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言い張れば純文学

濡髪

 不器量な女ほど髪を褒められると言ったのは、何処の文豪だったことでしょうか。

 背伸びして読んだ本の内容など、さっぱりと忘れてしまいましたけれども、この言葉だけは、ああ、なるほどなと、ゆめゆめ浮かれ道化になることの無きよう、心に刻みつけて参りました。

 しかしながら、心というのは儘ならぬものであります。刻み付けるが、厄を避く訳でもなく、それどころか、刻み入れてなお、奈落の底を覗き込み、愚かにも引きづり込まれる私というものは、ひどく滑稽で哀れがましく、呼吸の合間、満たされぬ心にぽっかりと開いた虚空へと、ふと隙間風がこうこうと音を立てるその度に、叶う事なら、このまま泡となり消えてしまいたいと思うほど、なんとも惨めがましい思いをするのです。


「綺麗な髪だね」


 きっと彼にとっては、繰り返す挨拶に、ほんの一輪、道端に咲く名もなき華でも添えた程度の、言った側から忘れるほどの、取るに足らない一言だったに違いなく、そんなことぐらいは、私も重々分かっているつもりです。

 それでも、一度ときめいた心はもうどうしようもなく、締め付ける胸は、止まり木から飛び立つことを強く拒み、ただただ彼の気まぐれに任せ、あてもなく次の言葉を探します。


 綺麗な髪。世辞と分かっていながらも、鏡を前にする度に、或いは長くなった前髪を自ら弄ぶその度に、幾度となく彼の言葉を思い出します。

 それはまるで甘美な麻薬のようで、思うあなたの言葉は、私を抱きしめ包み込み、えも言えぬ幸福へと誘うのですが、寄せた波が例外なく帰すがごとく、心にできた虚空が遅れてやって来ては、やがては孤独と不安で、我が身を内側から壊さんと巣食うのです。


 綺麗な髪。いったいどれくらいの女を相手に、この言葉を投げかけたのでしょうか。男というものは、軽はずみに女を褒めるものではないことを、ゆめゆめ忘れずにいてほしいものです。

 いいえ、正直に言えば、本当は髪のことなどどうでも良いのでしょう。髪を褒められたことに執着するのは、所謂きっかけにすぎず、私事でありながら、私自身が気が付かずにいた、いいえ、見て見ぬ振りをしていた心の灯り火であったなら、もう随分前から心に燻っていたのでしょう。


  綺麗な髪。分かっているのです。重々に分かっているのです。現に彼は、私の親友、仮に織姫としましょうか、彼女には笑顔を褒めておりました。例えた織姫に負けぬほど、楚々という言葉がよく似合う、美しい友人です。心を許すものにしか見せぬ笑みであれば、彼もまた、どうして姫の想いに気が付かずにいれましょうか。

 よく美人は性格がよろしくないなどと申しますが、私からみれば、それは器量のよろしくない者の僻みでしかございません。蝶よ花よと愛された人生です。どこを間違えば、根が歪むことなどありましょうか。

 美しい人ほど、性格がよろしく、理想が高い。外なる美しさは、内なる美しさをも兼ね揃えるのです。

 それに比べれば、私のなんとも浅ましいことでしょうか。叶わぬと分かっていて、それでも隣の彼へと手を伸ばす。なんと浅ましいことでしょうか。


 美しい笑顔。そう、私には彼に褒められることは叶いません。織姫、あのように笑うことなどできぬのです。

 デネブ、アルタイル、ベガ。

 夏の夜を彩る大三角。二つの星が惹かれあっても、デネブが物語に加わることはないのです。

 所詮二人を引き立たせるだけの、橋渡しの存在。織姫と彦星、惹かれ合う二人の間に割り込む事など、誰が許してくれましょうか。

 有名な七夕のお伽話。元のお話では、実の兄妹だとか。それでも、どれだけ禁忌を犯したとしても、惹かれ合う二人を、求め合う二人を、誰も引き裂くことなどできないのです。


 美しい織姫。この恋が実らなければ死ぬと、織姫は恥じることもなく申します。きっとそれは大げさだけれども、少なくとも今は本気なのでしょう。

 彼女を形成する細胞の一つ一つが、今へと繋がる全ての過去が、すべて彼に出逢うためであったと、一片の迷いもなく言えるのです。

 それに比べれば、私の恋はいかほどでしょうか。それはまるで流行病のように、彼女の思いを聞く度に、彼女の心に同調する度に、自分のそれと思い込むだけではないでしょうか。

 嫌な女です。私は彼を慕うのではなく、彼女を見る彼を慕うのかもしれない。嫌な女です。


 綺麗な髪。それでも頭のなかでは、壊れたレコードのように、彼の言葉が繰り返します。もう私は駄目なのでしょう。昨日の自分がもっとも忌み嫌う存在、それが今日の私なのでしょう。明日の私へと繋がるのでしょう。


 それならば、今日この場で終わらせましょう。美しい髪、もう二度と彼の声など聞こえぬように。二人を隔てる大河が、渇れること無きよう呪う前に。星降る夜を、こんなにも恨めしく眺める夜を、今宵が最後にするために。

 今鏡の前で、手にしたはさみを握りしめ想うのです。

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