第139話:鬼喪イゾウはガチ恋勢【三人称視点】
そこはある意味で魔空空間だった。とあるマンションの一室。パソコンが常時起動していた。そのパソコンで株取引をしながら、鬼喪イゾウと呼ばれる青年は壁に貼られたディーヴァラージャのポスターを舐めるように見つめていた。壁にも天井にもディーヴァラージャ…………正確にはその桃野ヲヒメのポスターが張られ、高性能のオーディオからディーヴァラージャのナンバーが流れている。その部屋の中で、株取引と示威行為を両立している男は、鬼喪イゾウという名前で。
「ヲヒメちゃん……ヲヒメちゃん……ッうッ……」
そうして、荒い息を吐きながら彼は賢者になる。彼は桃野ヲヒメガチ恋勢だった。彼女のために生きて死ぬ。その様に生き方を定めていた。
「デュフフ……可愛いお……ヲヒメちゃんは可愛いお……」
元から生まれつき彼は劣っていた。肥満体質で、運動も勉強もできない。自己を肯定する要素がまるで見つからず。一時は死のうとまで思っていた。どうせ自分は生きていてもしょうがない。生まれついての劣等種は首をくくった方がまだしも人類のために寄与できる。そこまで思い詰めて、ただ偶然桃野ヲヒメを知った。ネットでチョロッと目に入っただけ。一目惚れだった。彼女が何なのか知る由もない。名前も知らない。性格も知らない。好きなモノも知らない。けれどそれでよかった。本当に恋をするというのは、知性でも性格でも教養でもなく……ただ顔だと、この時イゾウは思い知った。そうして桃野ヲヒメに惚れた彼は彼女のことを調べ上げ……というほど労力を要するわけもなく。ただグループ名でディーヴァラージャとネット検索するとすぐに見つかった。
桃野ヲヒメ。
イゾウにとってそれは運命だった。彼の全てはその時、桃野ヲヒメに奪われた。そして同時に絶望もした。こんなキモくて何もできない自分を、桃野ヲヒメが受け入れるわけないじゃないか。どうせだから離れて応援しよう。何も期待しない。ただ桃野ヲヒメが生きていることを神様に感謝して過ごそう。
「ぼ、ボクなんて、キモいですよね。ごめんなさい。こんなファンで……」
「え? キモい……ですか? そんなわけないじゃないですかぁ」
それでも、どうしても一目会いたくて。イゾウはディーヴァラージャのライブに行った。サイリウムはピンクを振って。オタ芸など憶えてもいないので、ただ応援のために振るだけ。ステージの上の桃野ヲヒメはキラキラしていて。自分とは果てしなく遠い場所にいる女の子だと思い知った。それでも握手会があって、そこに恐る恐る尋ねると、華やかな笑顔で、桃野ヲヒメはそう言った。
「自分で自分をキモいなんて言っちゃダメですよ。自分は敵じゃありません。味方です。例え誰に裏切られても自分の心臓が止まると思っているんですか?」
「で、でも、ボクはキモくて、む、無能で……」
「私はイゾウくん……男らしいと思いますけどね」
ニッコリ微笑んで桃野ヲヒメはそう言った。ニッコリ笑顔で。これ以上なく嘘が無く。自分と桃野ヲヒメだけは自分の味方でいていいのだと。その様に桃野ヲヒメは言ってくれた。救われた。死すら覚悟していた心が、その時気球のように浮遊したのを覚えている。
「を、ヲヒメちゃんはキモくないの?」
「イゾウくんが私のファンである限り、私はイゾウくんの理想ですよ?」
この時、イゾウにとって桃野ヲヒメはガチ恋の相手になった。
「を、ヲヒメちゃん。きょ、今日のライブもよかったよ……」
「ありがとうございます! イゾウくん毎回来てくれますよね。嬉しいです」
桃野ヲヒメに認知されている。その事が彼には天にも昇るようだ。
桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。桃野ヲヒメ。
もう桃野ヲヒメ以外はいらない。彼女と一緒にいられれば、それ以外はいらない。であればどうすべきか。悩むより先に答えは出た。桃野ヲヒメとの結婚資金を手に入れなければ。彼女にとって自分は男らしい男性で、つまり桃野ヲヒメも自分を憎からず思っている。であれば結婚は自然であり、彼女もそれを望んでいる。今はアイドルとして他の男どもに笑顔を見せているが、本来あれは鬼喪イゾウにだけ見せるべきもの。だがそれを言ってもしょうがないだろう。彼女はアイドルなのだから。であれば鬼喪イゾウは、彼女が引退したときに養えるだけの金を手に入れなければならない。そのためには何をすべきか。悩んだ末に、一つの結論が出た。
証券取引。
サラリーマンはダメだ。ディーヴァラージャのライブに休みなく参加するためには時間が必要で。であれば会社に出勤している余裕はない。であれば働かずに金を手に入れなければならない。結果資産運用に辿り着くのは必然だった。そして彼は見事成功した。すでになけなしのお金を一億円に膨らませ、今も株取引は成功している。これも桃野ヲヒメと出会ったからだと認識できた。彼女に恋する心が無ければ、自分は金を稼ごうとすら思わなかっただろう。こうして社会に接することが出来たのは全て桃野ヲヒメのおかげ。であれば感謝に尽きない。桃野ヲヒメがアイドルをやっている内は、彼女の応援に全力を注ごう。鬼喪イゾウにとって人とは自分と桃野ヲヒメだけなのだから。
「ヲヒメちゃん!」
そうして大体一年くらいイゾウは桃野ヲヒメを求めてディーヴァラージャを推していた。ファンクラブにも入ったし、そこで桃野ヲヒメ推しと交流も得た。彼らは桃野ヲヒメが可愛いと言うが、その彼女が自分……つまり鬼喪イゾウを男らしいと感じていると知らないのだ。桃野ヲヒメのファンには悪いが、彼女の心は自分……つまり鬼喪イゾウが握っている。そう信じられるだけの妄信を彼は獲得していた。だがそれはそれとして自分の想い人が褒められるのも嬉しくて。
「デュフ……ヲ、ヲヒメちゃんは、今日も輝いていたんだな……」
いつでもどこでも、イゾウにとっては桃野ヲヒメが最高だ。
「わかってござるぞ鬼喪氏。ヒメっちは可愛い。おそらく日本の女子の誰より」
「でござるな。やはりヒメちゃんこそ至高。これこそ世界の真理なり」
「や、やっぱりヲヒメちゃんしか勝たんということで結論?」
「ありでござるな」
「然り! 然り! 然り!」
そうしてファンクラブも順調に交流し。桃野ヲヒメも握手会ではイゾウを認知して。幸せな日々が過ぎた。そして新年のライブ。マイクパフォーマンスで桃野ヲヒメは言った。
「オメガターカイトより人気になる!」
オメガターカイト。その名は知っている。ドルオタなら誰もが一度は聞く名前だ。というかこの場合は日本人なら、と言うべきか。桃野ヲヒメほどではないが可愛い女の子が七人もいるグループで、今では国民的な人気を得ているトップアイドル。ディーヴァラージャが至高とは言え、その人気の根拠も分からないではない。実際にレコード会社とも連携していて質のいい曲も提供している。
だが、そのオメガターカイトより人気になると桃野ヲヒメが言ったのだ。であれば鬼喪イゾウに出来るのは、彼女の宣言通りにディーヴァラージャをオメガターカイトより人気にしてあげることだけ。そうしてディーヴァラージャが国民的に人気になったら、きっと桃野ヲヒメは自分の感謝してくれる。
『ありがとうございます。鬼喪イゾウくん。しゅき……』
「なんちゃって! なーんちゃってー!」
バンバンと机を叩く。これで新年の目標は決まった。ディーヴァラージャをオメガターカイトより人気なアイドルに押し上げれば、彼のミッションはコンプリート。あとは憂いなく桃野ヲヒメと恋をするだけでいい。
「そのためには」
オメガターカイトが邪魔だ。
「デュフ……お、オメガターカイトには……頭を下げてもらおうか」
彼にとってはそれがジャスティスで新年の目標でもあった。
「ヲ、ヲヒメちゃん、待っててね。君の王子様が君を祝福するから」
彼女と出会ったことで、イゾウの人生はバラ色になった。だったらその恩義に報いるにはどうすればいいのか。彼の中で結論は出ていた。




