第56話・温かいおにぎり
常務と一緒に出張だった副支社長の付き添いの美穂さんが、ボタンのほつれを見つけてくれた。着替えたところ、ボタンを縫い付けてくれるというので、脱いだシャツを預けた。
「あれ?スマホが無い。」
自分の部屋へ戻った時に、スマホをシャツのポケットに入れていることに気付いて、すぐに引き返した。
「美穂さん、私のシャツにスマホが入っていませんでしたか?」
「すみません。間違えてボタンを押しちゃって、メールを開封してしまったみたいです。中身は見えていませんので、安心してください。」
「いえ、こちらこそお手数をお掛けしました。」
メールを見ると、かぐやさんからだった。
ふふ。テンカイに泊まらなかったのかな。声が聞きたいって嬉しい事が書いてあった。
「春樹さんの顔を見ただけで、誰からのメールかが分かりますね。」
「ふふ。愛しい方からのメールですからね。」
「ボタン、付け終わりましたよ。」
「ありがとうございました。」
「これくらい、いつでも言って下さいね。」
すぐに自分の部屋へ戻って、かぐやさんへ電話をした。
あれ?出ないな…お手洗いかな?
数分後に掛け直したが、今度は電源が入っていないとのアナウンスが流れた。
寝ちゃったかな…電話が出来なかったお詫びに、何かスイーツでも買って帰ろう。
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チュン、チュン…
一睡も出来ずに朝になってしまった。
何もする気が起こらず、そのままぼーっと座って過しておると、春樹どのが帰ってきた。
「ただいま帰りました。って、かぐやさん、電気も付けずにどうしたのですか?」
え?
いつの間にか、夕方になっておったようだ。
「あっ、いや、大丈夫だ。ちょっと天界の用事で疲れてしまっただけだ。」
「そうですか。ケーキを買って来ましたので一緒に食べませんか?疲れている時には甘いものがいいそうですよ。」
「そうか…」
気の無い返事が気になったのか、春樹どのは私の前に跪くと、いきなり額と額をくっつけてきた。
「な、何を!」
「う~ん。熱は無いみたいですね…」
「だから大丈夫だと言っておるだろ!」
はっ!声を荒げてしまった!
「あ、いや…すまぬ。ちょっと疲れておる故、もう一つのベッドルームで休んでくる。」
「…分かりました。ゆっくり休んで下さいね。」
春樹どのの寂しそうに微笑む顔に、息が苦しくなってしまった。
その顔から逃げ出すように、着替え専用に使っておるベッドルームへ掛け込んだ。
翌日、昼前に起きた。前日の寝不足で、朝になっても起きれなかったようだ。
気だるい身体を起こしてリビングへ行くと、おにぎりが置いてあった。
「おはようございます。ゆっくり休めましたか?」
春樹どのはにこっと笑って話し掛けてくれた。
「お陰様で、寝過ぎてしまったみたいだ。」
「ふふ。そのようですね。昨夜何も食べずに寝られたので、胃にやさしいものを用意しておきました。」
何処か、微妙に三角形が崩れたおにぎりであった。
「もしかして、春樹どのが作ってくれたのか?」
「あまりじっくり見ないで下さい。初めて作ったので、味は補償できませんけどね。」
昨日はあのような態度を取ってしまったのに、朝からスーパーに行って米を買い、慣れない自炊をして作ってくれたかと思うだけで、胸がいっぱいになった。
昨日までの息苦しさを感じることは無かった。
ソファーに座りおにぎりを一口食べ、思わず涙ぐんでしまった。
「え?かぐやさん、泣くほど不味かったですか?すみません…」
「いいや、グスッ…凄く美味しいぞ。感動してしまったのだ。」
「それは頑張った甲斐がありました。」
春樹どのは私の肩を抱き寄せて、頬にチュッ!と口付け、ふんわりと胸元で抱き締めてくれた。
「そういえば、初めての出張はどうであったか?うまく行ったのか?」
「はい。常務と副支社長の二人揃って、ご指導頂きました。」
「ふふ。先生が二人とは強力であるな。」
そういえば、美穂どのは副支社長の秘書と言っておったな。きっと電話も何かの偶然であろう…
ふと、春樹どのが私の顔を覗き込み、気遣うように尋ねてきた。
「それより、レッスンはどうですか?もしテンカイの用事がお忙しいようでしたら日数を減らしますが…」
「大丈夫だ。ゆっくりではあるが、会話も出来るようになってきた故、楽しくなってきたところだ。」
「では私を口説いてみて下さい。」
「え?口説くのか?」
「はい、テストです。」
少し身体を離され、にっこりと微笑まれた。これはかなり期待しておるな。
えっと…
「『You are in my heart and thought always.』こんなもので良いであろうか…」
「いつも心の中に私がいて、私の事を考えてくれているのですね。嬉しいです。」
「かぐやさん、お返しです。『I love you so much more than everything.』」
何よりもあなたを愛している…
二人の目が合い、それが合図だったかのように、ゆっくりと顔が傾いた。唇に、額に、頬に、触れるだけの優しい口付けが、私の心を少しずつ温めていく。
私も、何よりもあなたを愛している…
春樹どのにも届きますように…
夜はベッドの中でずっと優しく抱き締めてくれ、春樹どのの鼓動を聞きながら、穏やかな気持ちで眠りについた。
次の日の月曜日、週末にパーティーがあると言われた。お父様から後継者として顔を出しておくようにと言われたらしい。
「かぐやさんも一緒に出て頂けないでしょうか。」
「しかし、まだダンスを習得してはおらぬが…」
ダンスの先生よりあまりにも駄目出しをくらっておるので、自信が無くなっておったのだ。
「大丈夫です。今回私はおまけみたいなものですから、無理にダンスをされなくても構わないと思いますよ。」
「分かった。それならば出よう。」
「ありがとうございます。」
ダンスが無いのであれば、何とかなるであろう。そう簡単に考えておった。