走れメロス(婚約破棄風味)
メロスは激怒した。必ず、婚約者であるかの邪智暴虐の公爵令嬢を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、側室の子だが第一王子である。勉強をサボり、女たちと遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
もちろんメロスがこれほどまでに激怒したのには理由がある。
日頃からメロスは完璧な淑女と名高い公爵令嬢との結婚が気に食わず、この日は気晴らしにお忍びではるばる市にやってきたのだ。先ず、庶民の飲む安酒を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は伯爵家を継ぐため、メロスと遊ばずに勉強ばかりしている。しかしたまには酒に付き合わせるのもよかろう。そう決め、友の屋敷へ向かっている最中のことである。ふと、道端でずぶぬれになった娘がしくしくと泣いているのが目に入った。しかも、見ればその娘は最近学園で仲良くなり、ひょんなことから情を交わす仲にまでなった男爵令嬢である。
阿呆ではあっても邪悪ではないメロスは娘を慰め、何かあったのかと質問した。娘は首を振って答えなかったが、メロスは両手で娘のからだをゆすぶって質問を重ねた。娘は、あたりをはばかる低声で、絞り出すようにして答えた。
「実は、公爵令嬢様に水をかけられたのです」
「なぜ水をかけるのだ」
「わたくしがメロス様と愛しあっているための嫉妬でございましょう。この程度のことは何度もされていますが、このドレスは亡き母に貰った大切なもの。あまりに悲しく、こうして泣いておりました」
「何度もされているのか」
「はい。はじめは教科書を破られ、それから、メロス様に近寄るなと嫌味を言われ、それから、足を引っかけられ、それから、階段から突き飛ばされ」
「おどろいた。公爵令嬢は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。すべては嫉妬でございます。すべてはわたくしがメロス様を愛し、メロス様がわたくしを愛してしまったが故なのでございます」
聞いてメロスは激怒した。
「呆れた公爵令嬢だ。生かしておけぬ」
メロスは、単純な男であった。男爵令嬢の言葉のみを聞き、邪悪な公爵令嬢を断罪してくれようとすぐさま決意した。
激怒し、義憤に目がくらんだメロスではあったが、しかしさすがに公爵家へのこのこ上がり込んで剣を振り回すのはまずかろうと、そのくらいの判断ができる程度の知性はかろうじて残っていた。
「明日を待て」
「明日でございますか」
「うむ。明日の学園卒業パーティーでかの公爵令嬢を断罪する」
メロスの言葉を聞き、男爵令嬢は泣いていたはずなのにまったく濡れていない瞳を細め、その口元ににんまりといやらしい笑みを浮かべた。
翌日。学園卒業パーティーが始まると同時にメロスが大声を上げた。
「公爵令嬢よ!」
「なんでございましょう」
メロスから突然の蛮声を浴びたにも関わらず、公爵令嬢は冷静に返した。しかし怒りに目がくらんだメロスにとってはその冷静さすらも憎らしい。
「貴様が罪なき男爵令嬢へ日常的に嫌がらせをしていたことはわかっている!」
「え?」
鼻息荒いメロス。そして訝し気にその美しい眉をひそめる公爵令嬢。
「教科書を破り、私に近寄るなと嫌味をいい、足を引っかけ、階段から突き飛ばし、昨夜は寒空の下、彼女に水を引っかけたな!」
「え?」
「え?」
「え?」
メロスはますます鼻息を荒くしてまくしたて、公爵令嬢が1年間の隣国への留学からつい先ほど帰ってきたばかりでそんなことをできるわけがないと知ってる周囲の卒業生たちはそろって首をかしげる。しかし1年もの間公爵令嬢が不在だったことにすら気づかず、かつ自らの正義に酔ったメロスは周囲の様子にももちろん気づけない。
「よって当然ながら貴様との婚約は破棄し、この刃にて罪をあがなわせてくれる! 愛しき男爵令嬢を貴様の魔の手から救うのだ!」
そう言ってメロスが懐から短刀を取り出した。
第一王子のまさかの蛮行にどよめく会場。動くべき衛兵たちは、下手人が一応はこの場で最も高貴な存在であるため取り押さえるわけにもいかず及び腰である。
「あの世にてその蛮行を反省するがいい!」
どの口が言うのか。『蛮行』という言葉の例にできそうな、蛮行の化身と化したメロスが短刀を振りあげて公爵令嬢に走り寄り、一切の躊躇なく振り下ろす。
しかし、その刃は届かない。
咄嗟に公爵令嬢をかばい、メロスの凶刃をその身に受けたものが居たからである。
「ぐっ、ば、馬鹿な真似はよせ、友よ!
「セリヌンティウス! 貴様、狂ったか!」
そう、それは伯爵家令息にしてメロスの竹馬の友、セリヌンティウスである。彼は自らを犠牲にし、メロスの前に立ちふさがったのだ。幸いなことにメロスは何の心得もなく勢いだけで刃物を振り回していたために、その切先はセリヌンティウスの肌を浅く切り裂くにとどまったが、胸元がざっくりと切れて卒業パーティーのための正装は見る影もない。だが、眉目秀麗なセリヌンティウスの肌が服の切れ目からちらちらと見えてしまい、そのあられもない姿に、思わずといった様子で周囲の令嬢たち、特につ今しがた守られたばかりの公爵令嬢からため息が漏れる。
「……メロス、お前は本当に愚かだ」
うっすらと血のにじむ胸元を抑えながらそうつぶやいたセリヌンティウスに、メロスはますます激高する。
「何を言うか! 私は今まさに、非道なる扱いを受けた男爵令嬢のため、そして義のために忠勇なる行動をとったばかりではないか!」
「……公爵令嬢殿はこの1年というもの、お前の代理として隣国へ留学なさっていたのだ。彼女が男爵令嬢に非道なる扱いとやらをできるはずがあるまい!」
「む?」
「……そもそも教科書を破り捨てたり嫌味をいうなどという低俗極まる行い、高潔な公爵令嬢殿がなさるとお思いか!?」
セリヌンティウスの言に混乱したメロスが男爵令嬢が居たはずの場所に視線を向けたが、すでに女は姿をくらませていた。
「に、げた、のか? わ、わたしを、騙した、のか?」
「メロスよ。わが友よ。たとえ騙されていたとて、これほどのことをしでかしてはただでは済むまい。だがなんとかお命だけは許されるよう取り計らおう。だから、どうか剣をおろされよ」
「おお、セリヌンティウス、す、すまぬ……」
「さあ、早く」
「わ、わかった」
メロスは短刀を捨て、力尽きたようにその場に膝から崩れ落ちた。そこでようやく動き出した衛兵たちがメロスを拘束しようとするのをセリヌンティウスが押しとどめ、メロスを、第一王子たる彼をただ王城へ連れて行くようにと命じる。
みな、すっかり大人しくなったメロスが衛兵たちに連れられて会場を後にする様子を静かに見送っていたが、公爵令嬢がそっとセリヌンティウスに侍従から受け取った緋のマントを掲げた。はて、と首をかしげるセリヌンティウスの近くにいた侯爵令息が気を利かせる。
「セリヌンティウス殿。貴方は上半身がほとんど裸ではありませんか。公爵令嬢殿はセリヌンティウス殿の裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのです」
勇者は、ひどく赤面した。
この後メロスは廃嫡され、郵便配達員として国中を走ることになりました。