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「初芝君は気色が悪い」

作者: 久我走

僕は人を愛すことができない人間である。

 

 うん、突然何を言い出すんだお前は? と君たち諸兄は思ったかもしれないけど、それが事実なんだ。

 僕は、人を愛せない。

別に、身体的欠陥があるとか、精神異常とかで誰かを愛せないとか、そういうのじゃないよ? 

身体も、精神も、別に他人と何か決定的におかしな所はない。

もし、真実おかしかったとしても、その事を自覚する事なんて出来ないとは思うけどさ。

でも、性欲だって人並みにあるし、自慰行為だって一週間に二度はする。

 そんな僕が他人を、他者を愛せないと気付いたのは実は結構最近の話だ。

 今でこそ私立の高校に通っている僕だけど。親の、正確には義父のスネを多大に齧りながら平穏に何事もなく生きている僕だけど。中学の時はそれなりに問題児で、小学の時はそれなりに腕白だった。

 そんな僕が、自分が【誰かを愛せない】と気づいたのは、丁度今から一年前の高校一年生の時だ。

 切っ掛けは単純。クラスの女の子に告白された。たったそれだけ。

 その女の子は多分可愛い容姿に分類されるタイプで、対する僕は今までそういう色恋沙汰には全く縁がなかった。

 その当時の僕のスペックなんて、容姿は取り立ててどうこう言うものでもないし、頭は脳味噌が幾らか足りないんじゃないかってレベルの不良品。

スポーツなんてのも全くもってダメだった。勿論当時の話だ、今は頭は割と良い方なんだよ? 

 そんなこんなで、自分の外面にも内面にもまったく自信をもっていなかったし、他人に自慢できる事だって特になかった。唯一の自慢は、相手に対して敵意を抱かれない、無害性。そんなとこだと思う。

 そんな僕が可愛い女の子に告白されたんだ。これはもう、飛び上がって喜んだって誰も笑いはしないと思う。妬まれる事はあるかもしれないけど。

 でも、その女の子が顔を赤らめて、スカートの裾をきゅっと掴んで、それでも必死に前を向いて僕の瞳をおどおどと覗き込みながら。

綺麗な唇から発した想いの言葉を聞いたその時、僕は思ったんだ。

うん、本当に何でなのか、なんでそんな事を思ったのか、僕には全然わからない。わかりたいとも思わない。けれど、確かに僕はその時彼女に抱いた感情を覚えていて、そしてその感情を自己認識することで、自分が異常(・・)なんだとはっきり自覚した。

 

 これから話すお話は、そんな取るに足らない異常。いや、そんな御大層なものでもないか。

この僕の気色(・・)の(・)悪さ(・・)についての話だ。

 胸糞が悪くなるような僕と、胸糞が悪くなるような出来事と、そういうのが繋がって紡いでいく話だ。

 ああ、そうだ。僕は気色が悪い、気持ちが悪い存在なのだろう。

純粋に純真に告白してきてくれた女の子に。

 とっても可愛い女の子に、その告白風景に対して―――




―――僕を愛そうとする姿が気色悪い、なんて事を思ってしまったのだから。




§





 自分が死んだらどうなるか、という事について考えたことのない人間はいないだろう。恐らくそういう事を考えない人間は、酷く面白味のない人生を送っているか、そんな事を考える暇もないくらい毎日が楽しいのか。反対に忙しいのか。

 僕は毎日が特に楽しくも詰まらなくも、忙しいわけでもないので、よくそういうことを考える。

 例えば、一番ポピュラーで一般的で凡庸で平凡で楽しい考えは、死後には天国と地獄があり、そのどちらかに行って、セカンドライフ――いやこの場合死んでるから、ライフという言い方はおかしいが――をエンジョイするというものだ。

 地獄に行ったら目も当てられないが、天国に行けばきっと飽きるほどの幸せが転がり込んでくるのだろう。

 僕は良い人間であるという自覚がある。というより、僕が良い人間じゃなければ、この世のすべての人間が悪人になると思うくらいに良い人間である。だから、きっと僕は死後天国に行って、楽しく飽きるほどの幸せに溺れる。

 そして、退屈過ぎて、また死にたくなるのだろう。






「おーい、初芝―。おーい」

 僕を呼ぶ声が聞こえる。

 ああ、煩い。五月蠅いぞ。僕は眠い、眠いんだ。眠いから寝るんだ、寝たいから寝かせろ。僕にとって大事なのは、一に睡眠、二に食事、三四がなくて、五に性欲処理なんだから。だから、一番大事な睡眠を邪魔するんじゃない。

「おい、いい加減起きろよ。起きねーと」

 なんだオイ、起きないと如何するんだ? お前が僕に何かできるのか? させやしない。そう、させないぞ。だから黙って僕を寝かせてくれ、とてもいい夢を見ていたはずなのに君の所為で忘れてしまったじゃないかよ。

「起きないと、お前の大事な」

 大事な何だよ。

僕に大事な事も物も、人もいないよ。


「大事なケツ穴に俺の熱い棒をぶち込むぞ?」


 その言葉を聞いて僕は一瞬で覚醒した。



「おお~、起きた起きた~」

 かんらかんらと笑いながら、僕の目の前で浅黒い肌をした男が笑っている。

 僕はその男の笑顔を、自覚的に顔を不機嫌に歪めながら睨み付けてやる。

「仲野、お前冗談でも変なことを言うな。鳥肌が立ったわ」

「だってよぉ~、お前起きねーしさー。人間、自分が損をするという事を理解しないと、動きが鈍くなるもんだからなー」

 だからって、僕のヴァージンを貴様みたいなのに捧げてたまるか。いや、そもそも誰にも捧げたくない。例えとんでもない美女が表れて、『坊やを開発しちゃうわねっ♪』とか言われても、お断りだ。

……いや、割とそのシチュエーションは有だな。もしかしたらお願いするかもしれない。

「ってか、寧ろお前は俺に恩義を感じるべきだぜー? もう帰りのHRも終わってんのに、お前が机で突っ伏してたからわざわざ犯して、いや起こしてやったんじゃねーのさぁー」

「その言い間違い不気味だからやめろ」

 仲野の言葉通り、どうやら既に今の状況は放課後になっていた。

教室には人はそこまで居らず、帰りもせずにダラダラとくっちゃべってる数人がいるだけ。どうやら僕はHRの途中で寝てしまったらしい。

確か、担任の先生が、今回の期末試験は出来が悪かったとかなんとか、そんな説教を始めたあたりで眠くなってしまったのだった。これは、僕が眠気にとらわれたことよりも、先生の説教の仕方に斬新性がなく、お決まりの諫言だったのが悪い。

 そもそも、クラスの平均点が下がっただのなんだの、僕は毎回どんな教科のテストでも九割以下なんて取ったことないんだ。そんな謂れのない事で、努力をしないバカどもと一緒に説教されても困る。

「まぁー、お前が眠くなるのもわかるけどなー、子島の話は長すぎだぜ。説教されて成績が上がるなら、俺なんて満点以外取れない体になってるって」

「だろうな。お前は万年赤点のおバカさんだものな」

「はっきり言うなよ~照れるからさァ~」

 目の前の浅黒い肌の男、仲野(なかの) 一義(かずよし)は、いつもテストはギリギリ赤点の不良債権な男だ。それなりに秀才な僕が、良く勉強を教えてやるが、全く身についていない様で、教え甲斐がない。

 だが、スポーツなどは得意で、体育の授業などでは活き活きとしている。その癖部活には所属していない上に、インドア趣味。

その活発なイメージを持たせる焼けた浅黒い肌は飾りなのか? と問いたくなるような奴だ。

「まあいいや。もうかえろーぜぇー、初芝―。ついでにどっかで遊んでこうや。別に特に用事なんてねーだろー?」

 ふらふらと左に右に揺れながら、仲野が言ってくる。確かに、僕は仲野同様帰宅部であり、特にすることは。あ、いや、今日はあったのだった。

「あー、すまない。これから用事があるんだ」

「はー!? お前に用事ィ? なんだよそれ、人付き合いなんてサラッとしかしない、付き合いが悪い癖に、八方美人で他人からの受けが良い初芝君に用事ってなんだよ?」

「それ貶してるの? 褒めてるの? どっち?」

 まあ、確かにこの肌黒野郎の言うとおりだ、僕は滅多に人からの遊びの誘いを受けたりなんてしないし、できることなら平日は学校から家までの道を往復するだけ。休日は家から一歩も出たくない人間だ。

しかしながら、今日はたまたま珍しくやらねばならない事があるのだ。非常に面倒くさいのだけれども、こればっかりは致し方ない

「まあ、とにかく今日は無理だ。一人でさみしく帰れ」

 僕はブーたれる仲野を押しのけ、机にかけてある鞄を手に取って教室を出ようと出口に歩いていく。すると、仲野は僕の机の場所から動かずに、声を張りながら。

「おおぉーい! 一体、どんな用事だってんだよぉー!!」

 と聞いてきた。

 答えるのも面倒だが、別に隠し立てするような事というわけでも無いので、正直に答えてやる。


「美少女とのデートだよ」


 驚いた顔で硬直する仲野を放置し、それ以上の詰問を受ける前にそそくさと教室から出ていった。




§



 学校の屋上へと至る階段を上っていた。

 遂に人生を諦め、日々に絶望し、この怠惰で抜け道のない、宛所の無い迷路から抜け出すために、飛び降りダイブ! というわけではない。

僕は別に自殺願望はないし、他殺願望もない。

 では、何故今屋上への階段を上っているのか? 答えは単純、先ほど仲野に言った通り『美少女とのデート』の為である。

 デートというと、お前に彼女がいるのか? なんて疑問が浮かぶであろうが。そんな事は断じてない。当たり前だ、僕は人を愛すことができない人間なのだから。

まあそもそも、僕自身のスペックデータを見返せば、彼女が欲しいと思っても、そうできるものでもない。


 僕は平平凡凡の至って普通の面白みもない無個性の人間なんだから。



 ギィイイっと音を響かせつつ、立て付けの悪い屋上へとつながるドアを押し開ける。

 瞬間、軽い風が僕の頬を初めに、全身を優しくなでつけて、後方へと吹いていった。

うん、気持ちいい。

僕が先ほどいた自分のクラスは二階にあるため、実質四階に位置するこの屋上への道のりはそれなりにメンドクサイ。季節が夏に近いということもあってか、多少汗もかいており、風の心地よさが倍増しである。

 階段なんかの話が出たところで、丁度いい。僕の通うこの学校の、校内図について軽く説明しよう。



 僕たちの通うこの私立高校は、大きく分けて二つの校舎が存在する。

 一つは、学年ごとのクラス毎に存在する教室、先生達の常駐している職員室。他、化学実験室、木工作業室など、授業の際に使う教室等。それらが纏めて集まっている『本館』と。

 もう一つは、部活、同好会の為の教室。授業にも使うこともある室内運動系の為に存在する体育館。それらが集合している『別館』といった具合だ。

 その二つの本館と別館は仲良く並んでおり、校外に出ている渡り廊下から、二つの館を常に行き来できるようになっている。丁度H型に校舎が並び立ってると考えると分かりやすいだろうか。

そして、校舎の外にはしっかりグラウンドが存在している為、学校全体の敷地はそれなりに大規模なものであると言える。

 ちなみに、別館の方の屋上は厳重に施錠してあるのだが、本館の方の屋上は、背の高いフェンスや監視カメラなどが設置されており、安全面に配慮されているので大抵解放されている。

 僕の学年は高校二年生であるので、本館二階に存在しており、そのまま階段を上って四階にある屋上へとやってきた。というわけだ。

 以上、冗長な説明終わり。



 「んー、っと。さて」

 屋上の開放的な空間に足を踏み入れながら、僕は待ち人を探す。

 しかしながら、軽く見回してみたが、どうにも僕の他に屋上に人はいない。

 思えば、『放課後に迎えに行ってやれ』と【神父】には言われたけど、向こうとは学年が同じとはいえクラスが違うのだから、もしかしたら僕の方が早かったかもしれないし、まだ来ていないのかも。

しまったな、先にアイツのクラスを覗いてからここに来ればよかった。

 さて、とすると暇になってしまったか? とも思ったが。よく見れば、屋上に設置されている給水塔の陰に、誰かいるようだ。

 こんな風が気持ちいいだけの何もない場所。放課後に来るモノ好きなんて、そうそういない。

つまり、あれは十中八九僕の探し人であると推理することができ。


「遅いよ初芝」


 そして、その推理は大当たりであった。




 まあ彼女の見た目について、始めに何か言うとしたら不気味(・・・)で(・)ある(・・)というのが来ると思う。

 いや、仲野に美少女といった通り、顔自体は大変整っている。綺麗だが短めな黒髪に、薄い唇、美麗に造型された目鼻立ち。

スタイルの方は、小柄で胸も対してあるようには見えないが、華奢で守ってあげたくなるという点で、きっと言い寄りたくなる男も多いだろう。だから、きっと美少女とか、可愛い女の子というのに間違いはない。


 だが、彼女はの存在は明らかに不気味である。


 まず着ている服。僕の学校は基本、みんな制服指定である。偶にすこしばかり、不良品な青年達が、着崩していたり、改造していたりするが、それでも大抵の生徒が今の僕が着ているような、紺色の制服を着用しているはずだ。

 しかしながら、彼女は違った。

ジャージである。

 しかも、上着は黒一色なのに、下のズボンは白一色という、何か危険信号でも伝えてきているのかのような、奇抜なカラーリングをしたジャージである。

 それだけで大分、『何そのセンス? ってか制定の服装しろよオイ』と突っ込みたくなるし、言い知れぬ不安感も視覚的に与えてきて、割とキてるのだけれど。それを更に上回り塗り潰す程、彼女に不気味さを感じるであろう点が存在する。

 それが、彼女の整った顔面にある、目だ。

 目が死んでいる。

それも、死に果てている。

 こちらにまっすぐと向けてくる視線が、どうしようもなく空虚で暗い。この世のすべてがどうでもいいとか、今すぐ死んで楽になりたいとか。そういうレベルではない。

 例え辛いが、敢えて強引に例えてみよう。

目の前で人が死んだ時を想像してほしい。いや、ホント想像しづらいのはわかるが、頑張ってイメージしてくれ。

 人が目の前で、何の脈絡もなく、自分の首を自分の指で突き刺し切り裂いて、頸動脈から血をピューピュー出しながら死んだとしたらどうだろう?

 僕ならまず気絶する。気弱だから。心を守る防衛本能で間違いなく意識を失う。

 僕より多少気が強い人も、悲鳴くらいは上げるだろう。僕より大分精神力があり、やたら図太い神経の持ち主ならば、もしかしたら、本当にもしかしたらちょいと眉を潜めるくらいかも知れない。

 ちなみに狂人ならば『だから?』で済ますかもだ。いや、そんな人間はフィクションだけで十分だし、現実にいたとしてもお関わり合いにはなりたくない。全力で辞退する。どこか地球の果てで密やかに死んでくれ。

 だが、彼女はそのどれとも違う。たぶん、というか絶対。彼女はその死に果てた目で、死体がゆっくりと倒れていく様を。気絶もせず、悲鳴も上げず、眉も顰めず、興味なさそうにもせず。

見る(・・)だけ(・・)だろう(・・・)。

 そう、彼女はその何も映さない伽藍道の瞳で、見るだけだ。

 それは、別に無関心なわけではない。無関心ならば素通りする、無視する。死体を無視などというのは、それはイカレてしまった人にしか出来ないことであるが。彼女は狂ってはいない。

 だから、見るだけだ。見るだけ見つめるだけ観察するだけ鑑賞するだけ、そんな姿を想像してほしい。

 血だらけの死体。それを興味が有るのだか無いのだか分からない表情で、暗い瞳で眺め続ける、顔の整った美少女を。

 僕はそんな状況を表現する言葉を二つ知っている。一つは不気味。もう一つは。




 気色が悪い、だ。




 「こんな遅くなるなんて、何かあったの?」

 目の前の不気味で気色悪いジャージ女、()(つる) 心音(こころね)が、虚ろな目で僕を見ながら言う。

 さっきから、僕は彼女の事を不気味だの、キショイだの、まあ失礼なことを言っているが、別に心音の事を人間的に嫌ってるわけでも何でもない。

どちらかというと、僕らの関係はいたって良好だ。だから、彼女に含む所は何もない。彼女への先程の評価は、単に客観的なもの。余所の何処の誰とも分からん人間が、彼女を見たらこう思うだろうなという感想を述べたまでだ。

 そう、僕は彼女に対して至ってフレンドリー、仲良しこよしのマブダチなのである。

「いや、ごめんね心音。ちょっとHRの途中に寝ちゃって、遅れちゃったんだ、あはは~」

「ああ、そう。初芝はバカで鈍臭くて、何の取り柄もない所か、短所さえもない悲しいほどに面白味のない奴だから、仕方ないよね。そうやってアホな理由で遅れることもあるよね。うん私全然気にしてないよ。あと、名前呼び捨てやめてくれる? 気持ち悪いから」

 前言全撤回。こいつ死ね。

「まあ、遅れたのはいいよ。初芝。早く帰ろ。遅いし」

「はいはい。それじゃあ行こうか、心音」

「名前呼びやめてって言ってるでしょ」

「い・き・ま・しょ・う・か・美・鶴・さ・ん」

 ギリギリと歯軋りをしてしまう。そう、この女、美鶴心音は、雰囲気だけでなく性格も悪い。

 そもそも、僕がこいつをこうやって迎えに来たのだって、こいつの性格が悪い事と、僕自身の運が無かったことが原因だ。なんで神様はここまで慎ましやかな生活をしている僕に、運気を分けてさえくれないのだろう。僕が面倒事を被っている現状、これが神の不在証明だ。

「初芝、何ボーっとしてるの? 帰るよ?」

 と、僕が神の不在と己の不運を嘆いている間に、心音は屋上の出入り口のドアの近くに既に立っていた。相も変わらず空虚な光を失った瞳を向けながら、こちらを促してくる。

「ああ、行くよ、今行くさ」

 僕はそう返事をしながら、彼女に早歩きで近寄り、一緒に屋上から出た。

 そう、僕が今日迎えに来たのは心音で、僕が今日デートをしなきゃいけないのも心音だから。僕達は一緒に屋上から出て、これからお出かけしなきゃいけないのだ。

 なんでこんな事になったのか、その経緯を詳しく話せば長くなるのだが、掻い摘んで説明すれば割と短めで済む。


 彼女には親がいない。

 いや、正確には両親はいるが、家族(・・)が居ない。

 心音の実の親は、両方とも彼女の事を居ないものとして扱っている。言うなれば、教育放棄というか、娘を廃棄というか、まあそんな感じだ。彼女は私立の高校に通っているが、学費を親は出していない。それどころか、食費も着る服も、日々必要な全ての保護を彼女は受けていない。いや、受けていなかったと表現したほうがいいだろう。

 実は彼女はそんな劣悪な環境の中、自分を居ないものとして扱っている親御と同じ家に、つい最近までずっと住んでいた。

彼女がその家とも言えない家から出る切っ掛けを作ったのは、とある神父と、恥ずかしながら僕である。

 いや、僕はいつもなら、なんら恥ずべきこともない、お天道様に笑顔で毎日爽快な笑みを浮かべて挨拶できるような、聖人君子なのであるが、心音をあの家から連れ出すのに一役買ったことは、大変後悔している。

 若気の至りとしか思えない。うん、今もバリバリ若いけど。

 まあ、そんなこんなで、僕は彼女を家から連れ出した。だが、僕はそこまで深く彼女に干渉するつもりはなかった。何故なら、この救出劇のような、一見正義的であり道義的である癖に、一を抜いた九つ程度は偽善的で向う見ずな行いの、もう一人の立役者である神父が、頼り甲斐どころか三百六十度何処を見ても頼りたくなる様な奴だったので、安心しきっていたのだ。

 だが甘かった。彼は確かに心音が住めるようにと家を与えた。高校に通うための学費も彼女の代わりに払ってやっていたし、それをなんとも豪勢に『これは投資だ、しかし投資は失敗することもあるから、返金せずとも良いよ~』などとのたまった。

 しかも、神父は更にもう一つ彼女をサポートする為の投資を行った。

彼女が高校において、真っ当な生活を送れる様に、他にも補助が必要だとのたまったのだ。

 

もう説明が面倒になってきたし、ネタばらしをしようか。

 そう、そのサポート役。美鶴心音を陰から日向からサポートして、安心快適順風満帆な生活を送れるように使わされて遣わされているのが、この僕。


 初芝(はつしば) 那奈詐(ななさ)である。



§


 自分が他人より優れていると思ったことは?

 僕はある。

 誰か他人が出来ないことを、自分は出来て。僕にできることを、他人は出来ない。自分が誰よりも優秀であり、もしくは優秀であれる素質がある。そんな風に思っていた時期が、僕にはある。

 もっと言えば、自分が特別な何かであると思っていた時期が、僕にはある。

 そう、何か特別になれると思っていた。何か特別なことを成せると、そう思っていた。

 そんな事は無いのに。あったとしても、僕では無いのに。それでも僕は、何時までたっても。



 自分が特別であると【期待】している。





「それで? 今日は何処に行きたいの?」

 僕は、屋上から校舎の出口に向かうための階段を、心音と隣り合いながら降りていた。

彼女は歩くスペースが遅い。平均的な同年代の女子と比較してもゆっくりな方である。

 昔、彼女を置いて先に歩いていたら『初芝は自分勝手』『初芝は人への気配りが下手』『初芝はそんなんだから女の子にモテない』『初芝は気持ち悪い』等々に滔々と罵倒されたので、それ以来彼女のペースに合わせて歩くように気を付けている。

 それにしても、今思い出しても、大変腹が立つ罵倒の数々だ。もう少し他人のメンタルについて気を遣って生きて欲しいものである。

「特に無い。初芝が行きたい所でいいよ」

「僕に行きたい所なんてないよ」

「じゃあ、行きたくない所でもいいよ。寧ろ行きたくない処に行こう」

 心音は不気味な雰囲気を常に纏っているが、発する言葉の声色は透き通っていて綺麗である。寧ろ、雰囲気に反して声質が透明だから、余計耳心地良く聞こえるのかもしれない。

 まあ、それは置いておいて。僕の行きたくない所に行きたいとか、どういう事だそれは。

 行きたくない所には、行きたくないに決まっているじゃないか。なんでわざわざ行きたくない所に行かねばならないのだ。

 しかして心音はニコリと笑って、不気味な瞳のままに言うのだ。

「初芝の嫌がる顔が見たいし」

 筋金入りの性悪である、美鶴心音という女は。




 さて、それでは早速僕が行きたくないところに、彼女を連れて行こう。

 僕は一体どんなところに行きたくないのかな? ……いや、なんで僕は率先して自分を嫌な気分にさせる為に頭を使わねばならんのか。だがここで彼女の言葉に背いても、罵倒を耳に永遠捻じ込まれる事は目に見えているので、素直に脳内を回転させる。

 さてはて、一体何処に行けばいいのやら。

 階段を降り切って、一階下駄箱の近くを歩きながら考えて居た所。

「ん? 那奈詐?」

 木製の下駄箱に背を預けて寄りかかる、僕も心音もよく知る人物から声を掛けられたのだった。

 セミロングで、顔立ちは整っているのに仏頂面で近寄りがたい。身長は女子として考えれば平均程度であろう。

 スラっとした立ち姿と、どこか鋭い刃を思わせるそのオーラは、男より女にモテそうな感じである。

 彼女の名前は、萩原(はぎわら) 琳奈(りな)。心音にとって数少ない友人である。僕にとっても、多くの友人の内の一人である。

 そうだ僕は友人は多い。最早一度会話した人間は全員友人にしてしまうほどである。要するに、人受けはいいのだ、僕は。人とのコミュニケーション能力が最低ランクである心音とは違うのである。


「なんだお前ら、いつものデートか?」

 少しばかり女の声にしては低い声で、萩原はこちらに尋ねてくる。それにしても、この女の口調は男っぽい。何故だろう、男所帯で暮らしてきたとかだろうか? 別に他人の口調なんてどうでもいいのだけれど。それに、萩原の低めのハスキーボイスと男性的な口調は、容姿と相まって似合っているし、違和感はなかった。

「うん、まあそんな所。萩原は何してんの?」

 適当に彼女の質問を受け流し、反対に質問する。すると、萩原はしかめっ面をすこしばかり緩めて、返答する。

「私も友人達とこれから遊びに行く事になってる。待ち合わせさ」

「へぇえ~。萩原にしては珍しいね、そういうの」

「そうか? まあ、そうかな」

 萩原は余り人と関わる事というか、馴れ合いとかが好きなタイプではない。だから、誰かと遊びに行くというのは意外だ。

ああ、でもそういえば、彼女は部活―――というか、同好会の仲間には結構心を開いていたな。それ以外の交友関係は、あまり無いと思ったけど。僕と心音はひょんな事で彼女と親密になる機会があっただけだし。

「ねぇねぇ、萩原ー」

 と、それまで口を噤んでおとなしくしていた心音が、唐突に萩原に話しかける。

「なんだ、心音」

「んー、あのねー」

 おいなんだその可愛い感じの声とキャラは、あの心音が小首を傾げてるぞ!? ってか、萩原は下の名前で呼んで良いんですね。そーですよねー、僕は気持ち悪いから駄目ですよね!

「萩原にとって、ここらへんで行きたくないところって何処?」

「……は?」

 と、僕がいじけている間に、心音は唐突に意味不明な質問を萩原にぶつける。いや、まあ、萩原にとっては意味不明だろうが、僕には彼女の意図がわかる。萩原の行きたくない所は、大方僕にとっても行きたくない所だと判断したんだろう。

 畜生、適当に『行きたくない所ー? 五月蠅い所かなぁ~』とか言いながら、ゲームセンターとか行こうと思ってたのに! ホントは好きだけど、入り浸ってるけどゲーセン!!

「ん~、そうだな。行きたくない所か……」

 萩原は、心音の質問を受け、ふむっと悩む態度を出しながら口に手を当てながら考え込む。

 それを見ながら、心音はなんだか嬉しそうに笑っている。こいつは、萩原が好きでなついているのだ。だから嬉しそうなんだろう。

 きっと、僕に嫌がらせをする事が出来る今の状況を楽しんでるわけではないはずだ、彼女はそんな悪人じゃありません、はい嘘です悪人ですゲスです知ってます。

「そうだな、別に嫌な所という訳ではないが、行くと悲しい気持ちになるから行きたくない。そういう場所は近くにあるな」

 そんな僕のどんよりした心中を知ってか知らずか、彼女は何か思いついた様で答えを返してくる。


 彼女が回答した、その行きたくない所とは……



§



 放課後と言っても、まだまだ明るい時間である。もうすぐ夏の長期休暇という季節なので、日が落ちて辺りが暗くなるのにはまだ時間がある。

 だが、今僕の周りは心なしか暗い雰囲気に飲まれている気がする。いや、周りっていうか、僕がこの空気に飲まれているんだけども。

 萩原は全くもって最低の回答をしてくれた。いや、ホント、最低だ。

心音による「行きたくない処は何処か?」という質問への彼女の回答は。


「この学校の近くにある、例の墓地だな。私はあそこは苦手だ、眠ってる方々には失礼かもしれないが、好きで近づくような場所ではないだろう」

 だった。

 

「わー、初芝。石が一杯あるね」

 心音の綺麗で呑気で陰気な色をした声が耳に入ってくる。もうため息しか出ない、だって今僕たちの居る所墓場だもの。

 その墓場は、先ほどまでいた学校から数十分ほど歩いた距離にあった。人の居ない、そして死者も余り居ない規模の小さい墓地。そんな処に僕たちは来ていた。

 こんな状況なら、誰だってため息の一つも出てくるってものだ。何が悲しくて、デートコースにお墓を入れなきゃいけないんですか?

 あれですか? この後、デート相手の故人な両親に対して、墓場の前で「あなたの娘さんを僕に下さい。先に逝ってしまったあなたたちの代わりに、精一杯幸せにします」って言うイベントが始まるの? それだと確かにデートコースに入れてもいいかもですね!?

 はいはい、無いですよねそんな展開。分かってますよ、分かってます。

 そもそも心音の両親はご存命だ。両親と言える様な事は何一つしていない人達だったけどね。

 あの人たちがした事といえば、心音を壊して朽ちさせて傷つけただけだ。他には何もしなかった。

 本当に本当に、何もしない親達だった。

 いつか、また会った時。僕はきっと彼等に対して―――。



「初芝?」

 っと、しまった。

心音に返事をしないで考え込んでたから、彼女に無駄に心配をかけてしまった。これではダメだ。僕は神父から彼女のサポート役を任されているのだから。

 気分を切り替える、気持ちを変化する。今あの親は関係ない。今後もきっと関係などないのだ。

「……当たり前だろ? 墓地だよ、墓場だよ、霊園だよ? 墓石が一杯あるに決まってるでしょ」

「いや、初芝。正確には霊園と寺院墓地は同じ並びで考えるモノじゃないよ。霊園は墓地の一種であって、綺麗な環境として整えられている墓地の事を、霊園って言うんだよ。あと、檀家制度とか関係ない所ね。要は環境の良い、クリーンでお寺が関係ない墓地だね。此処はさびれてるけどお寺がすぐそこにあるし寺院墓地だと思う。あと、どう考えても、霊園って言えるほど綺麗じゃないよ」

「そうですか、どうでもいいです。てか、なんでそんな詳しいの? 墓マニアか何かなの?」

「因みに最近はネット墓地ってのもあるらしいよ、凄いね。罰当たりだよね、初芝並みに」

「ネット墓地は利便性の面じゃ優秀だろう? だから初芝も利便性は優秀です」

「うるさい、キショイ」

 理不尽に罵倒された、泣ける。

 ちなみにネット墓地は、満足に体を動かせない方々にも気軽にお墓参りができるとして、結構質の良いサービスだと思う。まあ、罰当たりだって思う人も居るのは仕様がないとは思うけどね。

 まあ、ネットだろうと実地だろうと、どっちにしろ、祖先の墓参りなんてするような殊勝な考えを抱いていない僕には、全くもって関係のない話だけども。


「それで、初芝、どう?」

 夏の暑さが徐々に滲み出している季節だというのに、長袖長ズボンでジャージを着た心音が、不気味で薄ら寒い、やけに墓というモノと空気が相まっている暗い視線を向けながら、僕に聞いてくる。

「どうって、何が?」

 そこで、彼女はくいっと、僕に顔を近づけてくる。小柄だから、背伸びを精一杯しつつ、僕の顔に自分の顔を近づけてきて。

 らしからぬ笑顔を浮かべながら、言った。

「嫌な気分になった?」

「……」

 まったくこの女は、どうしたって性格が悪い奴である。

「……すげぇ嫌な気分になった。こんな処をチョイスするなんて、萩原も流石だよね。そして其処を何の躊躇いもなくデートの目的地に選ぶ心音に対して、更に嫌な気分になったよ」

 僕はなるだけ笑顔で、精一杯に作った()な(・)()で、そうやって心音に返してやる。

 心音はその解答と、何より僕の表情に満足したらしく、にへらっ、と笑いながら、僕との密着状態から離れる。

「良きかな善きかな。さてっ、初芝。墓地にも飽きたから、次は初芝の好きな所に行こう」

「いいの?」

「うん、嫌な処に行った次は、好きな処に行く。そうすれば、好きな処がもっと好きになれるよ」

 成程、それは確かにそうかもしれない。心音としては、僕の嫌がる顔を見た後は、きっと、僕の笑顔が見たいんだろう。

 こいつはそういう奴だ。

 そしてそのために、何の用もないのに墓地に来たわけだ。なんだその行動力。

「心音」

「なに?」

 僕はきっと、彼女の事をよく分かっている、よく知っている。あの時から、彼女の理解者としての、そういう役目を果たさないといけないと、義務付けられている。

 だから、僕は適当に流すように、軽い気持ちで彼女に言った。

「心音は、俺の事ホント大好きだね」

 何でもないように、一言。

 心音は、その言葉に間髪入れずに。


「名前で呼ばないで、気色悪い」


 やっぱり、らしくない笑顔をにへらと浮かべて。

 そうやって返してきた。



§




「初芝、ホントにここが行きたい所だったの?」

「まぁね」

 僕の行きたい所に行くという心音の申し出に乗っかり、僕と彼女は近くにある商店街に来ていた。

 様々な商店が両脇に所狭しと並び、客を呼び込む老若男女の騒々しい声が響き渡る。まさしく商いを営む人間の戦場と表現するべき場所。

 両脇からの声の荒波に揉まれながら、僕達は戦場の真ん中に空いた道をゆっくりと歩いていた。

 買い物をしているご婦人方や、放課後に成って僕達同様暇しているのであろう制服姿の学生。八百屋のオッサンや魚屋の親父の声。会社員らしきスーツ姿のオジサン。実に賑やかで、多様な立場の人間達。それらから発せられている喧騒を聞きながら、僕等はずんずん歩いていく、


「それで? 初芝はこんな所に来て何がしたいの? 買い物?」

「いや、そういう訳じゃないんだけどね」

「?」

 僕の煮え切らない返事に、心音は可愛らしさを保ったまま顔を器用に顰める。

 彼女は虚ろで不気味な瞳をしているくせに、表情は豊かでコロコロ変わる。先ほど会った萩原の方がよっぽど顔は無表情だ。

というか萩原の場合は常時しかめっ面で不機嫌そうである。将来皺が多くなりそうな奴……っと、話が逸れた。

 僕が此処に来た理由、まあ、なんていうか。実は何もない。

 僕は始め、心音に行きたい場所を聞かれたときに、『行きたい所なんてない』と既に答えている。

 ゲームセンターに誘導しようとも思ったが、よくよく考えたら彼女と楽しく遊べるほど、僕に金銭的余裕なんてあるはずもなかった。

 でもやっぱり、お金があったとしても行ったかはわからない。僕は彼女の要望には黙って従うけど、自分の要望を問われると返答に詰まる。

 でも一つだけ望みがあるとすれば、心音の傍で彼女の事を適当に見やっていたい。

 あくまで適当に。理由なく。責任なく。義務なく。目的無く。そうやって眺めていたい、彼女の笑顔とか仏頂面とか怒った顔とか無表情とか、飛び跳ねる姿とか走り回る姿とか歩く姿とか、何でもいい。そういうのを見ていたい。

 

僕は人を愛せない。だから心音を愛すことはない。

このデートは彼女をサポートする為の、唯の偽物だ。だけど多分、僕は彼女の事を気に入っている、友人として。

 愛す事は出来ない。だけど、僕は彼女の事を気に入っている。気になっている。友人だと思っている。

 ならば、彼女はどうだろう? 心音は僕の事をどう思っているんだろう。

 わからない。

 だけど、一つだけ言える。

彼女がもし僕の事を好きなんだとしたら。愛してくれているのなら。僕はきっと心の中で気色悪さを滲ませながら、彼女の好意を受け入れるんだと思う。

 一年前の告白。名前も顔さえも憶えていないあの娘と違い、心音は僕の大切な人なんだから。

 でも、だからこそ、僕は彼女を見やっていたい。出来ればいつまでも。

 ……いや、なんだろうこの痛々しい妄想は。

 心音が僕の事を愛しているなんて、思い上がりも良い所というか、勘違いの極致というか。これじゃあ、僕の方が心音の万倍気色が悪いという話だ。

 くだらない想像なんてするべきじゃない。



「よし、心音。そろそろ帰ろうか」

「え? まだ何もしてないよ初芝?」

「お墓にも行ったし、適当に商店街もぶらついた、これ位で丁度いいんじゃないかな?」

 さっきまでのちょっと鬱々とした思考を放棄して、僕は心音に言う。彼女は若干不満そうだが、正直僕はちょっと疲れていたから勘弁してもらいたい。

 マイナス方向の考えに、疲れていた。最近特に、彼女と一緒に居る時にこんな考えばかりが頭に浮かぶ。

「初芝、大丈夫?」

 心配そうに眉を潜めて、彼女は小さい体で僕を下から覗き込む。

 違う、それはダメだろう。

 彼女を心配するのは僕の役目なんだ、彼女に心配されてはまるっきり逆じゃないか。

「大丈夫だよ。心音に心配されるだけで、うれしさで元気百倍大丈夫マンだよ」

「いや、何そのセリフ、気色悪いから口閉じて」

 ……こいつ本当に僕を心配してるのか良く分からないんだけど。

 ってか、気色悪いが口癖になって来てるよね。そのうち、朝とかに会ったら『おはよう今日も気色悪いね初芝っ!』とか爽やかに言われるのかな、嫌すぎる。

「今週の休みにでも、また出掛けようよ。なんなら神父とも一緒に、三人でさ」

「ん」

 尚も心音は不満そうだったが、どうやら納得してくれたらしく、小さく頷いた。

 本当は土日の休みはゆっくり家でゴロゴロしていたいタイプの僕だが、これも役責である、仕方ない。

それに、彼女と神父の二人で一緒に出掛けるというのは、あながち悪くない事のように思えた。

 神父にはもしかしたら休日予定があるかもしれないが、構うものか。そんなものはオールキャンセルだ。我らが美鶴心音様のご機嫌取りは、何よりも優先すべき事なのだから。


「じゃあ、もう帰ろっか」

「そうだね」

 漸く納得してくれたらしい心音が、暗い目で明るく笑う。それに僕は軽く微笑みながら返事をする。

 今日も色々あったし、色々なかった。いつも通りに平凡な日。後は彼女を送って、それで僕も家に帰る。

 それだけだ。

 うん、それだけ。



 それ(・・)だけ(・・)なら(・・)()も(・)始まらないで(・・・・・・)終わって(・・・・)いた(・・)かも(・・)しれない(・・・・)。



 軽い衝撃だった。

 ドンッ、と左横から人がぶつかってきた。

 ちょっと痛かっただけで、対した事は無かった。丁度、商店街の出口の曲がり角らへんで、注意が疎かになっていたからだろう。

 ぶつかった方は衝撃で倒れて、持っていた鞄も落としていたけど、僕の方はよろめいただけで倒れなかった。

「あ、すいません」

 反射的に謝る。ぶつかってきたのは向こうだが、被害が大きそうだったのも向こうである。なんとなくこっちが悪い気がした。だから謝った。

 倒れた人は女性だった。薄手の上着を着ていて、少し白いシャツが隙間から見える。下は長めのスカートを履いた、ラフでいて清楚な感じの女性、というより女子だった。

年齢は僕より下みたいだ。倒れているから分かり辛いが、身長は心音よりは高そうだ。

「大丈夫ですか?」

 倒れている彼女に手を差し伸べる、誰から見ても紳士的な僕。それに対し、女子は顔を上げてこちらを見てくる。

 普通の顔だった。平凡な、美しくもないが醜くもない、可愛いらしいとは思うが、可愛いわけではない。長い髪が目にかかっていて表情が読み取りづらいが、まあホント普通な感じの子だ。

 そんな彼女の髪に隠れがちな瞳と視線が合う。そして合ったその瞬間。

 彼女が口を開く。声が出る。

その声さえも美しくも濁ってもいない、普通の声。

 そんな、気色(・・)悪い(・・)()平凡(・・)な(・)少女(・・)が、僕を見るなり何処か呆けた顔でこう言った。

「初芝、那奈詐……?」

「え?」

 なんでこの子は僕の名前を知っているんだ?

 僕はこんな娘は知らない。優秀な僕の頭脳は、一度くらい会っていれば、顔を見て引っかかる程度の記憶力はある。だが、彼女の事は全く覚えが無いし、会った事はない筈だ。

 僕が知らないのに相手の方が知っているというのは、中々に不気味である。

だから、質問した。



 多分、それがいけなかった。


「えーと、あの、何処かでお会いしましたっけ?」


 その言葉を僕が発し、彼女が聞いたその時。

 平凡だった彼女が。普通だった彼女が。そんな彼女の表情が。

 どうしようもなく、歪んだ。

 背筋に氷が触れた様に、体に怖気が走った。浮かぶ感情は恐怖。

人間は、こんな風に自らの顔を歪められるのか? そう思うような顔。

 そして多分、この歪んだ顔が表している意味。それは、憎悪というモノだったと思う。

「……ひはっ」

 何か小さい穴から空気が抜けた様な、そんな掠れた声が彼女から漏れてくる。

歪んだ顔をした少女が、倒れた姿勢からゆっくりと立ち上がりながら、こちらを眺めて笑顔を歪んだ笑みを浮かべる。

 ああ、これは嫌な顔だ。そして嫌な感じだ。そして、途轍もなく気色悪い。

「当たり前か、そらそうよね。お前が私を知るわけはないか、分かってはいるけど理解はできるけど、ダメね、これ、ダメだわ。これは受け止めきれないし、許容できないし、無理ね」

 ブツブツ陰気に呟きながら、それでも視線をこちらから外さずに、彼女は周りの空気を低下させていく。

「え、えーと、あのどうしました?」

 恐る恐る僕は彼女に尋ねる。本当は目の前の危険人物から走って逃げ出したかったが、今隣には心音が居る。なら、そんな事は出来ない。彼女は運動音痴だ、僕の全力疾走については来れない。

 だから聞いた、逃げ出せないから対話しようと思った。分かり合おうと思った。

 けれどなぜだろう。手負いの獣に出会ってしまった様な、脳内の警鐘が鳴りやまない。何もかも置いて逃げろと、そう自分が自分に叫んでいる。

 

「どうしたかだって? ひへは、はは、ひけひっ、お前、ホント、嘘でしょもう。これ、もうほんとうにさ、ダメだこれ」

 呟きながら、少女は近くに落ちていた鞄をひょいと手に取る。その中をゴソゴソと探って、何かを取り出した。

 そしてそれを僕が視認するよりも早く、彼女は一足で僕まで駆け寄り、そして僕に抱きついた。

「いっ!?」

 女性特有の何か甘いような切ない様な香りを間近で感じる。彼女の顔が、僕の胸元にあった。柔らかい、小さな存在を感じる。

 そしてその状態で、彼女は口を小さく開けてボソリと何事か呟く。

「え?」

 その意味を聞き返したかったが、その間もなく彼女は僕から離れて、去って行ってしまう。

「なんだ、今の?」

 疑問符だらけだ、意味が分からない、意味が分からなかったが、なんだか、とても、、体が、重い? 

 重いって、どういう?

「初芝。それ、痛くないの?」

「へ?」

 心音が何か言っている。痛い? どういう事だ?

そう聞き返したくて、彼女の顔を見る。

 心音は虚ろで暗くて気持ちの悪い目で僕の下腹部あたりを見ていた。僕もその視線につられて、そこを見る。

 そして見た瞬間、思考が止まった。



 銀色が刺さっていた。

腹に、銀色が吸い込まれていた。



「ああ、成るほど、ね」

 僕は体が重くなった理由に納得し、呟きを漏らしながらゆっくりと倒れる。

 体が重かったから、横たえた方が楽そうだったから倒れる。こんだけ重いと、中々立っていられない。

 制服が汚れるのは嫌だったけど、どうせもう銀色に輝くナイフで赤く染められちゃってるしいいや。

 それより、さっきの女の子、ほんとなんだったんだろうか?

誰だったか全然わからない。

考える。この状況について。考える、先ほど彼女が微かな声で呟いた言葉を反芻して。



『消え死ね』


 そう、言った。

 彼女はそう言った。


「ああ、やば。これ、ほんと、やばいかも……」

 崩れ落ちながら、僕は適当にぼやく。すごく体が重いのに、不思議と痛くない。面白い感覚だ。

 でも痛くなかったから、冷静に周りが見えた。

 事態に気づいて慌て始める周りの人が。

 駆け寄ってくる買い物袋を持ったご婦人やら、商店街でさっきまで野菜を売ってたオッサンやらなんやら。

 茶髪の若者が、青ざめた顔しながら携帯で電話しているのも見えた。多分、あれだ、救急車でも呼んでくれてるのかもしれない。

 面白いのは、こんな状態の僕を写真で撮ってる連中だ。撮ってどうすんだよ、アホかお前ら。僕が死んだら化けて出てやるからな畜生。


 そんな中、一つの視線に気づく。

 翳った瞳で僕を真っ直ぐに見つめる奴。

 無関心じゃないんだ。

 無関係でもない。

 無感情でも無さそうだ。

 そんな彼女が伽藍の瞳で、空虚な眼で僕を見つめる。

 見つめる事だけしている。

 ほんと、予想通りでちょっと笑えるよ。

 美少女が何も映さない瞳で、何もせずにずっと見てくる。

 やっぱり、ものすごく不気味で気持ちが悪い。

 そんな女の子だった。矢張り彼女は。

 美鶴心音は、やっぱり、



 気色悪い。



§


 人が人として生きるときに、絶対に侵しちゃいけない事は結局の所一つだけだと僕は思う。


 人は人を殺してはいけない。


 この一つ。

 誰かを殺したその時に、人は人じゃない何かになるか、より深く(・・)人間(・・)に(・)なって(・・・)しまう(・・・)。

 殺人という行為に何かしらの意味や意義を飾り付けても、本質的にそれは血みどろの形しか顕さない。


 一つ、例を挙げよう。


 家族がいる。

とても素敵で温かく暖かい家族。そうだね四人家族だ。

 父親、母親、兄、妹、そしてペットも入れて、一軒家に住んでいる。

偶には喧嘩もする時もあるけど、それすらも本物の愛情の前では些細なことで。

 お父さんの収入が少なくて、偶に節約に頭を悩ましたりしなきゃいけない事もあったりだけど、それでもやっぱり笑顔が絶えることはない。そんな典型的に幸福そうな家族。

 そんな家に一人の強盗が入ってきた。

 時間設定は夜中だ。当然家族は寝静まっている。

 強盗もそれを理解していたから、こっそり忍び入り、金目の物をとっていこうと思ったんだろう。

 ちょっと大胆に過ぎるとは思うけど、成功する可能性は多少はあるんじゃないかな。きっとその強盗も色んな事で追い詰められていたんだろうね。リスキーな行動に出てしまった訳だ。

 侵入手口? さぁ、なんだろうね。もしかしたら強盗になる前は鍵屋か何かで、そういうスキルを持っていたのかもしれない。ま、そこは重要じゃないからスルーしてくれよ。

 兎に角、彼は家に侵入した。お見事、誰にも気づかれず近所の人間に見咎められる事も無くだ。

ああ、だけども残念ながら、彼が家のリビングなんかで金目のものを漁っている時、家族の一人である娘さんが起きてしまった。

 トイレにでも行こうとしたんだろうね。起き出して廊下を歩いているときに、開けっ放しの部屋にいる強盗と目が合ってしまった。

 強盗は驚いて、状況が理解できずに硬直してしまった。きっと気が小さい人だったんだろうね。

そして、妹さんも驚く。そら、知らない人が自分の家で怪しく蠢いてるんだ、驚きもする。必然、彼女は悲鳴を上げた。大きな大きな声で。

 その声により目を覚ます。初めに父親、次に母親、兄も遅れて目を覚ます。大きな声がした方に彼らは駆けつける。愛する娘が、護るべき妹が大声で悲鳴を上げているんだ、そら焦り急ぎ駆けつけるだろう。

 そして辿り着いたリビング。そこには荒らされた調度品やら引き出しやらと、硬直している強盗がいる情景が存在する。

そして、そのすぐ近くでワンワン泣いているか弱い家族がいる情景。


 さぁ、君ならどうする?


 きっと色々な対応も対処もあるだろうね。だが、この家族達は強盗に襲い掛かった。

 家族を守るために。

 そして近くにあった、飾られた壺やら、仕舞い忘れたゴルフバットやら、テーブルにあった灰皿なんかで強盗を殴りつけた。

 家族を守るために。

 強盗が怖いからだ、強盗に家族が襲われるのが怖いからだ。だから滅多打ちにした、無我夢中で、強盗が動かなくなるまで。



 家族を守るために。



 そして最後には動かなくなった強盗と、ワンワンと泣き続ける妹。

 返り血で汚れきった、父親と母親と兄。そういうのが残った。

 彼等の妹さんを守る気持ちは、他人の流した血で成り立つ様なモノだった。


 それを間違っているとは言わない。

 強盗は人のものを盗もうとした悪人で、家族を守ろうとした人々の行動が善人で、だからこの結果は当然だと、そういう人が居たとしても僕はそれを否定しない。

 けれども、なんだろうな。その光景を、そんな状況を、許容は出来ないんだ。

 それが愛情というものが為すのならば。

 愛情が、その行為を成立させるのならば。


 僕はその在り方を認めることが出来ない。





 覚めた。

 目が。

 白い清潔な天井に、夕方だからか淡く光っている電灯と、涼やかに頬を撫でる風。

 自分はどうやらベットの上に寝かされているようだ。

 はて? 何故僕はこんな清潔感あふれる空間のベットで寝て―――



『消え死ね』



 ―――あー、思い出した。

そうだった、僕は見知らぬ女性に刺されたんだった。向こうはやたら僕の事を恨んでたというか、憎んでた感じだったけど、ほんと誰だったんだろう。

 それとも勘違いとかかな? もしくは心音みたいな、見てくれは可愛い女の子とイチャいてた僕を見てイライラして、若さゆえの情動をナイフによる刺殺という行為に還元したのかな? 何それ凄い迷惑。通り魔的才能が溢れすぎている。

「っつ!?」

 と、下らない事を考えていたら、ズキリと下腹部辺りに重く鋭い痛みが走った。

 痛みの発信源に目を向けると、包帯がグルグル巻いてある。ついでに服も薄く青い服に着替えさせられてあるのも確認した。

 清潔な部屋の清潔なベット、清潔な服装、そして腹部に巻かれた包帯。つまり此処は、もしかしなくても病院って事だ。

 僕が倒れてしまったあの後、多分誰かが電話でもして救急車を呼んでくれたんだろう。それなりに騒ぎになってたみたいだし。

 まあ、別に大した怪我でもなかったみたいだ。包帯をお腹に巻いてあるくらいで、他に何か処置されているわけでもなし。刺さった場所はそこまで致命的な場所でもなかったのだろう。

 それでも、助けを呼んでくれた人には感謝感激雨霰だ。あのまま大量失血でもしてたら、死んでたかもしれないしね。


「んーっと、さて、これ目が覚めたんだからナースコールとかしなきゃいけないのかな。どうすればいいんだろ」

 思わず一人ごちる。

病室はどうやら個室のようで、自分以外に患者がいない。一人で居るにはちょっと広すぎる部屋だ。それに清潔的過ぎて、逆に落ち着かない。

 ってか、なんでこの程度の怪我でこんな好待遇なんだろう? 少し開いた窓からの景色を見ると、どうやら僕が刺された商店街からそう遠くない地元の大病院に居る様だが、こんな所で待遇よくされる覚えはない。

 ん?

 いや、待てよ?

 大病院で好待遇。僕個人がこんな好待遇を受ける筋合いは毛ほどもないのは確かであるけど、そうだ忘れてた。あの(・・)()ならそういうコネもあるかもしれない。

 だってあの人は莫大な財産を持ち合わせていて、僕みたいな平凡な高校生には及びもつかないパイプをいくつも持っている。

 その癖果てしなく気まぐれで、快楽的に行動を起こす人間である。

 だって、あの心音に新しい居住所をポンッと、なんの対価も得ずに渡すような男だ。

 幾ら大病院であろうが、知己の怪我人に個室を手配するくらい訳ないだろうし、そんな事をする理由さえも、気まぐれという一言で済む。


「うーん、もしかしてまたもや変な借りを作ってしまったかも」

 顔を片手で抑えて呻く。

 別に彼は借りを作ったからと言って、対価を要求するわけではない。

しかし、無償で相手に何かをしてもらったとき、そこに生じるのは端的に言えば義理である。

 彼はあの時僕に良くしてくれた、だから僕はそれに対して恩を返さなくてはいけない。

 そういう思考に普通の人間は向かう。

 僕は普通で平凡な人間だから、素直に彼に感謝して、何時か恩を返さなくては! となる。

 そしていつまでも返す当てのない恩が膨れ上がっていく。僕の現状は借金を抱える不良債権者の様相を呈してきていた。ただ、この借金は取立人が一向にやってこないのけれども。

 

 コンコンッ


 と、そんな事を考えていると、部屋のドアがノックする音が聞こえてくる。

 この病院のお医者さんか看護師さんが、患者である僕の様子を見に来たのだろうか?

 どうやらコールするまでもなかったらしい。

「はい、どうぞ」

 僕はベットから少し遠いドアに向けて、声を張り上げて返事をする。

 すると、スライド式のドアがゆっくり開き、外側から病室に人が入ってくる。

 高い身長に長い手足。眼鏡をかけていて顔つきはやたらと柔和な、三十代後半程度の。多少人間的に熟成された雰囲気を漂わす男。

 だがなによりも、目を引くのは服装だ。

 ジャージである。

 心音の様な、見るものに危機感を与える色合いではなく、薄青色したスポーティで爽やかなジャージである。

 その男は部屋に入ってくるなり、顔を笑顔の形に歪めて嬉しそうに僕に言ってきた。

「やーやー、那奈詐君。刺されたって聞いたからビックリしたよ~。怪我、ダイジョブ?」

 僕はこの人を知っている。知っているなんて次元じゃない位には知っている。

 ってか、さっきからずっと話していたのが、この人だ、この男だ。

 心音と僕にとっては大変な借りがある人物で、向こうにとって僕達は―――なんだろうか? 

 まあ、この人の考えてることなんて全く全然一切わからない。わかるのは金持ちで、人好きのする男で、恐ろしいほどのお人よしに見えるって事。

 そして、名前は、(ほん)() 九例(くれい)であり。僕達が彼を呼ぶときに使う愛称は―――


「お見舞いどうもアリガトウ。神父」


―――ってなことだけである。




§




「いやぁ、大事にならなくてよかったよぉ~。てっきり死んでしまったんじゃないかと、此処に来るまで気が気じゃなかったさ!」

「そんな簡単に人は死なないよ」

 部屋に入ってきた神父は気遣わし気に優しく言葉をかけてきながら、僕のベットの傍に病院の備品であろう椅子を持ってきて座る。

 彼が此処にきた経緯を聞くと、どうやら仕事関係の用事で人と話していた神父の元に、知人から携帯へと着信があったらしい。そこで、僕が何者かに刺されたことを知ったそうだ。

 そこで彼は、自分と日頃付き合いのあるこの病院の院長に話をつけ、親切な何処かの誰かが呼んでくれた救急車の行先をそこに向かわせるように頼み、急遽僕には分不相応な個室をあてがった。と、そういうわけらしい。

 因みに、その知人とやらが救急車を呼んでくれた親切な何処かの誰かであって、偶々神父と僕の関係性も知っていたことから、わざわざ連絡をくれたとか。

 中々に奇異な巡りあわせだとは思うが、神父の顔の広さはこの街では尋常ではないので、余り驚きはしなかった。


「いやしかし、ほんと心配したよー。君はほっといたらすぐ死にそうだしね。こうやって心配し過ぎてもまだ足りないさ。ちゃんとご飯とか食べてる?」

「食べてるよ。って、あなたは僕のお母さんか?」

「あっはっは~、どっちかというと、お父さんだね!」

「……ま、そうかもね」

 思わず苦笑してしまう。彼が自分のことをお父さんと例えた、その事に。

 端的に言えば、それは事実であるから。


 神父は僕の養父である。

戸籍上は他人であるが、後見人として僕を育ててくれた父親だ。そう、僕には血の繋がった両親がいない。

 親に捨てられ、橋の下の段ボールの中に入れられた赤ん坊の僕を、敬虔なる神の僕たる神父が憐憫の感情から拾って育ててくれた―――とか、そういう訳ではない。

 僕の母は、僕を産んだすぐ後に亡くなったらしい。病死だったそうだ。

 そして、父の方は母が僕を生む前に既に死んでいたという事である。

 その二人の、特に母の友人だったらしい神父が、彼女に頼まれ僕の事を引き取り、ここまで育ててくれた。と、そういう事情だ。

 正直、色々問いただしたい疑問は複数ある。

 両親の亡くなり方について。何処かに存在するであろう親戚筋ではなく、何故友人の神父が引き取りわざわざ育ててくれたのか。上げればキリが無い程、本当に沢山疑問がある。

 だけど、神父はそのどれにも『君が大人になったら話す』と言って、誤魔化してくるので、いつしか僕もその事について聞かなくなっていった。

 ただ、神父は珍しくお酒などに酔ってたりする時、普段でさえ優しさを映しているその瞳を、さらに優しくしながら楽しそうに母の事について語る。

 君の母親は綺麗な人だった。

 君の母親は優しい人だった。

 君の母親は純粋な人だった。

 君の母親はいつも笑顔だった。

 君の母親は、君の母親は。

 そうやって嬉しそうに語る神父を見ていると、確かに僕の母は素敵な人だったのだろうと、そう思える。

 反対に父親のことは一切喋らないのが気に掛かる所であるが、最近はそれさえもどうでもよくなっていた。

 僕には両親はいない。でも神父がいる。

 だから、僕にとって神父は親なのだ。

 今は親の脛を齧るだけのダメな息子であるが、いつか自分を育ててくれた恩返しはしたい。

 僕は愛情に嫌悪があるか、誰かに親しみを覚え感謝する念は普通に抱くことができる。だから僕はおそらく、神父に信の情をしっかり抱いていると、そう思う。



「それにしても、那奈詐君を刺した人間はいったい誰だったんだろうねー。心当たりは本当にないのかい?」

「ああ、無いよ。これでも人に恨まれるような事はしてないと、そう思ってるんだけどね」

 一通り話すべき事を話し終わった後、話題は加害者である女性の話に移った。

 現在警察に通報はしていないとのことだ。刃傷沙汰で警察に連絡がいかないのは不可解だが、ここら辺の警察は大変優秀の反対なので、恐らく被害届けでも出さないと特に動きはしないだろう。まあ、正直この街は治安は悪い部類に入る。幼い子供がいたら引っ越しをお勧めするレベル。

「うーん。商店街を歩いていたら突然刺されるなんて。そんな事あるのかなぁー」

「凄い顔で僕の事を見てたし、怨恨の線が強いとは思うけどね。心当たりないけど」

「知らず知らずの内に恨みを買っていたとか、そういう事は?」

 神父の言葉を受けて、少し自分の記憶を精査してみる。

 だが、矢張り僕を恨むような相手は思い浮かばないし、間接的にでも恨まれるような事をした覚えもない。

 僕は他人に深く干渉しないから、他人から深く感情を抱かれることもないはずだ。

 交友関係は確かに広いが、それは広く浅くの精神での付き合いだから、本当に深く付き合っている友人は少ない。

 せいぜいが、心音に萩原、仲野に浅木君、後はクソッたれの汀位のものか。まあ、この中で僕を刺しそうな奴は心音と汀位のものだ。

 心音は何か適当な理由で刺してきそうだし、汀は不条理な理由で刺してきそう。

 ……いや、こんな奴等を本当に友人と呼んでいいのだろうか? 何かあったら刺してきそうな友人とか怖すぎる。

「まあ、那奈詐君は忘れっぽいところあるから、何か酷い事しても忘れてそうだよね~」

「失礼な。僕は記憶力はいいぞ? 成績だって大変良好だ」

「まあ確かに良好に過ぎる成績だけど。じゃあ、あれだ。女の子とかに失礼なこと言ってない? 女性ってのは、無遠慮な男のちょっとした言葉に、凄く敏感に怒るものだからねぇ~」

「大丈夫だよ、そんなヘマはしな―――」

 ん?

 いや、ちょっと待て?

 女性? 失礼? 無遠慮?


 あった。

 

 心当たり。あった。

 いやいや、待て待て、そんな馬鹿な理由で人を刺すか?

 人を殺そうなんて、そう思うか?

 第一、 しっかりと丁寧に僕はお断りした筈だ。恨まれる筋合いなんてない。

「那奈詐君、どうしたの?」

 神父が突然黙り込んだ僕に怪訝そうな声を上げるのを聞いて、思考を中断する。

「ああ、いや、別に何でもない」

「そうかい? そうは見えなかったけど」

「ほんとに、何でもないよ」

 疑問符を顔に浮かべる神父を取り成しながら、僕は思考を再び回転させる。

 僕は人に恨まれる行為をした事のないという自負がある。だがしかし、それはあくまで僕にとっての常識に当て嵌めてだ。

 他人が僕の行動にどんな感情を抱くかなんて、結局わからない。

 あくまで推量出来る程度。だが、それでもその推量の方法とは、自分が抱くであろう感情や、持ち合わせている常識と当てはめることで、ある程度の精度をもって予測できるというものである。

 僕は平凡であり、頭の良い人間であるから、一般的な奴等にどう対応すればどういう反応を得られるのか。そういうのが大体わかる。頭良いから。マジ頭良いから。

 けれども、その推量には大きな欠点がある。

 平凡な僕には、明らかに異常な部分が一つある。


愛情に対しての嫌悪感。


 これだ。

 そして、僕は過去に拒絶してしまった恋慕がある。

 高校一年生の時、甘酸っぱい告白をしてきたあの女の子。

 あの娘ならば、僕を恨んでいても仕方がない。

 しかしながら確証はない。酷い話なんだろうが、僕には件の彼女の顔が既に思い出せなくなっている。

 だから、あの刺してきた女が、告白してきた女の子と同一人物かは判然としない。

 言い訳させてもらうのならば、吐き気のする情景だから、意図的にその情報を全て脳内から忘れ去ったと、そういう事なのだろう。

 誰だって、自分の嫌なことはいつまでも覚えていたくないモノだ。

 取りあえず、この事は神父にはまだ黙っておこう。彼にはその件で相談したこともあるから、気付かれてしまう事もあるだろうが、別段自分から言う事でもない。

 気付かなければ気付かれないままでもいい。

 僕は彼に、これ以上心配をかけたくなかった。



「うーん、まあ思いつかないなら仕方ないよね~。何か思い出したら、また言うんだよ?」

「わかった、ありがとう」

 心配そうに言ってきてくれる神父に、心の中で謝罪し、感謝の言葉は外に出す。

 神父はメガネの奥の瞳を優しくすぼめながら、笑顔で僕の言葉に軽く頷いた。

 と、そんな彼の温かい瞳を見ていたら、対照的に冷たさの極地みたいな瞳をした奴を思い出し、その人物の事を聞いてみる。

「そういえば、心音は何処行ったの? あいつ、僕が倒れる時傍にいたんだけど」

 途端、さっきまで暖かい雰囲気を醸し出していた神父が、気まずそうな顔をして、顔を背けてきた。

「えーとね、一応その僕が病院に着いた時に状況の説明とかはしてくれてね、その、まあ、君の様態が安心できる事が確認できるまではね、その居たんだけど……」

 少しばかり汗まで掻きながら、神父はゴニョゴニョと言葉を紡ぐ。

 余りにもらしいとはいえ、ら(・)し過ぎる(・・・・)。そんな心音の行動について、彼は話してくれた。

「『眠いし遅いし初芝アホみたいにぶっ倒れてウザいから帰る』とか言った後に、こっちが何か言う前にさっさと家に帰っちゃった……」



§



心音に初めて会った時の話だ。

 

 彼女と出会ったのは、自分が他人を愛せないと気付いてしまってからだった。

 告白されて、誰かを愛するその姿を気色が悪いと認識してしまった。あの日、あの時から少しだけ時が経った頃だ。

 僕は神父にその事を話した。

 神父の事を信じ切っていたから、だから彼に話した。

自分が異常だという事を認めたくなくて、彼がいつもみたいに暢気に、そして優しく『そんなのは思春期にならよくある事じゃないかな~』と、そう返してくれることを願って。

 しかし、その願いは見事に砕かれる。

 彼は僕の心中の吐露を聞き終えて、酷く真剣な顔を作った。

 今まで見たことのない様なそんな顔を作って、今まで見たことのない様な重苦しい声で言った。


「やはり、君はそういう人間だったか」


 そう言った。

 ショックだった。悲しくなった、喚きたくなった、死にたくなった。

 自分を意味がなくても、意義が無くても、意思さえなかったとしても全肯定してくれると思っていた人は、僕を確かに肯定した。

 だがそれは、負の肯定だった。僕の負性の肯定だった。


 その後、僕は彼女と出会う。打ちひしがれた心を抱えて歩く僕の前に、心音は現れた。

 少女は、暗い瞳で僕の事を見つめていた。

 僕はその姿を、気持ち悪く感じて。何故そんな目をするのだと癇に障って。

 人の愛情を信じられない瞳をした少女を見つけてしまって。

 彼女の頭を、全力をもって蹴り飛ばした。


 僕と少女は、そういう出会い方だった。


 それから、僕は生き方を大きく変えた。

 自分の異常性に気付き。心音と出会い。そして神父と共に、心音を救ったその時に、生き方を大きく大きく変えた。

 まず勉学に取り組んだ。それまでのスクラップみたいな頭脳を一新して、全部高性能な脳味噌に仕立ててやった。

 処世術も学んだ。付かず離れず、空気みたいな存在になる、そんな人との関わり方を学んでいった。

 他にも色々。体を鍛えたり、趣味を見つけようとしたり、本当に色々したものだ。あの告白をされた日から一年程度で、良く此処まで自分を変えられたと、我がことながら感心する。

 きっと、僕は悟ったんだと思う。

 自分という人間が異常だというのなら。人を愛せないという異常を抱えるというのなら。他の部分はせめて、人並みになればいいのだと。人並み以上になればいいのだと。

 特異な事で得する事なんて、この世には滅多に無い。

 平凡で平均な生き方が、一番幸せになれる近道なのだと。

 そう、僕は幸せになりたかった。僕にだって幸せになる権利はあると、そう思っていた。

 たとえ他人と比べて異質な部分があっても、どこかで補えればいいだろうと。

他人に合わせようと努力しているのならばそれでいいだろうと思っていた。

 それで、人並みの幸せを得る権利はある筈だと、そう思っていたんだ。


 それは、間違いなんかじゃないよな?




§


 僕を検査した医者曰く、『もう日常生活に戻って頂いても大丈夫です』だそうで。既に日が沈んでしまっている景色の中、病院を後にして家に帰る事にした。しかも徒歩で。

 どうにも、刺されて倒れて救急車に運ばれたのに、即日退院で歩いて家に帰っているのは不思議な気持ちだ。そもそも、こういう事が起きたら警察やらなんやらが関わってくるものだと思っていたが、面倒事を嫌う僕の事を察してか、神父が根回ししてくれたみたいだ。まあ、あくまで一般人の神父が根回しできてしまう程度には、この街の警察が怠惰という事なのだけど……。

 それに、救急車で運ばれたといえば大げさだが、僕の刺し傷は出血はそれなりにあったものの、浅い傷だったみたいだ。多分、アーミーナイフか何かで刺されたのだろう。あの時は正直事態に全く追いつけていなかったから、確信はないけど。

 神父が家まで送ってくれようとしていたが、仕事を途中で抜け出してきたと言っていたので、大丈夫だからはよ職務に戻れと固辞した。

尚も色々言いながら拘泥していたが、僕の頑なな態度に渋々納得して帰ってくれたようだ。こんな事で一々彼に心配を面倒を掛けたくない。


 そんなわけで、僕は今家路についていた。

 お腹に包帯は巻いたまま、傷が開いたりしないように激しい運動は控えるべきらしいが、別段もう痛くもないので、さして生活に支障は無いだろうと思う。

 今日、僕は確かに死にかけたと思っていた筈なのに、こうやってその日の内にいつも通りに戻れてしまった。

 明日は学校も休みだし、ゆっくり療養しよう。

いや、そういや今週遊ぶ約束を心音とした気が……。まあ、キャンセルさせてはくれないだろうな。あの女は僕が怪我しようが病気しようが自分との約束を優先させる女だ。なんなら僕が死んでいたとしても、待ち合わせ場所で待ち続けるような女だ。

 もう来ないはずの男を待ち続ける女。

 言葉の響きだけを聞くと、中々に想像力を掻き立てる良さげなフレーズである。ま、幸い具体的にはまだ決まっていないし、このままスルーすればなんとかなるかもしれないならないな!! 

 と、僕がそんな益体も無い事を考えて居ると、帰るべき愛すべき我が家が見えてきた。

 住宅街の一画。大きすぎず小さすぎない一般的なサイズの戸建て、薄い灰色の壁と真白色の屋根をした一軒家。そこが僕の家である。

 因みにこの家を、まるでお小遣いをくれる親のように軽く寄越したのは、当然の如く神父だ。

 お蔭で僕は、この年にして家持ちである。

 こんな一軒家、一人で住むには広すぎるから要らないと再三言ったのだが、あの神父は例によってのんびりした口調で『大は小を兼ねるよ~。大きくて困ることなんてそうないからさ~』とほざいていた。

 てなわけで、僕は神父に対してこうやって莫大な借りをどんどん増やしているわけだ。親不孝者と罵られるレベルだが、もうほんと、どう返せばいいんですかこの大恩。神父曰く、本当の親代わりなら一緒に住んで暮らしてあげたいのだけど、色々事情があるからそういう訳にはいかないんだそうだ。だから、せめてもの贖罪とのたまっていたが、罪所か褒め称えられるべき善行ばかりしている彼が、何故贖罪などと表現するのか謎だ。

 彼に大きな借りがある人間は、僕や心音以外にも、数多いるであろう。恐らくその大体が、彼からの借りを返済できていないと思う。

 何がどうしてあんな人間が出来上がったのかはわからないが、取りあえず尊敬する事位しか出来ない。

 本当にホント、息子が超えるには偉大すぎる父だ、あの男は。



「ふぃーっと……づかれだー」

 濁音混じりの声を上げながら、僕は玄関を開けて家の中に入る。そしてそのまま、広いリビングにある黒い革製のソファーに倒れこんだ。

 僕の家は二階建てであり、一階にはリビング・台所・浴場があり、二階には計四つ程の部屋がある。トイレは各階に一つずつ。

 当然のことながら、独り暮らしでその全てを使うわけもなく、大体が空き室だったり物置だったりだ。ちなみに就寝に関しても大体はリビングにあるソファーの上で寝てしまうので、家での活動スペースは大方一階である。完全に宝の持ち腐れである。

 この家にも僕の友人や知人が遊びや用事で来たりするが、初めて来た大抵の人間の一言目が「羨ましい」で二言目が「勿体ない」である。一応心配性の神父が時たま泊りに来てはいるが、確かにこの広い家を自分一人で占有しているのは人の目から見たら羨ましいのかもしれない。

 そんな訳で、中々にブルジョワな生活をしている僕なのである。

 まあ、使い切れない持ち物なんて、何の役に立つのかわかりゃしないし、邪魔なだけなんだけどもね。


「ふぁーあ。ねみ」

 思わず欠伸が出る。

 今日は本当に疲れる一日だった。体力もごっそり持っていかれたから、やたらと眠い。

 着ていた制服は血だらけな上に穴が開いて台無しになってしまったので、神父が適当に買ってきてくれた服を今は着ている。その服のまま、ソファーの上で寝っ転がっていると、瞼が段々重くなっていく。

霞が掛かっていく頭で、ボーっと思考する。


あの女はなんだったんだろうか?


 予測はついたけど、それでもまだ確証は持てない。実際、本人に確認しないと、本当のところ、動機も素性もわかりはしないであろう。警察は頼りにならんし。神父には迷惑を掛けたくない。

 つまり、僕はもう一度彼女に、自分の力で会わなければいけない。

 真意を問い質すために。

「会って、また刺されたりしてな」

 呟きが漏れる。

 眠いからか、思考が纏まらない。

 すると辺りが暗くなっていく。違うか、単に僕が目をつむっているだけだ。

ああ、ダメだ、 電気くらいは消しておきたかったんだけど。もう、いいか。別に電気代だってなんだって、神父が払ってくれてるんだから。

僕は、何もしていない。僕は、何も対価を払っていない。

それは、子供だからで済まされる事ではない。最早、怠惰で堕落していて、だから、僕は。

 だから、このまま寝ちまおう。

 自堕落に、無気力に、疲れたから今日は寝ちまおう。



 そうやって、僕は今日という一日を、簡単に終えた。




§




 それが夢だという事はすぐにわかった。

 僕はどこかに寝かされているようで、上から覗き込んでくる少女と目が合っていた。

 彼女はニコニコと嬉しそうに笑っていて、とても可愛い女の子だった。

 そんな彼女と反対に、僕は笑いも泣きも何もせず、只々仏頂面で彼女の事をじーっと。ともすれば睨みつけている様だった。

 そんな風に女の事見つめ合っていると、声が聞こえてくる。

 一つの声はとても懐かしく感じる声。もう一つは親しく感じる声。男二人の声。

なんだか、どちらの声も安心できる安堵できる、そんな声。


「お前、本当に育てるのかその餓鬼」

「当然だよ。真木君、僕はね、彼女を愛していたんだから」

「だったら、尚の事難しいだろ、折り合いつけられんのかよ」

 懐かしく感じる声はぶっきらぼうな、しかし相手への気遣いの感じられる言葉を掛ける。対して親しく感じる声は軽く、しかし芯の在る声色で返答していた。

 僕は、その二人の会話を聞いて、何故かひどく悲しい気持ちになる。大事な何かを失ってしまったと、そう感じる。

「彼女はあの子を残してくれた。だから、良いんだ。例えその出生がどうあれ、例えこれからどういう人生になっても。僕はこの子を育ててあげたい。見守っていてあげたいんだ」

 優しさの中に芯が通る声。強い思いの下に発せられている言葉。

「……分かった。まあ、潮時だろう。もう俺達は此処から出なきゃならんからな。何処か安心して生きられる、平凡に生きていけるそんな場所で、そうやって過ごすのもいいだろうよ」


 嗚呼、そうか、きっとそうなのだ。

 彼等は僕の為に何かを諦めたのだ。棄ててはいけない何かを棄ててしまったのだ。

そして、僕の為に何かを新しい何かを手にしようとしてくれている。

 それはきっと、愛情というモノで、それはきっと、絆というモノなのだ。

「ふふっ、君、凄く賢そうな眼をしてるね」

 と、僕と目を合わせていた少女が、咲いた花の様な笑顔で言ってくる。

 その声は慈しみと優しさと、暖かさを持った声だった。

「ねぇ、私達、これから家族になれるかもしれないね。もしかしたら、違う何かかもしれないけど、でもきっと深い絆を持つことは出来るんじゃないかなって思うんだ」


 彼女は笑顔で、言う。

 ああ、これもまた、愛なんだ。愛情。情。それは、それは僕には――。


「おい、シル。あんま餓鬼に近寄るな、悪影響がありそうで怖いんだよ」

「あー、ひっどい! そんな事言って、自分だって変な病気持ってそうな癖に!」

「誰が変な病気持ちだ、一体俺が何を患ってるって言うんだ」

「性病」

「持ってねぇよんなもん!!」


 シル……。

 聞いたことのない名前だ。記憶にない名前だ。だけど、なんでだろう、自分にとって大事な人なのだと。その事は分かる。理解できる。


「あらら、喧嘩しちゃってまぁ。仲良しなんだからなぁもう」

 親しく感じる声が、僕の方に寄ってくる。眼鏡をかけた、柔らかい雰囲気の男性。若い、男の人。

 彼は僕を抱き上げ、頭を優しく撫でながら、言ってくる。

 そこで漸く気付いた。今、自分は赤ん坊なんだと。

「君がこれからどんな人生を歩んでいくのかは分からないけど、僕は何時でも傍に居て、君を支えるよ」

 笑顔。

 優しい、本物の笑顔。

 安心する、安心すべき笑顔。

 そこにあるのは、明確な愛情。だが、僕に向けられた愛だけではなく、きっと僕を産んだ女性への愛。深い深い愛情。

「だから、安心して良い。何も心配しなくていい」

 ああ、ごめんなさい。

 ごめんなさい、僕は、僕は愛を。

 その愛を、肯定できない。

 深い深い愛が、只々不快で。

 僕は、僕はそれを。


「何も心配せず、歪んで生きても良いんだよ……」





「……」

 夢から覚めた事にもすぐに気づいた。

 嫌な夢だったと言えるのか、良い夢だったと言えるのか。

 見た夢の記憶がしっかり残っていて、どうにも気分が優れない。

それでも不思議と懐かしさと暖かさを感じて、嬉しく思えてしまう。

 少しばかり、ひっかき傷の様な不快感は残ったままだけれども。

「……朝飯作るか」

 時刻は朝の9時丁度。

 僕は、休日の始まりをスタートさせようと、冷蔵庫を漁ってみる事にした。

「ん?」

 と、そこで着信音が鳴り響く。家にある固定電話からだ。滅多にならない、何処かで聞いたような音楽が家の中に響き渡る。

「はいはい、いまでますよーっと」

 僕は固定電話の置かれた棚の一つに近寄り、手に取って出る。もしもしというお決まりの文句を言うと、聞き取りやすい男の声が耳に入って来た。

『突然のお電話失礼いたします、初芝様のお宅でしょうか?』

「はい、そうですが、どちら様でしょうか?」

 この固定電話の番号を知っている人間なんて、そんなにいやしない。セールスの電話か何かだろうか? 僕はコードレスの電話を手に持って、冷蔵庫漁りを再開しながら適当に相手の言葉に耳を傾けてみる。

『申し遅れました、わたくし深山と云います。初芝様のお電話番号は本等様からお聞きしまして、いきなりご連絡差し上げるのは大変失礼とは思いましたが、事情が事情だけに早めにお伝えしたい事がありまして、こうしてお電話させて頂いた次第でございます』

「はぁ、成程」

 本等。本等……あー、神父の事か。ダメだ、寝起きで頭がイマイチすっきりしないな。あんまり理解が及んでいない、あ、卵切らしてる、牛乳も無いな、買ってこないと。

僕は冷蔵庫をゴソゴソ漁り続ける。

『それで、さっそく本題に入らせて頂きますが。初芝様、先日、誰かに危害を加えられたりなどしませんでしたでしょうか?』

「ぇー、危害、ですか?」

 危害ねー。

 あー、そういえば、そうだ、なんだかお腹に違和感があると思っていたら、そうだった。昨日刺されたんだった。

 後で包帯も変えておかないとな。

「そうですねー、危害、ありましたねー。お腹刺されちゃいましてねー」

『……』

 と、相手が息を呑む雰囲気が電話越しに伝わる。

 そして、徐々に頭が覚醒してきた。これ、そんな気軽に言っていい事だったか?

『そうですか。やはり、そうですか』

 深く落胆したような、いや、酷く憔悴したような? 兎に角、何か重い感情を向こうが抱いていることが伝わってくる。どうやら、寝ぼけた頭で、僕は不味い事を口走ってしまった様だ。

『初芝様、申し訳ありません、少し会ってお話など出来ないでしょうか?』

「お話、ですか?」

『はい。重ね重ね失礼だとは思うのですが、早急にお会いしてお話をしたいのです、どうかお願い致します』

 懊悩が絞り出す重い声。

 この人はどうやら切羽詰まっているとか、そんな風だ。一体その理由がなんなのかはさっぱりだが。僕と会う事でそれが解消されるのだろうか?

『初芝様に危害を加えた誰か、それは私の姪だと思われます。このままでは居られない。どうか、お話をさせてください』

「はぁ。成程成程。姪っ子さんですかー」

 姪かー。成程。僕を刺したあの女の、叔父さんってわけか。そんな人が朝から、ご苦労な。

 っておい、いい加減目を覚ませ僕っ。

「貴方あの女の人の身内ですか。一体色々、どういう事なんです?」

『申し訳ありません。是非、是非直接会ってお話を、お願いできませんでしょうか?』

 深刻な声を聞いて、いい加減朝の惚けから覚醒する。

 一時間後、近所にある喫茶店で会って話をするという事を伝え電話を切った。

「なんなんだろうねぇ、この展開」

 冷蔵庫を見る。卵も牛乳も、何もない。それどころか食べられるものが何もない。

 僕は舌打ちをしながら、家を出る事にした。

 どうやら、今日はゆっくりした休日とはいかなくなってきた様だ。



§



『BARロゼリオ』

 僕が電話先の人間に指定した街外れの喫茶店は、そういう名前だった。

シックな外観と洒落た内装をした小さいが趣味人が営んでる事が丸分かりの店構えを持つ、大人な雰囲気の喫茶店である。店の場所はこの近辺の中じゃ余り日の目を見ない、入り組んだ裏道を行った秘所的な位置に存在している。

 このロゼリオという店は、客の年齢層は基本的に高めの店になる。しかしながら同時に、僕の様な中高生位の年来な学生達も良く訪れる場所でもある。

なにせ、メニューの豊富さと値段の安さは中々のコストパフォーマンスを誇り、味は折り紙付きだ。その使い勝手の良さから、偶に運動部なんかがこぞってこの店に入ってきたりする事もあったりして、お洒落な雰囲気の店が一気に汗臭くなることもしばしば。

そう、店の雰囲気に比べて住民達に親しまれた、随分と地元密着型の店となっているのだ。

因みに、ロゼリオの名前の由来は深い意味などは全くなく、ロザリオの誤字であるとは経営者の談である。



そんなロゼリオに一つ溜息を吐いてから、僕は入り口のドアに手をかけ足を踏み入れた。

「いらっしゃい。っと、おやおや、初芝君。久しぶりだね」

「どもども、ご無沙汰です」

 ドアベルのちりんちりんという音に気付き、店内の人間が数人視線を寄越してくる。そして、その中の一人が出迎えの言葉を掛けてくれる。その人こそ、ロゼリオの店長であるマスターである。本名は知らない。

 柔和な笑顔の壮年の男性で、無駄にダンティズムを醸し出している。人柄の良さは折り紙付きだが、人が良すぎて人を疑う事を余り知らないのが欠点だ。

 まあ、マスターの人物評など今はどうでも良いか。

「ちょっと待ち合わせしてるんですが……って、アレだな多分、店が小さいからすぐ分かる」

「ははは、なんかごめんね……」

「あ、すいません、つい本音が」

「本音なんだ……」

 どうやら、いまだ頭が醒め切ってないらしい。つい口から出てしまった失言を、マスターに謝罪しながら、店の奥にあるテーブルに座っているスーツ姿の男の元に歩いていく事にした。


 スーツ姿の男。

彼は下を向いてテーブルとにらめっこしていたが、足音に気付いたのか視線を上げ僕を視認した瞬間に、勢いよく立ち上がった。

 電話の声からして、割と歳がいってるかと思ったが、意外に顔は若い。二十四、五歳程度だろうか。ただ、目元には疲労の影が濃く、何か心労を抱えているのが見て取れる。うーん、苦労人っぽいな。

「このたびは、本当に申し訳ありません!!」

 彼は突然にそんな事を言いながら、立ち上がる時と同等の勢いで頭を下げた。

「え、あ、いやいや。大丈夫ですよ大丈夫です」

 何について謝られているのか分からないのに、こんな風に頭を下げられても困惑するだけだ。

「本当にこの度は、本当に本当に大変申し訳ございませんでした!!」

「いや、えーと、ほんと、大丈夫ですから、ね? 大丈夫ですから」

頭を下げ続ける彼に、僕は大丈夫を連呼する。何が何やら分からないし、男性の行動に客の数人とマスターがいぶかし気にこちらを見遣っていて、なんだか恥ずかしい。

 そんなこんなで僕が大丈夫を連呼し、彼が落ち着きを取り戻し謝罪をやめ、事情を話してくれるようになるのに五分程度の時間を要した。


「姪、名前は美見というのですが、彼女は少しばかり情緒不安定な所がありまして」

 謝罪をし終わった男は、ぽつりぽつりと事情について話し始めてくれた。

 男の名前は、木柿きがき 又郎またろうというらしい。年齢は予想に近く、二十七歳らしい。大手商社勤務だそうだ。なるほど、疲労感の滲んだ顔をしてると思ったがきっと仕事が忙しいのだろう。

「みみ? 変わった名前ですね。どう書くんです?」

「美しいに見るで、美見です」

「へぇ、そりゃまた良い字面だ」

 にこやかに笑いながら、適当な軽口で木柿さんが漂わせる重苦しい空気を取り払おうとするが、全くもってこの低気圧は消えてくれない。

 うん、こういうシリアスな空気って苦手だ。そしてそういう空気を換気するのも苦手だ。

「あー、えーっと。それで、情緒不安定な美見さん? が、僕を刺したって事なんですか?」

「はい。恐らく、そうだと思います」

「うーん、なんでそう思われるんですか? そもそも何で僕が刺された事を知っているのかが疑問なのですが?」

 実は僕は刺された事について被害届も何も出していないのだ。もし出していたとしたら、身内である木柿さんの元に警察やらなんやらから、そういう情報が入っていくという事もあるかもしれないが、僕が届を出していないのだからこの可能性はまず無くなる。

 まあ、あれだけの目撃者がいて傷害事件なんだから、優秀なこの国の警察が動かない訳など無いのだが、残念ながらこの国の警察は優秀でも、この街の警察は優秀じゃない。

その事については今更深く考える様な事でもないけれど、きっと被害者が何も言ってこないのならこのまま有耶無耶にしようとでも思っているのだろう。プラス、神父がもみ消しの為に動いてくれたというのもあるだろうけど。

 そして、なんで僕自身が被害届を出さなかったかについては―――まあ、思う処が在ったからだ。

 とすれば、後の可能性は、僕の凡庸な発想力をもってしては、思いつく限り一つ位だ。


「それは、美見本人から聞いたからです……」


 木柿さんは苦渋の表情で、可能性の一つを事実だと告げてきた。

「彼女は、言っていました。『初芝那奈詐を刺してやった、偶然見つけたから刺し殺してやった。死んだか分からないけど、とにかく刺してやった』と。嬉しそうな顔で、そんな恐ろしい事を……。それで、急いで初芝様にご連絡をさせて頂いた次第でございます」

「はぁ、成程」

 としかいいようが無い。これ、なんて返答すれば良いんだ。

 多分僕は此処で激怒しても良いんだと思う。

お前の姪の所為で死にかけたんだ! ふざけるな! 裁判を起こしてやるから首を洗って待っとけ! みたいな事言ってもいいんじゃないかと思う。

 だが、どうにもそんな気にはなれない。

 というか、そういう事をするつもりなら、初めから警察に届け出る訳だし。

「一つ質問いいですか?」

「は、はい」

「あの、電話の時にも聞いたんですが、僕の電話番号、神父……本等さんに聞いたらしいですが、彼とはお知り合いで?」

 ここはちょっと引っかかっていた所だ、ついでだし質問をしておこう。

「あ、はい。その、本等さんは私の勤め先の取引相手でして。特に私は個人的に本等さんと親しくさせて頂いていたんですが、その中で初芝さんのお話をお酒の席で聞く事も多々ありまして」

 神父め、赤の他人に僕の話をしてんのか。色々問題だろうそれ。

「だから、姪の話で初芝さんのお名前が出てきた時は、本当に驚きました」

 そら驚くだろう。自分がビジネスで付き合ってる人間の身内を、自分の姪が刺したなんて、驚き過ぎて心臓が飛び出るというものだ。

 まあ、これで少しは疑問の答えが出た。

美見という女性が、僕を刺した犯人。

これはもう間違いが無い事の筈だ。だが、そうだな、なんというかその事実は正直僕にとっては―――。

いや、しかしその前にもう一つ確認しておかねばならない。

「あの、一つって言っておきながら申し訳ないんですが、追加で一つ質問を。美見さんの年齢は御幾つですか?」

「え。め、姪は、確か今は丁度受験で、中学三年だったかと思いますが」

「中三、ね」

 そうか。中学三年。年下。

 あの日自らの異常性に気付かせてくれた女性。彼女の顔と美見さんとやらが同一人物の可能性も考えたが、どうやら違うらしい。あの人は僕と同い年だった筈だから。

 なら、本当に心当たりがないな。何故僕は刺されたのだろうか。何処かで知らぬうちに恨みを買ったのだろうか。刺される程の、そんな恨みを他者に抱かれた。

 いやでも、それはおかしい。それは、本当に不自然なのだ。


 だって、僕は他人から深く恨まれる程、他人と真剣に向き合った事など一度たりとも無いのだから。





「それにしても木柿さんは凄く姪思いの方なんですね」

「え?」

 会話の合間に注文した紅茶で喉を潤しながら、僕は木柿さんに話しかける。木柿さんは出会ってからずっと蒼褪めていて、生気がなく気の毒になるので、どうにか気を散らせてあげたかった。僕の紅茶と一緒に注文した彼のコーヒーは、未だ手を付けられていない状態だし。

「姪っ子さんのしたことの謝罪に、こうやって僕と直接話してるわけですし。普通こういうのって直接の親御さんの役目かなって」

「す、すいません。確かに、身内とはいえ叔父の立場からというのは失礼でしたよね……」

「あ、いや、そういう意味じゃあないんですが」

 だめだ。どうにもこの木柿という人、話をすればするほど胃が痛くなるし、相手の胃も痛くしてるし。これは早々に話を切り上げた方がお互いの為にいいかもしれない。

「美見の両親は、亡くなっておりまして。代わりに私があの子の後見人というか、面倒を見る様にはしてるんです……」

 切り上げようと思った矢先に気になる話がまた出てくる。そうか、あの子も肉親が居ないのか。

「それは、大変でしょう。美見さんも多感な時期でしょうし。ご病気だったんですか?」

「……はい、彼女の父、僕の実兄なんですが。不幸な出来事で娘さんが死んでから、少し心を病んでしまって。そのまま義理の姉も……」

 娘が死んだ? 不幸な出来事で?

「差し支えなければ、その娘さんの不幸な出来事、というのを教えて頂いても?」

「……」

 僕の質問に木柿さんは沈鬱な面持ちで黙ってしまう。

 確かに気軽に話せるような事でもないだろうし、僕も気軽に聞くべきではなかった。だが、木柿さんは話さなければならない内容と思ったのか、小さく口を開き応えようとしてくれる。

「美見の姉……。羽咲はさきは―――」


 そこで軽快な着信音と振動音が鳴り響く。発信源は僕のポケットの中身だ。画面に映った番号は見慣れたモノだ。

「うげっ」

 思わず内心が漏れてしまい、変な声が出る。

 折角話してくれそうだった木柿さんに謝罪をし、断りを入れながら小走りで店外に出て携帯の着信を取る。どうしても早急に手に取る必要があった。

 それに、昨日は僕に何も言わずにさっさと消えてしまったのを、文句をいってもやりたかった。


「もしもし?」


定番の応答文句。

そして聞こえてきた言語。

若い女性の声音。

その声はつい最近聞いた覚えがあった。腹部に鋭い痛みが走る。


『美鶴心音を殺す。嫌ならお前が死ね』


聞こえてくる声には濃密な憎悪が含まれていた。

多大な怨嗟が密度を持って渦巻いていた。


『死ね。速やかにすぐに死ね。なんでお前はあの時死んでいないんだ。昨日死んでいないんだ。殺してやる。殺されるべきだ。お前は私に今すぐ裂き殺されるべきだ。何故生きている。死ね。死ね死ね。死んでしまえ』


 他人と深く関わらないで生きてきた。他者と必要以上に密接にはならない様にしていた。

 誰かと明確な喧嘩をしたことなんてない。誰かと情熱をもって云い合った事さえない。対立なんて縁遠い話だ。対決なんて夢物語だ。

 だから、正直な話衝撃的だった。

 他人に対して此処までの害意を向けられるなんて、初めての経験だったから。


『初芝那奈詐。お前は死ぬべきだ、消えて死ね。じゃないと美鶴心音を殺す。同じように味わえ。私が奪われた様に、お前も奪われろ。悔やんで死に消えろ初芝那奈詐』


手が震える。頭が冷えている様な、だけど肌はひりつくように熱い。汗は出ていないのに、異常に発熱しているように感じる。

 気持ち悪い。気色悪い。吐き気がする。この声を聞いてるだけで、頭がおかしくなりそうだ。


『今夜、お前の通う学校の屋上に来い。死体になって来い。死んで来い。死んで這いずって来い。でないと殺す。殺してやるからな。だから、死ね。私に殺されるのが嫌なら死ね』

「こ、心音は。その携帯は心音のだ。心音はどうしたんだ……!」

 喉の奥から漸く声が出る。

 こみあげてくる吐き気を強引にねじ伏せながら、掠れた声を何とか吐きだす。

『傍に居る。まだ生きている。だが、お前が死なないなら死ぬ。だから死ね。今夜死ね』

 それを最後に、通話は切れた。

 思考が纏まらない。何をどうすればいいのか。話が急展開過ぎて追いつけない。

「あの、初芝さん」

 呆然として居たら声を掛けられた。

 どうやら、木柿さんが店外に出てきた様だ。申し訳なさそうな顔で、沈鬱な表情で僕を見遣っている。

「すいません初芝さん。この後どうしても外せない打ち合わせが入ってしまいまして、本当に失礼だと思うのですが、また後日改めて謝罪をさせて頂きますので、今日の所は―――」

 木柿さんの言葉が素通りする。頭の中で咀嚼されずに流れていく。だから僕は彼の言葉をさえぎって言葉を発した。

「木柿さん、さっきの続きです」

 一つ確認しなければならなかった。先ほどの言葉の続きを聞かねばならなかった。

「お姉さんの死因はなんだったんですか?」

 失礼な聞き方だったろう。礼節を欠いていただろう。だけど、僕には余裕がなくなっていた。

 他人を気遣えるキャパシティはとっくに消えていた。

 だが、木柿さんは答えてくれた。暗い表情を更に重くして、それでも応えてくれた。

「……。そう、ですね。美見の姉である、羽咲の死因は」


 何も分からない状態で、けれど、繋がる感覚はあった。

 とても気色の悪い話が、出来上がっていく感覚があった。



「自殺です」



§


気付いた時には、店の中に戻っていた。

「初芝君? 顔色が大分悪いけど大丈夫?」

「ええ。大丈夫です。大丈夫ですよ」

 大丈夫なわけがない。

 なんなんだ。今の電話は、今の怨嗟は。今のは、一体。現実感なんてものは一切ない。人の憎悪の言葉を受け取ることなど、人生で殆ど無かった。

 あんなにもまっすぐに、歪んだ言葉を吐き散らかされたことなんぞ、そうはない。

 気持ちが悪い。気色が悪い。とんでもない吐き気が、自分を襲ってきていると感じる。頭が痛い、脳髄が軋んでいる。臓腑に何かおぞましいものが沈殿していく感覚。

 大丈夫なわけがない。

「すいません、マスター。お勘定を」

「え? ああ、勘定なら、さっき一緒にいた人が、君の分も払っていったよ」

 ああ、木柿さんが僕の分まで払ってくれたのか。

 彼は僕の質問に答えた後、再度の謝罪を約束して足早に去って行ってしまったが、奢らせてしまうとは。申し訳ないことをした。

「そうですか、それじゃ僕は失礼します」

「いや、ちょっと待ちなさい初芝君。君、本当に体調が悪そうだ。少し休んでいきなさい」

 人のいいマスターは、僕の様子にただならぬものでも感じ取ったのか、そんな事を言う。

「いえ、結構です」

 だが、その気遣いが今は煩わしい。

 そんなことしてる場合じゃない。そんな場合なんかじゃ、全くない。

 僕は今すぐに行動しなくてはならない。迅速に、今すぐ、解決のための行動をしなければ。

 だが、一体何をすれば解決になる?

 一介の、力のないただのガキが何をすればいい?

「だめだ。君の今の状態を放っておくことは出来ないよ。ほら、とりあえず座って、今何か飲み物を―――」

 ああ、煩わしい。鬱陶しい。気色が悪いっ!

「結構だと言ってるだろうが‼」

 思わず怒鳴る。カウンターテーブルを思いっきり拳で叩き付ける。

「そんな場合じゃねぇんだよ! 心音が大変な時に、呑気にしてられるか、たかが他人が余計な世話を―――っ。あ……」

 そしてそこで気づく。

 僕は一体何を怒鳴ってるんだ。

「す、いません。マスター」

 落ち着いた雰囲気の店内で大声を出す僕。

 当然、店の中にいる数人程度の客が、唐突に怒鳴りだした僕を訝しげに見ているのを感じる。

 マスターはそんな客たちに手を振って大丈夫だとでも謂うようにジェスチャーをし、僕の前にティーカップを置く。中には琥珀色の液体が入っており、色合い的にも恐らく紅茶だろう。

「初芝君。とりあえず座って、これでも飲みなさい」

 失礼な態度をとった僕に動じず怒らず、微笑みながら促してくれる。

「……はい」

 こんなことをしている場合じゃないという焦りは未だにあるが、多少冷静になった僕は言葉通り椅子に腰かけ、紅茶に口をつける。

 なんだかとても、飲みなれたような、落ち着きを取り戻させてくれるような味をしていた。

「……おいしいです。何の紅茶ですか?」

「午後とかに飲むティーなやつだよ。コンビニとかにペットボトルで売ってるやつをカップに移し替えただけ」

「……」

 こんな場面でしょうもないギャグを挟む彼を、無言で睨む。

 だが、マスターは僕の睨みを悪戯っ子の様な、年齢不相応な笑みを浮かべて受け流した。

「どう? ちょっとは落ち着いたかな?」

「……ええ。落ち着きました。少し、冷静になれました。ありがとうございます」

「それはよかった。じゃあ、事情を話してごらん。力になれるかは分からないけど、頭を整理する道具にはなれると思うよ」

 今度は年相応、外見相応な渋みのある笑みを浮かべてマスターはいう。

 僕は、彼のその優しさに感謝しながら、事情を話してみることにした。


                           §


「正直さっぱり意味が分からない話だね。初芝君が昔手酷く振った相手が逆恨みして、君を刺し殺そうとしたり、君と仲のいい女の子である心音ちゃんを誘拐して殺し損ねた君を再度殺そうとしたり。しかも、その犯人は君が振った相手と年齢が合わないわけだ」

「手酷く振った覚えはないですが……。まあそうです。僕に告白してきた子は、同年代だったと思いますし」

 正直、僕の中ではお話の内実は大体理解し始めていた。

 単純に、僕を刺した女の子と、僕に告白してきた女の子は別人というだけの話。

 そして、刺してきた女の子には自殺した姉がいた。

 その姉が、僕と同年代だというのならば、話はつながる。気色の悪いお話しの線は繋がってくれる。

「失恋のショックで自殺した姉の復讐のために、妹が仇討ちって流れじゃないかなと」

「今時の子って、失恋したら自殺するの?」

「心が弱い人なら、もしかしたら」

 心が弱い。

 振った僕がそれを言うのか。

 だが、正直な話。この仮定が真実だとしたら、とんでもなく迷惑な話だ。

 悪いけれど、僕からしたら告白してきた羽咲という女性に、全く持って思い入れなどない。

 たとえ僕の言葉のせいで死のうがなんだろうが、それはその人自身の問題だ。

 僕が直接暴力を振るったり、傷つけたりしたのならともかく、愛の告白を拒絶したからと言って自殺されても困るし。心の問題の責任をこちらに投げかけてくるのは筋違いにも程がある。

 そこまで弱い人間だというのならば、そもそも否定されそうな行動など起こすべきではない。

 当然多少の罪悪感はある。だが、それでも、こちらに危害を加えようとするのならば話は別だ。

 彼女の妹である、美見からしたら、大切な姉が死んだ原因を僕だと思う彼女からしたら、そうはいかないのだろうが。

「警察に届出たほうがいいんじゃないかな。個人がどうこうできるレベルじゃないし、そもそも、その妹さんは犯罪者の域に達しているよ?」

「それはそうですが。残念ながらこの地域の警察に期待はできませんし、養父の問題もありますから」

「……確かに。本等さんからしたら、公権力と関わり合いになるのは不味いだろうね」

 神父とも親交があるマスターは、納得したように唸る。

 まず第一に、この国の警察は優秀だ。

 問題点は大小あれど、少なくとも大局的な視線で見れば、この国の警察機構は優秀だといえる。

 だが、この地域の警察は腐敗している。

 犯罪率は高くはないのだが、その理由は犯罪を隠蔽しているからだ

 起きた事を、なかったことにする。そうすれば、外側から見れば問題など見破ることは出来ない

 だからこそ、神父の働きかけがあったとはいえ、僕が望んだことで美見の刺殺未遂犯罪はなかったことになった。本来であればそんな無茶は通る道理などないが、この街ではそれが通る。

 そして、そもそも神父のような存在の話。

 端的に言ってしまえば、本等九例という人間は、法から外れた人物だ。

 詳しくは知らない。知ろうとも思っていない。

 彼のことを尊敬しているし、感謝しているし、大切に思っている。

 善人だと思うし、実際善良だと周りからも思われている。

 だが、彼は正義というもの、正しさというものから真反対に位置した男性だ。

 そして、彼に養われている僕は、曲がりなりにも正義を掲げた警察の頼りになろうとは、思えない。思ってはいけないと、そう思う。

「熱意のある警官の存在も知っています。実際友人の父親が警察の仕事をしていますが、立派な人です。全員が全員腐ってるわけではない。けれど、やはり頼ることは出来ない」

「だろうね。正直私もあまり関わり合いにはなりたくないし」

 苦笑いしながら、マスターは言う。

 どういう理由で彼までそんなことを言うのか、掘り下げるのはやめておいた。

「でも、それならどう対処する?」

 そう、どうすればいい?

 僕一人、のこのこと呼び出しに応じ、それで言われたとおりに死ぬ。それで問題がすべて解決するならいいが、心音が必ず助かる保証はない。

 それに、正直僕だって死にたくはない。

 自分の何もかもを犠牲にして、大切な人を助ける。

 そういうヒーロー性は、僕には無い。一介の学生だからとか、現実的ではないからとか、そういう言い訳を抜きにしてただ一つ。

 僕は死ぬのが怖い。

 それだけだ。なんなら、誰もかれもを犠牲にして、自分一人が助かるように動いてしまう。そういう人間が僕だといえる。

 だが、そんな僕でも、心音は助けたい。当たり前だ、彼女の人生のすべてに僕は責任を取らねばならない。それこそ、自分の事のように彼女を思わなければならない。

 それが、僕が彼女にした行為の、彼女にしてしまった行動の当然の対価なのだから。

 だから、やっぱり。

「僕が一人で行きます。それしかない」

「本等君に頼るのは?」

「無理です。こういう事で彼を頼るのは一番だめです」

 きっと、彼なら簡単に解決してくれる。

 方法はどうあれ、望みはすべて完璧にかなえてくれる。それができる力が彼にはある。だが、それはダメだ。

 僕は本等九例を養父として尊敬している。

 だが、彼に自分から頼ることは、色んなものを諦めて捨てる事と同義だ。彼の力に縋った時、僕はもう心音と一緒にいることは出来ない。

「初芝君。申し訳ないけどはっきり言わせてもらえば、それは考えなしの愚行だと思うよ」

「それでもです。愚行というのなら、心音と出会ったその日から、僕は愚かしい人間です。今更ですよ」

 「死ぬことになるかもしれないんだよ? 日常と死が縁遠いものだと、非現実的だと思ってるのかもしれないけど。人は朝起きてから外に出かけて、夕飯の買い物をした帰宅道で簡単に死に襲われる事だってある。忘れがちだけど、死は生活の一部分なんだから。まして、君が会おうとしている人は、死臭が強いようだし」

「真に理解はしてないのかもしれませんけど、分かってますよ。ありがとうございます」

 人間は転んで倒れて打ちどころが悪ければそれで死ぬ。

 特別な何かが無くたって、簡単に人は死ぬ。

 確かに実感はないが、頭ではわかっている。僕のしようとしていることは、本当に危険なことだと。けれど、もう決めた事だ。

 マスターは納得はしていないのだろうけど、一つため息をついて言葉を返す。

「……そっか。じゃあ、もう何も言えないかな。私は精々しがない喫茶店の店長だからね。けれど、逃げ道にはなれる。怖くなったら途中で引き返してきておいで、それは全く恥ずべきことではないんだからね?」

「ええ。大丈夫です。自分が正義の味方になったつもりはないですから、怖くなったら何もかも捨てて飛んで逃げかえってきます」

 僕の軽口に、彼は陽気に笑いを返してくれる。

 心音を置いて逃げることなんて当然できるはずもない。けれど、きっと彼はそれでも僕に逃げ道をくれようとしたのだ。

 僕はマスターのそんな気遣いに感謝して、今度こそ店から出ようとした。

「訂正。少年、あなたは正義じゃないかもしれない。けれど、正義の味方(・・)にはなれると思う」

 無機質で無感情な声質だった。けれど、何故かそこに優しさみたいなものを感じ取れるそんな声。

 唐突に喋りかけてきた声の方に、僕は目を向ける。

 そこには人形がいた。 

「だから、そんなあなたに私が力を貸す」

 いや、人形に見違えるほどの美人がそこにいた。

 すらりとした肢体を黒を基調とした、まるで喪に服しているのかのような漆黒のドレスに包む人形。

 無表情。いや、無という表情すら漂白されているかのような感情の揺れが一切現れていない、しかし息をのむほどの美しさを持った顔。

 陶磁器のような透き通った白い肌に、深く吸い込まれそうな色合いの翠色の髪。

 そして、髪と同じ翡翠色をした氷のような瞳。

 

 同じ世界に生きているのか一瞬疑ってしまうような、そんな存在がいつの間にか隣の席に座っていた。

 いつからそこに? とか、あなたはだれですか? とか、今の話を聞いていたんですか? とか。色々聞きたいことはあったけど、そのあまりの存在感に喉から言語が絞り出せない。

 だが、なんだろう。この感情は。なんなんだろう、この思いは。なぜ僕はこの人に、懐かしさを感じているのだろう?

 記憶にないはずなのに、感情の奥底が彼女と再会できた(・・・・・)と喜んでいる様な、そんな気がするのはなぜなんだろう?

「懐古。那奈詐、貴方は相変わらず、賢そうな良い目をしてる」

 無表情な彼女は僕の感情を肯定するように言いながら、感情を出さない表情で優しく笑ったような、そんな気がした。



§




「……」

「……」

「……」

「……」

 気まずい。とんでもなく気まずい。

 色々相談に乗ってもらったマスターに礼を述べて、『BAR ロゼリオ』を出てからというもの。彼女はずっと僕の後ろをついてきていた。

 そう、彼女。見知らぬ彼女。表情が漂白された人形の様な、もはや人形の方が表情があるかと思えてしまうほどに、何の感情も読み取れない彼女。

 無言で彼女は僕の後ろをついてきていた。唐突に会話に割って入り、不自然に場に溶け込んだ彼女。マスターとは古い知己の様だったが、僕からしたらもはや恐怖に近い思いを抱いてしまう。

 なにせ、出会ったことも、名乗ったこともないのに、何故か彼女は僕の名前を知っていて、いやに親しげだったのだから。

 気まずいし、怖いし、謎が多い。

 未だ僕が逃げ出さずに、彼女のストーカーじみた同伴を受け入れていたのは、マスターの『この人は信用できるから、大丈夫。必ず力になってくれる』という一言があったからだ。

 信用できる人が信用している人。ならば、きっと信用できる筈……なのだけれども。

「あ、の」

「……」

「あのー、すいません」

「……」

「あー、えー、あのーその。えーっと」

「……」

 気まずい。

 先ほどから何度か会話をしてみようと試みているが、僕の言葉に何の反応も示さない。

 さりとて無視しているというわけでもなく、僕が彼女の方を向いて声をかけると、じっと僕に目線を合わせてくる。

 これがまた怖い。

 なにせとんでもない美人だ。その美人が無言で見据えてくるのだから、恐怖でしかない。

 だが聞かねば。これから僕は非常な危険な場所に向かわねばならないのだから、見知らぬ彼女に気を取られている場合ではない。

 だから、まずどうしても気になることだけ聞いておく。

「その、あなたはなんで僕の名前を知っていたんですか?」

「……」

「あの、僕の声聞こえてます?」

 怖気走るほど反応がない。え、もしかして外人さんとかで、僕の言葉分からないとかかな……。そうだよな、その可能性もあるよな。見た目は正直この国の人って感じがしないし。

「肯定。聞こえている」

 と思ったら、やけに固い言葉で、綺麗な声質で返事が返ってきた。イントネーションも綺麗だから、外国の人かもしれないがこの国で生活するのが長いのだろう。って、聞こえてたのかよ。

「その、じゃあなんで僕の事知ってたのか教えてもらえますか?」

「……」

 また無言。えー、なんなのこの人。もしかして、とんでもなくディスコミュニケーションな人なの? 会話がままならない。助けて。誰か助けて。

「那奈詐、貴方は美鶴心音を救いたい?」

「は?」

 唐突に、だが明確に。彼女は僕に質問してくる。正直本当にこの人に対して恐怖心が煮立ってきたけど、けれど僕は回答する。

「もちろん。救うなんて烏滸がましい言い方しませんが、なんとかしてやりたいとは常に思ってますよ」

「なぜ?」

 なぜ? なぜか?

 僕は心音を助けたい、その理由? そんなの簡単だ。

「責任があるからですよ。彼女の人生に、僕は責任(・・)を(・)持たなければ(・・・・・・)いけないん(・・・・・)です(・・)」

「……そう」

 まただ。無表情なのに、けれど何故かこの人が笑ったと、そう感じた。

「提案。なら、私が貴方を助ける。貴方が責任を遂げる、その手助けをする」

「……ごめんなさい、それこそ、なんで貴方が僕の為にそんなことする必要が?」

「……」

 また無言、かと思ったが。彼女は目を細めて、無表情のままに笑む様に、綺麗な声で言った。

「私も、貴方に対して責任があるから」




§



 日が暮れて、辺りが外灯の明かりが無ければ暗闇に包まれる時間帯。僕は自分の通っている学校の階段を上っていた。因みに既に後ろを無表情な美女は歩いていない。手助けするといった彼女は、僕に『約束。何かあったらすべてを信じて全て投げ出しなさい』と言ってどこかに行ってしまった。

 何を言っているのか最後まで分からなかったが、元々一人で何とかしようとしてたのだから関係ない。

 それにしても、普段明るい時間にしかいない学び舎は、夜に来ると一種の別世界だ。

 とっくのとうに部活動生は帰宅しており、教職員も既に出払っている。当学校は極めてセキュリティの甘い、危機管理能力の欠如した学校なので、深夜の警備システムは導入していないわ、宿直等も居ないわ、正門に鍵すら掛かっていない。

 幸いなことに未だこれで問題が起きていないのだから、平和なもんである。

 治安の悪いこの地域でこの暴挙は誠に教育機関の日和見さに天晴と皮肉を上乗せ手拍手を送りたくなるが、今回ばかりはその日和見に感謝しよう。

 おかげで、僕は問題なくこうして校内の階段をにっちらおっちら上がっていけるのだから。

 そして、目当ての場所。電話口の相手。僕が振った羽咲という少女の妹。美見が呼び出してきた、学校の屋上。そこに続く扉を僕は開いた。


「初芝-。おそーい。とんでもなく遅い。ビックリするくらい遅い。美見ちゃんが夜に来いって言ったから、本当に夜に来るなんて信じられないくらい遅い。なんなの? 初芝は言われた事しかできない三流なの? ふつう夜に来いって言われたら、言われたその瞬間にその場に駆けつけるべきだよね。なんで来なかったの? 何時間掛かってるの? 馬鹿なの? 馬鹿だったね。ごめん知ってた」

「……心音」

 心音は居た。生きてた。

 いつものように不遜な態度で、いつものように長ったらしく毒を吐きながら。美鶴心音は僕に向かって不満げに、けれどにへらっと笑いかけてきた。てか、美見ちゃんって……自分を誘拐した人間にずいぶん気やすいな。だがまあいいや、僕も倣って美見ちゃんと呼ぼう。

 屋上の手すりに寄りかかりながら、五体満足健康無事に。外傷もなさそうだし、縛られてすらいない。その姿に、正直とても安堵する。

「ごめん、ヒーローは遅れてくるっていうけど、遅れすぎたや」

「初芝がヒーローだったら、ヒーローショー好きの幼児達はがっかりだから、そのたとえは止めた方がいいよ」

 ちょっといつも通りすぎですね。軽く回れ右して帰りたくなってくるレベルの罵詈ですよこれ。

 と、僕と心音の間に、ずるりと人が入り込む。

 普通の形の少女。ただ、その表情に刻まれた感情だけは異常。

 憎悪。憎悪。唯々、憎悪。

 僕に対する真っすぐに、歪み切った憎しみを向けてくる少女。彼女は開口一番、発する。

「死ね」

「死ねよ」

「なんで死んでいないんだお前」

「死んでおけよ貴様」

「死んでから来いと言っただろ」

「なんで死んでないんだ」

「死ね。死ねよ」

「死ね死ね死ね死ね。死んで詫びて死んで詫びて、そして詫びて死ね」

 気持ち悪い。気色が悪い。吐き気がする。普通の彼女が、異常に紡ぐ言葉は、唯々不快感だけを与えてくる。

「いや、死んだらここに来れないでしょ」

「黙れ死ね」

 軽いツッコミにも取りつくシマなし。

「あのさ、美見ちゃん。君が僕に怒ってる理由、大体聞いたし分かったよ」

「あ゛?」

 うわ、怖い。あ゛? なんて声で怒りぶつけてくる女の子初めて見た。

「君の叔父さん、木柿又郎さんって人に聞いたのから推測した。あれでしょ、端的に纏めるなら、君のお姉さんの告白を僕が断っちゃって、それを苦にしたお姉さんが自殺して、家族もそれを見て後を追うように亡くなっちゃって。それ全部僕の所為にして、僕を憎悪して、それで終えようってんでしょ?」

 僕の言葉に美見ちゃんの表情の憎悪は薄くなっていく。ああ、薄くなっていっている。

 人間あんまりに憎しみを募らせすぎると、却って表情は無に近くなるらしい。

「んでも、それって正直僕からしたらいい迷惑なんだよね。だって関係ないじゃん僕。何? 告白されて振ったらダメなわけ? 嫌々でも付き合えって? そらナンセンスでしょ。てか、振られて死んだのはお姉さんの勝手じゃないのよさ。家族崩壊の原因はお姉さんなんだから、お姉さんを恨んでよね。だからその憎しみはお門違いなの、反省してね。じゃ、僕は心音連れて帰るから。バイバイ」

 軽薄に笑いながら、相手を全く省みない。暴言を僕は口から吐き出し、心音の下に歩く。

 でも、でも正直暴言だけど偽らざる本音だ。実際迷惑だ。お門違いだ。こんな事してくる相手には反省してほしい。だから、僕は心音と帰る。

「あーーーーーーーーーーーーーーー、あああああーぁーーーぁぁぁーーーぁああーーーーーああーあーあーあーあーあーーーーーーーーーーーーーーーー」

 と、美見ちゃんは僕の本音を聞いて、痴呆にでもなったのかというように、無意味な声を口から垂れ流している。そして、静かに静かに。一言発した。

「死ね」

「馬鹿の一つ覚えかよ。語彙力無いね? 言語教育の失敗例かな?」 

 臨界点。 

 美見ちゃんは僕の過度な挑発に憎しみの限界を超えたのか、足に渾身の力を込めて飛びかかる。手には僕を刺した銀色のナイフ。そして、もちろんそれは僕に向かって―――、

「っ⁉」

 ―――ではなかった。

 

 誤算だった。異常な事態に思慮が盛大に欠けていた。

 よく言われてきた。親しい彼に、親しい彼女によく言われてきたのに。

 『君は』『初芝は』

 『他人の』『他者の』

 『心が』『気持ちが』

 『わかっていない』


 挑発したら、にくい相手に挑発されたら。そしたらその人間は僕に向かってくると、そう思ってた。だから煽った、だからこちらに喰ってかかってほしいと。

 そうすれば彼女は隙を見て逃げると、そう思ったから。そうすれば後はどうとでもなるし、どうともならなくてもいいと思ったから。

 だが彼女が向かったのは。

「くそぉ、ちくしょぉ死ねよ、死ねよ初芝那奈詐ァ‼」

「―――」

 心音の方にだった。


 ナイフが心音の、手のひらに深々と突き刺さっている。

 美見ちゃんは叫びながら、僕への憎悪を叫びながら、心音の手のひらに強くナイフを抉り込んでいる。

 意味が、分からない。

 なんでそっちに行く? なんでだ?

 僕がお前を傷つけたんだろ? 初めから意味が分からないんだ。なんでそもそも心音を巻き込むんだ美見ちゃん。

 これは僕と君のお姉さんと君の話だ。一片たりとも心音が絡む要素がないじゃないか。

 やめてくれよ、関係ないだろ。君の大切な人を傷つけたのは僕なんだから僕に向かってくるべきじゃないか。

 なんで、僕の大切な人に君はナイフを突き立ててるんだ?


「あ、そっか」


 そっか。

 大切な人だからか。

 僕が大切な人を奪ったから。

 君は僕の大切な人を―――。


「うわぁ、すっげぇなこれ。そっか、そりゃすっごい」


 すっごい、気色悪いなそれ。



「っぁ……。美見、ち、ゃん、満足し、た?」

「あぁ、ぁ?」

 と、ナイフを手に抉り込まれて、心音は小さく呟く。

 単純な疑問を投げ込むように、心音は美見ちゃんに話しかける。

「どう、する? 手なんか刺しただけじゃ、痛いだけで、中々死なないけど。次は首にでも刺す?」

「ゅぁ、づっぁぁああ」

「別にいいよ。別に。気が済むまでやっていいよ。けど、多分私美見ちゃんの希望通りにはならないと思うな。だって、美見ちゃん自分の大切な人を傷つけた初芝を傷つけたいんだよね? だから、初芝の大切な人だと思った私を傷つけようとしてるんだよね? でも、それたぶん無駄だよ?」

 心音は淡々と。伽藍の瞳で美見ちゃんを見据えている。何も映さな瞳で、ただ見ている。

 深々と刺さるナイフなんて気にも留めず、冷静に言葉を紡ぐ。表情は痛みを訴えず、ただ受け入れる。

 ああ、心音本当に。君はなんて。


「だって、初芝は私の事、心の底から嫌いだもの」


 心音は笑いながら、にへらと笑いながら。いつものように言う。

「あの人ね、ほんっと私の事嫌いなんだよね。出会った時から私の事心底から嫌いなんだよ。基本他人のことが嫌いなんだけど、特に私の事嫌いみたい。分かるよ、だってね私、初芝の事ならよくわかるの。だってさ、私」


 笑いながら笑いながら、きっと僕以外の人間が見たら、彼女に対してこんな風に思わないはずなのに。彼女にこんな風に笑いかけられたらこんな感情は抱かないのに。


「私、初芝の事大好きだからさ」


 その笑顔は、きっととんでもなく綺麗で美しいものなのだろうに。

 僕にはその言葉と笑顔が、とんでもなく気色が悪い。



§



 初芝に初めてあった時の話なんだけどね。


 私は誰にも愛されない子供だったんだ。母親と父親は、多分育児放棄、ネグレクト。まあそんな感じの人たちだった。

 死なないギリギリの、必要最低限で必要最小限の養育はされたけど、それ以上は決してなかった。まあ、生きられるレベルの放棄だったから、そこまで不満はなかった。

 でも、私がものを考えて、行動して、自分の感情ってのがある程度持てるようになったころから、暴力も始まった。

 お世辞にも愛想の良い子供ではなかった上に、他人の感情を逆なでする様な言葉も平気で言ってしまう自分は、多分脳とか精神とか、そういうものが病んでいる人だったんだと思う。

 だから、両親にも平気でいやな言葉を投げかけていたんだろうし、それが勘に触って殴られたりしたんだろう。


 あの日もそうだった。人を殺しただか犯しただかした父親と面会した帰り道。何か心無いことを母親に言って、母親は私を路上で殴りつけた。

 何度も殴られて、汚い地面に倒れ伏して。それでもなんだか痛いなという感情以外抱けないで、視線を母親から外した時に。目に少年が映った。

 彼は私を心底侮蔑する様な、いや、侮蔑というより、軽蔑というより、気持ち悪いものを見る目で。今まで両親にすらされた事のなかった嫌悪の表情で私を見ていた。

 そして次の瞬間、彼は私を殴りつけていた母親の側頭部を、全力をもって蹴り飛ばしていた。


 私と少年は、そういう出会い方だった。



§



「わから、ない。分からない分からない分からない、です」

 美見ちゃんは、私に向かって震えた声で言う。もうナイフを握っていた手を放して、怯えるように後退しながら、私に叫ぶ。

「なんで、あの男に思いを否定されていると理解して。それでもあの男を好きだなんて、言えるんですか? なぜ?」

「好きなものは好きなんだから、仕方ないよ。私だってあんな馬鹿好きになんてなりたくなかったけど、どうしようもなく好きだから仕方ないよ。初芝が私をどう思ってようが、そんなの関係ないから」

 笑って言ってあげる。美見ちゃんは、多分可哀想な子だから。私が教えてあげなければいけないから。笑って言ってあげる。

「ね、美見ちゃん。お姉さんの自殺って、本当は別の理由だったんじゃない? あそこの馬鹿は自分が振ったからお姉さんが自殺したなんて妄想話を勝手に作って勝手に信じてるみたいだけど、それ違うと思う。多分、貴方のお姉さんはそこまで弱い人じゃないと、そう思うんだよね」

「……」

 そうだ、もっと違う理由がそこにはあると思うんだ。

 人は、人間は、たった一つの傷で潰れるような、そんなに簡単な造りではないから。

「……おねえ、ちゃんは。絶望したん、だ」

「絶望?」

「初芝那奈詐が、お姉ちゃんを振った日。帰ってきたお姉ちゃん、泣いてた。すごく泣いてた。言ってた、『初芝君に、あんなにも気持ち悪いものを見る目で見られて、拒絶されるなんて』って。言ってた」

 初芝は本当にダメな人だ。

 ちらりと視線をそのダメ人間に向けると、言いようのない顔でこちらの話を黙って聞いていた。

 うん出てるよ出てる。現在進行形で気持ち悪いものを見る目でこっち見てる。だからそれがダメなんだってば。

 とりあえずあちらは無視して、私は美見ちゃんに話の続きを促す。そういえば手に刺されたナイフはどうしようか。抜いたほうがいいのかな、いや、抜いたら失血多量で倒れちゃうかな? 正解が分からないや。

「だから、私は、振られたお姉ちゃんを元気づけたくて……。そんな他人に拒まれても、もっとあなたを思う人はいるって。私、ずっと思ってた事を、ずっと小さいころから思ってたことを言った」

 懺悔するように、俯きながら。美見ちゃんは言う。


「姉妹としてじゃなく、一人の女性として愛してる。って」


「は?」

 思わずといった形で、初芝に口から漏れ出た声を私は睨みつけて黙らせる。

 少し静かにしてて。

「そっか。美見ちゃん、お姉ちゃんの事、一人の女の子として好きだったんだねー」

 こくりと頷きながら、美見ちゃんは私の方を見てくる。既に凶暴性は形を潜めて、ただの普通の少女に戻っていた。まあ、正直初めから人を殺せるような人間でないことは分かっていた。

 だってこの子、私を攫った時も脅しも何もしてきてないのだから。

 初芝が刺されたあの日の帰り道。彼女はただ、協力してほしいと。初芝に恨みがあるから、あれくらいじゃ死んでないだろうから、もっと苦しませたいから協力してほしいと頭を下げてお願いしてきたのだから。

 そして私はそれを受け入れた。だって、どうせ初芝が悪いと思ったから。そして、普通のこの子は初芝を傷つけることはできても、きっと殺すことはできないとわかっていたから。

 幾ら他人を憎んでいても、この子は殺人は出来ない。普通の子だからだ。

 私は人を殺せる人間の表情を知っている。自分の父親の表情を、よく覚えている。だから狂言誘拐に協力した。

「けれど、振られた。ううん、振られることは分かってた。けど、お姉ちゃんは私の事を、私のその告白を、お姉ちゃんは……」

 ひどくひどく、気持ち(・・・)悪い(・・)もの(・・)を(・)見る(・・)()で、私の事を見てきた。

「そっか……」

 そしてお姉さんは、妹の反応で自身がどういう表情でいるのか気づいたのだろう。

 己を酷く傷つけた、初芝と同じ表情を、今、妹にしていると。

 そこで理解してしまったんだ。他人に愛することを手酷く拒絶されて、だが自分も同じく他人に、たった一人の妹に愛される事を拒絶してしまう人間だと。

 それは、確かに絶望だ。

 きっと傷ついていた時だからこそ、絶望だった。正常な時だったならば、もっと違う反応ができた筈だ。同性の、しかも近親からそんなことを言われれば、嫌悪を抱いてしまう事も仕方ないのだから、絶望することはなかったはずだ。

 でも、傷というのは何度も同じ場所に深くつけられたら、致命傷になる。

「お姉ちゃんはそれから数日部屋に籠って、その後ベランダから飛び降りて死んだ。遺書も何もなかった、何も残ってなかった。少し前まで幸せだった家族が突然前触れもなく壊れて、お父さんはおかしくなって車に轢かれて死んだ。それを見たお母さんも、おかしくなって路地裏に半裸でうろついてレイプされて、やっぱり車に轢かれて死んだ。二人とも、自殺みたいなもんだった」

 きっとそこに至るまでにもっと重い事情があったろうに、美見ちゃんは淡々と語る。擦り切れた彼女は、語り続ける。

「だから、全部全部初芝那奈詐の所為だ。あいつが居なければ、何も壊れなかった。あいつが居なければ、こうはならなかった。まだ、普通で幸せで正常で幸福な、家族のまま在れた」

 言いながら、彼女は淀んだ瞳を相も変わらず嫌悪丸出しの表情な初芝に向ける。

「だから死ね。死んでください初芝那奈詐。私が奪われた様に、大切なものを奪われて。死んで這って死んでください。頼みますから……。自殺したお姉ちゃん、命を奪われたお姉ちゃん。なら、()を(・)奪った(・・・)やつ(・・)は(・)同じ(・・)よう(・・)に(・)()を(・)奪われる(・・・・)べき(・・)だろ(・・)? それしか、等価ではないはずだ!」

 命は命でしか償えない。人を殺したなら、殺し返さなければ帳尻は合わない。命は戻ってこないかけがえのないものだから、同じ命で清算するしか割に合わない。

 正しい。間違ってない。けれど、それは本当にその人間が命を奪っていればの話。

「ねえ、美見ちゃん。それっておかしくないかな。その考えだと初芝への憎悪は、おかしいんじゃないかな?」

「……?」

 可哀そうな美見ちゃん。普通の女の子で、姉に焦がれて、間違いをおかした。普通の普通の、普通に間違えた、普通に見落とした、普通に頭のおかしい女の子。

「だってさ、お姉さんは初芝に嫌悪の表情で振られて傷ついて泣いたんだよね。それで、そのあとに自分も同じように、美見ちゃんの告白に嫌悪の表情で相対したことで、自分も初芝と同じ、他人を愛せない人間だと自覚して。いや、誤解して死んだんだと思う。普通は女性を、妹を愛するなんて難しいことだから、他人を愛せない人間だと思うなんてほんと誤解だと思うけど」

 だから、私が教えてあげる。可哀そうな貴方に、教えてあげる。

 お姉さんが死んだ理由。その理由。その一押し。いや、死に突き飛ばした存在の話。

「ねぇ、だからさ。お姉さん、初芝に振られただけだったら、そのあと立ち直れたよね? そういう頭のおかしいやつもいるんだって、初芝は女性に告白されて尋常がない位の不快感を出す頭のおかしいやつだったんだって。自分が見る目がなかったんだって。それだけで終わったよね? でも、結局不幸にも自分が初芝の同類だと誤解したから絶望したんだよね? ならさ、ならだよ? それを誤解してしまったのは誰の所為?」

 簡単なことなのに。美見ちゃんは呆けた顔で、私の事を見ている。何を言われてるのか理解できないという顔で、可哀そうな彼女はこちらを見ている。

 ねえ、美見ちゃん。あのね。全部全部何もかもぜーんぶぜんぶ。

「ぜーんぶ、貴方がお姉さんに告白したことが原因じゃない?」

「あ……」

 呆けた顔から、表情が消えていく。

 間抜けに口を開けて、薄く深く呼吸をするだけ。

 だが、間抜けで可哀そうで思慮が足りない彼女は、それでも漸く理解する。

「そっか、私の所為なんだ」

 そして小さく呟き、屋上の転倒防止手すりに近づいていく。

「なぁんだ、じゃあ初芝那奈詐じゃなくて、私が死ねばよかったんだ」

 そう言って、美見ちゃんは困ったように笑った。



§



 目の前で行われていたことを巧く呑み込めていなかった。

 心音と美見ちゃんの会話は聞こえていたし、理解もしていたけど。けれど、全く嚥下できない。

 心音の真っすぐな愛の告白に対しての異常なまでの自分の嫌悪感。

 美見ちゃんの真っすぐに歪んだ思いに対しての異常なまでの自分の嫌悪感。

 そればかりが先立ってしまい、思いを支配してしまい体が動かなかった。

 そして、理解する。いや、自分の本心に向き合ってしまう。

 心音は気色が悪い、美見ちゃんは気色が悪い。神父も気色が悪いし、マスターも気色が悪い。名も知らない美女も気色が悪いし、萩原も仲野も汀も誰もかれも気色が悪い。

 普段は隠せていても、必死に覆い隠していても。僕はダメなんだ。

 僕は人を愛すことができない人間である?

 違う違う違うっ!

 僕は人に愛されることが、受け入れられない人間なんだ。

 愛じゃなくても、好意であろうとも。誰かに親しみを覚え感謝する念すら、持つことが真実出来ない。

 欠陥品だ。欠落品だ。気持ちの悪い、人のまがい物だ。

 本当に気持ちが悪くて気色が悪いのは、僕だ。僕だけだ。


「美見ちゃん、死んじゃうの?」

「うん。死ぬ。心音さんナイフで刺してごめんなさい。死にます。それも含めてお詫びに死にます」

「さっきも言ったけど、別にいいのに。私あんまり自分がどうなろうと興味ないし。じゃ、ま、あっちの世界でも元気でね」

 美見ちゃんと心音の会話が聞こえる。

 心音が美見ちゃんの心をへし折った。真実を教えることで、折ってしまった。

 もう、彼女は抜け殻みたいだ。ゆらゆらふらふら、死に近づいている。

「初芝さんも、すいませんでした。多分私貴方に八つ当たりしたかっただけだったんだと思います。当たり散らしたかっただけなんだと思います。子供の癇癪でした。ごめんなさい、お詫びに死にます」

 ほんの数分前までの憎悪も見る影なく、苦笑しながら己を恥じるように、彼女は言う。

 なんだこれ。

 なんなんだこれは。異常だ。こんなのは、おかしい。いや、僕がおかしいのだろうか? おおかしい僕だから、おかしいと思ってしまうだけなのだろうか?

 だが、それでも、これは間違っているんじゃないか?

 確かに、最後の一押しをしたのは美見ちゃんかもしれない。きっかけを作ったのは僕かもしれない。けれど、死を選んだのは羽咲さん本人だ。結局すべて憶測だ妄想だ、彼女自身が何を思って死んだのかは彼女だけが知っていて決めた事だ。それを、他人が勝手に塗り替えていいのか?

『お前が言うのか? それを?』

 自殺の一助になったかもしれない、お前の異常性が他人を不幸に仕切ったかもしれないのに。

『お前が言うのか?』

 僕が言うのか? 


 ひとのきもちをふみにじる、ひとのきもちがわからない、おまえがいうのか?


「それじゃ、皆さん諸々ごめんなさい。さようなら」

 美見ちゃんは手摺に両手を添えて、力を込めて器用に外側の縁に降り立つ。

 もう、彼女の死はすぐそこだった。彼女が飛び降りて死んで、僕はまた日常に帰る。

 心音の傍若無人に振り回されて、やれやれと笑いながら。神父の適当さと圧倒的な慈父さに感謝を抱きながら。友人や知人たちと穏やかに賑やかに過ごす日々が。

 そのすべてが、虚飾だと。周囲の人間の紛いなき愛や恋や優しさや思いやりやらを受けて、それに自分も同じように感謝している振りをしながら、心のそこでは全てに嘔吐するほどの嫌悪と侮蔑を抱きながら。虚飾の日々に戻っていいのか?

「ぁ……」

 そこで、気付く。

 視線に気付いた。

 美見ちゃんを止めもせず、ただ眺めていただけの彼女が、僕の方を見ているのを。

 伽藍の瞳で、何もかもただ見ているだけのあの瞳で。美鶴心音は僕を見ていた。

 その視線は何も語りかけてこない、何も求めてこない。けれど、思う。

 あの日もそうだった、あの日、心音と初めてあったあの日。心音が母親に殴り打ち倒されて、僕を見ていたあの日。

 僕はあの時、彼女の母親をけり倒したあの日。決めたんだ。

 僕は異常だ。どうしたって、脳みそか精神だかがイカれた男だ。他人の好意に唾棄で答えるとんでもないくそ野郎だ。

 だから、変わってやると。

 絶対に変わってやると。

 自分の悪性を塗り替えてやると。決めたんだ。

 異常を抱えているのならばそれ以外を上等にすればいいだと? それは嘘だ。それだって虚飾だ。


 僕の選択で心音の人生は良いか悪いか分からないけど壊れた。だから、責任を持つと。

 決めたんだ。


『約束。何かあったらすべてを信じて全て投げ出しなさい』


 言葉を思い出した。

 なんでか懐かしい香りのする、あの女性の言葉を。謎めいて不気味で恐怖さえ抱いたけど、けれど暖かく感じた彼女の言葉を。

 ああ、僕はあの時彼女のことを気色悪いと思った。

 なら、逆説。

 僕が気色悪いと思ったなら、彼女は僕のことを本当に思って言葉を投げかけてくれたって事の証左。

 ならば、それならばっ!


 ふわりと、美見ちゃんの体が傾いていく。スローモーションにゆっくりと、彼女は死を望み体が自由落下を始めようとする。

 体は動いていた。もう、とまらなかった。


「っどぅぁっつぁらぁぁぁああああああああああああああああああ!!」


 叫ぶ。叫べば前にもっと進める気がして、早く進める気がして、叫んで走った。

 走って走って走って走って、手を伸ばした。

 ああ、気持ちが悪い。こんなにも、激情を持って誰かに向かうのは本当に。

 

 気持ちが悪い。

  



§



「何してるんです、か? なんで?」

 掴めた。手すりから身を盛大に乗り出して、僕はなんとか美見ちゃんの腕を掴んでいた。

 重い、とんでもなく重い。今すぐにでも手を離しそうだ、てかこのままだと僕ごと落ちる。

 人間って、半端じゃなく重い。華奢な女の子でも重いものは重い。

「貴方、何してるんですか? やめてくださいよ、そういうの。初芝さん、貴方関係ないじゃないですか。自分で言ってたじゃないですか。関係ないって、心音さんと帰るって。ならさっさとその手を離して帰ってくださいよ」

「っだぁー! 危機的状況なのに、ペラペラ喋ってんじゃないぞこのオタンコナス! いいから力入れて! 引き上げるから!」

「いや、だから。関係ないでしょ貴方。他人が嫌いで、他人の思いが気持ち悪いなら、なんでこんな面倒なことしてるんですか? あなた、一緒に落ちて死にますよ?」

 本当にペラペラペラペラと煩い。命を簡単に投げ出す若者。なんだやっぱり、この子徹頭徹尾普通だな。いやなことがあったら逃げる。逃げの最大は死。だから、死ぬ。普通すぎて気持ちが悪い!

「そうだよ! 嫌いだ! お前も、心音も! 養父も友人も何もかも大嫌いだ! 吐き気がする! 僕を見て、何か考えてくれるやつが嫌いだ! 僕を見て、思いやってくれるやつが嫌いだ! 僕を見て、恨んでくる奴も嫌いだ! 僕を見て、好きになってくれる奴なんかとんでもなく本当に本当に大嫌いだ! 全員気持ちが悪くて気色が悪い!」

 叫ぶ。やけくそに叫ぶ。叫ばないと、手を離してしまいそうだから。

「だったら―――」

「けど! それでも、僕は嫌いな奴は死ねばいいなんて思ったことなんて一度もない!!」



 なんで、嫌いな奴は死ねばいいなんて本気で思うんだ。憎い相手は殺したいなんて真剣に思うんだ。

 欠片も理解できない。善意でも悪意でも、他人をどうにかしようと動くお前らが理解できない。ただ、ただありのままそいつの人生はそんなもんだと割り切れば、それでいいはずなのに。何でお前らはいつもそうなんだ。

「お姉さんの告白を拒絶したのは悪かった。お姉さんに対して、それは悪かったと思う。でも君は関係ない! 美見ちゃんにはまったく関係ない! 僕とお姉さんで完結する話なんだ! ほかを巻き込んで考えてるんじゃない! だから、君や僕がお姉さんの自殺の一因だとしても、それはお姉さんが考えて起こした行動なんだ! 原因はあくまで原因で、考えたのはあくまでお姉さんで。そこに僕らは一欠けらだって責任を被る権利なんかない!」

 僕が心音に責任を負ったのは。心音の選択肢を消してしまったからだ。

 僕と神父が強引に、彼女の元あった人生を奪ってしまったからだ。そこに、心音の意思はまったく介在しなかったからだ。だから責任を負った。彼女が今の人生を歩んでいるのは、全て僕らの責任なんだ。

 だけど、これは違う、まったく違う。

 他人の選択を、たとえそれが端から見たら最悪の選択で、自分の所為だと思ったとしても。それでも、誰かが決めたことを、自分がそう決めさせたと思い上がるのは、間違っている。

「いや、美見ちゃんって呼ぶの気持ち悪いんでやめてもらえます?」

「いまそんなことどうでも良くない!?」

 なんなんだこの娘、すっげぇ暢気なんだけど。状況見てる? 人の話聞いてる?

「さすがだね初芝ー。ナイスマッチョ。ガッツあるとこみせたね。じゃがんばって、私帰っていい?」

「いやいやいやいやいや!? 心音さん、助けて! 非力な力でちょっと一緒に支えて!?」

「いや、だって私初芝に堂々と嫌い宣言今されたし。手にナイフ刺さってて痛いし。てか、言葉には出してなかったくせに遂に出したね。すごい不快、大好きな初芝に大嫌い宣言された私はもう傷心でそれどこじゃない。そのまま美見ちゃんと心中してなよ」

「超絶にキレてる!? なんなんだよもう! 謝るから、後で土下座でも何でもするからお願いだから助けて!?」

 ぇえー、といった不満げな表情をする心音。だが、とりあえず僕の腰に手をやって支えてくれようとする。

 だが、だめだ、これ支えきれない。

 やばいやばいやばいやばい、うそだろまじかこれ、どんどん美見ちゃんに引っ張られていく。

「あぁ、でも初芝さん。ちょっと分かりました。結局私がここで死ぬのは姉への贖罪にも何にもならないと。姉が自分で決めたことで、たかがその一因を作った程度の妹が思い上がるなと、姉の決断に水を差すなと。そういうことですか?」

 腕というとんでもなく細い命綱でプラプラ中空にぶら下がってるくせに、彼女は何か納得した顔で淡々と言う。

「なんかちょっとズレた見解な気がするけど、大体そんな、かんじっ、かなぁ! あー、くっそ死んじゃう死んじゃうマジ死ぬこれ!」

「そうですか。なら、私まだちょっと考えた上で今後を決めて生きたいです。なのでここで死ぬのは早計な気がしてきました。死にたくないです、助けてください頑張って引き上げて」

「ぁぁぁぁぁぁ! なんだこいつ、マジイラつく! 手ぇ、離してぇよマジで!!」

 もう何かいろいろ吹っ切れた様子の美見ちゃんには悪いが、本気で限界だった。

 もう体は手すりの向こうに半分以上持ってかれている。屋上から下に視線を向けるが、植木が幾つか点在しており、高さ的にそこに巧く落ちれば全身複雑骨折くらいで生き残ることはできるかもしれない。だが、十中八九は死ぬ。

 このままでは腰を支えてくれてる心音まで落ちかねない。だから彼女にもういいから手を離せと、そう告げようと振り向いたとき。

「初芝、やっぱ私貴方のこと好きだなぁ。最低な奴だと思うけど、やっぱりこういうの見ちゃうと、あのときみたいな貴方を見ちゃうと。好きだって思うなぁ」

 相も変わらずなにへら笑いをしながら、心音はそんなことを言ってくる。

 本当に、彼女は、とんでもなく。

 「心音。だからそれが、気持ち悪いんだって」


 そして、落ちる。

 寸前で心音を後方に蹴り上げて離すが、それでもやはり僕と美見ちゃんは落ちていく。

 せめて体で美見ちゃんのクッションになろうと抱き寄せて下になる。

 

 ああ、死ぬのかこれ。

 短い人生だったと思うけど、長く生きたいと思うけど。けれど、もしかしたらお似合いの最後なんだろうなと、そんなことを思う。

 死の間際視線を上に向けると、心音の顔が見えた。いつもの伽藍の瞳で、やっぱり刺された時みたいにじっと見つめているんだろうなとそう思った。

 けど、意外だ。彼女の表情、必死なものに見える。手を伸ばしてる、大切なものを失う前の、絶望の表情に見えた。

 なんだ、心音。

 らしくないなぁ。

 ごめんね。最後まで、責任持ちきることが出来なかったや。


 ごめんね、心音。










「那奈詐。信じて投げ出してくれて、ありがとう」

 耳に懐かしい声がした。

 そして、その声と同時に強烈な力で上に引っ張りあげられた。

 地面に激突する寸前に、下方からの大きな力で上に引き戻される感覚。

 そして、またすぐに自由落下。けれど、落下速度は格段に落ちて、次いで衝撃。

 木々をなぎ倒す音と、体の節々に鈍痛が走るが、それでも致命傷は感じない。

「約束。責任はちゃんと果たせた」

 声のする方を、自分を優しく包み込んで下敷きになっている女性、その顔を見遣る。

 無表情だった。でもとんでもなく美人。

 彼女は僕たち二人を纏めて抱きかかえて、守るように木々のクッションの上に仰向けになっていた。所々葉っぱや枝がついてるけど、怪我はなさそうだ。そして、一緒に抱きかかえられてた美見ちゃんも無事。

「いっ、たい、何、が?」

 急いで身を起こすと、美女もゆっくり立ち上がって美見ちゃんと僕の服についた汚れやらなんやらを払ってくれる。

 美見ちゃんも不思議そうに、美女を見ていた。

「え、あの、今。下から飛び上がって僕らを抱えて、落下の勢い消して、その上で木のクッションに落ちました? え? これ、え?」

 待って、いや、そんな。そんな超人のようなことをこの人はしたのか? この細い腕の美女が?

「肯定」

 僕の疑問に美女は頷く。いや、いやいやいや。

「いやいやいやいやいやいや! 無理でしょ、いや、無茶でしょ!!」

「心配無用。私はとても鍛えているから、こういうことも出来る」

 なんでもないように、彼女は言う。

 ああ、なるほど。全てを投げ出せって、こういうことを予想してって事? 無事にキャッチできる自信があったって事?

 いや、いやいや。それは、もうなんというか。無茶苦茶を通り越した無茶苦茶だ。

「それと、名乗ってなかったのを忘れてた。私の名前は光―――、いえ。シルフィ。シルフィ・ホムサイド。はじめましてではないけど、はじめまして」

「あ、はい、はじめまして」

 奇矯すぎるタイミングで名乗られた。

 シルフィ。やっぱり、どこかで聞いた覚えがある。

 遠い昔に、何処かで。

「あ……」

 と、そこで、助かったことによる安堵で、精神的にも肉体的にも限界がきたのか、体がくらりとよろめいて倒れてしまう。

 そうして、情けなくも僕の記憶はそこで途切れた。


 なんだか遠くで、心音が名前を呼んでいるのが聞こえた気がした。

 そんな気がした。




§



 覚めた。

 目が。

 白い清潔な天井に、夕方だからか淡く光っている電灯と、涼やかに頬を撫でる風。

 自分はどうやらベットの上に寝かされているようだ。

 こんなこと前もあったなとか思ってると、傍に人の気配を感じる。

「おはよう。永遠に眠っていたほうが幸せだと思うけど、性懲りもなくおきちゃったんだね初芝。残念だったね」

 最悪の目覚めだった。目覚め即毒舌。労わりの心とかは心音にはないみたいだ。心音って名前の癖に心がないとかどうなのよそれ。

 そんな心無い彼女は、誂えられている椅子に座って、相変わらずの不気味な目で表情豊かにこちらを見遣っていた。

「おはよう。寝起きはもうちょっと優しい言葉を掛けるといいよ心音」

「だって、初芝は好意が気持ち悪いんでしょ?」

「え?」

 ちょっと待て、その言葉から鑑みるにもしかしてこの子。

「……待って心音。もしかして君が僕にやたら毒舌なのって……」

「優しい言葉が嫌いなら、きつい事言えば喜ぶのかと思って」

「……」

 うわぁ。うわぁ……そうか、そういうことなのか。うわぁ……。馬鹿だ。この場合どっちが馬鹿かは言う必要もない。

「あの後どうなったの?」

 とりあえず話を変える。と、心音は眠そうにあくびしながら答えてくれた。

「とりあえず初芝と美見ちゃんは念のため精密検査。見えない外傷があるかもしれないからね。問題なかったけど。シルフィさんっていうあの人が病院まで連れてきてくれたんだよ。すごいねあの人、二人ともひょいと担ぎ上げて徒歩でここまで来たよ。運び終わったら消えちゃってたけど」

「……あの人ほんとなんなんだ」

 もしかして、人間じゃなくて改造手術を受けたサイボーグじゃなかろうか。

「美見ちゃんはそれからまた後で諸々謝罪とかお礼とかに来るって帰った。そんでその後初芝は一週間位寝てた。おなかの傷がまた開いちゃって、結構大惨事だったよ。お医者さん、てか院長がすっごい怒ってた。保護者って事で駆けつけた神父にマジ切れしてた。なんで安静にさせてないんだこのばか者! って。まあ、あの人ここの院長と付き合い長いしね」

「あちゃぁ……」

 またもや神父に迷惑を掛けてしまった。申し訳なさ過ぎる。

「後はまあ、いつも通り。学校休めてよかったね初芝」

「何もよかないんだけど」

 ほんとによかない。色々よかない。一週間分の授業を欠席とか、成績優良児の僕からしたら取り返すのが面倒だ。成績を良好に保つコツは、授業を真剣に聞くことが全てなのに。

「あのさ、心音。もしかしてずっと看病とかしててくれた感じ?」

「うん。学校終わった後は毎日来てたし、休みの今日は朝から居た」

「そう……ありがと」

「別に。好きな人が死に掛ける目にあったらこれくらいする」

「……」

 こいつ、僕が嫌いって言ったこと根に持って、わざと好きって強調してきてないか? 今までこんなこと無かったぞ。

 でも、そうなんだろう。好きな人間に対して、こういう行為は普通なんだろう。

 だから、ちゃんと応えないといけない。

「心音。分かってると思うけど、僕は君の好意を受け入れられない」

「うん」

「心音のことは本当に大切に思ってるけど、けど、好意を向けられることは正直辛い」

「うん」

「だから、その。なんだろう。君の人生をぐちゃぐちゃにしておきながら、こんな僕でご免」

「うん、別にどうでもいい」

 なんでもないように、心音は言う。その表情からは何も読み取れない。

「どうでもいいってこた無いでしょ」

「いや、本当にどうでもいい。羽虫程度の存在の初芝からどう思われようがほんとどうでもいい」

 あれ? 本当にこの子僕のこと好きなのかな? 一言一言がきつすぎるぞ?

「だって、私が初芝を好きなことと。初芝が私を嫌いなことは何も関係が無いもの。勝手に私が好きなだけ、出会ったその日から好きなだけ。初芝は出会ったその日から私を嫌いなだけ。それだけでしょ?」

 やっぱりなんでもないように、彼女は言う。

 そうかもしれない。けれど、ひとつ訂正だけしとこう。

「心音のこと嫌いだけど、嫌いじゃないよ」

「何言ってるの? とんち? 小難しいこと言うと腹の穴広げるよ?」

 え、何この子怖い。生死をもう一度さまようことになるから本当にやめてほしい。

「いや。確かに嫌いなんだけど、嫌いになりたいわけじゃないというか。というか、好きになりたい。君の事をすきだって、愛してるって。いつか嫌悪しないで言える様になりたいから。だから、出来れば気長に待ってて」

「無理待たない」

 ぇ、ぇええ……。即答された。にべもなく否定された。告白したのを振られた気分。

 ああ、これか。これは確かに軽く絶望だ。羽咲さんに今更土下座したくなった。

「だって、私は勝手にどんどん好きになるし、初芝が何を思ってようが関係なく貴方の傍に居るよ。初芝の嫌そうな顔も、正直嫌いじゃない。そういうのをひっくるめても好きだし」

「……」

「そう、その顔。いいね。グッジョブ。ナイスグッジョブ。百億万点の嫌悪の顔だよ、でもやっぱり不快だから全快したら殴るね」

 理不尽すぎない? 勝手に自分でぐいぐい来て、勝手に怒るのやめてほしい。

「ああ、後。美見ちゃんから言伝。『私の自殺という選択を、初芝さんの勝手な都合で潰されたので。当然私の人生にも責任を持ってくださいね』だって。やったね初芝、女の子の人生二人分負うことになったよ。男冥利に尽きるね」

「冥利ってか、冥府に突き飛ばされた気分だ」

 だが確かに、道理だ。

 彼女の人生を僕は心音と同じように滅茶苦茶にした。逃げ道を塞いで、勝手な都合で生かした。それは明確に僕の責任だろう。

 仕方ない。本当に致し方ない。

 でもやっぱり理不尽な気がする。

「じゃ、お医者さんに初芝が起きたって伝えてくるから」

「あ、うん。宜しく」

 言いながら、心音は部屋から出て行く。去り際彼女の手を見遣ったが、包帯でぐるぐる巻きにされてた。ナイフの傷跡は残らないですむだろうか……。嫁入り前の少女の体が心配だ。

 と、そんなことを思ってたら入れ違いに人が入ってくる。

「やーやー、那奈詐君! またもや死に掛けたって? 本当にほっといたら死んでしまいそうだなぁ、君は」

 神父だった。

 相変わらず柔和な笑みを浮かべながら、親しげに心音の座っていた椅子に座る。

「またまたお見舞いありがとう神父。そして毎度ごめん」

「いーよいーよと言って上げたいけど、今回ばかりは無茶が過ぎるね。相談してくれれば問題なく収めたのに」

「迷惑掛けたくなくてね。僕もここまで大事になると思わなかったし」

「気を使わないでよ。仮にも君の保護者だよ? 迷惑なんて思わない」

「だからだよ。家族だからこその無償な愛ってやつだろ。でも、タダは怖いからね」

「……」

 と、僕の軽口に神父は一瞬呆けた表情をした。

「どうしたの?」

「え、ああいや。君は家族とか、愛とか、そういう言葉嫌いだろうから。自分から言うのが意外でね」

「ああ……」

 そうだった。お世話になってる神父の前で、嫌悪の感情は出したくないから、たぶん無意識に避けていたのかもしれない。

「あの、神父」

「大丈夫、分かってるから。僕は分かった上で君の保護者をしているから」

 それこそ本当の親のように、いや、親異常に僕のことを理解してくれる彼は、言葉をさえぎって肯定してくれた。

 ああ、気持ち悪い。けれど、いつかこの思いには応えたい、綺麗なものとして受け止めたい。

「じゃあ、別の話。あのシルフィさんって、神父が寄越した人でしょ」

「えー、なんのことかなー。知らないよー。シルフィなんて女性僕はぜんぜん知らない。だれそれ?」

「僕一言も女性って言ってないんだけど」

「あ……」

 誤魔化すの下手糞かよ。

 ナイフで刺された庇護者をそのまま放置するような人じゃない。だから、多分護衛みたいなものは用意してくる気はしてた。今の神父の反応で、その予感は間違ってなかったと再確認したけど。

「あのさ、あの人なんなの?」

「スーパーマン。いや、ウーマン。やばいよあの子は。電柱とか引っこ抜いて投げたり、素手で建物倒壊とか出来るよ」

「……ジョークだよね?」

「はははのは」

 なぞの笑いで誤魔化された。

 まあ、正直あの超人行為を見たら本気で信じてしまいそうだ。

「でも、僕がこの世で全幅の信頼を置いてる数少ない一人だよ。今度会ったりしたら仲良くしてあげて。あれで人懐っこい子だから」

「うん、人懐っこいかは知らないけど。御礼は言いたいな」

 実際あの人が居なかったら、死ぬか半身不随にでもなっていただろう。本当に感謝している。

「ま、今度からはもっと気をつけてよ。そして何かあったら相談すること。僕のそういう力を借りたくないなら、ちゃんとした力で対応してあげるからさ。シルちゃんみたいなね」

「うん、ありがとう。そうするよ」

 やっぱり僕が彼の暗い部分の能力を借りるのが嫌なことは知られてるみたいだ。本当に頭が上がらない。恩を返せる気もしない。感謝することしか出来ないな。

「あ、神父来てたの。院長さんがあとちょっとで来るから、小言が嫌ながら逃げたら?」

 ひょっこり戻ってきた心音が、神父の姿を認めてそんなことを言う。

 すると、神父もせわしなく動きながら、僕と心音に別れの挨拶もそこそこに即座に退散していった。

 そんなに説教されてるのが嫌なのか……。

「初芝も、多分結構説教されるから覚悟したほうがいいと思うよ」

「マジかよ……」

 嫌だ。肉体にダメージあったのに、精神にもダメージ与えてくるとか嫌過ぎる。

 だが甘んじて受けよう。完全に僕の行為が悪いし。

 だが、その説教の前に、心音に言っておかねばならない。

「ねぇ、心音」

「何?」

 相も変わらず伽藍堂な、不気味で静かな瞳。でも、コロコロと表情の変わる豊かな感情。

 美鶴心音。僕が人生を背負っている少女。僕にとって大切な人。

 こんな僕を、愛してくれる少女。

 もし、彼女が僕を好きだというのなら、僕はそれを己の意思に反して受け入れようと思っていた。 

 けど、その必要は無かった。だって、彼女はそんな僕の思い丸ごと好きだといってくれるのだから。

 だから、これは先払いだ。いつか、いつか本当の気持ちで。心の底から彼女にそう返せるように。

 彼女だけじゃなく、いろんな人の好意を心の底から受け入れられるように。

 その、先払い。


「好きだよ」


 彼女は僕のその言葉にきょとんとした顔をして、それから例の表情を浮かべる。

 いつもの、そしてらしくない、表情を。


「初芝、とーーーーーーっても、気色悪いよ」


 にへらと笑いながら、そう言ってくれるのだった。



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