第6話・穏やかな気持ち
春樹どのと挨拶くらいしか交わさぬ日々が続いておった。寂しい気もするが、正直なところ、ほっとしておるのも事実だ。
今、触れられても拒否してしまいそうで、春樹どのを傷つけてしまいそうで、怖かった。
そんなある日、天界へ行くと帝から所用を頼まれた。
「今年は害虫が多く、米が不足する兆しが見えておる。このままでは貧困層で餓死するものも出て来るやもしれぬ。」
「そんな大変な事が…」
「そこで、下界で米の調達を頼む。下界の害虫を入れぬよう、精製されたものだけを調達してくれ。満月の夜には、柳本を遣わすこととしよう。」
「承知いたしました。すぐにこちらでも準備いたします。」
柳本どのに話をしたところ、以前にも調達をした事があるらしい。下界で米不足にならぬよう、複数の店舗で少しずつ購入するのが良いそうだ。この調達が時間掛るらしい。
「今回は、下界の単位で言えば三十トンがご所望です。」
「使者はどのくらい運べるのだ?」
「何度か往復しても一晩に三トンが限度です。」
「三十トン運ぶのに約十カ月もかかってしまうぞ。それまでに餓死者が出る可能性は?」
「残念ながら、過去にその報告はございます。果物に被害が無ければ飢えを凌ぐことも出来るのですが…」
「それならば、私が少しずつでも運んでおこう。」
「無理はせぬよう、お願いいたします。」
そして、爺やが街中のスーパーを巡って買ってきてくれた米を、私が天界へ運ぶ日が続いた。米とは別に、クッキーのような栄養食も非常用として購入して貰い、それも天界へ持って行った。
「しかし、米とは意外に重い物であるな。一度に二袋が限度であるぞ。」
「かぐや様、能力を使うだけでも体力は消耗します。あまり頻繁に行かれると…」
「婆やは心配し過ぎであるぞ。餓死者が出る事を考えれば大した事では無いわ。」
そうは言っても一日に五往復もすれば、疲れきってしまうのも事実である。もう少し体力をつけねば…
その日もいつもどおり天界の道場へ来ておった。昨夜、春樹どのは秋人どのの部屋に泊まると連絡があったが、今日は屋敷へ帰って来るであろうか…
そんな事を考えながらため息をついたら、義兄上に心配されてしまった。
「かぐやどの、何か悩み事ですか?少し痩せられた気がしますが…」
「義兄上、ここでは褒め言葉ではございませんよ。」
「褒めてはおりません。心配しておるのです。」
「ふふ。大丈夫です。」
「かぐや様、少し顔が赤いようですが、熱があるのでは…」
「柳本どのまで心配し過ぎであるぞ。今宵は満月、後で我が屋敷に来るのであろう。」
「今回もお世話になり、恐縮です。」
「良い。餓死者が出ぬよう、共に頑張ろうではないか。」
「はい。尽力させて頂きます。」
「さて、ではそろそろ始めるか。」
クラッ…
立ち上がったところで、急に眩暈がして視界が歪んだ。
え?
「かぐやどの!」
「かぐや様!」
そのまま目の前が真っ暗になり、意識を手放した。
----------
秋人の部屋に泊まってそのまま会社へ行き、一日ぶりにかぐやさんの屋敷へ帰った。
「ただいま帰りました。」
いつもならすぐに出て来る婆やさんが居ない。不思議に思いながら部屋へ向かうと、中庭に天界の使者が立っているのが見えた。そして、牛車からかぐやさんを抱きかかえた柳本さんが降りてきた。
「え?」
「ああ、春樹どのか。恐らく過労が原因かと思われるが、天界で倒れられたのだ。熱に浮かされながらもそなたの名前を呼ぶので、連れ帰ったまでだ。」
「そうだったのですね。」
かぐやさんを布団に寝かして、柳本さんから事情を聞く事にした。
「何があったのですか?」
「それが…」
そこで初めてかぐやさんが帝の命で動いていることを知った。餓死者が出ないよう、無理して能力を使っていたことも…
「では、かぐや様を頼んだぞ。」
「分かりました。連れ帰って頂いて、ありがとうございました。」
柳本さんと入れ替えに、婆やさんが桶と手ぬぐいを持ってきてくれた。濡らした手拭いを熱っぽい額に置いて、恐る恐るかぐやさんの頬に触れてみた。
久しぶりに触れた頬は熱く、荒い呼吸が、私の知らないところでかぐやさんがどれだけ頑張ってきたかが伝わってくるようだった。
「すみませんでした。こんなになるまで気が付かないで…」
自分一人で抱え込んで、まったく周りが見えていなかった事に、やっと気が付かされた。
一人で空回りして勝手に酔っ払って、私は何をやってるんだ!かぐやさんを支えると決めたじゃないか!
初めてキスした日の気持ちを思い出して、改めて強く心に刻み込んだ。
あれ?ふと、かぐやさんの手が動いたかと思ったら、頬に添えた私の手の上に触れてきた。
「春樹どの…今日の手は冷たいな…」
「すみません。すぐに離します。」
「良い…冷たくて気持ち良い…」
目は閉じたままだけど、かぐやさんが微かに笑った気がして、それだけで穏やかな気持ちになった。
暫くすると寒気がするのか、かぐやさんが震えている事に気付いた。
「…失礼します。」
布団に潜り込んで、かぐやさんを温めるように身体を擦りながら毛布ごと抱き締めた。
「早く良くなって下さいね…」
----------
チュン、チュン…
…ん。
目覚めると、下界の屋敷に戻っておった。まだ身体が気だるいが、何となく穏やかな気持ちであった。
「確か天界の道場へおった筈…」
「かぐや様、目覚められましたか?まだ熱がある故、ゆっくりお休み下さい。」
傍におった婆やから、事情を聞いた。
「そうか、倒れてしまったのか…」
「春樹どのも心配されておりましたよ。恐らく寝ずの看病をされて、勤めに出ました。」
久しぶりに穏やかな気持ちだと思ったら、春樹どのが傍におったのだな…
ほんのり心が温かくなった。