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仙台は東北のラスベガス

作者: コオロ

 初めての職務質問は、仙台駅前でだった。


「すみません、ちょっといいですか」

 あまりにも軽い声だったものだから、最初は街頭アンケートだと思った。めんどくせえなと振り返り、見せられたものに眉間のしわが一瞬で伸びる。背筋も伸びる。心臓は縮む。きっと寿命も縮んだ。警察手帳を見せられるとはそういうことだ。

「ご協力いただきたいんですが、身分証明書、ありますか」

 彼らは二人連れだった。

「へえ刑事って本当にドラマみたく二人一組で行動するんですね」

 そんな軽口は頭の中から外に出ることなく、実際には「あ、はい」と消え入りそうな声で免許証を差し出すだけだった。

 ご職業は。

 お住まいは。

 一週間前はどこにいましたか。

 淡々と質問が続き、答えていくうちに、だんだんと、これは具体的な容疑をかけられているのではないかと勘付いた。ここまで協力的に答えているし、こちらから質問したっていいのではないだろうか。落ち着いているふりをして慎重に声を発する。

「あの、何かあったんですか」

 君が知る必要はないと拳銃を突きつけられる、なんてことはなく、刑事たちは朗らかに「実は一週間前にこの近くで窃盗事件がありまして」と答えてくれる。

「あなたの服装がですね、似ているんですよ。窃盗犯に」

 その後は大したことは訊かれず、ご協力ありがとうございましたと言って刑事たちはすぐ傍に停めてあった車に乗り込んだ。まったくもってパトカーには見えないし、そもそもあの二人も私服だったし、何だかすべてはウソだったような気がしてきた。

 ウソではない。

 確かに住所氏名、あと職場を控えられた。窃盗なんて身に覚えがないから俺は潔白なのだが、もしかしたら職場に「先日、職務質問をした際にこちらにお勤めと伺ったのですが、間違いありませんか」なんて問い合わせがくるかもしれない。そうなったら、俺は。考え出すと、不安で、不穏で、しばらくその場を離れることができなかった。

 午前十時三十分。仙台に上陸して僅か十分後に起きた悲しい事件だった。


 東北六県の盟主は宮城県、なぜなら仙台市があるから。これは東北人の共通認識であり、異を唱えるとしたら福島県ぐらいだろうがそれは口では東北と言いながらウラでは自分が関東北部だと思い込んでいるからであり、だったらお望みどおり東北六県から福島を追放して茨城を迎え入れようという動きがかねてより噂されているので、その抵抗も無意味に終わるだろう。まあその話も、仙台はいずれ宮城から独立するという噂と同じレベルの与太話なのだが。

 東北の中心が仙台市であることは、地理的なことは置いておいて、間違いない。そうなるとその他大勢の自治体には、ある格差が発生する。

 それは「仙台市へのアクセスの良さ」に因る。

 恥ずかしながら、我が山形県はそれを売りにしている節がある。山形駅と仙台駅は直通の仙山線が走るし、山形市―仙台市間を高速バスが十分間隔で一日に八十往復する。「属国」などと言われる所以である。

 さて、県庁所在地である山形市に比べれば頻度は格段に落ちるが、俺の住む市からも仙台行きの高速バスが出る。一日に三往復。何とも慎ましいが、それでも仙台への直通便があることは間違いなくステータスなのだ。

 午前六時三十分。

 その日、俺は、早朝の第一便に乗り込んだ。この時間に利用するのは通勤者くらいだろうと踏んで、うまく紛れるために背広を着てきたが、乗客は俺以外誰もいなかった。それもそうか、ここを六時三十分に出発したとして、仙台に着くのは順調に運行しても八時三十分ギリ。道路状況により更に遅れることを見込むのが普通の高速バスに、遅刻するかどうかの瀬戸際を委ねたりはしないか。

 窓際の席に陣取り、鞄から取り出した文庫本を開く。これはカモフラージュだ。頭の中では、今日一日をどう過ごすかのシミュレーションを繰り返している。

 今日は、俺にとって勝負の日だ。


 仙台は東北のラスベガス。そう呼ばれているはずなのだが、不思議なことに検索しても一件もヒットしない。仕方ないから俺一人でも言い続ける。仙台は東北のラスベガスだ。

 それの意味するところは、遊び場。かくいう俺も、かつては「そうだ、仙台にいこう」と唐突に思い至っては高速バスに飛び乗っていたものだ。

 我が街から仙台へと走る高速バスは、山形市から出る都市間バスとはまったく違ったルートを通る。山形市の高速バスはすぐに蔵王インターに入りずっと高速道路を走っていくが、うちの高速バスは近隣の市町村からも乗客をピックアップする関係で、山へ山へと上り、延々と山道の一般道を走っていき高速道路には一度も乗らない。

 見栄を張ってウソをついてしまった。

 うちの市から出るのは高速バスではなく特急バスだ。以後、気を付けたい。

 しかし山道だからといって馬鹿にしたものではない。途中には原宿(地名)があるし、ドライブインも点在して充実している。その大半がもう営業してなさそうな雰囲気を醸し出しているのはご愛敬。ちなみに特急バスはそこには停まらないので降りたことはまったくない。あくまで仙台に行くためのバスなのだ。あとは途中にある温泉とか。

 そしてバスは今日も定刻より十分程度遅れて仙台駅前に到着した。降り際に往復券を購入し、その場で一枚もぎる。帰りの切符は財布に仕舞う。仙台の街に降り立ち、さて、と何となく駅を見上げる。これからどうしようか。

 朝早く、背広で立っているが、俺は仕事に来たわけではない。

 かつて、俺は不幸にも職務質問に出鼻をくじかれ、気になって気になってその場をうろうろし続けるはめになった。組み立てていた予定の半分もこなせず、奮発していい店で食べようと思っていた昼飯は立ち食いそば五百円となった。

 それ以来、暇だから仙台に遊びに行こうかな、と思うたびに、心にしこりがあることがわかってきた。つい先日、仕事で仙台に出張したときにそれは確信に変わった。

 見られている気がする。

 噂をされている?

 息苦しい。

 俺はこの街でスティグマを受けた。窃盗犯に似ているなどという、存在していること自体が問題であるかのような手酷い烙印。この街では、俺は、俺によく似た犯罪者の影に脅かされながら過ごさなければならないのだ。

 なら、もう来なければいい。所詮は遊ぶしか用事のない場所だと、そう割り切った矢先の出張で思い知った。割り切ったつもりでいただけで、俺の心は何も整理できていなかった。自覚して改めて考えると、例えば北海道などに遠出をする際には仙台空港を利用しなければならない機会は確実にある。そのたびにこんな思いをするなんて、耐えられるだろうか。

 この呪縛から逃れて、仙台を訪れるためには、苦い思い出を上書きするしかない。だから俺は、今まで一度も乗ったことのなかった早朝の第一便に乗り、仙台に向かっているのだ。今日、朝から晩まで、何事もなく一日を仙台で過ごす。これが俺の企てた仙台へのリベンジの全容だ。

 たったそれだけのことだ。それだけのことだが、しんどくてもうベンチに座っている。気が重い。週末明けの月曜日の朝の方がまだマシだ。これが終便の出る午後五時三十分まで続くのか。零れそうな溜息を、息を吸い直して深呼吸にして吐き出す。

 気合を入れろ。間違いなく、俺にとって一番長い日となるのだから。


 午前八時四十分。

 まずは特に深く考えず、人の流れに乗って、エスカレーターを上って仙台駅構内に向かうことにした。憂鬱な顔をして駅でうろうろしていても、電車待ちのサラリーマンとしか思われないだろう。背広で良かった。

 出店で買ったひょうたん揚げを食べながら、さっと周囲に目を走らせる。やはり人が多い。そして人の流れが速い。何の目的もなく、かまぼこの揚げ串を頬張っている自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。他の人はみんな目的があって足早に通り過ぎていく。対して、俺はただ時間潰しをするだけ。せっかく取得した有給休暇をこんなことに費やして、何をやっているのだろう。ひょうたんの端っこのカリカリする衣をかじっている。ここ好き。


 午前九時十五分。

 そろそろほとんどの店が営業開始しているだろうと踏んで、駅から出る決意をする。しかし決意しただけでは出られないのが仙台駅だ。高架台の上にある広場から、下に降りる階段はあちこちに伸びているが、どこから降りれば狙った場所に行けるのかは、土地勘がなければ運試し以外の何物でもない。以前、バス乗り場かと思ったらタクシー乗り場で、しかも下にいては乗り場同士を行き来できず、一度上に戻った結果、バスに間に合わず会議に遅刻したことがある。このときから俺と仙台の相性はよろしくなかったのかもしれない。

 額から汗が流れ、背広を脱いで肩にかける。さっきまでは感謝していたが、こうなると背広が疎ましい。しかし快適な普段着こそが、職務質問を受けたきっかけだ。耐えるしかあるまい。

 高架下に降りようとする俺を、道端の坊さんが鈴を鳴らして見送る。法衣に笠に錫杖、いっそここまでキメていれば、職務質問も受けないのだろうか。さすがにコスプレではなく本職なのだろうが。どうすればいいかよくわからなくてとりあえず拝んでおいたが、ひょっとしたら投げ銭をした方が良かったのかもしれない。


 午前十時三十分。

 仙台の好きなところは、あちこちに書店が点在していること。教科書販売に胡坐をかいて企業努力が見られない店がないこと。そしてほとんどの店に掘り出し物があることだ。俺が仙台を訪れる理由の大部分であり、残りの理由はバスの移動時間を読書にあてたいだけ。

 立ち読みできる店はないので、滞在時間は一店舗につき三十分まで。事前に決めていたルールは、圧倒的な蔵書量を前にいつも破られる。破っているのも守らないといけないのも俺一人なので誰に迷惑をかけているわけでもないが。

 いつもなら見境なく買った本をリュックに詰め込み、ヒイヒイ言いながら猫背で歩く俺だが、今日はビジネスライクなスーツと鞄。キャパシティがたかが知れているので、買う本を厳選するぶんだけ時間がかかる。没頭している間は仙台への苦手意識を忘れられるのが救いだ。海外で領事館に駆け込んだときってこんな気分なのだろうか。このまま治外法権に守られていたいが、いつまでも同じ店に居続けるとそれこそ怪しまれてしまう。『万引き防止へのご協力ありがとうございます』の貼り紙に、どういたしましてと心で応えて次の店へ。けっして、冷や水を浴びせられた気分で立ち去ったわけではない。

 そういえばあの窃盗犯は、何を盗んだのだろうか。


 午前十一時。

 そろそろ昼飯のあてを探そうと街をさまよう。いつもなら午後二時までしかいないからこの時間には食べ始めていないといけないが、今日は終便までいる予定だ。せっかくだから行ったことのない店で食べてみよう。そんな余裕が生まれたのは、半日を過ごした達成感からだろう。だが不安もある。やろうと思っていたこと、回ろうと思っていた店が午前中のうちに尽きてしまった。態勢を立て直してプランを練らなければ、昼下がりを公園で項垂れて過ごすことになる。できるだけ、長居のできる店を探そう。

 心に余裕はできたが、腹はそうでもないようだ。胸のつかえがそのまま胃を圧迫しているような、そんな胸焼け感がある。吐き出してしまえば楽になるだろうが、それは物理的だったらの話。心の問題の場合、つかえがどんな言葉になって出てくるか自分でもわかったものではない。これ以上、この街に居辛くなりたくはないのだ。久しぶりに書店めぐりをして思い出した。俺は仙台が嫌いじゃない。好きだった、はずなのだ。

 それがたった一度の職務質問で台無しになるのは、嫌だ。そう思ったから俺は早朝の特急バスに乗った。俺はこの街が憎くて復讐しに来たのではなく、誤解が氷解するように、もう一度この街に溶け込みたくてこうして歩き回っている。そんなことを考えながら歩いているせいで、その間、飯屋の看板はまったく目に留まらなかった。もう諦めよう、駅前で探そう。そう決心して引き返そうとしうたとき、いつの間にか来たこともない通りに足を踏み入れていたことに気付いた。駅ってどっちだっけ。


 午後一時四十分分。

 いつものチェーン店で五百円のそばを立ち食いした。


 午後二時。

 知らないアイドルの知らない歌が耳に届く。家電量販店の前で、ミニライブをやっているらしい。何でもない日でも何かしらのイベントがあるのはさすが仙台だ。どんなアーティストも、全国ツアーにはだいたい仙台をルートに入れる。そして仙台を抑えたことをもって東北地方を制したものとして去っていく。仕方ないことだとは思う。せっかくの遠征だというのに、仙台以外に来られてもライブ会場をちゃんと埋めてやれる自信がない。

 遠征といえば、窃盗の常習犯は、地元以外の場所で犯行を繰り返すものらしい。俺は仙台の人間ではないからこれ以上疑われないだろうと思っていたが、とんだ見当違いだったわけだ。ネットで検索して得ただけの知見だが。

 あれからふと思いつくたびに検索しているが、窃盗犯が捕まったという報道はない。よくよく考えれば、過去、コソ泥が捕まった程度のニュースを見聞きした覚えはない。盗まれたものの話題性が高かったり、犯人が有名人だったりした場合を除けば、だが。

 警察からも連絡はない。それはそれで喜ばしいことなのだが、もし捕まっているのならば、職務質問を受けて捜査に協力した身として「ありがとうございました」の一言があってもいいのではないか。おかげで俺は、今でも、窃盗犯に間違われるのではないかと怯えている。

 怯えている、のか。クラスで、望んで孤立したわけではない子どものように。

 それは違う気がする。

 警察手帳を見せられたときは確かに委縮した。しかしそれから解放されたあとはどうだ。俺が抱いたのは、身に覚えのない濡れ衣を着せられた理不尽に対する不満ではなかったか。それで警察を恨むのは筋違いだ。ならば、このやるせなさをぶつけるべき相手は、誰だ。

 窃盗犯だ。

 許せん。

 そうだ、俺は勘違いをしていた。たかが一日平穏に過ごしただけで、この街が俺に抱く疑念が消えることはない。俺が大手を振って仙台を歩くためには、窃盗犯が捕まらなければならない。この手で捕えて、潔白を証明するほかにないのだ。

 俺にはアドバンテージがある。服装が似ているのは、無意識レベルで趣味嗜好が似通っているということ。俺ならきっと窃盗犯の思考をトレースできる。職務質問を受けたのは、この事件の存在を知るため。俺が受けたのは職務質問だけではなかった。これは使命だったのだ。

 使命を果たすため、俺は心を決めた。もっと奴の心理に近づくには、普段なら足を踏み入れない場所に行く必要がある。この仙台の、アンダーグラウンドへと。


 午後四時三十分。

 仙台は東北のラスベガス。栄華を極めた娯楽の街。そんな都市に付き物なのがアンダーグラウンドの存在だ。俺が仙台に惹かれるのは、暗闇への憧れがあるからといっていい。

 その場所は、界隈では、隠語のように「魚くさいところ」と呼ばれる。

 鮮魚店の上に店舗を構えているからなのだが、この魚くささには逸話がある。そこにはかつて大手アニメショップがあり、現在は移転しているのだが、その新店舗も何故か魚くさいのだ。まるで怪談だが、この話には、魚くさいのは店ではなく客の方だったというオチがつく。出て行った後の旧店舗に入居したのは、アニメショップと客層が大いにかぶる、そしてよりディープな店だった。

 同人ショップである。

 ここだけの話、東北地方では仙台でしか同人誌が手に入らないという事情がある。仙台がここまで栄え、旅行客が多数訪れるのは、認めたくはないだろうがそういったアンダーグラウンドな部分が呼び水となっている事実は確実にあるのだ。

 俺も何度も足を踏み入れようとして、そのたびに躊躇い、思い止まっていた。後戻りができなくなる、最後の一線のような気がしていたのだ。だが、今は違う。俺はもはや、この街で清廉潔白の身ではない。職務質問を受けた男だぞ。それに見咎められたところで俺をどこの誰か知る者はいない。

 ここは仙台だ。東北のラスベガスだ。泡沫の夢の街だ。

 ああ、そうか。

 だから窃盗犯は仙台を選んだのか。

 これまで避けてきた十八禁エリアへの、見えない暖簾をくぐる。

 不思議な熱に突き動かされて、時間を忘れて同人誌を吟味し、気がつけばもう一つの同人ショップにもはしごして、購入した戦利品は店を出るとそそくさと仕事鞄に収納した。本は薄いのでキャパシティに問題はなかった。パンパンのリュックの重みに負けて俯きがちないつもとは違い、ただの仕事帰りのサラリーマンとして澄まし顔ができる。いい手だ。やっぱり次回もスーツで来よう。

 熱中していたおかげですっかりいい時間だ。一時間も待たずに帰りのバスが出る。最後は途中で見かけたビアガーデンに寄ってビールを立ち飲みしながら時間を潰すか。勝利の祝杯だ。俺はネクタイを緩めた。

「すみません、ちょっといいですか」

 あまりにも軽い声だったから、最初は街頭アンケートかと思った。ちょっと今は忙しいのでと断ろうと振り返り、上機嫌で綻んでいた顔がきゅっと引き締まる。

 警察手帳があった。

「ご協力いただきたいんですが、身分証明書、ありますか」


 ご職業は。

 お住まいは。

 一ヶ月前はどこにいましたか。

 繰り返される、いつかのあの日と同じ質問。

 もう、すでに答えています。そう言いたくなったが、かえって心証が悪くなるかもしれないと思うと、そんなこと口に出すわけにはいかない。あのときとは違う。俺は今日この鞄に、アンダーグラウンドの戦利品を入れているのだ。機嫌を損ねてやっぱり持ち物検査ねとなれば、それを暴かれてしまう。

 最悪だ。なんて間が悪い。

「実は一ヶ月ほど前にこの近くで窃盗事件がありまして」

 それは、最初の職務質問のときと同じ事件のことなのか。

「あなたの背格好がですね、似ているんですよ。窃盗犯に」

 はあ、そうですか。服装のみならず、背格好も似ているということは、それはもう俺が窃盗犯ということではないだろうか。そんなわけないだろうこっちには身に覚えがないんだぞ馬鹿か。

 通り過ぎる人々が何事かと奇異の目を向けてくる。

 どうして俺ばっかり。ふつふつと怒りが沸き起こる。

 いや、違う。

 今日一日、仙台を歩き回って、自分が抱えていた感情の正体を探ってきた。その俺が、ここで抱くのが、単純な怒りのはずがない。

 これは高揚感だ。好機を捉えたときに覚える、武者震いだ。

 そうだ、俺が望んでいたのは、街に埋もれることでも、大捕物をすることでもない。

 惨めな結果に終わった職務質問をやり直すことだったのだ。


「すみません、ちょっといいですか」

 呼び止められるとは思っていなかったのだろう。個人情報を控えて踵を返しかけていた刑事ふたりは怪訝な顔で振り返る。

 最初の職質の後、俺はずっと疑っていた。

 彼らは、本当に刑事だったのかと。

 ひょっとしたら、職務質問を装った手口で、個人情報を収集している悪党なのではないか。だとしたら、俺の個人情報はどこかよからぬところに流れていってしまったのかもしれない。あの一件からこっち、俺を最も苦しめていたのは、自己防衛が何一つできなかった自分の迂闊さだった。

 何でもないことのように取り繕いつつ、俺は続く言葉を吐き出す。

「そちらの方は、見せていただけないんですか。警察手帳」

 一回目も二回目も、俺が違和感を覚えたのは同じところ。警察手帳を出しているのが、二人組のうち一人だけだという点だ。

 彼らが本物の刑事ではないと仮定して、職務質問をする短い間だけ成りすますことが目的なら、警察手帳は一つだけあればいいと高を括って、偽造の手間を省くためにもう一人は手帳を持ってすらいないかもしれない。

 俺が反撃に出たことを察してか、通りすがる人々の視線にも熱がこもる。

 怪しい坊さんも、知らないアイドルも、万引きを見張る貼り紙も、アンダーグラウンドも、五百円の立ち食いそばも、ひょうたん揚げのカリカリも。みんな俺を見ている。見せつけてやるのだ、この街に。毅然とした態度で「やってない」と示す俺の姿を。

 そしてあわよくば、警察を騙る犯罪グループを撃退する大手柄を上げる雄姿を――

「これは失礼しました」

 二つ目の警察手帳はあっさり出された。

 写真も、本人で間違いないようだった。

「あ、はい」

 取り巻いていた熱気が引いていく。一方で引き下がれなくなっていた俺は、「念のために、写真を撮ってもいいですか」と申し出た。何で、と言われたら、あとで実在するのか警察署に問い合わせるためです、と答えるつもりだった。これで化けの皮が剥がれるかも、と思ったが、すんなり撮らせてくれた。これはホンモノだわ。

 スマホのカメラ機能で警察手帳を撮る間、俺はずっと俯いていたから刑事がどんな顔をしていたかはわからない。ただ、「ほう、抜け目がないな。なかなか見どころのある青年だ」といった顔ではなかったであろうことは想像に難くない。

 午後五時。小さな達成感と、大きな虚脱感を携えて、俺は帰りの特急バスを待つ列に並んだ。バスがくるまで、あと三十分弱。ビールという気分ではなかった。


 午後七時三十分。

 終点でバスの運転手に起こされた。帰宅。


 これが俺の仙台リベンジの顛末だ。

 二度目の職質を受けて以来、三度目の正直があるかもしれないと思うと何だか気が引けるようになり、仙台には行けていない。ただ、頭の中で、特急バスに乗り、山を越えて、街をうろつき、こうすればよかったああすればよかったと理想の職務質問をやり直している。

 警察手帳を撮らせてもらい、職務質問をしてきた刑事の氏名はわかっているが、今に至るまで問い合わせはしていない。案外、「そのような者、うちの署にはいませんが」という回答があれば面白いなと思っているだけだ。立ち向かった証拠が残り、とりあえずの溜飲は下がったということなのだと思う。


 先日、仙台への直通便であった特急バスが運行を停止した。前々から予告はあったので最後くらいもう一度乗ろうと思っていたのに、新型コロナウイルスによるあれやこれやでとてもじゃないが県外移動する気にならなくなってしまった。住民に囲まれ、温かいラストランを迎えるはずだったバスが気の毒でならない。それでも「ありがとう」の垂れ幕を掲げていた人がいたというニュースは、俺をちょっとは安心させた。

 更につい先日、俺を惹きつけてやまない仙台のアンダーグラウンド、同人ショップのうち一店舗も閉店した。コロナ禍も一段落といった世論だったので最後くらいはと思ったものの、直通便がもうないことに気付いて、うだうだしたまま閉店の日をやり過ごした。歳をとると、たった一回の乗り換えとその待ち時間三十分程度でさえも、こんなに億劫になってしまうものなのだと知った。


 季節が巡り、また訪れることがあれば、俺の頭の中にある仙台と、今の仙台とを見比べて歩いてみたいと思う。きっと街並はすっかり変わっているだろう。それまでには窃盗犯が捕まっていてくれることを願うばかりだ。

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