人の重み
人の重みは気持ちいい。
そのことに気づかせてくれたのは、人生で3人目の彼氏だった。
付き合いはじめたきっかけはもう覚えていない。
誰かの穴埋めで参加した合コン。隣に座ったのが彼だった。
お互い漫画好きだったこともあって、すぐに私たちは打ち解けた。
当時わたしには彼氏がいたが、まだ二十歳になったばかりの彼氏は自分の欲望を制御できない猿のような男で、まだ二十歳になったばかりで男の欲望が抑えきれない飢餓感に近いものだと理解できなかった私は、彼を許すにはまだ若かった。
好きな絵。好きな漫画。好きな音楽。
お互いの好みがびっくりするほど似通っていたことに驚いた私は、まるでそれが決められたハッピーエンドのように、本当に自然に、すんなりと彼の腕の中へと誘いこまれた。
「人の重みが気持ち良いって本当かな?」
私をベッドに誘ったときの彼の言葉。
それは、私たちが大好きだった少女漫画の中のセリフだった。
金のために身体を売り、好きな男には自分の気持ちを気づいてもらえない高校生。
その人物が言ったセリフが私たちの会話に登場したのだ。
「かなり男の人に抱かれないと出てこないセリフだよね」
自分の体験を赤裸々に話すほどすれてもいなかった私は、分からないふりをして彼に抱かれた。
もっとも、正直言えば、人の重みを心地よいと思ったことなど一度もなかったのだ。
最初の彼氏(まだ高校生だったから仕方ないとも言えるが)も、二人目の彼氏も、自分の欲望を私の身体にぶつけるだけの、思いやりのないセックスしかしてくれなかった。
ただ腰を打ちつけるだけの動物のような性行為。
それを受け止めることが愛を受け入れることだと信じて疑わなかった馬鹿で愚かで若かった私。
それに比べて彼は、私を抱きしめることに喜びを感じるタイプだった。
ただ抱きしめるだけではない。
できるだけ皮膚を密着させ、それもできるだけ広範囲に、密着する皮膚が多ければ多いほど、彼は快感が増すと考えているようだった。
私の身体に手をまわし、ほんの隙間すら無いように、お互いの皮膚を同化させる。
それはまるで、セックスというより彼が憑依してくるかのような感覚だった。
そんな時間を過ごしていくうちに、ついにはお互いの皮膚の境目が分からなくなり、自分の身体が彼の身体と溶け合っていき、重ねた唇はひとつの軟体動物となり、どちらがどちらの舌なのかすらも分からなくなる。
まったく経験したことのない感覚に、私はすっかり魅了された。
新しい物語が始まった。
そう確信した私は、付き合っていた彼氏に別れを告げた。
彼氏(もうその時点では私の中では元彼だったが)はとても往生際の悪い男で、きちんと別れてくれるまでに半年は掛かった。
彼と部屋で抱き合っている時に、元彼がやって来たこともある。
彼は黙って私に覆いかぶさって、私を守るように抱きしめてくれた。
そんなことが何度かあって、私は彼の重みを気持ち良いものと認識したのだった。
もしかしたら安心感だったのかもしれない。俗に言う吊り橋効果だったのかもしれない。
しかし、彼の重みはたしかに気持ちよかったのだ。
彼とは3年ほど付き合った。
お互いの部屋を行き来し、お互いの部屋で愛し合った。
彼の重みを感じながら寝るのはとても心地よかったし、彼の性格も私にとっては好ましいものだった。
でも、結局私は彼ではない別の男を選んだ。
彼もまた、私ではないどこかの誰かを選んだと聞いた。
人生においては、男の結婚しようとするタイミングと、女が結婚したいと思うタイミングが一致して、はじめて結婚という契約が成立する。
つまりは、私と彼のタイミングが合わなかった。
彼の社会人としての成長グラフと、私が勝手に決めた(今にして思えば愚かな考え)女の賞味期限が、うまく重ならなかっただけだった。
私が選んだ男(今の夫)は、私の選択が間違いでなかったことを結婚以来ずっと証明し続けてくれている。
私のことを常に考えてくれて、私の仕事や体調にも気をつかってくれて、娘が生まれたときにはベッドの横で泣いて感謝してくれた。
育児にも積極的で、しかも、そのうえ、母になった私を、妻として、また恋人としても扱ってくれた。
夫は私のことが大好きで、それは年々強まっている。
誰に聞いても理想の夫。もちろんそれは、私自身が一番感じていた。
私も夫には感謝しかないし、夫を愛していると声に出して言える。
だけど、ひとつだけ、たったひとつだけ、心の片隅に気にかかっていることがある。
それは、夫の重みを心地良いと感じたことがなかったことだ。
人の重みが気持ちいいなら、相手が誰でもいいはずなのに。
もちろん夫に覆いかぶさられても、まったく嫌な気持ちはしない。
幸せだと思うし、夫は自分勝手なセックスをするような人ではない。
行為の最中は気持ち良いし、夫の腕の中で幸福を味わうこともできる。
何も文句はない。いや、文句など言えるはずもない。
でも、でも、あの感覚だけが足りないのだ。
彼に覆いかぶさられて、圧迫されているのに安心するあの感覚。
あれはいったい何なのだろうか。
彼と再会したのは本当に偶然だった。
娘を幼稚園に送った帰り、たまたま立ち寄ったショッピングモール。
彼はスーツで車に乗り込むところだった。
どちらかが数分でも遅れていれば、絶対に会うことはなかった偶然。
「元気だった?」
あの頃と同じ声に、私の心がざわめいた。
夫のことが頭に浮かんだ。
だが、確かめないといけないと、もうひとりの私が叫んでいた。
「後悔してるんだ」
カフェの席で、私以外の女を選んだ彼は、私を選ばなかったことを後悔していると言った。
社交辞令なのか本心なのか。それとも、人妻という形容詞がついた女に欲情したのか。
彼は私を見つめながら、両手で私の手を握ってきた。
料理は記憶だと言う。
味が記憶を呼び起こし、記憶が料理に花を添える。
そして、記憶は舌で覚えるものだ。
それと同じように、私の肌は彼の肌を記憶していた。
絡めたのは両手だけ。たったそれだけの彼の肌が、私の記憶を呼び覚ました。
私の身体の奥底に、小さな小さな火をつけた。
「帰したくない」
そう言った彼の手に熱さを感じた。
あの頃と、いや、あの頃以上の彼の熱情に、私の頭はクラクラした。
その手を握り返すのは簡単だ。
私の肌もそう望んでいるのかもしれない。
だけど、私は夫を愛しているのだ。
それはほんの数秒のあいだ。
でも、私の中ではかなりの時間。
私は私を説得し、そして、ゆっくりと彼の手を振り払った。
「だめよ」
彼に期待を持たせないように、心の迷いを悟られないように、私ははっきりと言ってみせた。
その言葉の温度が予想以上に低かったのだろう。
彼は「わかった」と言って、両腕をテーブルの下に戻してくれた。
「思い出と戦っても勝ち目はないよ」
これもまた、私が大好きな少女漫画の中のセリフだ。
私は、私の目の前に座る思い出と戦うことを避けた。
戦ったら惨敗するのは目に見えている。
負けたいと思っていることも否定はできないが、おそらく私は夫を裏切る呵責に耐えられない。
浮気するだけの大義名分も夫に与えられていない。
夫はその類まれな優しさで、私を縛り付けている。
カフェを出て駐車場に戻った。
車のナンバーでも控えれば、もしかしたら私の住んでいる場所も分かるかもしれない。
そんなことを思っていたとき、彼が私を抱きしめた。
しまったと思ったときにはもう遅かった。
私は彼に唇を奪われた。
私は痛感した。もっとも敏感な部分である唇は、私の身体の記憶をすべて呼び覚ました。
身体の中の小さな火は瞬く間に燃え広がり、私の肌は彼の肌を求め始めた。
夫の顔が頭に浮かび、そして、罪悪感がその火をよりいっそう勢いづけた。
快感が唇から全身に広がり、そしていつのまにか、私はイッた。
唇を離した彼は勝ち誇ったように言った。
「やっぱりだめ?」
拒否できるわけがない。
そんな男の傲慢さが見え隠れする言葉だった。
だが、私はそんな彼を見て、なんて馬鹿な男なんだろうと呆れていた。
もし、彼がやさしく抱きしめただけだったら、ほんの少し、ついた火を大きくしただけだったら、私は拒絶することができなかったかもしれない。
でも、今の私は拒絶することができた。
満足してしまった女に、男の欲望を受け止める優しさはないのだ。
愚かで馬鹿で、可哀そうな男は、そんな女の感情が分からなかった。
「だめよ」
私はそう言って彼の腕の中から離れた。
拒絶されるとは思わなかったのか、彼は黙ったまま私を見た。
「元気で」
私はそう言って自分の車へと歩き始めた。
頭の中には今日の晩御飯の段取りが浮かんでいる。
男に抱きしめられたすぐ後なのにと、自分で自分がおかしくなった。
もちろん夫に罪悪感はある。
強引にされたとはいえ、夫以外の男に唇を許してしまったのだ。
心の中で夫に詫びながら、今日は夫にできるだけ尽そうと心に誓った。
身体を洗い、唇はとくに念入りに、そうして夫に抱いてもらうのだ。
そうだ。夫に頼んでみよう。もっと肌を密着させてと。
そうして、夫の重みを感じながら眠るのだ。
いつのまにか私は笑っていた。
夫のことを考えただけで幸せを感じていた。
思い出に勝てることは無かったけど、決別することはできるのだ。
昨日までのもやもやした感情がすっきりと晴れ、私は後ろを振り返った。
そこには、悲しそうに立ちすくむ思い出が、何とも言えない表情で私を見ていた。
でも、もうその物体は、私にはただのタンパク質にしか見えなかった。