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第一話裏: 泥濘のニヒリズム

境界都市アクロポリスを濡らす雨は持てる者には情緒を、持たざる者には死を与える。


ルネが琥珀色の灯りに導かれ、少女の温もりに拾われていたその時刻。 数ブロック離れたレヴィアタン統治区の境界線近く、街灯さえ満足に機能していない路地裏で、もう一人の少年が泥の中に沈んでいた。


フリードリヒ。 後に「神を殺す者」と呼ばれることになるその少年もまたルネと同じく、記憶の糸を雨に断ち切られた一人だった。


「……はぁ、……っ、……」


肺に冷たい空気が入り込むたび、焼け付くような痛みが走る。 フリードリヒは大型ゴミ容器の影で泥水を啜るように横たわっていた。 空腹、寒気、そして「自分という人間が世界に必要とされていない」という暴力的なまでの事実。


(……誰も、来ない)


彼は薄れゆく意識の中で、路地の入り口を眺めていた。 誰かが通りかかり、自分を見つけ、「大丈夫か」と声をかけてくれる。そんな物語のような奇跡を、彼の脳のどこか一欠片が、まだ捨てきれずにいた。


その時、路地の入り口に眩い光が差し込んだ。 高級車のヘッドライトだ。 金色のライオンを模したエンブレムが雨に濡れて輝いている。世界最大の資本グループ「レヴィアタン」の役員車だった。


(……助け、て……)


フリードリヒは震える指を、その光の方へ伸ばした。 車が止まる。 重厚なドアが開き、仕立ての良いコートを着た男が降りてきた。 男はフリードリヒの方を一瞥した。


だが、その瞳に宿っていたのは「慈悲」ではなかった。 それは、道端に落ちている吸い殻の山を見るような、冷徹な「査定」の眼差しだった。


「――ふん。ゴミが、視界を汚すな」


男は吐き捨て、手にした高級な革靴が汚れるのを嫌うように、フリードリヒのすぐ側にある水溜りを避けて歩いた。 男が歩くたび、跳ね上がった泥水がフリードリヒの顔に容赦なくかかる。


男にとって、目の前の少年は「救うべき対象」ですらなかった。 経済価値を持たず、生産性も寄与もしない、都市のシステムから零れ落ちた「無価値な残骸」


バタン、と再びドアが閉まる。 車は冷たい排気ガスを撒き散らし、フリードリヒを置き去りにして夜の闇へと消えていった。


その瞬間。 フリードリヒの中で何かが乾いた音を立てて砕け散った。


それは、親愛や、希望や、善意といった、人間を人間たらしめる「偽りの価値観」の崩壊だった。


(……ああ、そうか。最初から、何も無かったんだ)


救いなどない。正義などない。神など、最初から死んでいる。 人間が作り上げた「正しい世界」という偶像が、あまりに滑稽で、あまりに醜いものに思えた。


「……はは、……っ、あはははは!」


喉を焼くような笑いがこみ上げてきた。 その笑いは、狂気というよりは、あまりに純粋な「悟り」に近かった。


彼が「世界には何の価値もない」と心の底から断じたその瞬間。 少年の肉体から、不気味なほどの「静寂」が溢れ出した。 降り注ぐ雨が、彼の周囲数センチの場所で、まるで意志を失ったかのようにただの無機質な水滴へと還り、力を失って地面に落ちる。


「拾われる必要なんて、ない……。救われる価値なんて、どこにもない」


フリードリヒは、泥まみれのまま、ゆっくりと立ち上がった。 足取りはまだ覚束ない。だが、その瞳からは、先ほどまでの怯えも期待も完全に消え失せていた。


彼は、誰にも拾われなかった。 だからこそ、彼は誰にも支配されない「超人」への道を、たった一人で踏み出したのだ。


「――俺が、全部壊してやる」


彼は拾われたルネが向かった喫茶店とは真逆の方向、闇が最も深い廃墟の森へと消えていった。


アクロポリスの夜。 誰かは「存在の温もり」に触れ、別の誰かは「価値の虚無」を飲み込んだ。 二人の少年の決定的に分かたれた「1日目」が、こうして幕を閉じた。

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