痛み、舞い降りる
過去に持った記憶にいいものなんて一つもない。軍事訓練を受けて覚えてもない生まれ故郷『日本』に帰った時、16歳の比叡 冷夏はキャリーケースを引きながらそう口ずさんだ。東京、羽田空港は空、そして世界の玄関口として開かれ、日本に来る外国人観光客やビジネスマン、あるいはこれから諸外国へ飛び立つ日本人の雑踏で溢れかえっていた。
天井に吊るされた電光掲示板には、分単位で飛行機の発着時刻が記載され、駐機場と滑走路を見渡せる窓からは、航空機会社のパーソナルカラーを纏った旅客機達が、国際条約や国際法に基づき飛び立っていく。
到着ゲートからターミナルへ抜け、キャリーケースを引きながら慣れない足取りで地下を目指す。日本の主要空港には大抵、鉄道が乗り入れしている。そのおかげで東京とのアクセスも悪くない。
黒いショートヘアを揺らしながら、冷夏は羽田空港国際線ターミナルでドルの換金所を探していると、ジーンズのポケットに入れていたピンク色の携帯電話が震える。
それが電話だとすぐに感じ取れる。設定で電話はバイブレーション、メールはミニランプが赤く点灯するように設定していたからだった。相手は冷夏の上司で、彼女を仕立てたジュリエッタ。電話口へ小さな声を吹き込むと、彼女達は会話が始める。
「比叡。名前と用件」
『相変わらず冷たいなー冷夏は』
「名前は謹んで。仕事で来ている」
『まっそうなんだけど。偽造パスポートとクレジットカードはちゃんと持ってるかな?』
「出発前に確認した。ジュリが保護者みたいな目線で私の様子見ながら」
『詳しく状況を振り返らんでいい。それより、日本はどう?』
「別に」
『別にってことはないでしょう? 辺りの雑踏とざわつきから察するに、まだターミナルとか?』
「どうせ、どこかの監視カメラでもハックして見てる」
『なぜバレた!』
「ジュリは昔から心配性だから」
吃驚した様子を声で表現するジュリエッタ。だが、冷夏は他愛のない話をスパッと切り、本題へ入る。
「仕事の話。それが目的でしょ?」
『忘れてたっと。始末するターゲットは基地反対を唱える活動家の濱野 大輔。殺し方はなんでもいいわ。爆殺、射殺、絞殺、刺殺。どれでも、選んでいいわよ』
「一番痛みが少ない殺し方。どれだと思う?」
『え?』
話を遮るように冷夏はジュリエッタに問いかける。
「一番痛みが少ない殺し方。どれだと思うか、聞いてる」
『あっいつもの奴ね。一瞬、電波が途切れて聞こえなかったよー』
「嘘。本当は私に選んで欲しかったから惚けた。毎回、その策には乗らない」
『ったく無愛想でデリカシーがないわね。私はあなたに選択権を与えた。あとは自分で考えなさい』
「・・・・・・・わかった」
『それじゃあね。それから、私からささやかながらプレゼントを用意したから、それも忘れずに。嫌がって捨てたりなんてしたら、減給だからね』
「想像は出来る。嫌だけど仕方ない」
『がんばってね。冷夏』
「ジュリも」
互いに鼓舞し、通話終了のボタンを押した冷夏は、直通エレベーターで京浜急行のホームへと下っていった。
Pein
京急線エアポート快特電車で北を目指し、鉄路を進む。品川まで止まることないこの列車は、地下線から勾配を上り、飛行場横を通過。高架線区間に移り、京急蒲田を越えた辺りから電動機の出力を最大に上げ、最高時速120キロの高速走行へ突入する。平和島駅の緩いカーブをホームと擦れるギリギリで通過していく姿には魅了された。長い直線と減速を要する鮫洲駅の75キロカーブ。北品川を越えたJR橋梁の25キロの急カーブを通り、電車は品川駅へ入線し、停車。
電気式のドアが開放され、キャリーケースと共に降り立った冷夏は、大きく全身を伸ばした。
言葉はない。独り言は戦っているとき以外、不要だからと割り切っている。口を紡いだまま、隣の1番線ホームと直結するJR線乗換え口へ走る。常磐線を乗り継いで北千住という地名の駅に向かわなければならなかったからだ。
冷夏の足は止まることを知らない。自分で調べ、自分で歩く。他人に干渉される筋などないと言わんばかりに足跡をつけ、彼女は常磐線のホームへ降り立った。
二面四線の島式ホーム。常磐線の電車が出る9、10番線ホームには純白と薄らあずき色に塗られた特急電車とアルミ色に深い蒼の帯を纏った交直流電車が発車まで控えている。
時刻はまだ10時前後。品川発の電車は特急の発車を待ってからドア扱いを行うため、多少はまだ時間がある。アメリカからここまでの旅で何も食べなかった彼女の腹はうめきを上げていた。
「9番線、特急ときわ59号勝田行き、発車します。お見送りの方は黄色い線までお下がりください。扉閉まりまーす」
お見送りも何も、ここから見る限り乗客は閑散としていて決して黒字とは言えない状況だ。冷夏は駅員の行動を眺めながら冷静に分析する。特急電車はホームから走り出し、数十秒で立ち去ってしまった。
「続いて10番線、快速土浦行き発車します」
と、駅員は冷夏に報復攻撃を仕掛けようとしているのか、列車を慌しく発車させようとしていた。まったく日本人はせっかちだ。冷夏も同人種なのだが、アメリカに居た頃から常々感じていたことだった。
慌ててキャリーケースを持ち上げて周りの普通車とは明らかに違う二階建て車両に乗り込むと、すぐに列車の扉が閉まり、右には自動ドア、左には上下に繋がる階段のあるデッキルームに閉じ込められる。電車について下調べをしてこなかったことが災いして、ここから脱出する方法がわからない。
車掌も見たところ乗っている様子はないし、どうすればいいのか。冷夏は列車で路頭に迷った。走り始めてしまった電車の停車駅もわからないがために、どこまで飛ばされるかと不安も過ぎる。
すると
「あのー、お客様」
「何?」
少し威圧的に返事をして振り返ると、スーツとは違う制服にスカーフを巻いたキャビンアテンダントのような格好をした女性乗務員が冷夏に言葉を掛けてきた。まさか、走行中の列車から自分を追い出そうなんて腹じゃないだろうな、と警戒する一方で、右も左もわからない彼女にとっては助け舟にもなった。
「こちらグリーン車となっていまして、乗車には乗車券のほかにグリーン券が必要になるんですが」
「グリーン・・・・・・券?」
「はい。グリーン券」
「何、それ?」
「そのー、グリーンチケットが必要です」
緑色のチケットなら持っている。ジュリエッタからアメリカで渡されたICカードをパスケースごと出して、冷夏は彼女が言うグリーンチケットに値するかを確認する。
「あっそしたら、座席にご着席いただいて、これを天井にタッチしていただくんですけど」
「教えて」
彼女の意図がまったくもってわからない。さっぱりだ。冷夏は心の中で諦観の高笑いをしていた。
「じゃ、じゃあ、ちょっと確認しますね」
そう乗務員が言うと、ポーチから端末を取り出し、冷夏が持っていたICカードをかざす。
「あーこれグリーン券情報入ってませんねー」
「なら、それをある分だけ買う」
「えっと、なんか物理的な物だと思ってませんか?」
「だって、それチケットなんでしょ?」
「そうですけど、一人ならお一人様分のだけで大丈夫ですよ」
「わかった」
「では車内料金で会計させていただきます。どちらまで行かれますか?」
「北千住」
「では、残高から860円、引かせていただきます。座席はどこでも構いませんのでごゆっくりどうぞ」
軽くお辞儀をした女性乗務員は、冷夏に背中を見せて去ってしまった。さっき行ってた手順をここで行使すれば、何も言われずに列車に乗ってられるのだな。彼女はさっそく試すべく、キャリーケースの柄を持ち階段を昇る。
階段すぐそばの四列シートの左窓側へ着席した冷夏は、さっき処理してもらったICカードを天井の端末に触れさせる。ランプが赤から緑色に表示を変化させると、その一区画はもう彼女のテリトリー。だが、この車両に彼女の席を取ろうとする輩などいないことに気づく。
「私、一人」
平日午前の下り電車。通勤通学で朝早くから出勤する人間は、すでに会社へ到着している頃合で、電車の混雑具合も穏やか。ほぼ貸切状態のグリーン車で彼女は誰にも権利を妨害される心配なく、北千住なる場所へと向かっていったのだった。




