第25話:ファーストキスではないけれど
「ん……ッん……ちゅ……ぅぷ……」
唾液の音がする。鮮烈な液体の音。俺の唾液を舐め取って、自分の唾液を俺に押し付ける。その隠微な仕草に、俺の危機感が異常に煽られる。
「よせ……んぅ……ッ!」
「好きぃ……佐倉くん……大好きぃ……」
突き飛ばそうとする俺に抱き着いて、その首に腕を巻き付け、絶対に離れないと宣言して、杏子は俺の唇を貪る。こうなると俺の側には拒絶する手段が限られる。みぞおちでも打って沈静化させるか。だが暴力によって抑止するほど危機的なことをされているわけでもない。あくまでやっていることはただのキスだ。もちろんそれが密な男女の間で行われるものであるとは俺も知っているのだが。ていうかルイとタマモとキスはしているしな。
「えへぇ……佐倉くん……大好きだよ」
「ここで抱かれるつもりは無いぞ」
「していいよ?」
「つまりしなくてもいいんだよな?」
「男の子ってしたいんじゃないの?」
「そういう関係になって口封じって言うのもズルくないか?」
つまり俺と男女の仲になって、結論として悪評を封じる。力業ではあるが、普通の男子であれば有効な手段だろう。
「口封じじゃないよ」
「じゃあなんだよ?」
「だから好きなんだって。佐倉くんが。誰より。私は」
「それをどう証明する」
俺を嵌めておいて。
「だって佐倉くんモテるんですもの」
まぁ否定は難しい。学校では散々だが俺を好きでいてくれる女子が最低二人いる。
「つまり」
ここで俺は杏子の本心を知る。
「佐倉くんは私以外の女子に嫌われなければならない。その上で私だけが佐倉くんを好きでいられる環境を作らなければならない。そういう前提に立った場合、私の策謀にも理由が見えてこない?」
「つまり俺を下着ドロボーに貶めて、自分だけが仲良くできる環境を作ろうと?」
「大正解……ぁん」
そうしてまたキスをする杏子。ピチャピチャと唾液が音を立てる。
俺は持ち上げた手で、その杏子の顔面をアイアンクロー。そうして引き剥がす。
「つまり俺を好きということでいいのか?」
「じゃなきゃこんな事しませんよ」
さいですか。
「だからさぁ……ねぇ……しよう?」
つまりそれはセックスを、だろう。別にやることに否定は無いのだが。問題はそれによって発生する社会的な責任についての話になる。
「しない」
「なんで? 溜まってないの?」
「エロ漫画の竿役でもあるまいし。そう何度も連続で出来るほど絶倫じゃないんだよ」
「でも最初の一回は出来るでしょ」
「すでに済ませた」
「…………マジ?」
「ああ。だから後四、五時間程度は多分無理」
「それって一人でですよね?」
「無論だ」
「なんで?」
「溜まってたから、だな」
「タイミング悪ぅ……」
実際には嘘なわけだが。俺は果てていないし、そうする理由もない。だが相手の意向を鑑みて、これが一番説得力を加味していると判断した。実際にすることはできるが、それでも俺はする気がない。
「じゃあ私が佐倉くんを貶めた理由はわかってくれましたか?」
「まぁ」
「本当にごめんなさい」
そうして頭を下げる杏子。
「ああ、謝罪は受け取った」
後は帰るだけだ。
「あのさ。怒ってるよね?」
「いや。言うほど怒ってはいない」
責める気はない。学内で散々な目に遭ったのは事実だが、それでも杏子は仲良くしてくれた。そのことを覚えていないほど俺は老化していない。
「じゃあ許してくれない?」
「許すのは構わんが」
「それでさ。付き合わない?」
「却下」
「何でです!」
「お前アイドルだろ」
社会商品的にあり得ない。
「つまりアイドルじゃなければいいの?」
「そういう問題でもないな」
そもそもオメガターカイトを止めて何か展望でもあるのか?
「大学は行こうと思っているけど」
なるほど。たしかに進学校だもんな。うちの高校。
芸能科に通っているルイやタマモではありえない選択だ。
「佐倉くんと付き合えるならアイドル辞めますよ?」
「俺の責任にするな」
そんな理由で挫折する職業でもないだろ。
「なんならSNSで公表してもいいんですけど」
「是非止めて」
思ったよりアグレッシブな意見だった。
「じゃあさ」
「何?」
「せめてセフレにならない」
「絶対イヤ」
俺が事務所に訴訟されたらどうすんだ。
「キスとか」
「お前なら好きな人間に出来るだろ」
「佐倉くんが好きなんですよ」
そう言っていたな。
俺はハートフルな杏子の家を眺めて、いかに彼女が此処で愛されているのかを逆算する。
「コーヒー美味かったよ。御馳走さん」
「ファーストキス?」
「いや。そうでもないな」
ルイとタマモとキスはしている。あっちの時はもっと震えるような性欲に刺激されたことを覚えている。
「…………誰と」
「教えない」
言って信じるとも思えんし。
「私と付き合う確率ってどれくらいですか?」
「まぁ。分母がグーゴルプレックスにはなるな」
ほぼありえない。それも杏子が嫌いとかそういう話ではない。根本的に俺はアイドルを貶めることを出来ないというだけだ。いや、抱いていいなら抱きたいのも事実だが。