女神の呪い ~変装した真実~
◇◇◇ ◇◇◇
蝋燭の明かりのみで薄暗く窓の無い部屋に、グラス一杯の血の色の葡萄酒がある。
テーブルの上に置かれたそれを彼はスッと飲み干し、自ら左手の親指の腹をナイフで切った。
肩につくかつかないか……少し長い黒髪をさらりと靡かせ、指先から滴る血を小瓶に垂らしていく。
彼、フィクサーの服装は普段の黒いスーツではなく銀が編みこまれたローブ一着。そのローブの下にある体には、一般人では知り得ない魔術紋様がびっしりと描かれていた。
自身の体を使ってその葡萄酒を凝縮した彼は、満足げに小瓶の中の血を見つめる。
「これで最後ってところだな」
整ってはいるが無難過ぎる形である黒い瞳を嬉しそうに細めて、独り言を呟く彼。
しかしその表情はすぐに困った顔になってしまう。小瓶を軽く揺らし、中の血でぴちゃぴちゃ音を立てながらもう一言。
「……さて、ここからどうしよう」
クラッサに大見得をきったものの、実は彼はこれからどう動こうか全く考えていなかった。何しろセオリーのお陰で急に予定が狂ってしまったのだから。
とりあえず彼は体にいっぱい描かれた魔術紋様を消すべく、シャワーを浴びる事にする。考えるのはその後だ。
相変わらずシリアスが明後日の方向に逃げて行ってしまう体質のフィクサー。そんな彼はこの後シャワーを浴びつつ、なかなか紋様が消えなくて四苦八苦するのであった。
場所は移り、フィクサーによって遠まわしに使えない奴の烙印を押されてしまったセオリー。別にフィクサーはそんな事を思っていないのだが少なくともセオリーはそう感じており、彼は苛立ちを抑えきれずに彼らが本拠地にしている竜の飼育第三施設の隠し部屋に向かっていた。
俯いたまま歩く彼の顔は酷く歪み、元々赤い瞳は更に血走っている。短く乱雑にはねた白緑の髪を左手で掻き毟りながらようやく着いた目的地。
そのドアを見て、彼の顔に少しだけ笑みが生まれた。決して優しいものではない、悪意のある笑みが。
セオリーは乱暴に開きたいのを我慢して、ドアノブをゆっくり回しその戸を押し開ける。
「あら? フィクサー?」
前触れもなく開いたドアに、室内に居たエルフの女が別の男の名前を呼んだ。けれど彼女はすぐに入ってきた男が自分の大嫌いな奴だと知り表情を強張らせる。
「……何しに来たの」
「暇を頂いたので、暇潰しに」
この異母兄がどうして自分のところに来て暇を潰すのだ。
ルフィーナは嫌な予感がして座っていた椅子から立って後ろに後ずさり、邪魔で結わえていた東雲色のポニーテールが揺れる。
「その髪が突然短くなったら彼はどう反応するでしょうかね」
来るなり意味が分からないセオリーの発言。
「髪は自分で切るから結構よ」
焦りながらもそれを勘付かせないように彼女は平静を装いつつ答えた。
じり、と近付いて来るその男から逃げるように一歩ずつ下がっていくがここは室内。やがて背中に壁が当たり逃げ場がなくなってしまう。
まずい、とルフィーナは目の前にゆっくり迫ってくるセオリーの脇から走り去ろうとするがそれも無駄。すぐに左腕を掴まれて引き寄せられ、再度壁に背中を押し付けられるとそのまま右手で首を絞められた。
「ぐっ……!」
首に絡むその手を解こうとするが左腕はセオリーに掴まれたまま。自由であるとは言え右手だけでは振り解けない。そしてセオリーは右腕を掴んだまま上手に左手だけで、彼女のその右手をも一緒に掴む。
首を絞める力を、弄ぶように緩ませたり強くしたりしながら彼は言った。
「お嬢が死んでも全てが終わる、そう思うと我慢出来るか分かりませんね……っ」
とても、とても楽しそうな表情で。
意識を飛ばさせてはくれないセオリーの責めにしばらくルフィーナは耐えるしか無い。
やがて飽きたと言わんばかりにその腕は解かれ、
「いい暇潰しになりました、礼を言いますよ」
とんでもない台詞を残して去っていく。
ケホケホと咳き込みながら痣が出来た首をさすり彼女は思う、優しかった異母兄が戻ってきた途端に豹変した事を。
けれど普段を見ると決して全てが変わっているわけではない、むしろ全く変わっていない。
となるとこの豹変は何なのか? 理由を考えながら彼女が行き着いた答えは、
「これが本性、かしらね」
出していなかった部分を出しただけ、そう考えると普段の彼が以前と変わらない理由も辻褄が合う。
あの男が死ぬのを見るまでは死ねない、ルフィーナはそう思いながら大きく息を吸った。
◇◇◇ ◇◇◇
エリオットさんがお城に戻ってきてから一週間。私は『あの時の事』が頭からこびり付いて離れなくて、何にも手につかなかった。
自分がしてしまった事、そうするに至ってしまった理由、それらを考えるとどうしようも無いほど辛くなる。
折角エリオットさんのところにお見舞いに行っても以前みたいにうまく喋る事が出来ないし、先日なんてその末に彼を怒らせてしまった。
「どうしたらいいと思います、ニール?」
私は借りている自分の部屋のベッドに転がりながら、いつも通り枕元で眠っているねずみに声をかける。
仕方ないなぁと言わんばかりにニールは下げていた頭を上げ、くるりと回って人型に変化した。
白髪赤眼の小さな獣人は丸い耳をこちらに向けて言う。
「何がだ、ご主人」
それもそうだ。私は主語を一切言っていない。
誤魔化すようにぽりぽりと頭を掻いて私は改めて彼に問いかけた。
「実らない片思いの諦め方を知りたいです」
「……それを私に聞くのか」
そんな事を言われても、こんな内容を話せるだなんて私にはニールしか思いつかない。彼をひょいっと手の平に乗せて真正面からしっかりと、お願い眼差し光線で見つめてみる。勿論今命名した光線名。
その光線はどうにか効いたようで、はぁ、と溜め息を吐きながらニールは話し出す。
「先に言っておくが、我々精霊には性別は無い。よって恋愛事に関してはうまくアドバイス出来ないかも知れない事を念頭に置いて欲しい」
「勿論です!」
って言うかやっぱり性別無かったんだ。見た目が男だったり女っぽかったりってのはあるけれど、今まで何度も会話をしていて彼らに性別的なものを私は一切感じられなかったのである。
「そもそもクリス様は何故諦めたいのだ?」
「えっ……そりゃあ、邪魔だからです」
「何故邪魔だと?」
「ううん……悩んで何にも手につかないからです」
ニールの質問責めに私は頑張って自分なりに答えを出していく。彼は私の答えを聞きながらすんごく難しい顔で考えてくれていた。
そして、
「何も手につかないほどの想いを諦めるのは無理では無いだろうか」
と、ばっさり切る。
「うへぇぇ~……」
ニールの出した結論に私は彼を放り出して頭を抱える。
無理だこんなの、何で気付いちゃったんだろう。片思いってこんなに辛いものだなんて、そりゃあレイアさんも泣くわけだと実感した。
でもそういえば私はライトさんをばっさり振ってしまったが、彼は特に悲しむ素振りを見せていない。何かうまく気持ちを切り抜けられるコツがある? いやでもライトさんってちょっとそういうところは人と違うって言っていたし、参考にはならないか……
そんな風に悩み続ける私に、ニールがそっと声をかけてきた。
「過去の主人に、同じように叶わぬ想いを抱えていた女性が居た」
「?」
それを参考にしろ、と言う事だろうか。私は少し不思議に思いながらもそのまま黙って話を聞く。
「彼女は絶対に叶わないと知りつつもずっと想う者の傍に居続けた。一度足りとも想いを言葉にする事は無かったが、それは相手に既に伝わっている想いだった」
淡々と言葉を置くように語り続けるニール。
「最後まで変わらない関係のまま……彼女は息を引き取った。それが良い例だとは思わないが、叶わぬと知りつつも想い続ける彼女はとても幸せそうで、私にはその想いを捨てろなどと言う事は出来なかった」
「そう、ですか……」
その主人の事を思い出しているのだろう、幼い獣人の顔に似つかわしくない切なげな表情が浮かんでいた。
「変わらない関係って事は、そのお相手はずっと傍に居たのに気持ちに答えてくれなかったんですか?」
疑問に思った事を口にしてみる私。そう、死ぬまで一緒だったって事はお相手さんも結婚とかせずにずっと彼女の傍に居た事になる。何かそれってまるで両想いみたいじゃないか。なのに叶わないってどういう事だろう?
その問いに少し渋い顔をして、ニールは苦々しく口を開く。
「……相手は、私だ」
「っえぇー!?」
「我々には主従の感情しか無いが、稀にそういう感情を抱いてくる主人が居る。私の具現化時の姿は人間で言う男性に近いが、性別は無いので答えようが無い」
「そ、それは確かに絶対叶わないですね……」
世の中には本ッ当に色んな恋愛がある、ニールの話を聞きながらそう思った。
とはいえ結局参考にはならなかったニールの話。私はもやもやと胸の中で渦巻く気持ちを落ち着けようと、服を外行きに着替えてから、ライトさん達に会うのが嫌で移動以外はほとんど出ていない廊下に出る。と言っても、また移動なのだが。
一応エリオットさんの護衛で私にもいくらかお金は入ってきており、おやつでも買おうかな、と小銭だけ持って晴れた昼間の王都をぶらぶらと探索する。
主に食べ物を売る店が立ち並ぶ通りで、何を食べようかきょろきょろして見回っていると、ふと目に留まる白髪の三つ編み。
「あれ、レフトさんだ」
食べ物系の商店街になっている通りなので、彼女が居てもおかしくは無い。人ごみを掻き分け、日差しを受けて金に輝く白い髪を目印に向かった。
しかしレフトさんは誰かと会話をしていて、私には声を掛け辛い雰囲気。ちょこっと路地脇に寄った私は、背伸びをしながらもどうにかレフトさんを覗ける位置を見つけてそこからこっそり様子を伺う。
楽しそうに話してはいるようだが、どれくらい親しい仲なのかどうか全く判断がつかない。だっていつも笑顔なんだもの、レフトさん。
会話のお相手は、エリオットさんくらいだろうか、まぁそれなりの背丈の男性だった。私より少し長いくらいのストレートの金髪に、瞳は黒。違和感のする組み合わせの色を持つ彼は、比較的整っている顔立ちで眼鏡をかけている。
しばらく二人は人ごみの中で立ち止まったまま会話を続け、軽く挨拶をした後に別れて行った。
それを確認した後改めてレフトさんに近寄ろうとする私だったが、人ごみに流されてしまって彼女を見失ってしまう。
「まぁ、いいか」
後で聞けばいい。そう思った私はとりあえず露店でポンデケージョを買ってもちもちと摘みながら病院に戻った。
うーん、ライトさん達に会わずにレフトさんに会えるのかな、難しそうだ。ライトさんは私の事をよく見ているし、フォウさんはそもそもその力で察しちゃいそうだし、この二人には正直まだ会いたくないのである。
同じように全てを察する達人のレフトさんだけど、女性だからそこまで気にならない。さっきの男性との関係もちょっと気になるのでここは是非とも話したいのだ。
結局好奇心が勝った私はそーっとダイニングルームを覗く。そこには丁度帰宅したばかりと思われるレフトさんが買って来た食料を片付けているところだった。
「レフトさん」
「はい~?」
にこにこと変わらない笑顔でこちらに向き直る彼女。出かけ先から戻ってきたばかりなだけあって、白衣ではなくほわりとしたグレーのロングカーディガンを羽織っているレフトさんは、私を見て言う。
「あら~引きこもりは終わりましたの~?」
「ひっ、引きこもりだなんてそんな。さっきだって外に出てたんですよ」
「あらあら、それは失礼致しましたわ~」
私の言い分をゆったりと受け流すレフトさん。その反応にムーッとしながらも、私は彼女に先程の疑問をぶつけた。
「で、出かけ先でレフトさんが男の人と話し込んでいるのを見かけたもので、アレは誰かなーと思って聞きにきました!」
我ながら首を突っ込みすぎだろう。レフトさんが誰と話していたっていいじゃないか。でも! 気になる! レフトさんってライトさんと同じくらい周囲との交友関係が無さそうだから、ああやって話しているだけでビックリものなのだ。
レフトさんは私の問いにウフフと笑って答えてくれる。
「名前も知らない行商さんですわよ~」
「ええっ? そんな!」
思わず変な声が出てしまった私は慌てて自分の口を両手で押さえた。って言うか何で私はガッカリしているのだろうか。自分で自分がよく分からなくて、口を押さえたままレフトさんを上目遣いに見る。
そんな変な態度を取っている私に対して、レフトさんはやっぱり変わらず笑顔を向けてくれている。姉さんと雰囲気は違うけれど、彼女のその絶えない、絶やさない笑顔は私の胸をきゅっとさせた。
「特に何も買わなかったんですけど~、お世辞が上手な方でしたわ~」
「へえぇ、そんなにですかっ」
「わたくし実はこの髪を気にしているんですけども~、褒めて頂けましたの~」
そう言って彼女は肌の色とはちぐはぐな自らの白い三つ編みをそっと手で撫でる。
「もう会う事も無いでしょうけど~、素敵な殿方だったと思います~」
レフトさんの表情からは一切気持ちが読み取れないけれど、言っている言葉の内容だけでも『また会ってもいい』くらいには感じ取れた。優しいレフトさんがそう言うのだから、きっと優しい人だと思う。
やっぱりあの時声をかければ良かったなぁ、なんて私はあの時の男性をぼんやりと思い返していた。
その後私はまた部屋に引き篭もってもぞもぞする。今日はエリオットさんのところにお見舞いも行っておらず、ただ無駄に時間が過ぎていった。
彼が帰ってきてから私の周囲ではほぼ何事も無く日数だけが経っており、私の頭の中はもうビフレストやセオリーやらの事よりもこのもどかしい気持ちの事だけでいっぱいになっている。
「馬鹿みたいです……」
枕に顔を埋めながら、自身に嘆く私。
本来、今の状況は恋愛どころでは無い。モルガナとの件もあるしその裏にいるセオリー達も気に掛かる。そこに更にお城と繋がっていそうな少年のビフレスト。
エリオットさんと私を取り巻く問題は、多分、かなり大きい。
なのに、
「うぅ~~」
ほっぺにチューしている場合じゃない、一人で悶えている場合じゃない、でも溜め息しか出てこないのだ。
ベッドの上でごろごろ暴れる私から逃げるように白いねずみは小走りで床に下りる。暴れて乱れた服を少しだけ整え、私は逃げたねずみをちょんと摘んで膝元に置いた。
「……逃がしません」
引き篭もっているとはいえ、こうしてニールが傍に居てくれて本当に助かっている。多分本当に一人だったら私は引き篭もれていないだろう。
渋々膝に体を落ち着けた子ねずみは、赤いビーズのような瞳をぱちくりさせた後、そっとそれを閉じた。
時刻はもう夕方過ぎ。さらさらしているニールを撫でる事で落ち着かない気持ちを和らげていると、病院内に少し騒がしい音がばたばたと聞こえ始める。
ライトさんもレフトさんもフォウさんも、こんな足音は立てたりしない。どちらかと言えばコレは……
嫌な予感しかしない私は、ニールをベッドの上に置いてとりあえず部屋の鍵をかけようとドアの方まで歩いていく、がちょっと遅かったようだ。
バタン!! と勢い良く開くこの部屋のドア。開いたドアの向こう側に立っているのは大変元気そうな緑の髪のその人。
「お前が来ないから俺が見舞いに来てやったぜ!!」
「うっ……」
私は見舞いに来られるような体調では無いのだが、どうしてそうなるのだろう。
今日の服装は彼にしてはシンプル過ぎる長めの黒シャツにマントを羽織って着ているだけ。これだけ見ればすぐ分かる……多分レイアさんの目を盗んで抜け出す為には『出かけなさそうな服』にする必要があったのだろう、と。
「私、元気なんですけど……」
「だったら何で見舞いに来ないんだ?」
「いやいや、もう貴方元気じゃないですか」
私の見舞いに来るくらいに。
屈託の無い笑顔を向けてくる彼に、頬が熱くなってくるのが分かる。これはまずい。
ふいっと顔をそむけたのにエリオットさんはそんな事お構いなしにドアを全開させたまま部屋に入って何やら物色していた。
「相変わらず何も無いなぁ」
「そりゃあ、自分の部屋じゃないんですから……無駄な物は置けませんよ」
そして彼はニールに気がついたらしく、ベッドの上の子ねずみを見て怪訝な表情を見せる。
「……ちょっと不衛生じゃないか?」
「多分ねずみの事を言っているんでしょうけど違いますからね、その中に精霊が入ってるんです」
「あぁ! これがソレなのか!!」
叫んだかと思うとエリオットさんはベッドに歩いて行き、ニールをがしっと掴んで自分の顔の前くらいまで持ち上げて言った。
「確か精霊二体ともねずみに入れたって言ってたよな。コイツが槍の方か?」
「……はい」
興味津々でねずみを見つめるエリオットさん。そしてそれを凄く嫌がって彼の手の中でじたばた暴れるニール。
そんな二人? を見ながら私はさっきから落ち着かない動悸を整えようと必死に自分の胸を押さえ俯いていた。
目の前でこんなに笑ってくれているのに、この人を好きだと言う気持ちは本来あってはいけないのだと思うと辛くて苦しい。その笑顔を素直に嬉しく思えない。
何でこの人は王子様なんだろう、何で婚約しているんだろう、そんな感情ばかりが渦巻いてきているのが自分で分かって嫌になる。
そして、
何で私は姉さんじゃないんだろう。
そんな事まで思ってしまっているのだ。
彼がニールに夢中になっていて良かった、今の私の顔はきっと酷い顔をしているはずである。
早く直さないと、とエリオットさんから顔を背けてドア側を向きながら自身を宥めていたところだった。
「王子様の声がするけど来てるの?」
開きっ放しのドアの脇からひょこっと顔を出したフォウさんと目が合う。
つまり、この酷い顔を見られたのだ。
……見たらきっと色々分かってしまう彼に。
けれどフォウさんはちょっとだけ驚いたような顔をしたものの、すぐに表情を平然としたものへ戻し、
「何かクリス見るの久しぶりかも」
と至って普通の反応を見せる。
フォウさんが部屋に来た事に気付いたエリオットさんはと言うと、暴れていたニールをようやく手放してこちらを向いた。
「……何だお前まだ居るのか」
そう喋りながら、フォウさんを薄目で睨む彼。
「居て欲しくないみたいな言い草だね」
そんな目を向けられた張本人はさらりとそれを受け流すように、目も合わせずに淡々と答える。
出会いがアレだった事もあるしあんまり仲が良くなさそうなのは薄々感じていたけれど、会うなりコレもどうなのだろう。
二人の間に挟まっている位置の私は、交互に二人の表情を見るべく何度も左右に首を振った。痛い。
微妙に張り詰めた空気を先に破ったのはフォウさん。
「そんな目で見なくたって、俺そろそろココを出るから」
「えっ?」
その発言に私は思わず変な声が出てしまう。あまりに自然に居付いていた彼だから、当分はここに住むのかとばかり思っていたのだ。
エリオットさんもそんな感じでちょっと驚いたように目を丸くしている。
「出るって、旅に戻るって事、か……?」
そーっと静かに問いかける彼。
フォウさんは特に表情を変えずに頷いてから言った。
「そもそもこんなに一ヶ所に長居したのが初めてだよ。王子様の件に巻き込まれなかったら、多分俺とっくに次の街に向かってたしね」
「そう、なのか……」
そんなにフォウさんが嫌いなのだろうか。何だかホッとしたような顔を見せるエリオットさん。
確かにフォウさんは救いようの無いムッツリスケベだけれど、去る事をそんなに喜ぶだなんてちょっと失礼だと思う。
と言うか、
「次はどこに行く予定なんですか?」
寝耳に水だったフォウさんの旅への復帰に、私はそれを聞かずには居られなかった。
「決めてないけど、まぁいつもそんな感じなんだ」
少しだけ微笑んで彼は言う。チャコールグレーのハイネックになっている首元を少しいじりながら視線の先は窓の外。
彼の言葉を受けて私は思考がぐらぐらしていた。
想いを断ち切るならフォウさんのように旅に出て、エリオットさんから離れてしまえばいいのでは、と思ったからである。
でも今後もきっと一人で無茶をしそうな彼を……傍に居て止めるか蹴るか殴るかするのが本来やるべき事だとも思う。
やりたい事とやるべき事が噛み合わない、そもそも私はそれをやりたいのだろうか? それすらもよく分からなくなっていた。
「ぐちゃぐちゃする……」
ふと、思った事が声に出てしまう。
「ん?」
エリオットさんが私のその声に反応して不思議そうな顔をした。フォウさんは黙ってじっとこちらを見ていて、私の考えている事が多少なり伝わっているのかも知れない。あまり良い事を考えていない、と。
俯く私にフォウさんが重く息を吐いてから一言だけ喋った。
「逃げたい?」
……完全にバレている。彼はその一言だけで私にどこまで把握しているかを伝えてきたのだ、エリオットさんに知られる事無く。
「分かりません……」
「そう」
その声だけではフォウさんが何を考えているのかは分からなかった。ただ、静かな声。
「何だよ説明しろよお前ら」
置いてけぼりなエリオットさんが不機嫌そうに問いかけてくるが、私もフォウさんも完全にスルーしていた。流石に可哀想かな、とちょっとエリオットさんの反応が気になってきた私は俯いていた顔を少しだけ向けて彼の顔を見る。すると、
「うわぁ」
怒ってる、めっちゃ怒ってる。
「人の顔見て『うわぁ』言うな! お前らだけで通じてんじゃねーよ!!」
のけ者にされたのをスネているように叫びながら、エリオットさんは私の頭を右手で掴んでぐらんぐらん揺すってきた。
「あうわわわ」
言うまで止めないつもりなのか、彼は仏頂面で揺すり続ける。きっ、気持ち悪い。
以前の力ならエリオットさんの手を掴んでそのまま放り投げてしまえたものを、今では頑張って掴んでもあまり抵抗が出来ていない現実……
おかげでさっきまでの思考が綺麗さっぱりどこかへ消えてしまい、この時だけは悩みを自然と忘れ去っていた。
呆れ顔でフォウさんがこちらを眺めている最中、ようやく解放された私の頭。考え事が出来るくらいにその気持ち悪さが落ち着いた時、私は何となく思った。
私を悩ませるのも、悩みを吹き飛ばせるのも、どちらにしても多分この人しか居ないのだ、と。
そんな私の悩みなんて露知らず、エリオットさんは私の頭を揺するのをやめた後に改めてフォウさんに視線を向ける。
ドアが開きっ放しの室内で二人の視線が何となくぶつかっている気がした。
「おい、糞ガキ」
「…………」
エリオットさんがフォウさんに呼びかけるが、それに対して返事は無い。勿論聞こえている事は間違いないからだろう、返事が無くともエリオットさんは話を続ける。
「俺に雇われろ」
右の手の平をスッと向けて、促すような仕草で彼は言った。
勿論その言葉は私にとって予想だにしない内容。
「はい?」
思わず声を裏返らせて、私は隣に立っている彼を見上げる。
「お前の力でどこまで見えるかは知らんが、少なくとも『嘘』は見抜けるだろ? ちょっと面倒な事になってるから俺としばらく城内に居て欲しいんだ」
「あぁ、なるほど……」
確かにフォウさんの力があれば城内でどこまでの誰が敵なのか把握出来るだろう。雇いたいという意味はよく分かる。
けれど声を掛けられたフォウさん自身はそれに対して未だに無反応のまま、ずっとエリオットさんを見据えていた。
そしてその視線が少しだけ横に逸れたかと思うと、
「まず聞くけど、俺に断る権利はあるのかな」
青褐の瞳は普段の優しいそれではなく、とても不快だと言わんばかりに顰めている。紡がれた言葉の内容も『断りたい』と言うようなもの。
「無ぇな」
けれど勿論自分の我を通すエリオットさんは、ふん、と顎を少し上げてフォウさんを見下すように言い放つ。
断る権利はあるはずなのに、無いと言い切ってしまうあたりが酷い。少し、フォウさんが口元を歪めて歯を食いしばるような、そんな動きをしたのが見えた。
「……相変わらずだね」
「あぁ、俺は変わっちゃいねーぞ!」
「高いよ?」
変わっていない事を何故か大威張りするかの如くふんぞり返るエリオットさんだったが、その直後に投げ掛けられた言葉に一旦その表情を固まらせる。
「べ、別に金額は気にしないが、まさかいきなり金の事を言われるとは……」
その反応の理由を述べる緑髪の王子に、三つ目の青年は冷たい視線を浴びせたままで返事をした。
「そりゃそうでしょ、俺はコレで稼いでるんだから。あと王子様がどれくらい自由に金額を動かせるのか知らないけれど、後で払えないとか言わないでね」
「んな……」
そして遂に絶句してしまう。
私も二人のやり取りを見ていて開いた口が塞がらなかった。意外な一面を見てしまって複雑な気分になる私……と、多分エリオットさんも。
しかしよく思い返してみれば納得出来る部分も多々ある。出会い頭にスリを働いたり、私ときっとほとんど変わらぬ年齢であるにも関わらず、当時のあの飲みっぷり。
大きくなって落ち着いたとはいえ、ちょっとスレているように感じるコレもきっと彼なのだ。
「あのねぇ、割に合う依頼だとは思えないんだよ。分かる?」
「おう……」
完全に呆気に取られ、気圧されているエリオットさんの返事が鈍い。
「無茶もいい加減にしときなって。どれだけ周囲が迷惑してると思ってるのさ? 人間じゃない連中に……神様? 勝てるわけが無いんだから死なないようにだけうまく立ち回っておくとかしとけばいいんだ」
「フォウさん……」
彼はきっと、関係の無い第三者だからこその視点でエリオットさんを叱っている。
巻き込まれたくないと言う雰囲気も確かに感じられるが、本当に巻き込まれたくないだけならばクラッサの時にわざわざ一人で行ったりしないだろう。
エリオットさんはトンデモ理論を出す事なく、じっと彼の言い分を聞いていた。ただまぁ、その表情はとてつもなく不服そうなものだったが。
「その依頼を承諾するには王子様に二つの条件を呑んで貰う。一つは勝手に無謀な行動をしない、せめて周囲に意見を聞いてから動く事。もう一つは……」
固唾を飲んで私とエリオットさんは、その続きを待つ。
「俺の問いには正直に答える事」
後に言われた条件に、エリオットさんがグッと何かを堪えるような反応をした。
それでもフォウさんは彼の態度を気に留める事無く補足する。
「勿論嘘を吐けば分かるし、だからと言って黙るのも許さない。これが出来るなら格安で受けてあげるよ」
そうか、最初に高くしておいて条件付きで安く引き受けると言う事か。やっぱり何だかんだで優しいフォウさんにほっこりした私。
だが、
「ね、値下げしてくれるのか。いや高くてもいいんだけど……ちなみに値下げしていくらだ?」
「日給で、金貨二枚と銀貨十五枚」
「高ぇ!!」
金額を聞いてほっこりが即ぶっ飛ぶ。
値下げ前は一体どんな金額だったのか……聞きたいけれどとてもじゃないが怖くて聞けなかった。
全力でツッコミを入れたエリオットさんは、腕を組んで少し考えた素振りを見せた後に言う。
「ええと、じゃあ明後日また迎えに来るから準備しておいてくれ」
「今日からじゃなくていいの?」
「お前に確認して欲しいような気になる奴を先に目星つけておかないと、とんでもない額になるだろうが!!」
それもそうだ。
エリオットさんに怒鳴られたフォウさんはと言うと、不思議そうに首を傾げて正面の彼を見つめていた。この反応からすると値下げ後の金額はフォウさんにとって本当に格安なのではと思える。だとしたら……恐ろしい。
「そう、意外とケチなんだね」
「そんな事ぁ無いぞ!?」
真顔でエリオットさんを罵る彼を遠巻きに見ながら、私はそのギャップについていけなくなっていたのだった。
そして、
『王子の俺よりズレてるってどういう事だよ! 覚えてやがれ守銭奴が!!』
自分で仕事を頼んでおきながら、そんな捨て台詞を吐いてエリオットさんは裏口から帰って行く。
私の見舞いはどこへいったのだろうか……もはやフォウさんのお陰で当初の目的は全部流れてしまったようで、周囲に気遣いの欠片も無い物音を立てて去ったエリオットさんを茫然と見送った。
その姿が見えなくなった事を確認してから、私の隣で同じように見送っていたフォウさんがこちらを向いて話し出す。
「気、紛れたみたい?」
「えっ」
「思いつめたって仕方ないよ」
話しながら院内に戻り、部屋の方角へ足を向けつつフォウさんを見上げる私。
「でも、考えてしまうんです……」
私に事情を一切聞かずに、でも核心を突いてくる。
人には隠したかったのにここまでバレていてはもう逆に清々しい。
突然のフリにも関わらずするりと彼の言葉が入ってくるのは、それが的確過ぎるからだろう。
「悩むのと思いつめるのは違う、クリスのは後者。世の中自分の願いが叶わない事だらけなんだからそれにいちいちそんな反応してたら身が持たないんじゃないかな」
「言いたい事は分かりますが……それでもどうにもならなくて」
「そっか、俺はそういう感情が分からないから正論しか言えないけれど、確かに簡単に気持ちを切り替えられたら苦労しないね」
そこまで話したところで私の部屋の前に辿り着き、何となく足が止まる私とフォウさん。
「全然違うけど、確かに俺もパンツを被って寝てるところを見られた時は、かなり動揺が抑えられなかったから……」
「うぐっ」
あまりに違いすぎる例えが出てきて思わず息が詰まりそうになる。
しかもそれはフォウさんが被って寝ていたのではなく、私が被せたもので……どうやらあの時フォウさんは自分で被ってしまったと思っていたようだった。
うんうん、と頷きながらズレた共感を示す彼に言葉も出ない。
というかこの感情が分からないとフォウさんは言った。どの感情の事を言っているのだろう、と彼を見る私の目にきっと疑問の色が浮かんでいたと思う。そんな私に気がついて彼はソレについて説明をしだした。
「俺は他の人みたいに恋愛で悩むだなんて無いんだ。だって見えるから」
「そ、そっか……そうですよね」
悩む事無いなら辛くないだろうな、と彼の力が羨ましく思えてくる。けれどその後のフォウさんの言葉に私は引っかかりを覚える事になった。
「まぁ、嫉妬くらいなら分かるかな。でも予め分かっていればそういう気持ちが思いつめるほど膨れる事は少ないよね。最初から諦められるんだから」
「最初、から?」
「うん」
それを言ってしまうと私の気持ちも変わらない。気付いた最初から諦めざるを得ない状況で……それでも私は苦しいのに、フォウさんはそうでは無いように言う。
「私のと、どう違うんでしょう……」
「え?」
「その、私もこの気持ちは最初から諦めるしかない状況でしたから……でも、フォウさんが言うように思いつめずに済んでいるかといったら、そうでもないので」
廊下での立ち話もアレだと思ったのか、フォウさんは私の部屋にスッと足を踏み入れて、私にも入るようにちょいちょいと手招きした。
ムッツリスケベと二人きりで室内に……と言う考えはその時の私には無く、ただこの悩みを解消出来るのなら、と素直に入る。
ずっと無表情だった彼は、部屋に入ってその顔をいつもの優しい表情に変えたかと思うと私の肩をガッと掴み、
「根本から間違ってるからソレ!!」
いつものテンションで私に叫んだ。
「ま、間違っていますか?」
「クリスの場合は目一杯気持ちが育ってからようやく気付いたんでしょ? そりゃ俺のとは全然違うし!」
どうしようも無いなぁコイツ!! って言いたげに彼の眉は寄っている。
「そ、そうなんですかね……」
その剣幕に押されるように私は細々と確認した。確かに凄く好きなんだとは自覚したけれど、気持ちが育っていた期間と言うものは全く自分で把握出来ていないのだ私は。
「そうだよ! 少なくとも俺と初めて会った時にはもうあの人の事好きだったんだから、どういう経緯でいつ自分の気持ちに気付いたかは知らないけれど今更だよね!?」
「えっ、えぇ?」
フォウさんと、初めて会った、時?
彼の勢いに一瞬流しそうにはなったが、流せるわけが無い内容がその言葉には含まれていた。
意味を理解する。そして凄く恥ずかしくなる。
「フォウさんには……そう見えていたんです、か?」
「うん」
ガッチガチに固まってしまった私の肩から手を外し、フォウさんはその過去を思い出すように遠い目をして顔を上げた。
「当時は随分過激な愛情表現だと思ったなぁ」
「わぅ……」
その頃ってまだ姉さんが生きていた頃では無いか。ある意味気付いたのが最近で良かったと思う。
今も確かにエリオットさんに相手は居るが、全然どんな人かも知らない女性だから彼女に対して後ろめたさは無い。もしこれが姉さんだったら自分の心境がどうなっていた事か、想像するだけで怖かった。
ただでさえ既に居ない姉さんを……羨ましく思っているのに。
あ、落ち込んできた。心の切り替わりがはっきりと感じ取れ、胸が痛いと言うよりはもはや胃が痛い。
黙りこんでしまった私の前で、フォウさんが小さく呟く。
「先生の気持ち、少し分かるかも」
「え?」
「そんな顔よりももっと面白い顔してる方がクリスらしいのさ!」
そう言って彼は私の頭をくしゃっと撫でて言った。
「王子様なら、こうするんじゃない?」
そしてそのまま私の頭をわしわししながら下に押していく。上からの圧力で私は自分の意志とは別に体を屈めていき、それに抵抗するように真っ直ぐ立とうと無理をするから腰が痛い。
「ちょ、フォウさん!?」
「悩んだら気分転換、引き篭もっているより人と接した方が気が紛れていいよ!」
そして最後にポンッと頭の天辺を叩かれて、上からぎゅっぎゅ攻撃は終了した。
エリオットさんならこうする、と言ってフォウさんがしたソレは、確かにエリオットさんに近いけれどそれよりも優しかったように思う。エリオットさんはもう少し、乱暴だから。
ぐしゃぐしゃにされた髪を手で直しながら、私は上目遣いに彼の表情を確認する。そこにあったのは……フォウさんと再会した時に感じたものと変わらない、大人びた優しい笑顔。
何故笑顔を見ているだけなのに胸が痛むのだろう。
私にその理由を考えさせずに、彼はまた言葉を紡ぐ。
「考えたって叶わないなら……考える時間だけ損だと思う」
そっと丁寧に置くような声で、それは私に響いた。
突き刺さるような真実。そう、叶わない気持ちなのだ。
「そうですね……」
うまく一旦この気持ちを仕舞っておけるだろうか、自信は無いけれど努力だけでもしてみよう。
苦し紛れに笑う私の体の正面を、フォウさんはくるっと回してドアの方に向けて言う。
「さ、久々に収入入りそうだから何か夕飯奢るよ! 美味しい物食べて元気出そう!」
「いいんですか!?」
彼の言葉に、普段より高いトーンで返事をする私。
「え? う、うん。いい反応が返って来過ぎて逆にびっくりするなぁ……」
「何ですか、私が食べ過ぎるかもって怖気づいたんですか?」
「全然そんな事言ってないよね俺!?」
叫びながらもゆっくりと私を押して部屋から出すと、フォウさんはダイニングルームの方角を見て喋った。
「今から夕飯いらないって言って間に合うかな」
どうやら既に夕飯が準備されているかの心配をしているらしい。
「まぁもう出来てたら帰ってきた後に食べますよ。もし私が食べ切れなくてもレフトさんが食べるんじゃないですか?」
「その食欲には本当、恐れ入るよ……」
苦笑しながら失礼な事を言った彼のわき腹を、蹴るのは可哀想なので代わりに私は思いっきりくすぐってやった。
◇◇◇ ◇◇◇
儀式用礼服を身に纏い、その男はそこに立っていた。
太い針のような剣身のデザインの短剣ミセリコルデを右手に持ち佇む場所は、王都よりも東、モルガナの外れにある竜の飼育施設の真下にある地下洞。
礼服のフードで髪は見えないものの、その目元だけはしっかりと目立つ、目隠しの黒い布。
勿論周囲に人が居てこそ目立つものであり、今、彼の周囲には誰一人おらず、静寂を切るのは彼の息遣いと地下水の音だけ。
「皮肉だな。実りの地では無いにも関わらず、力だけは他の地域と比べ物にならないほど帯びている」
洞窟内で静かに響く独白に、答えるものなど誰も居ない。
ティルナノーグと繋がっている水が染み渡るこの地下で、しっかりと位置確認をすべく彼は耳をよく澄ました。それはまるで目の見えぬ蝙蝠のように、音という音の反響で行われる。
この男、エルヴァンの第一王子であるエマヌエルには一般的な手順で魔術は使えない。何故なら魔術紋様が見えない故に描けないからだ。なので彼が魔術を使うには予めその紋様が用意されていなくてはいけない。
先日レイアから手に入れた施設の情報等をミスラに見せ、エマヌエルは魔術を発動させられるポイントを少年に聞いて、この場に来ているだけ。この場に一般人の目に映るような魔術紋様は一つも無かった。
けれど、
全ての形には意味があり、そして彼の体にも意味がある。
天然の魔術紋様とその持ち主の体の関係のように、彼は自分の体と『竜の飼育施設の形』を元に魔術を発動させようとしているのだ。ダーナの資料だけではなく、事前に二人で東に赴いて直に見てきたものも考慮している。
勿論これを聞いただけでは普通の者は発動させる事は出来ないだろう。だが彼は『世界の理』を全て見ている者であり、視力を失いはしたが二番目の王子よりは精神は壊れていないので、ミスラから聞いた内容を理解して発動する事が出来るのだ。
フィクサー達も発動するだけならば出来る事。けれど神の代行者であるミスラの知識まで及ばなくては、建物の形と魔術、そして力との関係を考慮して発動ポイントを絞り込む事は不可能。
つまり、今この世界でこれから彼が行う魔術を使えるのは、彼だけと言う事であった。
「さぁ、お前達に神の慈悲を」
彼の口元がにやりと歪む。
自分の左手の小指の腹を切り、ミセリコルデの剣身を自らの血で濡らし、両手で胸に抱えてエマヌエルは唱えた。
「ティーナ、ソーラス……ドリヒレオグジーア」
奇怪な言葉を発したかと思うと彼を中心に光の柱が洞窟の天井へ向かって伸びる。その光は大地をすり抜けて上の施設一帯を目映く包み込んだ。
通常の魔術とは比べ物にならないほどの巨大な紋様を元に発動されたソレ。
彼が先に言った言葉の通り、神の慈悲に相応しい死を……
建物とその内部に居た人間はその光に包まれた直後、火花を散らしたかと思うと跡形も残さず綺麗に弾け飛び、燃え尽きる。
それは自分が死んだ事も分からないくらい、鮮やかな死であっただろう。
そしてその事実をまだ知らぬフィクサーは、
「一週間ぶりだったけど元気にしてたかい!?」
竜を飼育する第三施設の地下室のドアを元気良く開けて、紅瞳のエルフに会いに行っていた。
「……全然元気じゃないわ、って何よアナタその髪!」
ルフィーナはその細い目を丸くして、目の前の幼馴染の変貌っぷりに驚愕する。
「いやー、脱色し過ぎた」
「何で脱色したの!?」
そう、フィクサーの黒かった髪はこの時見事に金髪になっていたのだ。金髪でありながら瞳の色は黒。アンバランスなその組み合わせに目眩を感じる彼女。
「ちょっと用事があったんだ。だからと言って下手に魔術で変装するとルドラのガキと鉢合わせた時に危険かと思ってさ」
以前の部下の失敗を考慮した上での行動。だがその詳細はやはりルフィーナには洩らさない。あくまで話せる範囲で、彼女の問いに答える彼。
「変装してまで何をしたかったのよ……」
「ほら、俺の特徴をもしあの男が聞いたら勘付くかも知れないだろ? 念の為ってヤツ」
「そんな事聞いてないから!!」
全く噛み合わない会話に苛々したルフィーナは持っていた分厚い本を思いっきりフィクサーに投げつけた。
頭にでも当たるかと思いきや、フィクサーはそれをパシッと受け止めて丁寧に彼女に渡し返す。
「言ったら君が嫉妬しちゃうかも知れないから言わないさ」
「万が一にもしないわよ!!!!」
渡し返された本の角で、改めてルフィーナはフィクサーを殴ったのだった。
【第三部第二章 女神の呪い ~変装した真実~ 完】