古傷 ~失いたくないもの~
そしてへたり込んだままの私をフォウさんが抱きかかえて運んでくれる。すぐに私の部屋につくと、彼の手によって私はベッドに腰掛けさせられた。
「クリス、俺の言葉分かる?」
ようやく彼の言っている意味が頭まで伝わってきたので私はそれに返答しようとする。
「…………」
分かります、と答えたつもりの口は動くだけで音を発しない。私は自分で自分に驚いて目を見開いた。普段通り喋ろうとしているのに……声が出ない。手が震えてくる。
フォウさんも私を見てわなわなと体を震わせた。
「こんなつもりじゃなかったんだ……クリスが自分で気付いていないだなんて、思ってなかったんだ……」
彼が泣きそうな顔で言うから、私は今自分の身に起こっている事に対して更に不安を掻き立てられる。釣られてこちらも潤んでしまいそうなくらい、フォウさんの青褐の瞳は薄らと滲んでいた。
「とりあえず先生呼んでくるから!」
そう言って出て行ってしまうフォウさん。声を出せないかと試してみるけれど何故かやはり出なかった。今は特に何も考えていないのに、何かが心の中でもやもやと渦巻いて酷く落ち着かない。考えようとすると気持ち悪い。
怖い。
何が怖い?
何だったっけ。
そんなところにライトさんとレフトさんが、フォウさんに連れられて部屋に入ってきた。ライトさんはいつも通りの無表情だけれど、レフトさんは私を心配そうに見つめている。
「大丈夫ですの~?」
答えられないのでコクンと頷いてそれを返事の代わりとした。自分でも何が何だか分からないけれど、別に声が出ない以外は問題ないのだから。
「大丈夫じゃなさそうですわ~」
おろおろとレフトさんが室内を落ち着き無く歩き回り始める。
「クリス、声が出ないのか? イエスなら右手を上げろ。ノーは左手だ」
ライトさんが冷静に質問と指示をしてきたので、私は右手を上げる。
「何故声が出ないのか心当たりはあるか?」
……無い、と答えるならばノーだろうか。左手を上げる。
私の上げた手を見て、困り果てる一同。
「クリスに怯えの色が見えたんだ。だからどうして怖がっているのか聞いたんだけど、そしたら一瞬何かを思い出したような顔をして……」
「心的外傷でも掘り下げたか」
「……ごめん」
ライトさんが首を横に振って目を閉じた。
「俺は専門外だ。視えるお前の方が得意なんじゃないのか?」
「俺視えるだけなんだよ。それに今は色も普段通りに戻ってるし、悩んでいる様子ってのが見当たらないんだ」
確かに今私は特に悩んでなどいない。そして、さっきまで一体何を怖がっていたのかもよく分からないのだ。
「本人も分からない原因を探るってのは専門家でも難しいだろうな……ましてやクリスの過去を知る人間もいない。その原因が最近のものである事を祈るだけだ」
それだけ言ってライトさんはさっさと部屋を出ていってしまう。フォウさんとレフトさんはその後姿を見送ってから二人で顔を見合わせて深く息を吐いた。
急に声を失ってしまった私は、勿論何も言う事が出来ずに二人の様子を伺うだけである。一体どうしたらいいのだろう。
「一時的なものだといいですわね~」
とりあえずそれに頷いてみると、レフトさんは強張っていたその表情を少し和らげて白い三つ編みを揺らしながらこちらに笑いかけてくれた。
「俺……ちょっと出かけてくる」
「あらあらどうしたんですの~?」
フォウさんがあまりに辛そうな顔で言うのでレフトさんが問いかける。私も心配になって彼に視線をやると、その目とぱっちり合った。
「悪化したら、ごめん」
真顔で何を言っているんだフォウさんは。
この事態を悪化させる気なのか、と思わず取り乱し彼を止めようとベッドから立ち上がるが、力の入らない体がそれを拒否して足をよろめかせる。
「危ないですわ~」
咄嗟に支えてくれたレフトさんの手を借りてベッドに座り直した時には、もう彼の姿は無かった。
「今夜もエリオット様が訪ねて来られそうですわね~」
のほほんと一言。
何故ですか? と聞きたいけれど声が出ないので彼女に視線だけでその疑問を訴えかける。
が、視線に気付いているはずの彼女はにっこりと笑って私の頭を優しく撫でるだけだった。
そうやってしばらく撫でていた後、彼女はそっと私の隣に腰掛けて、私の頭をぎゅっとその胸に沈めさせる。優しく抱きしめて貰って、私はその心地よさに目を閉じた。
「皆様クリスさんをいっぱい気に掛けてくれていますわね~」
私の頭に頬を置いて、今度は背中を撫でてくれるレフトさん。
レフトさんは、普段作っているお菓子の匂いだろうか? 蜂蜜みたいな甘い匂いがして、しかもふかふかしていて凄く気持ちがいい。
「でもクリスさんは、皆のそんな気持ちが不安なのでしょう~」
そしてまた肩から背中にかけて撫でる。
「周囲の殿方は揃って感情表現が下手ですから~、たまにはきちんと好意を表に出してほしいと思いますわよね。女の子ですもの~」
『こんな風に』と、レフトさんはまた両手でぎゅーっと私を抱きしめてくれた。確かにこんな風に愛情を示されたら怖いものなんて何も無いや、と思う。
私もレフトさんをぎゅっと抱きしめ返して、その気持ちを肯定した。
「クリスさんはよく強がりばかりを口にしていらしてますから~。ほんのちょっと心がお休みしたいのかも知れませんね~」
んんー、強がっているつもりは無いんだけれど、以前にも似たような事を誰かに言われたような気がする。
そう見えるのだろうか、それとも私自身が気付いていないだけで自然と強がってしまっているのか。比較的素直なほうだと思うんだけどなぁ……と自分では思っているのに、そうは周囲からは見えないらしい。
ちょっと腑に落ちないけれど、物理的に反論出来ない私は黙って彼女に包まれていた。
と、そこへガチャリとドアノブが回ったかと思うとライトさんが入ってくる。
「…………」
珍しく気の抜けたような顔をしている彼は、黙ってこちらを見ていた。
「あらお兄様、フォウ様と鉢合わせでもしましたか~?」
「その通りだ」
返事を聞いてふふふ、と笑うレフトさん。どういう事なのか説明してほしいけれど問う言葉は私の口から出てこない。これでは不便で仕方が無い。
治らなかったらどうしよう、とふと思ったその途端、何かが込み上げてくる。
「……、……!」
声にならないくらいの擦れたような風の音だけを喉で鳴らす私を、彼女はまた強く抱きしめて撫でてくれた。宥めるように、落ち着かせるように、あやすように。
しばらく撫でて貰っていると激しかった動悸も落ち着いてきて、私は彼女を見上げる。
視線に気がついたレフトさんはにっこり笑いかけて言った。
「わたくしも食べちゃいたいくらい可愛いと思っておりますわ~」
にぱっと大きく口を開けて笑った彼女のその台詞は、ちょっと本気っぽくて笑えない。いや、冗談だとは思うけれど。
「しばらく任せておいて良さそうだな」
「食べないように気をつけます~」
……これほどツッコミを入れられない事をもどかしいと思った事は、無い。
気付いたらうたた寝してしまっていたらしい。目を覚ますと私はレフトさんの膝枕に頭を乗せていた。ここはベッドで枕もあるのに、わざわざ彼女はずっと膝を貸していてくれたようだった。
ありがとうございます、と口パクでどうにか礼を伝えようとする私。察しのいい彼女には伝わったみたいで、
「どういたしまして~」
と返事をしてくれる。
「お夕飯の準備、してきましょうかしらね~」
そう言って彼女が立つ。
何となくレフトさんに離れて欲しくなくて、私も一緒にベッドを降りて立った。口がきけなくても手伝いくらいは出来るのだから。しかし、
「あら?」
レフトさんがその獣耳をぴこんと動かして、足の動きを止める。
『ったく何やってんだお前等』
『ちょ、ちょっと! 乱暴な扱いはしちゃダメだからね!?』
『頭でも叩けば治んだろ!』
この声はエリオットさんとフォウさんだ。どったどったと周囲を気にしない足音を立てて、その音はどんどんこちらに近づいてきて……
「おー、声が出なくなったとか言う細い神経したガキはここかー?」
バタン! と勢いよくドアが開いたと思うと憎たらしい笑みを浮かべてやってきたエリオットさん。後ろには焦り顔のフォウさんがついてきている。
エリオットさんはつかつかと私の前に歩み出てきて、にやにや笑いながら言い放った。
「そのまま喋らない方が可愛げがあっていいんじゃねーの」
人の不幸をこうも笑えるものか。声は出ないけれど食って掛かるように私は彼を見上げて鋭く睨む。
「……反論してこないな」
「そりゃそうでしょ!!」
私の突っ込みたかったところを、フォウさんが彼の後ろから突っ込んでくれた。エリオットさんはぽりぽりと頭を掻いてから、その手をそのままこちらに向けてきて、
「じゃあこうしてみるとか」
今度は私のわき腹を思いっきりくすぐる。
私はくすぐったくて笑っているはずなのだが、それでも声は出ない。ただ笑っているような口の開け方と悶え方をしているだけで、喉の奥からは一切音が出なかったのだ。
多分声が出ていればそろそろひぃひぃ言い始めるくらいの間くすぐったさに悶えたと思う頃、ようやくくすぐり地獄から解放される。
「……これもだめか」
「折角連れてきたのに驚くほど見当違いの事してるよね!?」
フォウさんがそう叫んで、エリオットさんのポニーテールを後ろから思いっきり引っ張った。
「いだい!!」
「真面目にやってよ! 少なくとも最近のクリスの悩みの原因なんて、王子様しか思い当たらないんだから!」
なるほど、それでエリオットさんが連れて来られたのか……笑いすぎて涙が出てきた瞳をごしごし擦りながら、彼等の会話をただ聞く。
「んー……一体どういう状況でこいつに怯えの色とやらが見えたんだよ。お前との会話の最中なんだろ? むしろお前が原因なんじゃないのか?」
「え゛っ」
原因を自分に押し付けられて、変な声をあげるフォウさん。しばらくあの時の状況を思い出すように悩み考え込んで、彼は黙ってしまった。
私も一緒になってあの時の状況を思い出してみる。タオルを破ってしまい、それをフォウさんに見られて、その後彼が何故か重い表情を見せ……
だめだ、気持ち、悪、い。
「……!」
私はそこで思考を停止させた。これ以上は考えたくないと頭と体が言っている。
吐き気がしてきて口を思わず抑えると、すかさずレフトさんが私の背中をさすってくれた。
「エリオット様の指摘、遠からずってところですわね~」
「おおおお俺のせい!?」
「急に拒否反応示してるんだ、やっぱり何かあったんだろ」
「ええええええええ!?」
叫んでからフォウさんは、額に片手を当てながら記憶を探るように一つずつ言葉を紡いでいく。
「……クリスが、洗濯物を干すのを失敗していたんだ」
「干すのをどうやって失敗するのか、その時点でもう理解不能だぞ」
半眼で呆れ顔をこちらに見せるエリオットさん。仰る通り過ぎて恥ずかしいので、私は彼から顔を思わず背けた。
「それで、クリスが力を制御出来てない事を知ったんだ」
「どういう事だそれは」
エリオットさんが怪訝な表情で問いかけ、それに対してフォウさんは少し一呼吸置いてからその続きを話し始めた。
「クリス、タオルを間違って引き千切っちゃってたんだよ。つまり……分かるよね」
彼のその言葉に、エリオットさんが驚いた様子のまま固まっている。知られたくなかった事を話されて顔を歪めた私の頭を、レフトさんは何も言わずに撫でていた。
そしてエリオットさんはようやく動き出したかと思うと、こちらを凄い形相で睨んでくる。
「何でそんな大事な事を黙ってたんだ……!」
低く震える声で、責めるように。
「王子様、ストップ……」
「これが止まれるか!! 力が制御出来ない!? いつからだ!! やっぱり異常が出てきてるんじゃないか!! 他には無いのか!?」
私の両肩を揺すって捲くし立ててくるが、答えられない私はただ揺すられるがまま、彼の瞳を見つめる事しか出来ない。
そこへレフトさんが割って入ってきて、エリオットさんから私を庇うように抱きとめる。
「エリオット様」
レフトさんは、彼女にしては強い語尾で名前だけを呼んで窘めた。
「……っ」
私から離された彼は、まだ何か言いたそうであったが歯を食いしばってそれを飲み込む。怒り、悔しさ、悲しみ、色んな感情が織り交ざったような彼の目に、私は口唇を噛んだ。
皆が押し黙ったところでフォウさんが先程の続きを話し始める。
「この数年で、らしいよ。それを聞いて大丈夫かなって心配したんだけど、そしたらクリスが自分の力に対して苛むような事を言ったんだ」
「苛む?」
「うん。こんな力気持ち悪いよね、みたいに。その時の色が怯えた色だったんだよ……って」
そこまで言って、エリオットさんとフォウさんの目が合う。
「それ、俺が原因には思えないんだが」
「ち、違うかも……」
エリオットさんは、フォウさんの首根っこを掴んでぶんぶん前後に揺らす。ただ背丈が同じくらいと言う事もあってそこまで持ち上がるわけでもなく、少し首が絞まる程度だったが。
「お前が最初からきちんと思い出していれば話は早かったんじゃねーか!!」
「だだだだって、ほんとにその時は何に対してか分からなかったんだよ!!」
はぁ、と溜め息吐いてエリオットさんはその手を離した。
「つまり、クリスは自分の異常に対して不安を感じてたんだろ?」
そう言ってこちらを見る。
目が合う。
私は首を傾げた。
エリオットさんもそれを見て首を傾げた。
皆、首を傾げた。
「ち、チガウノカ?」
多分違うと思うので、私は静かに頷く。
確かにそれも不安と言えば不安だけれど、そこまで思いつめるほど私はそれに対して悩んでいない。あの時私は何に対して恐怖したのだろうか……考えようとすると麻痺する思考。頭痛がしてきて額に汗が滲む。
「やべぇ、分からん」
「だから言ったでしょ! 分からないんだって!」
感情が出てくると子供みたいな仕草に戻るフォウさんは、明らかに大人の容姿であるにも関わらず、子どものように両手にぎゅっと力を入れてエリオットさんに対して喚いていた。
エリオットさんは困った顔で顎に手を当てて再度考え込んでいる。
「……お二人とも本気で分からないと仰るのですか~?」
そこへ私を抱きかかえたままのレフトさんが眉間を寄せつつ口を挟んだ。
「レフトは分かるのか?」
「どう聞いても、嫌われたくないだけのようにしか聞こえませんわ~」
嫌われたくない。
ストンと心に落ちる言葉に、私の頭は一瞬空っぽになる。
そうか、私は嫌われたくないんだ。でも何で嫌われたくないだけでこんな気分になるのだろう。嫌われるのが怖い、どうしてこんなに怖い?
「クリスさんは度々エリオット様に嫌な事を言われる前に自分からその先を言うのを、気付いてらっしゃいますか~?」
「え? その、先?」
「常々気になっておりましたが~、一種の自己防衛反応なのですわ~」
言わないで。口をぱくぱくさせてレフトさんに訴えかける。彼女はそっと私の頭に手を置いて宥めようとするけれど、今にも噴き出しそうな恐怖という感情の渦が胃を圧迫するようで気分が悪くなってきた。
何かが頭の中でフラッシュバックする。吐きそうだ。ただ、怖い。嫌われるのが怖い? 嫌われたらどうなる? 嫌われたら……
育ての親に疎ましく蔑む目で毎日見下ろされてきていたあの頃が怖い。
力を制御出来なくて、周囲に気持ち悪がられていたあの頃が怖い。
同じ孤児からも悪魔、と石を投げられていたあの頃が怖い。
それらは全て変化の力を制御出来ていなかったのが原因だった。忌み嫌われる存在だったあの頃、今またそれに戻るのが……堪らなく怖いのだ。
恐怖の正体を自覚した私は圧迫感からげほげほと嘔吐き、レフトさんが背中をさすってくれるが、その手を思わず振り払ってしまう。
こみ上げる吐き気に口元を押さえつつ、思った。これは彼等のせいでは無い、私一人の問題だ。
私は……未だに過去を克服できていなかったらしい。大丈夫だと思っていたのに、今頃になって出てくるだなんてお笑い草だ。
「クリス、大丈夫か?」
珍しくエリオットさんが本気で心配しているような声色で話しかけてくる。
私は静かに頷いて変化を始めた。部屋の中に急に起こる突風と、何も無いはずの背から生えてくる黒い翼に、角、尻尾。
変化を終えても私はそのままその場に立ち尽くしていた。何をするわけでもなく、ただトラウマの原因である自分の姿を再確認したくて。
「クリスさん~?」
「ど、どうしたの?」
レフトさんもフォウさんも、少しびっくりした様子でこちらを見ていた。二人にこの姿を見せるのは初めてのはずだからだろう、圧倒されていて少し後ずさっている。
耐えろ、これが普通の反応なのだから。怖くてもきっと二人は私を嫌ったりなどしないと信じろ。そう自分に言い聞かせる。この視線に耐えれるくらい強くなれ、と。
「おいクリス」
そこへぶっきら棒に名前を呼ばれた。勿論エリオットさんだ。
感情を押し殺した目を彼の方に向けると、彼は呆れ顔で言う。
「何を思って変化したのかは知らんが、また服が破けたぞ」
通常運転のツッコミが、そこに入った。
このタイミングで気の抜ける台詞……わざとなのか、わざとじゃないのか。
変化した瞬間の風圧も落ち着いてきて、色々な物がはためいていた室内も静かになる。それでもレフトさんとフォウさんは私と距離を置いたまま不安そうにこちらを伺っていた。
もしもこの時レフトさんがさっきのようにまた抱きしめていてくれたなら違ったかも知れない。だがそれはもしも、でしか無い。近寄ってきた彼女の手を先に振り払ってしまったのは私自身なのに、そんな図々しい事を考えるほうがおかしいと言うものだ。
「……、……」
『ひとりに なりたい』と出ない声にも構わず呟いた。どうせこの症状は私が自分で治すしか無い。皆に原因があるわけではなかったのだから。
しかし口だけ動かしたところで伝わらない気持ち。一向に出て行ってくれない彼等に一人で勝手に苛立って、私は八つ当たりをするように自分の頭を掻き毟った。
「レフトとフォウ、席外して貰っていいか」
そこにエリオットさんがぼそりと一言。私は一人になりたいのに、それじゃあ二人になってしまうではないか。
「構いませんわ~、お夕飯の支度してきますわね~」
少しだけ躊躇いつつも、彼の言う通りに部屋を出て行くレフトさん。そしてフォウさんは、レフトさんよりももう少し後ろ髪を引かれる様子で、
「いいけど……乱暴なことしちゃだめだよ?」
「お前じゃねーんだからしねえよ!!」
「俺じゃないからしそうなんでしょ!?」
と、喚きつつも部屋を出てそのドアを閉める。
残ったのは何を考えているか分からないエリオットさんが一人。
一緒に出て行けばいいのに、と目だけでそれを訴えようとするが、彼はこちらを見てもくれなかった。
そして近くにあった椅子を引いて腰掛けると、一人でつまらなそうな顔をして話し始める。
「昨日の事だけど、誤解を解いておきたい部分が一つある」
彼は一切目も合わせないし、私も相槌を打てない。そのせいか、まるで独り言のように彼の声は響いていた。
「……俺は最初から、ローズの目的がお前の為である事を知っていた」
そこだけは、聞き取れるか聞き取れないか分からないくらいの小さな声。
「勿論、どうお前の為になるのか分かったのは最近だけど、別にそれに対してがっかりなんてしてない。だってその根本の目的は知っていたんだからな」
そう言って何故かふんぞり返る彼の顔は、頬から耳にかけて赤くなっている。ぶすっとした表情とはちぐはぐで噛み合わないその様を、私はただぼんやりと見ていた。
「売り言葉に買い言葉でああ言ったけど、そういう事だ。結果としてお前の為には違いないが、それも分かった上で俺は俺の為にやりたい事を今までやってきていたんだ」
そしてやっと彼と、目と目が合った。すんごいどや顔で言い切ってるのに、顔と耳が真っ赤で全く締まりが無い。
この人は本当に自分勝手な人だ。人が、声が出ないと困っているのに、昔を思い出して悩んでいるのに……そんな事どうでもいいと言わんばかりに、自身の言いたい事をぶん投げてくる。
「だから……その、何だ。いくらなんでもお前が嫌いだったらあんな事を何年も続けていないわけで、そこを勘違いされるのは非常に腹立たしいと言うか」
酷く乱暴で……でも、本当は欲しかった言葉を。
くしゃくしゃになりそうな顔を手で押さえて、私は喉から声を絞り出した。
「……ぃ、今言う事じゃ、無いで、しょう……」
誰も突っ込んでくれる人がいないのだから、私がこの馬鹿に声をあげなくてどうするんだ。
「お前が喋れないと思ったから今言ったのに、何でこのタイミングで喋り出すんだよ!?」
「だ、って……っ」
しゃくり上げるように泣いてしまい、折角声が出ても言葉をうまく話せない。少しして落ち着いてきたけれどまだすすり泣く私の頭に、エリオットさんが優しく手を置……
「いだだだだ!!」
かと思ったら次の瞬間思いっきり力を入れてぐっしゃぐしゃに髪を掻き毟られた。
私の悲鳴を聞いて満足した表情を見せる彼。
「な、何するんですか!!」
「泣いてても分からんだろ? また声が出なくなっても困るんだ、何があったのか言えよ」
軽く会話が噛み合っていない感が否めないが、確かに言っている事は間違ってない。
私は再度向き合わなくてはいけないのだ、自分の過去とその時蓋をして押し込んだ感情に。
「……分かりました……」
私は自分の頭に生えている角にそっと触れて、口を開く。
「私が力を制御出来なくなっている事は……フォウさんが言った通りです」
「あぁ、そんな大事な事を黙ってるとかほんっと最低だよなお前。黙っていられたこっちの身にもなれよ」
額に手を当て目元から前髪を遮るような仕草をしつつ、容赦なく責め立ててくるエリオットさん。
この人は間違いなく精神科医には向いていないと思い、一瞬この人に打ち明けるのは間違いなのではないかと不安が過ぎるが、それでも私は続けた。
「知られたくなかったんです。それで私は……彼に見られた時、自分で思っている以上の動揺をしていたんだと思います」
爪が鋭く伸びた両手を見つめながら淡々と話す私に、エリオットさんがもう一つの木椅子をガタンと動かして寄越してくる。
とりあえず座れ、と言う事だろう。私はそれに静かに腰掛けた。
「で、何で知られたくないんだ? レフトが嫌われたくないんだろうとか言ってたけど、まさかそれくらいで嫌われるとでも思ってたんじゃねーだろうな」
「その、まさかです……」
彼は翡翠の瞳を細くしてこちらをキッと睨み、こめかみをひきつらせている。凄く怒っているのが伝わってくる表情だった。
何やら言いたそうに口を開こうとするけれど、すぐにそれも閉じ、また何か切り出そうとしてはやはり口を閉じる。
「……っ!」
そして結局何も言わないまま、ふいっと少しだけ顔を斜め左に背けてしまった。
私は爪を噛みたい衝動を抑える為に、グッと手を握る。手の平に食い込む鋭い爪の感触は、もう慣れっこだ。
「皆を信じていないわけじゃ、ないんです。でも、もしかしたらって気持ちが消えないんです」
「それは信じてないって言うんだぜ」
ばっさりと私の言い訳を否定する彼。けれど彼はすぐにその表情を少しやる瀬なさそうなものに変えて言う。
「……いや、お前が心から信じられなくなるような態度を取っていたのは、ライトに言わせれば俺なんだろうけどな」
辞するように。
エリオットさんが何だかんだで素直にしおらしく自分の非を認めるような発言をしているので、私もそれに影響されるように心内を明かす。
「違います、これは皆のせいじゃありません……ただちょっと昔の嫌な事と被ってしまって怖くなっただけ、今はそう思います」
「昔の、嫌な事?」
あまり大きな声で言える内容では無いが、言うしか無い。
はぁ、と肺にあった空気を全て吐いて、勢い良く吸ったところで思い切って切り出した。
「小さい頃、いわゆる……虐待やいじめと言ったものを受けていた時期があったんです」
「……お前がか?」
信じられない、と言いたげな表情で訝しむエリオットさん。
「今でこそ自分の意思でこの姿に変化していますが、小さい頃はコントロール出来ずによくこの姿を周囲に晒していたんですよ」
「なるほど、そういう事か……」
それを聞いたら少し腑に落ちたようで、彼は小さく溜め息を吐いた。
ここまで言ってしまえば後は似たような内容ばかりである。もう気合を入れて口にする事も無いので、体に入れていた力を抜いて肩を下ろすと、手の平に滲んだ血が彼に見つからないようにそっと指の腹で拭った。
「少なくとも姉さんは私が物心ついた時からきちんと変化を制御出来ていましたし、それもあってか最初の育ての親に虐待を受けていたのは私がほとんどでした。まぁ姉さんの姿よりも私の方が周囲から嫌われるようなものですからね」
「さ、最初?」
「えぇ。最初に両親だと思っていたのはヒトの夫婦でした。多分実の親では無いでしょう。その人達に捨てられてから次に獣人の老夫婦に拾って貰いましたが、それも数年で今度は教会に預けられています」
他人に打ち明けるのは全て初めての事。たまに悪夢として見るくらいの、今思えば嫌な思い出しかない頃の話だ。
「俺も子供の頃ってのはいい思い出が無いつもりだが……全くの別次元だな……」
重たい口を開いて、ここまで聞いた感想を静かに伝えるエリオットさん。確かにお城で大切にされながら育ってきた彼との悩みどころは別次元だろう。
それだけ言うと彼は私の手をそっと取って、高そうな服の袖口で血を拭ってくれた。
「ああぁ……汚しちゃって……」
この人のこういう、高い物を高いと思わないところは嫌いだ! タオルとかそういうのを使ってくれればいいのにすぐに手近なもので済ませようとする!
思わず現金換算して呻く私に、
「そう思うなら怪我すんなよ」
と戒めにも似た言葉が投げかけられた。
投げやりに言う彼の顔はその口調とは合わず慈しむようなもので、その視線が自分の手に向けられていると思うと胸のどこかで何か重い物が圧し掛かるような感覚がする。
「ごめんなさい……」
「謝らんでいい。……で、その姿が原因で小さい頃は嫌な事ばかりだった、と」
「はい。あの頃は本当に……私には姉さんしか居ませんでした。姉さんがお金持ちの人に引き取られてしまってからは、他の孤児からのいじめ……みたいなものから庇ってくれる人も居なくて結構しんどかったですね」
いじめられていた、だなんてやっぱり言うのは恥ずかしい。弱弱しく悄然と笑うと、エリオットさんが私の目を見つめて無言で首を横に振った。
どんな理由で首を振ったかは分からないけれど私にはそれが『笑って誤魔化すな』と言っているように感じ取れて、笑っていたその顔をどんな顔にすればいいのかと悩み引きつらせる。今の私はきっととても滑稽な顔をしているだろう。
「泣き虫は大人しく泣いてりゃいいんだよ」
促されるままに、私はほろりと涙の粒を頬から零していた。
声をあげて泣くような大きな感情の昂ぶりは無いのに何故か止め処なく溢れるその滴を、ごしごしと擦って頬に伸ばしていく。
しばらくして涙が止まり、ようやく私は続きを話し始めた。
「……でもいじめられる事も、感情と変化能力を制御して私がしっかりしてくると、徐々に無くなったんです。それで私は事実上克服出来たと思っていました」
「けど今になって力の制御が出来なくなってきて、それが他人にバレたもんだから制御出来なかった頃のトラウマが蘇った、ってワケか」
こくんと頷く。多分、そうだと思う。
昔に比べるとずっとずっと幸せな今。それがもしかして再び不安定になったこの力のせいで失ってしまうかも知れない、そう思うと押し潰されそうな気分になる。
私の反応を見た後、エリオットさんは少しだけ話題を変えてきた。
「……お前の中にもう一人居る精霊ってのは、あの槍や大剣の精霊と違ってチェンジリングって言う手法によってお前の中に居るらしい」
「え?」
聞いた事の無い単語に首を傾げる。
「それを解除すればお前を普通……とまではいかないが、きっとローズと同じくらいには戻せると思うんだ」
「姉さんと、同じくらいに……」
それはこの黒い翼ではなく、あの白い翼がこの背に現れる時がくるかも知れない、と言う事だろうか。
「って事は、だ。お前が昔悩んでいた理由そのものが、もうすぐ消え去る可能性があるんだ」
「それは……本当の私、なんですか?」
今の私は、偽者、なのか?
昨晩気になっていた事が口をついて出てくる。縋るように彼を見上げると、エリオットさんは少し唇を引き締めて言った。
「それはお前が決める事だ。俺にはどっちだろうがお前だからな。でも体の中に本来あるべきでは無いものがあって、それが無くなったなら……それが本来のお前の姿だとは思う」
私に答えを選ばせつつも、彼は彼の考えを述べる。姉さんが元に戻そうとした姿が、本来の私の姿だと。そう言っている。
「姉さん……」
私は両手で顔を覆って俯いた。
どうして姉さんは居ないのだろう。
どうしてこんな事になっているのだろう。
姉さんは何をどこまで知っていたのだろう。
姉さんが居たなら悩まずに済んだのに、どうして全てを私に打ち明けてくれなかったのだろう。
……どうして私は未だに姉さんにしがみ付こうとしているのだろう。
「ったく面倒臭い奴だな」
椅子を少しずらす音がした後、頭に何かが当たった。斜め下に見える服から、それがエリオットさんの胸である事が分かる。
そして肩から背中に掛けて布が擦れ合う音。少し強く、私は正面からエリオットさんに抱き締められていた。
背中の翼に指が触れる感覚がするので、多分彼はこの黒い翼を触っているのだろう。
「改めて触ってみると面白い手触りだよなぁコレ」
抱き締めたまま、私の背中に回した腕の片方だけを翼に伸ばし、いじる。意識して他人に触られた事の無い私の醜い部分を、突っついたり撫でたり、摘んだり。
「や、やめてくださいよ」
俯いていた顔を上げて彼を睨むと、すぐにエリオットさんはもう片方の手で私の頭を再度下に押しやって俯かせて叫んだ。
「こっち見んな!」
り、理不尽過ぎるのではないか。
さっきよりも深く彼の胸に顔を埋める体勢になり、彼はまた人の翼を玩具のようにいじるのを再開させる。
レフトさんとは違う、酷く乱暴な抱擁。けれどそれと同じくらい、この瞬間の私の心は不安や恐怖から解放されていた。
そこへコンコン、とノックの音。
「!!」
がばっと私の体を自分の胸から剥がしたエリオットさんの表情はかなり焦っていて、何事かと私も釣られて動揺する。
「え、エリオットさん?」
折角のいい気分が一瞬にして台無しになった。
私が声を放つとすぐにドアが開き、目を見開いたフォウさんが入ってくる。
「今クリスの声しなかった!?」
「あ……ご心配お掛けしました。声、出ました」
「…………」
ぽかんと口を開けて私とエリオットさんを交互に見やる彼は、その後に苦笑しながら言った。
「流石だなぁ」
ニッ、とその大人びた顔立ちを砕けさせて笑う彼。エリオットさんはそれに対して不満そうな表情を見せている。
「付き合いが長いだけだっつの」
何故そこで仏頂面になるのか。
「はいはい、照れ隠し照れ隠し」
そう言われてエリオットさんは右手を振り上げてフォウさんの方にバッと踏み込み、それを見てびくりと肩を震わせたフォウさんはそのまま部屋の外に逃げて行った。
遠くから彼の、低くも澄んだ声だけが聞こえてくる。
『ご飯出来たってよー』
エリオットさんに追い払われるような形になったが、食事に呼びに来ただけだったようだ。
「俺は帰る」
立ったまま、ぼそっと一言言い残して部屋を出ようとする彼の後ろ姿に私は声を掛ける。
「食べて行かないんですか?」
「あぁ。三日後に出発だからな、忙しいところを来てやったんだから有り難く思えよ」
……今何と言いましたかこの人は。
「出発って……」
「お前も準備しておけよ、モルガナは一旦置いてリャーマに先に行く」
ま、まだ私完治していないんですけど、それでも行くと言うのだから既に決定事項なのだろう。
私は汗が体中から吹き出すのを感じていた。次にこの前のような大事があったら対処しきれない。
そんな私の不安を汲み取ったようでエリオットさんが補足を付け加えた。
「流石に前回のがあるからな、護衛は増える。滞在期間も短くなるから着いたらだらだらしている余裕なんて無いぞ」
「は、はぁ」
しかし誰が増えたところで竜などなかなか太刀打ち出来るものでは無いのだが……
『んじゃな』と短く言い残して彼は裏口の方へ歩いて行く。とりあえず変化を解いて破けた服を着替えてから、私はダイニングルームへ向かった。
用意されていた食事は多くて、エリオットさんの分もある事が一目で分かる。
「エリオットさん忙しいからって帰っちゃいましたよ」
「あらあら~」
レフトさんがそれを聞くなり、エリオットさんの分と思われるお皿を自分の席へススス、と動かした。二倍食べる気だこの人。
ライトさんはそれには触れず、けれども上機嫌そうな顔をこちらに向ける。
「落ち着いたか」
目を細くしてにこりと笑うその一瞬だけ、凄くレフトさんに似ていた。それくらいの笑顔。
「あ……ありがとうございます」
失礼な事かも知れないが、ライトさんもあんな笑い方が出来るんだな、とちょっとビックリしてしまう自分が居る。
「悩むのが馬鹿らしくなりますよね、あの人見てると」
「違いない」
そう言って皆で笑う。
食事をしている最中はエリオットさんの悪口でとっても盛り上がったのだった。
◇◇◇ ◇◇◇
次の日の朝早く、四つの目を持つ青年はエルヴァンの城をまた訪ねていた。日課である朝風呂によってほんのりまだ濡れた髪を風にさらしながら、待合室で人を待つ。
この国の第三王子の名前を出す事で比較的容易に取り次いで貰えた、彼の会いたい人物。これがもっと位の高い人物ならば難しかったかも知れないが、一般人である彼より上とはいえそこまで身分が高いわけではないのですんなりと話は進んだ。
「お待たせ致しました」
それは彼が先日機密書室の前で出会った女性だった。黒く短い髪に、今日は紫のシャツに黒いトラウザーズを着ていて、先日と色は違えど然程変わらぬ外観。
「……先日お会いしましたね、何か御用でしょうか?」
「単刀直入に言うよ」
彼女は武器を持っていない。フォウは懐に隠し持っていた短剣を取り出して構えて彼女から距離を取りつつ口を開いた。
「顔に術がかかっている、その顔は偽物だ。それも腑に落ちないけれどそれよりも……あんたが持っているそれは、あんたの物じゃないはずだ!!」
フォウが即座に彼女のシャツの胸元を切り裂く。
そこには彼女の肌と、大きな琥珀のネックレスが露となった。
◇◇◇ ◇◇◇
【第二部第五章 古傷 ~失いたくないもの~ 完】