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絶対零度 痛みを知る必要

 痛みを毛嫌いするようになったきっかけは、きっとこのときだと思う。電流や他の拷問とは比べ物にならなかった。自尊心を傷つけるような罵倒や辱め。きっとそれが痛みという恐怖を植えつけたのかもしれない。少女は悟った。痛いのは怖いことだと。


 あの瞬間を思い出すだけで反吐が出そうだった。狙撃手、諜報員比叡 冷夏ひえい れいかはスコープのクロスヘアに重なる対象に目を凝らして、凄まじい尋問の風景を呼び起こす。




 ワークライトに群がる蛾は、彼女の痛みなんてお構いなしに羽を休めている。想像を絶する戦場を幼少期から目にしてきた少女は、その姿を見ながら唾を吐いた。


「さてどうする比叡 冷夏さん? この監獄で死ぬか、それとも訓練を受けて私達に協力するか。二つに一つだよ?」

「・・・・・・ここから出ようなんて、端から選択肢にない」

「なら、わかっているよね?」


 照明に映る影が比叡 冷夏ひえい れいかの両腕に、電線を繋ぎ、鋭く磨がれた電極の針を突き刺し、制御盤にある電流操作の摘みを回していく。そして、また一つ痛みが彼女のストレージに保存され、電流は電撃となり、全身に痙攣を起こす。

 冷夏の悲鳴は押し殺される。10歳の少女には拷問なんて縁のない仕打ち、耐えられるわけがない。


「屈服する気になったかしら?」

「う・・・・・・ころ」


 影は電流の出力を上げようと手を伸ばす。冷夏の見えない心は、それ以上の痛みを望んではいない。過去に支配され、痛みに屈服する恥すらも忘れた少女は、不器用に呟く。「もうやめてくれ」と。


 そして、電流が止まる。新しい痛みを得た彼女は素直に喜んだ。これで何もかもが解放される。影は彼女から電極を引き抜き、自分の名とその容姿を現す。

 表情は想像通りの腹立たしい微笑み。狐目のようにつり上がった目は、彼女を見下していたが、普通にしていれば美人だ。

 体つきは何となく理解していた。こんな拷問に躊躇がない人格は、職業も表面化させる。正体は元軍人で、腕は野太く腹筋や背筋、見えない筋肉すべてが服に張り詰めていた。

 しかし金髪のロングブロードはシャンプーの香りを漂わせ、屈強な肉体と狂気とも取れる言動や行動原理をカムフラージュしている。まるで蝶のような美しさを持った肉食植物。


「私はCIA要員訓練部兼対テロセンターのジュリエッタ・マティス。君はアメリカが国益として使えると判断したが故に、その命に恥じない働きをしてもらうため訓練を積んでもらう。これからは私が上司。よろしく頼むよ、比叡 冷夏さん」


 漆黒の瞳が最後に映したのは、薄汚れたブーツとは対照的な白い素肌と彼女の碧眼だった。


 意識が途切れそうになった寸前、耳から入った情報を記憶する。

 温かいぬくもりが全身を覆い、とても心地よく眠れそうだ。冷夏は半目で頷き、次に目が覚めるまでの短い安息に入った。

 彼女は殺戮に捧げた。人生の尊き時間を。




 そして現状に戻る。ビルの屋上で寝転がる冷夏を航空灯が赤く照らしては、黒髪の靡く瞬間を鈍色の雲が立ち込める空に魅せていた。


 引き金に掛けた指。逡巡なんて言葉とは疎遠の状態で、ターゲットの脳幹目掛けて向けた銃口が、唐突にガスと硝煙の閃光を花火のように打ち上げた。弾丸はカメレオンの如く背景と同化して視認することができない。だが数百メートルを音速の約3倍で駆け抜けた鉛の質量は確実に頭にヒットする。


 スコープ一面に咲く血色の花。人間の命が散る刹那。弾け飛ぶ頭。その人間の時を止めた弾丸は、地面に受け止められて運動を停止させた。


「こちらアルファ01。ミッションコンプリート。RTB」

「あのね冷夏。空軍みたいにやらなくていいから」

「でも、ジュリはこういうの好きだから」

「仕事中よ。まぁ、いつも通り相手の頭を吹き飛ばすことだけは完璧だったけど」

「褒めてる?」

「勿論。早く合流地点にきなさい」

「わかった」


 インカムで無線機に声を吹き込み、冷夏はライフルのボルトレバーを回して引いた。『M24SWS』の排莢口からこぼれた空薬莢は、コンクリートの床と激突して、金属音を唸らせた。

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