が切れるだなんてその瞬間は考えていなかった。気付いたら私は首に当てられていたナイフを素手で掴んでおり、切れた指から流れた赤い血で自分の首を更に染める。
この時セオリーがナイフを引くだけでこの指は取れていただろう。だが彼はそうしようとはせず、かと言って私の指をナイフから外させようともしなかった。
私に好きなようにさせて、溢れる血をただ上から眺める紅い瞳。
「もっと強くなる事ですね」
私の考えをどこまで読んでいたのか、また小さな声で私に告げるセオリー。
「言われなくとも……っ」
これは何の感情だろうか、腹の底で渦巻くそれは頭の奥が痺れるまで息をするのを忘れさせるくらい、強いものだった。
元々灯っていた火が炎となって埋め尽くしていくその感覚に身を任せようとしていたその時、
「そのあたりは後でやってくれないかな」
フォウさんが今度はレイアさんに寄り添った状態で言い放った。
「またか、ルドラのガキ……」
会話をぶった斬られたフィクサーがいい加減にうんざりした目で彼を見やる。
突き刺さる視線の中、それでもフォウさんはその視線に負けじと言葉を紡いだ。
「手の平や足先以外の部分を治してくれたのはいいけど、これ以上放っておいたら痕に残っちゃうよ」
レイアさんを見ながら彼女を労るように杭で刺されたままの部分の血を拭って、
「それと、レイアさんだけじゃなくてクリスもさっきから傷を増やされてるからね」
気付いていたのか。私の状況までも把握していた彼はそれをエリオットさん達にさらりと告げてくれる。
『!!』
エリオットさんが驚いてこちらを見る……までは分かるのだが、フィクサーまでもがエリオットさんと同じような顔をして見てくるのはどうかと思う。
憎めないだけじゃない、何となく似ているのだこの二人は。酷い事を出来るくせに、それらを徹底出来るほど冷たくも無い。
「バラさないで頂けますか、ルドラの青年」
「バラすバラさないじゃなくてだな、人質に勝手に手ぇ出してるんじゃないッッ」
悪びれる事の無いセオリーに、フィクサーが眉を寄せて勢いよく突っ込んだ。
「大体何なんだ、さっさと連れて行けって言ってたのにいつまでもここに残って……やってる事はタチの悪い悪戯か?」
私の方に近寄ろうとしたエリオットさんを遮ってそれよりも前に進み出てきた彼は、自分の仲間に対してこんこんと責め立てていく。
だがエリオットさんに背中を向けこちらに見せている表情は、セオリーを責めていると言うよりも……
「話はまとめておくから、一旦戻っていろ」
「……分かりました」
気遣うものなのだ。
彼の背後に見えるエリオットさんは鋭い視線をセオリーに浴びせていて、多分フィクサーが割って入らなければ揉めていた気がする。
それを危惧してなのだろう、余計な争いを避けるように促してフィクサーはセオリーから私を受け取ると、エリオットさんに向き直りわざわざ悪そうな顔を作って笑った。
「さて、話を戻そうか?」
「フォウも言ってたがこっちは急ぎたいんだ、さっさと要点だけ言えよ」
私の首に手を掛けながら紡がれた言葉に、口早に答えるエリオットさん。
「……じゃあ待ってやるからその家来をさっさと治してやれ。お前ならその杭も壊せるだろう」
話を急かされるくらいなら、と先にレイアさんの解放を勧めたフィクサーと私の後ろで溜め息が聞こえた。セオリーだろう。その直後にセオリーの気配が消え、彼がようやくこの場を後にしたのを肌で感じる。
脅されているような状況は変わらないが、奥底で疼くようだった気持ちがちょっとだけ軽くなって自然と出た安堵の表情。
エリオットさんがレイアさんの元で治療の続きをしている間待っている状態なのだが、そこでフィクサーが私に顔を近づけてきて耳打ちするように問いかけてきた。
「セオリーに何を言われていたんだ?」
「え? ……理解出来ない事ばかりだったので、答えられるほど覚えていません」
「三十分も経ってないだろう、思い出せ」
あの男の事など考えるだけで不快になると言うのに、それを要求されて渋々と記憶を辿る。
「……最初の方に言われたのはもう思い出せませんが後半は、もっと強くなれとか、私の方が早いとか言われました」
「……何が?」
「私が聞きたいです」
締まりの無い緩い相槌を打たれて、私の気もつられるように緩んでしまうのが自分自身で分かった。考えようによってはセオリーよりもこの男の方がエリオットさんに影響を及ぼす存在だと言うのに、敵としての認識をなかなかさせてくれない。今だって見た目的には首を掴まれている状態なのだが、その手の力はほとんど入ってないと言ってもいいくらい弱いのである。
彼は既に去った仲間の事を考えているのか、その漆黒の瞳は目の前の光景を映していないようだった。
そこでようやく治療が終わったらしく、四つん這いになっていたレイアさんの体が起こされる。
「ありがとう、ございます……」
そう言ったレイアさんの表情はとても悔しそうで。彼女の立場を考えれば無理も無いのかも知れない。
目の前に差し出されたエリオットさんの手に一瞬躊躇った彼女だったが、すぐにその手を取って立ち上がる。
「簡単に勝てる相手ならここまでゴタゴタしてないんだよ。気にすんな」
「王子、それはあまり……フォロー出来ていません」
そんなやり取りをしている二人がこちらに視線を向けてきた事で、私達側の会話は中断された。
「終わったか?」
「あぁ。えらく変な戦闘スタイルなんだなお前」
返事をしないような流れの言葉では無かったと思うが、フィクサーはそこで答えようとせずに口を噤む。
それによって作り出された静寂。エリオットさんはそのフィクサーの反応に怪訝な顔をして一瞬止まったものの、すぐにまた元の表情に戻してその部分を掘り下げてきた。
「面白いけれどこれはどちらかと言えばメインにするような魔術じゃないと思うんだが……」
「弱いものいじめをする気は無いから手を抜いてやっただけだ」
話の途中で強く遮り、有無を言わさずエリオットさんの問いかけを止めるフィクサー。その言葉通りの意味では無い何かがあるのだと感じるが、さっきまでのフォウさんとの会話みたいに喋る気は無いらしい。
血がこびり付いて固まっている前髪をくしゃりと解すと、フィクサーは話を元に戻す。
「先ず、お前がここで得た情報を寄越せ」
「……大した情報は持って無いぞ? 通常の魔術紋様ではなく建物の形を使った魔術だ、と言うくらいしか分からなかった」
「何故この現状からそれが分かった?」
「フォウが……そこの三つ目の小僧が、発動時の線をまだ見えているらしい」
「なるほど」
こだわりがあるのか『三つじゃない……』とぼそぼそ呟いているフォウさんだったが、そこは空気を読む彼。無理に口を挟もうとはせずに横を向いて地面を見ていた。その肩にはさり気なく白いねずみも見え、あぁあの精霊め安全なところに退避しているな、と把握する私。
フィクサーはふむ、と私の首に手は添えたまま、
「その情報さえ貰えれば次の対策が練る事が出来そうだ」
「何だと?」
エリオットさんがそれだけでは足りない、と言っていた情報なのに、彼はそれで足りているような言い草。
勿論その理由を知りたいのだろう、エリオットさんは一歩足を踏み込み態度と視線で問いかけてくる。けれどもそれにも答えようとはしないフィクサーが、
「急いで発動ポイントを予測しないといけなくなったから一旦この場は引いてやる。サービスだ、この子供も返してやるよ」
ぽん、と私をエリオットさんの方へ押しやった。
「お前は後で何とでも出来るからな。とりあえずはビフレストどもの対処が先決だ」
「後で何とでも出来る、とは随分甘く見られたもんだな」
私の肩を掴んだ状態でエリオットさんが乾いた声を放つ。
「そんな事無いぞ。お前はお前で面倒だから……いや、まぁ甘く見ていると思って貰っていい」
不敵に笑う、黒髪の男。
だんだん街の明かりが小さくなってきて、今や彼を見るには目を凝らさなければいけないくらい、闇に融けるその姿。
「元々お前を狙ってここにきたわけじゃないんだ。起きたお前と無理して喧嘩しても面倒なのさ」
そう言ってフィクサーは一歩後ろに下がる。シャリ、と先日までは大きな建物が乗っていたはずのその土を鳴らし、彼の両腕が上げられ、
「じゃあな、エリオット・エルヴァン」
くるりと腕を回したかと思うとその姿は青い光に包まれて消えていった。
「……っ」
フィクサーの言っていた事が本心ならば、私が何も考えずに飛び込んだりしなければ彼らと戦闘になる事は無かったのかも知れない。そう思うと自分自身が腹立たしくて唇を噛みしめてしまう。
あの時エリオットさんが起きてくれなければどうなっていた事か……もうほとんど、レクチェさんと同じような力を得ている気がするエリオットさんを、あいつらも随分警戒していたようだった。
そんな事を思いながらちょっと首を傾けて見上げると、私を見下ろしていたエリオットさんと目が合って、
「わ」
びっくりする。
「何で人と目を合わせるなり驚くんだよ」
「すっ、すいません」
さっきまでの顔を見られていたのかと思うと気まずくなって彼からすぐに顔を背けると、その先では今度フォウさんと目が合ってしまった。
彼は喋ろうとはせずにジェスチャーだけでちょん、と自分の首の右側を指で指し示し、その仕草に釣られるように私は自分の首に手を当てる。
「……そっか」
ナイフの刃を握ってしまった指と、何度も軽く斬りつけられていた首からは、随分と赤い血が出ていたようだ。
もうだらだらと流れているわけではないが、擦ると伸びるその赤が、まだ血が乾ききっていない事を伝えている。
特に首の傷は痛いというよりはむずむずし、その存在を思い出した途端に気分が悪くなってきて、
「痒いです……」
「我慢しろっ」
首の傷を掻こうとした私の手を、エリオットさんがしっかりと止めた。
それから私達は一旦宿に泊まって状況整理をする事になる。何故なら、ほとんど寝ていたエリオットさんが『説明しろ!』と要求してきたからだ。
モルガナは大きい街なので宿はいくつもあり、最初は上等な宿に泊まろうとしたのだが、
「……この姿で上等な宿に入るのは、まずくありませんか」
レイアさんのその言葉により、無難なところに二人部屋を二つ取った。
男二人女二人のメンバーで、女二人が怪我をして服を血で汚している状況は流石に目立つ。そして、目立つと色々困る私達。
と言うわけで、
「いい部屋に泊まってみたかったです」
レイアさんに包帯を巻いて貰いながら正直な意見を述べてみると、彼女は手際良く包帯を縛り終えてから私の顔を覗き込んで優しく笑ってくれた。
「多分お城の客室の方が良い部屋だと思うから、落ち着いたら遊びに来ればいい」
「そっか! それもそうですね」
しかし、昔お城で部屋を借りた時は逆に居心地が悪かった覚えがある。あそこまで綺麗だと、傷つけたり汚してしまうたびに寿命が縮む思いをさせられるからだ。
それだけ言ってからレイアさんは軽鎧を慣れた手つきで外していき、さっくり衣類だけになると浴室へ歩いて行った。まずは血を流さなくては堂々と宿内を歩く事も出来ないからだろう。
こうして見ると衣服からだけでも相当痛かっただろうと思えるくらい、彼女の服は穴だらけである。血の杭と言う不思議な魔術もそうだが、フィクサーはあれだけ斬られていても眉一つ動かさずに居た。
「何でだろう……」
返り血で攻撃されようとも、こちらの攻撃が通じていれば相手の動きを鈍らせ、勝機が見えてくると思う。でもあの男は違ったのだ。セオリーも人形を使ってくるだけあって、こちらの攻撃がその後の動きに影響してくれなくて面倒だなと思っていたが、それがもう一人……
ベッドに転がりながらうんうん唸って考えていると、湯浴みを終えたレイアさんが戻ってきた。部屋に備え付けられていた薄い寝巻き姿で彼女は、
「明日、何か代わりの服を買って来て貰わないと……もうあの服は使えそうになかった」
下ろした髪をタオルで拭きながら困り顔。
「エリオットさんのお金で私が選びましょう!!」
「……ま、まともなのを頼むよ」
そんな会話をしながらエリオットさん達と合流するべく部屋を出て、すぐ隣の一室のドアを開ける。
開いた先には私達がさっきまで居た部屋とほぼ大差ない造りの、木目が綺麗な室内。そこでエリオットさんとフォウさんは、何故か取っ組み合っていた。
「そういうのがダメだって何で分からないかな!!」
「知るか! 俺はやりたいようにやってるだけだ!!」
ぐぎぎぎぎと両手を組み合わせて睨みながら、お互いに何やら叫んでいる。
「な、何やってるんですか二人とも?」
『喧嘩!!』
と、二人同時に返事をしたところでエリオットさんが掴んでいた両手を引き寄せて、それによってバランスを崩したフォウさんの両手をクロスさせ捻じるように動かし、
「いぃだだだだ!」
掴み合っていた両手が痛みで離れたところを一本背負い。
木の床に思いっきり背中を叩きつけられて悶え転げ回っているフォウさんに、結っていた緑髪が少し解れている彼が偉そうに言い放った。
「力こそが全て!!」
「そんなわけがありますか!!」
スコン、とレイアさんがエリオットさんの頭を叩いたところでようやくこちらを見てくれた二人。
フォウさんは随分疲れた顔をして、床に大の字で転がったまま首だけこちらに向けると、
「っ!」
私の隣に釘付けになったその視線。
何かそんな顔で凝視するほど気になるものあったっけ、と隣を見ても髪を下ろしてちょっと雰囲気がいつもと違うレイアさんしか居ない。
「お前、やっぱりムッツリだろ」
「ううう、うるさいよ王子様!!」
にやにやしながらエリオットさんが言うと、顔を真っ赤にして反論する彼。
エリオットさんから見ると、ムッツリなのかフォウさんは。しかし今の状況でどうして彼がムッツリと呼ばれなければいけないのだろう?
首を傾げてレイアさんに目を向けると、彼女までもが顔を真っ赤にして俯き、胸元を隠していた。
「…………」
フォウさんが何に目を奪われていたのか把握した私は、呆れてしまい開いた口が塞がらない。
拝啓、ライトさん。フォウさんのコレはやっぱり……可愛くないです。
「どうしてくれるのさ! クリスのあの目!!」
私の視線を一身に浴びて、フォウさんが何やらエリオットさんに喚き散らしている。室内に響く彼の大きな声にエリオットさんは顔を顰めながら、
「自業自得だろ」
冷静に指摘してようやく椅子に座り、話を始める体勢を整えてくれた。
「えーと、エリオットさんが寝たところから説明すればいいんでしたっけ?」
「俺をスルーして話始めないでよ!?」
床で、限りなく泣き声に近いトーンで叫ぶフォウさんを勿論無視して私も椅子に座ってやる。レイアさんは流石にフォウさんを無視するのはちょっと躊躇っていたようだが、キョロ、と部屋を見渡して鏡台の前にもう一つ椅子があるのを発見してそれを持ってきて彼女も座った。
ちなみに室内の椅子はこれで全部。
「俺の椅子が無いッ!」
「床で寝てろって事だな」
「……もう、好きにしてよ」
ついに諦めた青褐の髪の青年を放置し、とりあえずエリオットさんが寝ていた間の事をレイアさんが丁寧に説明していく。
その話の最中、何度かエリオットさんは床に腰をつけたままのフォウさんを睨んでは、またレイアさんに視線を戻す、と言う行動を繰り返していた。
確かに話を聞くだけじゃあ、フォウさんを睨みたくなるのも分からないでも無い。
全て話し終えたところで再度翡翠の瞳は四つ目の青年の顔を映し、
「どうにかなったからいいようなものの、レイアにもしもの事があったらどうするつもりだったんだよ」
きっと話の最中でずっと思っていたのであろう部分を指摘するエリオットさん。
床で胡坐を掻いて話を聞いていたフォウさんは、悪びれる事なくそれに答える。
「もしもの事があるように見えなかったから、どうするつもりも無かったさ」
「?」
これを聞いただけでは分かり難いその言葉に、エリオットさんとレイアさんの両方が怪訝な表情を作って見せた。
普段なら理解の遅い私だが、コレに関してはフォウさんから以前聞いていたのですぐに把握する。
「死ぬかも知れない、って色が、レイアさんに見えなかったって事ですか?」
「そういう事。レイアさんに死の危険が無いのは分かっても、俺、自分の色は見えないから……ああいう行動を取らせて貰ったんだ」
額の瞳さえ無ければ優しげな美青年で通るであろうその顔を曇らせながら、ゆっくりと頷く彼。そしてその続きをこれまたゆっくり紡いでいった。
「で、あんな状況にも関わらずレイアさんもクリスも死ぬ心配は無い。って事は、あの後きっと状況を打破する何かが起こると思ったんだよ」
「そういう事ですか……フォウさんはそんなものまで見えているのですね」
あの時一番彼の行動に驚いていたであろうレイアさんが、息を吐きながら胸の蟠りを落とすように言う。
髪を下ろしていて、しかも普段の勇ましい服装では無い彼女がその仕草をすると何だか憂いを帯びていて綺麗だな、私は感じた。
「うん。それで、状況がどうにかなるだなんて寝ぼすけ王子様が起きる以外に有り得ないと思ってさ。それまで俺は俺自身の身を守ろうと話を引き伸ばしていたってわけ。ごめんね? 怖い思いさせちゃって」
「構いません、本心では無い事はわかっていましたから」
首を横に振ってからにっこりと笑う黒羽の鳥人に、私とフォウさんの視線が集中する。と言うのも、レイアさんって服装次第で随分と印象が変わるからだ。普段の格好による男性的なイメージが強いからかも知れないが、それが無くなるだけで一気に変わるそのギャップにやられてしまいそうになる。
そこへ投げかけられる呆れ声。
「フォウはまだしも、お前までレイアをそんな目で見てんじゃねーよ!」
「えっ!?」
顔をパッとエリオットさんの方へ向けると、若干頬を引きつらせていた彼が言った。
「前から思ってたんだが、レクチェを見る時もたまにそんな目してたよな。顔が男なだけじゃなくてレズっ気まであるとか言わないでくれよ?」
「無いですよ! 変な事考えないでください!!」
純粋に見惚れているだけだと言うのに変に勘繰るあたりが、下品な彼らしいと言えば彼らしい。大体、これだけ印象が変わってくれたら、私やフォウさんのように見てしまうのが普通の反応なのだ。
ぷぅ、と頬を膨らませて横を見ると、苦笑いしながらもエリオットさんを優しく見つめるレイアさんが居た。
「でも、よくエリオットさん起きましたよね」
あの時の違和感の一つ。それはエリオットさんが夜中だと言うのに目を覚ましたと言う事。
それを言うとレイアさんが、事情を知らなければ尤もな質問を投げかけてきた。
「それなのですが……何故あんなにぐっすり寝てしまったのです?」
「いやー話すと長いんだが、とにかく俺は夜に寝ると朝まで起きないとだけ把握して貰えれば……」
ぽりぽりと後ろ頭を掻きながら渋い顔のエリオットさん。そのまま、随分と解れてしまっている三つ編みの紐をようやく取って髪を完全に下ろすと、その後に言葉を続ける。
「俺としては今起きている事がもう不思議なんだよ。この四年間、夜に一度寝てしまった時は朝になるまで起きた事が無いからな」
「今日はどんな夢を見たんですか?」
そこでエリオットさんはグッと言葉を飲み込むようにその薄めの唇を閉じてしまう。長時間編まれていた髪が肩で緩やかに流れているのに、それとは不釣合いな強張った表情。
また良い夢では無かったんだろうな、と私はそれ以上追及する事無く黙って彼以外の二人に目を向けた。二人は私達の会話だけではいまいち理解出来ないのだろう、頭にハテナがくっついてしまいそうな顔でエリオットさんを見ている。
「あれで、全部見終わったのかも知れない」
ぼそ、と呟かれたその内容に相槌を打って私は続きを促す。
「夢を、ですか?」
「それなら今俺が起きている理由も納得がいくからな。終わりと言われればそんな気もする内容だったし……」
夢が終わった。
それが何を意味するのか私には分からないが、エリオットさんは知っているような気がする。何故ならその表情があまりに辛そうに歪んでいたからだ。
あれだけ夢を見るのを嫌がっていたと言うのに、それが終わった事でそんな顔をするのはおかしい。本来ならばもう見なくて済む、と喜ぶところなのにそうでは無い反応。
「エリオットさん……」
「まぁ後で色々やってみるわ」
それだけ言って席を立つと、エリオットさんはクロークを脱いでベッドに倒れこんだ。話はこれで終わりだ、と態度で示す彼。
「お城に戻ってからは、ビフレストさん達を探す感じかな?」
「そうだな。正面からぶつかるワケにはいかないが、とりあえずレクチェには聞きたい事が山ほどある」
本当にレクチェさんが今になってまた記憶を取り戻し、今度はお城側についているのだろうか。正直私には信じられない。
そもそも何故今頃、とふと考えた時……あの金の指輪が脳裏に浮かぶ。あの少年のビフレストは指輪が無いと力を使えないような事を言っていた。そして、今まで生活している間は指輪を外していたレクチェさん。
もし私の想像が合っているのなら、私が指輪をあの少年に奪われた事でレクチェさんの平穏までもが奪われてしまったのでは無いか?
「……っ」
まただ。行動一つ一つが裏目に出ていると思わざるを得ない。
どんなに強い武器を持っていても、この私はこんなにも浅はかで、こんなにも弱かった。弱い天使で居る今よりも、強く醜い悪魔で居た私の方が、余程価値ある存在だったのではないだろうか。つまりそれは……本当の私自身には何の価値も無い、とそういう事で。
誰の役にも立てない上に足ばかり引っ張って、それなのに一丁前に他人に何かを求めて。
何て醜い存在なのだ。
いつから私はこんなに醜くなってしまったのだろう。
これで誰かに好いて貰おうだなんて烏滸がましいと言うもの。
相手がエリオットさんだから報われない、とかそういう問題では無い。
しばらくそんな事を考えて私は黙っていた。他の皆も何も喋る事の無く、真夜中の静寂が時を抜けてゆく。
フォウさんはエリオットさんがさっきまで座っていた椅子に腰を掛けて私達をゆっくり観察しているようだ。彼の視線につられるようにレイアさんに目を向けると、彼女も思う事があるようでテーブルに肘をつき、組んだ手の上に頭を乗せて項垂れている。
「王子様ー」
観察を終えた三つの紺瑠璃の瞳がベッドに向けられ、その後の呼び声が静寂を切った。
「何だ?」
転がっていたエリオットさんがぐしゃぐしゃの髪のままで体を起こし返事をする。
彼が聞く体制になった事を確認してからフォウさんは左手の人差し指と中指の二本を立てて、
「今日の報酬は通常の二倍頂くよ」
「お前ホントがめついっっ!!」
二人の会話に顔を上げたレイアさんの口元がほんのり緩み、私もそれを見て今だけは、と自分の中の闇に蓋をして笑った。
【第三部第五章 虹の橋 ~夢の終わり~ 完】