毛皮
エリックとパトリシアは、まさに、親分とニースの関係と同じだ。
その感覚は、“家”に着いてさらに強まった。どうやらこの二人は、正式に結婚はしていない、ようだ。さっきの言い方から、エリックが主なのかと思っていたが、違った。小さいけれど居心地の良さそうなその家の主人はパトリシアで、エリックがそこに居候している、という関係らしい。
だからつまり、マイラの家ではなく、彼女がここに帰ってくることはあり得ない。
それを悟ってアデリシアは落胆した。なかなかマイラに会えず、ニースの頼みをちゃんと果たせるのか、心許なくなってくる。
エリックが言っていた、サーシャ、というのは、この家の、小間使い兼料理人を勤める女性の名だった。この人がまた、アデリシアの憂鬱に拍車をかけた。にこりともしないサーシャはとても小柄で、アデリシアが未だかつて見たこともないほど陰気な顔をしていた。彼女のそばにいるだけで気分が暗くなるような気さえする。だが彼女は、アデリシアという新たなお荷物を抱えても嫌がらなかった。少なくとも、口には出さなかった。
「お部屋はどこにしましょうね」
かさかさに乾いた枯れ葉みたいな声音で、サーシャは憂鬱そうに呟いた。パトリシアは首を傾げ、
「居間も書斎もいっぱいだしねえ……とりあえず、今夜のところは、あなたの部屋に箱寝台を入れてもらえないかしら」
「そうしましょう」サーシャはうなずく。「近いうちに屋根裏を整理して住めるようにするのではいかがですか」
「ええ、お願いするわ。アデル、ちょっと一休みしてから、〈神殿〉に行きましょ。あなたのお父様を捜さなくちゃ」
「は、はい」
うなずいたアデリシアに微笑みかけ、パトリシアはきびすを返した。アデリシアはどうしようか迷い、ついていこうとしたが、サーシャが言った。
「こっちへおいで」
気のない言い方だった。アデリシアは心細さに耐えてそちらに行った。サーシャが向かったのは厨房だ。
「すいてるだろ」
か細い声を、一瞬聞き逃した。「えっ?」
「おなか。すいてるんだろ。パトリシア様がお召し替えをなさる間に食べな」
「あ、あ。ありがとうございます」
「どういたしまして」相変わらず陰鬱な声だ。「朝は大したものはないけどね」
厨房は綺麗に片づけられていた。磨き込まれた作業台に粗末な木のいすを持ってきて、サーシャはそこへ座れと言った。きっとこの人は親切な人なのだと、アデリシアは自分に言い聞かせた。ただ単に、陰気なだけなのだ。
さっきパトリシアは、自分を“エルカテルミナだから〈神殿〉に籠もらなくてもいい”と言った。それに、周りの人の扱い方を見ても――あの未亡人の話し方を見ても、彼女がこの国のお姫様にあたる地位にあるのだろうことは疑いない。はずなのに。
ここには、この人しかいないみたいだ。彼女の身の回りの世話をする人が、もっと大勢いてもいいのに。
こと。
無言で皿を出され、アデリシアはまた、気持ちがしゅっとしぼむのを感じた。
パンが一切れ。コップに入った水。薄いチーズがひとかけら。
――さあ、たんとお食べ。子供はおなかいっぱい食べなくちゃね!
元気だった頃、ニースがアデリシアたちの前に出してくれた色とりどりのご馳走とは比べるべくもないほどに質素な皿。
「食べたら好きにおし」
言いおいて、サーシャは厨房から出ていった。アデリシアは自分に言い聞かせる。食べ物をもらえるだけありがたいと思うべきだ。こんなに雪深い国なのだ。パンだってチーズだって貴重品に違いない。
それなのにマイラは、あんなにたくさんの食べ物を、何度も何度も届けに来てくれたのだ……
食べながら見ると、厨房の設備は塔のものより格段に整っていた。フライパンも鍋も新品同様に磨き込まれ、つやつや光っている。広々としていて、とても綺麗だ。パンを焼く竈に火が入っていないのを見て、アデリシアは首を傾げる。
そのとき、どこかで扉が開いた。
どたどたと足を踏みならして雪を落とす音からして、三人はいるだろう。足音が重く、大柄な体格を思わせる。彼らは何か言い交わしながら廊下を歩いて別の部屋に行ったらしい。アデリシアは塔の〈長女〉としての習慣で、苛立った。建物に入ってくるのに挨拶もなしにどやどや上がり込むなんて。
好きにしな、と言われたことだし。
食べ物は、全部食べたし。
アデリシアは立ち上がって、覗きに行った。
彼らが入ったのは、さっきエリックが入っていった部屋のようだ。扉が開いている。そこからいい匂いが漂ってくるのを嗅ぎつけ、アデリシアはそっと扉から中をのぞき込んだ。
正面にエリックがいた。今入ってきたのはみんな若者たちで、アデリシアは違和感を覚える。ここは、パトリシアの家ではなかったのだろうか? 主にお邪魔しますも言わず、彼らは今、買ってきたらしい品物を机の上に並べている。
串に刺して炙った肉の塊。つやつやした、タマネギとインゲン豆と人参と背脂の入った炒めご飯。薯をつぶして衣を付けて揚げたのと、トマト味のソースを絡めた麺の山。
「買ってきましたよ」
「おう」
エリックは地図を見ていたが、手を伸ばして串肉を取った。かぶりついたその瞬間に、肉汁が飛んだのまで見えた。
アデリシアは悟っていた。この国は、決して貧しくなんかない。
「で、どうでした」
若者が炒めご飯を皿によそいながら言い、エリックは肉を噛みながら、うう、と唸る。
「三つとも盗まれてた。ロビンソン商店を見張れ」
「ロビンソン……あのロビンソン商店? あそこが絡んでますか」
「間違いない。〈窓〉そのものが目的なのかと思っていたが、素材が必要なのかもしれない。ロビンソンは〈人魚の骨〉を扱える。〈窓〉を作れるのはあそこだけだ」
「でも……何のために」
「わからん。だがヴァルターの急死が絡んでることは確かだ……」
「アナカルシスの軍勢を引き入れるためじゃねえですか」
トマト味の麺をもりもり食べていた男が言った。エリックが眉を上げる。「何だと?」
「あんたとパトリシア様が結婚すりゃあんたはエルヴェントラになる。名実ともに、この国の支配者はあんただ。ロビンソンはそれが気に入らねえ。〈窓〉を全部閉じられれば逃げられなくなるだろ、そこに〈通行証〉を持ったアナカルシスの軍勢が押し寄せて、あんたを殺すまで追い回す。そういう筋書きってのはどうですか」
「おまえ頭いいなー」炒めご飯の若者が感心したように言った。「なに言ってんのかわかんなかった。初めから頼む」
「……筋は通るが、それはないだろうな」
エリックが考えながらゆっくりと言った。トマト麺の若者が口をとがらせる。「なんでです。ロビンソンは、シャトーとかいうアナカルシスの貴族と昵懇なんでしょ」
「その策を取れば、確かに俺を殺せる……いつかは、だが」エリックはもうひとつ肉を噛み、飲み下した。「そうすると、エスメラルダの支配者はアナカルシス国王になる。ロビンソンはこの国を愛してる。それだけは間違いない。だからその策は取らない。国を滅ぼす策だからな」
「……なんだおまえ」
気がつくと身を乗り出しすぎていたようで、トマト麺の若者がアデリシアに気づいた。アデリシアはぎょっとし、さっと身を引っ込めた。若者が「待て!」怒鳴って追いかけてくる。「どっから入った――」
「その子はいいんだ。俺が入れた」
若者がアデリシアの首根っこを捕まえる寸前に、エリックの声が間に合った。
「アデル、入ってこい。おまえたちにも紹介しとく。その子は俺の娘だ。乱暴すんじゃねえぞ」
娘?
アデリシアは目を丸くしたが、若者たちはもっとだった。
「娘!?」
「あんたが!」
「今更!?」
「つーかでかくねえ!? この子五歳くらいじゃねえの? 六年前っつーと……つきあってねーだろまだ!」
トマト麺の若者がアデリシアに、エリックを指さしながら訊ねた。
「パパなの?」
「ちがうっ」
「すっげー否定してますけど」
「うるせえな」エリックは顔をしかめる。「みたいなもの、を言い忘れただけだろうが」
「いやそこ大事! 超大事!」
「いやーびっくりした、パトリシア様知ったらすげー怒んだろーなとか母親誰だろーとか今までどこに隠してたんだろーとかいろいろ阿鼻叫喚地獄絵図を思い描いちまったじゃねーかよ……」
「可愛いだろ」
エリックが真顔で言った。二人の若者は目を剥いた。
そしてアデリシアを見た。
「……確かに可愛い、けど」
「大丈夫か隊長……熱でもあんじゃねーか……」
ひそひそ囁きあう二人の上から、エリックがのぞき込んできた。
「アデル、こっち入れ。食事はもらったのか」
「う」
一瞬、返事に窮した。アデリシアの感覚では、サーシャが出してくれたものは『食事』ではなく『食べ物』だ。その一瞬でエリックは悟ったらしい。ああ、と唸る。
「そうだった。そこまでサーシャに任せたらおまえが……」
「アデル、お待たせー」
朗らかに、パトリシアが登場した。
先ほどまでは動きやすいものを着ていたが、今はドレスを着ていた。思わず見とれてしまった。白いドレスは裾がふんわりと膨らみ、ほっそりしたパトリシアの体を可憐に見せている。サーシャが持ってきた毛皮も先ほどまでの実用重視のものじゃなく、真っ白で豪奢な毛皮だ。
まるでスピアの毛皮みたいだ。
スピアは、とても美しい毛皮を持っていた。ニースは、アデリシアほど綺麗な生き物を見たことがない、と言ってくれたけれど、アデリシアからすればスピアの方がずっと綺麗だった。ふかふかの毛皮はとても華やかで、混じりけのない白だった。
「さあ、行きましょ」
「行くって、どこへ?」
エリックが訊ねる。パトリシアは笑った。
「いやだわ、アデルのお父様を捜してやらなきゃいけないでしょ。私〈神殿〉に顔を出す用事もあるし、ついでにつれていってくる」
「〈神殿〉……今日は礼拝の日じゃないだろう」
「〈窓〉が盗まれて、みんな不安がってるでしょう。みんなの不安を和らげるのが私の大事なお仕事よ」
「そうか……じゃあ、俺も行く」
「え、いいの?」
パトリシアは目に見えて喜んだ。エリックも思わずというように目尻を下げる。
「警備隊詰め所に寄っていろいろ用事を済ますのにちょうどいい。貴女がみんなの不安を和らげるには時間がかかるだろ。その間にアデルの父親の方も手続きしとく」
「まあ、ありがとう」
パトリシアは嬉しげにエリックに抱きつき、その頬に軽いキスをした。その体をエリックが両手で支えると、パトリシアの腰は、エリックの両手の平で作った輪の中に収まってしまうほど細かった。
「パトリシア。昼飯は食べたのか」
エリックが少し不安げに訊ね、パトリシアは微笑んだ。
「ええ。アデルにも出したって聞いたわ」
ずっと後ろに控えていたサーシャが陰気にうなずく。食べ物の話になったからか、アデリシアの胃がきゅうっと鳴いた。出されたものは全部食べたが、到底足りない。
幸い、その音は誰にも聞こえなかった。エリックは確かめるようにアデリシアを見たが、アデリシアは平静を保っていた。出されたものに不平を言うような不躾なまねはしたくない。侘しさを感じてしまうのはどうしようもないけれど、その心根さえ恥ずかしいと思うのに。
「……ならいいが。サーシャ、わかっていると思うが、アデルは子供だ。子供は好きなだけ食べるものだ。信仰を教え込む必要もない」
「承りました」
サーシャは真面目にうなずいた。
サーシャは一緒に来なかったので、アデリシアはほっとした。パトリシアの手袋に包まれた手が、アデリシアの手を握ってくれる。柔らかな感触。パトリシアの体を包む毛皮が、手袋越しにもその極上の手触りを伝えてくれる。
「その毛皮、とっても綺麗ね」
アデリシアは言って、パトリシアを見上げた。
少し誇らしい気持ちだった。
アデリシアも人間を真似るのをやめれば、これと似た毛皮を持っている。スピアほど豪奢じゃないけれど。
「そういう毛皮の生き物を、あたし知ってる」
するとパトリシアは微笑んだ。
「あら、すごいわ。どこにいるの?」
「えっと――」
どこ?
その点を聞かれるとは思わなかったので、アデリシアは一瞬戸惑った。
「この毛皮ね、イェルディアの大商人からの貢ぎ物なのよ。この世に十枚もない、本当に貴重なものなの」
「どこにいるんだ、アデル?」エリックが訊ねる。「この近くか? なんでも価値が付けられないほど高価なんだそうだ。国庫が潤うぞ」
「ぜんぜん寒くないのよね、この毛皮」うっとりと、パトリシアは手袋で毛皮を撫でる。「軽いし、手触りも極上だし。大商人は四十年前に、海岸に何頭か打ち上げられているのを偶然発見したんですって。生きていれば飼育して繁殖させて、もっと増やせたのにって悔しがっていたわ」
――四十年前に。
アデリシアは愕然とした。
イェルディアの浜辺に、何頭か打ち上げられていた。
その生き物の、――毛皮。
「どこで見たの?」
パトリシアが訊ね、
「生け捕りにできたらすごいな」
楽しげにエリックが言う。心臓が悲鳴を上げている。アデリシアは微笑んで見せた。心臓の叫ぶとおりに。
「図鑑で見たの。どこにいるかは知らない」
「そう、残念」
「銀狼の毛皮かもしれないしな。銀狼だったなら、生け捕りなんて絶対無理だ」
二人はそういって、話を変えた。子供のかわいらしいおしゃべりにつきあっただけで、別に本気だったわけではないのだろう。ないはずだ。……そう思う。
美しい毛皮を誇らしいなんて、のんきに思っている場合じゃなかった。
ニースがあれほど執拗に、人間の姿にならなければだめだと言い聞かせた理由が、やっとわかった。
正体がばれたら、気味悪がられるだけじゃ済まない、からなのだ。
あの塔に、水夫はひとりもこなかった。親分もいつもひとりで来た。マイラもだ。彼らは昼間には絶対に来なかった。明け方とか夜とか、人目を忍ぶようにして、いつもこっそりと訊ねてきていた。
――たくさんの“上質な毛皮”の存在を、誰にも知られないようにする、ため、だったのだ。
パトリシアの手をふりほどくことはできなかった。アデリシアはできるだけ、その毛皮から目をそらして、平気なフリをして歩いた。胃の不快感から意識をそらし、動揺を押し隠して。ばれてはいけない。ばれてはいけない。ばれてはいけない。ばれては。




