第十三話表:価値なき世界の肯定者
視界を埋め尽くすのは、黄金の火花と、無機質なコンクリートの残骸が混ざり合う、定義を失った濁流だった。 ルネは腕の中に、冷たいカプセルの感触を必死に抱きしめていた。背後では、三島たちが切り開いた「道」が、アダム・スミスの暴落という暗闇に次々と飲み込まれていく。重力を失った落下は、いつしか「浮遊」へと変わり、ルネとクリスはビルの最下層、かつてレヴィアタンが世界のデータを統括していた地下大聖堂へと放り出された。
衝撃に備えて目を閉じたルネを待っていたのは、硬い床の痛みではなく、深い「沈黙」だった。
「……あ、……クリス……」
震える手で、ひび割れたカプセルのハッチを抉り開ける。 中から滑り落ちた彼女の体は、透き通るほどに白く、そして驚くほどに軽かった。レヴィアタンが彼女を「資産」として管理していた理由――彼女の脳は、都市の思想株価を安定させるための「演算回路」の一部として接続され、精神の肉体への依存を極限まで断たれていたのだ。
「クリス、起きて! 僕はここだよ、……ルネだよ!」
ルネは彼女の肩を抱き、何度も名を呼んだ。 しかし、彼女の瞳は空ろで、焦点はどこにも合っていない。アダム・スミスが彼女への「維持費」を切り捨てた今、彼女の意識を繋ぎ止める論理はどこにも存在しなかった。彼女は、価値がゼロになったことで、この世界から「消去」されようとしている。
「……無駄だよ、ルネ君」
闇の奥から、足音が響いた。 ハルトマンだ。彼はボロボロになった白衣を脱ぎ捨て、自身の眼鏡が片方割れていることも気に留めず、崩れた柱に背を預けていた。その手には、まだ微かに明滅するポータブル端末が握られている。
「彼女の階層は、すでに『生命』からも『精神』からも切り離された。今の彼女は、市場に放置されたデッドストック……ただの『無』だ。君の肯定がどれほど強くても、世界そのものが彼女を拒んでいる」
「そんなの……関係ない! 世界が認めないなら、僕が認める! 彼女がそこにいるって、僕が命懸けで証明する!」
ルネは叫び、彼女の額に自分の額を押し当てた。 異能【我思う、ゆえに我あり】の全出力を、自分ではなく「彼女」へと流し込む。 それは、他人の存在を自分の主観だけで固定するという、独善的で、傲慢なほどの肯定だった。
(思い出して、クリス。あの雨の日の匂いを。不器用な僕が淹れた、少し苦すぎたコーヒーの味を。二人で笑ったあの光を……!)
ルネの記憶が、光の粒子となって彼女の精神へと逆流する。 アダム・スミスの計算式には載らない、無意味で、生産性のない、けれど宝石のように輝く日常の断片。
その時、クリスの指先が、微かに、本当に微かに動いた。
「……る……ね……くん……?」
かすれた、消え入りそうな声。 だが、その一言が、大聖堂に満ちていた「無価値」という静寂を粉砕した。 彼女の瞳に、レヴィアタンの冷たい青色ではない、人間らしい潤んだ茶色の光が宿る。彼女は今、思想市場の演算機から、ただ一人の少女へと「墜ちて」きた。
「……よかった……。本当に、よかった……」
ルネの目から涙が溢れ、彼女の頬を濡らす。 再会。それは、システムが崩壊し、あらゆる価値が暴落したこの世界の底で起きた、唯一の「利益」だった。




