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海の女王と陸の花  作者: 天谷あきの


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17/22

『泥棒』

 閉じたところから寒気の波が吹き付けて、小柄な鴉が後ろに向かって少し吹き飛ばされた。


 少女の方はといえば、ロープを取り外し、装置を小さく縮めて二つとも皮袋に回収し、板を引きずって上に上がって行く。


「うっわ」


 新たな声が聞こえたので、私も急いで斜面を登っていった。斜面の上に現れた銀狼を見て、待っていた誰かが驚きの声を上げたらしい。


 そこにいたのは、マイラより少し幼いくらいの少年だ。


「銀狼だー……初めて見たー」

「カイ」


 マイラも驚いたらしい。カイ、と呼ばれた少年はまだまじまじと銀狼を見ていたが、マイラに視線を移してにっこり笑った。浅黒い肌に灰色の目、茶色の頭髪。なかなか整った顔立ちの、人なつっこい笑顔の少年だった。


「よー姉ちゃん。おやじが、姉ちゃんの手助けしてやれって言うから追っかけてきたよ」


 姉ちゃん? ということは、この二人は姉弟なのだろうか。フェルディナントはその場から動かず、じっと二人を見ている。マイラは顔をしかめた。


「ラオさんったら……別にいらないって言ったのに」

「まーそー言うなよ。ねね、何これ、銀狼? すっげー、俺初めて見たー」

「あたしも初めて見たよ。カイ、礼儀はどうしたの」

「おっと」


 少年はぴっと気を付けをした。


「初めまして、カイ=ロビンソンと申します。気高き高貴な獣の王、エスメラルダへようこそ!」


 つーん、フェルディナントはいかにも銀狼らしくそっぽを向いた。……そして、私は気づいた。そうだ、銀狼って、確かそういう生き物だった。


 男の人には見向きもしない。そういう生き物だった。確か。魂の修復が進むにつれて、少しずつ、そういう知識も戻ってきているらしい。


 マイラもカイも、銀狼が男に冷たい生き物だと知っていたようで、顔を見合わせて苦笑する。


「何か必要があったらどうぞ何でもお申し付けください。……で、姉ちゃん、次はどこなのさ」

「いらないってば。これはあたしの仕事。危ないから帰って」


「危ないんなら余計にでしょ。俺だってグウェリンの血が入ってるし、姉ちゃんよりは腕も立つ」

「なんですって?」

「ほらほら、地図、見せなって。……おおー、もう半分終わってんじゃん。方向音痴の割にはなかなかやるね」

「失敬な!!」

「印付けんのそこじゃないよー? 今回収したのは、こ・こ」


 カイが地図の一点を指さし、マイラは怒った。


「うっ、うるさいな! いらないって言ってるでしょ! 帰れ帰れ!」

「あ、ついでに言っておくと、次に向かうのはそっちじゃなくてこっちだよ? そっちは今来た方でしょ」


 カイが笑い、先に立って歩き出す。マイラは辺りをきょろきょろ見回して、「もうっ!」と言った。


「バカにするなー! バカー!」

「時間があんまないんでしょ。危険だとかいう理由で手助けを断っててさ、手遅れになったらどうすんの」


 カイが彼女を振り返り、まじめな顔で言った。マイラが黙る。


「俺ももう十四歳よ? ちょっとは信頼してよ。道案内くらいできる」

「……ここには見張りがなかったけど。見張りがいたら、危ないよ。〈窓〉が盗まれてることくらいは、兄様たちももう知ってるはず」

「俺だってグウェリンの一族だ。やるべきときはやるんだ。姉ちゃん一人が頑張ってんのに、家でのんびりなんてしてられるわけないでしょ。……ほら、これ見て。親父がくれた。姉ちゃんの手助けするんなら、これが必要だろうって」


 言って差し出したのは、無骨そうな一振りの剣だった。

 柄に複雑な美しい紋章が刻まれた、長剣と言うには少し短いくらいの剣だ。

 マイラは食い入るようにそれを見る。カイは笑った。


「すごいでしょ。グウェリンのおじさんにも許可もらってきたんだよ。姉ちゃんが認めれば、カイ=ロビンソン=グウェリンって名乗っていいって、言ってくれた。頼むよ、姉ちゃん。俺を認めてくれ」

「……そんなのずるいよ」俯いて、マイラは呻いた。「あたしが拒否できるわけないじゃないか……」

「ありがと。じゃ、行こ」


 嬉しそうに笑って、カイはどんどん歩いていく。銀狼の前を通り過ぎるときには、礼をするのを忘れなかった。気だての良さそうな子だと私は思った。マイラにもこういう弟? がいて、なんだか嬉しい。


 そして、首を傾げる。何で、嬉しいんだろう?


 でも、そう。これが『嬉しい』という気持ちだ。鴉と一緒に飛んで『嬉しい』。鴉がフェルディナントを怖がらなくなって『嬉しい』。兄が死ななくて『嬉しい』。そうだ。『嬉しい』というのは、こういう気持ちだった。




 ……また少し、思い出した。


 ひとりの兄が昔、熱病にかかって死にかけた。


 流行病、だったのだろうか。私ももうひとりの兄も隔離され、お見舞いは絶対に許されなかった。一週間も高熱が続き、どこかから偉いお医者さんが呼ばれて、兄は何とか、一命を取り留めた。


 あの時、私は本当に『嬉しかった』。


 でもなぜか、お父様もお母様も、手放しでは喜んでいなかった。兄は命と引き替えに、何かを失った。何を? そこは思い出せないけれど。


 でもそんなこと、どうでもいいじゃないかと私は思った。兄は助かった。『何か』以外のものは、何も失わなかった。優しい心根も。利発さも、聡明さも。探求心も、冒険心も、真摯な心根も、身につけた学問も剣術も馬術も、何一つ。


 ああ、そうだった。私は本当に、あの人が生きていて嬉しかった。

 これが、『嬉しい』という、魂の根幹を揺るがすような感情だった……。



 ふと我に返るとマイラもカイももういず、銀狼が、雪の上で寝そべって、エスメラルダの方を眺めていた。私も彼の隣に並んでそちらを見た。そこは森だった。雪が溶ければ、きっと背の高い森なのだろう。


『あの……これからどうするの?』


 少しおずおずと訊ねた。私はできれば、マイラの方に行きたかった。

 どうしてだろう? あの黒髪の少女のことが、気になってたまらない。彼女はいったい何をしてるんだろう。ちらりと見えた地図はエスメラルダの地図らしく、【壁】らしき線が円で描かれていた。そこに、墨で×を付けていたようだ。ひとつひとつ、虱潰しに、【壁】の通気孔を閉じている。彼女の行為は、そういうことではないのだろうか。


 すべての通気孔が閉じてしまったら、エスメラルダは凍り付いてしまうのに。


 彼女は、エスメラルダを凍り付かせたいのだろうか?


 でも、ただの印象だけれど、彼女がただエスメラルダを凍り付かせたいために動いているわけではない、という気がするのだ。それなのにいったいどうして、と、不思議でたまらない。この感情は、確か。


 ――好奇心でうずうずしてる。


 ぽふん、尻尾で私に触れ、フェルディナントが意志を伝えてきた。そうだ、と思う。これは『好奇心』だ。


 ――別にいいよ。行ってきたら? 僕は彼女には会いたくないから。


『どうして?』


 訊ねた瞬間、尻尾が離れた。

 ややして、考えをまとめたのだろうか、フェルディナントが再び私に触れる。


 ――説明は難しいけど、僕は彼女に会いたくないんだ。貴女が会うのは自由だ。僕に止める権利はない。貴女が自分の素性を名乗って、魂の修復を進めるための、協力を依頼することも止めない。でも、ひとつ約束して。僕のことを彼女に話さないって。


『どうして?』


 ――約束して。


 若草色の瞳がじっと私を見る。私は迷い、そして、頷いた。


『いいわ。約束する』


 ――ありがとう。僕は……


 フェルディナントは尻尾を離した。少し迷って。

 それから、続けた。


 ――かつての僕には、選択肢がなかった。


『選択肢?』


 ――七歳の頃から、その道しかなかった。どうか……共感してくれなくて構わない。理解して、というのも無理かもしれない。でもどうか……僕を、恩知らずだと、なじらないでほしいんだ。


『恩知らずだなんて。そんなこと思ってないわ』


 ――どうかな。記憶が全部戻ったら。


 言ってフェルディナントは笑った。


 ――僕は今、結構いい気分だよ。どこにだって行けるんだ。何をしたっていいんだ。だからもう少し、いろいろ見て回りたいんだ。面白そうだからね。


『そ、う……?』


 ――貴女が彼女に惹かれるのはたぶん当然のことだ。だから一緒に行ったらいいよ。僕のことは気にしないで。貴女は話せるんだし、五日たったら人間に戻れる。ここに来た方が、貴女の魂の修復の助けになるんじゃないかな、と思っただけで、僕が来たかったわけじゃ……ない。


 嘘だ、と私は思った。もちろん私のためもある、でも、フェルディナントも気になっていたはずだ。私の目の色を見て、フェルディナントはぱっと尻尾を離した。


 若草色の瞳が、非難するように私を見る。


『……怒られても困るわ。私が勝手に覗いたわけじゃなくってよ。だだ漏れだっただけよ』


 あえて意地悪く言ってやると、ぐるるるる。銀狼は悔しげに唸って、さっときびすを返した。あっと言う間に見えなくなる。私はそれを見送ってから、羽ばたいた。好きにしていいというのなら、もちろん好きにしよう。あのマイラという子が何をしているのか、探りに行こう。


 こっちは寒いよ。


 まるで人間にするように鴉に話しかけてくれたあの子なら、もしかして、食事の時には人なつっこい鴉にも、パンのかけらをくれるかもしれない。

 そんな下心も、もちろんあった。私には、体を飢えさせない義務があるのだ。生の鼠以外の何かで、この子の胃を満たしてやらねばならない。



   *



 追いつくにはしばらくかかった。歩いているのだと思っていたが、すぐに違うとわかった。マイラとカイは滑っていた。平らな雪の上を、結構な速さで。


 二人とも、ロープを先端に取り付けた細長い板の上に乗っていた。ロープを左右に捌いて進路を調整するらしい。蹴っている様子もないのに、かなりの速度が出ている。あの板は、ただの板ではないらしい。


 それでも、空を飛ぶ方が速いのは当然のことだ。数分後、私は彼らに追いつき、マイラの乗る板の、彼女の後ろに首尾良く着地した。今のは上手にできた、私飛ぶの上手だから、と、鴉が自慢げに伝えてくるのを褒めながら、翼をしまい込んで板から振り落とされないようにする。


「ねーちゃーん」


 後ろを滑るカイが言った。


「何その鴉。ペット?」

「えっ」


 マイラが振り返り、私に気づいた。灰色の瞳が面白そうに瞬く。


「ついてきたの? 何か私に用事なの?」

「ねー、それ大丈夫? エリックがヘスの麻薬で乗り移ったりしてない?」

「ないよ。この子さっきまで【外】にいたんだから」

「へ? エスメラルダの【外】ってこと?」

「そー。外から、あの銀狼と一緒に入ってきたんだ。だから絶対、〈信者〉側とは関連ないはず。ほら、アナカルシスには、鴉に宿ったお姫様の話があるじゃない? きっとアナカルシスの鴉は特別なんだよ。もしかしたら、王家の紋章の基になった鴉の子孫かもしれない」


 言ってマイラは体を傾けた。前方に迫っていた木を危ういところで避ける。


「落ちないように気をつけて」ちらりとこちらを見て彼女は笑った。「なんだかすっごく賢そうだね。こんな可愛い鴉、初めて見たよ」

「可愛いかな……?」


 カイは訝しんでいる。マイラは笑って前に向き直り、移動に集中することにしたようだ。カイの方はマイラより、移動がもっと上手らしい。難なく滑りこなしながら、私に視線を向けてくる。


 首を傾げてみせると、カイは目を丸くする。


 そして笑い出した。「確かに可愛いな! この子きっと雌だね。育ちの良さそうな、お嬢さんって感じがする。エリックがヘス使ってたらきっともっと強面の鴉になるよね。……パトリシア様ってことはない?」

「ないってば」マイラは笑った。「顔つきが全然違うよ。あの人はお嬢さんじゃなくて王女様だし」

「あー。まあ、ややこしそうな色はないな、確かに。なんかのほほんとしてる。癒し系の鴉」


 くすっとマイラは笑った。「確かに!」


 のほほん、って。もしかして、バカにされてるんだろうか。


 カイはまだしげしげと私を見ている。前方を見てないのに、木はちゃんと避けていく。姉ちゃんより腕も立つ、とさっき言っていたけれど、あながち嘘でもないかもしれない。


 ちらり。カイはマイラに視線を投げた。彼女が前方に集中しているのを確かめて、少し、照れくさそうな、はにかんだような顔をした。


「あのね、姉ちゃん」


 マイラは答えなかった。聞こえなかったのかもしれない。

 それに安心したように、カイは小さな声で言った。少し恥ずかしそうに。


「……俺、兄さんに会ったんだよ。ついに」


 マイラはまた答えなかった。でも聞こえていたことは、私にはわかった。マイラが少しだけ、居住まいを正したから。


「格好良かったよ。すげー落ち着いてて。……俺嬉しかった。超やる気出た。……そんだけ」


 やっぱり、マイラは答えなかった。聞こえないふりをしてあげたのだと私は悟った。


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