第八話表: 安息の終わり、あるいは天秤の揺らぎ
工場区の空は、爆発の残滓である灰色の雪を降らせていた。 ルネは、千切れるような痛みを発する足をひきずりながら、ようやく中立地帯の入り口まで辿り着いた。背後では、まだコミューンの労働者たちの怒号と、それを取り締まるレヴィアタン私兵の銃声が響いている。
「……ハァ、ハァ……。やっと、帰ってこれた」
ルネは壁に手をつき、荒い呼吸を整える。 彼の瞳には、逃げ惑う群衆でもなく、旗を振る革命家でもなく、ただ一点――路地の奥でひっそりと灯る、『カフェ・メソッド』の琥珀色の光だけが映っていた。
今のルネにとって、世界平和も、階級闘争も、どうでもよかった。 丸山眞男が説いた「作為の論理」も、彼の耳には虚空の空論にしか聞こえなかった。ただ、一刻も早くあのカウンターに座り、クリスが淹れる少し苦いコーヒーの匂いを吸い込みたかった。それだけが、彼が「ルネ」という個を繋ぎ止めるための、唯一の錨だった。
カラン……。
「……クリス。ただいま」
店のドアを開けると、いつもの香りがルネを包んだ。 だが、カウンターの中にいたクリスの表情は、これまでに見たことがないほど強張っていた。彼女の手は、ルネを拾ったあの日から一度も欠かさなかった「床掃除」の手を止め、真っ白な布を握りしめて震えている。
「ルネ……。遅かったわね」
「ごめん。ちょっと、色々あって。……でも、もう大丈夫。僕はここに戻ってきた。僕は、誰の道具にもならないって決めたんだ」
ルネが安堵の笑みを浮かべ、カウンターの椅子に腰掛けようとした、その時だった。
『――素晴らしい決断だ、ルネ君』
聞き慣れない、けれど背筋が凍るほど滑らかな声が、店のスピーカーからではなく「空間そのもの」から響いた。
ルネが驚いて顔を上げると、店の窓ガラス、そして店内のアンティークな鏡のすべてに、一人の男の顔が映し出されていた。アダム・スミス。都市を管理する最高位の存在。
「アダム……スミス……?」
『君が「日常」を選んだこと、それは一つの経済的合理性だ。個人が自分の幸福を追求することこそ、市場が最も活性化する土壌だからね』
鏡の中の男は、慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、残酷な宣告を続けた。
『だが、均衡(ナッシュ均衡)は破られた。君という特異な個体が「肯定」を選び、もう一人の少年が「否定」を深めたことで、この都市の天秤は大きく傾いた。……これ以上、中立な「日常」という贅沢を許すわけにはいかない』
「何を……言ってるんだ」
ルネが立ち上がろうとした瞬間、店の外から凄まじい轟音が響いた。 窓の外を見ると、中立地帯を象徴していた平和な街路が、目に見える速度で「黄金の光」と「赤い霧」に侵食されていく。レヴィアタンとコミューンの主力部隊が、アダム・スミスの誘導(見えざる手)によって、この中立地帯を戦場として選び、激突を始めたのだ。
「やめて! ここは、みんなが静かに過ごす場所なんだ!」
『無駄だよ、ルネ君。君が守りたかったこの店も、市場という名の戦場に供出される。……これより「最終選別」を開始する。生き残りたければ、君のその「肯定」で、すべてを薙ぎ払いなさい』
パリン、と店内の鏡がすべて砕け散った。 それと同時に、店のドアが蹴破られる。なだれ込んできたのは、理性を失った暴徒と、それを冷酷に掃射する機械兵たちだった。
「ルネ! 逃げて!」
クリスの叫びが響く。 ルネが最後に見た「日常」の光景は、クリスが大切に磨き上げたコーヒーカップが床に落ちて粉々に砕ける、スローモーションのような一瞬だった。
拾われ、安息を得たはずの少年は、いまやその安息そのものを盾にして戦わなければならない地獄へと突き落とされた。 ルネの叫びは、都市全域を包み込む戦火の唸りにかき消されていった。
名前 アダム・スミス
年齢 不明
所属 都市管理委員会
異能 神の見えざる手】
能力説明 都市全体の「需要と供給」を操作し、人々の運命を確率論的に操る能力。誰に幸運を与え、誰を破滅させるかを「市場の最適化」の名の下に決定する。彼自身が手を下すことはなく、ただ「状況」を作り出すことで世界を破滅へ導く。
好きな事 統計データの閲覧、均衡、自由競争、紅茶
嫌いな事 独占、過度な介入、予測不能な「愛」や「自己犠牲」
史実紹介 18世紀スコットランドの経済学者。「経済学の父」。著書『国富論』にて、個人が利益を追求すれば「神の見えざる手」によって社会全体の利益も増進されると説いた。




