第七話裏:沈黙の吹雪
地下施設『墓標』の最深部。スターリンの異能【大粛清】が作り出した極寒の吹雪は、フリードリヒの体温だけでなく、彼の「個」としての尊厳さえも凍りつかせていた。
「……お兄様、どうしてそんなに意地を張るの?」
鉄格子の向こう側で、エリザベートが悲しげに首を傾げた。彼女の手には、温かなスープが入った器がある。この極寒の断罪領域において、その湯気はあまりに不自然で、暴力的なまでの「優しさ」を放っていた。
「ここなら安全よ。スターリン様の庇護の下で、あなたは誰にも脅かされず、私たちの『神』として崇められる。……もう、泥水を啜って一人で震える必要なんてないの」
「……黙れ……」
フリードリヒは、鋼鉄の鎖に縛られたまま、ひび割れた唇で呟いた。 スターリンの重圧が彼の肺を圧迫し、呼吸のたびに冷気が内臓を削る。だが、彼にとってそれ以上の激痛は、エリザベートが向ける「歪んだ愛」だった。
「愛、家族、連帯。……お前たちの吐く言葉は、すべて『家畜の安寧』のための毒だ」
「あら、毒かしら? 少なくとも、レヴィアタンに捨てられたあなたを救えるのは、私たちの『鋼鉄の意志』だけよ」
スターリンが背後から歩み寄り、冷たいパイプの先端でフリードリヒの顎を持ち上げた。
「ニーチェ。お前の『否定』は、たった一人では何も成し遂げられない。だが、私の組織という歯車に組み込まれれば、それは世界を浄化する唯一の真理となる。……個を捨て、私の『一部』になれ」
スターリンの指先に力がこもる。異能【大粛清】による「純化」が加速し、フリードリヒの脳裏に、数万人の労働者が同じ歌を歌い、同じ歩調で歩く光景が強制的に流れ込んできた。
(……やめろ。俺の中に、他人の足音を入れるな)
フリードリヒの意識が、白く塗りつぶされそうになる。 その時、彼の脳裏をよぎったのは、救いの光ではなかった。 第1話のあの日。雨の中で誰にも拾われず、泥水に顔を突っ伏して感じた、あの「絶対的な孤独」の感触だった。
(……そうだ。俺には、最初から何もなかった。だから、奪えるものも何もないはずだ)
「……神は、死んだ」
フリードリヒが、魂を削るような声で囁いた。
「……お前たちが崇める『組織』という神(紛い物)も、今ここで殺してやる」
ドクン、と。 フリードリヒの心臓が、黒い拍動を刻んだ。 彼が自身の「孤独」を究極の価値として再定義した瞬間、彼を中心に漆黒の虚無が爆発した。
【神は死んだ(ゴット・イスト・トット)】。
それは他者の能力を消すだけではない。自身の周囲にある「意味を持つすべての繋がり」を物理的に腐食させる、絶対的拒絶。 スターリンの鎖が錆びて崩れ落ち、エリザベートが持っていたスープの器が粉々に砕け散った。
「――っ!? 私の『法』が、中から食い破られただと!?」
スターリンが驚愕に目を見開く。 吹雪が止んだのではない。フリードリヒという存在が、吹雪そのものを「無価値な大気の震え」へと変えてしまったのだ。
「……誰も、俺を見なくていい。誰も、俺を愛さなくていい」
フリードリヒは、ふらつく足で立ち上がった。 四肢からは血が流れ、精神はボロボロに引き裂かれている。それでも、彼の瞳には、エリザベートもスターリンも映っていなかった。
「俺は……俺自身の孤独を、唯一の友とする」
彼は振り返ることなく、崩落し始めた『墓標』の闇の奥へと足を進めた。 背後でエリザベートが「お兄様!」と叫び、スターリンが再度の粛清を命じる声が響くが、そのすべてがフリードリヒの背中には届かない。
彼は光さえも凍りつく「虚無の深淵」へとたった一人で沈んでいった。




