〈壁〉
どうやら、触れているとフェルディナントの心の声が聞こえる、らしい。
それがわかってくるまでに、そう長い時間は必要なかった。私の言葉は、触れていても発声しなければフェルディナントに聞こえない。でも翼や足で、フェルディナントの毛皮に触れていれば、私には彼の考えていることが何となく聞こえてくるのだ。
――不公平だ。
フェルディナントは怒った。心の声を勝手に覗かれるというのはかなり不快なことらしい、と、私は学んだ。
だから今、私は自分の翼で飛んでいる。幸いフェルディナントの一応の目的地――エスメラルダに行くらしい――はもうすぐそこで、鴉の翼でも一刻足らずで着ける、という。
先ほどのフェルディナントではないけれど、空を翼で舞うのはとても楽しいことだった。体が喜んでいるのも感じられさらに嬉しい。その一刻足らずの移動で、空気には波があるのだと言うことを、初めて実感した。波を読み、計算し、行動する。思い通りに風に乗れたときの、達成感。充足感。満足感。
行きたい方向だけ伝え、私はほとんど体の操縦を放棄していた。当然だけれど、鴉の方が、飛ぶことに関しては数段上だ。鴉の五感に身を委ね、風と匂いと音を共有する内に、私の心は少しずつ、鴉の心に寄り添っていく。急ぐ旅ではないと知り、鴉は飛ぶことを楽しんでいた。地面すれすれまで急降下して木の枝を拾い、上空に舞い上がり、落とした木の枝を追いかけて空中で捕まえる、という芸当まで披露してくれた。私は鴉の、楽しもうとする気持ち、楽しませようとする気持ち、自慢げな気持ちと誇らしい気持ちを、同時に体感した。
ひとつひとつの心の動きが、自分のものとして感じられるようになってくる。私は感嘆していた。どうやら『感動』も思い出してきたようだ。世界の色が、次第に濃さを増していく。輪郭がくっきりとし、陰影が深みを帯びていく。
心が、膨らんでいく。
これがきっと、『魂の修復を助ける』ということなのだ――
気だてのいい鴉でありがたい。鴉と一緒に楽しみながら、私は思う。
私たちは街道をはずれ、広々としたなだらかな原っぱの上を飛んでいた。
一刻あまりの楽しい時間が過ぎるころ、鴉が、この先は行けないよ、と意志を伝えてきた。どうして? 訊ねるが、鴉は、複雑な理由を伝えることはできないらしい。ただ行けないのだ、と繰り返すばかりだ。
このまま進んだら、危ない。行ってはいけない、と、鴉は執拗に言い続ける。戻ろう。もっと飛ぼう。広いところで。餌も探そう。人間のそばに行けばおいしい食べ物が落ちている。
私は下を見た。フェルディナントは私の速度にあわせて、軽く走ったり、歩いたりしている。私は舞い降り、彼の鼻先に降り立った。体に触れないよう気をつけて。
『ねえ、本当にこの先に行くの? 鴉が、この先には行けないって言うのだけれど』
フェルディナントは頷いた。そのまま私の隣をすり抜けて進もうとする。私はちょんちょんと地面を蹴って後を追った。
『進んだら、危ないんですって。意味が分かる?』
うん、もう一度頷いて、フェルディナントはそっと尻尾で私に触れた。
――エスメラルダは、その周囲を【壁】に取り囲まれた国なんだ。でも大丈夫。ちゃんと透き間が空いてる箇所があるはずだ。
『あ、そうなの?』
――【壁】に沿って歩いていけば、そのうち切れ目が見つかるよ。見張りがいることもあるらしいけど、そこは素通りすればいい。結構数があるはずなんだ、そんなに人手は割けないだろうから、無人の隙間もあるはずだ。
『【壁】って、なんなの?』
――見えてるでしょ。あー、今日は天気が同じなのかな? ……もう少し高く飛んでみれば?
ぽん。尻尾が軽く私をたたいて、離れていく。言われたとおり、私は舞い上がった。先ほどまでよりもっと高く、高く、高く……
そして、その時初めて、目の前にそびえ立つ【壁】を視認した。
フェルディナントの言うとおり、今日は天気が同じらしい。【壁】の向こうにも、同じような雲混じりの青空が広がっている。だから今まで見えなかったのだ。
でも、上空から下界の景色を見れば、違いは一目瞭然だった。
【壁】の向こうは、雪景色だった。
『……すごいわね。あっち、大雪だわ』
舞い降りてフェルディナントに言うと、彼は笑ってまた尻尾で私に触れた。
――三月のエスメラルダではそれが普通だよ。【壁】に取り囲まれた国はそうなるらしい。エスメラルダはたくさん通気孔を開けて空気を通してるからまだ人が住めるけど、通気孔が全部閉じたらもう、完全に凍り付いて、誰も住めなくなってしまうんだって。さ、行こうか。日が暮れる前に入っておきたいからね。
言って、早足で歩き出す。私は後を追おうとしたが、鴉が嫌がった。先ほどまでの楽しい気持ちが萎み、鴉は不満を言う。
嫌だ。行きたくない。人間のいる方に行きたい。これ以上は近づけない。あれのそばは、風がめちゃくちゃ。仲間がたくさん飲まれた。二度と帰って来なかった。
それでも進もうとすると、鴉はへそを曲げた。きっぱりと、宣言する。
『嫌だー!!!』
先に行っていたフェルディナントが振り返る。目を丸くして、驚いているらしい。私も鴉の声が外に出たことに驚いた。一番はじめ、銀狼に近づかれた恐ろしさであげた悲鳴は、どうやらこの子のものだった。
私と同じ――たぶん――若い女の声だった。
雌だったのか。今更思う。
『困ったわ。あれのそばには近づきたくないんだって。本当に嫌がってる』
フェルディナントに言うと、銀狼は戻ってきて、しょうがない、というように私の前に頭をさしのべた。
乗れ、ということらしい。
『……いいの?』
顔はかなり、不本意そうではあったけれど、さっきの叫びが本当に嫌そうだったからか、乗せてくれる気になったようだ。
『……ありがとう』
先ほどのように、首の後ろのふかふかした場所に足でしっかり掴まると、銀狼は走り出した。あそこまでの速度ではなく、私も楽しいと思うくらいの速さだった。
――言っておくけど、むやみに人の考えを読まないでね。
不本意そうな声が聞こえて、私は頷く。
『できる限り頑張るわ。でも、どうしたらいいのかわからないの』
――貴女の素養はかなり強いんだろうってわかってはいたけど、まさかここまでだとはね! 本当に貴女はいつもいつも厄介だな!
『私の、素養?』
――魔力の強さのことだよ。努力ではどうにもならない、才能、の、ようなものだ。笑っちゃうくらい伝承のとおり……いや、それ以上だ。
『なあに、それ』
――アナカルシス王家には、鴉に宿ったお姫様の伝承があるんだよ。王家の紋章は、そのお姫様にちなんで、翼を広げた鴉に改められたほどだ。そのお姫様も元々の素養がかなり強くて、伝承では、意識が、鴉の体に収まりきらなかったんだって。そのお姫様がほかの人間と意志の疎通ができたのは、体から漏れだした意識がほかの人間に触れて、会話ができた。ということだったらしい。
『ふうん?』
――貴女はそのシルヴィア姫以上の素養の持ち主なんだろう。貴女の言葉ははじめから安定してたもの。内心を外にぶちまけてしまうこともない――それはまあ、人魚の手助けもあったのかもしれないけどさ。その上、人の心の声までくみ取ってしまう。発声しないで意志疎通ができるってのは僕にとってはありがたいんだけど、もう少し手加減してくれない? 僕が伝えようとしたことだけ聞いてくれればそれでいいのに。
『無茶言わないでほしいわ。意識してやってるわけじゃないんだもの』
――はじめは聞こえなかったんでしょ。それがだんだん聞こえるようになった。ということは、貴女の魂がかなり修復されてきてるってことなのかもね。まあ、全体的には、僕の被害を別にすれば、事態は好転してるといえる。しかし、どうやったら体に戻してもらえるんだろう。早いところ戻ってもらわないと……人魚に連絡を取るって、どうすればいいんだろうね。
『どうしても必要なときは名前を呼べって言ってたわね。てぃ……てぃ……てぃし?』
――あんな一瞬で全部聞き取れって方が無理だよね、あの長い名前。
フェルディナントも聞き取れなかったらしい。私はしばらく首をひねったが、どうしても思い出せない。はじめがティシだった、ということは、確かだと思うのだけれど……
と。
怖いよう。
鴉が訴え、私は、それに気づいた。
目の前に、【壁】がそびえている。
エスメラルダ周辺を取り囲む森を抜け、【壁】沿いに出たのだ。
不思議な景色だった。【壁】の向こうは、ほんのすぐそばの距離に見えているのに、気候がぜんぜん違うのだ。二メートル以上の高さにまで、雪がつもっていた。たぶん、【壁】すれすれには雪が入り込まないのだろう、地面が見えているが、その向こうはなだらかに盛り上がっている。
ぽふん、尻尾が私に触れる。
――すごいね。こんなに積もるんだ。子供の頃はただのんきに楽しんでただけだけど……三月になってもこうなんて、住むには過酷だなあ。
『あら、前にここに来たことあるの?』
――うん、七歳の頃来て、一年半くらいいたのかな。楽しい思い出がいっぱいあるよ。というか、貴女も一緒だったんだけどね。
『えっ』
――晴れた日には一緒にそりに乗って遊んだ。あの時本当に、鳥になったみたいな気がしたなあ。
私の兄たちと同じようなこと言ってる。私はなんだか笑いそうになった。男の子はみんな、速度狂の気があるのではないだろうか。
それにしても、私もかつて、ここに来たことがあるなんて。
七歳の頃、それも一年半、と言えば、子供だけで滞在していたなんてちょっと考えづらい年頃だ。それなら、私の両親も、兄たちも、一緒にここに来ていたのだろうか。
私が考えている間にも、フェルディナントは早足で、【壁】の隙間を捜して動いている。ややして前方に、それが見えてきた。
こちら側から見ると、それはすぐにわかった。【壁】の切れ間から、あちらの雪がこぼれ出てきているからだ。こちら側にあふれ出た雪は溶けて、大きな水たまりになっている。
幅は、三メートルほどだろうか。思っていたより結構広い切れ目だった。
あそこからなら入れるわ。わかるでしょ。
鴉に言い聞かせると、鴉は渋々ながら、納得したようだった。でも。
寒い。雪の中には食べ物がない。寒いのは嫌。
なるほどもっともな意見を申し述べ、鴉は黙った。さっきみたいに是が非でもというほどの拒否ではないようだけれど。
『フェルディナント、先に、食べ物を捜してもらえない? 雪の中は寒いし食べ物がないから嫌だというの、でも、食べ物があったらきっと嫌がらないと思うわ』
頼むとフェルディナントは笑った。
――手のかかる黒いお姫様だね。わかったよ。ちょっと待ってて。
そこに私を残して、離れていった。私はよしよしと鴉をなだめた。体を借りてる上に寒いところにつれていくことになって、ごめんなさいね。でもその代わり、あの優しい狼が、おいしい食べ物を持ってきてくれるから……
鼠が食べたい。そう言われ、私は困った。鼠って、生の? 生の鼠は、私は食べたくない。どうして? 美味しいのに。とてもおいしい。温かくて、びちびちしていて。やめてよ――と鴉と話していた、その時だ。
すうっ、と、【壁】の隙間から、小柄な人間が現れた。
ぎょっとした。その人は細長い板にロープを取り付けたものに乗って、雪の土手を滑り降りてきたのだ。なんて動きだろう! あんな動き方が人間にできるなんて、信じられなかった。水たまりにつっこむ手前でしゃあっと雪しぶきをあげてその人は横向きに止まり、板をどけて、襟巻きを引き下げながら【壁】の隙間にかがみ込む。
それで、顔が見えた。
綺麗な少女だった。
毛糸の帽子と襟巻きから覗く髪は黒かった。灰色の瞳が優しげだけれど、顔立ちは、可愛いと言うより凛々しい方の美貌だ。みると、少女は、【壁】の隙間を作り出す何かの装置に、ロープを取り付けているところだった。片方はすぐに終わり、もう片方に向き直ったとき、少女が私に気づいた。
こんにちは。そう声をかけようとして、寸前で思いとどまった。そういえば私、今、鴉だった。鴉からいきなり声をかけられたら悲鳴を上げられかねない。
じっと見つめる鴉をどう思ったのか――たぶん何も思わなかったのだろう。少女はすぐに目をそらし、もう片方の装置に向き直った。慣れた手つきで、ロープを縛る。いったい何をしているんだろう。
その時、フェルディナントが戻ってきた。
口から、美味しい木の実がばらばらと落ちた。
彼が驚いているのをみて、私は無意識の内に翼で彼の背に触れた。
――彼女だ。
フェルディナントの声が聞こえた。
――何やってるんだ。どうしてこんな場所でよりによって彼女に。
『……知ってる子?』
囁くと彼は、我に返った。どう答えるべきか、一瞬彼が迷った。知らないと言おうか、しらばっくれようか、秘密にしておきたい、そんな意志がさざ波のように押し寄せる。
会いたくなかった/無事で良かった。拒絶の意志。反感。好意と理解と諦めと罪悪感。拗ねるような悔しいような、嬉しいような、苦しいような、絶望と解放感……
彼女に対するあまりに強い、相反しあう感情に酔いそうになる。複雑すぎて、今の私には処理できない感情の嵐。
フェルディナントは諦めたように言った。
――知ってる子だよ。くそっ、だからっ、勝手に読まないでくれってば!!
翼を振り払われて、尻餅をつく。
少女の方も、銀狼の出現にはかなり驚いたらしい。目を丸くして彼を見ていた。しばらくして、彼女は姿勢を正した。二つの装置に取り付けられたロープを握ったまま、丁寧な口調で言った。
「初めまして、マイラ=グウェリンと申します。高貴な気高き獣の王、私に何かご用でしょうか」
どうやら、銀狼には敬意を払うよう教えられてきたらしい。丁寧な口上が続く。
「エスメラルダの娘は皆、獣の王が現れたらそのご要望にはできる限りお応えするよう教えられます。指先がご所望でしょうか」
ぷい。
フェルディナントは顔を背けた。
おまえに用はない、と、声に出さずともはっきりわかる所作だった。マイラ、と名乗った少女は笑って、お辞儀をした。
「ではご入用の際はいつでもどうぞ。ここを通りますか? 今から閉めますが」
閉めるの?
私は驚いた。
だってさっき、エスメラルダは通気孔があるから人が住めるけど、閉じたら凍り付いてしまうって、フェルディナントが言ったのに。
フェルディナントはどう思ったのだろう。のっそりと立ち上がって、彼女の方に向かっていく。私は急いで後を追った。マイラは場所を空けて銀狼を通し、私が続こうとするのを見て目を細めた。
「あなたも来るの? 中は寒いよ」
確かに。
【壁】を通ったら急に寒くなった。でも、まだ冬羽が抜け落ちる前で助かった。フェルディナントはマイラを一瞥もせず、ゆっくりした動作でなだらかな雪の斜面を上がっていく。私は彼女がどうするのかを見ていた。私とフェルディナントを通した後、彼女はこちら側にやってきて、【壁】から十分離れた場所でロープを引いた。装置がずずずとずれて、
【壁】の隙間が閉じた。
閉じてしまった。鴉が嘆く。




