第八話裏: 孤独の純化
地下水道の最深部、下水と泥にまみれた「無意識の底」にフリードリヒは横たわっていた。 傷口から流れる血は冷え切り、意識の境界線は曖昧だ。しかし、その静寂を乱す「不快な音」が上層から伝わってくる。
工場区の爆発。人々の悲鳴。そして――自分を呼ぶ、呪わしいほどに優しい声。
「お兄様、見つけたわ……!」
瓦礫を押し退け、血を流しながらもエリザベートが這い寄ってくる。彼女の背後には、スターリンの【大粛清】によって「純化」された無感情な兵士たちが、まるで葬列のように控えていた。
「さあ、帰きましょう。この街はもうすぐ終わるわ。でも、コミューンの聖域なら、あなたを完璧な状態で保存できる。誰にも触れさせない、私だけの、不変の偶像として……」
エリザベートの手が、フリードリヒの泥だらけの頬に触れようとした。 その瞬間、フリードリヒの瞳が漆黒に濁る。
「……保存、だと?」
フリードリヒは力なく笑った。その笑いは、自身の内臓を抉り出すような自虐に満ちていた。
「お前は、俺に『永遠』という名の剥製になれと言っている。レヴィアタンは俺を『道具』として測り、コミューンは『記号』として縛り、お前は『偶像』として閉じ込める。……どいつもこいつも、俺に自分勝手な『意味』を押し付けやがって!」
「それは愛よ! あなたをこの汚い世界から守りたいだけ……!」
「――それが最大の毒だと言ったはずだ」
フリードリヒの中で、絶望が臨界点を超えた。 これまでは「他者の価値」を否定するだけだった彼の異能が、自分自身を繋ぎ止める「生」という価値さえも食らい尽くし始める。
異能:【神は死んだ(ゴット・イスト・トット)】――「永劫回帰」の断絶。
「愛も、家族も、救いも、未来も。……そんなものは、弱者が孤独に耐えられず捏造した幻影だ。俺が、そのすべてを『無』にしてやる」
フリードリヒを中心に、色のない衝撃波が放たれた。 それは破壊ではない。「意味の消滅」だ。 エリザベートが差し出した手から温もりが消え、彼女が抱いていた熱狂的な愛が、ただの「電気信号の残骸」へと解体されていく。彼女を突き動かしていた執着の根拠が崩れ、エリザベートはその場に力なく崩れ落ちた。
「……あ、あ……。お兄、様……。私は、何を……?」
「忘れるがいい。お前を縛っていた『俺』という偶像もな」
フリードリヒは、もはや妹さえも見ず、地下のさらに奥へと歩き出す。 その時、頭上の世界でアダム・スミスの声が響き渡った。
『――最終選別を開始する』
地上ではルネが「日常」を守るために悲鳴を上げている頃、フリードリヒは暗闇の中で独り、その宣告を嘲笑っていた。
「選別か。いいだろう、アダム・スミス。お前が作ったその『天秤』ごと、この世界の価値をすべて灰にしてやる」
フリードリヒの歩む先から、鼠さえも逃げ出していく。 彼はもはや、誰かに拾われることを待つ少年ではない。 世界のあらゆる「意味」を終わらせるために、自ら深淵と同化した死神だった。




