孵化
うわあ……ん。
どこか遠くで、悲鳴のようなものが聞こえて、アデリシアは我に返った。
何か、大勢の人があげた狼狽の声が、響きあい、反響し合って、かすかに届いたような音だ。
アデリシアは耳を澄ませた。
すると、不思議なことが起こった。聞きたいものを邪魔するほかのすべてのものが、すうっ、と遠ざかっていったのだ。
まるで体中の感覚が研ぎすまされて耳になったかのようだった。あたりが急に暗くなったような気がする。でも、その音は聞こえる。遠く――かなり遠くだ。でも、この建物の、中だ。目を閉じて、場所を探る。音の波の出所。どこだろう。
――……ナが……!
――どこへ、いつ、いつの間に……
――静まりなさい。
凛、と響く声が混乱を制した。アデリシアは目を開いた。
パトリシアだ。
――でも、でも……
――数日前には確かに……
――なぜ、まだ……
耳を澄ませながら、走り出した。孤独な花が不憫だった、そう言ったエリックの声がアデリシアを走らせた。守ってくれる剣もない、道を示してくれる者もない、それでも立ち向かう花を、助けてやりたかった。
そのエリックは今いない。
アデリシアしか、いない。
階段をかけ降りるにつれ、『声』は大きくなっていく。なくなったものが、なぜ現れないのか、と言い交わしているようだ。
パトリシアが今立ち向かっているのは、人々の不信と猜疑の声。
――〈その日〉が近づいているわ。剣がなくなったのは、きっとそのせいよ。
その声の後ろで、さらさらと、水の流れる音がする。建物の、中の、はずなのに。
――私の〈剣〉を、選びに行ったのよ。みんな、喜んで頂戴な。私の決意を、偉大なる〈その日〉を、手助けしてくれる人間を、選びに行ったのだから。
――でも、その誰かは、今どこに?
かすかな不安をにじませる声に、パトリシアは言う。
――遠くにいるんだわ。今きっと、こっちへ向かっている最中よ。
その声は、少しだけ――ほんのかすかにだけ、張りが足りなかった。パトリシアもきっと、その誰かが、本当に遠くにいるのか、自信が持てないのだろう。
そのとき、さっきパトリシアに『私も一緒に行かせてください』と頼んだ少女の声が、言った。
――エスティエルティナは……グウェリンのお嬢様を選ぶのではないのですか?
一瞬の間。パトリシアの瞬きの音まで、アデリシアは聞いた気がした。
それから、朗らかなパトリシアの声が笑った。
――あの子のことは選んでないわ。私にはわかる。
――そう、ですか?
――そうよ。さっき会って、確かめたばかりよ。持ってなかったわ。
――でも……
――あの子はアナカルシスの王子様と結婚する身ですもの、生まれたときから外国に嫁ぐことを定められた、エスメラルダ人というよりはアナカルシス人よ。エスティエルティナが、選ぶわけないでしょ。
――生まれたばかりの時に、あの方を選んだという噂は……
――それは本当に生まれたばかりの頃。まだ王子様と許嫁の約束をする前のことだもの。
嘘をついている。
走りながらアデリシアは、悲しかった。
どうしてだろう、その声を、本当に聞いているわけではないからなのだろうか。パトリシアの嘘が、匂いたつような気がする。パトリシアはマイラに『さっき会って』なんかない。それにマイラと王子様の縁談は破談になってしまった、それを、パトリシアは知っているはず、……それなのに。
そんな薄っぺらな嘘をついても、すぐにばれてしまうのに。
パトリシアにその嘘の空虚さが、わからないはずないのに。
ニースはいつも、〈子供たち〉に言った。どうしてもつかなければならない嘘もあるから、嘘が、全部悪いという気はないよ。でも、覚悟おしよ。ひとつついたら、嘘を重ねなければならなくなる。つき通さなければならなくなる。つき続けた嘘はあんたたちの上に積み重なって、どんどん重くなっていく。
その重さに耐える覚悟が持てないなら。
はじめから嘘なんか、つくもんじゃないんだよ。
パトリシアは今までも、嘘を重ねてきたのだろうか。
その重みは今、どれくらいの重さになっているのだろう。
――大丈夫よ。〈その日〉がくればみんなわかるから。
パトリシアは自信たっぷりに言い、みんなは信じた。
信じて、しまった。
――エスティエルティナは私を助けてくれる人間を選んで、今ここにつれてきてくれてる最中よ。
――〈その日〉がまだ決まらないのは、もしかして……
――エスティエルティナの到着を、待ってるからなのですか。
誰かの言葉に、パトリシアがほっとした。表情に出していないだろうその安堵が、アデリシアは悲しい。
誰かが今思いついたばかりの口実に、簡単に飛びついてしまう、パトリシアの軽さが。
以前はそんな軽薄な人じゃなかったはずだ。どうしてだろう、そんな気がしてならなかった。何が彼女を変えたのだろう。悪い方に悪い方にと、彼女を導いているのは誰なのだろう。
――そうね、その側面もあるわ……でも間に合わないかもしれないから。
――待たない、の、ですか?
――人魚の手助けがあれば、エスティエルティナは……まあその、〈鍵〉としての役割は、少なくともいらないわけでしょ。本当は待ちたいけど、私は急ぎたいの。できるだけ早く、みんなに見せてあげたいから。
慈悲深いパトリシアの声に、みんな感じ入った様子だった。
パトリシアが安堵している。この場はうまく乗り切った、そう思って。アデリシアはもはや泣き出す寸前だった。いったいどうしてと、叫びたかった。
そんなその場しのぎの嘘を、いつからつき続けてきたんだろう。
どうして誰も、その嘘を見抜いてあげないのだろう。
どうして嘘をついてまで、自分を守らなければならないのだろう……。
一階の長い廊下の突き当たりに、その扉はあった。中からせせらぎの音が聞こえてくる。大きな、エリックの身長の三倍はありそうな巨大な扉だ。礼拝堂、というのはきっとここだろう。
そこから、パトリシアが出てきた。彼女と話していた人たちは、さっき別れた時より遙かに増えていて、みんなぞろぞろと彼女を見送りに出てきた。パトリシアはアデリシアに気づいて、微笑んだ。聖女のような、花のような気高い微笑みだった。
「アデル。お父様は見つかって?」
「……ううん」
首を振るとパトリシアは、そう、と言った。
それから辺りを見回し、
「ね、エリックは?」
「なんだか……急な用事ができたみたい。先に帰ってろって言って、走っていっちゃった」
「まあ。どうしたのかしらね」
言いながらパトリシアはそっとアデリシアの手を握る。
「それなら、今日のところは帰りましょうか。エリックはきっと、警備隊の仕事に行ったんだわ」
パトリシアがこの場を去りたがっているのが、アデリシアにはよくわかった。
さっきついた嘘の重みに、心が悲鳴を上げているのだ。
「うん、ついさっき。今行けば、追いつけるかも」
「あら」パトリシアがほっとした。「じゃあ、行きましょう」
「パトリシア様、そのお子は……」
「えっ、」
パトリシアが振り返る。みんな興味津々、という顔でアデリシアを見ている。パトリシアが逡巡した。アデリシアのことを説明したら、この場から去る時間が延びてしまう。だが邪険にするわけにもいかない。
アデリシアは自分の役割を正確に認識していた。今パトリシアにしてやれる一番のことは、ここから逃げ出させてやることだ。
パトリシアはけなげにもみんなに、説明を始める。
「この子は、アリエディアの子で……おばあさまにもらった〈通行証〉で入ってきたらしくて。ええ、私も驚いたの、まだ残っていたのかって、」
「ねー、ねー、ねー!」アデリシアはだだっ子のようにパトリシアの手を引いた。「早く行こ! 早く行こ! 追いつけなくなっちゃうよ!」
「あ、そ、そうね。役場に届けようと思って今日つれてきたんだけど、」
「ねえーってばあー!」
「ああもう、ごめんなさい、警備隊の方で何か問題が起こったみたいなの。この子のことは後日改めて届けにくるわ……はい、はい、わかりましたよアデル。行きましょう。……本当にもう、大人が話してるときは邪魔しちゃだめよ。おばあさまから教えられてるでしょ?」
手をつないで歩き出しながらパトリシアが形式的な叱責をする。アデリシアはぺろりと舌を出した。
「はーい、ごめんなさーい」
これも嘘に入るのだろうか。
歩きながらアデリシアは考えた。
だとしたら、その重みは、いったいどれくらいなのだろう。
手をつないだまま〈神殿〉を出た。さっきエリックと一緒に見たときよりもっと、この辺りの空も不穏な空気をはらみ始めている。パトリシアはその空を見て顔をしかめ、足早に歩きだした。
――この冬を越すってことが、どういうことかわかるか。
エリックの声がもう一度聞こえた。
――この冬が果てしなく続くのかって思うときの絶望がわかるか。
嵐をはらんだ空。
嵐をまき散らす〈何か〉。
パトリシアはそれにずっと立ち向かってきた。
そのために、嘘をつき続けてきた。薄っぺらな嘘。その場しのぎの嘘を。
その嘘は、いつ終わるのだろう。
〈その日〉が来たら、なのだろうか。
「……ねえ、パトリシア。〈孵化〉って、なあに?」
急ぎ足で歩くパトリシアに一生懸命付いていきながら、アデリシアは訊ねた。次の瞬間、しまった、と思った。
パトリシアがぎくりとしたのだ。
「……知らないの」
冷たい声で訊ねられ、アデリシアはたじろぐ。
「う、うん……」
「魔力の強い人間が、人間の殻を脱ぎ捨てて、マヌエルになる、という現象のことよ。マヌエルは風を操ることができる。水も。雪を溶かすこともできる、魔法を使える存在なの」
説明は丁寧だったが、声が固い。淡々と、まるでどこかに書かれた説明書を読み上げたかのような。
「それって……我慢、できる、ことなの?」
パトリシアが足を止めた。
冷たい目で見下ろされて、アデリシアは立ちすくんだ。
「なにそれ」
声も冷たい。ひゅうっ、と、二人の間を雪混じりの冷たい風が吹き抜けていく。
「え……と、……その……エリックが」
しどろもどろになった。自分が墓穴を掘り続けていることはわかっていた。でも、どうしていいのかわからなかった。パトリシアが怒っていることはわかる。でも、どうして怒っているのかがわからない。
「エリックが」
パトリシアは繰り返した。
そして笑った。
蔑むような。憎むような。愛おしむような、恐れのような、複雑な色を含んだ笑みだった。
「そう。……エリックは、やっぱり、そう思っているのね」
「……パトリシア……」
「違うのよ。あたしは我慢してるわけじゃない。だってあたしは、エルカテルミナなの。在るだけで、既に真実なのよ。あたしに孵化が来ないのは、〈その日〉がまだ来ないから。ね、そうじゃない?」
「そ、う……?」
「〈その日〉が来る前に孵化を迎えたら、もう〈あちら〉には行けなくなる。だから選ばれた存在であるあたしに、今、孵化が来るわけがないでしょう? ……心配することないのに。エリックったらほんと、困った人」
「……」
「困った人だわ」
そう言ってパトリシアは再び歩きだした。
アデリシアは黙ったまま、パトリシアに手を引かれて歩いていった。わけがわからないまま、ただ、失敗した、という寄る辺ない気持ちだけを抱えて。
時間を巻き戻せるなら、そうしたかった。
さっき口にしてしまった〈孵化〉という言葉を取り戻して、なかったことにしたかった。




