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海の女王と陸の花  作者: 天谷あきの


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ニースの教え

 塔の朝は早い。


 アデリシアは毎日夜明けとともに起き、竈に火を入れ、パン生地を仕込む。それから水をくみに行き、塔中を駆け回って〈子供たち〉を起こす。ばん! と扉を開け、「起きろー!!!」叫びながら窓を開け放ち、昔のニースそっくりの仁王立ちできびきびと指示を出すのだ。


「さあみんな起きて起きて! 今日の朝ご飯当番は厨房に来てね! 掃除当番は朝ご飯までに綺麗にならなかったら朝ご飯抜きだからね!」


 〈白い子供たち〉にも個性というものはもちろん存在して、朝に強い子もいればねぼすけもいる。ただありがたいことに今の子達はみんな穏やかな性質で、問題児はほとんどいない。お互いの苦手分野を補いながら、アデリシアに割り振られた仕事を一生懸命こなしてくれる。


 あたしがしっかりしなくちゃ、と、アデリシアはいつも思う。

 それがニースとの約束だ。アデリシアはまだ一向に背が伸びないけれど、一番年上だ。だから、みんなを守らなくちゃいけない。


 三部屋目の子達を起こしてから厨房に戻ると、一番目に起こした部屋の子達が寝ぼけ眼で集まっている。アデリシアはパン生地の膨らみ具合を確かめた。暖まってきた竈のそばで、一次発酵も順調だ。


「じゃあスープを作るよ」


 アデリシアはいいながら腕まくりをした。


「それからお昼と夜の下ごしらえもしなくちゃね。今日のメニューは何にするか、ニースに聞いてきて」

「はーい」


 朝に強いシビルが元気な返事を残してニースのところに向かった。


 ニースはもうほとんど歩けない。歩くのは厠に行くときだけで、他の時は特製の車椅子に乗って、〈子供〉の誰かが押して行く。でもまだ頭はしっかりしていて、メニューを聞けばちゃんと考えてくれる。ニースは自分が死ぬ前に、知っているあらゆるレシピをアデリシアの中に遺そうとしてくれているらしい。


 アデリシアは一瞬、自分でニースのところに走って行きたい欲求と戦った。


 あの膝にすがりついて、頭を撫でてもらいながら、色んな話を聞きたかった。小さい頃はよくそうしてもらったものだ。『伝説』と言われたニースの祖母、料理人モリーから教えられたレシピや、一流料理店で腕を振るった頃に作った独自のレシピ、海賊の親分に攫われてから船の上で作った海賊メニューの数々……


 でも、もう、そんなことしてちゃいけない。アデリシアは今、みんなのために朝ご飯を作らなければならない。洗濯の監督もしなきゃいけないし、お昼ご飯の準備をして、午後には森に食材を調達に行かなければならないし、そうこうするうちにあっという間に夜ご飯だ。


「アデル、燻製肉がもう殆どないよ」


 小さな声で、スピアが囁いた。


「塩も、砂糖も、胡椒も……足りないものがいっぱいだよ。ねえ、お金はあるんでしょう? 麓に買い物に行こうよ」

「そろそろマイラが来るはずよ」


 青菜を刻みながらアデリシアは努めて平静な声で言った。


「麓には降りちゃいけないって、言われてるでしょう?」

「じゃあエスメラルダには、」

「もっとダメだよ」


 釘を刺すとスピアは唇を尖らせた。


「だって、マイラが来てくれないと食べ物がどんどんなくなっていくんだよ。そんなのおかしいでしょう? 最近チーズもクッキーも全然食べてない。スコーンも、ソーセージも……あたしだってもう大きくなったんだから、買い物くらいできるよ。アデル、あのチーズケーキ、また作って欲しい」

「スピア、」

「あたしが買ってくれば、アデル、また作ってくれるよね?」


 言い返そうとして、アデリシアは言葉を飲んでしまった。あのチーズケーキの味を、思い出してしまったからだ。


 砂糖とチーズと発酵乳がないと、あのチーズケーキは作れない。


 アデリシアの思考を読んだかのように、スピアは目を輝かせた。


「ね、いいでしょう? あたし、買ってくるよ。絶対危険なんてないって」

「ダメだよ」


 アデリシアは言って、唇を噛んだ。アデリシア自身、なぜ自分を含めた〈白い子供たち〉が麓やエスメラルダに行ってはいけないのか、よくわかっていないのだ。

 ただ、ニースとマイラがみんなにそう言い聞かせた。絶対に、絶対に、塔から離れてはいけない。森の罠を見回るときに美味しそうな獲物が逃げていったからと言って、絶対に追いかけてはいけない。塔の見えない場所に行ってはいけないのだと。


 ――本当に、どうしてなんだろう。


 ニースはもう高齢で、麓に買い物に行くなんて絶対に無理だ。

 今まではマイラが美味しい食べ物や材料をいっぱい持ってきてくれていた。


 ――でも、マイラが来ない。


「どうしてダメなの」

「今日の午後、罠を見回りに行くよ」


 スピアの非難の声を封じるために、ニースは急いで言った。


「うさぎがきっとかかってる。今夜はうさぎのシチューができる。小麦粉はまだたっぷりあるもの。美味しいものはまだまだいっぱい作れるんだから、もう少し我慢しよう? あたし達が約束を破ったら、ニースとマイラはがっかりするよ」

「……」


 スピアは不満げに黙った。黙って働く他の子たちからも、不満の気持ちが立ち上ってくるようだった。アデリシアは泣きたくなった。マイラはどうして来ないのだろう。


 もう四ヶ月近くも、あの綺麗な灰色の瞳を見ていない。


「……マイラは僕たちを見捨てたのかな」


 小さな声で、ユージンが言った。普段は物静かな男の子だ。

 みんなが狼狽の声を上げ、アデリシアはぴしりと言った。


「そんなことあるわけない」

「マイラは僕たちと違う。どこにだって行ける」


 ユージンの青空色の瞳がさっとアデリシアを射抜いた。


「……僕たちをここに閉じこめて、自分だけどこかに行ったんだ」

「ユージン」




 じわりと胸に不安が湧いた。

 ――また?




 浮かびかけた不安を必死で押し殺し、アデリシアはユージンに言い聞かせる。


「マイラはあたしたちを見捨てたりしない。とっても優しい人だもの。きっと婚礼の準備で忙しいんだよ。アナカルシスの王子様と結婚するのだって、あたしたちのためなんだよ?」

「それが嫌になったんだとしたら?」


 ユージンの瞳の青空色が、少し濃くなったようだ。アデリシアはぞっとした。先ほど湧いてしまった不安が、胸の奥底でつぶやく。



 ――またなの?



 楽園は、いつか壊れる。

 内側から崩れていくのだ。

 あの時と、同じように。



「マイラだって、会ったことのない人と結婚するなんて嫌だと思うよ。僕だったら嫌だもの。結婚って、一生ずっと一緒にいるってことなんだよね? 会ってみて、見るのも嫌なくらい醜くて、意地悪で、残酷で、気持ち悪い人間だったらどうするのって、僕、前にマイラに言ったんだ。マイラは笑ってたよ。そんな人じゃないから大丈夫だよって。でも、僕、本で読んだんだよ。誰でも、大好きな人と結婚するのが一番いいんだって……マイラの大好きな人って誰? 会ったことない王子様じゃないってことだけは確かじゃないか」


「ユージン……」


「僕たちのために好きでもない人と結婚するなんて僕だって嫌だ」


「ユージン……!」


「そもそもマイラを犠牲にしなければ生きていけないという現状がおかしいんだ。ねえアデル、ニースは僕たちのために、犠牲になったと思わない? 本当は、何だっけ、親分、だっけ? 親分の船に乗ったままでいたかったんじゃないのかな。アデルはそれで平気なの? ニースだけじゃなくてマイラの一生まで、僕たちのために捧げろって言うの? アデル」


 ひどく穏やかな声で、ユージンは言った。


「マイラの一生まで、食いつぶすつもりなの?」

「……そ」

「マイラが僕たちを嫌になったって、僕は責めない。マイラが逃げ出したって責めたりしない。責めるべきじゃないって僕は思う。だから」

「……」

「……自分たちの力で生きていけるようになるべきだ。ニースはもう歩けない。僕は歩ける。どこまでだって歩いていける。麓まで行って、いろんなもの買ってくる。止めたってダメだ。ご飯を食べたら僕は行くよ。そうしないと」


 ユージンの、水底の色に染まった瞳が、アデリシアを睨み付けた。


「僕たちはいつまで経ってもここで飼われているしかないんだ」



 ――同じだ。

 アデリシアの奥底の不安が小さな声でつぶやいた。

 ――あの時と、同じだ……



「あたしも一緒に行くよ」


 スピアが言い、ユージンは微笑んだ。


「荷物がいっぱいになるもんね。何を買うか、一覧を作らないと。何がいる、みんな?」

「バター!」

「チーズ!」

「お砂糖!」


 次々に声が上がり、ユージンは洗い物を放り出し、『意気揚々と』木ぎれに書き付け始めた。アデリシアは目眩を感じて座り込んだ。目の裏で、ちかちかと、あの時のことが明滅する。


 まだアデリシアがごく小さかった頃。

 ニースがまだ元気満々で、夢みたいに美味しいご馳走を次から次へと作ってくれていた頃のこと。

 海賊親分が生きていて、ニースとアデリシアを船に乗せて、いろんな島や国に連れて行ってくれていた、頃のこと。


 あのころの〈白い子供たち〉は、船から下りてはいけない、と言われていた。レギニータ号はとても広かったし、隠れる場所や登る場所にも事欠かなかったし、それで全く不都合はなかった――アデリシアにとっては、だ。


 でも、島に着くたびに水夫たちが続々下りていくのを見送るのが辛い〈子供たち〉は、とても多かったのだ。


 ある島で、抑え続けていた不満がついに噴出し、大騒ぎになった。押しのけられたアデリシアは海に落ち、慌てたニースが浮き輪と共に飛び込んできてくれて、アデリシアは助かった。でも。



 あの時の〈子供たち〉の中で、生き残ったのはアデリシアだけだ。

 だからアデリシアは、一番年上なのだった。



「大丈夫だよ、アデル」


 シビルが言って、アデリシアの背を撫でた。いたわるように。


「あたしたちだって大きくなったんだもの。ユージンはもう、一番体も大きいし、しっかりしてるし、大丈夫だよ。美味しいもの、またたくさん作れるようになるよ」


 シビルもなのかと、アデリシアは思った。シビルもまた、『言いつけを破ってでも買い物に行く』ことに賛成なのか。『言いつけを守る』ことを重要だと考えているのは、あたしだけなのか。



 ――それはマイラの一生を、食いつぶすことだから。なの?

 ――あたしはずっと、ニースを、マイラを、『食いつぶして』きたの……?



「チーズケーキも、スコーンもできるし、パンケーキにクリームを載せることもできるようになるよ。塩漬け豚だっていっぱいだよ」


 食べ物はまだたくさんある、と言おうとして、アデリシアは声に出せなかった。

 それが問題ではないのだろう、と、わかってしまったからだ。

 『塔が見える範囲』に閉じこめられている現状に、みんなはもう我慢がならないのだ。

 ニースやマイラに守られなくても大丈夫だと、証明して見せたいのだ。



 溺れていたアデリシアは、あの時、実際に何が起こったのか、ほとんど知らない。ニースから、泣きながら、みんな溺れて死んだのだ、と聞かされただけだ。それからニースはアデリシアをつれて船を下り、ここアリエディアの山頂近くにある塔に居を構えた。親分はたまに遊びに来てくれた。美味しい食べ物や楽しいおもちゃをたくさん持って。


 でも、水夫たちは一人も来なかった。


 ――もうあの子たちに関わるのはやめた方がいい。


 夜更けに、親分がニースに言っていたのを聞いたことがある。


 ――アデルだけならいい。あの子まで見捨てろとは言わねえ。でも、もういいだろ。あの子だけにしろ。他の子まで背負うなよ。アデルだけなら、俺も一緒に背負ってやれる。


 ――できないよ。


 そう言ってニースは泣いていた。

 できないんだよ、性分だからさ、と、泣きながら笑っていた。



 親分は死んだ。

 ニースももうすぐ死んでしまうのだろう。


 マイラもだ。あんなに小さかった、可愛かったマイラは、今ではアデリシアより大きく、すごく綺麗になった。そしてあっという間に年老いて、あっという間に死んでしまうのだろう。親分のように。ニースのように。


 水夫をフライパンで引っぱたいていた、あのふかふかで元気満々だったニースが、今はもう自分で歩けず、しわしわの小さなおばあさんになっているのに。


 ――あたしは、いつになったら大きくなれるの?





 朝ご飯の間も、昼ご飯の時も、アデリシアは自分の立場が大きく変わったことを感じないではいられなかった。

 今までアデリシアは〈長女〉であり、一番発言力があった。みんなはアデリシアの指示を守り、判断に困ることがあるといつもアデリシアに聞きに来た。


 けれど、朝ご飯前のあの一件は瞬く間にみんなの間に広まったらしい。


 みんなにとって、と、アデリシアはぼんやりしながら考えた。アデリシアは〈仲間〉ではなく、ニースやマイラと同じ、自分たちを守ると言いつつ閉じこめている、鬱陶しい保護者の一人だったのだろう、と。


 みんな浮き足立っていた。アデリシアを言い負かして自由を宣言したユージンが、英雄のように崇められていた。美味しいものをいっぱい持って帰ってくるといいながら、ユージンとスピアは『これ見よがしに』支度を調えた。ちらちらとアデリシアを横目で見ながら。止められるなら止めてみろ、と言わんばかりに。


 だから昼食が済むやいなや、アデリシアは罠を見回りにでた。

 うさぎがかかっていれば、ユージンとスピアの戦利品に頼らずとも、美味しい食べ物をを一品は作ることができるから。


 一つめの罠は空振りだった。でも、アデリシアは平気だった。罠は五つもあるのだ。他の四つにうさぎがかかっていれば、みんなに充分行き渡る。

 二つめの罠も空振りだった。それでも、アデリシアは元気を失わなかった。三羽のうさぎでも、充分なはずだ。

 三つ目の罠も空振りだった。アデリシアは努めて平気なふりをした。骨まで入れるのだから美味しい出汁が充分出るはずだし、小麦粉とお水と背脂を多めにすれば、量が足りないなんてことはない、はず。

 四つ目の罠も空振りだった。アデリシアは泣かなかった。薫製肉のくずを集めて叩いて肉団子にして足せばいい。アデリシアの分はなくてもいい。とろっとしたスープが一椀とパンさえあれば充分なのだから。


 そしてアデリシアは、五つ目の罠を見回る覚悟を決めた。

 でも、その覚悟は必要なかった。

 北側で、悲鳴が上がったのが聞こえたからだ。




 空っぽの籠を抱えて一瞬立ちすくんだアデリシアは、森の中から鳥たちが一斉に飛び立ったので我に返り、走り出した。悲鳴はとぎれない。恐怖の、苦痛の、そして絶望の叫び声だ。そして、悲鳴が増えた。それは塔からだ。塔から目撃した――何を? ――子供たちが上げた、恐怖の悲鳴。


 アデリシアは森から飛び出し、塔の北側に広がるなだらかな斜面に走り出た。

 そして、それを見た。


 血しぶきを。


「……ユージン!!!」


 アデリシアも絶叫した。塔から何人も子供が走り出てきて、斜面を転がるように走っていく。斜面の下で、ユージンが転げ回って……いや、のたうち回っていた。暴れるたびに血しぶきが吹き上がる。ユージンはもはや叫んではいず、今悲鳴を上げているのはスピアだった。スピアもひどい有様だった。でも、生きてはいた。何かに切り裂かれ続ける自分の皮膚を押さえて、既にずたずたのぼろ切れのようになったユージンを見つめて、ただ、悲鳴を上げ続けている。


 その時、アデリシアはギラギラ輝く光がユージンを切り裂いているのを『見た』。

 見えない結界のような何かが自分たちの周囲を取り囲んでいた。それは、塔を中心に球状に辺りを包み込んでいて、その外側には光があふれていて。

 結界のような何かから踏み出してしまったユージンは、光にずたずたに切り裂かれて――


「スピアっ」


 せめてスピアだけでも。

 そう思った。


 他の子供たちは惨状に驚いて凍り付いている。その脇を駆け抜けて、アデリシアはスピアに飛びつき、結界の中に引き戻した。スピアも全身に裂傷を負っていたが、たぶん、本能的に体をこの中に引き戻したのだろう。苦しそうに喘いで、今は座り込んでいる。


 アデリシアはユージンを見、既に、事切れているのを知った。真っ白く美しかった毛むくじゃらのユージンの姿は、無惨な血の色にまみれている。


 ――だからだったのだ。


 振り向いて塔の位置を確かめながら、アデリシアは悟った。

 塔は、その先端がかろうじて見えている。ユージンの位置からでは、斜面の上に隠れてしまっているだろう。


 ――だから、『塔の見えない場所まで』しか、行ってはいけなかったのだ。


「……どういう……こと……?」


 誰かがつぶやき、アデリシアは、何も言えなかった。衝撃が大きすぎて、言葉を、思い浮かべることさえできなかった。ただゆるゆると首を振り、自分が未だ、スピアの左手を握っていることに気づいた。ぽたぽたと垂れているのは、ずたずたに裂けたスピアの右手から落ちる血だ。


「買い物……は……?」


 バターは、砂糖は、塩は。子供たちが口々につぶやいた。アデリシアは何も言えず、じわじわと、残酷な現実が子供たちの中に落ちてくるのを見ているしかなかった。


 自分たちは、どこへも行けない。

 自分たちは、ここにとどまっているしかない。

 美味しい食べ物は、持ってきてもらうしか、ない。


 ――取りに行く自由は、自分たちにはないのだ。


「いい気味?」


 ふと。

 冷たい声を浴びせられ、アデリシアはびくりとした。ぱしっ、手に鋭い痛みが走った。スピアがアデリシアの手を、振り払ったのだ。


「いい気味って、思ってるでしょ。『あたしの言うこと聞かないから』」


 痛みに喘ぎながら、スピアは、座り込んだアデリシアの上に、言葉を振り下ろした。


「『言いつけに背いたから、自由になろうとしたから、死んだんだ。いい気味だ』って」

「……」

「『あたしの言うこと聞かないから、そんな目に遭うんだ、ざまあみろ』って、思ってるんでしょう!」

「スピア!」


 鋭い叱声は、後ろから飛んできた。

 アデリシアは驚いた。ニースの声だ。


 振り仰ぐと、正にそうだった。ニースが、走ってくる。車椅子で。

 いや、斜面を転がり落ちてくる。


「……止めて!」


 アデリシアは思わず叫び、子供たちの幾人かが動いた。ユージンほどではないが大きい子が何人もいたから、車椅子は何とかバラバラにならずに斜面の途中で止まった。


 ニースは老いても、やっぱりみんなの『お母さん』だった。惨状に衝撃を受けていた子供たちが少し気を取り直し、雰囲気が変わった。


 スピアは叱責を恐れるように身をすくめている。でも、ニースの声は優しかった。


「スピア、おいで。けがの手当をしなくっちゃ。あんたはこの程度で済んで、本当によかった。何よりだったよ」

「……ニース」

「さあ、みんなおいで。とにかく、塔に戻ろう。ね? あたしが悪かった。本当に申し訳なかったよ。こんなことになる前に、みんなにきちんと、話しておくべきだったんだ」


 シビルがニースの車椅子を押し、みんなはぞろぞろと塔に引き返す。アデリシアはまだ座り込んだまま、ユージンをあのままにしておいていいだろうか、と逡巡した。でも、恐ろしかった。さっき見えた不可思議な若草色の光はもう収まっていたけれど、あれは、きっと『塔から見えない場所』に出たらまた襲いかかってくるのだろう……


 そして、アデリシアはびくりとした。そう、そうだった。


 塔『を』見ることができない場所に行ってはいけない、のでは、ないのだ。

 塔『から』見ることができない場所に行ってはいけない、のだ。


 そこにアデリシアの意思は関係なかった。そこで初めて、アデリシアは、ユージンやスピアの抱えていた煩悶の正体をかいま見た。


 『飼われているしかない』。確かにそうだ。


 〈白い子供たち〉は、まるで金魚だ。水槽の中から出たらすぐに死んでしまう。


「アデル」


 遠くから名を呼ばれて、アデリシアはびくりとした。斜面の上の方で、ニースが呼んでいる。


「おいで、アデル。可哀想だけど、そのままにしておいで」


 言われて、何が可哀想なのか、思い至った瞬間にアデリシアは吐いた。残っていたお昼ご飯を、罠を見回る途中で飲んだお茶を、体の中にある酸っぱい液体も、全部。


 ――いい気味だって、思ってるんでしょう。ざまあみろ、って。


 思わなかった。そんなこと、スピアに言われるまで、全然思い至りもしなかった。心の中でそう叫びながら、アデリシアは泣いた。


 思わなかっただろうかと、考えずにはいられなかった。


 ――本当に、一瞬も、思わなかっただろうか、と。




   *




 アデリシアは一人部屋だ。特別扱いだ、と、スピアには以前文句を言われたものだ。でも、今日はそれが本当にありがたかった。今は誰にも会いたくなんかなかった。


 晩ご飯を作る気にもなれず、アデリシアは塔に戻ってからずっと、寝台に潜り込んでじっとしていた。ニースが呼んでるよ、とか、晩ご飯だよ、とか、さっきはごめん、とか、いろんな子の声が扉の前で右往左往したが、アデリシアはずっと聞こえないふりをしていた。こんなことをしたのは生まれて始めてだ――たぶん。


 空腹も感じなかった。胃液の味がずっと口の中に残っているが、水を取りに行く気にもなれなかった。それでいて眠れなかった。布団をかぶっていても、すうすうして寒い。心にぽっかり穴が空いているみたいだ。


 それに、マイラも来ない。


 入れ替わり立ち替わり来ていた子供たちがいつしか来なくなり、塔中がしいんと静まりかえった頃、扉の前で、ニースが囁いた。


「開けておくれ、アデル」


 アデリシアは驚いた。どうやってここまでの階段を上ったのだろうと。

 ここへは車椅子では来られない。階段を踏み締めて、一段一段昇ってきたのだ。そう思うと無視もできず、アデリシアはこわばった体を動かして、初めて寝台から出た。鍵を開けるとさっと扉が開いて、逃げる間もなく抱きしめられた。しわしわのニースの体。なんて小さいんだろうと、アデリシアは驚く。


「ごめんよ、アデル」


 小さな声でニースは言い、入ってもいいかい、と聞いた。

 もちろんアデリシアに、ニースの頼みを断れるはずがなかった。


 中に入って、一つしかない椅子にニースは座ると、アデリシアに、クッションを持ってきてここにお座り、と言った。ニースの足元だ。昔の、アデリシアの定位置だ。ニースの足元に座って、膝に頭をもたせかけると、しわしわの手が昔のようにアデリシアの頭を撫でた。優しい感触に、胸が詰まる。


「……あんたに、話しておきたいことがあるんだよ」


 優しい声で、ニースは始めた。


「もうわかったと思うけど……あんたたち〈白い子供たち〉は、この塔が見える範囲にいないと、生きて行かれない。あんたなら、わかるだろう? 昔は、この魔法道具はレギニータ号に設置されていたものね。船から下りちゃいけないって言われ続けたあの子たちは、みんな逃げ出して……死んでしまった」


 かすれた声が出た。


「……話しておいてくれれば、良かったのに」


「そう思うかい? ……あたしだって、初めは話したさ。でも、それじゃうまくいかなかったんだよ。外の世界を見たい、ここじゃないどこかに行きたい、そう願う年頃になると、どんなに止められてもみんな出て行く。そして、死んじまうのさ」


「そうなの……?」


「話さなかったのは、最悪の事態だけは止めたいと思っていたからさ。レギニータ号のとき、あんたは小さかったから、話してなかったけど……年長の子たちは、みんな、船から下りたら死ぬって知ってた」


 アデリシアは思わず顔を上げた。「知ってたの?」


「そうさ。あの事件の一月前に、あたしの制止を聞かずに海に飛び込んだ子がいた。その子が……その……死ぬのを、年長の子たちはみんな見たんだ。それで、ひと月は我慢した。ああなるのは嫌だって。でも、ひとりの子が、その鬱屈に耐えられなくなった。自分の行きたい場所に行けず、住みたい場所に住めないなら、この世に生まれた意味なんかないじゃないか……そう叫んでみんなに襲いかかった。ああ、ひどいものだったよ。あの子はひとりで死ぬことさえできず、みんなを道連れにした。それが、あんたも覚えてるはずの、あの事件だったんだ」


「…………」


「だからあたしは、今度は、言わないことにした。初めはうまくいってた。あんたの手助けもあったし、マイラ様も……。でも……いや、いいんだ。いいんだよ。あたしは好きでやってたことだ。マイラ様も、覚悟なすって加わったことだ。でも、あんたは違うじゃないか」


 話の意味がわからず、アデリシアは必死でニースのしわしわの顔を見た。「なに?」


「……ねえアデル。あんたの毛皮は、そりゃあ綺麗だと思うよ、あたしは」


 急に話が飛んで、アデリシアはさらに混乱した。「え? 毛皮?」


「そうさ。あんたみたいに綺麗な生き物を、あたしゃ見たことがない。真っ白で、すべすべの毛皮、真っ黒な宝石みたいな瞳……でもね、アデル。あんたは、人型を取ることを、覚えなきゃいけないよ」


「ひと、がた?」


「人間そっくりになるんだ。翼は隠して、毛皮は髪にする。マイラ様を思い出して。体を起こして、前足は体の脇に付ける。あんたはまだ小さいから、子供の姿がいいと思うんだ。頭以外の体からは毛皮を全部とっちまう。その代わり、服を着るんだ。マイラ様の小さい頃のお召し物をちゃんと取ってあるから、全部あんたのために、取っておいたものだから、寒い思いをすることもそれほどはないはずだ。ね、できるだろ? お炊事の時、あんた、無意識にそうやってるじゃないか。あたしの手つきを真似してる時を思い出して。マイラ様のお小さい時を、覚えているだろう? いいかい? やってご覧、ほら、今すぐだよ」


「どうして」


「できるようにならなきゃダメだ。あんたは、あんたが、あんたとして、生きていくためにだ」


「どうして?」


「マイラ様がお手紙をくださった。今日まで来られなかった理由が、やっとわかったんだ。そのお手紙が届いたのが、今日の午前のことで……あたしはいいんだよ。あたしは、ここの子たちが大好きだもの。でも、あんたは」


「ニース……?」


「あんただけは自由になりなさい。ここを捨てて、出て行くんだ。でね、迷惑ついでに、あたしの最後の頼みを聞いておくれ。マイラ様を、何とか、助けて差し上げてほしいんだ」


「でも、でも、ニース」


 意味がわからず、アデリシアはニースの膝にすがりついた。


「あたし、も、ここから出られない。そうでしょう? 出たら、さっきの」こみ上げる胃液を何とかやり過ごした。「……ユージンみたいに……」

「あんたは大丈夫だ」

「どうして!?」

「何でかは知らないよ。あたしだってあの時まで考えもしなかった。でもさ、あんた、生きてるじゃないか。あの子は殺すつもりであんたを海に投げ込んだ。あたしゃもう、あの時、あんたにも二度と会えなくなるんだって思った。でも、レギニータ号から落ちたのに、あんた、溺れかけたけど、でも、……生きててくれたじゃないか」


 出し抜けに、ニースは椅子から滑り落ち、床に座り込んでアデリシアを抱きしめた。嗚咽が耳元で聞こえた。小さいしわしわの体なのに、もうお料理もできないくらい弱っているはずなのに、力はとても強かった。


「生きててくれてありがとう。ここまで、ここまで、無事に育ってくれて、ありがとう、アデル。あたしのわがままを真に受けて、素直に……あたしの子たちを一緒に守ってくれて……ごめんよ、アデル。あんたはここにいなくたっていいんだって、あたしは四十年前のあの時からずっと、知ってたのに。……なのに」


「……ニース」


 嫌だ、と、思った。

 意味がよくわかったとは言えない。でも、嫌だと言うことだけはわかる。そんなの嫌だ。嫌だ。


 ここにいちゃいけないなんて。自由にならなくちゃいけないなんて。

 ニースのわがままにつきあっちゃいけないなんて。

 そんなの嫌だ。


 ニースはしばらくそのまま、アデリシアを抱きしめていた。それと知らずに心にあったしこりがじわじわ溶けていくようで、アデリシアはほとんど陶然としてその感触に身をゆだねていた。でも、ずっとほしいと祈っていたその時間は、そう長くは続かなかった。


 ニースは、急いでいたからだ。


「……さ、よく聞くんだ。いいかい? アナカルシスの王子様とマイラ様は、マイラ様が二十歳になる日に、ご結婚の約束だった。知ってるだろう?」

「……うん」


 頷くと、ニースはアデリシアの肩に手を置いて、囁いた。


「それを断われてしまった、どうか許してくれ、と、マイラ様は書いていらした」

「……断られ……た……?」


 アデリシアは愕然とした。マイラが、断るのではなく、断られるなんて。

 今までそんなこと、一度も起こりうると思わなかった。


「……だって、おかしいじゃない? あちらの王子様は、マイラ様が『エスティエルティナ』として嫁ぐって、約束したから、今日まで生きてこられたんじゃなかったの?」


 対外的には、マイラの方が助け船を出した、という体裁になっていたはずだ。そしてそれは、事実でもあった。〈白い子供たち〉の家をアナカルシスに守ってもらうことの対価は、王子様の命と、空っぽの神様マーセラに命を吹き込むという、とても大きなものだった。


「そうさ。なのにあちらから、断ってきたんだ。……とても不穏な事態じゃないか。あたしはそう思う。そうじゃないかい? アナカルシス王家が長年つき続けた『マーセラ』という嘘が、〈エスティエルティナ〉を手に入れて、ようやく本物になる。それはあちらの、悲願だったはずだ。その上、王子様の命も助けられる。双方共に願い続けた婚姻が、瀬戸際で破談になったんだ。マイラ様は書いてこられなかったが、きっと、いや絶対に、何か大きな事件が起こったんだよ――マイラ様はそれに巻き込まれてしまったんだ。だから来られなくなってしまったんだ。

 マイラ様はきっと、ひとりで戦っておられるよ。あの方はグウェリンの一族だけれど、剣の天賦は受け継げなかったと、以前笑っていらした。

 ……だからねえ、あんた、ちょっと見てきて欲しいんだよ。それで、手紙を書いておくれ。マイラ様がどうなすってたか、心配なさそうか、そうでないのか、そんなことを」


「……見て、来るよ」

「ダメだよ」


 ニースはきっぱりと言った。有無を言わせぬ、厳しい言い方だった。


「あんたはもう、ここに戻って来ちゃダメだ」

「……嫌だ……」

「人間の姿を取ることを覚えなさい。それで、自分の居場所を見つけに行きなさい。あたしが思うに、あんたは特別だ。他の〈白い子供たち〉とは何かが違うんだよ。あんたは……なんて言うか……『足りてる』んだよ。わかるかい? 満ち足りる、ということを、初めから知ってるんだ。

 だからあたしのわがままなんかにつきあって、今日まで来ちまったんだ。でも、あんたは、他の子たちの犠牲になんかならなくていいんだ。スピアにひどいこと言われただろう? どうかスピアを、許してやっておくれね? あの子は混乱してたんだ。だから」


「そんなの……そんなのどうでもいいよ! マイラを見に行くのはいいよ、あたしだって心配だもん、でも、その後は帰ってきていいでしょう!? あたし、ニースといつまでも一緒にいたい……!」


「ダメだ。あたしはもうすぐ死ぬ。その後、あんたは……どうなるんだよう、アデル」


 ニースは泣き出した。こらえきれないと言うように。


「あたしが死んだ後、あんたはどうなるんだ。今までどおり、いろんな子たちをその小さな背中に背負っていくってのかい。ここの子は、あたしの子だ。あたしに責任がある。でも、あんたにはないんだよ! あたしは、ここの子たちを、可愛いけどわがままで食いしん坊で、出たら死ぬって運命に耐えきれない、弱い子たちをさぁ、あんたにまで背負わせたくないんだ……!」


「ニース、でもあたしは!」


「戻ってきても、あたしはあんたには会わないから! 塔にだって、一歩も入れないからね! 手紙を、書いておくれ。後生だから。それで、あたしに少しでも恩を感じてくれてるんなら、マイラ様を助けてやって。で、それが済んだらもう自由に、好きな相手見つけて、好きなように、あたしみたいに、自分の好きなように生きるんだ。いいかい? それが一番の、あたしへの、恩返しなんだ。いいかい? わかったね?」


「やだ!」

「……わかったね?」


「わかんない!」

「アデル!」


「やだやだやだ! わかんない、わかんないよ……! あたしはここがいい! 自由になんかなりたくない!」

「アデリシア!」


 叱責され、条件反射のようにアデリシアは黙る。ニースのしわしわの顔は涙でぐしゃぐしゃなのに、ものすごく綺麗だった。


「大丈夫だ。あんたには、あたしの知ってる限りのレシピを教えたんだから」


 しわしわの暖かな手が、アデリシアの頬をぐいっと拭った。


「あたしのレシピが、あんたを導く。自慢じゃないけど、あたしの料理を完璧に再現できるあんたは、どこに行ったって生きるのに困ることだけはあり得ない。あたしがモリーから受け継いだレシピが、あたしを守ってくれたようにね。

 あんたが生きてる限り、モリーも、あたしも、あんたの中で生きる。それって、すごいことじゃないか」


「……ニース……!」

「夜明けまでに、人型を覚えるんだ。泣いてる暇なんかないよ」




 アデリシアは、ニースの言いつけに背くことはできなかった。

 いつも、ずっと、そうだったのだ。

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