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つぐない

作者: 団周五郎

 つぐない

 一

 平成十年の十二月、僕が四十五歳の年だった。バブルがはじけ、不良債権という言葉が巷にあふれ、銀行や証券会社が倒産していた頃だ。

 仕事の終わった金曜の夜、珍しく上司が僕と二人で飲もうと誘ってきた。なにか不吉な予感がしたのだが、せっかく誘われたんだしと付き合ってみた。

 案の定、予感は的中した。

「我社の経営が苦しい」

 乾杯のすぐ後、上司が切り出した。会社の売上げの落ち込みを熱心に説明する上司の顔を見ながら僕は次にくる言葉を想像する。

「はぁ、そうですか」

 曖昧な相槌を繰り返し、二杯目のビールジョッキーを飲み干した後だった。

「実は、君には申し訳ないが会社の人員整理に応じるか、札幌の子会社に出向するかのどちらかを考えてほしいんだよ」

 覚悟はしていた。しかし、実際言われてみると腹が立つ。さっきの乾杯はいったい何の乾杯だったんだと思う。腕を組んだまま何も言わないでいると、

「時間がないんだ。来週の月曜日に返事が欲しい」

 ときた。

 人員整理については、以前に、職場集会で希望退職者を募ると話があった。四十歳以上の社員が該当する。僕は対象者ではあったが希望しなかった。

 しかし、もし希望者が想定人数に満たなければ、労働意欲の芳しくない僕のような社員から退職を迫るアプローチが個別にあるだろうと推測はしていた。

 頭の中でそう思ってはいたものの、実際辞めてくれと言われて即座に承諾するほど都合の良い社員に僕はなれない。

 ましてや、このままこの上司とがぶがぶ飲む気になれるわけもない。

 僕は早々に席を立ち家路についた。

 五年前、バブル景気でマンションを買ったばっかり、ローンは山のように残っている。今、会社を辞めるわけにいかない。とにかく働き続けなければ家族全員が野垂れ死にだ。

 嫁になんて説明しようか? 考えがまとまらないうちに家に着く。

 嫁は、食卓テーブルで家計簿を付けていた。

「話があるんだ」

 着替えもしないまま、いきなり話を始めた。

 いつになく改まった僕の様子に、

「お姉ちゃんも健太も、テレビの音小さくして!」

 嫁が子供達に声をかける。

「今日、上司に呼ばれてついに宣告された。会社の人員整理に応じるか、札幌の子会社に出向にするか迫られたよ」

「えっ! あなたに!」

 嫁が眉根を寄せて僕を見つめる。嫁の声に子供達は振り向いた。

「人員整理に応じれば、退職金は増額するが会社は首だ。札幌に行けば、子会社だけど当面は働き続けられる。中小企業だけれど技術のある会社だからこの先倒産することはないと思う。そのかわり、東京には戻ってこられない」

「どうするの?」

「俺の技術力程度じゃ、ヘッドハンティングなんて縁がない。退職すれば、そのあとはハローワークで就職活動だ。どちらかと言えば、知っている札幌の会社に行く方が気楽でいいのかなと思う」

「ふぅ~ん…… 札幌」

 小さく呟いたあと、嫁は黙り込んでしまった。

 子供たちは僕たちの不穏な空気を感じてテレビを消し、自分たちの部屋に退散する。

 食卓テーブルをはさんで二人の会話は途絶えてしまった。夫婦一心同体という言葉は結婚直後だけの話、僕も嫁も頭の中は自己中心の思いで、ものを考えていた。

「みんなで、札幌に?」

 と嫁が口を切った。

「家族で一緒に行こうや」

 と言いたかったが、嫁の顔を見て諦めた。

 札幌に行くとなれば、小学校に入ったばかりの娘を転校させ、保育園に行く息子の行き先を見つけ、嫁に仕事を辞めてもらい、家を売り払い、札幌で家を見つけ、引っ越しだ。軽く考えただけでもめまいがするほどの困難がこの先待ち受けている。

 容易に嫁が納得するはずがないだろう。

「いや~、俺一人、単身で行こうかと……」

 妥協の言葉がつい出てしまった。

「あなただけで札幌に……」

 嫁の肩の力が少し抜けたようだ。

「ところで、給料はどうなるの?」

「とりあえず、二年間は今と同じだけ補償してくれるらしい。その後は、出向先の会社と相談だ」

 給料は変わらない。僕だけ単身赴任すればあとは今までと同じ。それがわかると嫁の不安は一気に飛んでしまった。

 いつもの嫁に戻っていた。

「良かったじゃない。札幌はいいところって聞くし、今年の夏は子供達を連れて札幌に行こうかしら」

 笑みまで浮かべている。

 単身赴任なら子供達の学校も、住居の心配もない。引っ越し荷物も簡単だ。おまけにうるさい旦那がいなくなる。不幸中の幸い。いやそれ以上の幸運が舞い込んできたと言わんばかりだ。

 僕はまだ単身赴任すると決めたわけではない。しかし、もうこれ以外に選択肢がないと嫁の中では結論が出てしまったようだ。

「あなた、札幌って良いところらしいわよ。町がきれいで食べ物がおいしくて、それに給料を補償してくれるのなら絶対それが良いんじゃない。そのうち景気が良くなればいい話もあるはずよ」

 ついには、僕を説得にかかる始末であった。

 週明けの月曜日、僕は子会社に出向することを上司に伝えた。

 あっという間に年が明け、三月になる。忙しい中、仲間が送別会を開いてくれた。

「札幌はいいところだぞ。食べるものはうまいし、土地は広々として気持ちが良い。俺は残れたけど、この先会社が持つかどうか……。つらいのは同じだ。おまえ、単身で行くんだろう?」

「そうさ、まぁ、札幌までついてきてくれるほどやさしい嫁じゃない…… 仕方ないよ」

「どこもおんなじさ。子供が出来れば父親なんて、亭主元気で留守がいいなんて言われてなぁ……」

 同期入社の上田は、そう言って僕に選別をくれた。

 三月末日、僕は辞令を受け取って会社に別れを告げた。

 一週間後、いよいよ札幌に向かう朝、子供達が眠い目をこすりながら起きてきた。

「父さん、これ」

 娘から手渡された画用紙に、熊と楽しそうに遊ぶ僕の似顔絵が描いてあった。

「ありがとう。しばらく帰ってこられないけど……」

 娘の頭をなでながら、一番寂しい思いをしているのは俺なのだろうと感じた。

 嫁が羽田空港まで見送りに来た。

「元気でな。子供達をよろしく頼む」

「まるで、戦地に向かうみたいじゃない」

 神妙な僕の顔を見て嫁が笑った。

「札幌はまだ寒いっていうから、体に気をつけてね」

 思いっきりの優しい嫁の声に、涙がこぼれ落ちそうになった。

 二

 住んでみないとわからないものだとつくづく思う。札幌は、東京に比べて格段に住みやすい。ラッシュアワーもないし食べ物がおいしい。自然が豊かで空気が澄み切っている。

 二月に下打ち合わせで来たとき、思わずブルっときた北風が、四月になるとさわやかな風に変化していた。道行く人達の背筋がピンと伸びている。まぶしい日差しに目を細め、暖かい日向を歩く人達の表情は、冬を乗り越えた喜びであふれていた。

 僕はアパートを借りて、車通勤で子会社まで通った。新しい会社は、気さくな雰囲気でこの先なんとかやっていけそうな感じがした。

 いろんな手続きを終え、引っ越しの荷物整理が終わる頃には、ゴールデンウィークが近づいていた。

 僕が帰るか、子供達を連れてこちらに来させるか迷った。札幌に行けるとなれば子供たちはきっと喜ぶだろうと誘ってみた。

「行くわぁー」と返事が返ってくると思っていたのに、

「飛行機代が高すぎてとても行けないわ」

 とつれない嫁の返事だ。

「それより、あなた、ゴールデンウィークが終わってから戻ってくれば良いじゃない。すごく運賃が安くなるわ。私、探してみるから」

 平然と言う。その言葉で僕は帰省を断念した。

「俺が帰らなくても、お前達はさびしくないのか!」

 受話器を置いてから、大声で不満をぶちまける。まだ一月しか経っていない。がまんするかぁ…… しかたがないなぁと諦めた。

 北海道の桜はゴールデンウィークに咲く。東京より一月遅れだ。暇な僕は憂さ晴らしにあちらこちらの桜を見に行った。

 六月、七月、日が長くなり、北海道内、あちらこちらで、フェスティバルの開催だ。

 せっかく来たのだ。遊んでやろうと、僕は一人、車で各地の祭りを見て回った。うまい食材を腹いっぱい食い続けたおかげで体重が五キロも増えた。

 八月、嫁がようやく飛行機の切符をとってくれた。

「お盆前だけど、この日が一番安いの。悪いけど帰ってくるのはこの日にして」

 と言われ指定された日に家に帰る。四ケ月ぶりの家だ。子供達もさぞ大喜びして迎えてくれるだろうと想像した。しかし、玄関に出てきたのは嫁一人だけ。

「子供達は?」

 と聞けば、

「リビングでテレビを見ているわ」

 と返ってきた。

 パパ~と言って玄関に出てくるものだと思っていたのに……。リビングをのぞいてみると、いつも僕が座っていたソファの位置で熱心にテレビ観戦だ。

「そこは、俺の席だ」

 とも言えず。しかたなく食卓テーブルに腰を下ろし子供達の元気な声を聞いた。

 家で飲む缶ビールは一味違う。瞬く間に二本三本と缶が空いていった。心の底からほっとする。少しくつろげば、金曜日の夜はすぐに更けていった。土曜日、子供たちを連れて出かけてみれば時間は飛んで行く。外食をして帰ってくれば夜空に月が上がっていた。疲れ果て目を閉じれば、日曜日の朝だった。もう戻る日になっていた。二泊三日の行程など、あっという間に過ぎていくのであった。

 九月、爽やかな夏が終わり、秋風が吹き始め、十月になるとその風は冷たい北風に変わっていった。朝の気温は東京の冬のようだ。ストーブを焚かなくてはと思う。

 節約のために始めた自炊だったが、続いたのはほんの数か月だけ。何日も前に食べた茶碗がテーブルの上にそのまま残っている。うす暗い部屋に一人いると寂しさがこみ上げてきた。しかしだ、寂しさを紛らわせるためにだけ嫁に電話をするのはごめんだ!

 さみしくて電話をかけてくるのは嫁の方からだろうと昭和の男の意地が電話を遠ざける。

 ごろごろとテレビを見て時間を無駄に過ごすのがむなしくてやるせなかった。

 なにかもっと他に楽しむ方法はないのかと思いついたのがパソコンだ。

 テレビとインターネットの両方があれば、時間を有効に使えるだろうと考えた。

 回線スピードが遅い時代だったからネットでビデオが見られるわけじゃない。ただいろいろなサイトを巡り歩いているうちに時間はあっという間に過ぎていく。

 しかるべき結果として、暇な男達が群れなすサイトにたどり着いていた。メール会員を募集していた男女の交流サイトである。

 ビールを飲みながらのメール友探し、趣味が合う人たちとの交流なんかどうでも良い。探す相手は最初から女性になっていた。

 自己紹介の文章に工夫を凝らし、餌をまく。何度も空振りをし、経験を積む。技術が向上すると、そのうちパクリと餌に食いつくご婦人が現れた。

 十月の中頃だった。僕はご主人が単身赴任している奥さんとつながりができたのである。 

 何回かのメールを交わしていると年が同じくらいだとわかり、住んでいるところも近いとわかってきた。わかってきたら会いたくなってくる。

「一度会ってみませんか」

 メールの最後に書いてみた。

「コーヒーくらいなら」

 彼女もメールの最後に添えてきた。顔見知りだったらどうしよう。ドキドキしながら待ち合わせの日と場所をメールに書いて送った。

 約束の日、強烈な好奇心を感じながら待ち合わせ場所で待っていると、ちょっとおしゃれなスーツを着た婦人が僕の目の前に現れた。

 年を知っていたし、人通りが多い場所じゃない、視線が合ってすぐにお互いを認識した。丸顔でセミロングの髪、四十路の主婦と言う感じはしなかった。

「この横の喫茶店でもいいですか」

 彼女は軽くうなずいて僕の後についてきた。会うまではドキドキしていたが、話し出すと普通に会話を楽しんだ。子供がいなくて、パート勤務、二年も旦那さんと離れているという。

 僕は、うんうんと彼女の話を聞いていた。

 見た目は若いけれど、語りだせばやはり四十路の婦人である。日頃の出来事をはき出すように語りだしたのだ。

 女性の機嫌を良くする秘訣は、ただ反論せず「わかるー」と言って聞き役に徹することだ。そしてそれがイケメンじゃない男が女性に好かれる武器だと僕は知っていた。

 全くくだらない話だったが、真剣に話を聞く僕の態度に彼女の話は尽きない。一時間以上も話をし続けた。

「また、会えるかなぁ」

 満足した彼女の顔を見て僕は言った。

「ええ、今度また」

 どうやら彼女も気に入ってくれたらしい。

 そこから、出会いが始まった。メールで次に会う日を決める。出会う場所は初めて会ったときに行った喫茶店だ。

 会う度に、僕は彼女の話を真剣にきいた。旅行の話、食べ物の話から週刊誌の芸能ネタまで聞き役に徹しているうちに彼女の僕に対する好感度が上がって行く。そしてそのことが夕食を一緒に食べるようになり、車でドライブをするようにまでなっていた。

 大人の二人だ。プラトニックなわけがない。いずれ一線を越えてしまうだろうと予感していたし、そう仕向けてもいた。四、五回会った頃だった。

 レストランで夕食を終え、車に乗り込んだとき、

「僕のアパートに寄っていく」

 と聞いてみた。いきなりの言葉に彼女は黙っている。窓の外を見たままだ。

 念を押して聞くほど野暮じゃない。ノーと言わないでいるなら大人同士、答えはYESだと確信する。僕はウィンカーを上げレストランを出た。

 彼女は何も言わない。山下達郎の音楽だけが車の中に流れていた。

 繁華街を通り抜け三十分ほどでアパートに着く。車のエンジンを切ると音楽も流れなくなり何の音もしなくなった。

「きれいな部屋じゃないけど」

 ひとこと言って僕は車から降りた。

 助手席の彼女は不安げな様子だったが僕の後ろについてきた。

 少し強引だと思いつつ、僕は足早にアパートの通路を通り階段を上がり二階の玄関の前まで歩いた。

 彼女も遅れず僕の後ろをついてきた。

 玄関の前で立ち止まり鍵をあける。振り返ると、このまま帰ろうか、決心の付かない苦渋の様子が彼女の顔にあふれていた。

「どうぞ」

 僕は声をかけた。意を決した彼女が、

「お邪魔します」

 と扉の内側に入ってきた。

 狭い玄関口に二人の大人が立つ。お互いの体が少し触れた。ハッと彼女が驚き体を硬直させる。気にせず僕は玄関のドアを閉めた。そして、彼女の肩に手を置いた。

 黙ったまま彼女はうつむいていた。僕は彼女を抱きしめる。抱きしめられても彼女は抵抗しなかった。しばらく抱きしめたままでいると服を通して彼女のぬくもりが伝わってきた。

 呼吸が女の息に変わりつつあった。抱き合ったままで靴を脱ぎ、抱きあったままでベッドに倒れこんだ。お互い寂しいものどうし、心の隙間を体のぬくもりで埋め合わせしたい。

「いけない、いけない」と思う倫理感が反対にこころをときめかせてゆく。

 夫以外の未知な男の愛撫に今まで感じたことのない官能が彼女に目覚めた。僕自身も人妻の感触に狂おしいほど体が反応する。しかし、ガラスの食器を扱うように大事に彼女を愛撫した。

 彼女が果てるまで、僕はやさしい男であり続けた。

 越えてはいけない垣根を越え甘い蜜の味を覚えた彼女にためらいはなくなっていた。

 ベッドの上の時計が十時をまわった。

「遅くなるから、送っていこうか?」

「いいの、タクシーで帰るから」

 彼女は、床の上に散乱した衣服をかき集め、部屋の隅で服を着かえる。

 髪を整え、帰りの支度が済むと僕に口づけを求めてきた。

「今日は、楽しかったわ。ありがとう」

 僕の耳元で彼女がささやいた。

 深夜になる前、彼女は僕の部屋を後にしたのであった。

 それからというもの、大人の関係が度重なり罪悪感が薄れていった。

 ただ倫理感は存在していた。二人のことは絶対に秘密。誰にも言わないし、お互いに迷惑をかけないこと。これだけはお互いの身を守る最低限の条件だ。約束はしなかったけれど、その認識だけは不倫の倫理として存在するものだと僕は思っていた。

 三

 一二月になると、嫁から年末の航空券がゲットできたと連絡が来た。

「高かったわよ!」

 と恩着せがましく何度も言われ頭にきたが、夏に帰って以来、僕は四ケ月ぶりに東京に戻れるのだ。うれしさの方が勝って、怒りをぐっとこらえることができた。

 来たばっかりの僕にもボーナスが出た。仕事にも馴染んできた。年末の挨拶回り、来年の準備、大掃除と師走の慌ただしさで休日も働き続けた。

 時間がとれない。しばらく彼女と会うことも出来ないでいた。

 年が明けたら、また楽しもうぜ。それが二人の一致した意見になった。

 それまでの間、僕たちはロマンチックで卑猥なメールのやりとりを楽しんでいたのだ。

 クリスマスを前にした頃だった。彼女からメールが突然来なくなった。

 どうした?

 ひょっとして風邪でもひいた? 

 お互いの深い生活事情を知らない二人だ。

 聞いてないことが山のようにある。

 何が起きているのだろう。想像がつかない。だけれども、メールを出して聞くことはできなかった。

 くだらないメールのやりとりばかりしていた者が急に心配したところで嘘くさい。

 それに、互いの生活の中に立ち入れるほど心の交流があるわけじゃない。

 問題が起きれば二人の関係はそこで消滅するだけ、ただそれだけだ。

 そんな関係なのに「心配しているのだぞ」なんて野暮だと思うのだった。

 突然の終焉がきてもかまわないじゃないか! そうは思うものの、何があったのかだけは気になってしようがない。悶々とするままに月末を迎えた。

 仕事納めの日、嫁がとってくれたチケットで僕は千歳から飛行機に乗り羽田に向かう。

 羽田上空にさしかかり、久しぶりに見る東京の夜景を見ていると、メールが来なくなったことより我が家のことの方が心の中を占めてゆく。

 羽田から電車を乗り継ぎ、七時過ぎ、我が家にたどり着いた。

 玄関前に立つと、札幌のことはすっかり頭から抜けていた。

 一歩家の中に入る。暖かい空気と子供の騒ぐ声、そして嫁の作る料理の匂いが、心にやすらぎを与えてくれた。家族でご飯を食べ、子供達と風呂にはいり、嫁と面と向かって話をする。家族揃って話のできる日常が、ほんとに幸せな事なのだと痛感する。

 嫁の態度も優しかった。

 その夜、僕は、我が家のベッドでぐっすりと眠りについたのであった。

 大掃除、紅白歌合戦、おせち、駅伝、初詣、年末年始恒例の家族で楽しむ行事が、次々と終わってゆく。

 あっという間に、正月三ケ日も終わってしまった。また札幌に戻るのかと思うと、哀しくなるほど気持ちが重くなる。

 一月四日、なまりを飲み込んだような気分で僕は札幌行きの飛行機に乗ったのだ。

 一時間ほどのフライトを終え、新千歳空港に着く。飛行機の扉が開くと、夜の千歳の冷気に生暖かい空気に慣れた体がいきなり引き締まる。寒さが半端ない。寒いより痛いという感じだ。

 千歳からバスに乗りアパートにたどり着いたのは十時を過ぎていた。

 ブルブル震えながら、ポケットの中からアパートの鍵を出す。誰もいなかったアパートの部屋は冷え切っていた。ストーブをガンガンと焚いて、一時間ほど経つ頃、ようやく部屋が暖まってきた。郵便ポストから取り出したあふれんばかりのチラシやら年賀状の山を整理していたときだ。

 その中に、なんと彼女からの手紙が入っていたのだ。

 切手が貼ってなかった。

 頭の中が真っ白になる。

 切手が無いと言うことは、彼女自身がわざわざアパートまで来てポストに入れていったということか……。

 何故? 不安な気持ちが、みるみるわきあがってくる。

 指先が震えて、しばらく封筒を開けることが出来ない。

 時刻は、深夜になろうとしていた。

 物音のしない部屋の中、意を決しておそるおそる封を開いた。

 便せんが二枚、折り込まれていた。

「先月、主人が私のパソコンをあけ、メールを勝手に読んでしまいました。

 あなたからのメールがすべて読まれてしまったのです。

 私は厳しく追及されました。

 あまりの剣幕に嘘をつけませんでした。

 すべてのことを正直に話すしかありませんでした。

 主人は怒り狂い大声で怒鳴り、挙げ句の果てに私に手を挙げました。

 私の顔、体は真っ赤にはれあがり、未だに痛みが残っています。

 それだけではありません。

 主人からの信用は無くなり、いままで築き上げてきた家庭は滅茶苦茶になってしまいました。

 私はすべてを無くしてしまったのです。

 しかし、あなたは今、何も知らないで平穏に暮らしているのですね。

 私がこんな目にあっているのに、あなたは何も感じてないのですね。

 それが私には許せません。どうしても許すことが出来ないのです。

 あなたには私が受けた痛みと同じくらいの苦しみを感じてもらいます。

 三百万円用意してください。

 用意しなければ、今までのことを書いてあなたの会社に送り付けるつもりです。

 私は、本気です」

 頭の中が凍りついた。

 これって脅迫じゃないか! 

 明日にでも会社に通告が行きそうな気がする。

 会社の幹部になんて説明しよう。

 わからん!

 ただ、僕のような新参の出向者が不倫のあげくトラブルを起こし、会社に通告されるのだ。即刻首というのが確実だろう。

 嫁になんて言おうか?

 狂ったように叫ぶだろう。

 地獄のような光景が頭の中に広がった。

 吐き気が止らなくなり、トイレの便器にしがみつく。

 吐き気と供に後悔がふつふつとわき上がる。

 彼女を自分のアパートに連れ込んだのが間違っていた。

 部屋の机の上にあった会社の封筒を見られて自分の勤め先がばれたのだ。

 どこかのホテルに連れ込んでいればこんなことにはならなかった。

 思いっきり唇をかんで後悔した。

 反対に僕が彼女について知っているのはメアドと携帯番号だけだ。

 家がどこなのかわからない。連絡のすべは、メールと携帯だけだ。

 連絡しようと思ったが、それらはおそらく主人の監視のもとにあるはずだ。

 嫁を殴ってしまうような旦那だ。きっと荒くれ者に違いない。

 情け容赦なしだろうな。直談判するなんて恐ろしかった。

 それに三百万なんて金はどこを探しても出てこない。

 電話をかけて彼女と主人がここに乗り込んで来たらどうしよう。

 どうしようどうしよう。

 山のようなどうしようで思考回路がショートしてしまった。

 ベッドの上で呆然としていた。眠れない。

 その日は、ベッドの上で朝まで天井を見つめていた。

 早朝、監視されているような気がしてアパートの周りを回ってみた。人影はなく、郵便ポストに何も入っていなかった。今のところ大丈夫だと安心する。

 会社の方に連絡が入るかもしれないなぁ。対応しなきゃ……、不安に駆られ朝一番で出勤した。しかし、何事も起きていなかった。一瞬だけホッとしたのだが、緊張を緩めるわけにはいかない。

 新年初日だというのに、僕は引きつった顔で挨拶回りをした。

「どうかしたんですか」

 僕の顔色を見て、気がついた社員が声をかけてきた。

「いや、ちょっと正月飲み過ぎてねぇ」

 頭をかいてごまかした。

 デスクの電話が鳴る度にギクリとする。

 神経がぶち切れそうになった。

 恐怖と不安が一日中、頭の中を駆け巡りビクビクしていた。

 仕事など手につくはずもなかった。

 ようやく終業のベルが鳴る。初日、会社への通告はなかった。

 深いため息をついて僕は帰り支度を始めた。

 ヘトヘトに疲れて帰途についた。

 昨日から、食べ物は口に入れると吐いた。

 疲れはピークだが寝付けない。

 ベッド上でのたうち回っているだけだ。

 金の工面、嫁への説明、会社への対応、考えることが山のようにある。どれも解決できない問題だ。

 堂々巡りを繰り返すことに疲れ果てた。

 何もできないまま三日間が過ぎていった。

 不思議に何も起こらない。

 ひょっとして彼女もあの手紙を出したことで気分が晴れたんじゃないだろうか。

 僕をこれだけ痛い目にあわせたのだから満足したんじゃないか。

 そんな風に考えるようになっていた。

 そう思えば恐怖が少しずつ薄れていくのである。

 このままおとなしくしていれば、きっと許してくれるに違いない。

 きっとそうだ。そう思うことで壊れかけた精神をかろうじて支えていた。

 更に二日が過ぎた。

 会社から帰って来ると、二度目の手紙がポストの中に入っていた。

「私は、本気です。痛みは、償ってもらいます」

 切手のない封筒に一枚の便箋。

 たった二行しか書いてない手紙だけれど、僕の心に強烈な恐怖を突き刺してくれた。

「償ってもらいます」

 その文字が頭から離れない。

 本気なのだ!

 なんとかしなければと、気持ちが猛烈に焦りだす。しかし、償いのうまい方法なんて見つかるわけがない。

 再び猛烈な吐き気が僕を襲ってきた。

 もう会社に出る気力がなくなり、風邪をひいたと休暇を取った。

 ベッドでのたうち回りながら一日中苦しんだ。

 明けない夜はないと、いうことなのだろうか、人間、奈落の底でもがいていると、蜘蛛の糸の話のように神様が救いの手を差し伸べてくれるようだ。

 たまたまベッドの横に置いていた新聞で「悩み解決」という広告を見たときだった。

 背筋に衝撃が走ったのだ。

 悩みと言えば「弁護士」じゃないか! と頭にひらめいたのだ。

 ひょっとして償い方を教えてくれるのは弁護士ではないのかと思い当たったのだ。弁護士の世話になるなんて考えたこともなかったが、もはや考えることにうんざりしていた。

 さっそく僕は、ネットで法律事務所を探して電話をかけた。応対してくれた女性に悩みの要件を話し、早急に相談したいと訴える。翌日、話を聞いてくれる弁護士が見つかり予約した。

 僕は人生で生まれて初めて弁護士と向かい合ったのだ。

「示談になるか裁判になるかは場合によりますが、相手のご主人に対しては数十万ほど慰謝料を払わなければなりませんね。また、このままエスカレートしていくことが考えられます。奥さんにも会社にも今までのことを話しておくべきです」

 嫁にも会社にも! それを言えないから今まで悩んでいたのに……。

 弁護士は、まるで判決を言い渡す裁判官のように冷静に言った。

 僕自身にしてみれば大事件であったが、弁護士にしてみると、よくある話だと言わんばかりだ。

 僕の生活状況や話の内容から、これは金にならん依頼人だと踏んだのだろう。あっという間に結論を言い放すと、とっとと帰ってくれと言わんばかりだった。

 警察沙汰になるかも知れない重大事件と思っていたことが、どこにでもある話だと弁護士が言った。

 その言葉に

「なんだ!良くある話なのか」

 と気持ちが少しだけ軽くなる。

 慰謝料が数十万だとも言った。それであれば、なんとかなるかも……。

 更に気持ちが楽になる。

 ただ、会社にも嫁にも話さなければならんのかぁ……。

 その決心がつかなかった。

 アパートに戻りあれこれ考えようとしたが、もう疲れ果てていた。限界だった。

 早く楽になりたい。

 もはや、弁護士の言うとおりするしかないと自分を納得させるしかなかった。そして、それこそが最善の方法なんだと無理やり頭に焼き付けた。

 強引にでも方針を決めてしまうと、心の中がすっきりしていくのを感じたのである。

 四

 休暇を取っている間に何か起きてないか不安な気持ちで会社に出たのだが、変わったことは起きていなかった。

 終業のベルが鳴り終わった後、僕は社長室を訪れた。

「おー珍しい。なんか面白い話でもありましたか?」

 いつも陽気で、話好きな社長は笑顔で僕を迎えた。社長と面と向かって話をするのは、久しぶりだ。以前の会社にいた頃から面識はあったが、深い付き合いはなかった。

 仕事の話を少しした後、

「実は……」

 と切り出した。

 手紙の話、弁護士との相談結果を正直に話しする。

 社長は、うんうんと聞いた後、

「そうですかぁ。それは大変だねぇ。女はおそろしい。あんたの気持ちがよくわかる。実はわしも昔、同じような事をやらかしてさぁ。そんときは、嫁にこっぴどく怒られてねぇ……」

 と自分の武勇伝を延々と語り出したのだ。挙げ句の果てに

「男なんて、みんなそんなもんだべさ。特にあんたは単身赴任なんだし……」

 と共感までしてくれた。

「もし女性から通報があったら、私の方に連絡して欲しいのですが……」

 僕は頭を下げた。

「いやいやいや、わかりましたよ。まぁ、脅迫も度を超すようだったら、わしの方でも警察関係者を知っとるんで、話してみるべさね」

 東京の大手会社と違い、地方の中小企業の社長にとって、浮気のスキャンダルなど気にするほどでもないようだ。自分自身でも痛い目にあっているせいなのか、ニヤニヤと笑って頑張ってねと励ましてもくれた。

 神妙な顔でいられるより楽だったが、あまりにあっさりしていたので拍子抜けした気分になる。

 残すところは、嫁に白状するだけだ。

 アパートに帰ると勇気を出して電話をかけた。

「実は、問題が発生した」

「なに、問題って」

 嫁の口調が変わった。

 恐る恐る僕は今日までのことを話した。

 話し終わるとずっと黙って聞いていた嫁が

「私は知らないわよ。女の事は、自分で解決して!」

 と冷たく突き放したのである。

 さっきまで話していた社長と大違いだ。

 嫁の性格からしてそう来ると思っていたが……。

 問題が大きくなった時、母親として子供たちになんと説明するのか、親戚にどう対応してゆくのか考えているのだろう。

 厳しいものの言い方も仕方がないとあきらめる。

「うん、わかった。絶対迷惑かけないようにするから」

 逃げるようにして僕は電話を切った。

 次の日、内緒で貯めていた秘密預金を全額おろして五十万円を用意した。

 弁護士の言う通り会社にも嫁にも報告し、金も用意した。

 ここまで来ると気持ちが落ち着いた。そして闘志もわいてきた。

 よし! いよいよ勝負だ!と自分に気合を入れる。

 パソコンを開き彼女あてにメールを書いた。

「妻にも会社にも君のことは話した。そして、弁護士にも相談した。三百万は難しい。慰謝料の額は、弁護士を含めて示談か裁判で決まることになる。君の出方によっては警察に申し出ることもいとわない。以上を踏まえたうえで返信を請う」

 メールを読み返し、勇気を振り絞り送信ボタンをクリックした。

 もうどう転んでも構わなかった。

 案外開き直ると気が楽になるもんだなぁと実感したのだった。

 問題は解決してはいないが、なぜか心の中がすっきりとするのである。

 運気が自分に向いてきたようにも思えた。

 次の日、彼女からメールが届いた。

「裁判を起こしてまで、あなたとかかわりたくないの。これで終わりにする」

 メールを見たとき、思わずこぶしを握り締めた。

 何度も読み返し、脅迫という恐ろしい状況から完全に解放された気分を味わう。

 ジワーッと心の中から暖かい安堵感がわいてきた。

 すべてを告白し、周りの人に自分のだらしなさがばれてしまったけれど、とにかく終わった。

 その日の夜、僕は久しぶりに熟睡することができたのだった。

 翌日、社長に報告する。

「よかったねぇ。いい経験しましたなぁ。これからは道産子の女にゃ、気いつけんとなぁ」

 相変わらずニタニタ笑っていた。

 おとがめはなく、会社にはこのままいられそうだ。

 嫁には問題なく片付いたと報告した。

「わかった」

 と嫁は言ったきり電話を切ってしまった。

 風が温かくなった三月の末、東京に帰る切符を自分で買って帰ることにした。

 玄関の前に立つと、嫁がどんな態度に出るのだろう。考えるだけで恐ろしかった。

 ただ、慰謝料も払わず、会社を辞めなくて済んだのだ。きっと機嫌をよくしてくれるに違いないと思っていた。

 思いっきり息を吸い込む。

「ただいま!」

 いつもより元気な声で家の中に入った。

「おかえりなさい」

 嫁がじろりと僕の顔を見たが、何事もなかったかのように晩御飯の用意をする。

 子供達も相変わらずだ。久しぶりに子供達と話をしながらご飯を食べた。風呂に入り、ビールを飲んでゆっくりくつろいだ。

 やっぱり、我が家だ。

 心が一番落ち着いた。

 幸せも感じていた。

 夜が深まり子供たちが寝た。

 リビングで嫁と二人きりになる。

 不自然な沈黙が二人の間に流れだす。

 その沈黙に耐え切れず、

「俺、もう寝るから」

 僕が寝室に行こうとしたときだ。

 背後から声がかかった。

「償ってもらうから!」

 嫁の低い声が聞こえてきたのであった。

(了)


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