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第二話表:琥珀色の安息日

雨に濡れたあの日から、数週間が過ぎた。


境界都市アクロポリスの朝を告げるのは、工場地帯の無機質な汽笛ではなく、クリスが豆を挽く軽快な音だ。 中立地帯の路地裏に建つ『カフェ・メソッド』。その店内には、使い込まれた木製家具の匂いと、焙煎されたコーヒーの香ばしい薫りが満ちている。


「ルネ! ぼーっとしない。三番テーブルにお水を出して」


「あ、うん。すぐ行くよ」


ルネは慌ててトレイを手に取り、客席へと向かった。 クリスに拾われたあの夜以来、彼はこの店で働きながら、二階の小さな屋根裏部屋で暮らしている。 未だに記憶は戻っていない。自分が何者であるかも、どうしてあんな路地裏にいたのかも。 だが、朝起きて、掃除をし、客にコーヒーを運ぶ。その「繰り返される日常」だけが、彼の不確かな存在を辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。


「お待たせしました。……あ、ミルさん。おはようございます」


窓際の席に座っていたのは、この店の常連であり、レパブリック(共和派)の知恵袋と呼ばれる紳士、ジョン・スチュアート・ミルだった。


「おはよう、ルネ君。少し顔色が良くなったかな? クリスさんの手料理が効いているようだね」


ミルは広げていた新聞を畳み、穏やかに微笑んだ。


「はい。……でも、たまに不安になるんです。今こうしてミルさんと話していることも、このコップの水の冷たさも、実は僕が作り出した心地よい『嘘』なんじゃないかって」


ルネは、水の入ったグラスをそっとテーブルに置いた。 グラスに結露した水滴が指先に触れる。その感触を確かめるように。


「疑うことは、君の魂が呼吸をしている証拠だよ。だが、過度な疑念は毒にもなる。……そうだ、ルネ君。この街の『色』について話したことはあったかな?」


ミルは窓の外を指差した。 遠くに見える三つの巨大な影――議事堂、摩天楼、そして工場。


「この街の人々は、自分が信じる『正義』を極めることで、奇跡のような力を手にすることがある。君も聞いたことがあるだろう? 異能イデアと呼ばれる力を」


「異能……。でも、僕にはそんな力なんて……」


「今はまだ、ね。だが、アクロポリスは加速している。楯の会の若者たちが街角で演説を始め、コミューンの労働者が拳を突き上げている。彼らの『信じる力』は、今や物理的な圧力となって、この中立地帯の静寂さえも押し潰そうとしているんだ」


ミルの言葉は予言のように重く響いた。 ルネは無意識に自分の胸に手を当てた。そこには、あの日クリスが掴んでくれた腕の感触が、かすかな熱として残っている。


「……僕は、誰かが熱烈に信じている『正義』が怖いんです。それが正しいと確信した瞬間、他のすべてを焼き払ってしまうような、あの熱気が」


「賢明だね。だがルネ君、君のように『何も信じられず、ただ疑い続ける者』にしか、見えない真実もあるのだよ」


ミルがコーヒーを一口啜った、その時だった。 カランカラン、とドアの鈴が少し激しく鳴った。


入ってきたのは、仕立ての良い、しかしどこか威圧的なスーツを着た男たちだった。 彼らの胸元には、レヴィアタン(資本派)の黄金のバッジが光っている。


「失礼。ここのオーナーはどなたかな?」


リーダー格の男が、品定めをするような目で店内を見回した。 クリスがカウンターから出てきて、毅然とした態度で応じる。


「私がオーナーのクリスです。……御用件は? うち、借金はしてませんけど」


「いや、商談だよ。この一帯の土地を、我々レヴィアタンが買い取ることになった。来月までに立ち退いてもらいたい。相場よりは色をつけてやるつもりだ」


クリスの表情が凍りついた。 ルネは思わず、彼女の隣に駆け寄る。


「……そんな。いきなり言われても困ります! ここは私たちの大事な場所なんです!」


ルネの叫びに、男は冷笑を浮かべた。


「大事な場所? 少年、この街に『感情』の入り込む余地はない。価値があるか、ないか。それだけだ。この店は非効率的で、生み出す利益も微々たるもの。ならば、より価値のあるオフィスビルに建て替えるのが『市場の摂理』というものだよ」


男の言葉には、抗い難い「数字」の冷徹さが宿っていた。 彼にとっては、クリスが守ってきたこの店の温もりも、ルネがようやく見つけた居場所も、すべては「0」と「1」で割り切れるデータに過ぎないのだ。


(……消える。また、僕の場所が消えてしまう)


ルネの頭の中に、あの雨の日の暗い路地裏がフラッシュバックする。 足元が崩れるような感覚。 だが、その時。


「――お引き取りください。彼らの『幸福』は、金銭で換算できるほど安いものではない」


いつの間にか立ち上がっていたミルが、男たちの前に立ちはだかった。 普段の穏やかさとは一変した、透徹した理性の圧力。


「チッ……。レパブリックの回し者か。……まあいい。今日は挨拶だ。だが、次は『手続き』をさせてもらうよ」


男たちは吐き捨てるように言い残し、店を出て行った。


店内には重苦しい沈黙が流れた。 クリスは震える手でカウンターを掴み、唇を噛んでいる。


「……ごめんね、ルネ。大丈夫、何とかするから」


「クリス……」


ルネは何も言えなかった。 ただ、自分がどれほど脆い日常の上に立っているかを思い知らされた。 思想が物理的な力を持つこの街で、何も信じられない少年は、あまりにも無力だった。


けれど、ルネの心の奥底で、小さな火が灯ったのも事実だった。 それは『正義』への信仰ではない。 自分の居場所を、自分を拾ってくれたこの日常を、これ以上「無価値」だと切り捨てられたくないという、切実な拒絶の意志。


「僕は……」


ルネの独り言は、外から聞こえてきたコミューンのデモ行進の喧騒にかき消された。 嵐の予感は、もうすぐそこまで迫っていた。

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