第138話:握手の中で【三人称視点】
「お疲れ様でしたー!」
「ありがとうございます!」
ライブの後。個別に握手の機会があって、ほんの数秒だが推しと握手できる機会が、今日来た客全員に与えられた。その中で最も握手をしているのは桃野ヲヒメだった。あのライブでの乙女顔にやられたファンが雪崩れ込むように彼女へと殺到し、そうして今日のライブでのレジェンドは彼女と相成った。ルイとタマモは帽子を目深にかぶって、誰ともわからないように。だが確かに桃野ヲヒメと握手していた。
「応援しています」
「…………応援しています」
「ありがとうございます!」
相手が恋敵と知らずに、それを純粋な応援として受け取った桃野ヲヒメは晴れやかな笑顔でそう言った。恋をすると人は変わる。それはアイドルも同じで。今日の笑顔を覚えていれば、桃野ヲヒメはさらに上に行けるだろう。そうして本当にオメガターカイトを超える日が来るかもしれないが、同じだけの乙女顔を晒しているのがルイでありタマモであるから、中々これも難行だ。
「ライブ楽しかったです! ありがとうございました」
で、マアジの番になって、彼が手を差し出すと、桃野ヲヒメの乙女顔が最高潮になった。
「ありがとうございました!」
晴れやかな笑顔で、今日一番の笑顔で、何より可愛い恋する乙女の顔で、ただその一言の莫大な熱量を込めて、桃野ヲヒメはそう言った。
「それでは」
最後のギュッと握手して、マアジは去っていく。さすがに友達と来ていることになっているので、ここでルイとタマモとは合流できない。もうちょっと離れてから、誰も見ていないところで合流だ。今日のご飯は石焼ビビンバ……は無理だから、フライパンビビンバの予定だ。どうせ今日は暇だし、ビビンバの具とソースを買って、米を炊く必要がある。
ルイとタマモ、ついでにサヤカとイユリも呼んで、ビビンバを食べる予定だ。アワセとリンゴは用事があるし、今日は不参加。イユリもマンションに住みたいと宣っているが、それを実現すると厄介なことになりかねないので、今のところ実現の目途は立っていない。この上アワセとリンゴまで移住してきたら、杏子だけがマンションにいないという特異点になり、そうなるとマアジと六人の関係が露呈しかねない。それならそれで別にいいかとは思うが、杏子がマアジと六人の関係を知った場合、血が流れずに済むだろうか。
ともあれ、そうしてマアジたちは今日のライブについて語りながら帰っていった。
その数分前。
「ヲ、ヲ、ヲヒメちゃん……」
マアジとの握手を終えて、少し残念そうな顔をしている桃野ヲヒメが、気を引き締めて笑顔を作って、その笑顔で次の客に対応する。そして同時に引きつった。
例えるなら、それは醜悪だった。およそ人間としての尊厳が欠け落ちたような。肥満体質の脂肪を全身に纏い、おしゃれも何もない度の強い眼鏡をかけ、センスの欠片も無いチェックのシャツと良い出汁が取れそうな安物のジーンズ。履き倒れのスニーカーに某モオビルスーツのような背中のリュック。
見るだにキモオタと罵られても不思議ではない男が、息を荒らげながら桃野ヲヒメに握手を求めてきた。もちろん相手がキモオタでも笑顔で営業スマイルを崩さないのがプロ。仮に彼が桃野ヲヒメガチ恋勢で、ヲヒメに純粋に恋心を持っているとしても、それを否定することはアイドルの側からは許されない。
「あ、イゾウくん。来てくれたんですね。ありがとうございます」
ニッコリ笑顔。それも今日覚えた乙女スマイルで対応する桃野ヲヒメ。例えキモオタでもアイドルが対応するのは噓の笑顔だ。本当の笑顔はマアジにしか見せないが、それでも幻想を壊すわけにはいかない。アイドルというものがそもそも幻想を成り立ちにしているのだから。
「ヲ、ヲヒメちゃん。お、オメガターカイトより人気になりたいんだね?」
「はい! 応援してくれますか?」
「も、も、もちろん! 応援するよ! ヲ、ヲヒメちゃんの願いを叶える王子様だからね。ボクは」
「わー……ありがとーございますー……」
なんと反応すればいいものか。悩みながら、とりあえずお礼だけは言っておく。何があっても笑顔は死守。ここでファンをキモいとか言ってしまえばすべて終わる。仮にこのイゾウなる人物が彼女にとって気持ち悪い厄介粘着だとしても、拒否することだけは許されない。
「デュフ……大丈夫だよヲヒメちゃん……」
そうしてイゾウとの握手は終わる。最後まで何を考えているのか読めなかったが、この際ガチ恋勢の気持ちを察しろと言うのも難しく。彼女自身も恋を覚えているのでお互い様だが、それはそれとして。
「お疲れ様でしたー」
「お疲れー」
「お疲れじゃーん」
「お疲れ様でした」
最後の一人まで握手を交わして。それが終わった後、ディーヴァラージャの四人は労いながら着替えを始める。今日の箱ライブは大成功。どころではない。既に越冬ジュリはエゴサーチをしており、ライブの感想を眺めていた。
「ほら、ヲヒメ。噂になってるよ」
言われてSNSを見ると、
「今日のヒメっちぐうかわだった」
「ああいう表情出来たんだな」
「なんかいつもより花があったっていうか……」
「何かに吹っ切れたのかな? ちょっと今まで舐めててすいません」
今日のライブの感想を、桃野ヲヒメが独り占めしていた。
「何かあったの?」
リーダーの波佐見リオが、今日の桃野ヲヒメのモチベーションについて聞く。
「別に。新年も改まったし。働き方改革だよ」
「それって労働する方が改革するわけじゃないんだけど」
「ま、まあいいじゃん」
まさか恋して変わりましたとか言えるわけもなく。
「…………ボソボソ(来てたんだ彼)」
桃野ヲヒメの耳元で囁いたのは越冬ジュリで。
「……わかる?」
「わからいでか」
乙女顔の原因を越冬ジュリは容易く把握していた。
「でもそっかー。それでモチベあがるならいいんじゃない?」
「今日の顔を忘れないようにしないと。いつでもあの表情が出来るように……」
クニクニと顔を弄って、一人反省会をする桃野ヲヒメ。
「何の話?」
「何でもないじゃ~ん」
桃野ヲヒメの事情を知っている越冬ジュリとしては、まさか本音で語るわけにもいかず。しらばっくれて、誤魔化すしかなくなる。
「ヲヒメ。今日のモチベについて教えて欲しいんだけど」
「え、えー?」
向上心の強い波佐見リオが、リーダーとして当然のことを聞いてきて。けれどラブパワーで覚醒したとも言えず。
「こう?」
「ノンノン。こう」
「こうかな?」
「ノンノン。もっとリラックスとプレッシャーを混ぜ込んで。こう」
アイドルとして魅力的な乙女顔を、恋する桃野ヲヒメが不毛なまでに、まだ恋を知らない波佐見リオに無茶と知りつつ講義していく。
「に、しても。まさか男一人であそこまで化けるとはじゃん……」
越冬ジュリにしてみれば桃野ヲヒメが恋を覚えて上のステージに行くのはいいが、負けてられないとも思っていて。一応ライブ中も桃野ヲヒメの意中を捜したが特定不可だった。




