第五話表:赤い風の囁き
三島由紀夫との演武会から一週間。 中立地帯の『カフェ・メソッド』は、かつてないほどの静寂と、それとは裏腹な奇妙な注目を浴びていた。
「……あ、あの。ルネ君、だよね? 握手、してもらえるかな」
「えっ? あ、はい。僕で良ければ」
ルネは戸惑いながら、客の青年の手を握る。 第4話での三島との決闘――「確信」の力で黄金の炎を退けた少年の噂は、瞬く間にアクロポリス中に広まっていた。 「レパブリックに、あらゆる思想を拒絶する『絶対の盾』が現れた」と。
「ルネ、鼻の下を伸ばさない! ほら、注文取ってきて」
カウンターの中からクリスが声を飛ばす。彼女はいつも通り振る舞っていたが、その瞳には、有名人になってしまったルネへの少しの不安と、彼を狙う次なる影への警戒が滲んでいた。
昼下がり、店に一人の男が入ってきた。 仕立ての悪い、しかし清潔な作業服を着た、神経質そうな眼鏡の男だ。 彼はいつもの常連客とは明らかに違う、「組織」の匂いをさせていた。
「……君が、ルネ君か」
男はルネの前に立つと、品定めするように眼鏡の奥の目を光らせた。
「はい。……ご注文は何にされますか?」
「コーヒーを。それと、少し『未来』の話をしたい」
男はそう言って、胸ポケットから赤地のバッジを取り出し、テーブルに置いた。 槌と鎌が交差する紋章。第三の陣営、社会主義勢力『コミューン』の象徴だ。
「僕は丸山眞男。コミューンのNGO理事を務めている。ルネ君、君の力……【我思う、ゆえに我あり】の報告を聞いたよ。素晴らしい『作為』だ」
「……作為?」
ルネが首を傾げると、丸山は熱を帯びた口調で続けた。
「そう。この世界が自然にあるのではなく、君という個人の意志によって『作り直される』。それは、我々コミューンが目指す、大衆の手による世界の再構築――『作為の論理』と非常に親和性が高い」
「僕は、世界を作り直したいなんて思っていません。ただ、この場所を守りたいだけで……」
「だが、守るためには力が、そして連帯が必要だ。レパブリックのような生ぬるい理性では、レヴィアタンの強欲も、楯の会の狂気も止められない。ルネ君、君のその確信を、全人類の平等のために供出してみる気はないか?」
丸山の声には、三島のような圧倒的な熱量はない。だが、一度聞き始めたら耳から離れないような、粘り気のある説得力があった。
「お引き取りを、丸山さん」
奥から現れたミルが、冷徹な声で割って入った。
「ルネ君は、誰かの道具ではない。ましてや、君たちの『実験』の材料でもない」
「おやおや、ミルさん。個人の自由を尊ぶレパブリックが、少年の選択肢を狭めるのですか? それこそ、自己矛盾というものだ」
丸山は薄笑いを浮かべ、立ち上がった。
「ルネ君。近いうちに、僕たちのリーダーであるマルクス氏が君に会いたがっている。……三日後、西の工場区で、労働者たちの祭典がある。そこに来てほしい。君が本当に『自由』を求めているなら、答えはそこにあるはずだ」
丸山が去った後、店内には重苦しい沈黙が残った。 ルネは自分の掌を見つめる。 三島からは「美」を、丸山からは「連帯」を求められる。 自分の「存在」を肯定したはずなのに、皮肉なことに、その存在が大きくなるほど、周囲はルネという一人の少年を「意味の塊」として利用しようと群がってくる。
「……ルネ、行かなくていいからね。あいつら、何を考えてるか分からないもの」
クリスがルネの肩に手を置く。 だが、ルネは窓の外、黒い煙を吐き出す西の工場区を見つめていた。 そこには、自分が拾われなかったら歩んでいたかもしれない、もう一つの「地獄」が広がっているような気がしたのだ。




