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海の女王と陸の花  作者: 天谷あきの


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20/21

孵化

 うわあ……ん。

 どこか遠くで、悲鳴のようなものが聞こえて、アデリシアは我に返った。


 何か、大勢の人があげた狼狽の声が、響きあい、反響し合って、かすかに届いたような音だ。


 アデリシアは耳を澄ませた。


 すると、不思議なことが起こった。聞きたいものを邪魔するほかのすべてのものが、すうっ、と遠ざかっていったのだ。

 まるで体中の感覚が研ぎすまされて耳になったかのようだった。あたりが急に暗くなったような気がする。でも、その音は聞こえる。遠く――かなり遠くだ。でも、この建物の、中だ。目を閉じて、場所を探る。音の波の出所。どこだろう。



 ――……ナが……!

 ――どこへ、いつ、いつの間に……



 ――静まりなさい。



 凛、と響く声が混乱を制した。アデリシアは目を開いた。

 パトリシアだ。



 ――でも、でも……

 ――数日前には確かに……

 ――なぜ、まだ……



 耳を澄ませながら、走り出した。孤独な花が不憫だった、そう言ったエリックの声がアデリシアを走らせた。守ってくれる剣もない、道を示してくれる者もない、それでも立ち向かう花を、助けてやりたかった。


 そのエリックは今いない。

 アデリシアしか、いない。


 階段をかけ降りるにつれ、『声』は大きくなっていく。なくなったものが、なぜ現れないのか、と言い交わしているようだ。

 パトリシアが今立ち向かっているのは、人々の不信と猜疑の声。



 ――〈その日〉が近づいているわ。剣がなくなったのは、きっとそのせいよ。



 その声の後ろで、さらさらと、水の流れる音がする。建物の、中の、はずなのに。



 ――私の〈剣〉を、選びに行ったのよ。みんな、喜んで頂戴な。私の決意を、偉大なる〈その日〉を、手助けしてくれる人間を、選びに行ったのだから。



 ――でも、その誰かは、今どこに?



 かすかな不安をにじませる声に、パトリシアは言う。



 ――遠くにいるんだわ。今きっと、こっちへ向かっている最中よ。



 その声は、少しだけ――ほんのかすかにだけ、張りが足りなかった。パトリシアもきっと、その誰かが、本当に遠くにいるのか、自信が持てないのだろう。

 そのとき、さっきパトリシアに『私も一緒に行かせてください』と頼んだ少女の声が、言った。



 ――エスティエルティナは……グウェリンのお嬢様を選ぶのではないのですか?



 一瞬の間。パトリシアの瞬きの音まで、アデリシアは聞いた気がした。

 それから、朗らかなパトリシアの声が笑った。



 ――あの子のことは選んでないわ。私にはわかる。

 ――そう、ですか?

 ――そうよ。さっき会って、確かめたばかりよ。持ってなかったわ。


 ――でも……


 ――あの子はアナカルシスの王子様と結婚する身ですもの、生まれたときから外国に嫁ぐことを定められた、エスメラルダ人というよりはアナカルシス人よ。エスティエルティナが、選ぶわけないでしょ。


 ――生まれたばかりの時に、あの方を選んだという噂は……


 ――それは本当に生まれたばかりの頃。まだ王子様と許嫁の約束をする前のことだもの。



 嘘をついている。

 走りながらアデリシアは、悲しかった。


 どうしてだろう、その声を、本当に聞いているわけではないからなのだろうか。パトリシアの嘘が、匂いたつような気がする。パトリシアはマイラに『さっき会って』なんかない。それにマイラと王子様の縁談は破談になってしまった、それを、パトリシアは知っているはず、……それなのに。


 そんな薄っぺらな嘘をついても、すぐにばれてしまうのに。

 パトリシアにその嘘の空虚さが、わからないはずないのに。


 ニースはいつも、〈子供たち〉に言った。どうしてもつかなければならない嘘もあるから、嘘が、全部悪いという気はないよ。でも、覚悟おしよ。ひとつついたら、嘘を重ねなければならなくなる。つき通さなければならなくなる。つき続けた嘘はあんたたちの上に積み重なって、どんどん重くなっていく。


 その重さに耐える覚悟が持てないなら。

 はじめから嘘なんか、つくもんじゃないんだよ。



 パトリシアは今までも、嘘を重ねてきたのだろうか。

 その重みは今、どれくらいの重さになっているのだろう。



 ――大丈夫よ。〈その日〉がくればみんなわかるから。



 パトリシアは自信たっぷりに言い、みんなは信じた。

 信じて、しまった。



 ――エスティエルティナは私を助けてくれる人間を選んで、今ここにつれてきてくれてる最中よ。


 ――〈その日〉がまだ決まらないのは、もしかして……

 ――エスティエルティナの到着を、待ってるからなのですか。


 誰かの言葉に、パトリシアがほっとした。表情に出していないだろうその安堵が、アデリシアは悲しい。


 誰かが今思いついたばかりの口実に、簡単に飛びついてしまう、パトリシアの軽さが。


 以前はそんな軽薄な人じゃなかったはずだ。どうしてだろう、そんな気がしてならなかった。何が彼女を変えたのだろう。悪い方に悪い方にと、彼女を導いているのは誰なのだろう。



 ――そうね、その側面もあるわ……でも間に合わないかもしれないから。

 ――待たない、の、ですか?


 ――人魚の手助けがあれば、エスティエルティナは……まあその、〈鍵〉としての役割は、少なくともいらないわけでしょ。本当は待ちたいけど、私は急ぎたいの。できるだけ早く、みんなに見せてあげたいから。



 慈悲深いパトリシアの声に、みんな感じ入った様子だった。

 パトリシアが安堵している。この場はうまく乗り切った、そう思って。アデリシアはもはや泣き出す寸前だった。いったいどうしてと、叫びたかった。


 そんなその場しのぎの嘘を、いつからつき続けてきたんだろう。

 どうして誰も、その嘘を見抜いてあげないのだろう。

 どうして嘘をついてまで、自分を守らなければならないのだろう……。




 一階の長い廊下の突き当たりに、その扉はあった。中からせせらぎの音が聞こえてくる。大きな、エリックの身長の三倍はありそうな巨大な扉だ。礼拝堂、というのはきっとここだろう。


 そこから、パトリシアが出てきた。彼女と話していた人たちは、さっき別れた時より遙かに増えていて、みんなぞろぞろと彼女を見送りに出てきた。パトリシアはアデリシアに気づいて、微笑んだ。聖女のような、花のような気高い微笑みだった。


「アデル。お父様は見つかって?」

「……ううん」


 首を振るとパトリシアは、そう、と言った。

 それから辺りを見回し、


「ね、エリックは?」

「なんだか……急な用事ができたみたい。先に帰ってろって言って、走っていっちゃった」

「まあ。どうしたのかしらね」


 言いながらパトリシアはそっとアデリシアの手を握る。


「それなら、今日のところは帰りましょうか。エリックはきっと、警備隊の仕事に行ったんだわ」


 パトリシアがこの場を去りたがっているのが、アデリシアにはよくわかった。

 さっきついた嘘の重みに、心が悲鳴を上げているのだ。


「うん、ついさっき。今行けば、追いつけるかも」

「あら」パトリシアがほっとした。「じゃあ、行きましょう」


「パトリシア様、そのお子は……」

「えっ、」


 パトリシアが振り返る。みんな興味津々、という顔でアデリシアを見ている。パトリシアが逡巡した。アデリシアのことを説明したら、この場から去る時間が延びてしまう。だが邪険にするわけにもいかない。


 アデリシアは自分の役割を正確に認識していた。今パトリシアにしてやれる一番のことは、ここから逃げ出させてやることだ。


 パトリシアはけなげにもみんなに、説明を始める。


「この子は、アリエディアの子で……おばあさまにもらった〈通行証〉で入ってきたらしくて。ええ、私も驚いたの、まだ残っていたのかって、」


「ねー、ねー、ねー!」アデリシアはだだっ子のようにパトリシアの手を引いた。「早く行こ! 早く行こ! 追いつけなくなっちゃうよ!」


「あ、そ、そうね。役場に届けようと思って今日つれてきたんだけど、」

「ねえーってばあー!」


「ああもう、ごめんなさい、警備隊の方で何か問題が起こったみたいなの。この子のことは後日改めて届けにくるわ……はい、はい、わかりましたよアデル。行きましょう。……本当にもう、大人が話してるときは邪魔しちゃだめよ。おばあさまから教えられてるでしょ?」


 手をつないで歩き出しながらパトリシアが形式的な叱責をする。アデリシアはぺろりと舌を出した。


「はーい、ごめんなさーい」


 これも嘘に入るのだろうか。

 歩きながらアデリシアは考えた。


 だとしたら、その重みは、いったいどれくらいなのだろう。


 手をつないだまま〈神殿〉を出た。さっきエリックと一緒に見たときよりもっと、この辺りの空も不穏な空気をはらみ始めている。パトリシアはその空を見て顔をしかめ、足早に歩きだした。


 ――この冬を越すってことが、どういうことかわかるか。


 エリックの声がもう一度聞こえた。


 ――この冬が果てしなく続くのかって思うときの絶望がわかるか。


 嵐をはらんだ空。

 嵐をまき散らす〈何か〉。


 パトリシアはそれにずっと立ち向かってきた。

 そのために、嘘をつき続けてきた。薄っぺらな嘘。その場しのぎの嘘を。


 その嘘は、いつ終わるのだろう。

 〈その日〉が来たら、なのだろうか。


「……ねえ、パトリシア。〈孵化〉って、なあに?」


 急ぎ足で歩くパトリシアに一生懸命付いていきながら、アデリシアは訊ねた。次の瞬間、しまった、と思った。


 パトリシアがぎくりとしたのだ。


「……知らないの」


 冷たい声で訊ねられ、アデリシアはたじろぐ。


「う、うん……」

「魔力の強い人間が、人間の殻を脱ぎ捨てて、マヌエルになる、という現象のことよ。マヌエルは風を操ることができる。水も。雪を溶かすこともできる、魔法を使える存在なの」


 説明は丁寧だったが、声が固い。淡々と、まるでどこかに書かれた説明書を読み上げたかのような。


「それって……我慢、できる、ことなの?」


 パトリシアが足を止めた。

 冷たい目で見下ろされて、アデリシアは立ちすくんだ。


「なにそれ」


 声も冷たい。ひゅうっ、と、二人の間を雪混じりの冷たい風が吹き抜けていく。


「え……と、……その……エリックが」


 しどろもどろになった。自分が墓穴を掘り続けていることはわかっていた。でも、どうしていいのかわからなかった。パトリシアが怒っていることはわかる。でも、どうして怒っているのかがわからない。


「エリックが」


 パトリシアは繰り返した。

 そして笑った。

 蔑むような。憎むような。愛おしむような、恐れのような、複雑な色を含んだ笑みだった。


「そう。……エリックは、やっぱり、そう思っているのね」

「……パトリシア……」

「違うのよ。あたしは我慢してるわけじゃない。だってあたしは、エルカテルミナなの。在るだけで、既に真実なのよ。あたしに孵化が来ないのは、〈その日〉がまだ来ないから。ね、そうじゃない?」


「そ、う……?」


「〈その日〉が来る前に孵化を迎えたら、もう〈あちら〉には行けなくなる。だから選ばれた存在であるあたしに、今、孵化が来るわけがないでしょう? ……心配することないのに。エリックったらほんと、困った人」


「……」


「困った人だわ」


 そう言ってパトリシアは再び歩きだした。

 アデリシアは黙ったまま、パトリシアに手を引かれて歩いていった。わけがわからないまま、ただ、失敗した、という寄る辺ない気持ちだけを抱えて。


 時間を巻き戻せるなら、そうしたかった。

 さっき口にしてしまった〈孵化〉という言葉を取り戻して、なかったことにしたかった。


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