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相楽さん

 夕方のブロードウェイ周辺は仕事帰りのサラリーマンとOLでごった返している。ブロードウェイといってもニューヨークではなく、ここは中野駅の北口だ。

 自転車を押しながら、あちこちから漂ってくる芳ばしい香りに僕は顔をしかめる。

 気楽なもんだ……。こっちはこれから訪問だっていうのに……。

 人の波に揉まれながら、心の中で悪態をついた。

 ドンキの前を通過して早稲田通りに出る。ここまで来れば、自転車に乗っても大丈夫だ。

 早稲田通りを環七方面に自転車を走らせる。横に広がって歩く女子高生やスマホを見ながらフラフラと歩くOLを華麗な自転車捌きでかわしながら、ひた走る。

 最終の難関である野方商店街をくぐり抜け古びたアパートの前までやってきた。

 時刻は既に18時になろうとしている。普通の会社であれば退社の時刻であろうが、僕の仕事は自分では時間を選ぶことはできない。

 アパートの前に邪魔にならないように自転車を停め、目の前のドアをノックする。チャイムだと近所迷惑になるからだ。


「こんにちはー!訪問看護でーす」


 返事がない。ただの屍のようだ。


 昔のゲームのワンフレーズを思い出し心の中でニヤつく。

 しばらく待ってもドアは開かず、結局、僕は鞄の中から合鍵を取り出しガチャリとドアを開けて玄関に入る。

 決して泥棒しようとかそういうつもりではない。ちゃんと住人が生きているか確認しなくてはならないのだ。住人が死んでいたり、行方不明にでもなってたりしたらシャレにならない。


「こんにちはー。相楽さーん?いらっしゃいますかー?」


 玄関まで入ると、その部屋がいかに異常な状態かがわかる。もはや調理する機能を失った台所、床に散らばっている弁当のカラやペットボトル。ゴミ箱のような臭いに大量の子バエ。

 とても人が生活できるような環境ではないが、この部屋には確実に老人が暮らしている。

 ゴミの中の小さな塊が動いて、こちらを振り向く。


「誰だ!?誰の許可をもらって部屋に入った!?」


「すみません。相楽さん。トータルケア訪看の築島です」


「なんだそれは!?俺は知らん!とっとと出ていけ!」


 出ていけと言われても簡単に引き退るわけにはいかない。


「やだなぁ。先週も来たじゃないですかー?ほら、ヤクルトの話しましたよね?」


「ヤクルト?お前、ヤクルトが好きなのか!?誰が好きだ?」


「僕は石川投手ですよ!相楽さんは誰のファンですか?」


 話しながら少しずつ部屋の中へと進んでいく。


「俺は池山だ!あいつは面白いヤツだ!まぁ、こっち来て座れ」


 石川投手は現役だけど、池山選手はすでに引退している。そんなデタラメな会話でも相楽さんにとっては“ヤクルトの話”で整合性がとれてしまう。

 この相楽勝(さがらまさる)さんは、62歳で若い頃から統合失調症を患い、今は認知症状も出て来ている。長い間入院生活を送ってきて、今は生活保護を受けながら一人暮らしをしている。

 相楽さんのような精神病を患った一人暮らしの人は少なくない。昔は何十年と入院できた病院も、今となっては、やれ就労支援AだBだと病院を追い出され、適応できなかった人間は、あっという間に放逐される。精神は病んでいるけど、身体は元気なので介護認定も受けられない。そうなると頼れるサービスは訪問看護くらいなのだ。

 僕はこの1時間の訪問で時給4000円を稼ぐ。1時間の訪問では約6000円の収入になるが、残りは会社の取り分となる。それでも高時給のアルバイトなのは間違いない。

 他愛の無い話をしながら血圧や体温を測定していく。今日もバイタルは異常なしだ。


「特に異常はないですね。血圧も良いですよ」


「当たり前だろ。俺は病気なんてした事ねぇんだ。ところで、お前は誰だ?何しに来た?用がないならとっとと帰れ」


 まずい。話が最初に戻ってしまった。


「あ、そろそろプロ野球中継始まるんじゃないですか?」


「お!そうだそうだ」


 そう言いながら相楽さんはテレビをつける。

 決して否定してはダメだ。言い争ってもダメだ。精神病の患者さんと上手に付き合うには受容しなければならない。何を言われても怒らず耐える。これは基本だ。

 テレビを観ながらいつもと同じように野球を語り始める相楽さんを尻目に、僕は部屋のあちこちをチェックする。血圧を測るなんていうのはついでのようなもので、こっちがメインだ。

 何を食べて何を飲んでいるか。薬は飲んでいるのか、アルコールを摂っていないか。などをゴミの中から判断する。

 薬は飲んでいないようだが、アルコールや危険物はなく、食事も摂れているようだ。


「相楽さん。お薬ここに置いておきますよ。じゃ、僕はこれで帰りますね。ヤクルト勝つといいですね!」


「おう!勝つに決まってら!また来いよ!」


 変に無理強いはせずにさりげなく薬を勧める。飲んでくれたら儲けものといったところだ。

 きっと次に来る時も誰だかわからないだろうけど「また来いよ」という言葉に少しだけ救われた気がした。


 僕は相楽さんの部屋を出て、陽が沈んでネオンが輝き、大勢の人々が行き交う繁華街を、顔をしかめながら事務所に向けて自転車を漕いだ。







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