神社
八月七日。
純司は自宅のリビングの床に転がり、ひたすら天井を眺めていた。
芳邦と真理には本当に申し訳ないと思っている。
押入の記憶から意識が戻ったのは、翌日の昼だった。布団に寝かされていた事を不思議に思い、起き上がってリビングへ行くと、二人に随分と心配された。
熱中症で死なれたらどうしようかと思ったと芳邦には氷枕を投げ付けられたし、黙ってこちらを見る真理の目は、本当に困っているようで直視出来なかった。
記憶の事は話さなかったが、外に出ることが出来ず、せっかくの夏休みを自分の籠城に付き合わせるのも申し訳ないと帰ろうとしたが、二人は引き留めてくれたのだった。
五日の夕方に自宅に戻った瞬間から、純司はほとんどリビングで転がっている。
課題は全て終わらせた。問題を解いている間は余分なことを考えなくて済む。終わってしまって困っているくらいだった。
突然テーブルが騒ぎ出し、純司は飛び上がる。
携帯電話のバイブレーションだ。
手に取って通話ボタンを押すと、静寂とはかけ離れた声が鼓膜を震わせる。
「おう純!体調戻ったか?死んでねーか?」
「死んでたら出ねぇよ」
「でも、ごめん」そう呟くと、芳邦はぐふぐふと笑った。
「しおらしいなー。もっと図々しくて良いんだぜ」
からかうような調子だが、純司にはその言葉が嬉しかった。
ひとしきり笑った芳邦は呼吸を整える為に大きく息をつく。
「はぁ、気弱純ウケる。でもお前アレなんだろ。真から聞いたけど、何か視えんだろ?巫女とか」
「ああ。視たよ」
電話口の声が真面目になり、本題に入ったのだとわかった。
お祓いに行けとか、視えなくなるまで近寄るなと言われるのではと身構える。
「巫女で思い当たるのがさ、近所に誰も手を入れてない廃墟みたいな神社があるんだよ。ちょっと、行ってみねぇ?」
予想とは全く違う提案に、純司は戸惑った。遠避けられるどころか、根源らしい場所まで同行しようとは。
「…それ、樋尾も一緒に?」
「それがさ、真のやつ、五日に解散してそのまま実家に行ってるみたいなんだわ」
先日も実家へ帰ると言っていたが、そんなに早く行動しているとは思わなかった。
真理が居ないとなると、純司は不安を抱かずにはいられない。
「大丈夫なのかよ。お前は視えもしないし、俺だって何が出来るわけでもない。危ないんじゃないのか」
「夜に肝試しに行こうってんじゃねーし、真には電話とかで助けてもらうつもりだし、解決の手掛かり探しくらい平気だろ」
純司とは対称的に、芳邦は声を弾ませる。
不思議と、どんな時も芳邦の言葉を聞くと本当に大丈夫な気がしてくるものなのだ。それで何度課題を後回しにして苦労したか知れない。
承諾した純司は、翌日の十三時にY駅で落ち合う約束をして電話を切った。
八月八日、十三時。
Y駅の改札を出ると、芳邦が待っていた。
前と同じように、鳴島家の方へ向かって歩き出す。
芳邦の言う神社は、鳴島家のある住宅街の外れにあり、昔はそれでもゴミ拾いや草刈りなどが行われていたらしい。町内会長が変わったか何かをきっかけに、それも無くなったのだそうだ。
「そういうのが無くなってさ、まあ楽には楽なんだけど、近所がよそよそしくなった感じがするんだよな」
人気の無い住宅街を見渡して、純司は頷く。
あまり住みたくはない。口には出さないが、そう思った。
「あ、ほら。あそこ」
指差された先を見ると、家々の先に鬱蒼とした緑が見えた。神社を囲む木々のようだ。
色とりどりの屋根の中、そこだけが山中でもあるかのようで、なんだか異様にも感じる。
ふと視界が歪み、頭を振った。
目を開いた瞬間に広がった光景に固まる。
暗い廊下、閉じた扉─。記憶の中の風景。
「純?どうした?」
我に返ると、数歩先で芳邦が心配そうにこちらを見ていた。
「なん、でもない」
噴き出した冷や汗を拭って歩き出す。
やはりこの神社に何かあるのだと感じた。
木々の間からのぞいてみると、草が茂り落ち葉が積もった薄暗い境内が見えた。
社は大きくなく、今にも朽ちて崩れそうだ。くすんだ賽銭箱と鳴りそうにもない鈴の他には特に何も無い。
「正面に回って入ってみようぜ」
言うなり芳邦は石で出来た苔だらけの鳥居へ駆けていく。
「おい!突っ込むなって…!」
慎重に調べようとしていた純司は引き留めようと手を伸ばすが、背中は境内へと消えていく。
芳邦を置いて退却することも、単独で調査を進めることも出来ず、純司は仕方なく後を追う。濃い緑に隠された鳥居は、世の全てを阻んでいるかのようだった。
ゆっくり足を踏み入れた瞬間に体が大きく傾き、何とか右足で踏み留まった。目の前がテレビの砂嵐のようにチカチカして、目頭を押さえて頭を振る。
砂嵐が引いた視界を広げてみると、何か違和感があった。
記憶の中の風景でも無く、神社の境内ではあるようだ。
「…まだ、三時にもなってないはずだよな」
違和感の正体に気付いた純司は辺りを見回す。十五時を過ぎてもいない筈の景色が、真夜中の暗さに変わっていた。木々が光を遮った暗さとは違う、本物の闇だ。
更に、落ち葉だらけで雑草の生えていた地面は葉ひとつ無い綺麗な石畳となり、両側を赤い燈籠に照らされて長く先まで続いていた。
木の向こうを見ても闇しか無く、住宅街だとは思えない。土地の広さは、先程のぞいていた薄暗い神社では有り得ないくらいにどこまでも続いている。
振り返っても鳥居は無く、同じように石畳が続いているだけで、純司はとにかく前へ進むことにした。
「鳴、居るか?鳴」
呼び掛けるが、やはり返事はない。
枝のざわめく音も、虫の声すらも聞こえてはこなかった。
歩いている内に、燈籠が純司の周りだけ灯しているのに気付いた。近付けば灯り、過ぎれば消える。そのため、石畳の先は暗くて見えない。
しばらく進むと、目の前に赤い大きな鳥居が現れた。
立派ではあったが、燈籠の灯りは全てを照らしておらず、闇と混じって不気味にも見える。
何も無い道が延々と続くかと思われた矢先の出来事に安心を感じながらも、それに勝る緊張感に身を屈め、そっとくぐり抜けた。
同時に、前方の燈籠が一斉に灯る。
ぼんやりとした灯りが示すのは、大きな朱色の社だ。
歴史のありそうな、豪華な造りの社に見とれていると、その手前に人影があるのに気付いた。目を凝らし、純司は固まる。
白い着物に、紫の袴。長い黒髪。こちらに背を向けて、巫女が立っていた。
気付かれない内に逃げなければ。そう考えることは出来ても、体が動かなかった。恐怖ですくんでいるだけではない。まるで金縛りにあっているように、どんなに力を入れても動かないのだ。
ちりん。
自分が動けなくなっている間に、巫女が先に動き出す。ゆっくりと、こちらを振り返る。
気付かれない内に─そんなのは無理だ。既に気付かれてしまっている。いや、始めから誘い込まれていたのかも知れない。
巫女の横顔が見えた。前髪で目元は隠れているが、その唇は邪悪な笑みを浮かべている。
「ぐっ…ぅぐ!」
どんなに力を込めても焦っても体は動かない。
早く逃げなければいけないのに。
くすり。
聞いたことのある声がした。
純司の左側から、終業式の日の交差点で見た少女が現れる。
「き、君は」
声が出た。そう気付くと、体が動いた。
膝を押さえて息を整える純司を見てくすくすと笑う少女は、一度社とは反対側を指差して駆け出した。
「あっ、待って!」
助けてくれたのだと直感した。ならば、彼女の背中を追うしかない。震える足を無理矢理動かし、石畳を駆け戻る。
背後を見ると、巫女は地面を滑るように、すごい早さで追い掛けて来ていた。
「ひっ…!」
巫女の顔、先程振り向いた際に見た、左側は美しい。異様に目は大きいが、人の顔ではあった。
しかし右側。顔面の右半分は、人ではない。何とも表し難い醜くおぞましい表情が、純司を睨み付け、襲い掛かる。
「…ぅああっ、誰か…!な、鳴!鳴!」
息を切らせ、咳き込みながら助けを求めて叫んだ。
やはり誰からの応答も無く、巫女は徐々に距離を詰めている。少女は鬼ごっこでも楽しむかのように、身軽に石畳を跳ねた。
ポケットに携帯電話が入っているのを思い出した純司は急いで引きずり出し、震える指でボタンを押して、躓きながら耳に当てた。
「頼む、出ろ!樋尾…!」
何度もコール音が続く。目を離した時、少女は石畳を逸れて木の間へ駆け込んだ。必死に後を追ったが、小さな背中は見当たらない。
呆然として足を止めたが、ゆっくりしている時間は無い。やみくもに木々の間を駆け、住宅街を目指した。
耳に当てた電話からコール音が途切れ、繋がった気配があった。
「樋尾、樋尾!助けて樋尾っ!」
電話に縋って呼び掛けるが、聞こえてくる音声はノイズが混じり途切れ途切れで聞き取れない。
しかし相手の声は真理であると確信出来た。
「Y市の神社っ、わけ、わかんなくて!俺っ…巫女に追われてて!助けて樋尾!」
こちらの音声が無事に届いていることを祈りながら、状況を叫ぶ。
途切れる真理の声は必死に何かを伝えているようだが、走っているため電話がずれて上手く聞こえない。
どこか隠れられる場所が無いか見回すと、前方に木製の壁が見えてきた。建物のようだ。
駆け寄るとそれは古い日本家屋のようで、壁だと思ったのは木製の雨戸だった。とにかく急いで引き開け、身を滑り込ませて閉じる。
「はぁっはっ、悪ぃ…もう一回、言って…」
しっかり聞こうと耳を澄ませても、先程よりノイズが強くなっていて、何を言っているかわからない。
更に何か、声が低くなっているようにも思えた。
違う。
低いのは、真理の声ではない。
電話からの音声とは別に、違う声が聞こえている。
純司はゆっくりと、電話から耳を離す。
「…なぜ、連れてきた…。ここは、守られていたのに…!お前が…お前が!」
肩に痛みが走った。掴まれている。
耳元で聞こえるのは、知らない男の声だった。
「来た!嫌だ…、嫌だ!」
直後、雨戸ががたがたと震え出し、男の呻き声が遠ざかっていった。
声は、消えた。しかし…まだ掴まれている。
声が聞こえていた時より、力は無くなっているが、確かに肩には違和感がある。
通話のことも忘れ、純司は恐る恐る、右肩を見た。
「ぅあっ、あ…、あああぁああああああああ!」
枯れた腕。人間であった物だ。
純司を掴む者、それは、怨めしそうにこちらを見上げた、ほぼ骨と化した男の遺体だった。
(続)