第九話表: 黄金の檻と解剖学者
目を覚ました時、視界に入ったのは「完璧」すぎる光景だった。 埃ひとつない大理石の床、窓の外に広がる雲海、そして微かに漂う高級なアロマの香り。そこは、レヴィアタン本社の最上階客室。かつてルネがいた『カフェ・メソッド』の、煤けた木の匂いや生活の雑音とは無縁の、無菌室のような場所だった。
「……ここ、は……」
ルネが身を起こそうとすると、全身に奇妙な「密度」を感じた。 体が重いわけではない。ただ、自分の指先一つ、瞬き一つが、見えない糸で数値化され、何かの計算式に組み込まれているような、薄気味悪い感覚。
「起きたか。あまり急に動かない方がいい。君のバイタルは今、このビルの『株価維持システム』と同期している」
部屋の隅、影の中から一人の男が歩み出た。 ニコライ・ハルトマン。彼は手に持ったログを眺めながら、感情の起伏が全く感じられない声で告げる。
「君が不安を感じればシステムの電圧が下がり、君が『僕はここにいる』と安堵すれば、レヴィアタンの信用等付けが上がる。……君は今、文字通りこの企業の『心臓』だ」
「……意味がわからない。クリスは? 店はどうなったの!?」
ルネが叫ぶ。その瞬間、部屋の壁に設置されたモニターの数値が跳ね上がった。ハルトマンはそれを冷ややかに見つめ、眼鏡のブリッジを押し上げる。
「彼女なら安全だ。……ただし、レヴィアタンの論理において『安全』とは『維持コストが支払われている状態』を指す。君がここでレヴィアタンを肯定し続ける限り、彼女の医療費と居住費は、このビルが永久に肩代わりしよう」
「……取引、っていうことか」
ルネの拳が震える。 これまでの「思想のぶつかり合い」はまだ人間臭かった。だが、今アダム・スミスが支配するこの場所では、感情さえもが「リソース」として収穫されている。
「ハルトマンさん。……あなたも、これが正しいと思っているんですか?」
「正しいかどうかは私の管轄ではない。私はただ、この世界の『存在』を正しく分類したいだけだ」
ハルトマンがルネの傍らに立ち、彼の異能【価値の階層】を静かに発動させた。 ルネの視界が変質する。 自分の体が、単なる物質の塊、動く生物、そして「ルネ」という精神の層へと、色のついた断層のように透けて見える。ハルトマンは、ルネの精神の層を指先でなぞるように動かした。
「君の『肯定』は非常に質が高い。だが、それはクリスという他者への依存に基づいた、低い階層の感情だ。もし彼女が消えた時、君の『肯定』はどうなる? 塵となって消えるのか、それとも、より高次の『普遍的な意志』へと昇華されるのか……。私は、それを見届けたい」
ハルトマンの目は、狂気ではなく、純粋すぎる知的好奇心に満ちていた。それが、かえってルネを戦慄させる。 この男は、ルネを助ける気も、傷つける気もない。ただ、極限状態に置かれたルネの魂がどう「変質」するかを、実験動物を見るように観察しているのだ。
沈黙が部屋を支配する。 豪華な檻の中で、ルネは自分の心が磨り潰されていくのを感じた。
その静寂を切り裂いたのは、ハルトマンの端末に届いた緊急アラートと、遠くから響く「物理的な」破壊の震動だった。
「……計算外だ。このタイミングで、空からの介入か」
ハルトマンが窓の外を仰ぎ見る。 黄金の夕焼けを切り裂いて、二つの金属的な光が直下してくる。 それは、数値を、論理を、そしてハルトマンの「分析」さえも置き去りにする、圧倒的なまでの「生の昂ぶり」を纏った翼だった。
名前 ニコライ・ハルトマン (Nicolai Hartmann)
年齢 40代前半
所属 レヴィアタン(存在解析特別顧問)
異能 【価値の階層】
能力説明 世界を「物質・生命・精神・精神的価値」の4つの階層に分解して観測する。対象をどの階層として扱うかを定義し直し、物理的な動きを止めたり(物質化)、感情を無効化(脱精神化)したりできる。
性格,極めて冷静沈着。物事の「正誤」よりも「存在の構造」に興味を持つ。レヴィアタンの非情なシステムも、一つの構造として淡々と観察している。
好きな事 厳密な分類、登山 (高い場所からの俯瞰)、静寂
嫌いな事 感情的な叫び、論理の飛躍、階層を無視した無秩序な行動
史実紹介 20世紀ドイツの哲学者。新カント派を経て独自の「批判的存在論」を確立。世界を重層的な構造として捉え、高次の階層は低次の階層に依存しつつも独自の法則を持つとする「階層の理論」を提唱した。




