1.なんでもない、日常
なんでもない、日常。
今日も変わらない。
一日が始まる。
――そう思ってた。
「雪、オープンしてきてー」
先輩が声をかける。
「はい」
返事だけして俺は、看板を出しに行く。
書店の看板を表に出し、自動ドアをオンにする。
「オープンしました」
店内に声をかけ、俺はカウンターに戻る。
カウンター内では、先輩が作業をしている。
にこやかな笑顔で、来店した客への挨拶をしている。
「いらっしゃいませー」
笑顔が、眩しい。
ふっとこちらを見た先輩は、太陽みたいに無防備に笑った。
「何見てんの?俺、男前すぎる?」
冗談めかして言う先輩に、ほんの少しだけ胸が高鳴る。
俺は曖昧に笑って返す。
「何言ってんですか?」
そうして、作業に取り掛かる。
今日は、朝から忙しかった。
目まぐるしく動く、お店。
その中でも、俺の目は常に先輩を追っていた。
ひとつ年上の静玖先輩。仕事での、先輩。
最初は、丁寧に仕事を教えてくれる人だなぁって思ってた。
休憩中も本の話してて、この人も本好きなんだなぁって嬉しくなって。
――気づけば、好きだなぁって思ってた。
でも、この想いは、不毛だ。
伝えられるはずもない。
伝えていいはずもない。
そうして、俺は初めての恋心を無理矢理、自分の奥底に沈めた。
……はずだった。
「なぁ、雪、今日の飲み会来る?」
就業後、帰り支度をしながら、先輩が近づいてくる。
「いや、俺は帰って本読も……」
「また欠席?今日は行こうよ!」
被せるように先輩は行った。
「えっ」
そうして俺は半ば無理矢理職場の飲み会に連れて行かれる。
がやがやする居酒屋。
盛り上がる先輩たち。
新人の歓迎会という口実のただのストレス発散場。
別に飲み会が嫌いなわけじゃない。
ただ、人と何話していいかわからなくなるだけで。
俺は手元のグラスを一気に飲み干す。
甘い。
少しだけ、酔いが回る。
「なぁ、雪、ちゃんと飲んでる?」
そう言って、グラス片手に隣に座ってきたのは先輩だった。
「飲んでますよ」
自然と笑みが零れる。
アルコールのせいか、少し自制が甘くなってるかも知れない。
先輩はだいぶ酔いが回っているようだ。
ばんばんっと先輩が俺の背中を叩く。
「お前、いっつも来ないからさぁ、寂しいじゃん」
「えっ」
不意打ちな言葉。
心臓がドキドキしているのは、お酒のせいなのか……。
「……先輩はなんで俺のこと気にかけてくれるんですか?」
思わず、口をついて出た。
言ってしまってから、手が震える。
一瞬、きょとんとした先輩はすぐに顔を綻ばせて、俺を見た。
「なんでだろうなぁ?俺もよくわかんないけど」
その笑顔が、また眩しい……。
「お前、いつも寂しそうだから」
ドキッなのか、ズキッなのか、よくわからなかった。
ただ、胸の中に衝撃が落ちたことだけはわかった。
複雑な気持ちで俺は、曖昧に微笑んだ。
「そうなんですね、ありがとうございます」
先輩はなんとも言えない、微妙な顔で俺を見た。
「……そういうとこ……」
ぼそっと先輩が何か言ったが、その時、俺には聞こえていなかった。
宴会がお開きになる頃には、先輩はしっかり酔い潰れていた。
「静玖、いっつも潰れんだよ」
別の先輩が呆れたように静玖先輩をつつく。
……起きない。
「ってことで、雪、こいつ家まで送ってやって?」
「えっ、なんで俺がっ!?」
動揺する。
しかし、先輩は手を合わせて頭を下げる。
「悪いっ。でもいっつも、皆で順番で面倒見てるからさ、今日は普段来ないお前に頼む」
そう言われると、弱い。
「わかりました」
溜め息をついて俺は静玖先輩に声をかける。
「……静玖先輩!帰りますよ!」
少し大きめな声で呼びかけると、先輩の体がビクッと震えた。
「あ……雪……?」
視点の合わない目が俺を見る。
こんな先輩、見たことない……。
「……ん」
先輩は手を前に差し出す。
起こせ、ってことか?
仕方なく俺は先輩の手を引っ張る。
勢い良く起き上がった先輩は、そのまま俺の体により掛かる。
距離が近い。
ふわっと香る先輩の匂いが、心臓を踊らせる。
「ほら、先輩、立って!」
平然を装って俺は、先輩を抱える。
ホントは、先輩を抱える腕も、胸も熱くてたまらない。
先輩の体の重みが、なんか幸せだ。
なんとか先輩を抱えて家まで連れて行く。
部屋の前で俺は先輩に声をかける。
「先輩、ここでいいですか?」
「う?ゔーん……部屋、開けて……」
そう言ってポケットから鍵を取り出して渡す。
仕方なく受け取って、俺は鍵をあける。
リビングのソファに先輩を座らせる。
「……水、飲みたい」
俺は溜め息をつきながら、冷蔵庫を開ける。
ペットボトルの水を一本取り出して、先輩に渡す。
「俺、帰りますよ?」
そう言うと、先輩は水を飲みながら俺を見上げた。
いつもより少しだけとろんとして目が俺を見る。
手が、思わずピクっと反応する。
……俺、今、何しようとした?
自分でも信じられない。
先輩に、触ろうとした……?
「だめ」
ペットボトルから口を離した先輩は、それだけを言った。
そして、ばんばんっと自分の座ってるソファの隣をたたく。
座れってことだろう。
一瞬、躊躇はしたが、俺は大人しく隣に座る。
「先輩、明日も仕事ですよね?早く寝たほうがよくないですか?」
そう言うと、先輩は顔を逸らして、
「あぁ」
とだけ、答えた。
沈黙が落ちる。
カチっカチっと鳴る、時計の音がやけに時間を長く感じさせる。
先輩が、こんなに何も喋らないのは、珍しい。
不意に、先輩の顔がこちらを向いた。
……かと思うと、一気に近づく。
先輩の腕が俺を包み込み、背中に回る。
体が、強張る。
驚き過ぎて、声も出ない。
ただ、心臓だけがうるさい。
そして、同時に近づいてきた先輩の顔が、俺の顔に重なり、唇同士が……触れた。
「っっ!!」
反射的に体が後ろに引く。
が、ソファの背もたれに邪魔されて、それ以上逃げられない。
ただ、触れるだけのキス。
それでも、俺の思考が停止するには十分だった。
唇が離れる。
呆然として、先輩を見る。
「俺、男ですよ?」
最初に口をついて出た言葉がそれだった。
「知ってる」
ふっと表情を崩して先輩は答える。
「酔っ払ってます?」
「……少し」
その様子じゃ少しじゃないだろ、と俺は思ったが、口にはしなかった。
酔っ払っての行動だとしても、動揺が隠せない。
「俺、帰りますね」
それだけを言い残し、俺はそのまま部屋を出た。
外に出て、夜道を一人歩いている時になってやっと、俺の顔が熱くなる。
先輩が、何考えてるか、わからない……。
立ち止まった俺の体を、夜の風が冷やしていく。
翌日。
先輩は二日酔いで辛そうだった。
俺は敢えて近づかずにいた。
昨日のことが、まだ整理できない。
昼休憩の時に、昨日俺に静玖先輩を送らせた先輩が話しかけてくる。
「昨日、ごめんな。大変だっただろ?」
両手を合わせて申し訳なさそうに。
少しだけ、顔が熱くなる。
昨日のこと、思い出してしまう。
「大丈夫でした。部屋の中に置いてすぐ帰れましたよ」
俺がそう言うと、先輩は目を丸くして驚いてる。
「え?アイツ部屋に入れたの?」
「?普通に入りましたよ?」
腕を組んで少し考えこんだ先輩。
「アイツ、お前にはよっぽど気許してんだな?」
どきっと胸が鳴る。
「普段、どんだけ酔い潰れてても絶対部屋に人入れないんだぜ?」
「えっ」
今度は俺が驚く。
普通に入ったけど……。
しかも先輩から鍵差し出して……。
「ま、いいことだな。また、よろしくな!」
体よく、次の飲み会のお世話役も認定された気もするが……。
そんなことより。
「どういうこと……?」
俺の少ない対人関係スキルじゃ、追いつけない情報が多すぎて、ついていけない。
ちょっとだけ、期待してしまう。
でも、そんなわけないと、自分を戒める。
そんなワケ……ないんだ。
就業後。
さっさと帰ろうとしていた俺の前に先輩が現れた。
「雪?」
ようやく二日酔いから解放されたのか、少し顔色が戻っている。
「……お疲れ様でした」
いつものように声をかけ、そのまま帰ろうとする俺の腕を先輩は掴んだ。
ああ、この期に及んでまだ、胸が高鳴る。
「雪、今日、俺のこと避けてない?」
「っ!?」
息が詰まる。
俺は振り向けなかった。
「……昨日のこと、覚えてる?」
掴まれたままの腕が、ビクッと反応する。
ふっと先輩の空気が緩んだ気がした。
「覚えてんだな……?」
「そりゃ……先輩よりは……」
まだ、振り向けない。
少しの沈黙があって、それから意を決したように。
「俺……謝んないからな?」
その言葉に、俺は反射的に振り向いた。
たぶん、今までで一番情けない顔してる。
「なんでっ……」
思わず、感情が溢れる。
「なんで……って」
そう言った先輩は、開いている方の手で、額を抑える。
そうして、観念したように。
「俺、お前のこと好きだから」
真っ直ぐな言葉が俺に刺さる。
唇をぎゅっと結ぶ。
先輩が何を言っているか、理解出来なかった。
先輩はにっこり笑う。
「それに、お前も俺のこと好きだろ?」
は?
声は、声にならなかった。
ぽかんとしてただ、先輩を見る。
ふっと先輩は笑う。
「何、その顔?バレてないと思ってた?」
顔が熱い。
耳まで熱い。
先輩は掴んだままの腕を引き寄せる。
俺は俯く暇もなく、先輩に近づく。
「返事は?」
「……はい」
先輩の手が、頭をポンポンと撫でる。
「はい、じゃわかんないよ」
可笑しそうに笑う。
うん、自分でもよくわかんない。
「バレてないと、思ってました」
「その返事じゃないよ」
俺は顔をあげる。
先輩の目が俺をじっと見てる。
「え?」
「え?じゃなくて、俺の告白の返事」
顔が、真っ赤になる。
「俺、男ですよ?」
もう一度、問う。
先輩はくすっと笑った。
「だから、知ってる」
先輩の腕が、俺の背中に回る。
ふわっと抱きしめられてる。
「偶然男だっただけだよ、俺の好きになった人が」
目の奥が、熱くなった。
ずっと抱えてきた葛藤が、解ける日が来るとは思ってもいなかった。
……しかも、好きな相手からの言葉で。
「……俺も、好きです」
なんとか、絞り出す。
不思議な衝動が湧き上がる。
「先輩……抱きついてもいいんですか?」
「えっ?」
驚いたように俺を見た先輩の顔が、ゆっくり緩む。
「そういうとこ、雪だよなぁ」
そう言って先輩の手に力が入る。
「聞かなくていいんだよ、そういうことは」
俺は恐る恐る、先輩の背中に手を伸ばす。
初めての、人の温もり。
先輩の手が俺の頬に触れる。
「なぁ、キスしていい?」
その言葉に、俺は面食らう。
「……そういうことは聞かなくていいんですよ……」
先輩の真似して返す。
ふふっと笑った先輩の顔近づく。
ゆっくりと唇が重なった。




