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第十四話表:神の死と、コーヒーの味

地下大聖堂の空気は、もはや物理法則の残骸でしかなかった。 アダム・スミスが「全資産の無価値化」を強行した結果、空間を構成する座標さえもが曖昧に解け始めている。ルネの背後では、漆黒の霧を纏った少年が、一度もこちらを振り返ることなくシステムの心臓部へと消えていった。


「……ルネ、くん」


腕の中で、クリスが力なく、けれど確かに指先に力を込めた。 彼女の脳を繋いでいたレヴィアタンの演算コードは、アダム・スミスの「暴落」によって焼き切れている。皮肉なことに、神が彼女を「無価値」と切り捨てたおかげで、彼女はシステムの一部から、ただの不完全な少女へと戻ることができたのだ。


「大丈夫だよ、クリス。……全部終わったんだ」


ルネは彼女を抱きかかえたまま、瓦礫の山を這い上がった。 ハルトマンは、もはや動かなくなった端末を床に転がし、眼鏡を外して遠くを見つめている。彼の異能【価値の階層】は、階層そのものが消滅したこの場所では何の意味も持たない。


「ルネ君。……君が証明したのは、計算不能な奇跡などではない」 ハルトマンの声は、どこか穏やかだった。 「ただの『執着』だ。アダム・スミスが最も軽蔑し、そして唯一予測できなかった、非効率な個人の執着。……それが、この巨大な市場を一時的にでも停止させた」


地上へと続く非常階段は、すでに半分が虚無に消えていた。 だが、そこには「空からの救援」が待っていた。 岩本が駆る零戦のエンジン音が、瓦礫の隙間から、まるで咆哮のように響き渡る。


「拾い上げたか、少年! ならば早急に立ち去れ! この場所は、まもなく概念ごと塵になる!」


岩本の【零戦虎徹】が、崩壊する時空の中に「脱出路」という名の細い知覚の糸を通していた。ルーデルが自らの機体ごとビルの外壁を粉砕し、外の世界――まだ「価値」が残っている街の残光――を強引にこじ開ける。


三島由紀夫は、剥き出しの鉄骨の上に立ち、軍刀を鞘に収めた。 「見事だ。……資本の檻を突き破り、一人の命を掴み取ったその姿。それこそが、我々が求めた至高のドラマよ!」


ルネは、クリスを背負い、岩本たちが命懸けで維持する「現実」への出口へと飛び込んだ。


背後で、レヴィアタン本社ビルが音もなく内側へと折り畳まれていく。 アダム・スミスの「見えざる手」が、自らが作り出した歪な楽園を、最後の一片まで握り潰したのだ。


数時間後。 街の外れ、戦火を免れた古い倉庫の片隅で、ルネはカセットコンロにかけた小さな鍋を見つめていた。 そこにあるのは、どこからか工面してきた安物の豆を、石で砕いて淹れたコーヒーだ。


「……苦い」


隣で毛布に包まったクリスが、小さな一口を啜って顔を顰める。 「うん、……すっごく苦いね」


ルネは笑った。 アダム・スミスなら、この一杯に「価値はない」と断ずるだろう。 けれど、この舌を焼くような苦味と、隣にいる少女の体温こそが、今のルネにとってのすべてだった。


遠く、ビルの跡地からは依然として漆黒の霧が天に向かって立ち昇っている。 フリードリヒが底なしの闇へと沈み、ルネがささやかな光を掬い上げた世界は、一つの街の終焉と共に、より大きな冬の訪れを告げた。

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