松賀騒動異聞 第三章
第三章
うんざりしていれば、話を止めようという眼差しであった。
私の表情を見て、安心したのか、穏やかに微笑みながら、再び話に戻った。
「四代目は、義概の末子、義孝が相続しました。官位は、従五位下で能登守。能登守というのは能登の国の国主という官職ですが、古き時代はともかく、この頃には名目だけの官職となっていました。そうそう、恐妻家であった二代目藩主・忠興には、別な逸話も伝わっています。従五位下から従四位下に昇進した際、家臣から、何々の守といった受領名を戴いたらどうか、と勧められたと云います。その時、忠興は冷笑してこのように答えたということです。今の時代では、加賀の国に少しの領地も無いくせに、加賀守という受領名を貰って有り難がっている者が居る、また、出羽の地を踏んだことも無いのに、出羽守と称している者も居る、わしには滑稽に感じてならぬ、強いて受領名を貰えというならば、さしずめ、磐城守という受領名でも貰おうかのう、と言ったと云う逸話です」
私も思わず笑ってしまった。
古来の官職には無い、磐城守などという受領名は貰える筈が無い。
忠興もなかなか冗談の上手い人だと思ったのである。
「さて、義孝は、忠興が聞いたら怒ってしまいそうな能登守という官職を名乗りました。父の義概が六十七歳で亡くなり、十七歳で家督を継ぎ、四十四歳で亡くなりました。風虎という俳号を持った父・義概、露沾という俳号を持った兄・義英と同じく、俳諧に興味を示して、自分も露江という俳号を持ちました。或る史書に依れば、松賀族之助はこの義孝治世の半ばで、江戸で死去しています。松賀家断絶の十七年も前に亡くなっているという記録なのです。一方、この四代・義孝の後、五代・義稠の治世でも権力を振るい、六代・政樹の時代になって悪事が露見し、牢死したという説もあり、歴史から逆臣として殆ど抹殺された人物故、なかなかはっきりした定説が無い現状となっています。私自身は、族之助は義概の小姓であったという事実から見て、義概とは十歳ほどは年少であったろう。つまり、若殿・義概の二十歳の頃に、十歳の族之助が小姓として仕え始めたと考えるのが、まあ、妥当なところではないか、と考えています。と、すると、六代・政樹が藩主になった頃は、族之助は九十歳のお爺さんであり、当時の人間の寿命から考えて、とてもこの年齢までは生きてはいないだろうと考えています。その観点から言えば、やはり、四代・義孝の治世半ばの元禄十五年、有名な赤穂浪士の討ち入りの年に、七十四、五歳あたりで、江戸で死去していると考えた方が良い、と思っています」
「義孝には、息子が二人居ました。長男の義覚と次男の義稠です。しかし、長男の義覚は生来病身で、五代目を相続したのは次男の義稠でした。病弱に生まれた子は長男と雖も、藩主にはなれないということでしょうな。これは、徳川時代の武家の一般通則でした」
「五代目藩主となった義稠は、官位は従五位下で、官職は右京亮となりました。義稠は父の義孝が四十四歳で死去し、家督を相続したのが十四歳の時です。それから六年後、二十歳で早世しています。この死に関して、松賀族之助・伊織親子に毒殺の嫌疑がかかっています。義稠に子はありませんでした。正室も居なかったということです。何でも、正室に迎えるべく結納まで交わしていた婚約者が婚約期間中に病死してしまったということですから。可愛そうなお殿様ですな」
「急死した義稠の後を継いで、六代目藩主となったのが、四代目藩主・義孝の兄である義英の長男の政樹でした。この時、政樹は十三歳、義英は六十四歳です。随分と年の離れた親子です。年少の政樹を後見する形で藩政を義英が取り仕切ることとなったのです。この時の義英の感慨たるや如何ばかりであったでしょうか。漸く、自分の時代が来た、と思ったことでしょう。その翌年、疑わしい伝説ですが、いわゆる『毒饅頭事件』、松賀正元(旧名、伊織。族之助の子供)が政樹を毒殺しようと、毒饅頭を献上した事件が起こって、松賀家老が失脚し、松賀家はあえなく断絶するのです。その後、この政樹の治世で、木幡さんが関心を持っておられる元文百姓一揆が起こり、その一揆収束の後、ほぼ十年後に一揆の責任でも取らされたのか、内藤藩は磐城平から九州の延岡に移封となるのです。磐城平から延岡までの藩替えは江戸幕府史上、最長記録だそうです。延岡の人には恐縮ですが、同じ七万石ですが、磐城平七万石の実収は二十二万石はあったとされています。そして、磐城平から江戸までは早馬で二日もあれば着いてしまうという距離の利便性も考えれば、内藤藩は延岡に左遷されたと解釈することが出来ます。しかし、義英はラッキーでした。元文百姓一揆が起こる五年前に七十九歳という天寿を全うしてこの世を去っていますから。義英にとっては、最初は藩主になれず不遇でしたが、終わり良ければ全て良し、といったところでしょうね。自分の藩主就任を妨害した憎き族之助の家の断絶を見届けた上に、風流三昧の暮らしを十分満喫して往生したわけですから」
「さて、松賀族之助の話に入りましょうか。松賀族之助、という筆頭家老が居ました。こんな字を書きます。族は、ぞく、では無く、やから、或いは、やがら、と言います。まつが・やがらのすけ、という家老が居ました。父方は、信長に謀反を企てた荒木村重で有名な荒木一族の荒木重堅、母方は、淀殿との関係を疑われた大野治長に繋がる系統で、族之助は荒木重堅及び大野治長の孫に当たるとされています。かなりの名門の出でありますが、磐城平藩では新参者であり、この男、磐城平藩の一連の磐城騒動では大変な悪者にされているのですよ」
と、小泉正一郎は笑みを含んだ顔で話を切り出した。
彼から聞いた松賀族之助に関する話と、その後、私が図書館の史料で調べた内容を整理すると次のようになる。
【松賀族之助に関して】
絵に描いたような悪者が居る。
いや、居た、と言うべきであろう。
なにしろ、今を遡ること、三百八十年ほど前の江戸時代に生まれた男であるから。
その男の名前は、松賀族之助と言った。
族之助は、やからのすけ、或いは、やがらのすけ、と発音される。
この男、磐城平藩の筆頭家老でありながら、生年、没年共はっきりとしていない。
いや、正確に言えば、生年は不詳であるが、没年には二通りの説がある。
元禄十五年(千七百二年)、赤穂浪士の討ち入りで名高いこの年に江戸で死去したという説と、それから十七年ほど経った享保四年(千七百十九年)に磐城の牢内で死んだという説、二説が現在伝えられている。
冒頭に、この男のことを私は絵に描いたような悪者、と書いた。
この男に関して、史書或いは伝承で伝えられている記事はそれほど凄い。
この通りであれば、稀代の悪役であったとしか言いようが無い。
以下、この男に関する記事と出典を幾つか、紹介する。
松賀族之助の人物に関する記事:
・内藤義概の事績に関する「ウィキペディア」の記事
義概の後継ぎ候補には次男・義英、三男・義孝がいた。(長男・義邦は早世)。
晩年の義概は俳句に耽溺して次第に藩政を省みなくなり、藩政の実権を小姓出身の家老・松賀族之助に譲った。
しかし、松賀は自分の権勢だけを考える奸臣であり、領民に対して重税を強いて大いに領民を苦しめた。
野心旺盛な松賀は自分の息子を藩主にしようと画策し、美貌の妻を義概の側室として差し出した。
松賀の妻はこの時妊娠していたが、松賀はこれをひた隠し、義概は大した疑いも持たずに彼女を側室にした。
病弱だがそれなりに有能であった義英(よしひで、或いは、よしてる、よしふさ)は松賀にとって邪魔な存在であったため、松賀は義英の排除を画策した。
義英を酒色で堕落させることに失敗した松賀は、義概に対し義英を讒言した。
義英と親しい浅香十郎左衛門は、松賀の専横を深く憂慮してその排除を企んだが、計画が漏れて捕らえられた。
これを好機と見た松賀は義概に対し、「義英が義孝を殺して、自分が後継ぎになろうとしている」と讒言した。
もともと義孝は義概が五十歳を越えてから生まれた息子だったため、義概はこの息子を義英を差し置いて溺愛し、後継ぎにしたいと考えていたこともあり、義概はこの讒言を鵜呑みにして、浅香を切腹に処し、義英も病弱を理由に廃嫡して蟄居処分にした。
松賀は更に、義孝も密かに暗殺し、義概の側室が生んだ自分の子を、義概の後継ぎにして藩主に据えたいと画策したが、延宝八年(千六百八十年)四月、松賀の専横を憎む小姓衆の大胡勝之進、山本金之丞、山口岡之助、井家九八郎、篠崎友之助らの五人によって、松賀の腹心であった山井八郎右衛門夫婦が殺害されたため、この計画は失敗に終わった。
これら一連の事件の通称を「小姓騒動」といい、小姓の五人も後に切腹・自殺した。
松賀の主家乗っ取り計画は頓挫したものの、この騒動の影響はその後も続いた。
(注記:義概の後は、継室で公家の娘である三条氏が生んだ義孝が十七歳で四代目の藩主として磐城平藩を相続した。治世は二十七年に及び、四十四歳で病死したものの、この義孝は初代政長に次ぐ名君とされている。義孝の後は、長男・義覚が早世したため、次男の義稠が十四歳で、五代目を相続した。しかし、治世六年で領内巡視中、俄かに倒れ、二十歳で早世した。実子が無かったため、伯父義英の長男・政樹を養子に迎え、この政樹が十三歳で、第六代目の藩主となる。義稠病死にも、族之助・孝興父子による毒殺説も伝えられている。義英は図らずも、実子政樹の後見役として藩政の表舞台に復帰することとなった。)
・内藤政樹の事績に関する「ウィキペディア」の記事
父は祖父の義概によって廃嫡された義英である。
享保三年(千七百十八年)に先代の藩主・内藤義稠が二十二歳の若さで嗣子も無く早世したため、義英の子である政樹が後を継いだ。(注記:二十歳という説が有力である。)
しかし若年のため、しばらくは松尾芭蕉からも才能を認められるほどの優れた俳人でもあった義英が藩政を後見することとなった。
翌年正月、内藤政樹の新藩主就任祝いとして、松賀族之助・松賀孝興親子から饅頭が献上された。
これを怪しんだ義英が饅頭を犬に食わせてみたところ、たちまち犬は死んでしまった。
若年の藩主のもとで藩政を牛耳り、あわよくば藩主の座をも狙っていたものの、政樹の後見人としてかつての政敵であった義英がいる以上、それは不可能であると判断した松賀が、政樹の毒殺を謀ったものといわれる。
義英は松賀族之助・孝興親子とその一派を全て捕らえた。
取り調べの結果、主犯は老齢の族之助自身ではなく、息子孝興であると判明した。
義英は孝興を投獄し(のち獄死)、族之助とその孫・松賀稠次に対し永蟄居を命じた上、松賀家を断絶処分とした。
さらに松賀親子の腹心島田理助をも処刑するなどの厳しい処断を下した。
こうして、延宝八年(千六百八十年)(実際の騒動の始まりはこの年以前からともいわれる)から始まった一連の政治的混乱(小姓騒動)は完全に沈静化した。
・四家文吉著「磐城古代記」三十七頁
松賀族之介内藤家を奪はんと謀る事
国に侫臣ある時は其国必ず治まらずとかや、内藤左京太夫義泰殿の家老上田外記新参松賀族之介と呼べる輩は、共に腹黒き侫臣にて只管左京太夫殿をたぶらかし内藤の家を奪ふべしと昼夜分別して思ふ様は、色を以て殿をたぶらかすに如くものはなしと即ち殿様の御仰せなりとて、己が宅へ左京殿を請じ入れ、御馳走として女房を相伴にたくみ、己れは酒に酔ひたる体にて寝屋に引き込み、女房を左京殿の相手に置きたりける、予ねて夫婦巧みし事なれば、族之助が女房巧みに左京殿を綾なせしに、元来色は分別の外とかや、一時の迷ひに左京殿、族が女房の色香に迷ひ、遂に度々御手を掛けしかば、程なく女房懐胎しけり、是をば左京殿の下借腹と披露しける、漸く十月と申すには、族が女房平産しけるより取上げ見れば男子なり、族之介大ひに悦び、則ち御下借腹の若殿御誕生とて家中へ触れ内藤大蔵と申しける。
既に大蔵十七歳になりければ、族は七万石を大蔵に家継させんと思ひ左京殿を色々と誑かし、御嫡子下野守義英殿をも讒言しける、或る時族之介御前にて申上けるは、さてさて此頃は下野守殿の御部屋は昼夜共に鼓打はやし、其の上町方より踊子共を呼び上げ若侍を集め騒ぐ事ども少しの間も止む事なし、夫れ武士の学ぶべきは剣術弓馬の道を専らと存じ奉り候、左はなくて乱心の如く騒ぐ事御家の恥辱他の聞へも如何なりと言葉巧みに申上ければ、左京殿誠と思召し、以の外に御立腹成され、我等総領下野は此ごろ乱心に罷成り出勤仕らずと申し二男能登守を三男とし大蔵を二男と名付け、左京太夫殿御代替を家中へこそ触れにけり、下野殿は文武両道に暗からざりしを之を乱心とそそのかされたるは、下野殿の不運の初めなりとは聞えけり。
【現代語訳】
松賀族之助が内藤家を奪おうと謀りごとを巡らした事件
国に悪臣がいる時はその国は治まらないと云う。
内藤左京太夫義泰殿の家老の上田外記、新参の家老・松賀族之助という者は二人共、腹黒い悪臣で、ひたすら、左京太夫殿をたぶらかして、内藤家を奪ってやろうと昼夜思案していたが、色をもって殿様をたぶらかすに如くものはないとばかり、左京太夫殿を自宅に招待した。
その際、松賀族之助は自分の妻に殿様のお酒の相手をさせ、自分は酒に酔った風を装い、寝室に下がり、妻をそのまま殿様のお酒の相手として残した。
殿様を誘惑することに関しては以前から夫婦で相談していたことなので、族之助の妻は巧みな媚で殿様を誘った。
本来、色恋は分別思案の外と云い、殿様も族之助の妻の色香に迷い、ついに一線を越えてしまった。
その後も、度々、族之助の屋敷に行き、族之助の妻との情事に耽ることになり、その内、族之助の妻は妊娠してしまった。
族之助はこのことを殿様の下借腹であると皆に話した。
やがて、月が満ちて、族之助の妻が出産し、見れば、男の子であった。
族之助は大いに喜び、殿様の若君様が誕生あそばされたとして、家中に触れ回り、内藤大蔵と名付けた。
その後、大蔵は十七歳になったので、族之助は磐城平七万石を大蔵に相続させようと思い、殿様にいろいろなことでたぶらかし、嫡子の下野守義英殿のことも讒言していた。
或る時は、族之助が殿様の御前で申し上げたことには、この頃は下野守殿のお部屋では昼夜を問わず一日中、鼓を打ち鳴らし、その上、町方から踊り子を呼び、若侍を集めてはいつも騒いでおります、本来武士が学ぶべきは剣術とか弓馬の道であると思いますが、このように乱心した者のように騒いでいることは、もし他家へ聞かれたら御家の恥でございますなどと言葉巧みに申し上げたので、殿様も族之助の言うことはもっともであると思い、下野守に大変腹を立て、我が嫡子の下野守はこの頃乱心者になってしまったとして蟄居を命じ、次男の能登守を三男とし、大蔵を次男として、下野守廃嫡を家中に御触れとして出した。
下野守殿は文武両道に明るい若殿であったが、乱心と讒言されてしまったことは、下野守殿の不運の初めとなったと云うことであった。
(注記:文中、内藤左京太夫義泰殿とあるは、磐城平藩第三代目の藩主の内藤左京太夫義概のことである。義概は死の前年貞享元年に、それまでの従五位下左京亮から従四位下左京太夫に叙任され、義泰と改名した。また、御嫡子下野守義英は義概の二男であるが、長男の義邦は生来病身で、二十九歳で既に病死していた。それで、二男の義英が嫡子となっていたのである。因みに、大蔵十七歳の頃の各人の年齢を記せば、忠興(二代目藩主、隠居。翌年、七十三歳で死去)が七十二歳、義概(三代目当主)が五十五歳、義英が十九歳、大蔵が十七歳、義孝が五歳、松賀族之助は不明(義概より十歳程度は若いと筆者は見ているが、生年不詳で且つ何歳で没したか、記録には無いので想像しようが無い)、族之助の息子・伊織(後の正元)は没年から推測すれば、義孝と同年の五歳であったと推定される。)
・高萩精玄著「岩城史」二十六頁
左京祐に家老二人あり。
植田外記、松賀族之助といふ。
松賀族之助は近来召し仕へしものなるが、最も慾深きものにして、口には蜜あれども腹には恐ろしき、豺狼の心を貯へ、身には陵羅を纏へども、心はやせたる犬の如く貪って飽くを知らず、その君をして荒暴流連の夢中におとし入れ、酒色の霧中に彷徨せしむ。
【現代語訳】
左京祐には二人の家老が居た。
植田外記と松賀族之助という二人の家老である。
松賀族之助は近年新規に召し抱えた者であるが、ひどく慾が深い者であり、口はまことにうまいが、腹はまことに黒く、狼のような心を持っており、外見は綺麗に飾っているが、心は痩せた犬のように貪欲であり、自分の主君を荒淫暴食暴飲の地獄に陥らせている。
(注記:左京祐とあるは、左京亮義概のことであり、植田外記は上田外記のことである。)
・志賀伝吉著「平藩小姓騒動誌」五十二頁
松賀族之助は、若くしてその才智を認められ、若君義概の側仕えをして、義概の人間性を充分知り尽し義概を自宅に招き酒席に妻を侍らせ殿と関係をもたせ、藩政を掌中に納めようと企んだ。
妻は義概と関係を続けるうち男子を生んだ。
族之助はその子を殿の落胤であると称し、内藤大象と命名した。
族之助は後日若き大象を組頭に挙げ、族之助自身も組頭となり、また一族の松賀菊之助をも組頭に推挙し三河系の旧家臣団に代わって族之助一味が組頭の要職を掌握した。
(注記:内藤大象は、内藤大蔵のことである。また、組頭というのは、内藤家の家臣団約三百名を六組に分け、その組の長に与えられた役名である。例えば、延宝八年(一六八〇)の記録では、組頭は、内藤大象・松賀族之助・松賀菊之助の松賀派三人と上田内記、宿屋求馬、加藤又左衛門の非松賀派三人、計六人居り、それぞれが五十人程度の家臣群を率いていた。組頭というのは、規模は大分大きくなるが、織田信長の家臣で言えば、柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉といったクラスの武将となる)
松賀族之助及び当時の磐城平藩の状況に対する志賀伝吉氏の見解は興味深い。
以下、抜粋のみとなるが紹介する。
①平藩主初代政長、二代忠興は内藤家の基礎を築いた三河以来の譜代の家臣を大事に
した。(内藤藩で言えば、加藤・安藤・上田等が門閥家臣であった。)
門閥家臣に共通して言えることは、自分の立場を死守し、一旦役に就くと贈収賄が
平然と行われ、武士道が地に堕ちた時代であった。
②しかし、三代藩主義概となると、三河以来の譜代の家臣には全く関心を払わず、幼
少の頃から義概の小姓を勤めた松賀族之助を異例の抜擢をして、組頭、家老と破格の昇進を行った。(→ 結果、族之助の専断を許すと共に、三河以来の門閥の譜代家臣の不信、不満を買ってしまった。)
③幕藩体制が軌道にのった寛文・延宝の頃となると、藩も幕府も執行部が官僚化し、
執政の実権を掌握するようになり、藩主はほとんど江戸に在住し、国許の藩政は族
之助といった家老任せとなってしまった。
④加え、族之助は生まれつきの英才をもって、主君に気に入られるように奉公した。
⑤主君を手中のものにするために手段を選ばず、妻をも犠牲にした。
⑥族之助は世間の裏表を知り尽し幕閣等に対する渉外関係上必要な人物であった。
譜代大名の転封が常態的に行われた中で、平藩は長期間免れていた。幕府の執行部
に対する松賀族之助の渉外関係の功績が大きかったものと評価できる。
(政治家としての族之助を評価する立場)
⑦百姓一揆等を未然に防止する政治手腕があった。
松賀族之助は領民の声を聴く機会をつくると称し、藩政の上に下意上達の革新性を
取り上げ、領民の人気を集め、百姓一揆を未然に防止したことは、族之助の功績と
して特筆すべきことである。
幕府からも受けが良く、また領民からも極めて人気が良く当代稀に見る政治家であ
った。
⑧譜代家臣たちはなりふり構わず、主君に媚びへつらい出世していく松賀族之助に反
発を感じてはいたものの、主君の寵愛を一身に受けている限り、族之助に迂闊な手
出しはできず、軽蔑と義憤をもって隠忍自重せざるを得なかった。
⑨封建社会の社会通念としては、全ての役付きには、家柄が最も重要な資格条件であ
ったが、それを無視して族之助の如き新参者が家臣最高の組頭、家老と云う職に就
いたこと自体、憤激の基となった。(後年の小姓騒動の遠因ともなっている。)
⑩勝てば官軍、負ければ賊軍という言葉があるが、これは松賀族之助についても言え
る言葉である。族之助の所業は悪事の限りを尽くしたようになっているが、果たし
て、そうであろうか。毒饅頭的悪人とのみは思えず、藩の譜代家臣団との政争に敗
れ、敗者の道を辿ることとなった、気の毒な汚名を着た政治家であったように思わ
れる。
また、妻と共謀して藩主を誘惑したとされているが、これに対しても、一方的に悪
評を下すべきではなく、主君義概としての節度の問題も当然あるものと考える。
領民から信頼を受けていたことは事実であり、族之助政権が倒れた後年、松賀伊織
の後を受けて家老となった内藤治部左衛門は苛酷な年貢を強いて、元文百姓大一揆
を誘発させている。この結果、政樹の内藤藩は責任を取らされ、遥か九州の延岡に
国替えという事態に陥ったのである。
(注記:この志賀伝吉氏の見解は非常に興味深い。譜代の門閥家臣と新参の家臣という対立の構図の中で、松賀族之助及び彼の一族は捉え直されるべきかと思う。毒饅頭事件にしても、本当に松賀正元が企んだことなのか、そもそも本当にあったことなのか、非常に疑わしいと思っている。正元が政樹を毒殺して、どのような益があるのか、その動機も判らないのである。畢竟、松賀一族を藩政から排除すべきとする門閥家臣団の陰謀に過ぎなかったと私は確信している。勿論、この陰謀の裏には、黒幕として、族之助一族に古い怨みを抱く内藤下野守義英の存在が不可欠となってくる。)
・鈴木光四郎著「歴史散歩 いわき 今と昔」六十四頁
磐城騒動
寛文十年(一六七〇)義概が磐城城主となるや松賀族之助を家老職に任じ弐千石を与えた。
弐千石の家老職は、平藩のような小藩にとっては破格のことであり、如何に彼が優遇されたかわかるのである。
彼は藩財政の改革に功労があり信頼されていた。
松賀族之助の没年に関する記事:
・平市教育委員会刊行、郷土史料双書第一集、内藤侯平藩史料 巻四の四十五頁記載文
三月廿二日松賀族之助江府ニ於而病死 江戸状案詞
(三月二十二日、松賀族之助が江戸に於いて病死 江戸状案詞)
・飯野八幡宮に奉納された絵馬・双鷹図に関するいわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」の記事
奉納者の藤原概純とは、磐城平藩内藤家家老の松賀族之助である。
後に泰閭と改め、俳号を紫塵と号した。
彼の実の祖父は荒木村重の一族で、二万石の大名であった荒木重堅であった。
重堅は、関ヶ原の合戦で石田方に属したため、父は浪人となり母方の姓に改め大野市左衛門と称した。
のちに内藤忠興に三百石で召し抱えられ、その子供の族之助は、幼くして内藤義概に仕え、二千石の俸禄をうける。
元禄十五年(千七百二年)三月二十二日江戸にて没し、墓は鎌倉の光明寺にある。
・四家文吉著「磐城古代記」五十九頁
右京殿病死成されければ、下野守義英殿の二男豊松御年十七歳にて右京殿の養子に願差上げ、内藤民部と名を改め、家継成されける、則ち内藤備後守とは此御方なり、伯父能登守殿の家老族之助相果て、倅伊織家を継げり、・・・
【現代語訳】
右京殿が病死なされたので、下野守義英殿の二男の豊松様、この時十七歳であったが、右京殿の養子として願いが出され、内藤民部と改名されて、内藤家を継がれた。この方が内藤備後守となる。伯父の能登守殿の家老であった族之助は既に死んでおり、倅の伊織が松賀家を相続した、・・・
(注記:文中、右京殿とあるは、内藤家五代目藩主の従五位下右京亮義稠であり、享保三年五月に領内巡見中に病に倒れ、六月六日に死去した、と内藤侯平藩史料には記載されている。享年十九歳(数え年で言えば、二十歳)で亡くなっている。幼名豊松、後の内藤民部、六代目藩主となった内藤備後守は下野守義英の二男の政樹のことである。伯父能登守とあるは、義英の弟で四代目藩主となった義孝のことであり、正確に言えば、叔父である。ここで、松賀族之助は既に死亡しており、松賀家を継いでいるのは倅の伊織と記載されている。伊織は松賀伊織孝興で内藤家の家老であった。但し、この伊織は正徳四年に隠居し、養子の織部が家督を継いでいる。伊織、四十六歳の時であり、隠居料として五百石が下し置かされたと同史料に記載されている。しかし、この伊織は三年後の享保二年に正元と名を替えて登場し、松賀正元を御勝手方として任命し、役料として米三百俵を下し置かれることとなったとも記載されている。また、松賀織部は父の伊織という名前を襲名したのか、伊織と改名した模様で、松賀伊織という名前で同史料に登場している。なお、義稠には実子は無かった、と同史料に記載されている。
松賀三代の名前を整理すると、藩主との結び付きの深さが分かる。族之助・概純、伊織・孝興、織部・稠次の三人の名前の一字、概、孝、稠は、それぞれ、三代藩主・義概の概、四代藩主・義孝の孝、五代藩主・義稠の稠の字を拝領したものだ。自分が仕えている殿様の名前の一字を貰うということは当時大変な名誉であり、松賀三代に対する藩主の信頼の厚さが判ろうというものだ。一方、何らかの咎があり、名前を変えることを命ぜられるということは大変な不名誉であった。有名な例としては、道鏡の天皇即位に反対した和気清麻呂は穢麻呂と改名させられたし、柿本人麿も何かの事件に連座し、猿麿と蔑称されたと云う。今、取り上げている松賀騒動でも、後で述べるように、騒動の後で蔑称では無いが、改名させられた藩士が数名居るのだ。)
・高萩精玄著「岩城史」五十頁
一二 内藤備後守家継
これより先き、家老族之助死して、子息伊織正元に譲りけり。・・・
(注記:文はこのように記載されているが、同頁の註二に、松賀族之助は死亡したのではなく、隠居して自分から正元と名乗り、養子に伊織と名乗らせた、と高萩精玄は記載している。これが事実であれば、族之助は九十近い年齢となり、当時の人の寿命から言えば、いささか信じ難い。やはり、内藤侯平藩史料で記載されているように、族之助は政樹相続の十八年前に、七十幾つかで死去していたと考えるべきであろう。)
・平観光協会編「いわきの歴史と観光」二十五頁
磐城騒動
内藤氏末期に所謂「お家騒動」が起こった。三代義概から六代政樹にいたる時代である。
(途中、略)
寛文十年(一六七〇)三代義概が城主となるや、松賀族之助を家老職に任じた。
族之助は子の伊織とともに要職に在任すること五十年、彼の俸禄と権力の増大につれて、遂に逆謀を計画した。・・・
松賀一族が、藩政の中心となり、勢力を拡大していた。事件は次のように発展した。
族之助は妻を側近に侍べらしていたが、間もなく男子が生まれた。
この子は殿の子であるとして、内藤大蔵と命名し、内藤家横領に着手した。
忠臣、浅香竹右衛門は、江戸において、この陰謀を聞き磐城に来り、松賀父子を大手門殺害せんとしたが、捕らえられて獄死した。
このことがあってから、怪事件が続き内藤大蔵は怪死した。
松賀父子は、大願成就のため、飯野八幡神社に神輿したという。
享保四年(一七一九)正月、族之助は藩公政樹に毒饅頭を献じた。政樹はその色の常と異なるを怪しみ犬に与えたが、犬が即死したので悪事は露見した。
同年三月、族之助は牢死した。
城南谷川瀬の真浄寺に葬られた。
(注記:ここでも、松賀父子は族之助と子の伊織となっている。享保四年は政樹が六代目藩主となって始めて迎える正月であり、松賀父子が毒饅頭を献じたこととなっており、露見した後、族之助は三月に牢死したことになっている。)
・志賀伝吉著「元文義民伝」七十頁
六代 内藤備後守政樹
享保三年(一七一八)義稠に嗣子がなく、義英(露沾)の子政樹が藩主となった。
藩政を掌握していた松賀族之助(正元)がその子伊織(家老)と謀り、族之助はさきに義概の側近に妻を侍らせた時、殿の子を懐胎したと称し、その子大蔵に御家を相続させようとし政樹に毒饅頭を献納したが、その悪事が見破られ族之助父子は召捕られ磐城に送られて切腹を命ぜられた。
かくして族之助一味は悉く滅亡した。
族之助は寛文十年(一六七〇)忠興が隠居してから享保四年(一七一九)まで執拗にも四代四九年間にわたって藩政を掌握し、横暴の限りを尽し政道をみだして来たが、政樹の代に至り遅ればせながらこれを誅伐する事ができた。
(注記:ここでは、族之助が正元と改名し、子の伊織と謀って、内藤大蔵に内藤家を継がさんと画策し、新藩主の政樹に毒饅頭を献じたものとされている。内藤大蔵はこの時点まで生存しているとされ、且つ、族之助は磐城に送られて切腹したことになっている。随分と疑問を感ずる記載となっている。)
・鈴木光四郎著「歴史散歩 いわき 今と昔」六十四頁
磐城騒動
享保四年(一七一九年)正月、族之助は六代政樹に毒饅頭を献じた。
政樹その色の常と異なるを怪しみ犬に与えた。
犬が即死したので大いに驚き家臣に調べさした。
政樹は国家老内藤治部左衛門を江戸に召して松賀父子を捕えて磐城に下し、城内桜町の牢舎に移した。
同年三月、族之助は牢中にて病死したので、平市谷川瀬の真浄寺に死体を葬った。