交差点
七月も終わりの真夏日。
数百人が集められた空間に、単調な男の声が響く。
有難いんだか迷惑なんだか、暑い中で長々と続くご高説に皆の視線はちらちらと、壁に掛けられた時計へと向く。
「─ええ、それではァ、一高校生としての責任と、我が校の生徒としての自覚を持ち、有意義な夏休みにしてください。校長からは以上です」
連休と云う楽園へ向かう為の苦行、終業式が終わった。
ざわめく教室で窓際の席に座り、どこまでも平凡な評価の書かれた通知表をパタパタと持て余すのは、高校二年生の内村 純司だ。
特に予定も無い夏休み、平凡に暑さに負け、平凡に誘惑に負け、平凡に課題を溜め込むのが目に見えている。
どの課題であれば成績にあまり響かせず逃れられるかと考えていると、通知表を待つ時間を潰す為、鳴島 芳邦がやって来た。
「純、成績どうだった?」
「別に。どこまでも普通」
純司の答えに、芳邦はけらけらと笑いながら「純らしいわ」と呟いて、隣の席に座った。
「悪ぃね、通知表もらった人から帰れるってのにさ」
芳邦が謝る横で、木村が荷物をまとめて教室を出ていく。
それを横目で眺めながら、純司は通知表でパタパタと芳邦を扇いだ。
「お前ら待つくらい気にしねーよ。用事ないし」
教室内からは、既に多くの生徒が姿を消していた。純司のように友人を待つ為に残っている他は、どんどんと廊下へ流れて行く。お陰で順番を待つにも席に着く者はなく、他クラスは真面目にだらだらとホームルームを進める中でこのクラスは騒がしい。
ふと話している二人の元へ、もう一人の男子生徒がやって来た。それまで自分の席で読んでいた本を手に、純司の前の席へ座る。
小難しそうな表紙の本ではあるが、カバーを捲ってしまえば実は漫画であることは純司も気付いている。
「グッダグダだな、うちのクラス。大歓迎だけど」
そう呟きながら人差し指をちょいちょいと動かし、純司に扇げと訴えるのは樋尾 真理。真顔でいることが多く真面目な印象を受けるが、言動は三人の中で一番予測が出来ない。クラスの中でも謎の多い男として認識されている。
「芳、順番」
寺井が戻ったのを見て真理が呼び掛けた。
「うえーい」
やる気のない返事をしながら、芳邦は教壇前の担任の元へと向かう。
それを目で追いつつ真理は漫画を開いた。
「アイツが喜んで戻ってくるか死んだ目で戻るか、賭けようぜ」
真理の提案に、純司は「ジュース?」と問い掛ける。それは承諾の意であり、真理は漫画に視線を落としたまま「ブリックでいいよ」と返した。
「じゃあ俺は、鳴のことだし期待を込めて死んで戻る方で」
言いながら純司は教壇の方へ視線を向けるが、芳邦はこちらへ背を向けていて表情は読めない。担任が真面目な顔で何か言っているのに何度も頷いていた。
「あ、今日サイフ持ってたかな」
「なんだよそれ。今更やめたとか言っても無効だからな」
いつも通りのマイペースな真理に呆れていると、芳邦が椅子から立ち上がった。読めない表情のままずんずんと元の席へと戻ると、椅子にどかっと腰掛ける。
結果が気になる純司からの強い視線に首を傾げながらも、芳邦は通知表を掲げ、息を吸い込んだ。
「見てみろよ。すげぇぞ」
ぱらりと捲る純司の前でどんどん笑顔を浮かべていく芳邦を見て、真理は左の口角をゆるりと上げた。
「…僕の勝ち」
学校を出た三人は、陽射しと蝉の騒ぐ道をだらだらと歩き出す。
鼻息を荒げながら、芳邦は未だに通知表を眺めていた。
「いや、すごくね?オレ天才じゃね?」
「数学な。数学だけな。他ボロボロじゃねーか」
「僕は得したから何だって良いけど」
突っ込む純司の横で、真理がコーヒー牛乳を一瞬で吸い込んでいく。芳邦が「崇めろよ!」と胸を張る。
何か納得のいかない純司は携帯電話の画面を睨み付けた。
「変な賭けに乗るんじゃなかったなぁ。なあ天才、樋尾のこと真理の真で真って書くけどさ、真理は真で真と書いて理の理なんじゃないの。なあ天才」
夏休みの予定を聞いた時のメール文章を見ていたら、普段はスルーするようなことまで口を出してしまった。
ぽかんとした表情を浮かべた芳邦は、視線をぐるりと回してから真理を見た。
「そうなん?真」
「テキトーで良んじゃね。僕は構わんよ」
成績が学年上位の本人様に言われてしまうと、返す言葉は何も無い。むすっと携帯電話を動かしていると、芳邦が背中をばんばん叩いた。
「まあまぁ。暑っちいからって紙パック一個でそんな拗ねるなよ。オレからサプライズ報告あるからさ」
サプライズと言われ、純司と真理は同時に「あ?」と聞き返す。
背中のリュックに通知表を押し込みながら芳邦が満面の笑みを浮かべた。
「オレの家族さ、八月の一日から五日まで、何処かに旅行に行くんだってよ。だからお前ら、ウチ来いよ。一日から五日まで」
「芳は行かねーの」
芳邦の誘いに、真理が尋ねる。四泊五日の家族旅行となると、家族の一大イベントの筈だ。
勢いよく首を横に振り、芳邦は顔をしかめた。
「ムリムリムリ。家族と温泉とか無いだろー。お前らと銭湯行った方がまだ楽しいね」
「不孝なヤツだな、お前」
呆れながらも、純司には有難い話だった。ただ潰すには長い休みが楽しくなる。成績の良い真理や、数学だけ異様に成績の良い芳邦も居るので課題も少しはどうにかなりそうだ。
「何気に鳴の家って初めてだな。どこだっけ?」
浮かんだ疑問を投げ掛けると、芳邦は視線を泳がせた。
暑いアスファルトの上でバタバタと謎の動きをして何かを誤魔化そうとしている。
「ほら!当日オレが引率するからさ、楽しみに取っておこうぜ!って事で、一日に駅集合な。何かあったら連絡しろよ」
言うだけ言って、手を振りながら駅の方向へ逃げて行った。
そんな芳邦を見送りながら、純司と真理が顔を見合わせる。
「なんだアレ」
「僕は理由がわからないでも無ぇけど、アレは酷い」
「なに、理由って?」
誤魔化されるようなことに思い当りが無いので訊いてみたが、真理は「バスが来た」と駆け出した。
「お前!バスと俺とどっちが大事なんだよ!」
去る真理の背中に向けて声を上げると、振り返ってにやりと笑い、「ばーか」と言って丁度停まったバスに乗り込んでしまった。
取り残された純司は走り出すバスを見ながら「なんだよ」と呟いて、バスとは反対側に歩き出す。
芳邦の隠し事は気になるが、教えるつもりはある様子だったし、真理も深刻そうには見えなかったので深く悩む必要も無さそうだ。
交差点の赤信号で止まり、むくむくとした入道雲を眺めた時だった。
近くから、笑い声がした。くすくすと、くすくすと。
視線を回すと、左側に小さな女の子が立っていた。純司を見上げてくすくすと。
「な、なに…?」
子供は少し苦手だった。けれど、その少女はしっかりと純司を見ている。純司に笑顔を向けている。
少女はくすくすと笑ったまま、隣の信号を指差した。
歩道で信号待ちをしている五人程の人が居た。手元を見ていたり、音楽を聴いたりしながら、普通に赤信号で止まっている。
その中で、怪しく動く人影。ふらふらと動きながら、両手を前に突き出している。前には中学生らしい学生が立っていた。
「うそっ、だろ…!」
青褪めながらも、純司は駆け出していた。青信号を駆け抜けて、隣の歩道へ躍り出る。
怪しい影は、誰にも気付かれないまま突き出した両手を前方の背中へ押し当てた。
「おい!危ねえって!」
伸ばした手の先で、学生の体が傾く。車道には大型のトラックが近付いている。
思い切り踏み込み、人を押し退けて横断歩道へ飛び込む。指が学生のリュックに触れ、無理矢理手繰り寄せて強く掴み、引き寄せた。
投げる形で学生を歩道へ連れ戻すと、トラックが大きなクラクションの音を響かせながら走り去って行った。信号待ちをしていた人達も、学生も、通り掛かった人達も呆然としていた。
ほっと息をつき、すぐに周りを見回すが学生を突き飛ばした人影は無い。ただ、元いた場所では少女がこちらを見て、くすくすと笑っていた。信号が変わり、車が通って見えなくなった一瞬の間に、彼女の姿も無くなった。
向かいの歩道には交通指導の婦警が居たようで、すぐに駆け寄って来た。周りに居た人達も足を止め、遠巻きに様子を見ている。
何度も礼を言う学生に生返事を返しながら、婦警に怪しい人影のことを話したが、遠巻きの目撃者達は学生が突然車道に飛び込んだとしか言わなかった。学生自身、何かに押された感覚は無く、体が車道へ傾いたのだと話していた。
学校や名前を訊かれたが、急いでいると言ってその場を離れ、純司は周りを気にしながら家へと急いだ。
少女や人影のことを考えてみるが、他の人間には見えていなかったし、一瞬で姿を消してしまうとなると、おかしいのは自分ではないかと思えてきた。もしかしたら暑さでおかしくなっているのかも知れない。
たまたま虫の知らせのようなもので人の命が救えたのを、おかしくなった自分の頭が勝手に脚色してしまったのだろう、そう思うことにした。
終業式から八月一日までの間、特に変わった出来事も無く、予想通り暑さに負け、睡魔に負け、家と近所のコンビニを往復するだけの日々だった。
それでも芳邦の家へ泊まる準備は何とか整え、七月三十一日に芳邦から届いたメールに従い、八月一日、午前十時に駅へ着くよう家を出た。
約束より三分程前に駅に着いた純司が辺りを見回すと、既に真理が待っていた。紺色のリュックを背負っているだけで荷物は少なく、ボストンバッグをパンパンに膨らませている純司は少し恥ずかしくなった。
「よう、樋尾。早いな」
「おう、純か」
声を掛けると、真理は携帯電話から顔を上げた。パクンと折り畳んでポケットに仕舞い、改札の方向を眺める。
「引率が一番遅えってどういう事だよ」
「暑いし荷物もあるってのにポンコツだな」
ため息をつきながら純司に向き直ると、真理は少し悩んだような顔をして顎に手を当てた。
何を考えているのかと純司が首を傾げると、慎重に言葉を紡ぎ出す。
「お前さ、終業式の日なんだけど…」
「遅れてすまーん!」
真理の話を遮るように、改札から芳邦が飛び出して来た。
突然の温度差に純司が戸惑っていると、真理は芳邦の腰骨辺りを膝で蹴り出した。
「芳コラお前。出てくるタイミング考えろ」
「何だよオレが居ない方が良いみたいに!まさか陰口か?このネクラ!」
「誰がネクラだてめえコラ」
騒がしく言い争いながら、二人は券売機の方へ走って行ってしまった。もやもやを抱えたまま大きくため息をつき、純司も仕方なく後を追う。
小走りで二人に近付くと、芳邦が敗北したようで頭を鷲掴まれた状態のまま何度も謝っていた。
「おいポンコツ引率。それでお前の家はどこなんだよ?切符買えねえだろ」
ぱっと顔を上げた芳邦は「おぉ、そうだ」と言って真理から逃れ、純司のボストンバッグを握り締めた。
「オレの家、Y市なんだよ」
「…え」
背中を駆け抜ける冷たいもの。Y市と聞くと、いつもそうだ。
知らない間に後退っていたようで、芳邦の腕が逃すまいと力む。
「やっぱりな。お前さ、Y市のヤンキーにでも目を付けられてんの?」
「遊びに行くにも、Y市って聞くと顔青くして断るしな」
二人は純司の反応を予測していた様子だが、純司自身に自覚は無かった。普段からそんなにもY市を避けているのかと改めて驚く。
自分では避けているつもりは無かったし、避ける理由もわからない。
「いや、別に…理由は無い、けど。子供の頃はよく行ったし。……あれ、何で行ってたんだっけ…?親に…連れられて…」
急に深く考え込んだ純司を見て、二人は顔を見合わせた。明らかに純司の顔色は悪く、何か深い理由がありそうだ。
「暑いんだから、急に脳みそ使うな。課題が出来なくなるぞ」
芳邦の心配そうな声で我に返り、純司は二人を見た。
何かを思い出しそうな気がしたが、忘れているのであれば大したことは無いのだろう。きっと犬に噛まれたとか、知らないオヤジに怒られたとか、その程度の事だ。
「そう、だな。時間も勿体ないし、早く行こうぜ」
他に予定も無く、準備を済ませて出てきたのだから、たとえ何処であろうが行かない訳にはいかない。
Y駅への切符を買うと、三人はホームへ向けて駆け出した。
くすくす。
ふと足を止め、純司は辺りを見回した。
くすくす。
背後を駆け抜けたのは、交差点で見た、赤い─。
「どうした純、トイレかー?」
「あ、いや。何でもない」
気のせいか。そう思い直して走り出す。
二人を追い越して階段を駆け上がった。芳邦が負けじと追ってくる。
真理はじっと階段下で、純司が見詰めていた方向を睨み付けていた。
(続)